クリスチャンとはどんな人か

聖書箇所;エペソ3:1~21 メッセージ題目;クリスチャンとはどんな人か 新約聖書の27巻のうち、その半数近くになる13巻は、使徒パウロによって書かれました。それはすべて「手紙」と書かれており、教会向けであったり、個人向けであったりします。この「手紙」を、「書簡」ともいいます。 この、パウロによる「書簡」を読んでみると、ほかの指導者たちによる書簡、ヤコブやペテロやヨハネやユダによる書簡と比べて、大きな特徴があります。それは、パウロという人物の個性が、時にかなり際立って現れている、という点です。からだの弱さであったり、個人的な体験であったり、そういう、時にかなりプライベートなことではないかと思えるようなことも、細かく書いてある箇所が珍しくない、それがパウロの書簡の特徴です。 しかし、そういうきわめて個人的な色彩を帯びた書簡も、聖書のみことばとして提示されていることを、私たちは受け入れる必要があります。このことは何を意味しているのでしょうか? それは、一見するとプライベートなパウロ個人の事情に思えることも、私たちクリスチャンひとりひとりと、実は密接な関係がある、ということです。 私たちは、初代教会において意味されているところの使徒ではありません。しかし、この世に遣わされているキリストの使者であることに変わりはありません。私たちは、決してパウロと同じような弱さを持っているとは限りません。しかし、パウロと同様に、何らかの弱さをもってこの世を生きていることに変わりはありません。実にパウロの際立って個人的な描写は、ことごとく、私たちクリスチャンの生活と関係があります。いかに個人的な事情であろうとも、聖書に収録されているだけの、それなりの正当な理由があるわけです。 本日の箇所は、パウロがいくつかの点で自己紹介をしている箇所です。これらの自己紹介はすなわち、私たちクリスチャンひとりひとりの自己紹介でもあります。では、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。クリスチャンは、囚人、とらわれ人です。 そう申し上げると、むっとされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、1節を読んでみましょう。パウロはたしかに、自分のことを囚人と表現しています。 とは申しましても、ただの囚人ではありません。「キリスト・イエスの囚人」と書いてあります。 この、エペソ人への手紙という書簡は、獄中書簡と呼ばれるものです。パウロが、ローマの獄中、牢獄の中でものしたものです。まさしく、イエスさまを宣べ伝える働きに献身するゆえに迫害を受け、ローマの監獄にまで至ったわけで、罪を犯したからではありません。 福音を宣べ伝える、これ以上正しいことがあるでしょうか? それなのに世は、そのような正しい人を迫害し、なにも行えないように追い詰めます。 しかし、このエペソ人への手紙もそうですが、パウロが獄中で書いたいくつかの書簡はやがて、教会を養い、今こうして聖書という形で私たちは手にしています。 2節から4節をお読みしましょう。……神さまはなぜ、獄中にいるパウロに啓示を与えられたのでしょうか? それは、それぞれの教会、そしてゆくゆくは、今に至るまで2000年間、世界中に存在してきた教会が、福音の奥義を正しく悟るためです。 5節をお読みください。……パウロはこのわざのために用いられる「使徒」であるというアイデンティティを、神と人の前に明らかにしています。預言者、すなわち旧約聖書を解き明かす、新約聖書の書き手としてのアイデンティティです。私たちはこのようにして書かれら旧新両約の聖書によって、目に見えない神さまのみこころを正しく受け取ることができます。 そのみこころとは、具体的に言えばどのようなみこころでしょうか? 6節のみことばです。……信仰の父アブラハムに与えられた約束、その子孫を神の民としてくださるという約束が、異邦人にまで及ぶ、という約束です。この奥義を解き明かし、エペソ人をはじめとした異邦人たちに伝えるということが、神さまがパウロに与えてくださった使命であったということです。 そのようなパウロは、囚人ではありましたが、同時にこのような告白をしています。7節です。……そうです、福音に仕える「奉仕者」である、というわけです。 パウロは、囚人という立場にありました。自分の指導していた教会をケアしたり、信徒をフォローアップしたりということを、実際に教会を訪問し、信徒と顔と顔を合わせてという形で行うことは、もはやかないません。それが囚人というものです。しかし、それだからと、パウロがわが身に絶望して、福音宣教の働きをやめてしまうということはなかったのでした。パウロにはまだ、手紙を書き送るという手段が残されていました。 手紙を書き送ることができるかぎり、手紙に福音の奥義を込めて届けさせることができれば、それを読む人たちに牧会をすることができる、ということになります。それはたしかに、普通われわれが牧会と呼ぶような、相互通行的なコミュニケーションではないかもしれません。しかし、この手紙を読むならば確実に救われた者としてのアイデンティティを確立し、キリストのからだなる教会を建て上げる自覚が育つ……パウロはそう確信し、渾身の力を込めて手紙を書き送ったのでした。 ここに、私たちの生きるモデルが示されています。 私たちも福音に生きる者となりたい、福音を宣べ伝えたい、そう願いながらも、さまざまな理由でその生き方を制限せざるを得ないような、いわば「囚人」のような生き方を強いられているかもしれません。その制限は、家族や地域社会のしきたりというしがらみかもしれませんし、からだの弱さかもしれません。 あるいはもしかすると、過去犯してしまった大きな失敗を、周りの人たちがいまだに許してくれていないことかもしれません。いずれにせよ、私たちを囚われの身にするものはさまざまです。 しかしそれでも、私たちはパウロの生き方を見るとき、その制限というものを、いっさい行動を起こせていないことへの言い訳にしてもいいということではないことがわかります。囚人でありながらも福音に仕える者として諸教会を養ったパウロの姿は、私たちにとってのモデルです。 私たちは、何に目を留めているかを考える必要があります。私たちは、私たちを救ってくださったイエスさまに目を留めていますでしょうか? それとも、自分を取り巻く状況がすべてのように思わされていないでしょうか? すべての状況を動かし、そのような状況の中においてもみわざを行なってくださる、イエスさまにこそ、私たちは目を留めたいものです。果たして神さまは、何のために私たちを救ってくださったのでしょうか? この救いのみことばを人々に証しするために、このみことばをもって人々に奉仕するために、私たちを救ってくださったのではないでしょうか? もしそうならば、私たちがこの世に負けたままでいることを、神さまがお喜びになることはないはずです。お祈りして、いま自分を捉えているあらゆるしがらみに勝利する者となれるよう、力をいただきましょう。 では、第二の自己紹介です。クリスチャンは、福音を宣べ伝える人です。 8節のみことばをお読みします。……パウロはたしかに、キリストの教会を迫害したほどの自分が救われたという、その恵みを喜び、主に感謝しています。しかしパウロにとって、その救いの恵みは個人的なものにとどまってはいません。実にこの救いの恵みが、パウロのことを異邦人への宣教という使命に遣わしているということを、パウロ自身がよく理解し、そのことを書簡の読み手に伝えています。 いえ、パウロが福音を伝える相手は異邦人にかぎられているのでしょうか? 9節のみことばをお読みします。……パウロは、創造主なる神さまを語っています。しかし、創造主を伝えることにとどまらず、その創造主が、御子キリストを信じる信仰によって人々を救ってくださるという、時至って実現した奥義を、すべての人に明らかにし、伝えるために、自分が召されていることを語っています。そうです、すべての人です。 なぜ人々は、その奥義を知る必要があるのでしょうか? 10節、11節のみことばです。……あらゆる権威、支配を超えて、神さまの知恵が知らされるため、その知恵が伝えられるというご計画を成し遂げてくださるキリストのみわざが実現するためです。教会というものを過小評価してはなりません。すべての権威を超えるみ教えが伝えられる場所、実現する場所、それが教会なのです。私たちはこのことを、恐れと感謝をもって受け入れる必要があります。 この福音が伝えられる結果、人はどのようになるでしょうか? 12節です。 本来、きよい神さまというお方は、近づくことが許されないお方です。旧約聖書を見てみても、神さまに近づくことがどれほど恐るべきことかが、これでもかと記されています。しかし、キリストは神と人との仲立ちとなられました。私たちもキリストによって、大胆に父なる神さまの御前に近づくことができるようになったのでした。 人は、いろいろな形で救いに至ろうとします。善行を積んだり、哲学を極めたり、宗教活動にのめり込んだりと、そのとる行動はさまざまです。しかしそれらのものはいずれも、罪ある人間の側からの行動にすぎず、どんなに努力しても、いかなる努力をしても、きよい神さまに近づくことはできません。ただ、神さまの側で行なってくださったみわざ、ひとり子イエスさまを私たち罪人の身代わりに十字架につけてくださったこと、それによって私たちが罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけることを信じ受け入れた人だけが、神さまの救いをいただくことができます。 これこそが、パウロが人々に伝えようとしていた奥義です。この奥義を伝えるためにパウロは生きていたとさえ言えるくらいです。別の箇所でパウロは、自らを指して、もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ、とさえ告白しています。 このように神さまからの使命に生きるパウロの姿を見て、私たちは何を感じるでしょうか? 自分はそのようになれない、と落ち込むでしょうか? いいえ、その必要はありません。 私たちは生きているかぎり、必ずだれかとの触れ合いを経験しています。その人たちをご覧ください。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなたがたは……地の果てにまで、わたしの証人となります」とおっしゃいました。その、イエスさまの弟子たちから見れば、まさに「地の果て」に住む人たち、それが、私たちの目の前にいる人たち、私たちの隣にいる人たちではないでしょうか? このような人たちがイエスさまに出会い、大胆に神さまの御前に出る人になるという、そのビジョンを、私たちは持っていますでしょうか? 神さまはなぜ、この茨城県央にその人たちを生かしていらっしゃるのでしょうか? 私たちのすぐそばに生かしていらっしゃるのでしょうか? それは、キリストにお従いし、生活を通して福音を伝えようとする私たちの生き方を、その人たちも見て、キリストにお従いする道が開かれるためではないでしょうか? その意味では、私たちもパウロと同じです。私たちにはできるのです。パウロのようになれない、と考える必要はありません。私たちの手には、パウロをはじめ、使徒たちが神の霊感によって書き残した聖書があります。この聖書のみことばを語るならば、私たちが人間的なことばを尽くして説得しようとしなくても、聖霊なる神さまが働いてくださり、その人を救いに近づけてくださいます。そのわざに私たちも用いていただけるのです。 私たちも、福音を宣べ伝える伝道者です。伝道はだれにでもできることです。 そして神さまは私たちに、人々に伝道するように召しておられます。私たちの人格の欠けや、経験不足などを考える必要はありません。石ころからでもアブラハムの子孫を起こしてくださるのが神さまです。私たちのことも、必ず用いてくださいます。信仰をもって一歩を踏み出していただきたいのです。 では、三つ目のポイントにまいります。私たちクリスチャンは、祈る人です。 14節、15節をお読みします。パウロは、神の家族である教会を代表して祈っています。 そうです。クリスチャンとは祈る人です。まさしく私たちクリスチャンには、神さまの御前に祈るという特権が与えられています。 しかしこの箇所を見てみますと、パウロは異邦人がするような、単なる欲望や願望を羅列することをもって、祈っているのではありません。パウロは、何を祈っているのでしょうか? 16節から19節をお読みします。 パウロはひたすらに、御父が御霊によって教会に力を与えてくださるように祈っています。 その力はどのようにして働くのでしょうか? 聖徒一人ひとりの心のうちに、キリストが住まってくださり、働いてくださることによってです。そして、神の愛をすべての聖徒ともに知り、また理解することによってです。そのようにして、教会と聖徒たちが神さまの満ちあふれる豊かさにまで成長することを、パウロは切に祈っています。 そしてパウロのこの祈りは、たんに教会が強くなることだけに目的があるのではありません。20節、21節をお読みします。……全能なるお方のみわざ、御力が教会に働くことによって、教会をとおして、また、教会のかしらなるキリストをとおして、主が栄光を永遠にお受けになるようにと、祈っています。 この祈りは、私たちクリスチャンひとりひとりにとっても、究極の祈りの目標というべきです。私たちは祈りというものを、どのような目的で用いていますでしょうか? 自分が祝福されるためでしょうか? 自分や家族が栄え、いやされるために祈るのでしょうか? それももちろん必要なことでしょう。しかし、私たちクリスチャンにとっての究極の祈りの目標は、私たちを救い、贖ってくださった、主にすべてのご栄光がお帰しされるように、これです。 私たちクリスチャンはよく、証し、などといいます。体験談をもって神さまのすばらしさを伝えることが、証しの目的です。ところがときに、この証しというものが、一見すると神さまを誇っているようでも、手柄話だったり、自慢話だったりということが往々にしてあるものです。きつい言い方をすれば、単なる自慢話を、たまたまクリスチャンを名乗る人が語っているだけ、ということがあるものだ、ということです。 私たちの目指す証しの生き方は、そういうものではないはずです。私たちクリスチャンは、この世的なちっぽけな自己実現を目標として生きているのではありません。 だれよりも偉大なお方、神さまが、私たちクリスチャンの生き方によって、人々をとおしてたたえられる、それが私たちクリスチャンの生きる目的であるはずです。それは、私たちの属する教会が、御霊の力をいただき、愛において成長することによってこそ実現します。私たちは、その働きに用いていただけるのです。だから、その働きに加えていただくように、そして、すべての聖徒がその働きを担えるように、究極的には、自分も含むすべての聖徒を通して主の栄光が素晴らしく輝くように、私たちは祈るのです。 メッセージを締めくくりたいと思います。私たちは多くの制限を抱えています。それはまるで囚人の姿です。しかし私たちは、そのような弱さを抱えながらも、主のみことばを伝える働きに用いていただくものです。その働きはしかし、私たちのすばらしさを現すためのものではありません。私たちの働きをとおして、教会が愛において大いに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで成長すること、そのことによって主の栄光がこの地に素晴らしく輝くこと、それが私たちの目的です。そのために私たちは祈ります。それこそが私たちの祈りの究極の目的です。 忘れてはなりません。私たちは決して弱くありません。私たちは主によってどこまでも強い存在です。主により頼み、この世に主を現す働きに大いに用いられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。