イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア

聖書箇所;マタイの福音書14:22~36 メッセージ題目;イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア 一時期、特にアメリカのクリスチャンの間にはやったグッズに、「WWJD」と書かれた リストバンドがありました。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、自分がイエスさまだったらどうするだろうか、という意味です。クリスチャンの歩みがイエスさまにならうものであるならば、私たちは何よりも、イエスさまならばどのように振る舞われるだろうか、そのことを常に考える必要があります。そのために、私たちは何よりも、聖書をお読みする必要があります。 今日の箇所をお読みしますと、イエスさまが、父なる神さまに対して、弟子たちに対して、そして群衆に対して、どのように振る舞われたかが書かれています。私たちはこの箇所から、自分に問いかけられているWWJD、イエスさまならどうするだろうか、その答えをそれぞれの生活に適用していただき、この一週間の歩みに一歩踏み出していただきたいと思います。 第一のWWJDです。イエスさまは父なる神さまに対して、お祈りをされました。 先週も学びましたとおり、イエスさまはこのとき、バプテスマのヨハネの殉教の知らせを聞いて、すぐにでも御父にお祈りされる必要がありました。しかし、群衆をケアしていては、それもかないませんでした。 そのときイエスさまは、群衆のあらゆる必要に応えてくださいました。病気の者をいやしてくださいました。たましいの飢え渇く者にみことばを教えてくださいました。そして、空腹に悩む何万もの群衆を満腹させるという奇蹟を行われました。私たちはそのときお弁当を差し出した少年や、大勢の群衆に食べ物を配った弟子たちのように、奇蹟のために献身すれば用いられるということを、先週のこの時間に学びました。 そしてようやく、この食事を分ける時間は終わりました。イエスさまは弟子たちを舟に乗りこませて先に行かせ、群衆を解散させられました。いよいよ祈りの時間です。イエスさまはお祈りを必要とされていました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしと父とは一つです。」それは、父なる神さまとイエスさまがひとつのご存在として、交わりを保っておられたということです。ゆえにイエスさまはどんなに忙しくても、御父の前に出てお祈りする時間を持っておられました。 また、イエスさまのお祈りは真剣なものです。十字架を前にしたゲツセマネの園でのお祈りは、汗が血のしずくのように流れた、と描写されています。どれほど真剣なお祈りだったことでしょうか。このときも、バプテスマのヨハネがむごたらしい殉教の死を遂げたことに、真剣な祈りをささげずにはいられなかったはずです。 しかも時間の経過を見てみましょう。イエスさまは夕方まで山におられたとあります。相当に長い時間、山にお一人でこもられたということです。イエスさまのお祈りは、簡単には終わりませんでした。まさしくイエスさまは、お祈りによって生きられたお方です。父なる神さまとのたえざる交わりの中で、父なる神さまが行われるとおりのみわざを、そのとおりにこの地上において行なっておられたのでした。 もし、私たちが神さまに用いられたいと願うならば、イエスさまのこのようなお祈りの姿は、私たちにとって見習うべきお姿です。私たちが動物と異なる点は、神さまと交わりを持つことのできる「霊」を持っている、ということです。私たちはこの世の人たちと異なり、私たちも神さまによらなければ、ほんとうの意味で生きていくことができないということに気づかせていただいた存在です。私たちの生きる目的はどこまでも、私たちをイエスさまの十字架によって贖ってくださった神さまのご栄光を現すことです。そのためにも、私たちにとっては、お祈りはどうしても必要なものです。お祈りしない、神さまのみこころを聴こうともしない者を、神さまが喜んでお用いになることがあるでしょうか? そこで、私たちがイエスさまにならうお祈りをささげるために、具体的に何ができるかを考えてみたいと思います。私たちは日常生活を営む中で、どこかで必ず、一人で過ごす時間を持っているでしょう。その時間をお祈りに充てるのです。声を出せるならば出した方がいいですが、大きな声を出す必要はありません。ひとりでいる場所で、父なる神さまに語りかけるのです。これは、実践してみることではじめて、その益を体験することができます。 一人でも多くの方に、イエスさまにならう真剣なお祈りを実践していただければと願います。 第二のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは弟子たちに対して、成長を促すケアをされました。 弟子たちは舟をこぎ出していました。しかし、何時間漕いでも、向かい風と波のためになかなか前に進むことができませんでした。 この船にはイエスさまが乗っていませんでした。彼らは自分の力で、この大風の中で舟を漕いでいかなければなりませんでした。それは、いかにガリラヤ湖の漁師出身のペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがこの弟子たちをリードしていたといっても、簡単なことではありませんでした。 イエスさまがいないならば、私たちは自分の力で物事を切り拓いていかなければなりません。このとき弟子たちは、まさにそのような困難を体験していました。しかし、イエスさまがともにおられることを体験するまでは、その道が開かれることはありません。 私たちももちろん、人生を生きるにあたってはそれ相応の努力が必要です。しかし私たちは、みことばとお祈りによってイエスさまの導きをいただくことなしに、何か物事に取り組もうとしてはいないでしょうか? そうなると私たちは、この弟子たちのように、あらゆる逆風や波によって苦しむとき、何の手立てもないということになります。 しかしイエスさまは、夜通し漕ぎつづけた弟子たちのところに、なんとも驚くべきことに、湖の上を歩いていらっしゃいました。弟子たちは肝をつぶしました。幽霊だ! しかしそれはイエスさまでした。しっかりしなさい! わたしだ! 主は私たち神の子どもを、決して離れず、またお見捨てになりません。私たちは困難に立ち向かわなければならないとき、イエスさまが駆けつけて、助けてくださる恵みをいただきます。聖書は、イエスさまのことを、不思議な助言者、と表現しています。大風の湖を渡ってやって来られるイエスさまは不思議です。そのように、不思議なようにして、イエスさまは私たちのところにやってきてくださいます。私たちの味わっている、あらゆる大風と波を越えて来てくださいます。 さて、ここでペテロが、この湖の上のイエスさまに話しかけました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」この真っ暗で大風が吹き荒れた湖の上で、ペテロはどれほどイエスさまに会いたかったことでしょうか。おお! あなたはほんとうにイエスさまなのですね! 私は早くあなたにお会いしたいから、湖の上を歩いて行かせてください! 果たしてイエスさまは「来なさい」とおっしゃいました。そのことばどおりにペテロが湖へと足を踏み出すと、なんと、ペテロは湖の上を歩きはじめました。驚くべき奇蹟を、ペテロは体験したのでした! ペテロのように、イエスさまを一身に見つめて一歩を踏み出そうとする者には、それ相応の報いをお与えになりました。あなたにも湖の上を歩かせてあげよう。このことによってあなたは、わたしが主であることを知るようになる。イエスさまが主であることを知るならば、私たちは全能なるイエスさまを信じて、イエスさまへと一歩を踏み出せるようになれるはずです。ここに、私たちの信仰が働きます。どのような嵐の中にあっても、イエスさまへと向かっていくならば、私たちは守られます。 しかし、風は相変わらず吹いていました。聖書を見てみますと、ペテロが「強風を見て怖くなり、沈みかけた」とあります。強風というものは体に感じるものであり、それを「見る」とはふつう言いません。しかし、いろいろな訳の聖書を見てみても、これは「強風を見た」というふうに訳されています。 強風を見た、ということは、何を見なかったのでしょうか? イエスさまを見なかったのです。イエスさまよりも、全身をなぎ倒すようにまとわりついてくる風のほうが気になり、恐ろしくなったのでした。その結果、ペテロは湖の上を歩くことができなくなり、おぼれだしました。 イエスさまさえ見えていれば安全なのに、それ以外のリスクに目を留める、そういう弱さを人は持っています。しかしその弱さのゆえに、私たちは溺れてしまうのです。人が絶対立てない湖、迫りくる大風、波……こういう現実的なリスクは、私たちの生活にもたえずついて回るでしょう。そのようなとき、私たちはそれでもイエスさまを見つめられるか、それとも現実的な計算をしてしまうかで、大きく変わってしまいます。 しかし、イエスさまはペテロをつかんで、引き上げられました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」しかし、私たちはペテロを不信仰となじることなどできるでしょうか? このペテロの姿は、私たちの姿です。私たちはイエスさまを見つめているつもりでも、どこかで現実的な計算をしてしまうものです。 しかし私たちは、そんなペテロを引き上げられたイエスさまのお姿にこそ目を留めたいものです。信仰のチャレンジをして、それでも信仰が貫けなかったとしても、イエスさまはそんな私たちの姿勢に責任を取らせるようなことはなさらないお方です。どこまでもご自身の責任において、私たちの手を取って危険から救い出してくださるお方です。 おっちょこちょいのペテロでしたが、それでもわずかでもイエスさまを見つめて、湖の上を歩いて行けました。そのような、少しずつの信仰のチャレンジの積み重ねで、私たちの信仰は深まってまいります。そのチャレンジは私たちが用意するものではありません。主が備えてくださるものです。一歩を踏み出してまいりましょう。 そしてイエスさまが舟にお乗りになると、大風はやみました。弟子たちはイエスさまが神の子であると告白し、礼拝しました。イエスさまがともにおられるならば、私たちはもう、大風のような人生の困難を考えなくていいのです。私たちのすることは、あれこれ考えることではなく、ただひたすら、イエスさまを礼拝することです。 私たちが主の弟子であるならば、イエスさまはそれにふさわしいケアをしてくださり、私たちの信仰が成長するようにしてくださいます。難しいことができなくていいのです。私たちはただ、目の前にはイエスさまだけが見える、イエスさまに向かって進んでいく、私たちの人生の歩みはそうありたいものです。 そして、私たちもお互い、イエスさまだけが見えるように励まし合っていく、そのような歩みをともにできますように、お祈りいたします。 第三のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは群衆に対して、ただ愛する働きをされました。 イエスさまのご一行は向こう岸に着かれました。するとそこに、大勢の群衆がやってきて、癒していただいたいと迫りました。イエスさまにはどれほど多くの人が押し寄せたことでしょうか? 着物のふさにでもさわりたいと願う人がいた、ということは、イエスさまは押し寄せる群衆でもうもみくちゃだった、ということです。 イエスさまは、ご自身のもとに来る人たちを拒むことをせず、ただひたすらに愛されました。彼らがいやされたいと願うならば、その願いどおりになさいました。イエスさまはまことに、愛にあふれたお方でした。 私たちにそのような愛はあるか、ということが問われます。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、という問いを自分に投げかけるとき、神さまの愛によって自分がほかの人に対して行動しているか、ということが問われないでしょうか? 使徒パウロは弟子のテモテに、終わりの日には困難な日がやってくる、と語りました。その終わりの日の特徴として第一にパウロが挙げたことは、人々は自分だけを愛するようになる、ということでした。要するに、自分のことしか考えない、自分さえよければどうでもいい、そんな考えをする人間ばかりになる、ということです。自分しか愛さない人間ばかりなんて、世も末だ、ということです。 そこで私たちの愛のあり方が問われます。私たちはどれほど、人のために献身すること、犠牲を払うことをお互いの間で強調しているでしょうか? 私たちの愛は、ただ愛されることを願うばかりの初歩的な段階を早く卒業しなければなりません。私たちが神さまに愛されていることをほんとうに知るためには、私たちこそがだれかをとにかく愛することを実践することです。 もちろん、その愛の行いは、だれかに見せていい人に見られたい、などという動機で行なってはなりません。私たちの愛の行いは、日々の主との交わりの中から生まれるものです。 私たちが毎日みことばを読み、お祈りするのは、宗教的に霊的ステージを上げるためでは決してありません。みことばに書かれているとおりを具体的に生活の現場で行うことで、神さまと隣人に対して愛を行うためです。 その愛も、見返りを期待してはなりません。いったいイエスさまは、人々に施しただけの愛の見返りをお受けになったでしょうか? 私たちは、ただ内側からあふれる神の愛によって、人々に愛を具体的に実践していくのみです。 私たちは互いの成長に役立てるように、交わりを保っていますでしょうか? 私たちは愛を実践していますでしょうか? その源となるのは、神さまの御前に一対一で出ていく祈りの時間です。日々この深い祈りを通して、互いの成長のために役立つ行いのできる私たちへと成長させられますように、人々に無償の愛を実践できる私たちへと成長させられますように、主の御名によってお祈りいたします。

奇蹟への献身

聖書箇所;マタイの福音書14章13~21節 メッセージ題目;奇蹟への献身 私たちの礼拝するお方、イエスさまは全能なるお方です。イエスさまが全能であるということを、私たちは聖書のみことばから知り、信じることができます。 イエスさまは実にいろいろな奇蹟をなさいましたが、その奇蹟の中でも、本日お読みした、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、特筆すべきものです。といいますのも、この奇蹟は、四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に記録されているみわざだからです。イエスさまの復活を別にして、四つの福音書すべてに記録されている奇蹟は、この五つのパンと二匹の魚の奇蹟、これだけです。 しかし、私たちはこの奇蹟について学ぶにあたって、まず覚えておくべきことがあります。それは、イエスさまにとっては、とても大事な人、バプテスマのヨハネを、たいへん不幸な形で失ったという、その背景の中でこの奇蹟が行われたということです。 「刎頚之友」ということばがあります。この親友のためならば首を斬られてもかまわない、という、中国の故事成語です。ヨハネは、イエスさまにとって、刎頚之友となりました。バプテスマのヨハネは、聖書の教えに殉じた人でした。この殉教は、言うなればイエスさまのことばの正しさを証明したということであり、バプテスマのヨハネはほんとうの意味で、イエスさまにとっての「刎頚之友」となってその生涯を果てたのでした。 そしてその殉教が、ヨハネの弟子たちによってイエスさまに知らされました。そのときのイエスさまのお気持ちを考えてみましょう。イエスさまは、ご自身にやがて来たる十字架の死を思われなかったでしょうか。そして、それと同時に、どれほどヨハネの死を悲しまれたことでしょうか。イエスさまには祈りの時間が必要でした。ただちに寂しいところに退かれ、祈りの時間を過ごすことにされました。 しかし、群衆はそんなイエスさまを目ざとく見つけました。イエスさまのそんなお気持ちを知ってか知らずか、イエスさまを放っておきませんでした。ぞろぞろとついてきました。 ここでイエスさまは、ひとつの決断をされました。御父なる神さまのもとに行って一対一の祈りの時間を持つ前に、まず目の前の群衆にみことばを語り、病気の者をいやさなければ……。 イエスさまは、ひとり寂しいところに向かおうと漕ぎ出していた舟を岸辺につけ、群衆をお迎えになりました。 しかし、ここで群衆の気持ちも考えてみましょう。群衆はイエスさまの前に出ることに、どれだけ差し迫っていたことでしょうか? とにかくイエスさまの話を聞きたかった! イエスさまに触れていただいて、いやしていただきたかった! その思いにあふれていました。しかし、彼らはそれで満足するあまり、肝腎のご飯を食べることを忘れていました。 弟子たちの中には、村に行ってめいめいに食べ物を食べさせればよい、群衆を解散させましょうと言う者もいました。しかし、ここに集っているのは男性だけで5000人はいます。近くにあるのが都会でも、そんな大量のパンなどおいそれと調達できるものではありません。いわんや近くにあるのは単なる村里です。何もできません。 しかし、イエスさまはさすがです。ご自身についてくる人たちを、決して飢えさせたままにはされないお方です。イエスさまは彼らに、必要なだけのご飯を分けてあげるという奇蹟を行われました。そうです! イエスさまの手にかかれば、私たちは養われるのです。私たちは安心して、イエスさまについて行っていいのです。イエスさまが必ず、私たちのことをあらゆる面で養ってくださるからです。 私たちは、イエスさまが全能なるお方であることを知っています。また、イエスさまは全能なるお方であると告白します。しかし私たちは心のどこかで、イエスさまよりも、この世の常識のほうを拠り所として、計算しながら信仰生活を送ってはいないでしょうか? 私たちがもし、全能なる神さまのみわざを見たいと願うならば、疑わずに全能なる神さまを全面的に信じ、その信仰を働かせてお祈りする必要があります。 さて、このイエスさまの奇蹟を前にして、三種類の人が登場します。第一は、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年、第二は弟子たち、そして第三は、食べて満腹した群衆です。 まず、少年から見てみましょう。マタイの福音書では、食べ物を差し出したのがだれかを明記していませんが、ほかの福音書では「少年」と書いています。 少年は幼い分、充分にこの世の経験を積んでいないかもしれません。しかしはっきりしているのは、それだけ世間ずれしていなくて、イエスさまに対する純粋な信仰を持っている、ということです。 大人になると、いろいろな世間のしがらみによって、とかく発想が窮屈になります。いちばんいけないのは、イエスさまに対する信仰が「理詰め」になることです。しかし、この少年はちがいました。少年にとって、お弁当はもちろん大事です。しかし、このお弁当をもしイエスさまに差し出したならば、みんなのことをいやしてくださっているイエスさまのことだもの、きっと何かしてくださる……そう信じきっていたのでした。 しかし少年は、ただ純真だっただけでしょうか? そうではなかったはずです。少年は、イエスさまと一緒に過ごす時間が、おそらくかなり長くなるのではないか、そうかんがえていたはずです。だからこそ、腹ごしらえができるようにお弁当を持ってくることを忘れなかったのでした。 この少年はイエスさまについていくにあたって、お弁当を忘れなかったように、やるべきことは抜かりなく行なっていました。その備えをしていたという点で、ほかの群衆とはちがっていました。その結果、主に用いられる栄光に浴したのでした。 私たちは常識にとらわれて信仰を働かせないのも困りますが、むやみやたらに無鉄砲なことをしてもいけません。「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、神さまが人に与えてくださった能力を最大限に生かし、それでも自分の努力ではどうしようもない領域に全能なる神さまが働いてくださるように御手にゆだねる……これでまいりたいものです。 次は弟子を見てみましょう。群衆はどれほどの数だったでしょうか。成人男子だけで5000人いたとありますから、女性ですとか、それこそこのお弁当を差し出した少年を含む、子どもまで入れたらとんでもない数になります。この群衆に、たった12人の弟子で食べ物を配りなさいとイエスさまはおっしゃいました。一人で1000人は担当しなければならない計算です。 しかし、弟子たちはやり遂げました。弟子たちは、イエスさまがパンと魚を信じられないほどに増やされる奇蹟を目撃しただけではありません。このたいへんな働きに、「用いていただく」光栄にあずかったのです。 イエスさまのみわざは、単独で行われるものではありません。いかにイエスさまがパンと魚を増やされたとしても、それを配る人が必要です。イエスさまのみわざは、イエスさまに聴き従う弟子たちによってなされます。主の働きというものは、教会奉仕にしても、伝道にしても、取り組んでいるときに、時に疲れを覚えることもあるかもしれません。しかしそんなとき……この重労働とさえ言える奉仕に取り組んでいた十二弟子を考えてみましょう。彼らの顔を想像してみましょう。彼らは、イエスさまのみわざを今まさに目撃している喜び、イエスさまに今まさに用いていただいている喜びに輝いていたにちがいありません。 イエスさまとともに、イエスさまによって、これが、私たちの信仰生活にとって何よりも大事なことです。この、イエスさまの御前に生きる意識がなければ、私たちの信仰生活はことごとく、人に見せるために行うものにすぎなくなってしまいます。礼拝堂のお掃除をしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる、食事の準備や片づけをしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる……もちろん、奉仕は大事ですが、イエスさまの御前でする意識を持つのと、ほかの兄弟姉妹の目を気にするのとでは、同じことをしているようで、まったくちがうことをしていることになります。信仰生活とは、人の目を気にして行うものではありません。 イエスさまが私のことを喜んで用いてくださるから、私も喜んで取り組む、主人であるイエスさまの喜びを、この信仰生活によってともに分かち合う、それでこそ私たちは、この十二弟子にならう本物の信仰生活を送っていると言えるのではないでしょうか? みことばは語ります。「受けるより与える方が幸いである。」私たちはとかく、恵みを受けることばかり求めるものです。しかし、主に用いていただくときに味わう喜びは、主から何かを受けるときに味わう喜びとはまた違う、すばらしいものです。用いていただく体験をした人しかその素晴らしさは分かりません。この喜びに、私たちがひとりももれなくあずかれますようにお祈りします。 最後に、群衆を見てみましょう。彼らは、イエスさまが好きでたまりませんでした。イエスさまがお祈りをしようというのに追いかけていき、みことばを聴き、病気を治してもらい、そればかりか、奇蹟のようにご飯を食べさせてもらった……群衆はまさしく、イエスさまを追いかけただけの祝福をいただきました。 しかし、ヨハネの福音書を読んでみますと、この話には続きがあります。イエスさまはこの群衆に対して、あなたがたは食べて満腹したからわたしについてきただけだ、とおっしゃいました。そのおことばにつづけて、ほんとうの食べ物とは、イエスさまご自身のからだ、そして血であるとおっしゃいました。これを口にする者にまことのいのちがあるということです。 もちろん、これは私たち人間を救う、イエスさまの十字架を指して語られたおことばでしたが、このおことばに、群衆はふるいにかけられました。このことばは彼らに難解すぎたのです。あるいは、群衆はこのおことばに、血なまぐささ、野蛮さを感じたのかもしれません。もちろん、その意味を深く尋ねて、さらにイエスさまにしがみつけばよかったのですが、単なる肉的な祝福で満足しようとした群衆は、イエスさまのおことばに、今風の表現でいえば、「引いた」のでした。 残ったのは十二弟子でした。あの何万人もいた群衆はどこに行ってしまったのでしょうか。残ったのはほんとうにわずかな人、しかし、それがイエスさまの方法でした。イエスさまが何を語られようと、イエスさまのおことばにとどまり、分からなければ何度でもイエスさまに教えていただく、それが、群衆と弟子を分けるものです。主に用いられるのは、弟子です。主に用いていただくことに恵みを覚え、感謝できるのは、弟子です。私たちは自分のことを、群衆でいいと思っていますでしょうか、それとも、弟子でありたいと願いますでしょうか? 私たちは、イエスさまのみわざを茫然と眺め、ただ単にイエスさまが神さまであると告白するところにとどまったままでいてはいけません。イエスさまは、ご自身に献身する人を求めていらっしゃいます。お弁当を差し出した少年も、食べ物を配った弟子たちも、共通しているのは、「イエスさまに用いていただいた」ということです。イエスさまに用いていただくということ、これは、イエスさまの奇蹟を体験し、満たされること以上に恵まれること、喜びにあふれることです。 私たちもイエスさまの御手によって用いられる、その恵みをともに体験していきますように、主の御名によってお祈りいたします。

現代のティキコ、それは私たち

聖書箇所;エペソ人への手紙6章21~24節 メッセージ題目;現代のティキコ、それは私たち  暑い夏にぴったりのみことばを、ひとつご紹介します。箴言25章13節のみことばです。……言うべきことを忠実に伝言してくれる人がもしいるならば、それはその人にとってとてもすばらしいことです。    私たちにもそんな人がいるといいですね。パウロにはいました。それが、今日学びます、ティキコという人です。このティキコという人は、それこそ、夏の雪のようにすごい役割を果たしたわけです。夏に行きが味わえるということは、ただ爽快というだけではありません。ありえないようなことです。この、ありえないような恵みをもたらしたティキコについて、そして、このティキコの人となりから学べることを、これから見てまいりたいと思います。    第一に、ティキコはパウロと初代教会をつなぐ人となりました。  ティキコは脇役です。黒子です。しかし、私たちにみことばの教えが届くうえで、大きな役割を果たした人です。21節をご覧ください。……パウロはティキコのことを、主にある忠実な奉仕者であると、わざわざエペソ教会に向けて紹介しています。このティキコがエペソ教会にとって大事な存在であるパウロのことを伝えるということは、それは同時に、このエペソ人への手紙という書簡を言づけされていたことを推測させます。同じようにパウロが書簡の巻末でティキコのことに言及しているものには、コロサイ人への手紙、テトスへの手紙、テモテへの手紙の第二があります。   獄中のパウロが万感の思いをこめて書いた手紙を、パウロの指導してきた教会や弟子に届ける、それは、よほど信頼されていなければできないことです。パウロは獄中という限られた空間の中においても、ティキコがその任を全うできると見抜き、彼にすべてを任せたのでした。その結果、私たちはいまこうして、聖書を手にすることができているわけです。   パウロにしても、獄中ではなくて自由の身であったならば、それだけ人々にみことばを伝えて回り、より効果的に教会や指導者を訓練できたかもしれません。しかし、パウロは福音の正しさを立証する道を歩み続けた結果、こうして獄につながれることになったわけです。こうしてつながれることは、パウロにとっては避けられない道でした。   しかし、パウロは獄につながれようとも、愛をもって育てた教会や指導者を養育する道が残されているかぎり、最善を尽くしました。そのパウロのことばが届くために働いた無名の人、それがティキコでした。   ティキコのしたことは一見すると、パウロのしたことに比べるととても地味なもののように思えるかもしれません。しかし、彼のしたことは、パウロの手紙を忠実に、教会や指導者に送り届けたということです。   パウロの書簡の巻末の部分を見てみると、だれだこれは? というような名前が結構登場します。たとえばローマ書を見てみると、すごいです。プリスカとアキラは使途の働きとか、ほかの箇所に出てきたからまだ知っているとして、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロディオン、ナルキソ、トリファイナ、トリフォサ……。   まだまだ続く、ここ以外には出てこない名前が、これでもか、これでもか、と書かれています。しかし、こういう信徒たちがローマ教会を支え、それがこのローマ人への手紙を書く原動力になったと考えるならば、彼ら無名の信徒たちの存在は、実は私たちと関係があることになります。私たちがみことばによって生かされるというとき、その背後にはこのような無名の信徒たちがいたことを、私たちは忘れてしまうそうになりますが、彼らの存在は使徒パウロにとって、かけがえのないものでした。   私たちは、無名であっていいのです。要は、主に用いられるかどうかです。新約聖書、コリント人への手紙4章、1節と2節をお読みください。……パウロは、初代教会の指導者のチームを指して、「神の奥義の管理者」と言っています。その管理者になる資格は「忠実であることと」というわけです。そういう点では、諸教会や指導者に手紙を届けたティキコも立派な初代教会指導者チームの一員であり、パウロが「忠実」と太鼓判を押すだけのことはあるわけです。   有名じゃない、黒子のようだった、しかし忠実だった、そういう人によって、こんにち私たちが手にしているように、神のみことばである聖書を読めていることを、私たちは深く心に留め、そのような人を備えてくださった神さまに感謝をおささげしたいものです。    第二のポイントにまいります。ティキコは現代の働き人のモデルです。 ティキコは、パウロの様子を伝えただけではありません。23節、24節をご覧ください。……この祈りをもって締めくくられるエペソ人への手紙を、過不足なくエペソ教会に届けたことにありました。   ほんとうの働き人は、ほかでもない、みことばをこそ届ける人です。私たちの信仰生活は、たとえ有名ではなかったとしても、忠実にみことばをもって神と人とに仕える、多くの人の支えによって成り立ってきました。中には、名前さえ挙げられない人もいるかもしれません。しかし、そういう日本中、世界中の、あらゆる歴史に存在した有名無名の聖徒たちによって、私たちは支えられてきました。    私たちにもだれか手本になる人がいると思います。それは有名人である必要はありません。要は、私たちにとってのティキコがだれなのかを思い、その人との交わりの中で神さまに育てられることが必要です。   私たちにもだれかそのように、信仰を保つように祈ってくれた人、働きかけてくれた人がいるのではないでしょうか。ちょっと思い巡らしてみましょう。それはだれでしょうか? 有名な牧師のような実力者でなくてもいいのです。無名であっても信仰を支えてくれた、そのような方の存在はどんなにありがたいでしょうか。そういう方々に支えられてキリスト教会は成り立ち、私たちは成長するのです。このような方々を備えてくださった神さまに感謝いたしましょう。    第三のポイントです。ティキコは私たちのモデルです。 このエペソ人への手紙は、「恵みがありますように」ということばで締めくくられています。そうです、だいじなのは恵みです。私たちが救われ、神の子どもとなっていることは、ひとえに神さまの恵みによるものです。私たちが何かいい人であったり、努力をしたりしたからではありません。   エペソ人への手紙の中から、一箇所、だいじなみことばを抜き出すとしたら、どこになるでしょうか。それはおそらく、2章の8節と9節です。お読みしましょう。……これこそがクリスチャンです。恵みのゆえに、信仰によって。神からの賜物。賜物とは、プレゼントです。   私は一時期、トランプをたくさん持っていました。教会の子どもお楽しみ会などでかなり分けましたが、それでも手もとにはまだいくつか残っています。なんでこんなにたくさんトランプがあるのでしょうか? それは、トランプのコレクションが趣味の友人からもらったからです。   このあいだ、山中先生がこちらにいらっしゃったとき、私は山中先生と一緒にその友達に会い、伝道しました。そのとき、恵みということを説明するとき、私はこんなことを言いました。もし君がくれたトランプの値段をいちいち僕が計算して、じゃあ、これだけ払うよ、と、財布からお金を取り出したらどう思うかい。彼は、そんなのはいやだ、と、はっきり言いました。プレゼントにお金で応えてはならないのです。同じことは、救いというものにも言えることで、何かの努力の報酬として救われるのではありません。人は罪人ですから、罪がある以上、何をどうしても聖い神さまのもとには行けません。   神さまは人を愛しているから、さばきたくない。しかし、人には罪がある以上、きよい神さまは罪をさばかなければならない。その神の愛と神の正義を同時に実現したものが、イエスさまの十字架でありました。   このイエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちは救いを受け、天国に入れていただけるのです。このプレゼントは、ただ受け取るだけでいいのです。何の努力もいりません。   このような恵みを受け取った者として、その恵みがあるように人のために祈る、また、その恵みのみことばを人に伝える、その働きを担うことは、難しいことではありません。私たちはだれかを愛しているならば、その人に主を信じる恵みがあるように祈るのではないでしょうか? その人が恵みのみことばを受け取れるように、努力できるようになるのではないでしょうか?   私も、講壇から語るメッセージが、難しくなりすぎないようにしなければ、と思います。予告しますが、9月からは創世記を1章から学びます。メッセージの仕方ももっとわかりやすくする取り組みもしていくつもりです。私は有名な牧師などではありませんが、ティキコのように、無名だけれども忠実、これを目指していきたいのです。   みなさんにも励んでいただきたいのです。この水戸第一聖書バプテスト教会という、キリストのからだなる教会を建て上げるために、神さまと人の前に、まず忠実であることを目指していただきたいのです。そのように忠実であるならば、第一コリント4章のみことばのように、神さまは私たちに、みことばの奥義を管理する働き、すなわち、みことばを学び、その学んだことを人々にふさわしく宣べ伝える働きを委ねてくださいます。忠実であることを目指してまいりましょう。   私たちがティキコのようであるために、ティキコのようになるために、しばらく祈りましょう。神さまがティキコの存在を通してこの恵みのみことばをこの地に残してくださったこと、私たちにもティキコのような信仰の先輩、信仰の友を備えてくださり、私たちの信仰を成長させてくださったこと、私たちもまたティキコのようになれるように、忠実さを増し加えてくださいますように、しばらく祈りましょう。

代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り

聖書箇所;エペソ人への手紙6:10~20 メッセージ題目;代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り だれかが自分のために祈ってくれている。その嬉しさは、私たちならばだれでも感じることではないでしょうか。本日は、昨年のメッセージの復習になりますが、あらためまして、「神の武具」について学び、その前提で、「とりなしの祈り」というものについて学んでまいりたいと思います。 まずは本日のみことばの、10節のみことばをお読みしましょう。……私たちが主によって「強められる」こと、これは「強められなさい」とあるとおり、命令です。しかし、この命令は、自分の力で「強めなさい」と言っていないことがわかります。「強められなさい」なのです。 私たちはなぜ強められる必要があるのでしょうか? そのことが11節、12節で説明されています。お読みします。……ここから分かることは、私たちの戦いが、血肉、つまり、人間を相手にする戦いではない、ということです。そして、悪魔の策略とは何でしょうか? それは教会を無力にすることです。 なにしろ教会というものは、キリストのからだであるわけです。悪魔はイエスさまを十字架につけ、神の国とそれに属するすべての民もろとも滅ぼそうとしました。しかし、イエスさまは復活されました! 悪魔と悪霊どもはもはや、頭が踏み砕かれた蛇も同然になりました。 しかし、敵もさるものです。どっこい、頭が踏み砕かれても、まだ完全に死んだわけではありません。教会に影響を及ぼすだけの力は残っています。よくも、俺様の頭を踏み砕いてくれたな……復讐心に燃えた悪魔は、それ以来2000年にわたって、キリストのからだなる教会を弱体化させるためには、どんな方法でも用いてきました。 教会を悪魔の攻撃から守るためには、霊的リーダーのためにも、あらゆる信徒のためにも、そして自分のためにも祈る必要があります。それが霊的戦いです。とりなしの祈りとは即、悪魔と悪霊を相手にした霊的戦いです。 キリストのからだなる教会は、私たち一人ひとりが形づくっています。ということは、悪魔と悪霊の攻撃は、ほかならぬ、私たち一人ひとりに及ぶことになります。だからこそ私たちは、お互いのことについて具体的に関心を持ち、お互いのために祈る必要があるわけです。また、自分のお祈りの課題を、教会というこの共同体の中で分かち合い、祈ってもらう謙遜さも必要になります。 では、私たちはどのようにして悪魔や悪霊と戦うのでしょうか? 悪魔が何者かを知るのと同時に、私たちがどういう者にされているかを知って、戦いに出て行くのです。 13節をお読みください。……「邪悪な日」、と書いてあります。「邪悪な日」とは、私たちのいま生きているこの時代といえないでしょうか? 神さまはしかし、そんな時代に生きる私たちに、はっきりと使命を与えておられます。そのために私たちは、「神の武具」を身につけます。武具も身につけないで戦うならば、それは死ぬことを意味します。 武具は6つ出てまいります。ともに学び、しっかり武装しましょう。 ①まず14節です。「腰には真理の帯を締め」……帯、要するに「ベルト」です。ベルトをびしっと締めるならば、それだけ装備全体がきっちり身につきます。真理とはつまり、神さまのみことばは真理である、ということですが、このみことばの真理を身につけるならば、それが神の武具という装備全体を引き締める役割をする、ということです。 私たちを引き締めるものは、みことばの真理です。そうでないならば、あっという間に不安に落ち込みます。そこを悪魔は容赦なく狙うのです。私たちが聖書を学ぶ理由は何でしょうか? それは私たちが、まことの真理なるイエスさまを心にお迎えしている者にふさわしく、その真理を身に着け、真理の道を生きるためです。真理がしっかり身についているならば、どんな脅かしがあっても私たちは簡単には揺れ動きません。不安に陥ることもありません。 だからまず何よりも生きる基礎として、私たちは真理を身につけるのです。そのためにみことばをつねに読むのです。 ②次に、「胸には正義の胸当てを着け」……胸当ては、心臓や肺のように、いのちを司る臓器を守ります。ですから、正義がいのちを守るのです。 私たちにとっての正義は、神さまご自身であり、正義の基準は、神さまのみことばです。よく、私たちは「神は愛」と申します。しかしそれは単なる甘やかしとは、根本的に異なるものです。この神さまの愛には、いっさい譲ることのできない神さまの正義、悪を悪として徹底的にさばかれる神さまの正義の裏付けが、厳然として存在します。 その、正義の裏付けに満ちた愛の究極の形、それはイエスさまの十字架です。神さまにそむく罪を犯すことを選んだ人間は、死をもってさばかれることを選んだも同然でした。そうならないと、神さまはもはや、正義ではありえません。しかし神さまは、その罪の罰を、ひとり子イエスさまに負わせられました。イエスさまのあの十字架……ほんとうは私たちこそ、あのようにむごたらしく死んで、神さまに見捨てられて地獄に墜ちるべきだったのです。しかし、その罰をあえて御子イエスさまに負わせられることで神さまは正義を果たされ、私たちを滅びから免れさせて、愛を果たされました。 この愛に裏打ちされた正義こそ、私たちのいのちを守るものです。私たちも心の中にイエスさまをお迎えしている限り、そのように、いのちを捨てていのちを生かす、正義の人になれます。私たちにその力がなくても、神さまが恵みによって、私たちをそのような正義の人に変えてくださいます。これは、素晴らしい祝福の生き方です。 ③次に15節にまいります。「足には平和の福音の備えを履きなさい。」 戦場の土地は、さまざまな姿を見せます。それは岩地であるかもしれませんし、砂地であるかもしれません。草が生い茂っているかもしれません。 低い木々が生えているかもしれません。ぬかるみかもしれません。そのように、どんな場所であるか予測もつかない場所を縦横無尽に駆けるには、きちんと足にフィットし、なお丈夫な靴を履く必要があります。そうすれば、どんな攻撃にも対応でき、どんな攻撃も積極的に仕掛けることができます。戦場の環境によって無意味に傷つくこともありません。 その履物とは、「平和の福音の備え」であるとみことばは語ります。世の中には「福音」ということばがあふれていますが、私たちにとっての福音とはそもそも、イエスさまの十字架によって私たちは神さまと和解させられた、十字架を信じさえすれば私たちは救われて神の子どもとなり、永遠のいのちをいただく。 それには何の努力もいらない! これぞ福音です。平和の君イエスさまによって、神さまと平和を得ることができる……しかし、この福音、よき知らせを告げることには、「準備」がそれなりに必要になります。 私たちはいつでも、人にきちんと福音が語れるように、自分自身を訓練する必要があります。準備をするのです。福音の語り方を練習するだけではありません。私たちはだれに福音を語るのか、そのためにはその人とどんなコミュニケーションをあらかじめ取る必要があるのか、しっかり考える必要があります。ここにも「準備」が必要です。 履物をしっかりはいて戦場に行き、動き回って、福音を必要とする人々のたましいを悪魔の手から奪還する……これぞ霊的戦いであり、非常に奥深く、わくわくするものです。 しかし、私たちはその戦いに実際に出て行くには、それなりのクールな準備をする必要があるわけです。いざ伝道するにあたって、自分の態度やコミュニケーションの取り方には、もしかしたら問題がないか、相手とはどのように会話したら最も心を開かせられるか……また、相手に語る内容にしても、さまざまな側面を持つ福音の中でも、どの要素から順に語ったらよいか、あらゆる準備を普段からしておくことです。そのようにして、縦横無尽に福音を伝えるにふさわしい備えをするのです。 ④では、つづいて16節にまいります。「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」……これらすべての上に……つまり、真理と正義、平和の備えによって武装したうえで、信仰を働かせなさい、と語っています。 真理が自分自身を律すること、正義がいのちを守るもの、福音宣教の準備が実際の霊的戦いの備えだとすれば、信仰とは、悪い者の放つ火の矢、つまり悪魔と悪霊の具体的かつ激しい攻撃を見極め、それに合わせて用いるものである、ということがわかります。 矢は鋭くとがっており、これが刺さっただけでも相当なダメージを受け、当たりどころが悪かったらいのちにかかわります。それに火がついていたら、めらめら燃えた状態で刺さるのだから、ただの矢とは比べ物にならないほど、ダメージは大きくなります。火の特徴は、燃え広がる、ダメージを果てしなく大きくする、という点にあります。 この、悪魔の「2段階攻撃」を防ぐもの……それが「信仰」という名の「盾」であります。盾はもちろん、手で持つわけですから、火の矢が飛んで来る方向を見極めて、その方向に向けて盾を差し出せば、火の矢はからだに刺さらず、落とすことができます。悪魔は四方八方から、火の矢を放ってきます。しかし、悪魔の存在と策略が意識できていれば、悪魔と悪霊どもは私たち教会に向けて、いかなる攻撃を具体的に仕掛けてくるか、見抜けるようになります。そのように、敵の攻撃がいかに及ぶかを見極め、その攻撃を防ぐことを可能にするのが、信仰です。勝利のイエスさまがともにおられるという信仰、これこそが、私たちを悪魔のどんな攻撃に対しても勝たせる力です。 ⑤ では17節、「救いのかぶとをかぶり」、かぶととは何でしょうか? 私たちの頭を保護するものです。 旨と同じように、この「頭」というところも、攻撃されれば確実にいのちにかかわります。不測の攻撃を防ぐために、かぶとはいつも頭にかぶって戦う必要があります。 また、古代の戦争は馬に乗って戦うことも多くありましたが、落馬して頭でも打ったら、それこそいのちがありません。兜はそういう点で、頭を守る「ヘルメット」の役割も果たしています。以上のことから言えることは、兜とは、「いのちを守る物」であると言えます。 また、かぶとが覆っている頭とは、人を代表するものです。人は頭にかぶとをかぶれば、すぐにはそれがだれかということは見分けがつきません。かぶととは、その人の人格の象徴である顔を隠すものです。 言い換えるならば、人のいのちを守るにはその人の人格が隠れている必要がある、それを可能にするのが、救いである、というわけです。 私たちのすることは「自分ではなくキリストを現して生きること」、これではないでしょうか? キリストの救いが、私たちの顔、つまりいのち、全人格を覆うのです。そのように、キリストを現して生きることこそ、救いの兜をかぶって霊的戦いに臨む姿勢です。このような私たちにはもはや、悪魔の付け入るすきはありません。 ⑥そして、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」剣は「攻撃」のために用いる武器です。今まで見てきた5つの武具はすべて防御のためのものです。しかし、私たちは攻撃をしない限り、悪魔に勝利することはできません。そのために剣を用いるわけですが、このみことばではその「剣」とは、聖書のみことばであると語っています。 マタイの福音書4章で、イエスさまが公生涯に出て行かれる前、荒れ野で悪魔の試みをお受けになったとき、悪魔のささやきを何によって退けましたか? そう、「みことば」です。しかし、この場面にはミソがあります。悪魔を退けるたびに、イエスさまはみことばを引用しながら、「……と書いてある」と、いちいちお語りになったのです。イエスさまがこのようにみことばを引用して語られたのは、それが私たちクリスチャン、そして教会にとって、正しい悪魔への攻撃の方法であることをお示しになったからでした。 以上、霊的戦いにおける「武具」について見てまいりましたが、その「霊的戦い」において、私たちが何よりもすべきこと、それは「祈り」です。 この「祈り」の中身も、このみことばから見ますと、大きく分けて「聖徒のための祈りの勧め」と「著者パウロのための祈りの要請」に分けられます。 私たちはだれのために祈るのでしょうか? 「聖徒」のためです。みことばは私たち教会のひとりひとりのことを、「聖徒」と呼んでいます。「聖なる者」なのです。なぜならば私たちは、イエスさまの十字架を信じ受け入れたゆえ、すべての罪が赦され、神の子どもとなり、天国に入れられたからです。 しかし、私たちはこうして「聖徒」と呼ばれてはいても、依然として罪を犯すことがやめられません。いえ、罪深い考えそのものをやめることが、できないでいるのです。そのようなひどい罪人であるのは、どうしようもない事実です。しかし、そんな私たちであっても、私たちクリスチャンはお互いのことを、何を基準に見るべきでしょうか? 私たちが互いを見る基準は、人のことを「聖徒」としてくださった神さまです。だからこそ私たちにとって、互いのために祈ることに意味が出てくるのです。その人を「聖徒」としてくださった神さまのために、その人のことを神さまが用いてくださるように……そのように祈ってこそ、私たちのお祈りは、みこころにかなうものとなるわけです。 そればかりか、「すべての聖徒」のために祈れ、とあります。教会という、この共同体のひとりひとりのために祈ることが基本になります。しかし、自分たちの共同体の外にも、主の民、神の家族は存在しているわけです。 そして「どんなときにも……目を覚まして……忍耐の限りを尽くして」……率直にお聞きします。こんな風に祈れますか? 「どんなときにも」ですよ? それも「目を覚まして」ですよ? しかも「忍耐の限りを尽くして」ですよ? 発想を変えましょう。一人でお祈りを引き受けようと思うからいけないのです。大勢のチームを編成して、たくさんのお祈りの時間を積み重ねると考えてはいかがでしょうか。そうすると、祈りの時間はあっという間に積み上がります。 それなら私たちは、何をどうやって祈ればいいでしょうか? 具体的にあれこれ考える前に、聖霊なる神さまの助けによってお祈りする、そこからはじめていただきたいのです。そうすればみなさんは、何を祈るのがみこころかを教えていただけて、確信をもってお祈りできるはずです。 みなさんはもちろん、この礼拝に対しては、一定の重荷をお持ちのことだと思います。 しかし、だからといって、祈りの課題を羅列した「リスト」のようなものを手渡されても、それを見ながら毎日、本腰を入れてお祈りするのは少し厳しくはないでしょうか。もっと率直に言えば、退屈ではないでしょうか。厳しいと思ったり、あるいは退屈だと思ったりするのは、理由があります。それは、「聖霊に助けられて」祈っている確信がないからです。聖霊の助けをいただかないでその「祈りのリスト」を眺めていたって、たましいの通(かよ)ったお祈りなどできるはずもありません。 聖霊に導かれる祈り、神によって聖なる者とされたお互いのための祈り、それを「絶えず目を覚まして根気よく」祈りつづけるには、私たちが1つのキリストのからだであることをしっかり受け止めていること、これがどうしても必要です。私たちはキリストの1つのからだですか? そう思えなくても、みことばがそう言っています。水戸第一聖書バプテスト教会という、この共同体のために重荷を持って祈る私たちとなりますように、そのために、日々聖霊なる神さまの助けをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 そして、聖徒を導く教職者のための祈りについて学びます。 言うまでもなく、この「エペソ人への手紙」は、新約聖書を代表する大使徒、パウロが書いたものです。しかし、このエペソ人への手紙を書いたとき、パウロは獄中に幽閉されていました。その足で移動して、福音を伝えて回ることなどできません。あの、女神アルテミスの神殿の門前町、エペソに立てられた教会のことは、パウロとしては気がかりでならなかったでしょう。偶像礼拝をしなければ生きていけないような文化において、壮絶な戦いを体験しているエペソの聖徒たち……彼らへの万感の思いを込めて、このエペソ書は書かれたわけです。 しかし、パウロは彼らに対して、ただ守ってあげるだけの存在として、上から見下ろすようにして接していたわけではありません。いかにエペソ教会が、異教社会にあって立場の弱い群れであったとしても、彼らには自分のためのお祈りを頼んでかまわない……あなたたちは同労者なのです、仲間なのです……なぜならば、彼らもやはり、聖徒、神の民、キリストの同じからだなのだから……。 そのことを前提にして、本文を見てまいりましょう。19節です……。パウロはどんなことを祈ってほしいと頼んでいますか? まず、「語るべきことばが与えられて」、そのようにして「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」です。…