従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように

聖書箇所;エペソ人への手紙6:5~9 メッセージ題目;従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように    本日のメッセージのタイトルは、「従順と支配の相似形」とつけさせていただきました。  「従順」というと、韓国から日本に来られる宣教師の方が好んでお用いになることばです。この「従順」ということばは、「従順な」という表現があるように、形容詞ですが、韓国の先生は、「従順する」と、動詞形で表現される方が多くいらっしゃいます。それはもちろん、神さまに対する従順であるわけですが、時にそれは、神さまが立てた権威ということで、牧会者のようなリーダーに対する絶対服従という意味合いが込められたりします。  「支配」はどうでしょうか? ワーシップソングに、「われらは歌う あなたの偉大なみわざを 天はその御手の中 治められて 支配されています」という歌詞の歌があります。しかし、この「支配」ということばの持つイメージは、プロ野球の「支配下選手登録」だったり、ホテルの「支配人」だったり、上から絶対的な権威を行使する存在という感じではないでしょうか。 私などは、この「従順」ですとか、「支配」ということばを聞いたり、口にしたりすると、何といいますか、居心地の悪さを感じてしまいます。「いいか、黒いカラスでも、私が白といったら白だ!」というような、不条理な従順と支配、といったようなものです。それは私が、不幸にも、この教会に導かれるまでの道のりで、あまり健全ではない主従関係を体験したことが、いまに至るまで人生に若干暗い影を落としているせいかもしれません。  もしかするとみなさんは、そこまでの不幸な体験をせず、つねに健全な人間関係の中で、従順と支配というものを体験してこられたかもしれません。しかし、そのようなみなさんにも、今日の本文から考えていただきたいのです。私たちは、神さまがこの地上に住む人間にとって、上に立たれるお方であることを認めるとき、どうしてもこの地上における従順と支配というものの相似形としての、自分と神さまとの関係ということを考えずにはいられないはずです。 私もまた、以前体験した不幸な主従関係は、神さまと自分との健全であるべき関係にも、確実に暗い影を落としたと思います。それゆえに、神さまとの交わりの中で時間をかけて、この暗い影が取り払われるように、解決へと歩みを進めていきました。そのようにして、どこまでも健全な主従関係である神さまと自分との関係から、この世におけるあらゆる主従関係というものをとらえ直す知恵を得ることができるようになりました。  そこで、今日の本文です。奴隷という存在が当たり前のようにあった時代において、パウロが勧めをしたことにはどのような意味があったか、ともに見ていくことによって、私たちを支配していらっしゃる主に従順に従うことについて学びたいと思います。 まず、奴隷と主人という関係は、クリスチャンと神さまの関係の相似形と言えます。と言いますのも、この「主人」ということばは、原語では「キュリオス」といって、まさしく、神さまを意味する「主」を意味することばです。5節のみことばを読んでみますと、「キリストに従うように」「地上の主人に従いなさい」と命じられていますが、この「地上の主人」とは、原語においては「肉による」主人です。まさしく、肉体を取られてこの世に来られた主イエスさまを彷彿とさせます。このように、神さまを主とするクリスチャンは、地上の主人のもとにある奴隷と相似形を成していると言えます。 そこで、奴隷という存在について考えてみましょう。 同じ箇所の6節には、「キリストのしもべ」と出てきます。しかし、「奴隷」と「しもべ」は、見てみるとちょっとニュアンスが異なりますが、原語では同じ「ドゥーロス」です。「奴隷」も「しもべ」も、まったく同じです。そこで、主人に従う奴隷の立場を考えることで、私たちにとっての従順のあり方を深めることができると信じます。 もともと、主の民にイスラエルにおいては、奴隷というものに対する扱いが、他の民族に比べて際立っていました。みことばを読んでみればわかりますが、奴隷というものの人権をきわめて大事にしていたことがわかります。出エジプト記21章、1節から6節をお読みください。…… イスラエルはもともと、人間的な隷属状態で激しい苦しみの中にありました。主はそれを憐れんで、彼らをその奴隷状態から救い出してくださいました。エジプトにそのような目に遭わされた彼らは、こうして主に救っていただいた以上、またとそのような非人権的な扱いを人にしないようにと、主に導かれたのでした。 そのような背景で、このような奴隷に対して手厚い制度が定められたわけですが、生涯隷属させるわけでもない、だからといって一定期間が来たら放り出してあとは知らん顔、ということでもない、そのような中で、7年目になって年季が明けるときに、主人を気に入って、主人に生涯仕えることを選べるように定められたわけです。このようにして、主人に仕えることを選ぶことは、主の主権の中で与えられた自由意志において主にお従いすることを選ぶ、クリスチャンの歩みに似たものがあります。 そういうわけで、奴隷という、かぎりなく弱い立場の存在に寄り添うということは、律法の精神であり、みことばの精神です。 この精神は、新約聖書に入り、イスラエルの共同体の枠を超えた宣教地にて教会が形成されていく際にも発揮されていくことになります。今日の箇所のエペソ6章もその文脈で理解できます。 それだけではありません。ピレモンへの手紙は、オネシモという奴隷が主人ピレモンのもとから逃亡したのちに、獄中のパウロの教えを受けて回心し、やはり信仰者として応分の成長を遂げたピレモンのもとに送り返されるという内容ですが、この中でパウロはピレモンとオネシモの関係について、このような表現を用いています。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟……」 「あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか」 そうです。主にあるということならば、人間関係は主従関係で終わるのではありません。主にあって兄弟という、新たな関係に入るのです。 主人も奴隷も兄弟。これはとてもすばらしいことです。というよりも、主がそのように人をお造りになった以上、これは受け入れるべき真理です。しかし、これは権力者にとっては、恐るべき危険思想に映るものです。小中学生の時、秀吉の時代に日本がキリスト教を受け入れなかった理由は、まさにこの平等思想にあったと教えられました。しかしそれを危険思想どころか、進んで受け入れる主人があるならば、そこから社会は改革されていくはずです。近年とみに「ブラック企業」というものがクローズアップされていますが、マネジメントをする人たちにみことばの教えが伝わり、多くの苦しんでいる人たちが解放されるように願ってやみません。 しかし、兄弟だからといって、それなら奴隷が主人を兄弟扱いしてもいい、ということではないわけです。テモテへの手紙第一、6章1節と2節をお読みください。 兄弟という関係は、主にあって確かめるべき立場です。しかしそれ以前に、私たちはこの地上に生かされているものであることを忘れてはなりません。この地上に一定の上下関係という秩序の中で生かされているゆえに、むしろますます、勤勉になり、ああ、さすがクリスチャンだ、すばらしい働きをしているではないか、と、人々の称賛を得られるようにする責任があります。 私にとっても、クリスチャンの「上司」と呼ぶべき存在はいました。この教会にやって来てから2年半の間は、宇佐神先生がそうでしたし、それ以前にもいろいろな教会で、主任牧師、また、さらに下積みのときには、副教職者に仕えてまいりました。 しかし、その先生方のことを、もし「兄弟」などと思って軽く見たならば、私は何一つ学ぶことはできなかったはずです。組織の秩序もあったものではなく、ただ生意気な存在として遠ざけられ、周りのクリスチャンにも、証しにも何にもならなかったはずです。上下関係をきちんとさせることは、主を証しする生活において、とても大事なことです。 さて、エペソ書に戻りましょう。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。すばらしいことばです。私たちはどれほど、キリストを恐れ尊んで従っているでしょうか? この世の権威に従順になることは、日々の交わりの中で形作られるキリストへの従順の度合いに比例すると言えます。 6節のみことばを見てみましょう。「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく……」このように警告されているということは、主が人の心の中をご覧になる、ということを意味します。 普通に考えるならば、奴隷にとっての労働の目的は、主人の気持ちを満足させることであったとしてもいいはずです。実際、気まぐれな主人というものはいるもので、かわいそうに、その主人の顔色に左右されながら仕えざるを得なかった労働者は、古今東西どこにでもいたことでしょう。 もちろん、形さえこなしていれば、あるいは主人は満足してくれるかもしれません。それで充分かもしれません。しかし、みことばが主にある奴隷に求めている労働の態度は、それをはるかに上回るものです。心の中でどう考えているか、これが大事です。 表面的に取り繕いさえすればそれでいい、それは、ほんとうの意味では、主の栄光を現していることにはなりません。神に従っているのではなく、人に従っていることにすぎなくなります。神の御顔を見ているのではなく、人の顔色を見ているのにすぎません。 私たちの信仰生活も、これと同じことが言えます。私はDコースを始めて、ディボーション、聖書通読を毎日したか、また、お祈りを一日どれくらいしたかということをチェックするシートをメンバーに渡していますが、それは、ある人はできた、ある人はできなかった、ということを比較してもらうためではありません。それをしてしまうと、神さまとの関係で成長すべきなのに、人を意識してしまうことになるからです。弟子訓練牧会の落とし穴はいろいろありますが、最大の落とし穴といえるものは、神さまにある訓練が、いつの間にか、人を意識した訓練に取って代わられる危険と隣り合わせ、ということです。 いえ、これは弟子訓練にかぎりません。およそ人のいるところでは、神さまよりも兄弟姉妹を意識した教会生活を送りがちなのは、みな注意しなければなりません。もちろん、よい信仰生活を送る兄弟姉妹はモデルにはなりえますが、その兄弟姉妹に認めてもらおうとして信仰を成長させるわけではありません。いわんや、教会の中で、あの人は素晴らしい信仰者だという噂を立ててもらおうと、人を意識した教会生活を送ることなどは論外です。 私たちのあらゆる信仰生活、あらゆる奉仕に打ち込むことは、即、主にお仕えすることという意識を持つことが、どうしても必要です。と申しますより、私たちが日々愛をもって交わりを保っている主に対し、その愛を表現する場は、奉仕の場、労働の場です。心の中でだけ主を愛している、とはならないはずです。ほんとうに愛しているならば、兄弟姉妹と共有する場において、心からの働きを実践してこそ意味があります。 8節のみことばです。……このみことばをお読みすると、よい行いには主からの報いがあることが示されています。私たちは、人からの評価に左右されず、いまもなおよい行いに打ち込んでいらっしゃる方々が多くいらっしゃることでしょう。そのようなみなさんは、人生に何か特別なプラスアルファを期待することよりも、そのようにして主のご栄光を現すことそのもので、主からの祝福、報いを受け取っていらっしゃるわけです。 しかし、間違えてはなりませんが、私たちはよい行いをすることで「救い」をいただくわけではありません。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、すでに救われています。救いを受けて天国に行くために、これ以上努力をする必要はありません。しかし、救われたゆえに、救ってくださったお方のために喜んで働きたい、となってしかるべきではないでしょうか? 考えてみてください。神さまがこの天地を創造され、人を創造されたとき、最初の人アダムに与えられたことは、労働でした。その労働は、もちろん祝福でした。労働することそのものが喜びに満ちた祝福であることを、私たちはこの身をもって、この世界に復活させる必要があるはずです。 さて、ここまで学んでくると、今度は「主人」に立てられた人はどうか、という問題になります。9節のみことばをお読みしましょう。 このみことばを見ると、奴隷に対しての主人は、天におられる主、また地上の主人と、2人いて、同時に天におられる主は地上の主人にとっても主である、という構造が見えてきます。 この、地上の主人である者もまた、奴隷同様、エペソ教会を形づくるメンバーであるわけです。したがってクリスチャンです。しかし彼らは、奴隷に対して一定の権限を持つことが認められている存在です。 このような上下関係の、上に立つ者が主にある人の場合、その責任は重くなります。聖書をご覧ください。名もなき奴隷や庶民のことがクローズアップされる箇所に比べ、王や教会指導者のようなリーダーがクローズアップされる箇所のほうが、それこそけた違いに多くあります。そう考えると、聖書はリーダーの物語といえます。 では、なぜこれほどリーダーの物語が聖書に登場するのでしょうか? それは、アダム以来、「地を従えよ」と神さまから命じられている私たち主の民が、それこそ「地を従える」リーダーとしてふさわしく振る舞うべく、時にモデル、時に反面教師として、神さまが聖書を通して、それぞれの時代のリーダーを提示しておられるからと考えられます。 そういう前提で聖書を読むと、この箇所その他に登場する「奴隷」もまた、「地を従える」リーダーと読み取れなくもないのですが、それはともかくとして、「主人」は、この地上において主の権威と支配を「代行」する立場として、私たちにとっての主にあるリーダーシップを確認する上で、とても大事なモデルです。 「脅すことはやめなさい」とあります。このところ、芸能事務所の社長が、その看板タレントを、仲間たちの解雇を盾に脅したことが話題になりましたが、あれが批判されるのはもちろん、パワハラという、非人道的な支配を行うことだからです。パワハラとは「パワー・ハラスメント」で、上下関係、力関係を用いた嫌がらせ、という意味です。あのタレントはそれこそ、記者会見を開くことで風穴を開けることができましたが、奴隷にはいったい、そのような力などどこにあるというのでしょうか。だから、奴隷が主の民として保障されるためには、主人が主を恐れることが、どうしても前提として必要になります。 主にあるリーダーシップを行使することは、その組織を維持させるうえで、時には必要になります。それもなくだらしなく振る舞うならば、組織がどうやってふさわしく運営できるというのでしょうか。しかし、だからといって、人間的な厳しさで組織が保たれるわけではありません。主人もまた、主にあって部下に接する必要があります。それが、自分もまた、主のしもべであるという態度を謙遜に持つ者としてふさわしいことです。 私たちはいろいろな形で上下関係に生かされています。時に私たちはしもべのような立場におかれますし、また主人のような立場におかれます。この上下関係の中で、私たちが人を意識するか、それとも神さまを意識するか、その違いはとても大きいものです。私たちは神さまにある振る舞いを選択してまいりたいものです。 大前提として、私たちは人のしもべである以前に、主のしもべです。だれであれ、主のしもべとして振る舞うことが求められています。主のしもべとして歩むのです。その歩みは、この世界の片隅で苦しむ、奴隷状態にある人たちが解放されていく歩みへとつながります。 その歩みを私たちが一歩一歩進めていくことができるように、そのようにして、私たちがこの地にまことの平和を実現する者として用いられる者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。

従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教

聖書箇所;エペソ人への手紙6章4節 メッセージ題目;従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教育    インターネット上には怒りと呪いのことばがあふれています。それは、人は何かで怒り、鬱憤を晴らしたいからではないかと思います。しかし多くの場合、その怒りはとても幼稚なものです。なぜ人は幼稚な怒りをいだくのでしょうか? それはもしかすると、幼いときからいだいてきた怒りの感情を、大人になってそれ相応に成熟してきたはずなのに、いまだに捨てることができないでいるせいではないでしょうか?  怒るのは大人の特権ではありません。子どもも怒ります。エペソ書6章4節、私たちはこの短い箇所から、子ども怒らせない教育、主の教育と訓戒によって育てる教育はいかにあるべきか、ともに考えてみたいと思います。   まず、親である大人が子ども怒らせるときとは、どのようなときでしょうか? それは子どもが、してはならないことをしたり、するべきことをしなかったりして、叱責し、その結果、反抗心をいだいて怒った場合でしょうか? そうではありません。 多くの教育理論においては、反抗期というものが当たり前に存在することを教えます。しかし、この理論に、真っ向から異議を唱える牧師先生が日本にいらっしゃいます。岡野俊之先生という方で、弟子訓練を軸とした牧会で、とても健康に教会形成をされている方です。以前も岡野先生のことは、メッセージの時間にお話ししたことがあるので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。 岡野先生はおっしゃいます。いったい、反抗期というものは、聖書に書いてありますか? クリスチャンのみなさんは、聖書よりも、一般的な教育理論のほうを正しいと思っているのですか? 私もときに、子どもの教育に手を焼くことがあります。私以上に子どもに関わる時間の長い妻などは、なおさらそう感じていることと思います。しかし、岡野先生のお話をお聞きして以来、私は子どもたちのその跳ね返る態度を、反抗期という、まことしやかに語られているもののせいにするまい、と考えるようになりました。 それなら、子どもが怒って反抗するならば、それを親である大人はどうとらえるべきなのでしょうか? それは「罪」と見なすべきです。箴言のみことばをご覧ください。箴言はどれほど、子たる者に、親に対して従順であるべきことを説いていることでしょうか? また、親に対する不従順のもたらす害毒について、これでもか、と語っていることでしょうか? 私も親ですので、子どもが罪を悔い改めないままでいてほしくありません。私自身を振り返ってみると、時に自分が親としてふさわしくない、親と呼ばれるに値するほど成熟していないことを痛感させられますが、しかしそのたびに立ち帰らされる事実、それは、ほかならぬ神さまが、私のことを2人の娘の親に立ててくださったという事実です。私がいかに未成熟であろうとも、また人格に欠けがあろうとも、その欠けは、神さまにあって解決すべき問題です。それなのになお、私が自分のことを親失格などと言うとすれば、それは私のことを親にしてくださった、神さまに対する冒瀆ということになります。私がどうしても自分の欠けに目が留まってならないならば、それを満たしてくださる神さまにこそ目を留めるべきです。 そういうわけで親に立てていただいた者として、子どもが罪の状態にとどまることがないように、時には厳しいことも言わなければなりません。子どもが悔い改めるならば、とても素晴らしい神の子どもとしてふさわしい人に、またひとつ変えていただくことができるからです。 『境界線』という題名の本があります。ご存知でしょうか。読めば人生観が変わるようなとてもいい本です。お読みいただければと思います。『境界線』という本です。その本は、ヘンリー・クラウド先生とジョン・タウンゼント先生というお二人の共著で、人はそれぞれ、神さまから定められた境界線を持っている、その境界線の中でこそ責任を果たし、境界線を乗り越えてくるような者たちには「ノー!」と言うことを学びなさいと言う、なかなかのチャレンジを与えてくれる内容ですが、このお二人は子育てということに関しても、これまた素晴らしいことをおっしゃっています。 「親の仕事は、子どもの中に眠っている『神の似姿』が成長し、それが花開くように手助けすることです。」 創世記1章27節をお読みすると、人は「神の似姿」に創造された、とあります。神の似姿ゆえに、聖書に啓示されている神さまに似た者へと変えられ、またそれ以上に、神と交わりを持つことができます。前にも何度か語ったことがあります。キリスト教というものはひと言でいえば「神との交わり」です。子どもが成長して、神と交わり、神のみこころを行えるだけの、神のかたちへと整えること、それが親の役割です。うちの子どもたちも、単に勉強ができるようになったり、単に身の周りのことができるようになったりすることが、教育することの目的ではないはずです。もちろん、それもたしかに大事なことでありますが、やはり大事なことは、子どものうちに神のかたちが育ち、神との交わりに生きる人になるように育ってくれることです。 しかし、そのように神のかたちが育つためには、子どものうちにある幼い罪の性質を、徹底して取り除いていく必要があります。それでも子どもは抵抗するでしょう。しかしその抵抗もまた、神さまが立ててくださった親という権威に対する不従順であり、したがって神さまに対する不従順です。育てる親の側もそのことをわきまえ、徹底して対決していく必要があります。 しかしもちろん、それは簡単なことではありません。ヘブル人への手紙12章11節をご覧ください。……このみことばには「苦しい」ということばが出てまいります。これは以前の訳の聖書では「悲しく思われる」と訳していて、もともとの意味は、単なる苦しみや悲しさではなく、「耐えがたいほどの悲しさ」を意味します。子どもの罪を取り扱うことは、その分子どもに痛みを覚えさせることであり、それはいわば、耐えがたいほどの痛みです。子育てがしばしば難しくなるのは、親の側に幼いころからの痛みが残されていて、その痛みを子どもが今まさに味わっている痛みに重ね合わせてしまうためと言えます。そういう点では、親もまた親としての役割を果たしていくために、日々主との交わりの中で傷をいやしていただく必要があります。そうしてこそ、しつけや教育のプロセスで現れる子どもの痛みに立ち向かえるようになります。 子どもは抵抗します。親から妥協や譲歩を引き出そうとするでしょう。しかし、そういうときこそ、親は、神さまが自分に与えてくださった権威のうちにとどまり、子どもに対してふさわしい導きをすることを、最後まで実践する必要があります。言うなれば、子どもとの間に引いてある、境界線にしがみつくのです。 もちろん、それは高圧的にすべしということではありません。子どもは生まれつき、自分は何でもできるという全能感の中で生きています。しかし、自分は決して全能の存在ではないというk十を思い知らせるのは、親たる大人の務めです。子どもは、自分から全能感が剥ぎ取られるとき、それをたまらなく不愉快に感じます。しかし、そうだからこそ、親はもがき苦しむ子供のそばに寄り添ってあげる必要があるわけです。そのようにして、子どもの痛みに充分に共感してあげられるならば、子どもの中には訓練された者にふさわしい、平安な義の実が結ばれ、人格的に成長し、キリストの似姿へと変えられるようになります。 しかし、このみことばが問題にしているのは、そのふさわしい子育てのプロセスで子どもが怒りを発することではありません。そうではない場合で、大人の身勝手な言動によって子どもが怒りを覚える場合、これが問題になります。  子どもが幼稚であることはもちろんなのですが、時に大人も幼稚さのゆえに子どもを怒らせることがあります。それは、子どものためを思って子どもをしつける際、その反応として子どもが怒ることとは異なります。   「つべこべ言わずにやりなさい」ということばがあります。一見するとこれは、大人が権威を示しているようでいいように思えますが、実のところ、行動だけではなくて、態度や感情においても大人の望むようにコントロールしようとすることばです。もちろん、勉強をさせたり、お手伝いをさせたりするとき、それをいやがる子どもにはそれ相応の権威をもって接する必要はありますが、その上で子どもの感情をろくに理解しようともしないで高圧的に接するならば、問題はちがってきます。  そうなると子どもは、表面的には従うふりをしても、心の中は怒りで満ちるようになります。また、やる気を失ったりもします。それで、心から親の教えに同意して、喜んで従うという状態からは程遠いことになります。  さらに子どもは、大人のダブル・スタンダードにも耐えられません。私たち大人も、ダブル・スタンダードを人に使われていい気持ちのする人はいないはずです。自分に甘く、他人に厳しい。それを親たるものが子どもにしてしまうならば、子どもはどれほど悲しみ、また、怒ることでしょうか。そういうわけで大人も、自分自身のことを律する必要があります。それでももし大人が、自分の居場所を保ちたいと思っているならば、子どもにも居場所を確保させてあげるだけの余裕を持つことが必要になるはずです。  私自身もとても自戒させられることですが、スマートフォンに向かっていたいときに、子どもにせがまれて遊びの相手ができるならば、きっとその人は、子どもを喜んでみもとに呼び寄せた、イエスさまの心に近い人ではないかと思います。自分に死んだ人、子どものために自分を喜んで差し出せる人、それこそ主の弟子にしていただけるにふさわしい人です。  また子どもは、どんなときに怒るのでしょうか。自分の人格を否定されたり、見下すような態度や言動を取られたりしたときに、子どもは怒ります。  上から目線、ということばがあります。、本来親しく人格的な関係を結ぶべき家族の間に、封建的な上下関係が存在するとするならば、それはたまったものではありません。  もちろん、親は子どもに対して権威を示す必要はあります。しかしイエスさまは、近寄ってくる子どもたちに対して、果たしてパリサイ人や、みこころを無視する言動に出た弟子たちに対するような、とてもきびしい態度をなさったでしょうか。決してそんなことはなかったはずです。イエスさまは子どもを抱き上げて、だれでもこの子どものように神の国を受け入れる者が、天の御国でいちばん偉いのです、とおっしゃったのでした。イエスさまの用いられた権威とは、そのような柔和に満ちて、それでいて決してさげすまれることはなかったような、したたかな権威です。  そういう権威と、むかしのカミナリ親父のようなおっかないばかりの人間的な権威とを、私たちはごっちゃにしてはなりません。日本のクリスチャンがときに不幸なのは、みこころにかなう権威のモデルを示すお父さんに出会う確率が、日本の教会にいるととても低いということではないかと思います。しかし、嘆いてばかりもいられません。嘆くくらいならば、私たちがそのモデルになるように取り組み、また、そのようなお父さんが生み出されていくようにお祈りすればいいことです。  イエスさまは少なくとも、私たちの人格を否定したり、軽んじたりするように接することはなさいません。私たちもイエスさまにならい、子どもを柔和に受け入れたけれども決して子どもに見下げられることはなかった、イエスさまの権威と人格に少しでも近づくものとなりたいものです。  最後に、神さまというお方は私たちにとって、どのような「親」でいらっしゃるでしょうか。言うまでもなく完璧なお方です。しかし、時に神さまは、人が罪ゆえに道をそれることを、あえてお許しになるお方でもあられます。あれほど神さまに愛されたダビデをご覧ください。子育てにおいてどれほど失敗したことでしょうか。ダビデは子どもを4人亡くしていますが、いずれも子育てであったり、ダビデの不始末であったり、そういうことの責任を取らされた結果とも見ることができます。それを、ひどい、と言うこともできるかもしれません。しかしそれでも、ダビデは神さまに愛されたことに変わりはありません。 私たちも失敗するでしょう。子どもを怒らせてしまった、主の訓戒と教育によって育てていることからは程遠い、そんな自分の姿にほとほといやになることもあるかも知れません。しかし、神さまはそんな私たちであろうとも、変わらずに愛してくださっています。教会において、親族の中において、学校において、あとに続く世代をふさわしく育てる私たちとなることができるように、私たちのために忍耐してくださっています。私たちもまた、神さまという親に育てられています。私たちは神さまによって理不尽に怒らされたことなど、あるはずがありません。日々みことばと祈りによって、教えられ、訓戒されています。そんな私たちは、だれであれ、子どもを育てるのにふさわしい大人へと変えていただけるのです。

従順と養育の相似形 前編

聖書箇所;エペソ人への手紙6:1~4 メッセージ題目;従順と養育の相似形 前編 先週に引きつづき、「相似形」シリーズです。今回は、従順と養育の相似形、と題しまして、親子関係を扱います。 親子関係は何の相似形でしょうか? そう、神さまと私たち人間の関係との相似形です。聖書を読みますと、神さまを「父」と表現する箇所がなんと多く登場することでしょうか! 私たちも信仰によって、この神さまを、天のお父さま、とお呼びすることができるのです。 ご案内のとおり、イエスさまが天のお父さまに呼びかけられたことばは「アバ」です。日本語の聖書によっては「アッパ」と書かれています。これもご存知の方は多いと思いますが、妻の母国韓国のことばで、パパ、は、「アッパ」といいます。日本語だと、かつてなら「お父ちゃん」ということばがありましたが、今、そんなふうに呼ぶ子どもなどいるのでしょうか。 それに比べると、韓国語の「アッパ」というのは自然です。むかし東京に住んでいた頃に奉仕していた韓国人教会の主任牧師は、もちろん韓国の人で、メッセージを韓国語で語る人でしたが、メッセージに熱が入ると、イエスさまが天のお父さまを呼びかけるシーンに差し掛かるたび、「アッパ、アッパ」なんておっしゃっていたものでした。私はそれを聞くたび、韓国語ということばに大きな嫉妬を覚えたものでした。特定の言語に嫉妬というのも変ですね。より正確に言えば、韓国語を母語とする韓国のクリスチャンたちに対してでしょう。ただし私は、韓国人のクリスチャンの方が、天のお父さまに向かって「アッパ」と呼びかけているのを聞いたことはありません。それはあまりに畏れ多いことだと感じておられるのだと思います。 今日学びますのは、そういう、天のお父さまと私たちの関係を映す鏡としての、地上の親子関係についてです。本日はその前編として、子どもから親に向かう関係を扱います。 まず、主にあって自分の両親に従いなさい、というみことばから見てまいります。 「主にあって」が鍵です。それがないとどうなるでしょうか? 自分の両親に従えって、じゃあ、親が物を盗め、と言ったら、盗んでもいいの? なんて言われたら、まともに反論しにくくなります。 もう100年ちかく昔の映画になりますが、みなさんは、チャップリンの「キッド」という無声映画をご存知でしょうか? しみじみする名作です。でも、こんな場面もあります。チャップリンは長屋で貧しい暮らしをするガラス屋さんです。ひょんなことから彼は、捨て子の赤ちゃんを拾って育てることになります。その子は5年経って、かわいい男の子に成長しますが、彼は石を投げてひとんちの窓ガラスを割ります。するとそこにガラス屋のチャップリンが現れて、直し、儲けるという、「親子」がグルになってのとんだ悪知恵に観る者が大笑いする仕掛けになっています。でも、いかに親の命令で、親を助けるためといっても、これは「主にあって親に従う」ことというには、もちろん無理があります。 うそをついてはいけません、ケンカしてはいけません、勉強しなさい、これらの命令もまた、「主にある」ものだから従うべき、ということになります。 私たちの主にある考えやことばや行動の基準を決めるお方は、神さまです。より正確に言えば、神さまご自身が「主にある」ということの基準です。神さまはこのご自身という基準を人間に教えてくださるにあたり、聖書のみことばを備えてくださいました。聖書には、この人間の守り行うべき基準が、ことごとく記録されています。そういう点では、聖書には「説明書」という側面があります。 しかし仮に聖書が「説明書」だとしても、現代人が何かの製品を手にしたときについてくる説明書とちがって、被造物である人間の図面がついているわけでも、「よくある質問」のように使い手に合わせた懇切丁寧な解説がついているわけでもありません。ここに私たちは、聖書を解釈する必要というものが出てくるわけです。 聖書を解釈させてくださる方は、聖霊なる神さまです。聖霊なる神さまが、神さまのみ思いを私たち人間に伝えてくださいます。ですから私たちは、聖書を読むにあたり、自分の人間的な知恵で読んでしまわないように、聖霊なる神さまの助けをいただく必要があります。お祈りしてから聖書を読むのです。 そして、聖書の解き明かしにも普段から触れておく必要があります。礼拝メッセージを聴くことももちろんですし、毎日のディボーションのテキストをはじめ、聖書に忠実な書籍を数多く読むことも大事になります。 そして何よりも、この悟らされたみことばの教えを、私たちが集うときにともに分かち合うことが必要です。このことによって私たちは多角的にみことばを学ぶことになります。その分、みことばに対する理解が深まるわけです。 浅田次郎という小説家はかつて、ベストセラーになったウォルター・ワンゲリンの『小説 聖書』を評して、この本は難解な聖書を通読せしめる、と語りましたが、たしかにその本は素晴らしい作品にはちがいありませんが、どうしたって「二次創作」です。それを読んだからと、聖書を通読したことにはなりません。 聖書そのものを理解するには聖書を読むしか方法がありませんし、今あげたとおり、聖霊の働き、聖書に基づく解き明かし、分かち合いがなければ、浅田さんのおっしゃるとおり、聖書は難解なものでしかありません。だから私たちが、主にあって両親に従う、といっても、その根幹をなす聖書のみことばを基準とすることにおいて、この3つの要素を欠いてはならないのです。 しかし、そこから導き出される聖書の教えを、実は親たるもの、多く語っているものです。それは親であれ子であれ、人間である以上、神のかたちにつくられた存在だから、もちろんのことなのです。 私は今回のメッセージを備えるにあたって、岡野俊之先生の本、そしてもう1冊、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントの共著の本の、合わせて2冊を通読しました。そのどちらにも語られていたことは、子どもをしつけるのに妥協してはならない、ということでした。 よく、子どもは天真爛漫、純粋無垢などというフレーズが人々の口にのぼりますが、そういう面ももちろんある半面、子どもはいわば、「小さな罪人」です。親の命令に反抗したり、ケンカしたり、うそをついたり……誰から教わったわけでもないのに、そういう罪深いことをやってのけます。しかしもちろん、そのままでいいはずがありません。 そういう子どもたちをしつけるとなると、とても激しい反抗にあうことを覚悟しなさい、しかし、子どもは従順に従う喜びを知っているものです。あきらめずにおやんなさい、私はその2冊を読みながら、大きなチャレンジを与えられました。 何よりも、親に従順に従うことを知る者は、神さまに従順に従うことに何のためらいも覚えなくなります。まさしく、天のお父さまに従順になられた、実に十字架に至るまでも従順になられたイエスさまこそ、私たちのモデルです。もし、私たちが神さまとの関係において健全ではない部分があるならば、もしかすると私たちには、親との関係において、神さまのお取り扱いを受けなければならない部分があるかもしれません。 そこでつぎのみことばにまいります。「あなたの父と母を敬え。」 これはもちろん、モーセの十戒のことばです。この十戒の構造は、どうなっているでしょうか? 一応念のため、おさらいしましょう。第一、わたし以外にほかの神があってはならない、第二、自分のために偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、第三、主の名をみだりに口にしてはならない、第四、安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ、第五、あなたの父と母を敬え、第六、殺してはならない、第七、姦淫してはならない、第八、盗んではならない、第九、偽証してはならない、第十、隣人の家を欲しがってはならない……。 さて、この10の戒めが、前半は神さまとの関係を語り、後半が人との関係を語るものであることは、お分かりだと思います。しかし、第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」に関しては、この両者の橋渡しをする役割をしており、たんに生んでくれた親を敬いなさいという意味であるのと同時に、私たち被造物の親なる、父なる神さまを敬え、という意味にもなりえます。 この、敬うということは、「従順になる」ということで具体的に現れます。しかし実際のところ、親を敬っていても親の言うことを聞けてはいないということは、往々にして起こります。それは、神さまを信じ、愛していても従えていない、ということと相似形、といえます。 しかしそれでも、私たちがたとえ親に対して不従順の行いをしてしまったとしても、基本的に親を敬っていて、ごめんなさいと言えば許してもらえるという信頼があれば大丈夫でしょう。それは、もし私たちが神さまの御前に罪を犯したとしても、そのことに良心のとがめを与えてくださる聖霊なる神さまの働きによって悔い改めに導かれ、神さまとの関係を回復していただけるだけの信仰がうちに保たれていることと相似形です。 問題は、「敬う」という心がなかった場合です。もし人が、創造主なる神さまを敬うことができないならば、もはやみこころに沿った悔い改めなど期待すべくもないということになります。従順となるとなおさらです。 もちろん、よい行いをすれば、それはみことばに示されたよい行いと重なる部分はあるでしょうが、そのよい行いで神さまに認めてもらえるわけではありません。神さまの怒りは相変わらず、その人に注がれています。 同じことで、自分の親なのに敬うことをしないならば、いったいどうやって親に従うことなどできるでしょうか。というより、その人にとって、親に従うことなど、したくないことか、どうでもいいことかのどちらかでしょう。もしそれでも、親に従うことをその人がしたとするならば、それはたまたまか、いやいやながらか、計算ずくのおためごかしか、といったところでしょう。 しかし、親を敬うということは、従順によって秩序が保たれるという結果が伴う以前に、主のご命令です。私たちは主が地上に備えてくださった親を敬うことで、はじめて父なる神さまを敬う、すなわち聖なる恐れをもって近づくことができます。 ただ、このような話をよく聞きます。自分は父親との関係が悪かった。だから、父なる神さまという存在がどうしても信じられない。 なんとも悲しい話です。神さまとの関係すらゆがめてしまうような親子関係だったなんて、考えるだけでとても胸が痛みます。 そういう人は、こう考えたらどうでしょうか。地上の父親はどこまでも不完全だった。しかし、私が信じている神さまは、私の肉の父親のようではない、完全なお父さんだ。この天のお父さまは、決して私を裏切らない。このお父さまとの関係を、日々の主との交わり、礼拝と学び、交わりによって、しっかり保ち、それによって、地上の不完全なお父さんのことを少しでも赦す道が開かれるように、祈るのみです。 いえ、こうは申しましても、赦すということは、お父さんのところに行って和解しなさい、という意味ではありません。それをすると、下手をすればそれまで以上に、何倍にも傷つきます。お父さんと現実に関係がよくなければ、避けるべきでしょう。そうではなく、十字架の上ですべての人を赦してくださったイエスさまを思い、憎しみと怒りを手離すことを「選択」するのです。悪い思いに捕らわれているかぎり、私たちは前に進むことができません。それこそサタンの思うつぼです。 もちろん、「父と母を敬え」というこのみことばを律法的に守りさえすればいいわけではなく、守れないなら守れない自分であることを御前に告白し、そういう自分であることを自分で受け入れることも必要です。しかし、その守れないことは絶対に変えられない宿命では、ない、ということも、私たちは心に留める必要があります。 では、私たちは父と母を敬えば、何か祝福があるのでしょうか? あります。それが、第三のポイント、「幸せになる」ということです。 3節を読んでみますと、「あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」とあります。 これは、もとの十戒の第五戒、出エジプト記20章12節と比較すると、若干異なる点があります。まず、「あなたは幸せになり」ということばは、出エジプト記には書かれていません。これはいわば、聖霊なる神さまがパウロに与えてくださった、十戒の解釈のフレーズと言えます。 しかし、幸せとだけ言うと、その受け取り方や定義は人それぞれ、十人十色です。そこで私たちは、なぜパウロがこのように、「父と母を敬う」ことは「幸せになる」道だと語ったのか、もう少し見てみる必要があります。 そこでもうひとつの相違点を見てみましょう。エペソ書で「その土地」と言っているものは、出エジプト記では、「あなたの神、主が与えようとしているその土地」と書かれています。これはこの、出エジプトのただ中にあるイスラエル民族にとってみれば、「約束の地カナン」という、特定の地域を指します。その具体的な場所で長く生きますよ、という、イスラエルに向けた約束だったわけです。 これに対しエペソ書のほうでは、「その土地」としか書いてありません。このみことばを受け取ったエペソ人がユダヤ人ではなく、いわゆる「異邦人」であったことを考えると、パウロがこの十戒のみことばから「約束の地カナン」を意味するフレーズを省略したことはもっともなことです。 しかし、約束の地カナンとは、罪から贖われて永遠のいのちが与えられた者の生きる、神の国の象徴であると考えるならば、このエペソ書のみことばは、単にこの地上で長生きするという意味ではないことがわかります。神さまはなぜこのようなことをお許しになるのか、そのみこころは計り知れないものがありますが、私たちクリスチャンの間にはしばしば、幼いうちに天国に行く家族がいます。しかし、この「あなたの日々は長く続く」というみことばを表面的に読み取らず、そこから天国という意味を読み取れるならば、私たちはかぎりない慰めをいただくことができるのです。 この天国に入るものはだれでしょうか? イエスさまは、「幼子のように神の国を受け入れる者」とおっしゃいました。この幼子とは言うまでもなく、さきほど申し上げたような「小さな罪人」としての子どもではありません。一心に親を見上げ、親の言うことならなんでも喜んで従う心構えのできている子どもです。そして、そのような心構えで素直にみことばを受け入れ、イエスさまを信じる信仰を持つからこそ、天国に入れていただけるのです。 私たちはみな、子どもとして生まれました。お父さん、お母さんの子どもであるのと同時に、神さまの子どもです。まことに、地上の親の存在は、天のお父さまと私たちとの関係をあらためて考えさせてくれる存在です。そして、天のお父さまとの関係を通して、私たちは、この世にご存命にせよ、もう亡くなられたにせよ、地上の親との関係を捉え直し、私たちが主にあって何者かということを確認させられるものです。私たちを、親によってこの地上に生まれさせてくださり、その訓戒によって育ててくださり、この地上において主のご栄光を現す者として成長させてくださる主に感謝をささげましょう。