みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ
聖書箇所;マタイの福音書28:18~20 メッセージ題目;みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ 今年の年間テーマは「みことばを宣べ伝えよう」でした。みなさんはどれくらい、みことばを宣べ伝えることができたでしょうか? 私たちクリスチャンにとって、みことばを宣べ伝えること、伝道とは、使命であり、取り組むべきことです。その召命に、この年の終わりに立ち帰り、次なる年こそみことばを宣べ伝えるものとして整えていただくべく、今日みことばをともに学んでまいりたいと思います。 さきほどお読みしたみことばは「大宣教命令」と呼ばれるもので、イエスさまがこの地上を去られるにあたって、弟子たち、ひいては私たちを含むすべてのクリスチャンに遺されたみことばです。伝道に召された私たちは、特に今日のみことばから学ぶことで、主が私たちのことをどのような立ち位置に置いてくださっているか、確かめてまいりたいと思います。 まず、大前提といたしまして、このみことばの原語どおりの構造からしますと、第一に「行って」、第二に「バプテスマを授け」、そして第三に「教えなさい」はすべて分詞であり、これらすべてが主たる動詞である「弟子としなさい」を修飾している形になります。つまり、イエスさまの大宣教命令は、「弟子づくり」が最もメインになる命令であり、「行くこと」、「バプテスマを授けること」、「教えること」はすべて、「弟子づくり」の側面を示したものと言えるわけです。 第一に、私たちは「行って」弟子とすることが求められています。 このとき、弟子たちはまず、聖霊を受けるまで待機することが求められました。しかし、ひとたび聖霊を受けたならば、エルサレムにはじまり、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで証人となるべく遣わされました。この働きはもちろん、十二使徒で完結するものではなく、その後を引き継いだ世界中のすべてのキリスト教界が、2000年にわたって実践しつづけたもので、その歴史の果てに私たちの教会があることになります。 さて、それでは、私たちはこの地に遣わされて、それで終わりなのでしょうか? 決してそうではありません。聖霊なる神さまは、なおも私たちを遣わそうとしてくださっています。 しかし、私たちはもしかして、聖霊の導きによって「行く」ということを、何か特別なことのように捉えたりしてはいないでしょうか? ある日突然聖霊さまが霊感に示して、遠いアフリカの国に行くように導かれるとか? そういうことも、ない、とはいいませんが、しかし、私たちが普段の生活の中で体験する聖霊さまの導きは、もっとさりげないものです。考えてみましょう。私たちに生活できる環境があるということは、私たちのことを未信者とのふれあいの現場という「宣教地」に、聖霊さまが送り出してくださっているということです。みなさんはそういう意味で、聖霊の強い力に促されて世界宣教に出ていった初代教会の働き人たちと、何ら変わるところがないのです。 要は私たちが、聖霊なる神さまによって遣わされているという自覚を持ち、聖霊の満たしをいただいてこの世界に出ていくことです。私たちの教会がディボーションと聖書通読を奨励しているのはなぜでしょうか? 聖書を学ぶことで自分の霊的ステージを上げて、ほかの人と差をつけるためでは、決してありません。みことばに耳を傾けることで聖霊なる神さまの御声と導きに敏感になり、今日はだれに遣わされているのか、今日はどこに遣わされているのか、その自覚をもって一日の働きに取り組むためです。聖霊に遣わされる体験を毎日できるなんて、これ以上素晴らしい生き方があるでしょうか! 私たちは聖霊の宮です。聖霊の器です。自分を低く見積もってはなりません。私たちは神さまの働きに用いていただけるのです。そういう者にしてくださるために、今日も神さまは私たちに、みことばによって強い動機づけを与えてくださいます。従順にお従いし、用いられる祝福をいただいてまいりましょう。 第二のポイントです。私たちは「バプテスマを授けて」弟子とすることが求められています。 私たちはなぜ、それぞれの生活の現場に「行く」必要があるのでしょうか? それは「バプテスマを授ける」ためです。 バプテスマを授けるために必須なのは、信仰告白に導くことです。自分が罪人であるゆえに、このままでは神の怒りに触れる存在であることを自覚させること、その罪の罰をイエスさまが十字架の上で身代わりに受けてくださり、私たちを神の怒りから救い出してくださったこと、イエスさまを受け入れるなら私たちは神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、天国に入れられること、このことを私たちは、大好きな隣人に宣べ伝えるのです。このことを宣べ伝えてこそ、その人は信仰告白に至ることができます。 問題なのは、私たちがなかなか、そのようにみことばを宣べ伝えることができない、ということではないでしょうか。気になる人がいれば、辛うじて教会に連れてくることならできる、しかし、実際にみことばを宣べ伝えるのは私ではなく、牧師のすることではないか……そのように考えてはいないでしょうか? しかし、牧師がいちいちみことばを伝えるのは不可能です。みなさんひとりひとりがみことばを伝えなければ間に合いません。そういう点で、私たちは「何を伝えるか」を明確にしておく必要があります。クリスチャンという存在は、日本の社会にはあまりいませんので、珍しがられる存在だということはみなさんも体験していらっしゃるでしょう。それを利用して、私たちの信仰について分かち合うのです。 もちろん何よりも、私たちの生活がすべてにおいて主にお従いするものとなり、主に対してするように人に対してすることを普段から実践することで、人々の前でよい証しを立てておくことが必要になります。そうでなければ、私たちがいかにみことばを宣べ伝えたくても、そのことばを聞いてくれる人などいない、ということになってしまいます。 さて、このみことばは「バプテスマを授け」とあります。これについてもしっかり見ておきましょう。人にバプテスマを授けるには、信仰告白に導くことが必要になることはこれまで見てきたとおりです。しかし、信仰告白に導いてそれで終わりではありません。「バプテスマを授ける」ところまで導くのです。 バプテスマを授けたならば、その人は単に信仰告白したにとどまらず、キリストのからだなる教会のひと枝に加わります。つまり、伝道そのものが宣教における完成形なのではなく、伝道して人を教会に主体的に参加させることが宣教の完成であるわけです。 しかし、この「バプテスマを授ける」という働きは、教会員一人ひとりがそれぞれの場所で担うものではありません。さりとて、バプテスマを授けるのは牧師だから、牧師の働きなのか、というと、それも正確ではありません。「バプテスマを授ける」働きは、教会全体が担う働きです。 そういう意味でいえば、さきほど取り上げた「行って」というのも、教会に属する働きの一環であると言えます。一見すると、私たちは個人個人がそれぞれの持ち場に行っているように見えますが、私たちはキリストのからだなる教会のひと枝ひと枝としてそれぞれの持ち場に行っているわけです。そう考えますと、私たちの家庭も、職場も、学校も、地域社会も、みな教会の「出張所」ともいうべき存在ということになります。 「バプテスマ」に話を戻しますと、人を信仰告白に導き、教会のひと枝に加えることは、教会全体が取り組むべきことです。私たちそれぞれにだれか伝道の対象となっている未信者がいるとしたら、それはその人だけが霊的責任を負うべきではありません。教会全体が責任を負うのです。その伝道対象者の救いのために、教会全体が祈るのです。いざその人が教会にやってきたら、みんなして迎え入れるのです。食事をしてもてなすのです。とにかく、この関係づくりの働き、関係を深める働きは、教会の一部の人が担えばそれで終わりなのではありません。教会全体がひとつとなって、バプテスマに至るまでひとりの人のたましいの責任を担うのです。 そのようにして群れに加わった新しい人が、今度は次の人を迎え入れるべく教会全体でチームをなしていきます。こうして、教会は量的にも質的にも成長することになるのです。 私たち自身を振り返ってみましょう。私たちも教会の働きによって、バプテスマを受けて教会のひと枝に連なる恵みに導かれたのでした。今度は私たちの番です。私たちが次の人にバプテスマを授け、主の弟子とすべく出ていくのです。 第三のポイントにまいります。私たちは「教えて」弟子とすることが求められています。 「エクレシア」の訳語として日本語では「教会」が充てられていますが、改めて見てみましても、よく訳したものだと思います。文字通り「教える会」または「教わる会」です。何を教わるのか、といえば、私たちは聖書のみことばを教わるのです。 それでは私たちは、なぜ聖書のみことばを教わるのでしょうか? 人よりも霊的な知識を増し加えて、いけ好かない人になるためであっては決していけません。私たちが、愛する人になるため、仕える人になるため、そのためにみことばを教わるのです。これが、弟子の歩みです。私たちはイエスさまを信じてバプテスマを受ければ、あとは惰性で教会に通うのではありません。日々みことばを学ぶことで、主のみこころをこの地上に、隣人に対する愛という形で実践するのです。 ここに、私たちが弟子として訓練されるべき理由が生じます。私たちは訓練されずに、どうやって愛することを具体的に実践するのでしょうか? 私たちは訓練されずに、どうやって主のみこころとそうではないものを区別することができるでしょうか? みなさんが、こんなにも忙しい中で教会にいらしていることの意味をもっと考えなければと思います。私たちは、みことばから教わりたいのです。訓練を受けて、キリストの弟子になりたいのです。そこを履き違えてはなりません。 今年の日曜礼拝はこれで終わりです。しかし、数日経てば元日礼拝をお迎えします。新たな気持ちで、ともに主にお仕えしてまいりましょう。この年末年始が守られ、新年、みこころにかなう歩みを私たちがしていくことによって、イエスさまの再び来られるその日に備えるものとなりますようにお祈りします。