三位一体の恵み

聖書箇所;エペソ人への手紙1:1~14 メッセージ題目;三位一体の恵み 本日から「エペソ人への手紙」の学びに入ります。このエペソ人への手紙、若い頃の私に大きなチャレンジを与えてくれた書簡です。2章のみことばをお読みして、私は日本と韓国の架け橋になりたいと願いました。5章のみことばをお読みして、結婚への召命を与えられました。その結果、今はどちらもかないました。わが家はまさに、このどちらのみことばも実現しています。だから私は個人的に、エペソ人への手紙というタイトルを見るたびに、生活に即した近しさのようなものを覚えます。みなさんはどうでしょうか? すばらしいみことばですので、一緒に学んでまいりたいと思います。 今日の箇所は、エペソ書の始まりの部分です。さてこの箇所で著者のパウロが強調していること、それは、私たちを救ってくださった神さまの「恵み」です。 今日の箇所を、3つの時制に分けて、それぞれの時制において神さまが私たちに何をしてくださったのか、ともに見てまいりたいと思います。 第一に、永遠の昔に神さまがしてくださったことです。父なる神さまが、私たちを選んでくださいました。 まず、この手紙を受け取ったエペソ人のことを考えてみましょう。パウロはこの書簡の冒頭で、キリスト・イエスの使徒の名において、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちと、エペソのクリスチャンたちのことを評価しています。 しかし彼らエペソのクリスチャンたちがもともと、どんな人たちだったかというと、月の女神アルテミスの都市に生まれ育った人たちです。その市民はどういう神観をふつう持っていたかということは、使徒の働き19章が証言しています。パウロの何年にもわたる働きにより、エペソにキリスト教会が定着しつつあったとき、市民たちがクリスチャンたちを排斥しようと騒乱を起こし、たいへんな騒ぎとなりました。そのとき、町の書記官が、こんなことを言って、彼らエペソの人たちをなだめました。「エペソのみなさん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。」書記官一流の知恵を用いて騒ぎを鎮めたといえますが、しかしこれは同時に、アルテミスを礼拝する者にあらずばエペソ市民にあらず、とさえ言っているようです。 このような異教社会の中で、それでもまことの創造主、救い主なるキリストを信じ受け入れ、キリストに忠実な者となったと、パウロはキリストの名において評価しているのです。これは、たいへんなことです。 私たち、日本に生まれ育った者たちにとってもそうではないでしょうか。私たちも本来は、当たり前のようにして先祖代々日本の人たちが受け継いできた宗教的な習俗を受け入れていたはずです。やおよろずの神、といいますが、これは外国から見ると、やおよろずは八百万と書くので、日本には八百万も神がいる、ととらえられます。 私たち日本人は別に、八百万(はっぴゃくまん)の神々と特に意識しているわけではないでしょうが、それでも神々がとても多いことは何かにつけて気づかされるでしょう。むかし、日本の当時の総理大臣が、日本は神の国と発言して物議をかもしましたが、そういう発言がまかり通るような霊的風土ということは、みなさんも何かと感じていらっしゃるのではないかと思います。 そういう中から信仰を持つ者とされた。そういう点では、アルテミスの守護者にさえされているエペソの、その市民であったエペソ教会のクリスチャンは、われわれ日本のクリスチャンにとって誇るべき先輩と言えるでしょう。 3節をご覧ください。私たちは祝福されている、とパウロは語ります。どれくらい祝福されているのか? 天にあるすべての霊的祝福を神さまがくださっているほど、私たちは祝福されている、というのです。 その霊的祝福とは、どういうものでしょうか? 4節をご覧ください。……世界の基の置かれる前から、すなわち創造のみわざの前、永遠の定めによって、ということです。私たちが救われているということは、永遠の前からすでに神さまがお決めになっていた、ということです。 これは、たいへんなことです。私たちはこの地上を生きるものでありながら、天の祝福をいただきつつ、この地上を生きる者とされる、そうなるように、神さまが私たちをあらかじめ定めてくださっていた、ということです。神さまは目に見えないお方です。だから多くの人は、神さまがほんとうにおられるかどうか、不確かな思いしかいだけません。しかし私たちは、天におられる神さまがともに歩んでくださるという、その祝福を、日々いただきつつ生きています。私たちにとって神さまとは、なによりもリアルな存在であるのです。天にあるすべての霊的祝福は、いま現実に私たちがいただいているのです。その祝福を受けるように、神さまは永遠のむかしから定めてくださっていたのです。 いえ、それだけでしょうか? 天にあるすべての霊的祝福をいただいている、ということは、永遠の天国は私たちのもの、ということにもなります。私たちはこの地上を生きていますと、苦しいことやつらいことのある一方で、喜びを体験します。その喜びは、この地上を生きていく原動力になったりもするのです。しかし、私たちが体験するその素晴らしい喜びさえ、天国を受け継ぐ祝福に比べれば、なにほどのこともありません。想像すらできないほどの祝福、それが天国を受け継ぐ祝福です。その天国に入れるように、神さまが永遠のむかしからすでに私たちを選んでくださっていた、ということです。 さて、ここでパウロが、「私たち」がその祝福をいただくと言っていることにも注目です。私たち。アルテミスの民であったエペソの人、生粋のユダヤ人でエリートの律法学者であったパウロ、立場はまったく異なりますが、どちらもキリストに出会っていなかったということでは同じです。しかし今や、そのどちらの立場からも、キリストに出会い、まことの霊的祝福を受けるものとされた、というわけです。 この、まったくちがうところから永遠のむかしに選ばれ、みもとに集められ、「ともに」祝福を受ける喜び、御業をほめたたえる喜びが、この「私たち」ということばから伝わってくるようです。 私たちも立場はさまざまだったでしょう。イエスさまを信じ受け入れたプロセスもいろいろでした。しかし、そういうどうしがこの水戸第一聖書バプテスト教会という、ひとつところに集うべく、永遠のむかしに選ばれ、ひとつところに集められ、ともに天の霊的祝福にあずかるということ、それはどんなにすばらしいことでしょうか。ここでともに礼拝する私たちは、立場や性格の違いを超えて、ともに霊的祝福にあずかる者として選ばれている、だいじな兄弟姉妹です。 とは申しましても、いま現実にこの教会に集っていない人は、選ばれていないのではないか、などと、どうか思わないでいただきたいのです。神さまの永遠の選びというものは、人間の目によって判断できるものではありません。それこそ、私たちの周りの人たちのことも。神さまは永遠のむかしから選んでいらっしゃるかもしれないのです。だから私たちは、選ばれている人を見いだす働きに用いられるべく、伝道するのです。 神の選びというものは、かぎりある人間の立場から推し量るのはとても難しいものです。しかし、こう考えてみてはいかがでしょうか? 私がこうして信仰をもてるように、神さまが永遠のむかしから、私のことを選んでくださっていたなんて! 神さま、感謝します! 人のことはどうあれ、まず自分が選んでいただいていることに、感謝したいものです。その感謝の積み重ねが、みこころにかなったよい行いを生み、私たちを特別に選んでくださった神さまのすばらしさを、その行いをもって現すことができるようになると信じます。 第二に、2000年前に子なる神さまがしてくださったことです。イエスさまは私たちを、十字架の血によって神の子にしてくださいました。 4節のみことばをもう少し学んでまいります。神さまの選びは、「彼にあって」とあります。彼とは、キリストのことです。それは5節のみことばで解き明かしているとおり、御父がキリストによってご自分の子にしようと、私たちを選んでくださったということです。 6節を見てみますと、キリストは御父が私たちに与えてくださった恵みであると語っています。恵みとは何でしょうか? ただでもらえるものです。 私は小学生のとき、親友の石川くんという友達に、誕生パーティを開いてもらったことがあります。仲のよかった友だちが集まりました。当時私が片想いをしていた女の子も来てくれました。プレゼントもいろいろもらいました。ほんとうに楽しかったですし、またうれしかったです。一生の想い出になりました。 でももし、私が石川くんやほかの友達に、こんなことを言ったらどうなるでしょうか? 「今日は来てくれてありがとう。プレゼントもありがとう。でも、お金がかかったよね? パーティを盛り上げるのも大変だったよね? じゃあ、お金をこれだけ払うよ」そんなことを言って、お金なんか渡したら、みんなどう思うでしょうか? プレゼントにお金などいりません。それと同じものが、神さまの恵みです。イエスさまは、父なる神さまのプレゼントです。神さまがイエスさまを私たちのために送ってくださったならば、私たちのすることは、ただひとつです。ありがたく受け取ることだけです。 では、イエス・キリストは何をしてくださったのでしょうか? 7節のみことばを説き起こしますと、イエスさまは十字架の上で血潮を流して死んでくださったことによって、私たちのことを天国に入れなくしていた原因である、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださり、天国に私たちのいるべき場所を買い取ってくださったのでした。 その、2000年前の十字架のできごと、それを私たちは、自分のこととして信じ受け入れる信仰を与えていただいたのでした。それは自分の意志で信じたように思えても、ほんとうのことを言うと、神さまの遠大なご計画の中で、その信仰が与えられたというべきです。 私たちがまことに神さまの子どもとなるため、神さまがこの世界から買い取ってくださるために、イエスさまがしてくださったこと、それが十字架です。しかしそのために、イエスさまはどれほど苦しまなければならなかったことでしょうか。十字架の苦しみがどれほどのものであったか、それは肉体的な苦しみはもちろんのこと、最大の苦しみは、父なる神さまと引き離されなければならなかったことでした。イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」あのように叫んで捨てられなければならなかったのは、罪を捨てることをしない、神さまに従わないでいて平気でいる私たちだったはずです。しかし父なる神さまはそんな私たち人間を憐れんで、その罪の罰を、十字架というこの上なくむごたらしいかたちでイエスさまに負わせられました。 これが、恵みなのです。そして、その恵みをただで信じて受け入れるようにいていただいたこと、これもまた恵みです。恵みの上にさらに恵みをいただいた存在、それが私たちです。 8節から11節をお読みします。……神さまはキリストによって、罪から贖ってくださっただけではありません。みことばに啓示されたご計画を教えてくださり、キリストを救い主、主として告白するどうしを、民族や国や時代の枠を超えてあらゆるところから集めてくださり、ひとつの御国を受け継ぐ者としてくださいました。 それは、神さまの永遠のご計画によって定められていることでした。 キリストは死なれただけではありません。今も生きておられ、私たちの主でいらっしゃいます。私たちがみことばをお読みして神さまのみこころを知ることができるのは、その中心に啓示されているキリストによって、みことばを解き明かすことができるように、私たちが導かれているからです。 私たちの信仰生活を、人は「キリスト教」と呼びます。キリストのないキリスト教など、ほかの宗教と変わりのないものになってしまいます。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません、とおっしゃったキリストによって神と交わる、その生き方を許されているのが、私たちクリスチャンです。 ですから私たちは、キリストによって神との交わりにつねに招かれている者として、神との交わりにどんなときにも入っていきたいものです。いろいろなことで忙しくしているときでも、飲み物くらいは飲むでしょう。トイレくらいには行くでしょう。それならば、わずかでもいいです。すこし、祈ってみてはいかがでしょうか。みことばを思い出してみてはいかがでしょうか。長くなくていいのです。有名人がツイッターというインターネットのツールを用いて自分の意見を短く発信するとき、たまにその内容がニュースになったりしますが、短い意見でも世の中にインパクトをもたらすものです。同じように私たちの祈りは、長々としていればいいものではありません。仕事中でも構いませんから、気がついたら短くお祈りすることをお勧めします。私はこれを、「ツイッターの祈り」と呼びます。 もちろん、それだけではなく、みことばをしっかりと読み、じっくりと祈る時間を一日のうちに必ず1回は確保していただきたいと願います。みことばを黙想するならば、朝がいいでしょう。黙想するみことばの箇所は、週報に書いてありますので参照していただければと思いますが、その短い箇所を毎日、熟読玩味してみこころを受け取っていただければと思います。しかしそれは、お勤めのような宗教的な日課ではなく、キリストとの交わりとして毎日行なっていただきたいと願います。 そのようにしてイエスさまは、私たちに十字架の赦しの恵みをくださり、みことばを教えてくださる恵みをくださり、天国に入れてくださる恵みを与えてくださいます。ともに感謝いたしましょう。 第三に、今このとき、聖霊なる神さまがしてくださることです。聖霊なる神さまは、私たちに御国を受け継ぐ保証を与えてくださいます。 この保証を、13節のみことばでは「証印」と語っています。創世記やエステル記など、聖書の中にはしばしば、印、というものが出てきます。その印が押された文書には、印の持ち主である王の権威によって効力が発せられる、というわけです。 それは今日の日本でも同じことで、印の押された文書には、その人ないしは法人、団体の名により、効力が発せられます。 契約というものを結ぶならば、なおさらこの「印」というものの効力が重要になってきます。神さまと人との間にも契約が結ばれ、神さまは人をご自身の民にしてくださったわけですが、この契約の保証となってくださるお方が、聖霊なる神さまです。 神さまはもともと、イスラエルという民を特別に選び、ご自身の民としての契約を結ばれました。しかし、人がその契約を履行する際の条件であった、神さまの定めた掟を守り行うこと、それをすることのできる人は、だれひとりいませんでした。ただ、神の御子なるイエスさまだけが、御父への完全な従順をもってこの律法を完全に履行され、その従順は、十字架に死にまで至りました。この十字架は、御父が人を神の子どもにするために新しく結んでくださった契約であり、完全な契約、永遠の契約です。 聖霊なる神さまは、神さまと私たちの間にこの契約を結ぶべく働いてくださいました。私たちの力では、神さまのこの恵み、プレゼントを受け取ることなどできません。しかし聖霊なる神さまは、私たちの心にイエスさまの十字架に対する信仰を持たせてくださり、信仰による救いへと至るように、私たちを導いてくださいました。 聖霊さまのこの導きは、一生続きます。私たちがこの、十字架による罪の赦し、贖いという、永遠の契約に入れられている者にふさわしくなれるよう、私たちを日々整え、きよめてくださいます。そのために聖霊さまは、私たちが教会というキリストのからだのひと枝ひと枝となれるようにしてくださったのです。 礼拝の最後に祝祷をいたしますが、これは第二コリント13章の最後のことばをもとにしています。お祈りすることが、主イエス・キリストの恵み、父なる神さまの愛が私たちとともにあることに加え、聖霊の交わりがあるようにと祈っています。聖霊「と」の交わりとは表現しません。もちろん、たしかに「聖霊の交わり」とは「聖霊『と』の交わりではあるのですが、しかし、それは同時に、私たち信じる者どうし、教会という共同体のうちに聖霊さまが働かれることで成り立つ互いの交わり、ということを意味します。 私たちはまちがってはいけませんが、たとえクリスチャン同士でも、どうでもいいよもやま話で盛り上がることを「交わり」と呼ぶべきではありません。まあ、そういう話題になることももちろんありですが、それで終わるならば、何のために私たちはわざわざ、イエスさまを信じる者どうしで集まっているのでしょうか? しかし、もし私たちが、その会話の中で、神さまの素晴らしさ、みことばの恵みを分かち合うならば、あるいは互いの取り組んでいる課題、抱えている問題のために祈るならば、それはまさしく、交わりと呼ぶにふさわしいフェローシップが成り立っていることになります。私たちはせっかく、信じているどうしで教会に集まっているのですから、せめてそのような交わりをともに目指してまいりたいものです。そのような交わりを通して、私たちを救いに導いてくださった神さまの恵みが、私たちのうちにともにほめたたえられるようになります。 以上見てきて、お気づきになったことはありませんか? そう、私たちの救いは、御父の計画、御子の実践、御霊の適用、三位一体なる神さまがともに働かれて、成り立っている、ということです。救いに至るために、私たちが誇るような努力などなにひとつできません。すべては、三位一体なる神さまの恵みです。恵みのうちに私たちを選び、恵みのうちに私たちを贖い、恵みのうちに私たちを導く、父、御子、御霊の、三位一体の神さまの御名を、心からほめたたえてまいりましょう。

復活の朝に『おはよう』

復活祭感謝礼拝メッセージ 聖書箇所;マタイ28:1~10 メッセージ題目;「復活の朝に『おはよう』」  形あるものはどんなにすばらしくても、かぎりあるこの地上にあるならば、壊されたり崩されたりするものです。それは、イエス・キリストというお方も体験されたことです。イエス・キリストは、永遠、無限の創造主でいらっしゃいますが、肉体を取ってこの地上に来られたお方です。かぎりない神であるお方が、かぎりある人となられたのです。人は、イエスさまのことを神さまと認めず、十字架の上に死なせました。そして墓に葬りました。 しかし、イエスさまは復活されました。イエスさまは死からよみがえられ、永遠のいのちに生かされるならばもはや滅びることはないことを、身をもって証しされました。そして、人がイエスさまを信じ受け入れるならば、その人はもはや滅びることがなく、よみがえって永遠のいのちを受けます。 イエスさまの復活がどのようであったか、特に、復活のキリストが最初に発せられたことばに注目したいと思います。 イエスさまは、十字架から取り降ろされて、お墓に葬られていました。アリマタヤのヨセフという議員が、勇気を出して自分の入るはずの真新しいお墓を提供してくれたおかげです。しかし、イエスさまの復活の預言を生前聞いていた宗教指導者たちは、もしかしたら弟子たちがイエスさまの遺体を持ち出して、復活したと触れ回ったりはしないだろうか、そんなことになったら、たいへんな混乱が起こる……そう予測し、当時ユダヤを支配していたローマ総督ピラトに番兵を出してもらい、墓の番をさせました。 お墓といっても、日本のように火葬して土に骨壺を埋めるわけではありません。韓国のように土葬して土饅頭を盛り上げるわけでもありません。岩を横に掘り、そこに遺体を布で巻いた状態で安置するのです。そういうわけで、墓の入口の大きな石をどければ、中に入ってイエスさまのご遺体に対面できます。 そういうことをさせまいと、彼らは石をピラトの印により封印しました。これは、ピラトの命(めい)を受けた者でなければ、開けることは許されません。 墓に葬られて3日目になりました。折しもそのとき、女性たちがイエスさまのお墓にやってきました。ご遺体に香料を塗りにきたのです。 しかし、墓には石が転がしかけてあり、しかも封印されています。開けることはできないし、許されません。しかし女性たちは、せめてお墓のそばでもいいから、イエスさまのそばにいたい、その一心で、墓まで訪れたのでした。 こんなとき、男どもは情けないものです。イエスさまのあとに従います、死ぬことさえも覚悟しています、と大見えを切った弟子たちは、いったいどこにいるのでしょうか? ユダヤ人たちが自分のことも逮捕しにきはしないかと、引きこもってぶるぶる震えている有様です。そういうわけで、宗教指導者たちがあれこれ気をもんでいた、弟子たちがイエスさまの遺体を盗むかもしれないとかどうとかいったことは、まったく考える必要もないことだったわけですが、とにかくこのとき、堂々としていたのは女性たちでした。 女性たちはお墓に行きました。するとそのとき、光り輝く天使が現れました。墓の入口の石は転がりました。番兵たちはその姿に卒倒し、気絶しました。 天使は、女性たちに告げました。(5~7)恐ろしかったのは女性たちも同じでしたが、このできごとを弟子たちに伝えようと、さっそく、出発しました。この事実を、話しに行かなければ! 女性たちは恐れながらも喜びに満ちて走り出しました。 しかし、彼女たちが見たものは、天使と空っぽのお墓です。復活のイエスさまを見たわけではありません。それでも、彼女たちは信じました。信じて走り出しました。 そんな彼女たちはしかし、このとき、最高の出会いを体験することになりました。そこに、復活されたイエスさまが現れたのでした。イエスさまはおっしゃいました。「おはよう。」 イエスさまは、この女性たちに向けて「おはよう」とおっしゃったのです。このあいさつのことば、ちょっと味わってみましょう。 みなさん、朝起きたとき、「おはよう」とか「おはようございます」というあいさつを交わすのは、とても気持ちのいいことではないでしょうか? あれはなぜなのでしょうか? 一日を始めるとき、その前にはもちろん眠っています。まぶたを閉じた、暗い世界の中にいます。 しかし、その眠りから覚めると、目の前に広がるのは、私たちがたしかに生きている、すばらしい世界です。そのすばらしい世界に招き合うことば、その世界に生きることを祝福し合うことば、それが「おはよう」であり、「おはようございます」なのではないでしょうか? だから、このあいさつは何にもまして気持ちのいいものなのではないでしょうか? イエスさまが言われたこの「おはよう」ということば、これをギリシャ語の原語の意味を調べたり、いろいろな訳の聖書をつき合わせたりして、ちょっと勉強してみました。するとこのイエスさまのおっしゃった「おはよう」ということばには、相当いろいろな意味が込められていることがわかりました。 まず、「平安があるように」という意味です。これは、ユダヤで朝夕問わず交わすあいさつ、「シャローム」ですが、イスラエル、ユダヤの歴史を見てみると、落ち着ける時というものはなかったように思えます。聖書の記録を見てみると、この世的な平安を享受し、楽しむ記述よりは、外敵にいかに攻められて苦労したか、という記述にあふれています。外から攻撃され、内には不安にさせるものに満ち、まさに内憂外患、しかし、そのような歴史において、イスラエルは、この世の移り変わりのような状況に左右されることのない、まことの平安を体験するに至りました。それは、いかなる状況においても変わらずに民を愛もて導く、神さまだけが与えてくださる平安です。 イエスさまが十字架につけられた、死なれた、葬られた、これは、イエスさまを神の子と信じ、従ってきた者たちにとっては、耐えがたいできごとです。しかしそれでも、神さまはその人の心に、まことの平安を与えてくださいます。なぜならば、イエスさまは死を超えて、よみがえってくださり、永遠のいのちの中に生きておられるお方だからです。 イエスさまの与えてくださる平安は、この世の与えるものとはちがいます。この世はどんなに頑張っても、変わらない平安を与えることはできません。変わらない平安を与えることのできる唯一のお方、それは、変わることのないお方だけです。変わることのないお方、それは、イエスさまです。 わたしがここにいるよ! もう恐れないで! いつまでも一緒だよ! 女性たちはこのイエスさまのおことばに、そしてご存在に、測り知れない平安を体験したことでしょう。そしていま私たちも、復活のイエスさまがともにいてくださることによって、この不確かな世において、測り知れない平安を体験することができるのです。 そしてイエスさまのこの「おはよう」というおことばは、英語に直訳すると、「ヘイル」という詩的な表現になります。これは、やあ! とか、ばんざい! とか、幸(さち)あれ! となります。わたしがよみがえったことは、めでたいことじゃないか! ばんざいと言ってくれ! このことを喜んでくれ! あなたはしあわせだ! そうおっしゃっているようです。 朝のあいさつはどんな顔ですればいいでしょうか? いかにも眠そうに、というよりも憂鬱そうに、「おはよう」と言うべきでしょうか? それともにこにこと笑顔いっぱいに「おはよう」と言うべきでしょうか? うちには娘がいますが、娘に笑顔で朝のあいさつをされると、何とも言えないやる気がわき上がってきます。そうか、僕たちは、この新しい日、祝福の日に招かれているのか! この一日をしっかり頑張ろう! そうなるのだから、あいさつというものはなかなか大事なものです。 あいさつというものは、相手を祝福することです。しかしこの祝福は、自分が祝福を体験していてこそ自然にできることです。イエスさまはどうでしょうか? 死とよみから帰り、それこそ読んで字のごとくよみがえり、愛する人たちの前に生きて姿を現すことができたことは、イエスさまにとって素晴らしい喜びだったのではないでしょうか? わたしは生きてあなたがたに会えた! わたしはうれしい! わたしは天の父の祝福を、一身に受けている! わたしはそれゆえに、この復活の朝、ばんざいと叫びたい! あなたたちも一緒に、この幸いを喜んでほしい! イエスさまのひとこと、おはよう、には、そのような意味も込められているわけです。 私たちはいま、大きな問題を抱えていないでしょうか? あるいは、やる気が出なくて苦しんではいないでしょうか? 一切をリセットして、新しい出発をくれる素晴らしいことば「おはよう」、イエスさまのごあいさつ「おはよう」の声を聞きましょう。 そして私たちも、イエスさまのこの「おはよう」のごあいさつに対し、「イエスさま、おはようございます」と返してみてはいかがでしょうか? これまで味わったこともないような、底知れぬ底力がわいてくるのを感じることができるはずです。 朝、祈りのうちに始めてごらんになっていただきたいのです。目が覚めたら、寝床にひざまずいて、ちょっと祈ってみてください。イエスさま、おはようございます、と言ってみてください。新しい朝をくださるイエスさまは、必ず新しい力、喜んで生きる力に満たしてくださいます。 イエスさまというお方は、変わることのない神さまでいらっしゃいます。それは、イエスさまがつねに新しいお方でいらっしゃる、ということを意味します。新しい朝、ということばがあるように、一日のうちで新しい時間は、朝です。新しい昼とか、新しい夜などとは、ふつう言いません。朝が新しいように、朝に実にしみじみ深い意味を込めた「おはよう」とあいさつされたイエスさまは、どこまでも新しいお方です。私たちはこのイエスさまの御前に、つねに新しい気持ちで立たせられるものです。 私たちは時に、過去の自分に捕らわれます。過去自分が犯してしまった罪にくよくよしてしまいます。しかしそんなとき、十字架の上ですべての罪を赦してくださり、そして復活してくださったイエスさまの前に、新しい気持ちで立つことです。私たちはイエスさまによって、完全に新しくされます。 あるいは、過去の栄光を思い起こし、それにくらべて自分は今、なんでこんなに落ちぶれてしまったのか、と、くよくよする方もいらっしゃるかもしれません。しかし、すべてを新しくしてくださるイエスさまの前では、過去にこだわる必要はありません。新しいいのちに生きておられるイエスさまは、すべてを新しくしてくださいます。私たちはイエスさまがともに歩んでくださることによって、これまで味わったこともないような、喜びに満ちた新しいいのちへと歩み出すことができます。 そのいのちに招くイエスさまのごあいさつ、それが「おはよう」です。イエスさまの「おはよう」のことばに、毎日励ましをいただきましょう。そして私たちも毎日、「イエスさま、おはようございます」と祈りのうちに告白し、イエスさまとともに歩む素晴らしい日々を歩んでまいりましょう。イエスさまは私たちがどのような状況にあったとしても、つねに、新しいいのちのうちに生かしてくださいます。信じて歩み出しましょう。

八つの幸いその八

聖書箇所;マタイの福音書5:10~12 メッセージ題目;八つの幸いその八 義のために迫害されている者  来週になりますと、復活祭です。復活祭は、キリストの復活をお祝いする、喜びに満ちた日です。私たちの教会も特別なお祝いをします。この日のために体調を整えて参加しようと、長らくお休みしていらっしゃった方々も楽しみにしておられます。ほんとうに、めでたい日です。  復活祭、それは私たちのために、キリストがよみがえってくださった日です。キリストは十字架の上に死なれましたが、それで終わりではありません。キリストはよみがえられたのです。私たち、キリストを受け入れた者たちも、キリストの復活にあずかって、永遠に滅びることのない者としていただきます。天国にて、キリストともに永遠のいのちをいただく者としていただけます。ゆえに、キリストの復活は何よりも素晴らしいものです。  しかし、この復活のすばらしさの前に、私たちはキリストの死にあずからなければなりません。キリストが、私たちのために十字架にかかって死んでくださったこと、その事実のゆえに、キリストの復活があることを忘れてはなりません。  本日から一週間は、受難週と申します。キリストの受難をおぼえる週です。その日に、この八つの幸いの最後、迫害について学ぶということも、とても意味のあることではないかと思います。  本日の箇所を、3つのポイントから学びたいと思います。  第一に、義のために迫害された人とは、第一にイエス・キリストです。  イエスさまは、この八つの幸いを説くにあたり、その最後に語られた幸いが「義のために迫害されること」であると語られました。それは、天国がその人のものだからだ、というわけです。  天国とは、神さまのものです。そして、この天国は、永遠にキリスト・イエスが王として受け継がれます。イエスさまが永遠の王なのです。その王であられるイエスさまが、義のために迫害されている人は天国を持つ、と語っていらっしゃるのです。  このようにお語りになるイエスさまは、この地上に生きておられた間、堂々たる王さまとして振る舞っていらっしゃったでしょうか? いいえ、むしろイエスさまのお姿は、みすぼらしいしもべのようでありました。しかも時の権力者たちは、イエスさまにひどい迫害を加えました。  時の権力者は、神のみこころを取り継ぐはずの宗教指導者たちでした。しかし彼らは、民衆を苦しめるだけ苦しめて、自分たちは特権階級を享受していました。人々から尊敬されることを当然のように見なして生きていました。  しかしイエスさまは、口先だけのそんな彼らの前で、神の権威によって教えを宣べられ、その教えがまことに神から来たものであることを示されるように、多くのみわざをおこなわれました。そのみわざは、医者にも見放されたような病気の者、社会から疎外されたような者たちに対して行われたものであり、神さまのいつくしみと愛に満ちたものでした。  しかし、宗教的な権力者たちは、このイエスさまを見て、聖書に預言された神の子がついに来られた、と、イエスさまについていくことをしませんでした。かえって、イエスさまが神の義を宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、イエスさまを疎ましく思いました。何度となく殺してやろうと謀議を巡らし、そしてついには弟子のユダの買収に成功し、十字架につけることまでしたのでした。  イエスさまはまさしく、神の義そのものの生き方を貫徹され、その結果、待つものは過酷な迫害の連続でした。その迫害は、十字架という、かぎりなくどす黒くて呪わしい姿にまでなりました。義のために迫害された第一の人、それは、この世界を造られ、人間をお造りになった創造主、イエスさまだったのです。人は、神の義そのものであられるイエスさまの生き方を、殺人というかたちをもって完全に否定し去ったのです。   それなら、全能なる神さまであられるイエスさまが、人間がこのような形でご自身を死に葬ることをご存じなかったのでしょうか? もちろんご存知でした。イエスさまは全知全能なるお方です。ならば、そうなると知っていてなおも御父がイエスさまをこの地上に送られたのは、なぜだったのでしょうか? その御父のみこころを、イエスさまがお受けになったのはなぜだったのでしょうか?  それは、復活、そして天国が、完全な従順を果たしたイエスさまの前に備えられていたからでした。イエスさまは、この地上の十字架だけを見つめておられたのではありません。イエスさまの目の前にあったのは、その迫害の先の天の御国、永遠の世界でした。  人の罪をさばかねばならない、この御父の義を果たすために、イエスさまはあらゆる迫害を甘受されました。イエスさまは十字架に死なれることによって、人がその罪ゆえに支払うべきいのちの代価を、御父にことごとく支払ってくださったのです。イエスさまが十字架の上で最後に語られたおことば「完了した」とは、いのちの代価を支払い終えた、という意味です。  この、御父の義が満足されるためにあらゆる迫害、実に十字架の死に至るまでをお受けになったイエスさまを思いましょう。私たちはこの地上でキリスト者として生きるならば、多くの苦しみを体験するかもしれません。しかしそのようなとき、まず私たちより先に、キリストが神の義を果たすために苦しみを受けられたことに思いを巡らしましょう。そして、イエスさまの十字架に感謝しましょう。  今週は受難週です。イエスさまの御苦しみのゆえに、私たちがどれほどいやされているか、神の恵みと愛をいただいているか、思い巡らし、感謝したいものです。  第二に、義のために迫害された人たちとは、みこころにかなった働きをした人たちです。  11節と12節をあらためてお読みします。……ありもしないことで悪口を浴びせる、みなさんにも経験がありませんでしょうか?  これはまず、イエスさまのもとにやってきたあらゆる群衆に語りかけていることです。彼らはこの機会に、イエスさまを救い主と受け入れて、イエスさまについて行きはじめた人たちです。そんな彼らから初代教会が起こされていくことを見越したうえで、イエスさまはこのみことばを語られたわけです。あなたがたは、わたしのゆえに、あらゆる悪口を浴びせられることになるでしょう。しかし、あなたがたは幸いです。あなたがたはこの地上で苦しい目に遭うかもしれませんが、やがて招き入れられる天国において、あなたがたの報いはとても大きいのですよ……と。  彼らは、聖書、今でいう旧約聖書の物語に接していたので、いにしえの預言者たちのことをよく知っていました。預言者とは、主のみことばを人々に取り継ぐ、神の器です。尊敬すべき、また尊重すべき存在です。  しかし彼らは、そのみことばをストレートに語ったゆえに、どれほどひどい迫害を受けたことでしょうか。「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤなど、その最たるものでしょう。中には、みことばを語り通して、殉教した者もいます。  それなら、迫害に遭ったり殉教したりする彼らのことを、そういう苦しい目に遭っているからと、私たちは愚か者扱いするでしょうか? いいえ、彼らの生き方を見て、私たちはむしろ、ますます、私たちの信じ受け入れているみことばは本物だと確かめるでしょうし、そのようにいのちをかけてみことばを伝え通す働き人を送られた神さまを、私たちはよりいっそうほめたたえるでしょう。  マタイの福音書、21章の33節から39節をお読みしましょう。ぶどう園の主人とは、父なる神さまです。収穫を得るために農夫たちのもとに送りつづけたしもべたちとは、父なる神さまの命(めい)を受けたしもべたちでした。それは預言者であり、祭司でありました。しかし、まことの神さまにお従いする道を、単なる人間的な利権と勘違いしているくせして、宗教的な装いをして権力の座に居座るような者たちは、彼ら主のしもべを思いきり迫害しました。そのような者たちは、ぶどう園の跡取り息子になぞらえらえたイエスさまが来られても、イエスさまを受け入れず、十字架の上に死なせました。  そう、この主のしもべたちは、イエスさまの十字架につながる人たちでした。彼らの受難は、イエスさまの受難を予告し、さらには、イエスさまにつながる人たちも迫害を受けることを予告したものでした。  彼ら旧約時代の主の働き人は、イエスさまの訪れを預言していました。そんな彼らは、イエスさまとともに力強く訪れる御国を、見たいと願いながらも見ることができませんでした。しかし、それで彼らの人生は終わったわけではありません。彼らは、その待望した御国に入れられ、いま、主とともに永遠の安息に入れられています。  これらのことは、このイエスさまのメッセージにより神の国にあずかり、主の働き人となる人たちにも当てはまります。彼らは、大いなる迫害を受けるようになります。その理由をイエスさまはこのみことばで「ありもしないことで」と語っていらっしゃいます。  キリスト者に対する迫害、それは「ありもしないことで」ということがその最たる理由ではないでしょうか。世の中の人たちが聖書の教えを批判することも、じっくり聖書を学んでみれば、誤解は必ず解けるものです。しかし、多くの場合、人々は誤解をあえて解こうとはせず、キリストの教えに攻撃のみを加えるものです。  先日私は、映画『パウロ』を鑑賞しました。ネロ皇帝による迫害下にあったローマで、キリスト者がどれほど残酷な扱いを受けたか、そのような中でパウロが、迫害する者たちにどれほどの赦しと愛を実践したか、という内容です。あの映画に描かれていたものは、キリストにお従いする者たちがこの世で体験するかぎりない不条理で、私はそれを見て大いに考えさせられました。この映画を観てしばらくの間は、これは聖徒たちに勧めるべきではないのでは、とさえ考えていました。しかし私は今日のメッセージを準備している間に、少しずつ考えが変わっていきました。勇気のある方は、機会があればぜひご覧いただきたいと思います。  あまりネタバレにならない程度に話しますが、そんな苦しみの極限にある彼らを支えたものは、天国の存在でした。彼らはこの世にてあらゆる苦しみを味わいましたが、やがて天国に迎え入れられる、その信仰により、彼らがこの世の迫害を耐えたと言ってもいいでしょう。  いえ、その初代教会に続く歴史において、なおもイエスさまのあとを追って迫害と殉教に服した人は、古今東西、枚挙にいとまがありません。その中でも、水戸刑務所で太平洋戦争中の1943年に殉教した斎藤保太郎(さいとう やすたろう)先生のことは、茨城の人として覚えておきたいものです。また、私を韓国語ならびに韓国事情専攻へと導いたものは、日本の支配下において国家神道が強要される中でキリストへの信仰を守り通した数多くの牧師先生の存在でした。その中でも、獄中で激しい拷問を加えられて1944年に殉教した朱基徹(チュ・キチョル)先生のことは、ぜひ覚えていただければと思います。朱牧師は、私にとっては神学校の誇るべき先輩です。この不肖の後輩がこの茨城の地で主の働きにあずかれているのも、斎藤先生や朱先生のような素晴らしい先輩方の殉教の血が流されたゆえと確信いたします。その歩みは私だけではなく、ここに集う私たちすべての歩みにつながっていると確信いたします。  しかし私たちは、そのいにしえのしもべたちが素晴らしかった、私たちにこんな真似はできない、などと思う必要はありません。そのような主の素晴らしいしもべを選ばれ、立てられ、用いられるのは、どこまでも神さまのご主権に属することです。人ももちろん素晴らしいですが、私たちはまず、そのように人をご自身のご栄光を現す働きに用いてくださる、神さまの御名をほめたたえてまいりたいものです。  第三のポイントです。義のために迫害されている人たちとは、今この世にもいる、幸いな人たちです。  イエスさまのこのメッセージは、第一にこの時代の

八つの幸いその七 

聖書箇所;マタイの福音書5章9節 メッセージ題目;八つの幸いその七 平和をつくる者  貴い平和……平和を愛する気持ちは、だれであれ同じでしょう。平和がきらいという人はいないはずです。平和の反対は、戦争でしょう。その戦争をする人も、けしかける側も、それは平和のためだと言ってはばからないと思います。  しかし、それが実際に、「平和をつくり出す」働きに結局は実を結んでいないことを見ると、平和をつくり出すことはなんと難しいことかと痛感させられます。 聖書は、神さまの大事なみこころとして、平和を語ります。しかし、聖書の語る「平和」とは、人類一般がいだいている普遍的な平和の概念と重なる部分がある一方、完全に同じものではありません。 それが、私たちキリスト者が生半可な気持ちで平和を語ることの難しさにつながっているのですが、私たちにとって、それでは真の平和とは何でしょうか?  コロサイ人への手紙1章20節をご覧ください。この箇所は平和を語っています。お読みします。……この箇所からわかることは、神さまは、イエスさまの十字架の血によって私たちに平和をもたらしてくださった、ということです。  私たちは本来、神さまに敵対する道を選んでいました。神さまのきよいみこころよりも、罪の道を歩むことを好んでいました。神さまはその罰として、私たちがなすがままにされました。こうして私たちは、自分たちの好むことをすればするほど、けがれと破壊を経験するようになってしまいました。  しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちが滅びるままにしてはおかれませんでした。私たちがこのままでは罪のゆえに滅びてしまう、そんな私たちのことを憐れみ、私たちのすべての罪を、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。イエスさまは私たちのすべての罪を、十字架にて背負ってくださいました。イエスさまが十字架によって私たちのすべての罪を赦してくださったと信じるならば、神さまに敵対していた私たちは、神さまと和解していただけます。この神さまとの永遠の和解、すなわち平和をもたらしてくださったもの、それがイエスさまの十字架の血です。  このことから、神さまが私たちに定めてくださったまことの平和は、御子イエスさまの十字架の血によるものであることがわかります。まず、神さまとの和解、これこそが私たちのうちに、まことの平和を保つための道です。イエスさまの十字架の血によって神さまと和解させられたどうしが、同じ神さまを見上げ、そのことによってひとつにさせられるのです。  しかし、これは頭でわかっているだけでは不十分です。それではただ単に「平和を愛する者」という、平凡なレベルで終わってしまいます。神さまが私たちに望んでいらっしゃるのは、「平和をつくり出す者」となることです。  そういう「平和をつくり出す者」が「神の子と呼ばれる」、これはどういうことでしょうか? まず、「神の子」とは、本来、イエスさまです。私たちは被造物ではありますが、本来の私たちの姿を考えてみますと、「罪人」でこそあれ、イエスさまと同じレベルでの「神の子」と呼ぶのは、無理があります。創造主と被造物ほどのちがいがあります。まさしく、天と地のちがいです。そのような被造物は、イエスさまのような意味での「神の子」ではありえません。  しかし、そのような罪人であった私たちは、イエスさまを受け入れることにより、神さまの子どもにしていただきました。神さまの子どもとして、イエスさまとともに来たるべき御国を受け継ぎ、御国の王とならせていただく約束をいただきました。私たちはそういうわけで、イエスさまを受け入れている以上、「神の子」にしていただいているのです。 そのようにして私たちは「神の子」にしていただいたわけですが、問題はそんな私たちが「神の子」と呼ばれるにふさわしいかどうかです。  もし、イエスさまを受け入れたクリスチャンであることをもって自任していたとしても、その人がとても証しにならない生活をしていたとしたらどうでしょうか? そういう人のことを私たちは、「神の子」と呼びたいと思うでしょうか?   とは申しましても、それならば、と、逆に私たちが証しを立てる生活をすることに集中したとして、そんな私たちのことを「神の子」と呼んでくれる人が、いったいどれくらいいるでしょうか? 私たちはこうして地上でクリスチャンとしての生活をしていて、いろいろな素晴らしいクリスチャンのうわさを見聞きすると思いますが、そういう素晴らしいクリスチャンのことを、私たちは臆面もなく「神の子」と呼んだりするでしょうか?  とすると、「神の子と呼ばれる」ということは、単純な呼称の問題ではないことがわかります。要は、神の子と呼ばれるにふさわしいだけの、行いの実を結んでいるかどうかということが大事なわけです。  そこで、その基準となるものは何か、ということになります。それが「平和をつくり出しているかどうか」ということです。  さきほども申しましたが、神さまの御目から見ての平和とは、イエスさまの十字架の血によることです。そうなると、まずは自分自身がイエスさまの十字架の血による罪の赦しをいただいて、神さまと和解させられる、すなわち神さまとの平和へと導き入れられることが必要となります。  そこから、平和をつくり出すのです。神さまがイエスさまの十字架によってつくり出してくださった平和をもって、今度は自分が人々と平和をつくり出すのです。  こういう前提で私たちのキリスト信仰を見てみると、武力のようなもので異民族や異教の人々を制圧することでキリストを伝えようとする試みは、何ら意味を持たないことになります。もちろん、武力によってキリストを伝えようとする試みの結果、摂理のようにしてキリストが伝わるということもなきにしもあらずではあるのですが、私たちはそれを一般的なものととらえてはなりません。私たちからキリストが伝わるのは、どこまでも、私たちにとっての平和をつくり出す努力から生まれるものであるべきです。  しかしこうなると、異教の人たちですとか、社会主義の人たちですとか、イエスさまをとおして神さまに至る道を認めない人たちとの間に平和を保つにはどうすればいい、という、難しい問題に私たちは出くわします。異教という点でいえば、多くの日本人にとって、私たちのキリスト信仰は異教のように映ることでしょう。私たちの隣人というミクロの関係から、世界の国や民族というマクロの関係に至るまで、少なくとも私たちひとりひとりは、どうすれば平和をつくり出すことができるでしょうか?  私たちは、ことばだけでキリストを伝えようとしてはだめです。おそらく私たちがことばでキリストを伝えようとするならば、多くの人は、私たちに対して、というよりもキリストに対して、反発心をいだくしかないでしょう。それは、自分の信じている神ですとか、自分の持っている主義がいちばんと考えているからです。 私たちはそういう人たちに対し、こちらが正しい、などと、頭ごなしに神さまを伝えることをしても反発を招くだけです。  そこで私たちは、イエスさまのおっしゃっているみことばに耳を傾ける必要があります。マタイの福音書、5章13節から16節です。  この時代の塩というものは、岩塩です。石の中から塩気のある必要な部分を削り取ったら、あとはただの石です。役に立たないから、道端に捨てるしかありません。塩は、腐敗を止める働きをします。また、食べ物に味をつけます。ヨブ記にもありますが、味のない食べ物は食べられない、まるで腐った食べ物のようだ、と語られています。それを食べられるようにするのが塩の役割です。これで食べ物は腐ることがなく、人の栄養になります。  腐る、という点では、罪人たちの生きるこの世も同様です。この腐敗を何とかするには、人が神さまのみことばに従って生きる以外にありません。塩は、大量に使わなくても、ほんのわずかで味付けをすることができ、また、腐敗を食い止めることができます。同じように、私たちクリスチャンはわずかの存在かもしれませんが、私たちがきちんと機能しているならば、この世は腐敗することがないのです。  そのように、世を腐敗させない生き方を、イエスさまはまた「あなたがたは世の光です」とも表現されました。ほんのわずかの光で、暗やみは明るくなります。その光を、私たちは升の下にわざわざ入れて生きることはありません。升の下に隠れて生活することは、謙遜なのでも奥ゆかしいのでもありません。御霊の与えてくださったともしびは、升の下に入れてしまったら消えてしまうのです。御霊を消してはなりません。私たちは、人々に見えるところにともしびを掲げ、煌々と照らすことが求められています。  その、光を輝かせる生き方は、私たちの生き方を通じて、私たちの主でいらっしゃる天の父なる神さまの御名を、私たちの周りの人々がほめたたえるという形で実を結んでしかるべきです。ここに、私たちの信仰が、行いという形で実を結ぶ必要性が出てきます。  間違ってはならないことですが、私たちの救いは、よい行いや宗教的な行為といった、なんらかの行いで手に入れるものではありません。私たちは何一つ、神さまに認められるような行いなどできない存在です。それが、救っていただいたのは、ひとえに神さまの一方的なあわれみによるものです。救いにおいて、私たちの行いの差し挟まれる余地などありません。  しかし、救っていただいたならば、私たちは神さまとの関係に生きる者に変えられました。私たちが生活の中で実を結ぶべき良い行いを、神さまご自身が私たちひとりひとりのために備えてくださいました。私たちは神さまとの関係を深めれば深めるほど、このよい行いの実を生活の中で結びたいと切に願うようになり、そのために祈るようになります。 そうして、神さまはその祈りに応えてくださり、少しずつ、よい行いが生活の中で結ばれていくようになります。これは、救ってくださった神さまを証しする生活となります。  そういう私たちの最もよい行い、それは何でしょうか? それは、普段のよい行いのうちに、人々を神さまと和解させるべく、つまり神さまとの平和に導き入れるべく、イエスさまを伝えることです。これは、牧師ですとか、宣教師といった、特別なフルタイムの働き人でなければできないことではありません。  よい行いをすることに、特に召命があるはずがありません。私たちがよくない生活におぼれているならば、それは私たちを救ってくださった神さまの栄光にならないことであり、人々の前で神さまの光を輝かせていることにはなりません。そういう生き方をあえて止めずにいるようなことは、私たちにはできないでしょう。  だから私たちは、みことばの教えをその生活をもって飾るべく、みこころにかなったよい行いを目指していきます。しかしその生活の究極の目的は何でしょうか? 私たちのように生きたい、と願う人が、周りに現れるように、証しの生活を立てることではないでしょうか?  それなら私たちは、ほんとうの意味で人々の間にキリストの平和をつくり出すべく、取り組んでいく必要があるはずです。みことばをお読みいただければと思います。ペテロの手紙第一、3章の13節から16節です。  ……そうです。よい行いをもって、私たちの救いの確かさを立証することが勧められています。柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって……私たちが信じていることがまことであることは事実ですが、だからといって、むりやり上から目線で、さあ、信じなさい、と迫るのではありません。相手をどこまでも尊重して、へりくだって、仕えるように……私たちクリスチャンは、いつでも敵対する人たちに取り囲まれています。しかし、彼らは、なぜ私たちのことを敵対する存在と見なすべきか、わからないのがほんとうのところです。なぜ私たちがそんなにも嫌うべき存在なのか、説明しようにもできないのです。  そういう人には、私たちの信じているお方がどんなに素晴らしいお方か、へりくだってきちんと説明するならば、必ずわかってもらえるのです。いえ、その場ではすぐにわかってくれないかもしれませんが、みことばの約束は、わかってくれる、というものです。私たちはわからずやの相手を前にして、涙とともにみことばの種を蒔きつづけ、それが無駄なことのように思えてならないかもしれませんが、私たちの思いと、みことばの約束と、どちらが真実でしょうか? 私たちにはできるのです。私たちは、平和の福音を宣べ伝えることによって、私たちの周りに平和をつくり出していくことが、必ずできます。あきらめないでいただきたいのです。  もちろん、この「弁明できる用意」が整うためには、私たちは相当にみことばを学ぶ必要があるでしょう。時には、提示する上で必要なみことばを暗唱することも必須です。 しかし、私たちのうちにイエスさまがおられる以上、私たちは必ずできる、と信じていただきたいのです。賜物はそれぞれでしょう。福音を提示するための賜物も、それぞれの個性に合わせていろいろであるかもしれません。しかし、福音を提示すること、すなわち伝道すること自体は、賜物ではありません。クリスチャンである以上、必ずすべきことです。というより、御霊の働きによって、必ずできることです。  私たちはそのようにして、人々を神さまと和解させる、平和へと導く働きをしていくことによって、神の子なるイエスさまがわがうちに働いていると言えるにふさわしい生き方をしていけるようになります。みなさん、平和をつくり出す者として、用いられたいですか? 反戦活動も素晴らしいでしょう。身の周りの仲が悪かった人と仲直りすることも必要でしょう。しかし何よりも私たちにとって必要なことは、人々を神さまとの平和へと導く、そのようにして平和をつくり出す働きをしていくことです。そのために私たちは、日々みことばを学び、祈りつつ備えてまいりましょう。この積み重ねが、この世界にまことの平和を実現する一歩となります。  もちろん、それは簡単な歩みではありません。表面的にだけイエスさまを信じさせたところで、世界がどうやって平和に満たされるでしょうか? 平和をつくる歩みは、私たちの生活が根本から変えられるところから始まり、そこから、周りの人たちの歩みがもろとも変えられていくことによって成し遂げられます。そこには多くの人の反対があるでしょう。また抵抗にあうでしょう。しかし、私たちはあきらめてはなりません。あきらめずに神との平和を保ち、その平和によって人を神との平和に導く人には、大いなる祝福があります。  私たちは、だれのことを神さまとの和解に導きたいでしょうか? ともに祈りましょう