イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア
聖書箇所;マタイの福音書14:22~36 メッセージ題目;イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア 一時期、特にアメリカのクリスチャンの間にはやったグッズに、「WWJD」と書かれた リストバンドがありました。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、自分がイエスさまだったらどうするだろうか、という意味です。クリスチャンの歩みがイエスさまにならうものであるならば、私たちは何よりも、イエスさまならばどのように振る舞われるだろうか、そのことを常に考える必要があります。そのために、私たちは何よりも、聖書をお読みする必要があります。 今日の箇所をお読みしますと、イエスさまが、父なる神さまに対して、弟子たちに対して、そして群衆に対して、どのように振る舞われたかが書かれています。私たちはこの箇所から、自分に問いかけられているWWJD、イエスさまならどうするだろうか、その答えをそれぞれの生活に適用していただき、この一週間の歩みに一歩踏み出していただきたいと思います。 第一のWWJDです。イエスさまは父なる神さまに対して、お祈りをされました。 先週も学びましたとおり、イエスさまはこのとき、バプテスマのヨハネの殉教の知らせを聞いて、すぐにでも御父にお祈りされる必要がありました。しかし、群衆をケアしていては、それもかないませんでした。 そのときイエスさまは、群衆のあらゆる必要に応えてくださいました。病気の者をいやしてくださいました。たましいの飢え渇く者にみことばを教えてくださいました。そして、空腹に悩む何万もの群衆を満腹させるという奇蹟を行われました。私たちはそのときお弁当を差し出した少年や、大勢の群衆に食べ物を配った弟子たちのように、奇蹟のために献身すれば用いられるということを、先週のこの時間に学びました。 そしてようやく、この食事を分ける時間は終わりました。イエスさまは弟子たちを舟に乗りこませて先に行かせ、群衆を解散させられました。いよいよ祈りの時間です。イエスさまはお祈りを必要とされていました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしと父とは一つです。」それは、父なる神さまとイエスさまがひとつのご存在として、交わりを保っておられたということです。ゆえにイエスさまはどんなに忙しくても、御父の前に出てお祈りする時間を持っておられました。 また、イエスさまのお祈りは真剣なものです。十字架を前にしたゲツセマネの園でのお祈りは、汗が血のしずくのように流れた、と描写されています。どれほど真剣なお祈りだったことでしょうか。このときも、バプテスマのヨハネがむごたらしい殉教の死を遂げたことに、真剣な祈りをささげずにはいられなかったはずです。 しかも時間の経過を見てみましょう。イエスさまは夕方まで山におられたとあります。相当に長い時間、山にお一人でこもられたということです。イエスさまのお祈りは、簡単には終わりませんでした。まさしくイエスさまは、お祈りによって生きられたお方です。父なる神さまとのたえざる交わりの中で、父なる神さまが行われるとおりのみわざを、そのとおりにこの地上において行なっておられたのでした。 もし、私たちが神さまに用いられたいと願うならば、イエスさまのこのようなお祈りの姿は、私たちにとって見習うべきお姿です。私たちが動物と異なる点は、神さまと交わりを持つことのできる「霊」を持っている、ということです。私たちはこの世の人たちと異なり、私たちも神さまによらなければ、ほんとうの意味で生きていくことができないということに気づかせていただいた存在です。私たちの生きる目的はどこまでも、私たちをイエスさまの十字架によって贖ってくださった神さまのご栄光を現すことです。そのためにも、私たちにとっては、お祈りはどうしても必要なものです。お祈りしない、神さまのみこころを聴こうともしない者を、神さまが喜んでお用いになることがあるでしょうか? そこで、私たちがイエスさまにならうお祈りをささげるために、具体的に何ができるかを考えてみたいと思います。私たちは日常生活を営む中で、どこかで必ず、一人で過ごす時間を持っているでしょう。その時間をお祈りに充てるのです。声を出せるならば出した方がいいですが、大きな声を出す必要はありません。ひとりでいる場所で、父なる神さまに語りかけるのです。これは、実践してみることではじめて、その益を体験することができます。 一人でも多くの方に、イエスさまにならう真剣なお祈りを実践していただければと願います。 第二のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは弟子たちに対して、成長を促すケアをされました。 弟子たちは舟をこぎ出していました。しかし、何時間漕いでも、向かい風と波のためになかなか前に進むことができませんでした。 この船にはイエスさまが乗っていませんでした。彼らは自分の力で、この大風の中で舟を漕いでいかなければなりませんでした。それは、いかにガリラヤ湖の漁師出身のペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがこの弟子たちをリードしていたといっても、簡単なことではありませんでした。 イエスさまがいないならば、私たちは自分の力で物事を切り拓いていかなければなりません。このとき弟子たちは、まさにそのような困難を体験していました。しかし、イエスさまがともにおられることを体験するまでは、その道が開かれることはありません。 私たちももちろん、人生を生きるにあたってはそれ相応の努力が必要です。しかし私たちは、みことばとお祈りによってイエスさまの導きをいただくことなしに、何か物事に取り組もうとしてはいないでしょうか? そうなると私たちは、この弟子たちのように、あらゆる逆風や波によって苦しむとき、何の手立てもないということになります。 しかしイエスさまは、夜通し漕ぎつづけた弟子たちのところに、なんとも驚くべきことに、湖の上を歩いていらっしゃいました。弟子たちは肝をつぶしました。幽霊だ! しかしそれはイエスさまでした。しっかりしなさい! わたしだ! 主は私たち神の子どもを、決して離れず、またお見捨てになりません。私たちは困難に立ち向かわなければならないとき、イエスさまが駆けつけて、助けてくださる恵みをいただきます。聖書は、イエスさまのことを、不思議な助言者、と表現しています。大風の湖を渡ってやって来られるイエスさまは不思議です。そのように、不思議なようにして、イエスさまは私たちのところにやってきてくださいます。私たちの味わっている、あらゆる大風と波を越えて来てくださいます。 さて、ここでペテロが、この湖の上のイエスさまに話しかけました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」この真っ暗で大風が吹き荒れた湖の上で、ペテロはどれほどイエスさまに会いたかったことでしょうか。おお! あなたはほんとうにイエスさまなのですね! 私は早くあなたにお会いしたいから、湖の上を歩いて行かせてください! 果たしてイエスさまは「来なさい」とおっしゃいました。そのことばどおりにペテロが湖へと足を踏み出すと、なんと、ペテロは湖の上を歩きはじめました。驚くべき奇蹟を、ペテロは体験したのでした! ペテロのように、イエスさまを一身に見つめて一歩を踏み出そうとする者には、それ相応の報いをお与えになりました。あなたにも湖の上を歩かせてあげよう。このことによってあなたは、わたしが主であることを知るようになる。イエスさまが主であることを知るならば、私たちは全能なるイエスさまを信じて、イエスさまへと一歩を踏み出せるようになれるはずです。ここに、私たちの信仰が働きます。どのような嵐の中にあっても、イエスさまへと向かっていくならば、私たちは守られます。 しかし、風は相変わらず吹いていました。聖書を見てみますと、ペテロが「強風を見て怖くなり、沈みかけた」とあります。強風というものは体に感じるものであり、それを「見る」とはふつう言いません。しかし、いろいろな訳の聖書を見てみても、これは「強風を見た」というふうに訳されています。 強風を見た、ということは、何を見なかったのでしょうか? イエスさまを見なかったのです。イエスさまよりも、全身をなぎ倒すようにまとわりついてくる風のほうが気になり、恐ろしくなったのでした。その結果、ペテロは湖の上を歩くことができなくなり、おぼれだしました。 イエスさまさえ見えていれば安全なのに、それ以外のリスクに目を留める、そういう弱さを人は持っています。しかしその弱さのゆえに、私たちは溺れてしまうのです。人が絶対立てない湖、迫りくる大風、波……こういう現実的なリスクは、私たちの生活にもたえずついて回るでしょう。そのようなとき、私たちはそれでもイエスさまを見つめられるか、それとも現実的な計算をしてしまうかで、大きく変わってしまいます。 しかし、イエスさまはペテロをつかんで、引き上げられました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」しかし、私たちはペテロを不信仰となじることなどできるでしょうか? このペテロの姿は、私たちの姿です。私たちはイエスさまを見つめているつもりでも、どこかで現実的な計算をしてしまうものです。 しかし私たちは、そんなペテロを引き上げられたイエスさまのお姿にこそ目を留めたいものです。信仰のチャレンジをして、それでも信仰が貫けなかったとしても、イエスさまはそんな私たちの姿勢に責任を取らせるようなことはなさらないお方です。どこまでもご自身の責任において、私たちの手を取って危険から救い出してくださるお方です。 おっちょこちょいのペテロでしたが、それでもわずかでもイエスさまを見つめて、湖の上を歩いて行けました。そのような、少しずつの信仰のチャレンジの積み重ねで、私たちの信仰は深まってまいります。そのチャレンジは私たちが用意するものではありません。主が備えてくださるものです。一歩を踏み出してまいりましょう。 そしてイエスさまが舟にお乗りになると、大風はやみました。弟子たちはイエスさまが神の子であると告白し、礼拝しました。イエスさまがともにおられるならば、私たちはもう、大風のような人生の困難を考えなくていいのです。私たちのすることは、あれこれ考えることではなく、ただひたすら、イエスさまを礼拝することです。 私たちが主の弟子であるならば、イエスさまはそれにふさわしいケアをしてくださり、私たちの信仰が成長するようにしてくださいます。難しいことができなくていいのです。私たちはただ、目の前にはイエスさまだけが見える、イエスさまに向かって進んでいく、私たちの人生の歩みはそうありたいものです。 そして、私たちもお互い、イエスさまだけが見えるように励まし合っていく、そのような歩みをともにできますように、お祈りいたします。 第三のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは群衆に対して、ただ愛する働きをされました。 イエスさまのご一行は向こう岸に着かれました。するとそこに、大勢の群衆がやってきて、癒していただいたいと迫りました。イエスさまにはどれほど多くの人が押し寄せたことでしょうか? 着物のふさにでもさわりたいと願う人がいた、ということは、イエスさまは押し寄せる群衆でもうもみくちゃだった、ということです。 イエスさまは、ご自身のもとに来る人たちを拒むことをせず、ただひたすらに愛されました。彼らがいやされたいと願うならば、その願いどおりになさいました。イエスさまはまことに、愛にあふれたお方でした。 私たちにそのような愛はあるか、ということが問われます。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、という問いを自分に投げかけるとき、神さまの愛によって自分がほかの人に対して行動しているか、ということが問われないでしょうか? 使徒パウロは弟子のテモテに、終わりの日には困難な日がやってくる、と語りました。その終わりの日の特徴として第一にパウロが挙げたことは、人々は自分だけを愛するようになる、ということでした。要するに、自分のことしか考えない、自分さえよければどうでもいい、そんな考えをする人間ばかりになる、ということです。自分しか愛さない人間ばかりなんて、世も末だ、ということです。 そこで私たちの愛のあり方が問われます。私たちはどれほど、人のために献身すること、犠牲を払うことをお互いの間で強調しているでしょうか? 私たちの愛は、ただ愛されることを願うばかりの初歩的な段階を早く卒業しなければなりません。私たちが神さまに愛されていることをほんとうに知るためには、私たちこそがだれかをとにかく愛することを実践することです。 もちろん、その愛の行いは、だれかに見せていい人に見られたい、などという動機で行なってはなりません。私たちの愛の行いは、日々の主との交わりの中から生まれるものです。 私たちが毎日みことばを読み、お祈りするのは、宗教的に霊的ステージを上げるためでは決してありません。みことばに書かれているとおりを具体的に生活の現場で行うことで、神さまと隣人に対して愛を行うためです。 その愛も、見返りを期待してはなりません。いったいイエスさまは、人々に施しただけの愛の見返りをお受けになったでしょうか? 私たちは、ただ内側からあふれる神の愛によって、人々に愛を具体的に実践していくのみです。 私たちは互いの成長に役立てるように、交わりを保っていますでしょうか? 私たちは愛を実践していますでしょうか? その源となるのは、神さまの御前に一対一で出ていく祈りの時間です。日々この深い祈りを通して、互いの成長のために役立つ行いのできる私たちへと成長させられますように、人々に無償の愛を実践できる私たちへと成長させられますように、主の御名によってお祈りいたします。