八つの幸いその5

聖書本文;マタイの福音書5:7 メッセージ題目;八つの幸いその5 あわれみ深い者 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」 私たちは「あわれみ」というと、どのようなイメージを持ちますでしょうか? なにかかわいそうな人や動物がいると、それを見てかわいそうに思う……そんなところでしょうか? 生類憐みの令、とか。しかし、人間も動物も一緒くたにしてこの「あわれみ」ということばを使うと、何やら「上から目線」のようないやらしさを感じたりはしないでしょうか? しかし、私たちは聖書をしっかりお読みして、そのような「上から目線」的で偉そうな「あわれみ」のイメージから自由になる必要があります。 何よりも、あわれみとは、神さまに満ち満ちているご性質です。神さまが神さまであるゆえんの、欠かすべからざる神さまのご性質とさえ言えるもの、それが「あわれみ」です。 それゆえに、人に「愛」があることが大事なことであるように、「あわれみ」があることも大事なことになります。 あわれみ深ければ、あわれみを受ける……あわれみを受けるということは、それだけ神の目が注がれるということであり、それは祝福です。ということは、さばくならばどうなるでしょうか? さばかれる、ということにならないでしょうか? そういう、神さまと人、人と人との関係を端的に現したみことばがありますので、ちょっとお開きいただければと思います。マタイの福音書、18章21節から34節です。 あの有名な「七の七十倍」とイエスさまがおっしゃった箇所と、そのたとえ話です。ペテロは、信仰の兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何回まで赦すべきでしょうか、7回まででしょうか、とお尋ねしています。これは、教会の中で罪が犯された場合にいかに対処すべきか、ということをイエスさまがおっしゃった、そのおことばを受けてのものです。 教会は決して大きな群れではありません。信者同士が濃密な人間関係を構築します。そのような中で、何度となく同じ人物どうしでトラブルが起こることは、充分に予測できることです。7度まで赦すべきでしょうか、というペテロのことばはけっして大げさではなく、充分にあり得ること、と考えていいと思います。 しかし、それに対してイエスさまがおっしゃったこと、それは、7回までとは言いません。七回を七十倍するまでです、ということでした。 「ペテロは口あんぐり……」、千代崎秀雄先生という牧師先生が、ペテロの反応を想像してそう描写されましたが、イエスさまはすごいことをおっしゃいました。 7を70倍、といっても、それは490回赦せ、それ以上はいけない、ということではありません。聖書の完全数7にさらに完全数7の十倍の70をかけたということで、「かぎりなく赦しなさい、完全に赦しなさい」、という意味です。 でも、私たちはもう、こういうお話を聞くと、絶望的になりませんか? 私たちはだれしも、心のどこかで完全に赦せない人というものがいるはずでしょう。いなかったとしたらその人は天使です。まことに、私たちは罪人の姿で、神の前に立たせられます。 しかし、この点において、私たちはもう少し、イエスさまのおことばに耳を傾けてみたいと思います。 イエスさまは、この「赦し」について解き明かすために、ひとつの例話をお話しになります。23節……天の御国は、王である、と語っていらっしゃいます。イエスさまが王のたとえ話をなさるとき、それは例外なく、天の父なる神さまを指しています。神さまが天の御国! すごいことです。神さまのみこころにかなわないものはすべて「異物」であり、天の御国にはそぐわず、したがって入れないことになります。ただ、天のお父さまとひとつにしていただいた者だけが、天の御国に入れていただけることが、この短い表現からもわかります。 王さまの話に戻りますと、王さまは自分の家来と清算をしたいと思い、家来を呼びつけました。24節です。……一万タラントとは、欄外の脚注にありますが、1タラントが6000デナリです。1デナリは1日分の労賃です。仮に1デナリを10000円とすると、1タラントはその6000倍、10000タラントだからさらにその10000倍……円に直すとその額、6000億円! 気の遠くなるような話です。 王は、返済を命じました。持ち物はもちろん、妻も子も、自分自身も売って、金をつくれ、というわけです。もちろん、そんなことをしたところで到底埋められるような負債ではありません。しかし、主君に対して、せめてもの誠意を見せてみろ、というわけです。 しかし、それを実行に移すには、相当な努力と時間を必要とします。家来は、主君に、努力と時間をかけても必ずお返しすると、ひれ伏して誓いました。 そのとき、王さまの心はあわれみに満ちました。罪の償いをするために最大限の努力をすることをひれ伏して誓う者に対し、王はあわれみでいっぱいになったのでした。 これが、天のお父さまのみこころです。私たちは自分を創造してくださり、生かしてくださっている創造主なる神さまを認めず、自分勝手に生きる道を選びました。その罪は、それこそ慣用句を用いれば、万死に値する罪です。これは誇張や言い過ぎではありません。なぜならば、そうして罪の道を行くことで、人はいのちなる神さまから離れ、永遠に死ぬしかない道を行くようになったからです。 そのいのちの代価、ざっと10000タラント、一日の労賃というたとえを一日の生活と再解釈して計算すれば、10000タラントとは実に6000万日分の生活、それを棒に振って、死に至らしめたわけです。十何万年分の人生です。それがことごとく死に至ったのですから、まさしく「万死に値する」罪であり、決して言い過ぎではありません。 それを何とか努力によって埋め合わせしようとしたって、焼け石に水、なんでものではありません。何をどうしても不可能です。しかし心ある人は、それを何とか埋め合わせしようとします。がんばれるだけがんばります。しかし、だめなのです。 ここに、人が神のあわれみにすがるということが起こってくるのです。いかなる罪人も、その心の中に残るひとかけらの良心によって、神を求め、あわれみを求めます。アコーディオン奏者のcobaが以前「百万人の福音」誌のコラムで言っていたことですが、彼がかつて留学していたイタリアのベネチアでは、札付きの荒くれ者も日曜日になると威儀を正して教会に行くのだそうです。自分の悪さ、弱さをどうしようもできないと自覚する人こそ、神さまを求めるようになるということの証拠といえるのではないでしょうか。 人間はどんなに努力しても、罪が赦されるための埋め合わせはもはやできません。そんな人間を、神さまはあわれんでくださいます。。王の家来が何もかも売り払わなければならなくなるように、救われるためには努力をするだけしろ、などとおっしゃることは、もはやなさらないのです。完全に帳消しにしてくださいます。6000億円にもあたる負債を!  神さまはすごいお方です。私たち人間の背負った罪の代価が、そんな十何万年も生きてもなお返せないほど大きなものであると自覚するならば、私たちは絶望します。それを完全に帳消し、まったくなかったことにしてくださるとは、いやはや、神さまはなんとすごいお方なのでしょうか! 神の御子イエスさまは十字架によって、そのように私たちのあらゆる罪を、ことごとく赦してくださいました。 さて、イエスさまの話には続きがあります。28節です。……100デナリといったら、100万円くらいでしょう。ちょっと高いですが、6000億円に比べればなんということのないお金です。だが家来は、このお金に目がくらんで、仲間の首を絞めて、「借金を返せ」と迫りました。首を絞めるなんて穏やかではありません。返さないといのちはないものと思え、とでもいうような恐ろしい態度です。 仲間は、少し待ってくれれば必ず返します、と懇願しました。しかし家来は承知しませんでした。彼が借金を返すまで、牢獄に放り込んだ、とあります。 しかし、ほんとうのところ、牢獄に放り込まれれば、いったいどうやって働けるでしょうか? 借金を返すことができるでしょうか? ということは、牢獄からは出られないのです。つまりこれは、なにがなんでも絶対に赦さない、ということです。これが、さばきというものの冷酷さです。 そしてこのような、この期に及んでの自己中心も、罪人の姿ということができます。自分は負い目を完全に帳消しにしてもらったのに、人の負い目にはどこまでも不寛容……あわれみがないということは、かくも罪深く、醜いことです。 しかし、家来のこのような行動は、主君の知るところとなりました。主君は言いました。32節から33節です。……わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。 ほんとうに、神のあわれみというものを体験しているならば、神のご性質であるあわれみというものが身に着いていてしかるべきである、そうなっていない者は、神の国にふさわしくありません。放り出され、暗やみで泣いて歯ぎしりします。10000タラントの借金を返すまで、つまり十何万年分の労働の対価の分、働くことも許されないで牢獄に入れられます。赦されることなどもはや不可能です。 ここまでみことばを読むと、私たちはさらなる絶望に打ちのめされはしないでしょうか? ああ、私は神さまに赦されているはずなのに、まだ心から兄弟姉妹を赦していない! もう自分は赦されないのか! そこで、私たちのその罪の負債をもう一度数えてみましょう。10000タラントの負債のために獄に入れられているのですから、やはり負債を返すしかありません。しかし、人間的な方法では何をどうしてもだめです。すると、できる方法はただ一つしかありません!……神さまのあわれみにすがるのです。 いえ、兄弟を赦さないという罪を犯した者を、神さまはもう赦さないはずではないか! そう思いますか? では、イエスさまはなぜ、7を70倍赦しなさいとおっしゃったのでしょうか? それは神さまが、7を70倍するまで赦してくださるお方だからです。神さまのあわれみは、7を70倍赦すという、その究極の赦しという形で実を結んでいます。 人が赦せないという罪を自覚したならば、神さまのもとに行くことです。いや、どんな罪を犯したとしても、神さまのもとに行くことです。7を70倍赦してくださる神さまは、かぎりなく赦してくださいます。 あわれみ深い人は、あわれみを知る人です。自分の罪がどれだけひどいか、10000タラントの負債も返せないくせに100デナリの人の負債にはやたら目くじらを立てるような、どこまでもひどい自己中心の罪人か……そのように、自分に絶望しきる人です。だからこそ神さまのあわれみにすがり、そのあわれみがどんなに大きなものか、あふれんばかりに感謝に満たされる人です。そういう人は少しずつ、あわれみというものを身につけていくようになります。あわれみ深い人になっていきます。 しかし、そういう人は、自分の罪深さをよく自覚しています。だから神さまのあわれみになおいっそうすがります。神さまはそうして、あわれみ深い人を憐れんでくださるのです。こうして、あわれみ深い人はあわれみを受けるという、イエスさまのおことばのとおりのことが起こります。 私たちに、人を愛せるだけのなにものもない、人にあわれみを施せるだけの何ものもないと気づくとき、それは神さまの力をいただいて、あわれみ深い者へと変えられるというみこころへと一歩踏み出す、幸いな瞬間となります。 私たちはどんなとき、あわれみをいただきたいと願うものでしょうか? そのようなとき、神さまにあわれみを求める人は幸いです。神さまのあわれみに満たしていただき、あわれみ深いという、神さまのご性質に似た者と変えていただきます。この祝福をともにいただく私たちとなることができますように、お互いのため