聖書箇所;マタイの福音書5章9節
メッセージ題目;八つの幸いその七 平和をつくる者
貴い平和……平和を愛する気持ちは、だれであれ同じでしょう。平和がきらいという人はいないはずです。平和の反対は、戦争でしょう。その戦争をする人も、けしかける側も、それは平和のためだと言ってはばからないと思います。
しかし、それが実際に、「平和をつくり出す」働きに結局は実を結んでいないことを見ると、平和をつくり出すことはなんと難しいことかと痛感させられます。
聖書は、神さまの大事なみこころとして、平和を語ります。しかし、聖書の語る「平和」とは、人類一般がいだいている普遍的な平和の概念と重なる部分がある一方、完全に同じものではありません。
それが、私たちキリスト者が生半可な気持ちで平和を語ることの難しさにつながっているのですが、私たちにとって、それでは真の平和とは何でしょうか?
コロサイ人への手紙1章20節をご覧ください。この箇所は平和を語っています。お読みします。……この箇所からわかることは、神さまは、イエスさまの十字架の血によって私たちに平和をもたらしてくださった、ということです。
私たちは本来、神さまに敵対する道を選んでいました。神さまのきよいみこころよりも、罪の道を歩むことを好んでいました。神さまはその罰として、私たちがなすがままにされました。こうして私たちは、自分たちの好むことをすればするほど、けがれと破壊を経験するようになってしまいました。
しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちが滅びるままにしてはおかれませんでした。私たちがこのままでは罪のゆえに滅びてしまう、そんな私たちのことを憐れみ、私たちのすべての罪を、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。イエスさまは私たちのすべての罪を、十字架にて背負ってくださいました。イエスさまが十字架によって私たちのすべての罪を赦してくださったと信じるならば、神さまに敵対していた私たちは、神さまと和解していただけます。この神さまとの永遠の和解、すなわち平和をもたらしてくださったもの、それがイエスさまの十字架の血です。
このことから、神さまが私たちに定めてくださったまことの平和は、御子イエスさまの十字架の血によるものであることがわかります。まず、神さまとの和解、これこそが私たちのうちに、まことの平和を保つための道です。イエスさまの十字架の血によって神さまと和解させられたどうしが、同じ神さまを見上げ、そのことによってひとつにさせられるのです。
しかし、これは頭でわかっているだけでは不十分です。それではただ単に「平和を愛する者」という、平凡なレベルで終わってしまいます。神さまが私たちに望んでいらっしゃるのは、「平和をつくり出す者」となることです。
そういう「平和をつくり出す者」が「神の子と呼ばれる」、これはどういうことでしょうか? まず、「神の子」とは、本来、イエスさまです。私たちは被造物ではありますが、本来の私たちの姿を考えてみますと、「罪人」でこそあれ、イエスさまと同じレベルでの「神の子」と呼ぶのは、無理があります。創造主と被造物ほどのちがいがあります。まさしく、天と地のちがいです。そのような被造物は、イエスさまのような意味での「神の子」ではありえません。
しかし、そのような罪人であった私たちは、イエスさまを受け入れることにより、神さまの子どもにしていただきました。神さまの子どもとして、イエスさまとともに来たるべき御国を受け継ぎ、御国の王とならせていただく約束をいただきました。私たちはそういうわけで、イエスさまを受け入れている以上、「神の子」にしていただいているのです。
そのようにして私たちは「神の子」にしていただいたわけですが、問題はそんな私たちが「神の子」と呼ばれるにふさわしいかどうかです。
もし、イエスさまを受け入れたクリスチャンであることをもって自任していたとしても、その人がとても証しにならない生活をしていたとしたらどうでしょうか? そういう人のことを私たちは、「神の子」と呼びたいと思うでしょうか?
とは申しましても、それならば、と、逆に私たちが証しを立てる生活をすることに集中したとして、そんな私たちのことを「神の子」と呼んでくれる人が、いったいどれくらいいるでしょうか? 私たちはこうして地上でクリスチャンとしての生活をしていて、いろいろな素晴らしいクリスチャンのうわさを見聞きすると思いますが、そういう素晴らしいクリスチャンのことを、私たちは臆面もなく「神の子」と呼んだりするでしょうか?
とすると、「神の子と呼ばれる」ということは、単純な呼称の問題ではないことがわかります。要は、神の子と呼ばれるにふさわしいだけの、行いの実を結んでいるかどうかということが大事なわけです。
そこで、その基準となるものは何か、ということになります。それが「平和をつくり出しているかどうか」ということです。
さきほども申しましたが、神さまの御目から見ての平和とは、イエスさまの十字架の血によることです。そうなると、まずは自分自身がイエスさまの十字架の血による罪の赦しをいただいて、神さまと和解させられる、すなわち神さまとの平和へと導き入れられることが必要となります。
そこから、平和をつくり出すのです。神さまがイエスさまの十字架によってつくり出してくださった平和をもって、今度は自分が人々と平和をつくり出すのです。
こういう前提で私たちのキリスト信仰を見てみると、武力のようなもので異民族や異教の人々を制圧することでキリストを伝えようとする試みは、何ら意味を持たないことになります。もちろん、武力によってキリストを伝えようとする試みの結果、摂理のようにしてキリストが伝わるということもなきにしもあらずではあるのですが、私たちはそれを一般的なものととらえてはなりません。私たちからキリストが伝わるのは、どこまでも、私たちにとっての平和をつくり出す努力から生まれるものであるべきです。
しかしこうなると、異教の人たちですとか、社会主義の人たちですとか、イエスさまをとおして神さまに至る道を認めない人たちとの間に平和を保つにはどうすればいい、という、難しい問題に私たちは出くわします。異教という点でいえば、多くの日本人にとって、私たちのキリスト信仰は異教のように映ることでしょう。私たちの隣人というミクロの関係から、世界の国や民族というマクロの関係に至るまで、少なくとも私たちひとりひとりは、どうすれば平和をつくり出すことができるでしょうか?
私たちは、ことばだけでキリストを伝えようとしてはだめです。おそらく私たちがことばでキリストを伝えようとするならば、多くの人は、私たちに対して、というよりもキリストに対して、反発心をいだくしかないでしょう。それは、自分の信じている神ですとか、自分の持っている主義がいちばんと考えているからです。
私たちはそういう人たちに対し、こちらが正しい、などと、頭ごなしに神さまを伝えることをしても反発を招くだけです。
そこで私たちは、イエスさまのおっしゃっているみことばに耳を傾ける必要があります。マタイの福音書、5章13節から16節です。
この時代の塩というものは、岩塩です。石の中から塩気のある必要な部分を削り取ったら、あとはただの石です。役に立たないから、道端に捨てるしかありません。塩は、腐敗を止める働きをします。また、食べ物に味をつけます。ヨブ記にもありますが、味のない食べ物は食べられない、まるで腐った食べ物のようだ、と語られています。それを食べられるようにするのが塩の役割です。これで食べ物は腐ることがなく、人の栄養になります。
腐る、という点では、罪人たちの生きるこの世も同様です。この腐敗を何とかするには、人が神さまのみことばに従って生きる以外にありません。塩は、大量に使わなくても、ほんのわずかで味付けをすることができ、また、腐敗を食い止めることができます。同じように、私たちクリスチャンはわずかの存在かもしれませんが、私たちがきちんと機能しているならば、この世は腐敗することがないのです。
そのように、世を腐敗させない生き方を、イエスさまはまた「あなたがたは世の光です」とも表現されました。ほんのわずかの光で、暗やみは明るくなります。その光を、私たちは升の下にわざわざ入れて生きることはありません。升の下に隠れて生活することは、謙遜なのでも奥ゆかしいのでもありません。御霊の与えてくださったともしびは、升の下に入れてしまったら消えてしまうのです。御霊を消してはなりません。私たちは、人々に見えるところにともしびを掲げ、煌々と照らすことが求められています。
その、光を輝かせる生き方は、私たちの生き方を通じて、私たちの主でいらっしゃる天の父なる神さまの御名を、私たちの周りの人々がほめたたえるという形で実を結んでしかるべきです。ここに、私たちの信仰が、行いという形で実を結ぶ必要性が出てきます。
間違ってはならないことですが、私たちの救いは、よい行いや宗教的な行為といった、なんらかの行いで手に入れるものではありません。私たちは何一つ、神さまに認められるような行いなどできない存在です。それが、救っていただいたのは、ひとえに神さまの一方的なあわれみによるものです。救いにおいて、私たちの行いの差し挟まれる余地などありません。
しかし、救っていただいたならば、私たちは神さまとの関係に生きる者に変えられました。私たちが生活の中で実を結ぶべき良い行いを、神さまご自身が私たちひとりひとりのために備えてくださいました。私たちは神さまとの関係を深めれば深めるほど、このよい行いの実を生活の中で結びたいと切に願うようになり、そのために祈るようになります。
そうして、神さまはその祈りに応えてくださり、少しずつ、よい行いが生活の中で結ばれていくようになります。これは、救ってくださった神さまを証しする生活となります。
そういう私たちの最もよい行い、それは何でしょうか? それは、普段のよい行いのうちに、人々を神さまと和解させるべく、つまり神さまとの平和に導き入れるべく、イエスさまを伝えることです。これは、牧師ですとか、宣教師といった、特別なフルタイムの働き人でなければできないことではありません。
よい行いをすることに、特に召命があるはずがありません。私たちがよくない生活におぼれているならば、それは私たちを救ってくださった神さまの栄光にならないことであり、人々の前で神さまの光を輝かせていることにはなりません。そういう生き方をあえて止めずにいるようなことは、私たちにはできないでしょう。
だから私たちは、みことばの教えをその生活をもって飾るべく、みこころにかなったよい行いを目指していきます。しかしその生活の究極の目的は何でしょうか? 私たちのように生きたい、と願う人が、周りに現れるように、証しの生活を立てることではないでしょうか?
それなら私たちは、ほんとうの意味で人々の間にキリストの平和をつくり出すべく、取り組んでいく必要があるはずです。みことばをお読みいただければと思います。ペテロの手紙第一、3章の13節から16節です。
……そうです。よい行いをもって、私たちの救いの確かさを立証することが勧められています。柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって……私たちが信じていることがまことであることは事実ですが、だからといって、むりやり上から目線で、さあ、信じなさい、と迫るのではありません。相手をどこまでも尊重して、へりくだって、仕えるように……私たちクリスチャンは、いつでも敵対する人たちに取り囲まれています。しかし、彼らは、なぜ私たちのことを敵対する存在と見なすべきか、わからないのがほんとうのところです。なぜ私たちがそんなにも嫌うべき存在なのか、説明しようにもできないのです。
そういう人には、私たちの信じているお方がどんなに素晴らしいお方か、へりくだってきちんと説明するならば、必ずわかってもらえるのです。いえ、その場ではすぐにわかってくれないかもしれませんが、みことばの約束は、わかってくれる、というものです。私たちはわからずやの相手を前にして、涙とともにみことばの種を蒔きつづけ、それが無駄なことのように思えてならないかもしれませんが、私たちの思いと、みことばの約束と、どちらが真実でしょうか? 私たちにはできるのです。私たちは、平和の福音を宣べ伝えることによって、私たちの周りに平和をつくり出していくことが、必ずできます。あきらめないでいただきたいのです。
もちろん、この「弁明できる用意」が整うためには、私たちは相当にみことばを学ぶ必要があるでしょう。時には、提示する上で必要なみことばを暗唱することも必須です。
しかし、私たちのうちにイエスさまがおられる以上、私たちは必ずできる、と信じていただきたいのです。賜物はそれぞれでしょう。福音を提示するための賜物も、それぞれの個性に合わせていろいろであるかもしれません。しかし、福音を提示すること、すなわち伝道すること自体は、賜物ではありません。クリスチャンである以上、必ずすべきことです。というより、御霊の働きによって、必ずできることです。
私たちはそのようにして、人々を神さまと和解させる、平和へと導く働きをしていくことによって、神の子なるイエスさまがわがうちに働いていると言えるにふさわしい生き方をしていけるようになります。みなさん、平和をつくり出す者として、用いられたいですか? 反戦活動も素晴らしいでしょう。身の周りの仲が悪かった人と仲直りすることも必要でしょう。しかし何よりも私たちにとって必要なことは、人々を神さまとの平和へと導く、そのようにして平和をつくり出す働きをしていくことです。そのために私たちは、日々みことばを学び、祈りつつ備えてまいりましょう。この積み重ねが、この世界にまことの平和を実現する一歩となります。
もちろん、それは簡単な歩みではありません。表面的にだけイエスさまを信じさせたところで、世界がどうやって平和に満たされるでしょうか? 平和をつくる歩みは、私たちの生活が根本から変えられるところから始まり、そこから、周りの人たちの歩みがもろとも変えられていくことによって成し遂げられます。そこには多くの人の反対があるでしょう。また抵抗にあうでしょう。しかし、私たちはあきらめてはなりません。あきらめずに神との平和を保ち、その平和によって人を神との平和に導く人には、大いなる祝福があります。 私たちは、だれのことを神さまとの和解に導きたいでしょうか? ともに祈りましょう