光の子どもとして歩みなさい
聖書箇所;エペソ5:1~21 メッセージ題目;「光の子どもとして歩みなさい」 私は日曜日の朝、いちばん最初に礼拝堂につきます。いろいろとやっておく仕事があるからです。そうこうしているうちに、日曜学校が始まるので、鬼沢さんやうちの家族が教会に到着します。 そのとき、私がよく、うちの妻から言われていたことがあります。礼拝堂の玄関やロビーに明かりがついていないというのです。私は仕事に没頭していて、気づかなかったわけです。 朝、みなさんを迎える礼拝堂が、明かりがついているのがふさわしいのはなぜでしょうか? 逆を考えてみると、せっかく神さまを礼拝するつもりで来てみたのに、明かりもついていなかったら、知らず知らずのうちに気分が沈みます。そうなったら、礼拝する喜びも半減してしまいます。そのことに気づいた今、私は必ず、礼拝堂についたら明かりをつけるのを習慣にすることにしました。 聖書を読んでみますと、神さまというお方が光になぞらえられる場面がしばしば登場します。ヨハネの黙示録21章23節は、天国の様子を描写したみことばですが、こうあります。――都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。――光なる主のお姿が私たち主の民とどのような関係があるか、如実に描いています。神さまご自身という光によって私たちが照らされるのです。 さて、今日のみことばの8節には、「光の子どもとして歩みなさい」とあります。光なる神さまの子どもとして歩む、それが私たち主の民に求められていることです。人の子どもが人であるように、光の子どもは光です。イエスさまが、あなたがたは世界の光です、とおっしゃっているとおりです。では、どのように生きることが、光の子どもの生き方なのでしょうか? まずは大前提として、1節、2節のみことばをお読みします。……そう、愛なる神さまの愛を一身に受けている者として、その愛なる神さまにならい、キリストが十字架の上で現してくださった愛のうちを歩みなさい、ということです。大前提は、神さまの愛です。 しかし、この聖書という、実に分厚い神さまのラブ・レターは、神さまの愛というものを、実にいろいろな側面から解き明かしていて、そのすべてをこのかぎられた時間に詳しく扱うことはできません。 神さまの愛にならう光の子どもとして歩むとはどういうことか、21節分に当たる今日の本文から、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。例によって、3つのポイントに分けて見てまいります。 第一のポイントです。光の子どもは、闇を避ける歩みをすることが求められます。 8節のみことばです。……このみことばは、闇というものが、神の子どもたち、光の子どもたちにとっては、すでに過ぎ去った過去の性質であることを語っています。 最近はそんなことはなくなりましたが、うちの子どもたちは夜寝るとき、暗やみをとても怖がり、妻や私に、一緒に寝て、とせがんだものでした。純粋な子どもは、本能的に闇というものを怖がるものです。そうです、人は本来、この闇というものを、怖れるべきもの、避けるべきものと受け止めて生きる者でした。しかしいつの間にか、人は闇というものを、何とも思わなくなります。それは単に光がともっていない、物理的な闇だけではありません。神さまの光が届いていない、聖書的な倫理に照らしてみてもとてもおかしい、悪魔のわざを何とも思わないように、霊的に鈍感にさせられていくのです。まるで大人になるとはそういうことであるかのように人々は語ります。しかし、ほんとうにそうでしょうか? このエペソ5章のみことばは、きわめて具体的にその「闇」というものを扱っています。3節のみことばです。……淫らな行い、これはこの世の中を見回してみると、とてもありふれています。私は東京に住んでいた頃から落語鑑賞が好きでしたが、落語など、廓もの、といって、身も蓋もない言い方をすれば売春産業を扱ったジャンルが存在します。新聞を読んでいても、婚外交渉を当たり前のように扱い、時には美化する記事が普通に登場します。しかしこれらのことは、いかに普通にありふれていても、みな「淫らな行い」、また「汚れ」という闇であり、そういうものを嬉々として口にすることは、光の子どもとしてしてはならないことです。 4節もそれに類するみことばです。……猥談も、いやらしい冗談も、セクハラな発言も、全部アウトです。 しかし、中にはこんな冗談を堂々と口にしておいて、自らを愛のあるクリスチャンである、こういう冗談に顔をしかめているクリスチャンは愛がない、などとうそぶく人もいます。こういう人はえてして人気があるものですが、私たちはだまされてはいけません。聖書が、そういう冗談や猥談を禁じている以上、アウトなものはアウトです。 そのかわりに奨められていることは、「むしろ、感謝しなさい」ということです。いやらしい妄想や行動がなぜいけないのでしょうか? それは、神さまがそれぞれに与えてくださった領域に感謝せず、よけいなものをむさぼっているゆえです。それは、神さまへの感謝と正反対のことです。もし、神さまにつねに感謝する生活ができているならば、このような汚れたむさぼりのことばも行動も出てこないはずです。私たちはよくよく自分自身を点検する必要があります。 5節のみことばは、この罪から足を洗おうとしない者に対する凄まじいまでの警告のことばです。……大前提として、イエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちの罪は未来の罪に至るまでも赦されています。しかし、このみことばを見てみますと、性的なむさぼりは偶像礼拝という罪と直結していることが語られています。 エペソのクリスチャンたちは、魔術であったり、女神アルテミスへの信仰であったり、そういったものを捨てるなどして、イエス・キリストに立ち帰っています。その分、偶像礼拝者という言い方は、最も心が刺される表現だったのではなかったかと思われます。その過去を引きずるような性的な罪を悔い改めていないかぎり、自分はイエスさまではない、偶像に従う者なのか、というわけです。 6節も続けてお読みします。……空しいことば、とは何でしょうか。大丈夫だよ、イエスさまの十字架によりすべては赦されているから、何をやっても大丈夫、とばかりに、罪を許容することばではないでしょうか。イエスさまが十字架の上ですべての罪を赦してくださったのは事実です。しかし、その恵みを受け取り、まだなお絡みついてくる罪から足を洗おうと恵みを求めるのと、罪赦されたのをいいことに相変わらず好き勝手な生き方をやめないのとでは、どちらの生き方を神さまは求めていらっしゃるでしょうか。 いのちを懸けて十字架の上で私たちを赦し、救い、贖ってくださったイエスさまのみわざを軽んじるようなことは、口にしてもいけませんし、思ってもいけません。それこそ、むなしいことばというもので、そんな教えはだれのことも救いはしません。しかし、そのようなむさぼりについ身を委ねたくなるのが、私たちに染みついた肉の特性です。あってはならないことですが、教会に属する若者たちも、そのような過ちに陥るということが多く存在します。いえ、時には若者にかぎらず、そのような不適切な性的行動に走るものが、教会の中に現れることもありえます。 私たちはそのような、聖徒にふさわしくない性質から教会がきよめられるように、ともにお祈りする必要があります。私たちは、イエスさまのこの十字架のみわざにふさわしくなれるように、日々聖霊なる神さまの深い交わりによってきよめていただくものとなりますように、まず私たち自身を主の御前に差し出し、とりなして祈ってまいりましょう。 第二のポイントです。光の子どもは、闇のわざを明るみに出すことが求められます。 11節のみことばをお読みします。……まず、前提として、暗闇のわざに加わらないことです。 世の中の人たちは、私たちを悪いわざに染めようと、あらゆる方法で誘ってきます。しかし私たちは、そのわざに対し、断固として「ノー」を突きつける必要があります。深酒、たばこ、薬物、性的逸脱、ギャンブル……これらのものは、私たちクリスチャンにとっては、呑み込まれるべきものではありません。むしろ、それがどんなに恐ろしいものか、声を大にして叫ぶべきです。よくよく考えましょう。このような放蕩に走ることが、果たしてイエスさまを喜ばせることができるでしょうか? 私たちのすべきことは、この世にはびこるあまり、私たちクリスチャンのことさえも蝕む悪を、私たちに与えられたみことばの光によってあばき出すことではないでしょうか。 とはいえ、私たちは何も、この世の中や私たちの周りに存在するあらゆる悪を、根掘り葉掘りぐたいてきにひとつひとつ。明らかにすることが求められているわけではありません。それをしていてはきりがありません。それよりも、みことばに従う私たちの生き方が、光となって、この世のあらゆる汚れ、ゆがみ、恥を明らかにするのです。 そして、そういうものが明らかにされるならば、人の取る行動はふたつにひとつです。悔い改めてその行動を捨てるか、その行動が悪いと知りながらもやめないかのどちらかです。 そうして、キリストに従うという善を行う人はますます善に進み、悪を行う人はますます悪に陥り、かくして、麦と毒麦は充分に生えそろって、さばきを待つばかりとなるのです。 私たちがもし光の子どもであるならば、人々に生き方の決断を迫るモデルとなる生き方を人々の前にしてしかるべきです。イエスさまの存在が、イエスさまに従う一部の人と、イエスさまを十字架につけた大群衆とに分かれたように、私たちの存在によってこの世の悪が照らしだされ、神さまにお従いするごくわずかの人が明らかになっていくのです。その、わずかの人たちとともに、私たちは何よりも強い、キリストのからだなる教会を形づくるのです。 私たちがいつも主に従順でありますように、その従順を実践する生き方によって、この世にキリストの光、みことばの光を照らし、まことの弟子の生き方のモデルをこの世に示す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第三のポイントです。光の子どもは、主に喜ばれることを吟味します。 10節のみことばにあるとおりです。 その、主に喜ばれることは、聖書のあらゆる箇所に書かれているとおりです。それが、消極的な形では、暗闇のわざに仲間入りしないこと、積極的な形では、暗闇のわざを明るみに出すことですが、具体的な形ではどうなのか、この箇所に限定しても、じつにいろいろな側面が見えてまいります。 まず17節です。……このために必要なのは、日々みことばから学ぶことです。私たちが日々みことばお読みすることは、光の子どもとして聖霊なる主が私たちのことを整えてくださるプロセスです。そのようにして私たちは知的にも、霊的にも、武装していただくことができます。賢くしていただけます。しかし、サタンはこのような時間にも、私たちに対し、間違った聖書解釈、間違った受け取り方をさせるように誘惑してきます。私たちはですから、みことばをお読みするときに、自分の思いで読んでしまわないためにも、聖霊なる神さまのお導きをいただく必要があります。 18節、お酒に酔うことはみことばでこうして戒められています。お酒に酔うことと対比して語っていることは、御霊に満たされることです。それに続くのが19節で、御霊に満たされた結果人がどうなるか、そうなるように命じておられるみことばです。みことばを分かち合い、みことばを歌いなさい、というわけです。 何度かお話ししましたが、私が高校生のとき参加した松原湖バイブルキャンプは、小坂忠さん・岩渕まことさんをゲストに迎え、賛美を歌って盛り上がっていました。しかしその中で、私の部屋に、とても盛り上がれなくて悩んでいた男の子がいました。彼は、聖書のお勉強が少なくて、賛美ばかり歌うキャンプについて行けなくて、帰ろうとしていました。しかし、機転を利かせた担当カウンセラーが彼を忠さんに会わせ、相談相手になってもらいました。忠さんいわく、みことばを学ぶことは取り入れることだ、しかし、賛美を歌うことは吐き出すことだ、取り入れてばかりいたらからだはおかしくなるだろう、ぜひ歌ってみよう、そのことばに勇気をもらった彼は、その忠さんのアドバイスを部屋で分かち合ってくれて、最後までキャンプをやり遂げました。その姿に私も励まされたものでした。 みことばによっていただいた御霊の満たしは、賛美の歌として表現してこそです。みなさん、どんどん歌っていきましょう。 そして20節、すべてのことについて、キリストの名によって感謝しなさい、これは、今月初めに水谷潔先生もテサロニケ人への手紙第一の5章からおっしゃっていたことですが、私たちクリスチャンのあるべき姿は、キリストの御名があがめられることゆえに感謝をささげることです。感謝にあふれる生き方こそ、光の子どもとしてふさわしい生き方です。私たちが感謝すべきことも、キリストの御名にふさわしいかどうか、つねに吟味する必要があるでしょう。 そして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。従うべき姿勢も、吟味される必要があります。このみことばから後、夫婦、親子、奴隷と主人といった人間関係が具体的に取り扱われますが、強制された従順、うわべだけの従順は、みこころにかなった従順ではありません。この点でも、私たちは御霊によって、まことに従いあうことが実行されているか、日々自分自身を吟味する必要があるでしょう。 私たちは光の子どもです。光の子どもとして歩むのは、難しいことではありません。御霊に満たされるならば、暗闇を避けられるようになります。暗闇を照らす生き方ができるようになります。そして、みこころに従う生き方を吟味し、真にお従いする生き方ができるようになります。そのようにして、光の子どもとしてともに整えられ、主のご栄光をこの世に輝かせる、祝福された歩みに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。