私たちも同じ家族
聖書箇所;エペソ人への手紙2:11~22 メッセージ題目;私たちも同じ家族 何度かこのメッセージの時間にお話ししていますが、私は高校生の頃、アーサー・ホーランドという宣教師から多大な影響を受けました。 アーサーは、その時代の日本のキリスト教会に、大きな流れをつくる役割を確実に担っていました。90年代前半、日本のキリスト教会は、全国規模で「リバイバル」ということばを合言葉に、燃えに燃えつつありました。私は、その流れの中で、新宿駅前で信号機によじ登るようなスタイルで路傍伝道をしたり、高さ3メートルの十字架を担いで8人の男たちとともに日本列島を縦断したりと、とにかく過激、そして体育会系のノリで宣教を展開するアーサーを心底カッコいいと思い、そんな自分になれればと、アーサーの所属団体であるキャンパス・クルセードに入って、伝道活動をしたり、クリスチャンとしての訓練を受けたりしていました。 そうしているうちに、私はアーサーをアイドルとするよりも、むしろ自分が燃えてイエスさまを伝えることに、はるかに確信を持つようになりました。キャンパス・クルセードの公式伝道ブックレットの「四つの法則」を使って伝道できる人はだれか、鵜の目鷹の目になっていました。また私は、「ジェリコジャパン」ですとか、「リバイバル甲子園ミッション」ですとか、「ビリー・グラハム東京大会」ですとか、そういう何千人、何万人の規模の大会にも、せっせと足を運びました。友達を連れていくこともしました。 今思えば、そのように「燃える」ムーブメントに身を投じていたのは、100年以上宣教活動が続いていても一向に成長しない日本の教会に対して、一種の危機意識をいだいていたからではないかと思います。そして私は、感情的に高揚させようとしたり、一定の伝道プログラムを身に着けようとしたりすることで、日本の教会成長の公式といいますか、定理のようなものを見いだし、それに乗っかっていこうとしていたのだと思います。しかし、リバイバルと呼べるようなものは、なかなか訪れることはありませんでした。もちろん、私の経験したことは無意味ではなかったばかりか、その後の信仰の姿勢を形づくるうえで大きな要素となってはくれましたが、そうして熱心になることは、リバイバルに対する私の飢え渇きをほんとうの意味で満たしてはくれませんでした。 本日学びますみことばは、そのような葛藤の中にあり、日本ではなく、韓国の神学校で学ぶことを決意し、その入学試験のために韓国に行ったとき、ひとり聖書を読んでいて、示されたみことばです。やはり飢え渇きというものは、みことばによってのみ満たすことができるものでした。そういうわけで私にとって、とても思い出深い箇所でありますが、まずはみことばの解き明かしから語らせていただきたいと思います。 この箇所は、過去、現在、未来の、三つの時制で語ることができます。まずは「過去」からです。過去、彼らエペソのクリスチャンたちは、とても悲惨な状態にありました。 11節、12節をお読みします。……福音が伝えられ、それを信じ受け入れる前のエペソの人たちの状態を、パウロは語ります。 それは、どのような状態だったのでしょうか? まず彼らは、割礼を施されていない者でした。割礼は、創造主なる神さまとの契約のうちにあるというしるしに、男子が性器の包皮を切り取る儀式で、そのように肉体に痕跡を残しているということは、まさしくイスラエル、ユダヤという、神の民であることの証しでした。尾籠なことを申しますが、男性は立って用を足すわけで、そのたびに包皮の切り取られた性器を見るわけで、否が応でも、そのユダヤ人の男性が、自分は神の民であるということを思い起こす仕掛けであると言えます。きわめてユニークな風習であります。 そういうイスラエル、ユダヤにしてみれば、割礼を受けていないということは、イコール、神の民でない、はなはだしくは神に敵対する、憎むべき存在、ということになります。少年ダビデが巨人ゴリアテと闘ったとき、ダビデはゴリアテのことを、無割礼のペリシテ人と呼んで闘いに赴いたわけですが、割礼か無割礼かということは、神の民にとってそれほど重要なことであるわけです。そしてもともとの神の民イスラエル、ユダヤからしてみれば、エペソの人たちは、無割礼の異邦人の群れです。 また、エペソの人たちは、「キリストから離れ」とあります。道であり、真理であり、いのちであるお方、御父に至る唯一の道なるお方、このお方に出会うことなしに、どのようにしてまことの神さまを信じることができる世でしょうか? 約束の契約については他国人、つまり、神の民として、神さまが契約を結んでくださった民族ではない、というわけです。家であれ車であれ、売主と買主の契約というものをとおしてはじめて買主の手に入るように、契約によって神さまは人に、神の民としての市民権を与えられます。イエスさまに出会っていないということは、アブラハムと交わされた契約のまことの成就である、イエスさまの十字架の血潮という契約などそもそも関係ないわけで、そういう者であるならば、いったいどうやって創造主なる神さまに出会うことができるでしょうか。まことの望みを与えてくださる神さまに出会うことができるでしょうか。 ただ、彼らは、偶像にすぎないアルテミスを崇拝することで、宗教心を満足させるのが精いっぱいで、それではとてもまことの神さまに出会うことなど叶いませんでした。 異邦人とは、そのようなかぎりなく悲惨な状況にある存在です。このような存在に、救いはあるのでしょうか? そこで「現在」を見てみましょう。彼らエペソの人たちは、キリスト・イエスによって神の民とされました。 ひとつ前のみことばの中で、「キリストから遠く離れ」ということばはかぎになります。キリストとは、道であり、真理であり、いのちであるお方です。このキリストを通してでなければ、父なる神さまに出会うことはありません。 しかし、ほんとうのことを言うと、キリストから遠く離れていたのは、ユダヤ人も同じでした。我らこそはメシア待望の民、という自負心をいだいていた彼らでしたが、そんな彼らはイエスさまをキリストと認めず、十字架につけました。彼らもほんとうの意味でキリストに出会っていなかったのでした。 しかし、キリスト・イエスの十字架を信じることにより神さまとの和解に導かれる、その信仰は、ユダヤ人から始まりました。ペテロの説教で悔い改め、ほんとうの意味で神の民になった人たちは大いに増やされ、エルサレムに教会が形成されました。この、キリストにつくユダヤ人と同じように、異邦人ゆえにまことの神に対する望みのなかったエペソの人たちも、キリスト・イエスの十字架を信じる信仰へと導かれました。 13節をご覧ください。「近い者となりました」とあります。だれと近い者となったのでしょうか? それは、外見上の割礼によらず、イエスさまへの信仰によってまことの神の民とされたユダヤ人であり、そしてそれ以上に、そのように救いに導いてくださった、神さまに近い者とされた、ということです。もはや以前のような、神さまからも神の民からも無関係な、悲惨な存在ではなくなったのでした。 14節から16節をお読みします。この箇所の主語はどなたでしょうか? そうです、キリストです。言うまでもなく、ユダヤ人たちが思い描いていたようなキリストではなく、イエス・キリストです。イエスさまは十字架にお掛かりになることで、イエスさまを信じる者を神さまと和解させてくださり、そのようにして、ご自身をとおして神さまに近づく者どうしを、和解に導いてくださいました。お互いの間に存在していた敵意も、滅ぼしてくださったのでした。 平和をつくる者は幸いです、とイエスさまはおっしゃいました。それはやはり、平和のきみなるイエスさまをともに信じる信仰によってこそ、初めて可能となることです。私たち人間は平和を求めながらも、多くの場合、国家や民族、部族の間に不和や対立が存在するものだということは、残念ながら認めざるを得ません。 世界のさまざまな人たちは、そのような世界において、平和をつくる働きに献身しています。それはとても素晴らしいことです。では、平和をつくる者は幸いです、とイエスさまに言われている私たちは、どのようにして平和をつくる働きに参与するのでしょうか? それは、イエスさまを信じる者どうしで、手に手を携えるところから始まるのではないでしょうか? そのようにして和解に導かれ、敵意が滅ぼされるだけではありません。17節をご覧ください。 ……ユダヤはたしかにまことの神さまに近い存在ですが、ほんとうの意味でイエスさまの福音を伝えられていたわけではありません。まことの神さまから遠い存在の異邦人の場合はなおさらです。どの国も、クリスチャンの多い少ないにかかわらず、宣教は必要です。その宣教のわざを通して、神さまから近い民族にも、神さまから遠い民族にも、ほんとうの意味での平和の福音は伝えられ、一つとなって御父に近づくのです。それがいずれ、民族どうしの和解へと導かれると、私たちは信じてまいりたいものです。 私たち日本のクリスチャンは、たしかにこの国に暮らしていると、マイノリティとしての弱さを痛感させられることしきりかもしれません。しかし、どうか元気を出していただきたいのです。私たちはけっして、彼らに見劣りする存在ではありません。 私は神学生のとき、神学校のある授業で、教授に突然指されて質問されたことがありました。「日本にはどれくらいクリスチャンがいますか?」私は正確な数字を知っていたわけではありませんでしたが、よく言われる日本のクリスチャンの割合からざっと計算してみて、そうですね、27万人くらいでしょうか、とお答えしました。クリスチャンばかりの国に生まれ育った韓国人の神学生たちを前にして、恥ずかしいな、という思いもあったのですが、教授はすぐにこうおっしゃいました。「それなら、決して少なくありませんね!」私はこのおことばに、どれほど励まされたかわかりませんでした。 私たちが日本のクリスチャンであることは、誇りとすべきことです。この国の中から、この民族の中から、イエスさまを信じる信仰へと導かれた、それによって世界の兄弟姉妹とともに神さまに近づく存在とされた、なんとすばらしいことでしょうか。 19節をお読みします。……創造主なるイエス・キリストを中心に、すべての民族はひとつの家族とされます。ことばや肌の色がちがおうとも、同じ家族です。このことをどうか、信仰によって受け取っていただきたいのです。 最後に、未来の姿です。クリスチャンたちは、教会を形づくります。 20節から22節をお読みします。……民族は、単に和解させられるだけではありません。創造主なるキリスト、王の王なるキリストのからだである教会を、ともに形づくるのです。 20節を見てみますと、使徒たちや預言者たちという土台、とあります。使徒の著した者は新約聖書であり、預言者たちの著したものは旧約聖書です。旧約と新約、この聖書全体を土台として、教会は建てられます。 そして、その聖書の啓示するお方、キリスト・イエスを基として、教会が建てられます。いかに聖書を学び、また伝えていても、キリスト・イエスが伝わっていないならば、それは「異端」というものです。それをキリスト信仰と呼んではなりません。しかし私たちは、聖書において啓示されたお方、イエスさまを中心に、この教会、共同体を建てるべく召されています。 教会という場所は、神さまに礼拝をささげ、祈り、交わりを行い、みことばに学び、奉仕し、みことばを宣べ伝えるべく、この地上に存在する共同体です。しかしそれは、特定の民族や言語にかぎって形成する共同体ではありません。 民族や言語の枠を超えて、神さまに創造され、イエスさまの十字架を信じる信仰によって贖われたどうしが、ともに形づくるもの、それがまことの教会です。 このたび私は、保守バプテスト同盟の総会に出席してまいりました。この保守バプテストは、もともとが、アメリカの宣教師による東北地方の宣教から始まった団体であり、現在に至るまでも多くの宣教師が、日本人の先生方とともに働いています。また、宣教師ではなく、牧師として教会に奉仕していらっしゃる先生方にも、外国人の先生が複数いらっしゃいます。 私はこの姿をあらためて見てまいりまして、ことばや民族を超えた教会形成というものを、保守バプテスト同盟はとても理想的な形で実践していることを思わされました。そして、自分もその一員に加えていただいていることに、心から感謝したものでした。 うちの妻も宣教師なので、手前味噌のように聞こえるならばご容赦いただきたいのですが、日本は宣教がほかの国のように進まない分、他国からの宣教師をまだまだ必要としています。しかしその分、教会には外国人の信徒が集まりやすい傾向があると言えるかもしれません。そういう点では日本の教会は一見すると弱いようでも、民族を超えた教会形成をしているという分、聖書的にかなった教会形成に励みつつあるという評価をしてもいいのだと言えます。それならばこれは誇るべきことで、ますますその方向で教会形成をする必要があるのではないでしょうか。 とはいいましても、この茨城町のような場所では、外国人の信徒が集まるには限界があることを認めなければならないでしょう。それならば私たちは、この教会に対して視線を注ぐのと同時に、もうひとつのビジョン、究極のビジョンに目を留める必要があります。それは、世の終わりのビジョンです。 聖書をお読みします。ヨハネの黙示録、5章6節から14節です。……みなさん、この大礼拝が、想像できますでしょうか? あらゆる民族から、あらゆる部族から、あらゆることばを話す民から、救われて主を礼拝するのです。 最後に、この天国の前味とも言える体験から学んだことを分かち合って、メッセージを締めくくりたいと思います。 今から24年前、1995年のことです。私は韓国に、1度目の留学で渡っていました。当時、会話はあまり上手ではなく、周りを韓国人にばかり囲まれていた生活が続き、だんだん五月病のようになってしまっていました。 そんなとき、ソウルにある大きな教会を会場に、国際的な宣教大会が開催されました。私は、その大会でスタッフとして奉仕していた日本人の先生に会う目的で赴いたのですが、私の目の前に広がっていたのは、想像を絶する世界でした。 それはちょうど、お昼ご飯をビュッフェ式で食べる時間だったのですが、たくさんの人が立って食事をしていました。圧倒されたのは、そこには様々な肌の色をした人がいて、いったい何語なのだろうか、いろいろなことばで話していました。スーツを着た人は案外少なく、実にさまざまな民族衣装に身をまとった人々であふれかえっていたことでした。そういうどうしがとても楽しそうに話し合っていました。私はこれを見て、天国とはきっとこのようなところにちがいない、と思ったものでした。 このような宣教大会を堂々と開催できる韓国教会の底力を、私はまざまざと見せつけられ、いつか日本もこうなれるだろうか、と、私はその日以来、さらにいろいろと考えるようになりました。しかし、そんな私に、今日学びましたみことばが与えられたのでした。私たち日本のクリスチャンも祝福を受けた国々とその民に近い者とされている、ともに神さまのもとに行くように召されている、そのことを改めて教えていただき、私はどんなに慰められたかわかりません。そして、その日本の人たちにみことばを宣べ伝えることを、私はあらためて召命として受け取らせていただいたのでした。 この世の終わりに、私たち日本のクリスチャンも、多くの民族、部族、ことばを話す民に交じって、主の御前に召し出されます。私たちはその日まで、和解の福音を語りつづけ、人々を神さまと和解させ、敵対するどうし、反目するどうしを、福音によって和解に導く働きに用いていただくのみです。この民に、私たちは福音を語ってまいりましょう。そして、ともに教会形成に励み、キリストのからだなる共同体をこの地にうち立てる働きに用いられてまいりましょう。 私たちの過去を思うと、どれほど悲惨だったことでしょうか。神さまから離れていた、それが私たちの現実でした。しかし、イエスさまを信じ受け入れる信仰に導いていただき、神さまに近づき、神の民に加えていただきました。そのような私たちは今後、神さまによって召された者どうし、キリストのからだなる教会という共同体をこの地にうち立てていくように求められています。この、喜びあふれるわざに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。