代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り
聖書箇所;エペソ人への手紙6:10~20 メッセージ題目;代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り だれかが自分のために祈ってくれている。その嬉しさは、私たちならばだれでも感じることではないでしょうか。本日は、昨年のメッセージの復習になりますが、あらためまして、「神の武具」について学び、その前提で、「とりなしの祈り」というものについて学んでまいりたいと思います。 まずは本日のみことばの、10節のみことばをお読みしましょう。……私たちが主によって「強められる」こと、これは「強められなさい」とあるとおり、命令です。しかし、この命令は、自分の力で「強めなさい」と言っていないことがわかります。「強められなさい」なのです。 私たちはなぜ強められる必要があるのでしょうか? そのことが11節、12節で説明されています。お読みします。……ここから分かることは、私たちの戦いが、血肉、つまり、人間を相手にする戦いではない、ということです。そして、悪魔の策略とは何でしょうか? それは教会を無力にすることです。 なにしろ教会というものは、キリストのからだであるわけです。悪魔はイエスさまを十字架につけ、神の国とそれに属するすべての民もろとも滅ぼそうとしました。しかし、イエスさまは復活されました! 悪魔と悪霊どもはもはや、頭が踏み砕かれた蛇も同然になりました。 しかし、敵もさるものです。どっこい、頭が踏み砕かれても、まだ完全に死んだわけではありません。教会に影響を及ぼすだけの力は残っています。よくも、俺様の頭を踏み砕いてくれたな……復讐心に燃えた悪魔は、それ以来2000年にわたって、キリストのからだなる教会を弱体化させるためには、どんな方法でも用いてきました。 教会を悪魔の攻撃から守るためには、霊的リーダーのためにも、あらゆる信徒のためにも、そして自分のためにも祈る必要があります。それが霊的戦いです。とりなしの祈りとは即、悪魔と悪霊を相手にした霊的戦いです。 キリストのからだなる教会は、私たち一人ひとりが形づくっています。ということは、悪魔と悪霊の攻撃は、ほかならぬ、私たち一人ひとりに及ぶことになります。だからこそ私たちは、お互いのことについて具体的に関心を持ち、お互いのために祈る必要があるわけです。また、自分のお祈りの課題を、教会というこの共同体の中で分かち合い、祈ってもらう謙遜さも必要になります。 では、私たちはどのようにして悪魔や悪霊と戦うのでしょうか? 悪魔が何者かを知るのと同時に、私たちがどういう者にされているかを知って、戦いに出て行くのです。 13節をお読みください。……「邪悪な日」、と書いてあります。「邪悪な日」とは、私たちのいま生きているこの時代といえないでしょうか? 神さまはしかし、そんな時代に生きる私たちに、はっきりと使命を与えておられます。そのために私たちは、「神の武具」を身につけます。武具も身につけないで戦うならば、それは死ぬことを意味します。 武具は6つ出てまいります。ともに学び、しっかり武装しましょう。 ①まず14節です。「腰には真理の帯を締め」……帯、要するに「ベルト」です。ベルトをびしっと締めるならば、それだけ装備全体がきっちり身につきます。真理とはつまり、神さまのみことばは真理である、ということですが、このみことばの真理を身につけるならば、それが神の武具という装備全体を引き締める役割をする、ということです。 私たちを引き締めるものは、みことばの真理です。そうでないならば、あっという間に不安に落ち込みます。そこを悪魔は容赦なく狙うのです。私たちが聖書を学ぶ理由は何でしょうか? それは私たちが、まことの真理なるイエスさまを心にお迎えしている者にふさわしく、その真理を身に着け、真理の道を生きるためです。真理がしっかり身についているならば、どんな脅かしがあっても私たちは簡単には揺れ動きません。不安に陥ることもありません。 だからまず何よりも生きる基礎として、私たちは真理を身につけるのです。そのためにみことばをつねに読むのです。 ②次に、「胸には正義の胸当てを着け」……胸当ては、心臓や肺のように、いのちを司る臓器を守ります。ですから、正義がいのちを守るのです。 私たちにとっての正義は、神さまご自身であり、正義の基準は、神さまのみことばです。よく、私たちは「神は愛」と申します。しかしそれは単なる甘やかしとは、根本的に異なるものです。この神さまの愛には、いっさい譲ることのできない神さまの正義、悪を悪として徹底的にさばかれる神さまの正義の裏付けが、厳然として存在します。 その、正義の裏付けに満ちた愛の究極の形、それはイエスさまの十字架です。神さまにそむく罪を犯すことを選んだ人間は、死をもってさばかれることを選んだも同然でした。そうならないと、神さまはもはや、正義ではありえません。しかし神さまは、その罪の罰を、ひとり子イエスさまに負わせられました。イエスさまのあの十字架……ほんとうは私たちこそ、あのようにむごたらしく死んで、神さまに見捨てられて地獄に墜ちるべきだったのです。しかし、その罰をあえて御子イエスさまに負わせられることで神さまは正義を果たされ、私たちを滅びから免れさせて、愛を果たされました。 この愛に裏打ちされた正義こそ、私たちのいのちを守るものです。私たちも心の中にイエスさまをお迎えしている限り、そのように、いのちを捨てていのちを生かす、正義の人になれます。私たちにその力がなくても、神さまが恵みによって、私たちをそのような正義の人に変えてくださいます。これは、素晴らしい祝福の生き方です。 ③次に15節にまいります。「足には平和の福音の備えを履きなさい。」 戦場の土地は、さまざまな姿を見せます。それは岩地であるかもしれませんし、砂地であるかもしれません。草が生い茂っているかもしれません。 低い木々が生えているかもしれません。ぬかるみかもしれません。そのように、どんな場所であるか予測もつかない場所を縦横無尽に駆けるには、きちんと足にフィットし、なお丈夫な靴を履く必要があります。そうすれば、どんな攻撃にも対応でき、どんな攻撃も積極的に仕掛けることができます。戦場の環境によって無意味に傷つくこともありません。 その履物とは、「平和の福音の備え」であるとみことばは語ります。世の中には「福音」ということばがあふれていますが、私たちにとっての福音とはそもそも、イエスさまの十字架によって私たちは神さまと和解させられた、十字架を信じさえすれば私たちは救われて神の子どもとなり、永遠のいのちをいただく。 それには何の努力もいらない! これぞ福音です。平和の君イエスさまによって、神さまと平和を得ることができる……しかし、この福音、よき知らせを告げることには、「準備」がそれなりに必要になります。 私たちはいつでも、人にきちんと福音が語れるように、自分自身を訓練する必要があります。準備をするのです。福音の語り方を練習するだけではありません。私たちはだれに福音を語るのか、そのためにはその人とどんなコミュニケーションをあらかじめ取る必要があるのか、しっかり考える必要があります。ここにも「準備」が必要です。 履物をしっかりはいて戦場に行き、動き回って、福音を必要とする人々のたましいを悪魔の手から奪還する……これぞ霊的戦いであり、非常に奥深く、わくわくするものです。 しかし、私たちはその戦いに実際に出て行くには、それなりのクールな準備をする必要があるわけです。いざ伝道するにあたって、自分の態度やコミュニケーションの取り方には、もしかしたら問題がないか、相手とはどのように会話したら最も心を開かせられるか……また、相手に語る内容にしても、さまざまな側面を持つ福音の中でも、どの要素から順に語ったらよいか、あらゆる準備を普段からしておくことです。そのようにして、縦横無尽に福音を伝えるにふさわしい備えをするのです。 ④では、つづいて16節にまいります。「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」……これらすべての上に……つまり、真理と正義、平和の備えによって武装したうえで、信仰を働かせなさい、と語っています。 真理が自分自身を律すること、正義がいのちを守るもの、福音宣教の準備が実際の霊的戦いの備えだとすれば、信仰とは、悪い者の放つ火の矢、つまり悪魔と悪霊の具体的かつ激しい攻撃を見極め、それに合わせて用いるものである、ということがわかります。 矢は鋭くとがっており、これが刺さっただけでも相当なダメージを受け、当たりどころが悪かったらいのちにかかわります。それに火がついていたら、めらめら燃えた状態で刺さるのだから、ただの矢とは比べ物にならないほど、ダメージは大きくなります。火の特徴は、燃え広がる、ダメージを果てしなく大きくする、という点にあります。 この、悪魔の「2段階攻撃」を防ぐもの……それが「信仰」という名の「盾」であります。盾はもちろん、手で持つわけですから、火の矢が飛んで来る方向を見極めて、その方向に向けて盾を差し出せば、火の矢はからだに刺さらず、落とすことができます。悪魔は四方八方から、火の矢を放ってきます。しかし、悪魔の存在と策略が意識できていれば、悪魔と悪霊どもは私たち教会に向けて、いかなる攻撃を具体的に仕掛けてくるか、見抜けるようになります。そのように、敵の攻撃がいかに及ぶかを見極め、その攻撃を防ぐことを可能にするのが、信仰です。勝利のイエスさまがともにおられるという信仰、これこそが、私たちを悪魔のどんな攻撃に対しても勝たせる力です。 ⑤ では17節、「救いのかぶとをかぶり」、かぶととは何でしょうか? 私たちの頭を保護するものです。 旨と同じように、この「頭」というところも、攻撃されれば確実にいのちにかかわります。不測の攻撃を防ぐために、かぶとはいつも頭にかぶって戦う必要があります。 また、古代の戦争は馬に乗って戦うことも多くありましたが、落馬して頭でも打ったら、それこそいのちがありません。兜はそういう点で、頭を守る「ヘルメット」の役割も果たしています。以上のことから言えることは、兜とは、「いのちを守る物」であると言えます。 また、かぶとが覆っている頭とは、人を代表するものです。人は頭にかぶとをかぶれば、すぐにはそれがだれかということは見分けがつきません。かぶととは、その人の人格の象徴である顔を隠すものです。 言い換えるならば、人のいのちを守るにはその人の人格が隠れている必要がある、それを可能にするのが、救いである、というわけです。 私たちのすることは「自分ではなくキリストを現して生きること」、これではないでしょうか? キリストの救いが、私たちの顔、つまりいのち、全人格を覆うのです。そのように、キリストを現して生きることこそ、救いの兜をかぶって霊的戦いに臨む姿勢です。このような私たちにはもはや、悪魔の付け入るすきはありません。 ⑥そして、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」剣は「攻撃」のために用いる武器です。今まで見てきた5つの武具はすべて防御のためのものです。しかし、私たちは攻撃をしない限り、悪魔に勝利することはできません。そのために剣を用いるわけですが、このみことばではその「剣」とは、聖書のみことばであると語っています。 マタイの福音書4章で、イエスさまが公生涯に出て行かれる前、荒れ野で悪魔の試みをお受けになったとき、悪魔のささやきを何によって退けましたか? そう、「みことば」です。しかし、この場面にはミソがあります。悪魔を退けるたびに、イエスさまはみことばを引用しながら、「……と書いてある」と、いちいちお語りになったのです。イエスさまがこのようにみことばを引用して語られたのは、それが私たちクリスチャン、そして教会にとって、正しい悪魔への攻撃の方法であることをお示しになったからでした。 以上、霊的戦いにおける「武具」について見てまいりましたが、その「霊的戦い」において、私たちが何よりもすべきこと、それは「祈り」です。 この「祈り」の中身も、このみことばから見ますと、大きく分けて「聖徒のための祈りの勧め」と「著者パウロのための祈りの要請」に分けられます。 私たちはだれのために祈るのでしょうか? 「聖徒」のためです。みことばは私たち教会のひとりひとりのことを、「聖徒」と呼んでいます。「聖なる者」なのです。なぜならば私たちは、イエスさまの十字架を信じ受け入れたゆえ、すべての罪が赦され、神の子どもとなり、天国に入れられたからです。 しかし、私たちはこうして「聖徒」と呼ばれてはいても、依然として罪を犯すことがやめられません。いえ、罪深い考えそのものをやめることが、できないでいるのです。そのようなひどい罪人であるのは、どうしようもない事実です。しかし、そんな私たちであっても、私たちクリスチャンはお互いのことを、何を基準に見るべきでしょうか? 私たちが互いを見る基準は、人のことを「聖徒」としてくださった神さまです。だからこそ私たちにとって、互いのために祈ることに意味が出てくるのです。その人を「聖徒」としてくださった神さまのために、その人のことを神さまが用いてくださるように……そのように祈ってこそ、私たちのお祈りは、みこころにかなうものとなるわけです。 そればかりか、「すべての聖徒」のために祈れ、とあります。教会という、この共同体のひとりひとりのために祈ることが基本になります。しかし、自分たちの共同体の外にも、主の民、神の家族は存在しているわけです。 そして「どんなときにも……目を覚まして……忍耐の限りを尽くして」……率直にお聞きします。こんな風に祈れますか? 「どんなときにも」ですよ? それも「目を覚まして」ですよ? しかも「忍耐の限りを尽くして」ですよ? 発想を変えましょう。一人でお祈りを引き受けようと思うからいけないのです。大勢のチームを編成して、たくさんのお祈りの時間を積み重ねると考えてはいかがでしょうか。そうすると、祈りの時間はあっという間に積み上がります。 それなら私たちは、何をどうやって祈ればいいでしょうか? 具体的にあれこれ考える前に、聖霊なる神さまの助けによってお祈りする、そこからはじめていただきたいのです。そうすればみなさんは、何を祈るのがみこころかを教えていただけて、確信をもってお祈りできるはずです。 みなさんはもちろん、この礼拝に対しては、一定の重荷をお持ちのことだと思います。 しかし、だからといって、祈りの課題を羅列した「リスト」のようなものを手渡されても、それを見ながら毎日、本腰を入れてお祈りするのは少し厳しくはないでしょうか。もっと率直に言えば、退屈ではないでしょうか。厳しいと思ったり、あるいは退屈だと思ったりするのは、理由があります。それは、「聖霊に助けられて」祈っている確信がないからです。聖霊の助けをいただかないでその「祈りのリスト」を眺めていたって、たましいの通(かよ)ったお祈りなどできるはずもありません。 聖霊に導かれる祈り、神によって聖なる者とされたお互いのための祈り、それを「絶えず目を覚まして根気よく」祈りつづけるには、私たちが1つのキリストのからだであることをしっかり受け止めていること、これがどうしても必要です。私たちはキリストの1つのからだですか? そう思えなくても、みことばがそう言っています。水戸第一聖書バプテスト教会という、この共同体のために重荷を持って祈る私たちとなりますように、そのために、日々聖霊なる神さまの助けをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 そして、聖徒を導く教職者のための祈りについて学びます。 言うまでもなく、この「エペソ人への手紙」は、新約聖書を代表する大使徒、パウロが書いたものです。しかし、このエペソ人への手紙を書いたとき、パウロは獄中に幽閉されていました。その足で移動して、福音を伝えて回ることなどできません。あの、女神アルテミスの神殿の門前町、エペソに立てられた教会のことは、パウロとしては気がかりでならなかったでしょう。偶像礼拝をしなければ生きていけないような文化において、壮絶な戦いを体験しているエペソの聖徒たち……彼らへの万感の思いを込めて、このエペソ書は書かれたわけです。 しかし、パウロは彼らに対して、ただ守ってあげるだけの存在として、上から見下ろすようにして接していたわけではありません。いかにエペソ教会が、異教社会にあって立場の弱い群れであったとしても、彼らには自分のためのお祈りを頼んでかまわない……あなたたちは同労者なのです、仲間なのです……なぜならば、彼らもやはり、聖徒、神の民、キリストの同じからだなのだから……。 そのことを前提にして、本文を見てまいりましょう。19節です……。パウロはどんなことを祈ってほしいと頼んでいますか? まず、「語るべきことばが与えられて」、そのようにして「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」です。…