八つの幸い その4
聖書箇所;マタイの福音書5章6節 メッセージ題目;八つの幸い その4 義に飢え渇く者 本日のみことばは、八つの幸い、八福の、四番目です。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」ここでイエスさまは、義というものと、飢え渇くということの間に深い関係があることを語っていらっしゃいます。 正義、読んで字のごとく、「正しい義」です。それは、いったいだれがその基準を決めるのでしょうか。もし、人によってその基準が異なるならば、正義とは所詮、絶対的なものではない、相対的で不確かなものになってしまうしかありません。その絶対的な基準言い切ることのできる存在は、絶対的に正しいお方、絶対的に義なるお方でいらっしゃる、創造主なる神さま以外にいらっしゃいません。創造主なる神さまが絶対的な正義、義でいらっしゃるゆえに、正義とは何か、義とは何かということを、唯一お定めになることができるのです。 この義にかなっていることで、私たちははじめて、人の間に存在するとされている義というものがふさわしいかどうかということを判断することができます。もう、リベンジということばが日本に定着して長くなりましたが、もしそのリベンジなるものをする理由が神の義に合致したものではないならば、それは単なる意趣返し、自分の留飲を下げるための仕返しでしかありません。 私たちクリスチャンが第一に求めるべきは、「神の国とその義」であると、イエスさまは語られました。第一といったら第一です。私たちは毎日のお祈りの中で、いろいろなことを祈っているようですが、いったい私たちは、「神の国」、つまり神さまが王として君臨され、統べ治める御国、と、「その義」、つまり王なる神さまのまことの正しさが、私たちがいま現実に生きているこの世界に実現するようにということを、どれくらい祈っていることでしょうか? そう考えると、私たちの祈ることはあまりにも、余計なこと、自分中心なことばかりだということに気づきはしないでしょうか? もちろん、病気の人がいやされるように祈ること、いま困難を覚えている人たちのために祈ることは、必要なことですし、だいじなことです。そういうお祈りを余計だとか、自己中心だとか言っているのではありません。しかし、ではなぜそういうお祈りが必要なのでしょうか? それは、そのお祈りを神さまが聞いてくださることによって、神さまがその御国とその義を、私たちのうちに現わしてくださるからです。お祈りする動機はどこまでも神さまにあるのであって、私たち人間の事情にはないことに注意しましょう。 私たちはこの、神の国、神の義が実現されることに、飢え渇いているでしょうか? 私たちがもし、この世と調子を合わせ、この世に染まって生きているならば、神さまのみこころがこの世に実現されることに、それほどの飢え渇きを覚えないで生きていくことになるでしょう。しかし、そのような生き方は神さまに喜ばれるものではありません。 飢え渇くということ、特に、渇くということは、イエスさまご自身が幾たびか経験されたことです。その記述はヨハネの福音書に複数回出てきます。どれもだいじなみことばです。見てまいりましょう。お開きにならなくてもいいですが、ヨハネの福音書の4章でサマリアの愛に飢え渇いた女性にイエスさまがお近づきになったとき、まずイエスさまがおっしゃったことは、水を飲ませてください、ということでした。それは、旅の途中で、のどの渇きを覚えていらっしゃったからということですが、それ以上に、この女性を神の愛に満たしたい思いに満ちていらっしゃったからでした。彼女は、イエスさまに出会うことで、もはや人目を避けて生きるような生き方をやめ、人々に救い主イエスさまを伝えて回るように変えられました。 そのように、人を神さまに出会わせ、人を救いに導く、新しい使命に生きるようにさせる……イエスさまはこの神のみこころをおこなうことに、飢え渇いていらっしゃったのでした。 イエスさまはまた、このようなことも言っていらっしゃいます。ヨハネの福音書7章37節と38節です。……人のほんとうの渇きを潤してくださるお方は、イエスさまだけだということです。そして、その渇きを潤すほんとうのあまつ真清水は、聖霊なる神さまである、聖霊なる神さまが信じるその人を、内側からあふれ出て、潤してくださるということです。 イエスさまがこの「八つの幸い」の教えの中で、「義に飢え渇いている人は幸いです」とお語りになったのはなぜでしょうか? それは、このようにイエスさまのもとに集まってきた群衆にとっての飢え渇きの本質、ひいては人間だれしも持っている飢え渇きの本質というものが、神の義に対する飢え渇きであることを喝破していらっしゃるからではないでしょうか? イエスさまはそのような者たちに、渇く者よ、私のもとに来て飲みなさい、とおっしゃっています。イエスさまは誰よりも、不当な苦しみを受けられたお方です。あらゆる試みに会われたお方です。そのようなイエスさまは、私たちの味方でいてくださいます。私たちはイエスさまによって、この義に飢え渇いてどうにもならない、人として本質的に持っている飢え渇きを潤していただき、いやしていただけます。 そしてさらに、イエスさまが十字架の上で語られたみことばにも注目しましょう。ヨハネの福音書、19章28節です。 イエスさまが「わたしは渇く」とおっしゃったのは、汗と血が全身から流れ、脱水状態になられたからです。そのような極限の苦しみの中におられたイエスさまは、しかし、そのような肉体的な渇きもさることながら、もうひとつの霊的な飢え渇きを覚えていらっしゃいました。それは、父なる神さまのみこころが成し遂げられることに対する飢え渇きです。 しかし果たして、そのように「わたしは渇く」とおっしゃった、イエスさまを待ち受けていたものは、最後の苦しみでした。ぶどう酒です。しかし、これはイエスさまがかつてカナの婚宴で人々に飲んで楽しみなさいと提供されたような、よいぶどう酒ではありません。「酸いぶどう酒」と書かれていますが、どういうぶどう酒でしょうか? 口語訳という、1950年代に出た古い訳の聖書では、このぶどう酒を「酢っぱいぶどう酒」と訳し、その「すっぱい」の「す」は、「お酢」の「酢」の漢字が充ててあります。そう、まさにこれは「酢」だったのです。こんなものを脱水症状にある者が飲んだら、大変なことになります。壮絶な苦しみが待っています。しかしイエスさまは、人を罪から贖うために極限まで苦しむという、その杯を最後まで飲み干すため、十字架の上であえて最後まで苦しみを受けることを選ばれました。 そしてイエスさまがこのように苦しみに導くぶどう酒を受けられたのは、旧約聖書のみことばが成就するためでした。詩篇69篇21節をご覧ください。……敵対する者がどれほど人を痛めつけることか! その苦しみを、これでもか、と歌う詩篇は、実はイエスさまの受難を預言したものでした。イエスさまを苦しめる者たちは、イエスさまが極限の渇きを覚えているところに、さらなる苦しみを与えました。そうです、渇く者をみもとに招いてくださったイエスさまこそが、いちばん渇いていらっしゃったのです。 義に飢え渇く私たちは満ち足ります。なぜでしょうか? そのような者たちのためにだれよりも、イエスさまが渇いてくださり、その者たちの渇きに寄り添ってくださったからです。神さま、いつまでですか! あなたさまはこの地に正義を行わないで、黙っていらっしゃるのですか! 私たちは時に叫びたくなるでしょう。そのような私たちは、義に飢え渇いています。しかし、そのような者たちを、イエスさまは潤してくださるのです。満ち足らせてくださるのです。 渇いているならば私のものに来て飲みなさい。そのようにして、イエスさまのもとに来て飲ませていただく天の真清水とは、御霊であるとみことばは語ります。私たちは御霊をいただいて、この不確かな世界、有限な世界において、無限な天の御国の祝福にあずからせていただくのです。私たちは御霊によって、天のお父さまのみこころ、イエスさまのみこころを知らせていただきます。私たちは御霊によって、導きをいただきます。私たちは御霊によって、慰めをいただきます。 しかし、何よりも御霊なる神さまは、私たちに神の義を示してくださるゆえに、すばらしいお方です。それは、イエスさまご自身がおっしゃったことです。ヨハネの福音書、16章の7節から11節をお読みします。 ちょっと難しさを覚える表現かもしれませんので、若干の解説を加えさせていただきますと、9節、御霊さまが世に対し、罪について誤りを認めさせるということが、世の人がイエスさまを信じないこととなぜ関係があるかというと、世の人は、罪というものを決めるお方が、イエスさまであることを受入れないからです。イエスさまは救い主でいらっしゃいますが、世の終わりにはさばき主としてこの地に再び来られます。そのことを知っていたならば、イエスさまを十字架にかけるなどということは、到底彼らはできなかったはずです。しかしイエスさまが実は罪を定め、さばきをなさるお方だということを、御霊なる神さまは私たちに認めさせ、イエスさまの権威のもとにひれ伏すように導いてくださいます。 10節、そのものずばり、今日のみことばで扱っている「義」についてですが、イエスさまは十字架にかかられ、復活し、天に昇られて、もはや目で見ることができなくなります。今はちょうどその時代です。このことを説き聞かされている弟子たちのように、イエスさまのそばにいる人たちならば、イエスさまを見れば、御父の義というものをストレートに知ることができました。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、「わたしと父とは一つです」、また、「わたしを見た者は、父を見たのです」とおっしゃったとおりです。しかし、イエスさまが天に昇られて見えなくなったら、神の義をいったい誰が教えてくれるのでしょうか? でも、心配はいりません。御霊なる神さまが、私たちといつでもともにいてくださり、義なる神さまを指し示してくださいます。 さらに、さばきです。この世を支配する者が「さばかれた」とイエスさまは語ります。この世の終わりにさばかれる以前に、すでにこの世のはじめに「さばかれて」いるのです。このことを示すお方は、聖霊なる神さまです。 聖霊なる神さまは、さばきの基準として、神の義をはっきりと示してくださいます。世の者たちは、その神の義を示すお方としてのイエスさま、聖霊なる神さまを正しく認めません。しかし、神さまに特別な恵みによってえらばれた者たちには、聖霊なる神さまは特別な神の義を啓示してくださるのです。 私たちは何が正義、より正確に言えば、神の義であるかということを、いつでも教えていただけます。私たちはこの神の義がこの地上で行われるように飢え渇くならば、まず自分こそが神の義を行えるように導いていただけます。 私たちはこの世にどんな神の義がなされることを待望していますでしょうか? その義がなされるために、私たちはどんなアクションを具体的に起こす必要があると考えるべきでしょうか? 少し考えていただきたいのです。そして、その考えをともに分かち合い、ともにこの地に神の義を実現するものとして用いられ、私たちが本来抱えている渇きが満たされるように、聖霊なる神さまに導いていただきましょう。私たちの渇きは癒されます。アーメン。