八つの幸いその六 

聖書箇所;マタイの福音書5章8節 メッセージ題目;八つの幸いその六 心のきよい者  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。  私たちは、神さまを肉眼で見ることはできません。では私たちは、神さまを見ることができないからと、あきらめる必要があるのでしょうか? そんなことはありません。私たちはこの世に生きながらも、神さまを目の前にしているごとく生きることができます。  そして実際に、神さまを目で見ながら生きていた人たちがいました。それは誰でしょうか? 新約聖書の最初の部分、四つの福音書に登場する、イエスさまの時代に生きた人たちでした。イエスさまは、受肉した創造主なる神さまでいらっしゃいます。イエスさまを見た人は、神さまを見たのです。  しかし、それでも、当時の宗教指導者たちをはじめ、このお方が神さまの御子であることがわからなかった者たちが大部分でした。彼らは神を見たのではなかったでしょうか? しかし、そうではなかったのです。「見る」と「見える」は、似ていますが決して同じものではありません。彼らにはイエスさまが「見えて」はいても、決してイエスさまを見ることで神さまを「見て」はいなかったのです。  ここに、「心がきよいかどうか」ということが問題になってきます。もし、心がきよければ、人はイエスさまの弟子たちや目の開かれた盲人、サマリアの女性のように、イエスさまを見ることで神さまを見ることができます。しかし、心がきよくなければ、そこにイエスさまがともにおられようと、どんなにお近くにおられようと、人は神さまを見ることなど決してできないのです。イエスさまを十字架につけた人たちなど、その典型といえるでしょう。  彼ら宗教指導者たちは宗教生活においては、もしかしたら非の打ちどころのない者たちだったかもしれません。しかしそんな彼らは、イエスさまを見ていても、それが神さまを見ていることだと分かりませんでした。つまりは、心がきよくなかったのです。より正確に言えば、どんなに宗教生活に打ち込もうと、それを心のきよさとして神さまに認めていただけなかったのです。  それはこんにちの私たちにとっても同じでしょう。私たちは父なる神さまはもとより、イエスさまも目で見ることができません。ときどき、イエスさまの絵を壁に飾る人がいますが、あれはイメージであって、あの絵をイエスさまそのものとして拝んでいるわけではありません。父なる神さまもイエスさまも、心の目で見るのみです。しかし私たちは、心の目で主が見えたならば、それで満足するものですし、また、満足すべきです。それ以上のことを望む必要はありません。  そういうわけで、私たちはいまこの世に生きていながらも、「神を見る」ことができます。だが、そのための絶対条件として、私たちは「心がきよい」必要があります。それでは、聖書の語る「心がきよい」とは、どのようなことでしょうか? 私たちはどうすれば、その「心のきよさ」を身に着けることができますでしょうか? ともに見てまいりましょう。  この「きよい」ということばは、清潔、という意味とともに、混じりけのない、という意味です。旧約聖書の士師記に、ギデオンの招集した軍隊が、3万2000人、1万人、そしてわずか300人とえり分けられ、そのわずか300人で主がイスラエルに勝利をもたらしてくださったという、あのできごとのように、まことに主の栄光が顕されるためには、必要とされるものはわずかであり、必要ではないものはふるい落とされるのです。  私たちの生活においてもそうです。私たちはみことばに照らして見てみると、なんと多くの不必要なものに囲まれて生きていることでしょうか。どれだけ多くのよくない習慣、よくない言動のせいで、神さまを見えなくさせてしまっていることでしょうか。  あの、イエスさまが足を踏み入れられたエルサレム神殿は、いけにえの動物を売る者や両替商などの、商売の場と化していました。こんなことでどうやって神さまにお祈りをささげることができるでしょうか。イエスさまは彼ら商売をする者どもを追い出されました。「宮きよめ」と呼ばれるものです。 きよめというものは、あらゆる分野で必要です。きれいではないことをお語りするようで恐縮ですが、このメッセージの準備をしていたまさにそのとき、わが家にはバキュームカーが来ていました。浄化槽の汲み取り作業にいらしていただいていたのでした。この浄化槽にきたないものがたまったままだと、やがてたいへんなことになります。 不純なものを取り除いていただく必要があるのは、私たちも同じです。そのようにして不純物を取り除いていただくことによって、私たちは神さまを見せていただくことができるようになります。本来私たちは、神さまと交わりの持てる存在として創造されました。神さまがいまも私たちを生かしてくださっていることからも、それは明らかです。神さまはいつでも私たちのそばにおられます。しかし私たちは罪の不純物があまりにも多いので、すぐそばにおられる神さまを見ることができなくなっていました。それを、不必要なものをことごとく取り除いていただくことで、実は神さまというお方は私たちから遠く離れた所におられる方ではなく、すぐそばにおられるお方だということを、私たちは知ることができるのです。 それでは、神さまを見る生活というものは、神を見ない生活に比べてちがいが現れるものでしょうか? そのとおりです。ちがいが現れます。というより、ちがいが現れてしかるべきです。ヤコブの手紙1章26節と27節をお読みください。 この箇所は、聖書全体には珍しく「宗教」ということばが用いられています。私たちは、神さまとともに歩む私たちの生活に「宗教」ということばはそぐわないと、日ごろ感じていらっしゃるのではないでしょうか? 私もそうです。「私は、キリスト教という宗教を信じています」などという言い方は、なるべくならばしたくありません。学生時代私は、学科の先輩たちと街を歩いていたとき、占い屋さんが店を出しているのを見て、先輩の一人が冗談半分に言いました。「あ、占い屋さんだ! 武井君も占ってもらいなよ。」私はこう言いました。「いえ、私はクリスチャンですから、占いはやらないんです。」すると、先輩はこう言いました。「えーっ! 武井君、キリスト教を信じているの!?」……私、この先輩のことばに、ちょっと違和感を覚えたものでした。私は、キリストを信じている、より正確に言えば、キリストと交わりを持っているのであって、キリスト教という「いち宗教」を信じているように言われるのは心外でした。みなさんにもそのような経験はありませんでしょうか? しかし、ヤコブの手紙を見てみますと、たしかに「宗教」と書いてあります。これは、キリスト信仰をかなり客観化した表現といえるでしょう。つまり、自分たちではなく、他者から私たちがどうみられるか、ということです。自分たちがなんと考えようと、世の基準から見れば私たちは「宗教」です。 そのように、私たちのキリスト信仰が「宗教」という次元で評価される場合、その評価の基準は、私たちの言動や、生活ということになります。「自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら」とあります。ことばや心がキリスト信仰にふさわしくなく、けがれたままなのに、まるで自分がひとかどの信仰者のごとく振る舞うならば、そのような人は宗教的に見てむなしい、というわけです。 それでは、どのような人が宗教者としてふさわしいのか? 27節にあるように、困窮している人に助けの手を差し伸べる形で実践の実を結び、またその一方で、この世とは一線を引く生き方をすることで自分をきよく守ることであると語ります。 心の問題でいえば、自分の中から不必要なものを取り除いていただくだけではなく、それ以上不必要なものを心の中に入れないことであるというわけです。心の中から不必要なものを取り除いていただいても、また以前のように不必要なものを取り込んでしまうならば、元の木阿弥です。心を守る必要があります。より正確に言えば、聖霊なる神さまに心を守っていただく必要があります。 また、きよい宗教、つまり客観的に見ても証しを立てていると認められるキリスト信仰は、孤児ややもめたちが困っているときに世話をすることであると語ります。このみことばが語られた当時のキリスト者は、とても困窮していた人たちでした。さまざまな試練や迫害に遭っている人たちでした。それでも、さらに困窮している人たちに手を差し伸べることこそまことの証しを立てることであると勧められているのです。 私たちを含め、こんにちの教会は、その当時に比べてはるかに余裕があるはずです。そして、被災地の教会や、迫害に遭っている海外の兄弟姉妹のことを考えてみましょう。私たちは恵まれています。そんな私たちは、困窮している人たちに対し、いったいどれほどの関心をいだいていることでしょうか? いえ、百歩譲って、私たちがどうしてもそういう困窮した人たちのところに行けないとしても、そういう人たちのために日夜骨折っている主にある兄弟姉妹のことを、どれほど覚えて祈り、支えていることでしょうか? このように申し上げている私こそが、まず悔い改めます。そして、愛するみなさんにも、このことを真剣に考えていただきたいのです。 私たちが毎日ディボーションを行うことは、生活の中で具体的にみことばを行うことへと実を結んでしかるべきです。その中でも、先週学んだように、あわれみを施す行いへと実を結んでこそ、私たちにとっての日々の主との交わりは意味のあるものとなります。 同じヤコブの手紙に書かれていることですが、着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているような人がいたとして、そういう人に、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要なものを与えないならば何の役に立つか、そう警告するみことばが出てきます。 こういうことを、クリスチャンはよくやっているのではないでしょうか? 兄弟姉妹に関する悪いニュースに接しても、大丈夫だ、神さまが何とかしてくださる、とは言うものの、自分では何もしない、何もしてあげない。 こういう点でも、私たちの心のきよさが問われます。私たちはそのような人たちを前にしても、心は少しは動くかもしれないが、持てるものを提供しようともしないで、神さまに丸投げするようなことを口にして、自分には信仰があるように振る舞う……しかしそれでは、私たちはほんとうの意味で心がきよいわけではない、したがって、イエスさまのおっしゃっているおことばに従えば、神さまが見えていないことになります。 しかし、このようなみことばをお読みすると、私たちはとても心が刺されないでしょうか? 結局、自分は何もやっていないではないか、あわれみなどことばだけのものでしかないではないか、ああ、ほんとうは、神さまが見えていないのか……! そうお思いになって、がっかりしていらっしゃいませんでしょうか? では、ここで、イエスさまのお語りになったみことばを見てみましょう。ルカの福音書、18章の9節から14節です。 パリサイ人は宗教的に見ると、とてもすごい人でした。神さまのみこころを損なうような悪いことをしないだけではありません。断食という点でも、十分の一を納めるという点でも、怠りなく行なっている、宗教的に見ても完璧です。 しかし、神さまがお聞きになったのは、こういうお祈りではありませんでした。取税人……いわば、存在そのものが罪そのもの、というべき、ユダヤの宗教社会のとんだ鼻つまみ者です。彼は、ただひたすらにあわれみを求めました。神さまが聞いてくださったのは、この取税人の祈りの方だったのです。 ヤコブの手紙がそう言っているから、と、形だけであわれみを示すような行動を取ったところで、神さまはすべてお見通しです。施しをはじめ、あらゆる宗教的な行為を、神さまのあわれみを求める手段とするならば、このパリサイ人のように、自分の行いを義とする罠にはまってしまいます。 そうではないのです。私たちはそもそも、よい行いなど何ひとつできるような存在ではありません。困窮している人に施しをすることなど、なおさらのことです。しかし、私たちがそのような自己中心の罪人であることを認めるとき、そこから神さまのあわれみの御手は私たちに伸ばされていきます。私たちは真の意味で悔い改めに導かれ、私たちの心の中にある不必要なもの、神さまを見させなくしている罪深い性質は取り除かれていきます。 取税人が、存在そのものが罪人と見なされていたように、私たちも存在そのものが罪そのものです。私たちはそのことを認めることができるでしょうか? 私たちはまだ、自分はまだ大丈夫だと思っていないでしょうか? とんでもないことです。私たちはイエスさまがいなければ、生きていけない存在です。私たちは恵みの中で、そのことに気づかせていただいた存在です。そんな私たちのすることは、イエスさまにすがること、これだけです。 イエスさまはそのようにしてすがる私たちのことを、決して遠ざけることをなさらないお方です。私たちの切なるお祈りを聞いてくださいます。私たちをまことの悔い改めに導き、私たちの心を余計なものからきよめてくださいます。 こうして私たちは、神を見るという、最高の祝福にあずかれるようになります。そこから私たちは、混じりけない思いで、主のみこころにかなう行いの実を結んでいけるようになります。 私たちは神さまが見たいと切望するときがあるのではないでしょうか? そのようなとき、私たちがともに神さまを見る祝福をいただくことができますように、ともにお祈りしていただきたいのです。ともに神さまを仰ぎ見る共同体として、私たちの教会がますます成長していきますように、そこから、神さまを見る者としてふさわしい、みこころにかなった行いの実が結ばれて行きますように、主の御名によってお祈りいたします。

八つの幸いその5

聖書本文;マタイの福音書5:7 メッセージ題目;八つの幸いその5 あわれみ深い者 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」 私たちは「あわれみ」というと、どのようなイメージを持ちますでしょうか? なにかかわいそうな人や動物がいると、それを見てかわいそうに思う……そんなところでしょうか? 生類憐みの令、とか。しかし、人間も動物も一緒くたにしてこの「あわれみ」ということばを使うと、何やら「上から目線」のようないやらしさを感じたりはしないでしょうか? しかし、私たちは聖書をしっかりお読みして、そのような「上から目線」的で偉そうな「あわれみ」のイメージから自由になる必要があります。 何よりも、あわれみとは、神さまに満ち満ちているご性質です。神さまが神さまであるゆえんの、欠かすべからざる神さまのご性質とさえ言えるもの、それが「あわれみ」です。 それゆえに、人に「愛」があることが大事なことであるように、「あわれみ」があることも大事なことになります。 あわれみ深ければ、あわれみを受ける……あわれみを受けるということは、それだけ神の目が注がれるということであり、それは祝福です。ということは、さばくならばどうなるでしょうか? さばかれる、ということにならないでしょうか? そういう、神さまと人、人と人との関係を端的に現したみことばがありますので、ちょっとお開きいただければと思います。マタイの福音書、18章21節から34節です。 あの有名な「七の七十倍」とイエスさまがおっしゃった箇所と、そのたとえ話です。ペテロは、信仰の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何回まで赦すべきでしょうか、7回まででしょうか、とお尋ねしています。これは、教会の中で罪が犯された場合にいかに対処すべきか、ということをイエスさまがおっしゃった、そのおことばを受けてのものです。 教会は決して大きな群れではありません。信者同士が濃密な人間関係を構築します。そのような中で、何度となく同じ人物どうしでトラブルが起こることは、充分に予測できることです。7度まで赦すべきでしょうか、というペテロのことばはけっして大げさではなく、充分にあり得ること、と考えていいと思います。 しかし、それに対してイエスさまがおっしゃったこと、それは、7回までとは言いません。七回を七十倍するまでです、ということでした。 「ペテロは口あんぐり……」、千代崎秀雄先生という牧師先生が、ペテロの反応を想像してそう描写されましたが、イエスさまはすごいことをおっしゃいました。 7を70倍、といっても、それは490回赦せ、それ以上はいけない、ということではありません。聖書の完全数7にさらに完全数7の十倍の70をかけたということで、「かぎりなく赦しなさい、完全に赦しなさい」、という意味です。 でも、私たちはもう、こういうお話を聞くと、絶望的になりませんか? 私たちはだれしも、心のどこかで完全に赦せない人というものがいるはずでしょう。いなかったとしたらその人は天使です。まことに、私たちは罪人の姿で、神の前に立たせられます。 しかし、この点において、私たちはもう少し、イエスさまのおことばに耳を傾けてみたいと思います。 イエスさまは、この「赦し」について解き明かすために、ひとつの例話をお話しになります。23節……天の御国は、王である、と語っていらっしゃいます。イエスさまが王のたとえ話をなさるとき、それは例外なく、天の父なる神さまを指しています。神さまが天の御国! すごいことです。神さまのみこころにかなわないものはすべて「異物」であり、天の御国にはそぐわず、したがって入れないことになります。ただ、天のお父さまとひとつにしていただいた者だけが、天の御国に入れていただけることが、この短い表現からもわかります。 王さまの話に戻りますと、王さまは自分の家来と清算をしたいと思い、家来を呼びつけました。24節です。……一万タラントとは、欄外の脚注にありますが、1タラントが6000デナリです。1デナリは1日分の労賃です。仮に1デナリを10000円とすると、1タラントはその6000倍、10000タラントだからさらにその10000倍……円に直すとその額、6000億円! 気の遠くなるような話です。 王は、返済を命じました。持ち物はもちろん、妻も子も、自分自身も売って、金をつくれ、というわけです。もちろん、そんなことをしたところで到底埋められるような負債ではありません。しかし、主君に対して、せめてもの誠意を見せてみろ、というわけです。 しかし、それを実行に移すには、相当な努力と時間を必要とします。家来は、主君に、努力と時間をかけても必ずお返しすると、ひれ伏して誓いました。 そのとき、王さまの心はあわれみに満ちました。罪の償いをするために最大限の努力をすることをひれ伏して誓う者に対し、王はあわれみでいっぱいになったのでした。 これが、天のお父さまのみこころです。私たちは自分を創造してくださり、生かしてくださっている創造主なる神さまを認めず、自分勝手に生きる道を選びました。その罪は、それこそ慣用句を用いれば、万死に値する罪です。これは誇張や言い過ぎではありません。なぜならば、そうして罪の道を行くことで、人はいのちなる神さまから離れ、永遠に死ぬしかない道を行くようになったからです。 そのいのちの代価、ざっと10000タラント、一日の労賃というたとえを一日の生活と再解釈して計算すれば、10000タラントとは実に6000万日分の生活、それを棒に振って、死に至らしめたわけです。十何万年分の人生です。それがことごとく死に至ったのですから、まさしく「万死に値する」罪であり、決して言い過ぎではありません。 それを何とか努力によって埋め合わせしようとしたって、焼け石に水、なんでものではありません。何をどうしても不可能です。しかし心ある人は、それを何とか埋め合わせしようとします。がんばれるだけがんばります。しかし、だめなのです。 ここに、人が神のあわれみにすがるということが起こってくるのです。いかなる罪人も、その心の中に残るひとかけらの良心によって、神を求め、あわれみを求めます。アコーディオン奏者のcobaが以前「百万人の福音」誌のコラムで言っていたことですが、彼がかつて留学していたイタリアのベネチアでは、札付きの荒くれ者も日曜日になると威儀を正して教会に行くのだそうです。自分の悪さ、弱さをどうしようもできないと自覚する人こそ、神さまを求めるようになるということの証拠といえるのではないでしょうか。 人間はどんなに努力しても、罪が赦されるための埋め合わせはもはやできません。そんな人間を、神さまはあわれんでくださいます。。王の家来が何もかも売り払わなければならなくなるように、救われるためには努力をするだけしろ、などとおっしゃることは、もはやなさらないのです。完全に帳消しにしてくださいます。6000億円にもあたる負債を!  神さまはすごいお方です。私たち人間の背負った罪の代価が、そんな十何万年も生きてもなお返せないほど大きなものであると自覚するならば、私たちは絶望します。それを完全に帳消し、まったくなかったことにしてくださるとは、いやはや、神さまはなんとすごいお方なのでしょうか! 神の御子イエスさまは十字架によって、そのように私たちのあらゆる罪を、ことごとく赦してくださいました。 さて、イエスさまの話には続きがあります。28節です。……100デナリといったら、100万円くらいでしょう。ちょっと高いですが、6000億円に比べればなんということのないお金です。だが家来は、このお金に目がくらんで、仲間の首を絞めて、「借金を返せ」と迫りました。首を絞めるなんて穏やかではありません。返さないといのちはないものと思え、とでもいうような恐ろしい態度です。 仲間は、少し待ってくれれば必ず返します、と懇願しました。しかし家来は承知しませんでした。彼が借金を返すまで、牢獄に放り込んだ、とあります。 しかし、ほんとうのところ、牢獄に放り込まれれば、いったいどうやって働けるでしょうか? 借金を返すことができるでしょうか? ということは、牢獄からは出られないのです。つまりこれは、なにがなんでも絶対に赦さない、ということです。これが、さばきというものの冷酷さです。 そしてこのような、この期に及んでの自己中心も、罪人の姿ということができます。自分は負い目を完全に帳消しにしてもらったのに、人の負い目にはどこまでも不寛容……あわれみがないということは、かくも罪深く、醜いことです。 しかし、家来のこのような行動は、主君の知るところとなりました。主君は言いました。32節から33節です。……わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。 ほんとうに、神のあわれみというものを体験しているならば、神のご性質であるあわれみというものが身に着いていてしかるべきである、そうなっていない者は、神の国にふさわしくありません。放り出され、暗やみで泣いて歯ぎしりします。10000タラントの借金を返すまで、つまり十何万年分の労働の対価の分、働くことも許されないで牢獄に入れられます。赦されることなどもはや不可能です。 ここまでみことばを読むと、私たちはさらなる絶望に打ちのめされはしないでしょうか? ああ、私は神さまに赦されているはずなのに、まだ心から兄弟姉妹を赦していない! もう自分は赦されないのか! そこで、私たちのその罪の負債をもう一度数えてみましょう。10000タラントの負債のために獄に入れられているのですから、やはり負債を返すしかありません。しかし、人間的な方法では何をどうしてもだめです。すると、できる方法はただ一つしかありません!……神さまのあわれみにすがるのです。 いえ、兄弟を赦さないという罪を犯した者を、神さまはもう赦さないはずではないか! そう思いますか? では、イエスさまはなぜ、7を70倍赦しなさいとおっしゃったのでしょうか? それは神さまが、7を70倍するまで赦してくださるお方だからです。神さまのあわれみは、7を70倍赦すという、その究極の赦しという形で実を結んでいます。 人が赦せないという罪を自覚したならば、神さまのもとに行くことです。いや、どんな罪を犯したとしても、神さまのもとに行くことです。7を70倍赦してくださる神さまは、かぎりなく赦してくださいます。 あわれみ深い人は、あわれみを知る人です。自分の罪がどれだけひどいか、10000タラントの負債も返せないくせに100デナリの人の負債にはやたら目くじらを立てるような、どこまでもひどい自己中心の罪人か……そのように、自分に絶望しきる人です。だからこそ神さまのあわれみにすがり、そのあわれみがどんなに大きなものか、あふれんばかりに感謝に満たされる人です。そういう人は少しずつ、あわれみというものを身につけていくようになります。あわれみ深い人になっていきます。 しかし、そういう人は、自分の罪深さをよく自覚しています。だから神さまのあわれみになおいっそうすがります。神さまはそうして、あわれみ深い人を憐れんでくださるのです。こうして、あわれみ深い人はあわれみを受けるという、イエスさまのおことばのとおりのことが起こります。 私たちに、人を愛せるだけのなにものもない、人にあわれみを施せるだけの何ものもないと気づくとき、それは神さまの力をいただいて、あわれみ深い者へと変えられるというみこころへと一歩踏み出す、幸いな瞬間となります。 私たちはどんなとき、あわれみをいただきたいと願うものでしょうか? そのようなとき、神さまにあわれみを求める人は幸いです。神さまのあわれみに満たしていただき、あわれみ深いという、神さまのご性質に似た者と変えていただきます。この祝福をともにいただく私たちとなることができますように、お互いのため

八つの幸い その4

聖書箇所;マタイの福音書5章6節 メッセージ題目;八つの幸い その4 義に飢え渇く者  本日のみことばは、八つの幸い、八福の、四番目です。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」ここでイエスさまは、義というものと、飢え渇くということの間に深い関係があることを語っていらっしゃいます。  正義、読んで字のごとく、「正しい義」です。それは、いったいだれがその基準を決めるのでしょうか。もし、人によってその基準が異なるならば、正義とは所詮、絶対的なものではない、相対的で不確かなものになってしまうしかありません。その絶対的な基準言い切ることのできる存在は、絶対的に正しいお方、絶対的に義なるお方でいらっしゃる、創造主なる神さま以外にいらっしゃいません。創造主なる神さまが絶対的な正義、義でいらっしゃるゆえに、正義とは何か、義とは何かということを、唯一お定めになることができるのです。  この義にかなっていることで、私たちははじめて、人の間に存在するとされている義というものがふさわしいかどうかということを判断することができます。もう、リベンジということばが日本に定着して長くなりましたが、もしそのリベンジなるものをする理由が神の義に合致したものではないならば、それは単なる意趣返し、自分の留飲を下げるための仕返しでしかありません。 私たちクリスチャンが第一に求めるべきは、「神の国とその義」であると、イエスさまは語られました。第一といったら第一です。私たちは毎日のお祈りの中で、いろいろなことを祈っているようですが、いったい私たちは、「神の国」、つまり神さまが王として君臨され、統べ治める御国、と、「その義」、つまり王なる神さまのまことの正しさが、私たちがいま現実に生きているこの世界に実現するようにということを、どれくらい祈っていることでしょうか? そう考えると、私たちの祈ることはあまりにも、余計なこと、自分中心なことばかりだということに気づきはしないでしょうか?  もちろん、病気の人がいやされるように祈ること、いま困難を覚えている人たちのために祈ることは、必要なことですし、だいじなことです。そういうお祈りを余計だとか、自己中心だとか言っているのではありません。しかし、ではなぜそういうお祈りが必要なのでしょうか? それは、そのお祈りを神さまが聞いてくださることによって、神さまがその御国とその義を、私たちのうちに現わしてくださるからです。お祈りする動機はどこまでも神さまにあるのであって、私たち人間の事情にはないことに注意しましょう。  私たちはこの、神の国、神の義が実現されることに、飢え渇いているでしょうか? 私たちがもし、この世と調子を合わせ、この世に染まって生きているならば、神さまのみこころがこの世に実現されることに、それほどの飢え渇きを覚えないで生きていくことになるでしょう。しかし、そのような生き方は神さまに喜ばれるものではありません。  飢え渇くということ、特に、渇くということは、イエスさまご自身が幾たびか経験されたことです。その記述はヨハネの福音書に複数回出てきます。どれもだいじなみことばです。見てまいりましょう。お開きにならなくてもいいですが、ヨハネの福音書の4章でサマリアの愛に飢え渇いた女性にイエスさまがお近づきになったとき、まずイエスさまがおっしゃったことは、水を飲ませてください、ということでした。それは、旅の途中で、のどの渇きを覚えていらっしゃったからということですが、それ以上に、この女性を神の愛に満たしたい思いに満ちていらっしゃったからでした。彼女は、イエスさまに出会うことで、もはや人目を避けて生きるような生き方をやめ、人々に救い主イエスさまを伝えて回るように変えられました。  そのように、人を神さまに出会わせ、人を救いに導く、新しい使命に生きるようにさせる……イエスさまはこの神のみこころをおこなうことに、飢え渇いていらっしゃったのでした。  イエスさまはまた、このようなことも言っていらっしゃいます。ヨハネの福音書7章37節と38節です。……人のほんとうの渇きを潤してくださるお方は、イエスさまだけだということです。そして、その渇きを潤すほんとうのあまつ真清水は、聖霊なる神さまである、聖霊なる神さまが信じるその人を、内側からあふれ出て、潤してくださるということです。  イエスさまがこの「八つの幸い」の教えの中で、「義に飢え渇いている人は幸いです」とお語りになったのはなぜでしょうか? それは、このようにイエスさまのもとに集まってきた群衆にとっての飢え渇きの本質、ひいては人間だれしも持っている飢え渇きの本質というものが、神の義に対する飢え渇きであることを喝破していらっしゃるからではないでしょうか?  イエスさまはそのような者たちに、渇く者よ、私のもとに来て飲みなさい、とおっしゃっています。イエスさまは誰よりも、不当な苦しみを受けられたお方です。あらゆる試みに会われたお方です。そのようなイエスさまは、私たちの味方でいてくださいます。私たちはイエスさまによって、この義に飢え渇いてどうにもならない、人として本質的に持っている飢え渇きを潤していただき、いやしていただけます。  そしてさらに、イエスさまが十字架の上で語られたみことばにも注目しましょう。ヨハネの福音書、19章28節です。  イエスさまが「わたしは渇く」とおっしゃったのは、汗と血が全身から流れ、脱水状態になられたからです。そのような極限の苦しみの中におられたイエスさまは、しかし、そのような肉体的な渇きもさることながら、もうひとつの霊的な飢え渇きを覚えていらっしゃいました。それは、父なる神さまのみこころが成し遂げられることに対する飢え渇きです。   しかし果たして、そのように「わたしは渇く」とおっしゃった、イエスさまを待ち受けていたものは、最後の苦しみでした。ぶどう酒です。しかし、これはイエスさまがかつてカナの婚宴で人々に飲んで楽しみなさいと提供されたような、よいぶどう酒ではありません。「酸いぶどう酒」と書かれていますが、どういうぶどう酒でしょうか? 口語訳という、1950年代に出た古い訳の聖書では、このぶどう酒を「酢っぱいぶどう酒」と訳し、その「すっぱい」の「す」は、「お酢」の「酢」の漢字が充ててあります。そう、まさにこれは「酢」だったのです。こんなものを脱水症状にある者が飲んだら、大変なことになります。壮絶な苦しみが待っています。しかしイエスさまは、人を罪から贖うために極限まで苦しむという、その杯を最後まで飲み干すため、十字架の上であえて最後まで苦しみを受けることを選ばれました。  そしてイエスさまがこのように苦しみに導くぶどう酒を受けられたのは、旧約聖書のみことばが成就するためでした。詩篇69篇21節をご覧ください。……敵対する者がどれほど人を痛めつけることか! その苦しみを、これでもか、と歌う詩篇は、実はイエスさまの受難を預言したものでした。イエスさまを苦しめる者たちは、イエスさまが極限の渇きを覚えているところに、さらなる苦しみを与えました。そうです、渇く者をみもとに招いてくださったイエスさまこそが、いちばん渇いていらっしゃったのです。  義に飢え渇く私たちは満ち足ります。なぜでしょうか? そのような者たちのためにだれよりも、イエスさまが渇いてくださり、その者たちの渇きに寄り添ってくださったからです。神さま、いつまでですか! あなたさまはこの地に正義を行わないで、黙っていらっしゃるのですか! 私たちは時に叫びたくなるでしょう。そのような私たちは、義に飢え渇いています。しかし、そのような者たちを、イエスさまは潤してくださるのです。満ち足らせてくださるのです。  渇いているならば私のものに来て飲みなさい。そのようにして、イエスさまのもとに来て飲ませていただく天の真清水とは、御霊であるとみことばは語ります。私たちは御霊をいただいて、この不確かな世界、有限な世界において、無限な天の御国の祝福にあずからせていただくのです。私たちは御霊によって、天のお父さまのみこころ、イエスさまのみこころを知らせていただきます。私たちは御霊によって、導きをいただきます。私たちは御霊によって、慰めをいただきます。  しかし、何よりも御霊なる神さまは、私たちに神の義を示してくださるゆえに、すばらしいお方です。それは、イエスさまご自身がおっしゃったことです。ヨハネの福音書、16章の7節から11節をお読みします。  ちょっと難しさを覚える表現かもしれませんので、若干の解説を加えさせていただきますと、9節、御霊さまが世に対し、罪について誤りを認めさせるということが、世の人がイエスさまを信じないこととなぜ関係があるかというと、世の人は、罪というものを決めるお方が、イエスさまであることを受入れないからです。イエスさまは救い主でいらっしゃいますが、世の終わりにはさばき主としてこの地に再び来られます。そのことを知っていたならば、イエスさまを十字架にかけるなどということは、到底彼らはできなかったはずです。しかしイエスさまが実は罪を定め、さばきをなさるお方だということを、御霊なる神さまは私たちに認めさせ、イエスさまの権威のもとにひれ伏すように導いてくださいます。  10節、そのものずばり、今日のみことばで扱っている「義」についてですが、イエスさまは十字架にかかられ、復活し、天に昇られて、もはや目で見ることができなくなります。今はちょうどその時代です。このことを説き聞かされている弟子たちのように、イエスさまのそばにいる人たちならば、イエスさまを見れば、御父の義というものをストレートに知ることができました。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、「わたしと父とは一つです」、また、「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃったとおりです。しかし、イエスさまが天に昇られて見えなくなったら、神の義をいったい誰が教えてくれるのでしょうか? でも、心配はいりません。御霊なる神さまが、私たちといつでもともにいてくださり、義なる神さまを指し示してくださいます。  さらに、さばきです。この世を支配する者が「さばかれた」とイエスさまは語ります。この世の終わりにさばかれる以前に、すでにこの世のはじめに「さばかれて」いるのです。このことを示すお方は、聖霊なる神さまです。 聖霊なる神さまは、さばきの基準として、神の義をはっきりと示してくださいます。世の者たちは、その神の義を示すお方としてのイエスさま、聖霊なる神さまを正しく認めません。しかし、神さまに特別な恵みによってえらばれた者たちには、聖霊なる神さまは特別な神の義を啓示してくださるのです。  私たちは何が正義、より正確に言えば、神の義であるかということを、いつでも教えていただけます。私たちはこの神の義がこの地上で行われるように飢え渇くならば、まず自分こそが神の義を行えるように導いていただけます。  私たちはこの世にどんな神の義がなされることを待望していますでしょうか? その義がなされるために、私たちはどんなアクションを具体的に起こす必要があると考えるべきでしょうか? 少し考えていただきたいのです。そして、その考えをともに分かち合い、ともにこの地に神の義を実現するものとして用いられ、私たちが本来抱えている渇きが満たされるように、聖霊なる神さまに導いていただきましょう。私たちの渇きは癒されます。アーメン。

八つの幸い その3

聖書箇所;マタイの福音書5章5節 メッセージ題目;八つの幸い その3 ―柔和な者―  「八つの幸い」シリーズも、3回目となりました。この「八つの幸い」の教えは、専門的な用語では「八福の教え」といいます。福は、祝福の「福」です。「残り物には福がある」なんて言いますが、日本人は「福」というものを擬人化して縁起物にしたりします。あの「お多福」なんてそうです。「お多福」を、縮めて「福」などと呼んだりします。  聖書もまた「福」を語ります。この「八福の教え」も、「幸いです」という箇所は、韓国語の聖書では「福あり」と表現します。しかし、日本人が一般的に考える「福」と、聖書の語る「福」は、必ずしも同じものではありません。普通ならば、いやな思いをするとか、苦しむとか、そういうことを「福」の反対と考えるでしょう。しかし聖書は、人はしばしばそういうマイナスの状態に置かれながらも、それでも誰にも奪えない祝福、喜びを体験するという意味のことを語ります。  先週学んだのは「悲しむ者は幸いです」というみことばです。先週のメッセージに補足しますと、この「悲しむ」ということばは、ギリシャ語の表現においては最大級の悲しみを意味します。聖書の原語であるギリシャ語では、悲しみというものはいくつもの段階に分けて表現します。日本語では同じ「悲しみ」でも、ギリシャ語の原典を見れば、その悲しみがどの程度のものかわかるわけです。この、イエスさまの語られた「悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」は、最大級の悲しみというわけです。  私たちは何をとても悲しむのでしょうか? 自分のどうしようもない罪深さです。なぜ、罪を悲しむ必要があるのでしょうか? 罪があるままでは、神のみもとに行くことができないからです。神さまに受け入れていただけないからです。しかし神の御子イエスさまは、そのような私たちのことを受け入れてくださいました。私たちの身代わりに十字架にかかってくださり、罪を赦してくださいました。私たちはもはや、罪人ではありません。イエスさまは、罪に悲しんでいた私たちの、その罪に泣いた涙をぬぐってくださり、慰めてくださいます。それゆえに、悲しむ者は幸いなのです。イエスさまだけが与えてくださる、ほんものの慰めを与えていただけるのです。  さあ、それでは、本日のみことばにまいりましょう。イエスさまの三番目のおことばです。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」「幸福(さいわひ)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。」  素晴らしいおことばです。イエスさまのもとに馳せ参じた群衆は、土地のような財産などこの地上に持っていない人たちばかりだったことでしょう。しかし、そのように生活のただ中で自分の貧しさを思い知るしかなかったような彼らに、もし柔和ならば地を受け継ぎます、とイエスさまは約束してくださったのです。彼ら群衆はどれほど慰められたことでしょうか! そうか! 私たちも柔和ならば、地を受け継ぐのか!  さて、そうなりますと、私たちは2つのことを知る必要があります。聖書の語る柔和とは何か? 柔和な人が受け継ぐ「地」とは何か? この2つです。  その2つのものを知るために、まずその前提として、旧約聖書の詩篇のみことばから学んでおきたいと思います。  イエスさまのこのみことばは、イスラエルのたましいともいうべき、旧約聖書の詩篇のみことばを、そのまま語っておられるみことばです。実際に見てみましょう。詩篇37篇です。詩篇37篇は、主に信頼する者と、悪しき者とを対照的に描写した、40節にもわたるやや長い詩です。長いのですべてを細かくは扱いませんが、悪しき者は祝福されず、やがて滅びることを繰り返し述べています。  では、主に信頼する者、すなわち主の側につく者はどうなのでしょうか? 3節から6節をお読みします。……主に信頼し、お従いするならば、主が必ずその人の心の願いをかなえ、成し遂げてくださる、その義、すなわちその主にある正しさを、主の栄光をもって輝かせてくださることを、約束しています。  しかし、願いが叶うまで、私たちはしばらくの忍耐を必要とします。主につく者たちがこの世の底辺で耐え忍んでいる間、神さまに従わない悪しき者が、まるでこの世の祝福を謳歌しているかのように、することなすこと何もかも成功しているのを、私たちは見るようになります。しかしそれでも、私たちはそのような者たちに憤ったり、腹を立てたりしてはならないと、7節、8節のみことばは戒めます。 なぜ、腹を立てるべきではないのでしょうか? それは、やがてその悪しき者はこの地から断ち切られ、主を待ち望む者たちが地を受け継ぐからだと、続く9節は語ります。そして、彼ら悪しき者はいずれこの地から一掃されると、続く10節は語ります。そして11節。ご注目ください。ここに、イエスさまのお語りになったみことばが書かれています。イエスさまの予表とも言えたダビデがこのように語り、それからおよそ1000年のときを経て、イエスさまはこのみことばをお語りになり、また、実現してくださったのでした。 その前提で、イエスさまのお語りになった「地」というものが何かを考えてみましょう。私たちクリスチャンは、この地上で何も持たないようでも、実はすべてのものを持って生きていることに、気づいていますでしょうか? 全能なるイエスさまがともにいらっしゃる、イエスさまが私たちのお祈りをみな聞いてくださるということは、そういうことです。私たちが特に求めないから、すべてのものを持っていること、あたえられていることを意識していないだけです。 いや、私は求めたよ! でも、与えられませんでした! そんなことをおっしゃる方もおられるかもしれません。しかしそれは、神さまがあなたを愛していらっしゃるから、今それを与えたらあなたが神さまから離れ、永遠のいのちの喜びを味わえなくなってしまってはいけない、と、神さまが親心を働かせてくださったからかもしれません。神さまがもし、私たちにほんとうに必要と願っていらっしゃるものならば、それがたとえどんなものであろうとも、イエスさまの御名によってお祈りするならば、与えてくださるのです。 私たちは究極的には、死んでこの地上でのいのちが終わるか、イエスさまが再びこの地上にいらしてこの世が終わるかして、天国に入れられることで、ほんとうの意味で「地を受け継ぎ」ます。天国こそが、私たちの受け継ぐほんとうの地です。 それでは、私たちが現にいま生きているこの地というものを、私たちはどう理解すべきでしょうか? この地、この世は神さまがお造りになり、愛をもって導いていらっしゃる、かけがえのない存在です。しかし、この地に住む人は大多数が、この創造主を認めず、自分勝手な罪の道を歩んでいます。私たちはそのような人々を憐れみこそすれ、けっして、彼らと同じような歩みをして、神さまのみこころを損なうような道に行ってはいけません。私たちは彼らに対し、むしろよい行いをもってキリストの救いのともしびを掲げ、ひとりでも永遠のいのちに導けるようにお祈りする必要があります。私たちにとって実に、この地は、私たちが天国に入るためのまたとない練習の場所と考えるべきでしょう。 そういうわけで、私たちが受け継ぐ「地」は、この世という目に見える「地」の延長線上にある、永遠の天国です。イエスさまを信じたら天国に入れるからと、この世の生活をおろそかにしてはなりません。実に、キリストの語られる「柔和な人」は、この地上において全能なる神さまのご支配を実際に体験し、いついかなるときでも神さまを表して生きるようになる、すばらしい生き方をしてまいります。 さあ、そこで、いよいよ、そのような「地を受け継ぐ人」の条件である、「柔和な者」とはどういう人かを、以下学んでまいりましょう。 日本語で「柔和」というと、ご年配の方は七福神のえべっさんのようなニコニコ顔を連想されるかもしれません。では、聖書の語る「柔和」は何でしょうか? それを知るにはやはり、聖書原語のギリシャ語の意味も合わせて考えるとよろしいです。 まず、ことばそのものの意味からまいりますと、この「柔和な」ということばのギリシャ語、「プラウス」ということばは、「温和な」とか「温順な」という意味です。英語では「ミーク」とか「ジェントル」と訳しています。  しかし、ある英語の訳の聖書を見ると「ハンブル」とあります。「謙遜な」です。つまり、温和、温順であるのと同時に、謙遜であるわけです。ということは、いくら顔がにこにこしていても、腹の中ではどす黒かったりするならば、それは聖書の語る「柔和」とは違うことになります。  聖書は、イエスさまが柔和な方であると語ります。それはイエスさまがこの地上に来られるはるか以前の預言に、すでに語られていたことです。その預言の成就として、イエスさまが立派な馬ではなく、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに入城されたわけですが、そのイエスさまのことをそのみことばは「柔和な方」と表現しています。  イエスさまは、ご自身が人々に何をしてくださると語ってくださいましたか? マタイの福音書11章28節から30節をお読みしましょう。……そう、ここでイエスさまは、ご自身は柔和でへりくだっていると語られました。いかにもわたしは神の子だ! さあ、ひれ伏せ! などという態度をとるお方では決してなかったのです。疲れた人、重荷を負った人のことをよく理解し、その苦しさ、つらさに寄り添ってくださるのです。  そんなあなたがたは、わたしの柔和さ、また謙遜に学べば、たましいに安らぎを得て、その苦しみから解放されますよ、と、イエスさまは約束してくださっています。教会という場所で執り行われる礼拝が、その主要な要素として「聖書のお勉強」をする理由が、ここにあります。聖書を学ぶことで人よりもお利口になったと威張るためではありません。日常生活で人から負わされたあらゆるくびき、世のしがらみから、イエスさまのみことばによって解放していただくために、私たちはみことばから学ぶのです。  そこで私たちは、イエスさまの持っておられた柔和さの実態を、よく知る必要があります。  十二弟子を訓練し、この世に神の国を拡大する跡継ぎを育てておられたイエスさまが柔和だったというとき、私たちはその柔和というものが、いわゆる軟弱だったということとは違うことがわかります。弟子たちにふさわしくない点があるならば容赦なく叱り飛ばされました。時には「下がれ、サタン!」などという、震え上がるようなことさえ弟子に向かっておっしゃいました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  あるいは、パリサイ人や祭司のような宗教指導者たちに対しては、わざわいだ、と、口を極めてののしり、なぜそうののしるのか、彼らの落ち度を具体的にひとつひとつ挙げていかれたこともありました。彼らの発言を取り上げて、それは聖霊をけがすという、永遠に赦されない罪を犯したのだ、と、一刀両断に断罪されたこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  はたまた、エルサレム神殿で動物のいけにえを売ったり献金のための両替をしたりすることで儲けている者たちの、その腰掛や陳列台をひっくり返して彼らを神殿から追い出すなど、大暴れをなさったこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか?  答えはすべて「イエス」。柔和です。  なぜならば、イエスさまという、神の知恵、神のみこころが受肉してこの世に実現されたお方は、本質的に柔和なお方であると、聖書が語るからです。  ない知恵をしぼる、ということばがありますが、人間はいくら知恵を尽くしても、神の前ではその知恵はないも同然です。イエスさまというお方を通して、神の知恵を教えていただく以外に、私たちはまことの神の知恵を得ることはできないのです。イエスさまというお方から学べば、私たちは神の知恵に到達できます。なぜならば、イエスさまは神の知恵そのものでいらっしゃるからです。  上なる神の御許から下られたイエスさまがどのようなお方かを示しているのが、ヤコブの手紙1章17節のみことばです。……ここに「協調性」ということばが書かれています。ということは、協調性というものが神の知恵であるということになりますが、イエスさまは、人の罪深さに合わせて協調性を発揮なさるお方では決してありません。罪人を理解こそすれ、協調されることなど、決してありえないことです。 それでは、イエスさまの協調された対象は何でしょうか? この「協調性」ということばは、以前の訳の聖書では「温順」と書かれていました。新共同訳では「従順」です。「順」ということばは「従う」という意味があります。そう、イエスさまは、父なる神さまに従順に従われたのです。  御父への従順。イエスさまが語られたときに厳しいおことば、時に荒々しく映る行動は、すべてこれで理解できます。  従順の「従」という字は、「柔らかい」という字を書くこともできます。柔らかく従うのです。御父のおっしゃることは何でもお従いする。御父のみこころだから、イエスさまはいのちをかけて、私たちのことを愛してくださいました。御父のみこころだから、イエスさまはみこころを曲げる者たちには容赦なさいませんでした。御父のみこころだから、イエスさまはどんなにつらくても十字架を背負ってくださいました。  私たちがイエスさまから学ぶべきは、この御父に従順にお従いする上での柔和さです。その御父に対する柔和さを学ぶならば、私たちはたましいに安らぎを得させていただけます。 みことばの語ることに頑なにならず、柔らかく従えるならば、神さまは私たちに、ご自身が王であられる御国を任せてくださいます。どこの王さまが、王様の権威も認めず、命令も聞かないで自分勝手に振る舞う家来のことを信頼して仕事を任せたり、褒美をやったりするでしょうか。 私たちも同じことです。神さまを王様として、おっしゃることには何でも従順にお従いして、みこころの命じるとおりにこの世に愛を示し、よい行いを施していくことで、人々が神さまの御名をほめたたえるようにしていくならば、神さまは私たちに、御国を任せてくださいます。  顔はにこにこしていても腹の中では何を考えているかわからなかったり、軟弱だったりするのを、これからは柔和と呼ばないようにしましょう。柔和ということはどこまでも、神さまとの関係の中で語られるべきものです。 時にその歩みは、神さまに従わない悪い者たちの一時(いっとき)の栄えを眺めさせられて、腹を立てたくなるような、不当な忍耐に満ちたものとなるかもしれません。しかし、そんな私たちのために、御父のみこころに従順に従って十字架を背負ってくださったイエスさまの、その従順を思いましょう。私たちも御父のみこころに従順に従うならば、主は必ず、この世において、そしてのちの世においてはなおさら、だれにも奪えない祝福を与えてくださいます。私たちがみな、この祝福をともに戴くことができますように、主の御名によってお祈りいたします。

八つの幸い その2

聖書箇所:マタイの福音書5章4節 メッセージ題目「八つの幸い その2」   先週から、イエスさまが山上の垂訓において語ってくださった、「八つの幸い」を学びはじめました。山上の垂訓、それは、イエスさまのみ教えのハイライトとも言うべき内容です。四福音書において、これほど長くイエスさまの説教を収録した箇所は、このマタイの福音書5章から7章のほかにありません。この箇所を学ぶと、イエスさまのみ教えの、いわば神髄を学ぶことになります。そういうわけで、とても大事な箇所、それがこの「山上の垂訓」です。  その「山上の垂訓」……その初めの箇所が、この「八つの幸い」をお語りになる箇所です。先週はその第一のことば、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」というみことばから学びました。 神さまによって人が心の貧しさを悟らされるならば、その人は悲しみます。そして、みこころ豊かな神さまに立ち帰り、その神さまの御国に入れていただき、神さまの民として日々祈り、みことばから学ぶことによって、心貧しい者から少しずつ、心豊かな者に変えていただきます。 さあ、それでは今日は、2番目のことば、「悲しむ者は幸いです」というみことばから学びましょう。 先日私は、娘の通う小学校に行く用事がありました。通されたのは、おそらくは何らかの障がいを持った子どもたちが通うカーペット敷きの教室でした。その壁に、何やら面白いポスターが貼ってありました。「今日のきみはどんな気分?」と書いてあり、実に30種類近くの顔の表情を模したマンガタッチの丸が縦横に並んでいます。その丸にはいちいち解説は書いてありませんが、それぞれの丸のいろいろな表情は、たとえば笑っていたり、怒っていたり、泣いていたりします。でも、同じ笑っているのでも、にっこりしているのがあるかと思えば、微笑を浮かべているのもあります。ニカッと笑うのもあれば、豪快に大口あけて笑っているのがあったりします。表情がさまざまです。しかしこの細かく分かれた表情の丸い絵をどれか指し示せれば、自分がどんな気持ちになっているのかが、口でことばにできなくても伝えることができるわけです。よくできたポスターだと思いました。 表情というものは不思議です。眺めているだけで、その気持ちがわかりますし、その表情を浮かべた人に共感したり、反発したりします。気持ちよく笑う人のそばにはいたいでしょう。怒っている人のそばにはいたくないでしょう。では、悲しんでいる人だったら、どうでしょうか? 悲しいということは、人であればできるならばだれも体験したくないことです。自分も悲しみたくないのももちろんです。そしてまた、人が悲しむのも見たくありません。  だれも、悲しみたくないのです。それに、悲しませたくないのです。それなのにこの世界は、悲しませるできごとばかりに満ちています。家族の中にも悲しみを抱えている人もいるでしょう。あるいは学校、あるいは職場かもしれません。日本や世界に目を転じても、子どもの虐待や紛争のニュースが新聞やテレビの画面を賑わし、私たちは悲しい思いをします。悲しみたくないのに、世の中は人を悲しませるできごとにあふれています。  人が悲しむということは、イエスさまの活動された時代においても例外ではありませんでした。イエスさまの教えを聴きにやってきた人たちは、みなが悲しむ人たちでした。その悲しさをどうしようもできなくて、イエスさまのもとにやってきた人たちでした。  イエスさまは、そんな彼らをご覧になり、口を開いて語られました。「ああ! 幸いなるかな! 悲しむ者!」  イエスさまは、今悲しみのただ中にいてどうしようもできないでいる彼らをご覧になり、感動に打ち震えて、ああ、幸いなるかな! とおっしゃったのでした。  なぜ、彼らは幸いなのか? それは、慰められるからだと、イエスさまはおっしゃいます。  なによ、それ、当然じゃない! 悲しんでいる人を慰めてあげるのは当り前よ! そういう反論が返ってきそうです。でも、ほんとうにそうでしょうか?  私たちは悲しんでも、慰められることのとても少ない世界に生きています。さきほど、悲しいニュースに接する私たちの姿を語りましたが、そんなとき、果たして誰が私たちを慰めてくれるのでしょうか? あるいは、普段の生活の中で悲しむことがあるとき、果たして誰が私たちを慰めてくれるのでしょうか? あるいは、このような私たちを慰めてくれる人やことばが、あるいはあるかもしれません。しかしそれらはたいていの場合、気休めでしかなく、根本的な慰めを与えてくれることばなどわずかでしかありません。  それでは、私たちはどうすれば慰められるのでしょうか? その前に、私たちはいったい、なぜ悲しむのかを、聖書のみことばを通して少し学んでみたいと思います。  初代教会の使徒パウロは、悲しみというものを、「神のみこころに沿った悲しみ」と、「世の悲しみ」の二つに分けています。神のみこころに沿った悲しみであるならば、後悔のない、救いに至る悔い改めを生むが、世の悲しみは死をもたらすと語ります。パウロがこのことばを語ったのは、ギリシャの港湾都市コリントの信徒たちに対してでした。使徒パウロはこのコリント教会を、手紙を書き送ることによって指導しました。こんにち聖書には、コリント人への手紙第一と第二の、2つの書簡が収録されていますが、その2つの書簡をよく読むと、パウロが教会の聖徒の間に存在しうる悲しみというものを取り扱っていることがよくわかります。  まず、コリント人への手紙第一、4章18節から5章2節をお読みします。……パウロが心血注いで育てた教会は、パウロがしばらく宣教旅行に集中して留守にしているのをいいことに、みことばに外れ、好き放題のことをしていました。  「現に聞くところによれば……それは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」などとあります。キリストのからだなる教会にあるまじき、とんでもないことです。いかにも荒くれ者の多い港湾都市コリントの教会らしくはありますが、ことは教会です。どこに位置する教会だろうと、みことばに照らして許されないものは許されません。このような罪が教会の中に横行していることを、悲しみなさい、私は思い上がっているあなたがたのところに行きますよ、と、パウロは一喝しています。  そこでまず、悲しむということは、「罪を悲しむ」ことといえます。ああ、私たちはきよくあるべきだったのに、なんとけがれていることか! 主が願っていらっしゃるふさわしい愛の姿から、なんと離れ去っていることか!  イエスさまのメッセージを聴きに集まってきた人たちは、一様に悲しんでいました。彼らは宗教指導者たちの教える高すぎる基準に合致していない自分たちの姿をいやというほど思い知らされ、打ちひしがれる日々を過ごしていました。自分は神の御前に罪人だ! 悲しい! しかし、どうしようもできない!  そうです。悲しむということは第一に、自分の罪深さ、無力さ、至らなさを悲しむものです。  このままでは自分の力で状況を変えられない、そのことに気づかされて、私たちは茫然となって悲しみます。しかし、自分の罪深さを悲しむことばかりは、なかなか難しいものです。私たちは、本来受けるべき愛を受けられなかったりするならば悲しむ、まあそれは当然でしょう。しかし、自分の罪深さを悲しむ人が、いったいどれくらいいるでしょうか?  その点で、当時のユダヤの宗教社会の底辺に置かれた民衆は、かえって恵まれていたのかもしれません。彼らは宗教社会の構造上、自分のことを罪に定めるメッセージばかり聞かされていました。自分の罪深さを悲しんでばかりいました。そんな彼らがイエスさまに慰めを求めたのは、当然のことと言えましたが、恵みとも言えなかったでしょうか?  話をコリント教会のならず者信者に戻しますと、彼らは自分の罪深さを悲しむ必要がありました。しかし、そのような彼ら自身が悲しむ前に、悲しみの涙を流していた人がいました。それは、彼らを指導していたパウロ自身です。第一の手紙からあとにパウロがコリント教会に書き送った第二の手紙には、こんなくだりがあります。1章23節から2章7節までをお読みします。  パウロは結局、コリント教会の信徒たちの信仰を信頼して、コリント教会を訪問することは控えました。その代わりにしたことは、涙を流しながら彼らの悔い改めを促す手紙を書くことでした。パウロもまた、コリントに向けた自分の愛の至らなさを思って泣いたのです。しかしその結果、その罪を犯した人は悔い改めました。兄弟が悔い改めたならば、教会はその人を罪赦された人として受け入れ、その人を悲しみから救うべきと教えます。  この一連のことを、パウロは以下のように総括しています。同じコリント人への手紙第二の、7章の8節から10節です。  もし人が、罪を悲しみ段階で終わってしまうならば、それこそその人に救いはありません。聖書は私たちに、悔い改めよ、と説いていますが、それは、罪を悔いよ、という段階で終わるのではありません。くよくよ罪を悔いたところで、いったいその「悔い」を、どうしようというのでしょうか。  聖書の説く「悔い改め」は、そういうものではありません。一般社会でも「悔い改める」ということばは使いますが、聖書でいう「悔い改め」は、自分の罪を悲しむところから、その悲しみを完全に拭い去ってくださる方へと、方向転換することです。  その罪をぬぐい去ってくださったお方、それはイエスさまです。イエスさまは十字架の上で死んでくださり、私たちの罪の罰を身代わりになって受けてくださいました。そしてイエスさまは復活してくださいました。イエスさまの十字架の赦しを信じる私たちは、イエスさまの復活にあずからせていただきます。イエスさまが罪と死に勝利してくださったゆえに、私たちも罪に勝利し、死に勝利します。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されます。そしてイエスさまが死に勝利してくださったゆえに、私たちも永遠に滅ぼされることはなく、天の御国に入れられて永遠のいのちをいただきます。  悔い改めとは、これほどまでに素晴らしいものです。とは言いましても私たちは、この悔い改めということばの「悔い」という字に、いくばくかの抵抗感を覚えたりはしないでしょうか? いやだなあ、と思ったりしないでしょうか?  しかしこれはしかたのないことです。私たちはまことの罪の赦し、まことのいのちを得るためには、どうしても、自分の罪に向き合い、その罪を悲しむ必要があるからです。罪を悲しむ者だけが、まことの赦しを得ることができます。  そうです。私たちは罪を悲しみますが、その罪がイエスさまによって赦されることを体験するならば、それはまことのいのち、永遠のいのちにつながることであり、私たちはともに喜びます。それは大きな慰めとなります。イエスさまご自身が、私たちのことを慰めてくださるのです。  しかし、もし、罪を悲しもうとも、ほんとうの意味でイエスさまに立ち帰ることをしないならば、その罪の赦しを私たちは体験することなく、死んだままの状態に留め置かれます。私たちはですから、まことのいのちを得るためにも、罪を赦してくださるお方、イエスさまに立ち帰る必要があります。  また、私たちはしばしば、例えば教会のような、自分の所属する共同体の中に、罪の行いがはびこるのを見て、悲しみます。しかし、みなが悔い改めに導かれ、その罪が取り扱われるのを体験するならば、私たちの悲しみは喜びに変えていただけます。  私たちはいま、悲しんでいますでしょうか? その悲しみを私たちは、だれによって慰めてもらおうとしていますでしょうか? イエスさまだけが、私たちの悲しみをほんとうの意味で取り除いてくださり、まことの慰めをくださいます。  私たちが自分の罪を悲しむことは、むしろ恵みです。もし自分に罪があるならば、思いきり悲しみましょう。悔い改めの涙を与えていただきましょう。そのように悲しむ者は幸いです。イエスさまに、思いきり慰めていただけるからです。 そのようにして私たちのうちに慰めが増し加わり、人々にまことの悔い改めを促していける私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。