教会とキリスト、妻と夫

メッセージ題目;「相愛の相似形――教会とキリスト、妻と夫」 今日も雨です。6月にふさわしい天候です。 6月と言えば、「ジューン・ブライド」なんていいます。6月の結婚は縁起がいい、なんて。元はと言えばこれは西洋のしきたりで、調べてみましたところ、ヨーロッパでは昔、農作業に従事する3月から5月の結婚が禁じられていて、晴れて6月になって、結婚を大いに祝福してもらえる、ということだったそうです。 日本だと、梅雨時です。こんな時期に式を挙げたら、雨でたいへんにならないか、と思います。それでよく、新郎の上司とかが、スピーチでこんなフレーズを口にするのが習わしになっています。「雨降って、地、固まる、などと申しまして……」まったく、こんなめでたい場でもお説教をするわけです。でも、ある落語家は、こういう時には言い方がおまんねん、と言っていましたからご参考に。「降るは千年、雨は万年、幸せが二人に降りこんだ。おまけに花嫁さんはビジョビジョ。」すみません、朝からくだらないことを申しました。 このエペソ人への手紙の講解シリーズも、ついにこの箇所まで来ました。私はこの箇所が大好きです。といいますのも、私は若いころから、この箇所を心にいだいて、結婚というものに対するビジョンを持ちつづけてきたからでした。 そんな私は結婚して、今年の夏で12年目を迎えます。この11年を振り返ってみますと、結婚してからのほうがむしろ、私の未熟さを痛感させられたことが多かったように思います。まことに、結婚というものの中で私は育てられ、家族ともにキリストの似姿として成長させられたことを実感します。 そんな私は、自分自身が結婚というものにそれなりの意見を持っていると自負しますが、人生経験が豊富なみなさんを前にしては、やはりへりくだるしかありません。もちろん、みなさんなりのご意見がおありだと思います。私が今日お伝えすることは、ひとりの男性とひとりの女性の結婚というものは、キリストと教会との相愛関係をあらわす、まことに不思議に満ちたものである、ということです。 今日の聖書箇所は、先週学んだ「光の子どもらしく歩むには、どうすればいいか」ということを指し示す箇所の最後の部分、「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」というみことばを受けています。そうです、キリストを恐れるということを前提に、互いに従うこと、これが、光の子どもとしてふさわしい歩みのひとつであることを学びました。 その相互の従順の関係を具体的にあらわすものとして、まずパウロが挙げたもの、それは結婚という関係です。しかしこの結婚という関係は、親子、また雇い主と奴隷という関係にもまさって、だいじに扱われる必要のある概念です。 なぜかというと、この妻と夫という関係は、キリストと教会という関係をそのまま象徴するものだからです。 教会が花嫁、ということは、よく教会でも語られていることです。私も講壇の上ですとか、いろいろなところで口にします。それはなによりも、聖書が語っていることですし、ゆえに牧師であるからには、語る必要のあることです。しかし……花嫁というものを優先的に考えると、妙なことになってしまいます。私はかつて、ある牧師先生が、教会が花嫁、ということを説明なさったとき、そこまではよかったのですが、「男も花嫁」とおっしゃったのを聞きました。会衆は笑っていましたが、ちょっとこれには違和感を覚えました。まるでこれでは、男が純白のウェディングドレスを着ているようです。そぐいません。 これは、こう考えるといいでしょう。花婿なるキリストに嫁ぐ花嫁、教会。これが先に存在し、そのキリストの象徴として主は男を創造され、教会の象徴として女を創造された。さあ、これならどうでしょう? そういえば、自分がバプテスマを受けた教会のことを、クリスチャンは、はは・きょうかい、と書いて、「母教会」と呼びます。私にとって母教会は、埼玉にある「北本福音キリスト教会」です、といった具合です。そう、母教会とは、クリスチャンである自分を生んだ教会です。でもこれは「父教会(ふきょうかい)」とはいいません。父は神さまです。神さまによってクリスチャンとして私たちのことを生んだ存在、それが教会、母教会です。そういうわけで教会は、女性名詞として呼ばれるのがふさわしい存在です。 それを前提に、22節から見てまいりたいと思います。 まず22節、これは妻たちに命じられていることです。……韓国で長年、地球村教会という大きな教会を牧会してこられたイ・ドンウォン先生という方は、かつて若者たちを前にして、この箇所から結婚を主題にしたメッセージを語られましたが、妻たちへの命令が先に来ていることを、「聖書はレディー・ファーストです」なんて、うまいことをおっしゃっていましたが、とにかく、命令は妻たちの方が先に来ています。 主に従うように、自分の夫に従いなさい……? 冗談じゃないわよ! 奥様方の心の叫びが聞こえてきそうで、ちょっとどきどきします、なんて、半分冗談ですが、これも、教会とキリスト、という前提から読み解けば、すっきりしていただけると信じたいです。 私たちはみな、キリストに従順でありたいという思いを持っているでしょう。しかし実際のところどうでしょうか? 私たちの自己中心、罪に傾きたがる肉の性質、そういったもののために、心はキリストに向いていても、なかなか従順になれないものです。それは女性であれ、男性であれ、みな一様に感じていらっしゃることだと思います。かく申します私も、心がキリストに向けて燃えていてもどうしようもなく肉が弱い、ということを、これまでにも何度も経験してまいりました。 そのような私たちでありますが、キリストに従えないことを、罪や肉の弱さを言い訳にしてはならないはずです。 私たちはいかなる場合もキリストに従えるように、主の恵みを求めていく必要があるはずです。 妻が夫に従うということは、そういう次元のことであるということを、このみことばは語っています。教会がキリストに従う、分かってはいるけれども従えない、しかし、それには一抹の後ろめたさがあるはずです。それは、キリストに従順になることがみこころであると知っているからです。 その、キリストに従うということは、具体的には生活のただ中でみことばを具体的に行うことによって実践するものです。単に修道僧のような生活をしていればいいわけではありません。神さまに礼拝さえささげていれば、それでクリスチャンとしての責任を果たしたことになるわけではありません。神さまが私たち主のからだなる教会に、具体的に与えられたご命令を守り行うこと、それが従順というものです。 このみことばにおいては、妻とされている女性が自分の夫とされている男性に、すべてのことにおいて従う、それが、神さまにお従いすることである、ということになるわけです。 23節を見てみますと、その従順の根拠が、神さまのお立てになった秩序ということで説明されています。教会のかしらがキリストであるように、妻のかしらが夫である、というわけです。 これと同じ考えは、第一コリントや第一ペテロのような書簡にも見ることができます。中でも、第一コリント14章は、教会の中で女性が教える者として振る舞うことについて、厳しく戒めていて、妻に対する夫の権威を具体的に立てています。私たち保守バプテスト同盟は伝統的に、女性の教職者を単独で教会トップの教職に立てないことを原則としてきた歴史があり、それはこの聖書の考えに基づいていると言えます。私が牧師按手を受けた韓国の長老教会の教団はさらにそれが徹底していて、今でも女性の教職者を牧師には立てません。もちろん、議論がある領域ではありますが、聖書的な根拠は充分に挙げられることです。 中でも、妻である女性のかしらがその夫の男性である、ということは、揺るがされてはならない聖書のメッセージです。まずこれは、聖書が宣言していることです。すなわち、みこころです。ご婦人方が、なによ、うちの宿六亭主を見ていると、そんなの嘘よ、とおっしゃりたくても、聖書がそう宣言しているかぎり、それがみこころなのです。 そうだとすると、自分の夫にもし従えないでいるならば、そこには後ろめたさが存在してしかるべきです。それがみことばの基準であるからです。24節と25節をお読みします。……みことばがこのように語っている以上、妻が夫に従わないことは、みこころに対して不従順であるということになるわけです。 とはもうしましても、この問題は慎重に取り扱う必要があります。それなら、みことばがこう言っているということを盾に、夫は妻に、無条件の従順を強いることができるのでしょうか? 答えははっきりしています。ノー、です。妻がそれこそ、すべてのことにおいて、夫に従うには、夫の側にもそれなりの条件があります。 25節のみことばです。……キリストはどのように教会を愛したのでしょうか? どのようにご自身をささげてくださったのでしょうか? そうです。私たちの身代わりに、十字架にかかってくださることによってです。 この十字架を信じる信仰を与えられた者は、イエスさまと結婚する教会のひと枝となった、という、契約の関係に入れられます。11年前の8月16日、私と妻はソウルの禿山という町の教会で結婚式を挙げましたが、そのとき、司式をしてくださったウォン牧師先生が、いろいろ粋な仕掛けをしてくださったもので、その中のひとつに、契約書にサインし、取り交わす、というものがありました。この人を生涯愛します、なんてことばが印刷してあって、いちばん下に、われわれのサインと日付を書き込むわけです。そしてこれを壇上のウォン先生に「提出」します。私はこれを書いたとき、いよいよこの人との結婚の契約がはじまるのか、と、感慨無量になったものでしたが、とにかく、結婚とは「契約」です。 イエスさまは、血潮を流してくださることによって、私たち主を信じる民と契約を結んでくださり、私たちを、花嫁なる教会のひと枝ひと枝としてくださいました。 やがてキリストはこの世に再び来られ、この世は終わり、天国がほんとうに始まります。そのとき天国に入れられるのは、キリストの血潮によりあがなわれた私たちであって、ほかの者たちでは断じてありません。なぜなら、血潮の契約を結んでいないからです。私が妻以外のどんな女性も、恋愛の対象として見ることが金輪際ないのと同じです。キリストが愛する対象としてご覧になるのは、私たち教会という花嫁だけです。 キリストは、ご自身を信じないような者、ご自身に最後まで敵対する悪魔の化身のような者をも、十字架であがなわれたわけではありません。たしかに、そのような者たちの罪も十字架の上で赦してくださるのですが、彼らが最後までキリストとその十字架を拒むならば、彼らの最後はそれにふさわしいものとなります。キリストはそれでも、そんな者たちさえも、無条件に天国に入れてくださるわけではありません。それなら、十字架にかかられるということ、そして信じさえすれば救われるというみこころが、何もかも無意味になってしまいます。 そういうわけでお伺いしたいことですが、夫たる男性は、キリストが愛されたような十字架の犠牲の愛を、妻に「だけ」注いでいますでしょうか? その前提がないならば、妻に従順を強いることをみことばを振りかざして正当化することなど、決してしてはいけません。 さらにみことばは、夫たちがキリストのどのようなみわざに目を留めるべきであると語っていますでしょうか? 26節、27節です。 ……キリストは、たんに私たち教会を贖い出してくださっただけではありません。キリストの花嫁にふさわしくなれるように、終わりの日、再臨の日に向けて、日々整えてくださいます。 みなさんの前ですが、11年前の結婚式、妻は純白のウェディングドレスに身を包み、とてもきれいでした。こんなきれいな花嫁さんをお迎えしてもいいのだろうか! 私はすっかり舞い上がってしまい、新郎入場の時に、やれ歩きながら手と足が一緒に出るわ、やれ牧師先生に向かってお辞儀をするタイミングを間違えるわでさんざん、礼拝堂を埋めたみなさんに大笑いされてしまいました。 きれいな花嫁の身を包むきれいなウェディングドレス……しかしそれがしみだらけだったり、しわくちゃだったりしたら、私はそこまで舞い上がることはなかったでしょう。式もめちゃくちゃです。ウェディングドレスはきれいだから意味があるのです。 白くてきれいなウェディングドレスに身を包む花嫁、それは、キリストの前に完成される私たち教会の象徴です。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つこと、それが私たち花嫁の目標です。私たちはその日に向けて、ともに、いわば「花嫁修業」に励む身です。 夫に立てられた人は、そのように妻を養う立場に置かれています。「食べさせる」ということばがありますが、日々の糧を提供する立場であるのと同時に、霊的にも養う立場に置かれています。 むかし、神学生のとき、所属していた青年会の小グループで話題が「結婚」になったとき、ある兄弟が「いやあ、俺は奥さんに霊的にリードしてもらえばいいよ」なんて言っていましたが、それははっきり申しまして、まちがいです。信仰者の家庭で霊的リードを取る立場にあるのは、夫のほうです。夫が日々教えられるみことばの恵みを、妻に流すのです。 31節、32節をお読みしましょう。……創世記の最初のほうで提示されたみことば、アダムとエバの結婚、すなわちすべての男と女の結婚というもののほんとうの意味が、キリストと教会の結婚に収れんするということが、これではっきりします。 いろいろ議論はあるとは思いますが、牧師先生のお働きの一環として、未信者同士でも結婚式の司式を引き受けるということ、私は個人的に、それは、ありだと思っています。私自身は信者未信者問わず、これまでの10年にわたる牧師生活で、どなたの司式も引き受けたことはありませんが、もし今後どなたかが私に司式を依頼してこられ、それが未信者の方であったとしても、聖書の語る結婚とはどういうものであるかを充分に理解していただくことを条件に、お引き受けしてもよいと考えています。 と申しますのは、日本の方々はどこかで、キリスト教式の結婚式というものにあこがれをいだいていて、それは根本には、自分の創造主なるキリストと教会の結婚というものをどこかで霊的に察しているゆえではないかと考えるからです。そうだとすると、結婚式というものは、未信者の方にキリストを証しするまたとない機会となるはずです。 夫に愛されたい、それは妻として、当然の欲求です。それはキリストが無条件に教会を愛しておられる、その愛がかつても、そして今もなお、存在しているゆえです。私たちは、キリストと教会との相愛関係を、この世における結婚というものをもって実現できるように、さまざまな形で働きかけを行なっていくものです、婚姻関係にある方はそれを実現し、また実現できるように祈りつつ努めてまいりたいものです。 最後に、独身の場合はどうなるかということを補足させていただきたいと思います。私が韓国の信徒たちに囲まれて教会生活をしていた頃、周囲には独身の、おもに女性の方が存在していらっしゃいました。しかしみなさんは、とても充実した生き方をしていらっしゃいました。この中のある先生は、特に韓国のキリスト教会において有名な方でしたが、その先生があるセミナーで講壇に立たれたとき、司会者の方が先生をこう紹介されました。「みなさんご存知、この先生は、イエスさまと結婚された方です!」そうか、そう考えればいいのか! 私は合点がいきました。 第一コリントを見てみますと、パウロはみなが自分のようであったらいいと語っています。独身を推奨しているわけです。それは多くの場合に言えることでしょう。私の周りでも、結婚したことで信仰をなくしてしまったという、とても残念なケースを見聞きしているので、それは実感としてよくわかります。もし結婚するなら、そのことでかえって信仰が強められるという確信が必要になります。もちろん、結婚したからといって罪を犯すわけではないのですが、その結果信仰から遠ざかるならば、それはとてもたいへんなことになります。こういうことを考えると、結婚というものが即、最高の祝福、最高の幸せと考えることから、私たちは自由にならなければなりません。要はその結婚が、キリストと教会との相愛関係をあらわせるかどうか、ということです。 すでに結婚されていて、お相手が未信者の方というケース……これは、千差万別で、一概には言えないことですが、ひとつだけ言えることは、どうか、夫は信者である妻によって既にきよめられている、というみことばを握って、そのみことばが目に見える形で実現するように、主の恵みを求め、お祈りしていただきたい、ということです。 結婚というものは、私たちの周りにありふれているものです。しかしそれらすべては、キリストと教会との相愛関係につながります。私たちにとっての結婚というものが、そのような至上の存在となりますように、また、私たちが結婚というものの中にいだく不完全さの中に、私たちがともにキリストとの関係を省みる機会となりますように、お祈りいたします