人間を取る漁師
聖書本文 マルコの福音書1:16~20タイトル 人間を取る漁師メッセージ 板倉邦雄牧師
私たちの教会は伝統的なプロテスタント教会です。エホバの証人、旧統一教会、モルモン教などとは関係がありません。
これらの問題で悩んでいる方は、ご相談ください。
聖書箇所;創世記4:1~26 メッセージ題目;カインとは私たちである 兄弟の仲はいいに越したことはありません。しかし、聖書を見ると、新約聖書には、同じ弟子の共同体に属したペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネのようなケースはありますが、旧約聖書を見ると、だいたいは兄弟仲がうまくいっていないケースが登場します。イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の兄、ダビデと兄たち…… なんといっても、聖書に最初に登場する兄弟からして、兄弟愛という点で大きな問題を抱えていました。愛し合うべき兄弟の間で起きたのは殺人でした。世界で初めての殺人、それは兄弟の間で起こったのでした。 アベルは羊飼いです。神の民イスラエルの象徴ともいえる人物です。それがゆえなく迫害にあったということも象徴的です。私たちはアベルに肩入れしたくなるでしょう。しかし、今日のメッセージは、アベルではなく、カインのほうにスポットを当ててお語りしたいと思います。と言いますのも、聖書をよく読んでみると、神さまと会話を交わしている記録が聖書にあるのは、アベルではなく、カインのほうです。さらに、カインの記事のほうによほど紙幅が費やされています。私たちはもちろん、アベルから学ぶ者でありますが、罪という問題と闘いながらこの地上を生きていく者として、カインを反面教師として、また、カインに注がれた主のみこころから、学ぶ必要があります。そういうわけで本日のメッセージの中心はカインです。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。カインは、罪の動機を治められませんでした。 農夫カインと羊飼いアベルの兄弟。彼らはある日、神の御前にささげものをささげることになりました。 これはたいへんなことです。大舞台とさえいえます。普段の彼らのすることは、農夫であり、羊飼いです。しかしこの日ばかりはちがいました。神さまの御前に出て、礼拝をささげるのです。大地であったり、羊たちであったり、そういったものを相手にすることから、神さまへと向かう。どれほど晴れがましい瞬間だったことでしょうか! 礼拝というものは、そのような晴れの舞台です。みなさん、いま私たちのいるこの場所は、晴れの舞台です! 一週間に一度、このように御前に集う時間を大切にしたいものです。 さて、この晴れの舞台に、カインは大地の実りを、アベルは羊の初子の肥えたものを携えてやってきました。そして……神さまが顧みてくださったのは、アベルのささげ物の方でした。カインのには目を留められませんでした。 カインは怒りました。私たちもカインならば、怒るのが当然だと思うでしょうか?しかし、もしそうならば、私たちは少なくとも、3つの心の罪に関わっていることになります。第一に、自分が正しいとする罪、第二に、ほかの人と自分を比較して惨めになる罪、第三に、神さまとアベルに対して腹を立てる罪です。 まず、自分が正しいとする罪から見てみましょう。カインがこの、いけにえを神の御前に持ってきたとき、どのような気分だったでしょうか? 当然これは、神さまに受け入れられるはずだ、どうだ! とばかりの態度だったのではないでしょうか? もしかするとカインは、アベルのことを見下していたかもしれません。聖書、特に旧約聖書を読んでもわかることですが、兄は絶大な権限が与えられています。また、さきほども述べました、イサク、ヤコブ、ヨセフ……いずれも、兄が彼らに対してふさわしくない形で大きな権力をふるおうとしたことを、聖書は問題にしています。ともかく、兄は弟より先に生まれた分、大きな権力をふるいますし、また劣っているからと見下すのは、どうにもならないことです。しかし、アベルのほうが受け入れられた。カインにとって、それはどれほど衝撃的だったことでしょうか。 そこで第二の心の罪、それは、比較して惨めになることです。もし、この礼拝の前に、カインが普段からアベルに対して優越感をいだいていたとしたら、それも比較の問題です。しかし今回の場合は、受け入れられたのはアベルのほうで、カインではありませんでした。そこでカインは、アベルと比較をして怒りに満たされたのです。優越感は変わり、劣等感となりました。この心の罪は、実際の行動で犯す罪へと駆り立てる原因ともなったものです。 カインは、どうすればよかったでしょうか? 礼拝というものを、他者との比較の道具にせず、ただ黙々と自分のささげるべき礼拝をささげていればよかったのです。もし、自分のささげるささげ物が受け入れられないと知ったならば、どこが悪かったのか思い巡らし、悔い改めてふさわしいかたちで礼拝をすればよかったのです。 しかし、カインはそうしませんでした。その結果第三の心の罪、神さまとアベルに対して怒るということをしました。そもそも神さまは、なぜアベルのいけにえを受け入れられたのでしょうか? それは、カインのよりもすぐれていたからです。ヘブル人への手紙11章4節にあるとおりです。 では、どういう点で、アベルのいけにえはすぐれていたのでしょうか? それは、先週学びました、神さまがアダムとエバのはじめからイエスさまのことを予告され、そのしるしとして、獣をほふって皮の衣をつくり、彼らの罪の結果である裸の恥を覆ってくださったことを思い出していただければと思います。生きるものの血が、いのちが流されることにより、罪赦されて神さまと和解すること、アベルはそのことを知っていて、それだからこそ正しいいけにえとして、羊をほふってささげたのでした。ヘブル9章22節もご覧ください。 カインにしてもおそらく、最良のものを持ってきたはずです。しかしこれでは神さまとの和解にふさわしくありません。みこころにかなわないからです。それなのにカインは怒りました。これは、みこころを定めて善悪をさばかれる神さまへの挑戦です。カインがよいと思っても神さまに受け入れられなければ、そこですることは悔い改めることであるはずなのに、あべこべに怒る、これが罪人の性質です。もし、心の中の罪を正しく治めることができないならば、どうなるでしょうか? カインは、どうなりましたでしょうか? 第二のポイントです。カインは、取り返しのつかない罪を犯しました。 彼は、アベルを呼び出して殺しました。大変なことをしてしまいました。しかし、私たちはここで考えないでしょうか? いったい、いけにえが受け入れられなかったくらいで、人殺しなどしてしまうものなのだろうか? しかしそれが、義人に対して罪人の取る態度です。イエスさまはアベルを義人とお呼びになりました。そのような義人に対して迫害を加える者には、容赦ないさばきを加えるとイエスさまは宣言されました。しかし罪人らは、その神さまのみこころを恐れるよりも、自分たちの悪い根性の方を優先させるのでした。 それはまさしく、悪魔に魅入られた者の取る態度です。神さまに祝福されている者、神さまに選ばれている者を見ると、いても立ってもいられなくなり、怒りの刃(やいば)を向けるのです。 もし、私たちが、兄弟姉妹が自分よりも祝福されていると思い込み、あんな人間などいなくなってほしい、などと思うならば、きわめて要注意です。罪は戸口で待ち伏せしています。 私たちはそのような感情になっていることに気づかせていただき、悔い改める必要があります。さもなくば、人にいなくなってほしいというこの悪感情が、とんでもないかたちで現れるかもしれません。 もちろん私たちは、殺人のような大それたことは起こさないかもしれませんが、教会という主のみからだに分裂をもたらしたり、この群れを去っていのちの恵みにあずかるのをやめる人を生み出したりしないともかぎりません。あるいは、分裂しなくても、教会の中に一致できない状態がいつまでも保たれ、主のみからだとしてまことにふさわしくなく、つねにサタンに付け入る隙を与えている無防備な状態になるかもしれません。 そもそも、殺人というものはなぜ問題になるのでしょうか? それは、人間が神のかたちに創造されている以上、殺人とは神のかたちを破壊することだからです。だから、実際に人をあやめ、血を流す行為に及ばなくても、その人の人格を破壊する致命的なことばを投げかけるならば、それは殺人の罪に匹敵することです。イエスさまは何とおっしゃっているでしょうか? マタイ5章22節です。…… 実際に血を流して殺してしまうならば、もうその人はもとに戻りません。取り返しのつかない罪を犯したことになります。だから、先週も少しお話ししたとおり、日本には殺人罪を償わせる制度として、死刑という刑罰があるのです。人の人格を破壊することばをいうことも、これと同じ、さばきを受けることになります。 カインは、まず神さまの問いかけに知らん顔をしました。いざ神さまに呼びかけられたら、知りません、私は弟の番人なのでしょうか、と口答えしました。愛し合うようにと神さまがこの世界に定められた兄弟の関係を、番人などと表現するとはあんまりです。 こんな表現をしたのは、自分は当然兄として弟の上に君臨すべきなのに、神さまがその順番を変えたととらえ、神さまに向かって精いっぱいの皮肉を言い放っているかのようです。さすが、神さまがこの者のいけにえを受け入れなかっただけのことはありました。彼は神さまとの関係が壊れていたのです。その壊れた関係が、兄弟の間にあるべき愛が冷え切り、ついに殺人に至ったことにつながったと言えましょう。 そうです、あらゆる罪は、神さまとの関係が壊れているところから始まります。大それた罪を犯す者は、神さまとの関係がどこかおかしい状態にあるものです。そして、罪から来る報酬は死です。すなわち、まことのいのちなる神さまとの断絶した状態です。これは被造物として、取り返しのつかない状態です。自分ではこの罪を、どうすることもできません。どんなに努力しても、どんなにいい人間になろうとしても、この罪が赦されて永遠のいのちを回復するということなど、絶対にありえないことです。そうです、あらゆる罪は、みな取り返しのつかない状態です。大小にかかわりません。すべては取り返しのつかないものです。その点では、カインも私たちも、大差ない存在です。いえ、もっとはっきり言ってしまえば、カインとは私たちのことです。 こんなカインに、そして私たちに、救いはあるのでしょうか? そこで第三のポイントです。神さまは、取り返しのつかない罪を覆ってくださいました。 神さまは、カインの犯した罪がどんなに大きいか、宣告されました。10節から12節です。……ここではじめて、カインは自分のしたことの重大さに気づかされました。その咎の大きさに圧倒されました。やはり人は、きよい神さまと向き合うことによって、はじめて自分が途方もない罪人であることに気づかされるものです。 しかし、自分の罪の結果におびえるカインに、神さまは守りを与えられました。地上をさすらい歩く者となろうとも、あなたのことはわたしが守る……カインはようやく、神さまとの関係を回復しました。それは、カインが自分の罪を認めたところから、そして神さまが一方的なあわれみによってカインに臨んでくださったから、はじめて可能となったことでした。 カインは結婚して子をもうけ、町をつくりました。そして、そこから生まれていったカインの子孫は、文化を創造する者たちとなりました。遊牧をする者、楽器をつくって演奏する者、青銅器や鉄器をつくる者が生まれました。 ある聖書学者は、神の守りが信じられなくなった者たちがこのような文化をつくった根拠である、と語っていますが、たしかにそういう側面もないとは言えないにせよ、そう言い切れるものでもないでしょう。ここは、そのような堕落した人間たちの間にも創造的な文化が生まれるように主があわれんでくださった、と考えた方がよろしいでしょう。なにしろ、イスラエル、そして今日(こんにち)の教会に至るまで、神の民はみなこの時代に生まれた数々の創造物の恩恵にあずかっているわけです。牧畜もしますし、楽器を奏でて賛美もします。金属の道具も使います。文化は一般恩寵として受け継がれています。 とは言いましても、カインのような負の性質は、5代目の子孫のレメクに受け継がれてしまいました。レメクは殺人をして、妻たちにこんなことを言いました。23節と24節です。 これは、カインを殺す者に七倍の復讐が与えられるならば、俺様に危害を加える者には七十七倍の復讐をしてやるぞ、という、復讐を禁じる神さまのみこころを不遜にもというか、大胆不敵にもというか、完全に真逆に曲解してはばかるところを知らない、傲慢極まる宣言です。カインの蒔いたものは、実に残酷な形で刈り取らなければならなくなったわけです。 私たちもまた、いかに守られているとはいえ、ときに私たちの不従順が生むマイナスの結果に、自分自身も、家族も、教会全体も苦しむことがありえます。神さまは、私たちの言動に対して責任を問われることが時にあるものです。要はそのとき、レメクのようにみこころもなにもあったものではない態度を取らず、素直に悔い改め、神さまの御手を求めることです。 しかし、神さまはこの世界をなおも守ってくださいます。25節、26節をお読みください。……この世界には、義人アベルに代わるセツが生まれ、彼から増え広がった人々から、主の御名によって祈ることが広がりました。 主は、カインの罪によって汚されたこの世界を放っておくことはなさいませんでした。主に属する民を起こし、彼らが主の御名によって祈れば何でもかなえてくださるように、道を備えてくださったのでした。まさしく、神さまのあわれみです。 私たちも、かつてはカインのようであったかもしれません。主を知らなかったゆえに、取り返しのつかない罪を犯したかもしれません。今もなお、罪を犯してしまう自分に落ち込んでしまうかもしれません。しかし神さまは、そのような世界に生きる私たち、罪を犯すことをさも当然のように振る舞う人々に満ちた世界に生きる私たちのことを、なおもあわれんでくださっています。本来カインのようであった私たちを、セツのように、殉教者のたましいを継ぐ者としてつくり変えてくださいました。主の御名によって祈る者へとつくり変えてくださいました。 私たちは、カインのように罪深い自分の性質に目を留めて、自分を呪ってはなりません。私たちの罪はイエスさまの十字架によって完全に贖われました。私たちはイエスさまの御名によって祈り、祈りを聞いていただける者としていただいたのです。私たち自身を振り返る祈りをしたいと思います。聖霊なる神さまに、心を探っていただきましょう。
聖書箇所;創世記3:1~24 メッセージ題目;「罪のはじまりは恵みのはじまり」 今日の箇所は、人間の罪のはじまりについて語るのとともに、イエスさまの十字架がなぜ人類に必要だったのか、その根拠となるできごとを記したみことばであり、「原福音」とも呼ばれています。 第一のポイントです。罪は、人の間違った欲望から生まれます。 エバのいるところに、蛇がやってきました。サタンが蛇に身をやつしてやってきたと言えるでしょう。蛇はエバになんと話しかけたでしょうか?……園のどの木からも食べてはならない! 神さまがそう戒められた! でももちろん、嘘に決まっています。神さまは人に、祝福のしるしとして、エデンの園のどんな木からでも思いのままに食べてよい、とおっしゃったのですから、嘘です。 しかし、エバの心は蛇のこのひとことに、激しく動揺しはじめたのでした。エバはたしかに、園の木の実は食べてもよいと語っています。しかしそれに続き、言わずもがなのことを、口を滑らせてしまいます。 このことばをよく見ましょう。「触れてもいけない」などと、神さまが語られなかったことをつけ足しています。「死ぬといけない」などと、あいまいなことを言っています。神さまは「必ず死ぬ」とおっしゃっているのですから、エバのことばはいいかげんです。 エバがこのようにいい加減なことを口走った理由は、いろいろ考えられます。しかし、理由はどうあれ、神さまのみことばにつけ加えたり、みことばを曲げて解釈したり、ということを行なっているわけです。 旧新約聖書の終わりの部分に、神さまはみことばにつけ加える者にみことばどおりの災いをもたらし、みことばから取り除く者にはみことばどおりのいのちの木と聖なる都、すなわち天国の祝福を取り除かれる、と語っていらっしゃいます。このことから私たちは、神さまのみことばにつけ加えたり、取り除いたりしないで、そのまま受け入れることが、まことのいのち、天国に至る道であることを知ることができます。 エバがこのようにみことばを曲げて解釈したということは、いのちなる神さまとの交わりから断ち切られる死の道を自ら備えはじめていた、ということができるでしょう。私たちはどれほど、みことばをそのまま受け入れる必要があるでしょうか! 自分の都合が悪いみことばは受け入れなくてもいい、などと言っている場合ではありません。みことばをそのまま受け入れることは、いのちそのものです。 だから、善悪の知識の木の実を食べるという行為に及ぶのは、神さまのみことばに不従順になることであり、罪以外の何ものでもありません。「死ぬといけない」どころではありません。「死ぬ」のです! 死ぬ。これが人にとって最大のさばきであることは、言うまでもないことです。もちろん、とても大きく議論が分かれるところですが、「死刑」という刑罰が今もなお日本に存在するのは、死によって償うという思想が日本の社会に根を深く下ろしているからでしょう。死をもって償うということの恐ろしさは、ある程度ではありますが、凶悪犯罪を抑止する力になっているはずです。 何が「死ぬ」ということを怖ろしくさせているのでしょうか? それは、被造物である人間ならばどこかで意識している創造主のいのちなる存在を、もはや味わうことができなくなるという、そのことばに表せない恐怖を味わっているからではないでしょうか? だから、イエスさまを信じて永遠のいのちに至る確信を得た人は、もはや死ぬということを恐れなくなるのです。死ぬのが怖いのは、死んで神さまにさばかれ、天国に行けなくなるわが身を思うからでしょう。 しかし、サタンは嘘をつきました。あなたがたは決して死にません。……そもそも人間は、まだ死んだことがないので、死とはどういうものかがわかっていませんでした。しかしそれ以上にエバは、被造物としての限界を超え、神さまのようになれること、すなわち、創造主なる神さまと関係なく善悪の判断の基準を定める存在になることに、大きな憧れをいだきはじめていました。 そんな思いで善悪の知識の木の実を見ると、いかにもそれは「良さそうに」見えました。神さまが「良しとされた」かどうかはもはや関係ありませんでした。もはやこの罪をもたらす存在、死をもたらす存在は、好ましいとしか思えませんでした。それでついに……エバはその木の実を食べてしまいました。 そして、木の実を食べたのはエバだけだったのでしょうか? アダムも食べたのです。テモテへの手紙第一2章14節には、「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とあります。そうだとすると、アダムはエバなりサタンなりにだまされて木の実を口にしたわけではない、と考えられます。 だからアダムは、だまされてその木の実を食べたのではありません。わかっていて、自分の意志で食べたのです。そうです。アダムは意識して神さまに反抗し、不従順の罪を犯したのでした。なんだ、エバは木の実を食べたけれど、死なないじゃないか、神さまの言っていたことは嘘じゃないか、そんなことも考えたかもしれません。 しかし、彼らはあらぬことに目が開かれました。生めよ、増えよ、という、最大の祝福をもたらす性的な存在を、とても恥ずかしいものととらえるようになりました。いやらしい、という感情が生まれたのです。彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて局部を覆うという行動に出ました。そう、罪の結果を自分なりのやり方で覆い隠したのです。みじめにも、根本的な解決に至れないまま罪を抱える。これが、人間の間違った欲望の成れの果てでした。 では、そのような人間の罪はどうなるでしょうか? 第二のポイントにまいります。罪は、神さまによってさばかれます。 こうして罪を抱えたアダムとエバは、ついに神さまと対面せざるを得なくなりました。しかし彼らは、神さまの足音が聞こえるや、園の木の間に身を隠しました。もちろん無駄なことです。神さまは目に見えないお方であり、どこにでもおられます。隠れようと、そこにも神さまはおられます。それなのに人は、逃げたり、隠れたりすればなんとかなる、と思うのです。しかし、どうにもなりません。そのことは自分でよくわかっているはずです。 神さまはすべてご存知です。しかしあえて、神さまは人が自分で何をしたかを悟らせるために、お尋ねになりました。11節です。 ……神さまが何をしたかお尋ねになったならば、人は何をすべきでしょうか? 自分の罪を認め、神さまに悔い改めの告白をするべきでした。ごめんなさい、と言うべきでした。しかしアダムは、何と言ったでしょうか?「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」くれたから食べた、と言っています。 まるで、罪を犯したのは神さまのせいだと言わんばかりの態度です。なんということでしょうか。そのうえ、エバに罪の責任を着せています。自分の犯した罪の責任を自分の妻に押しつけるとは、アダムはそういう男でした。 それで神さまは、エバにお尋ねになりました。しかしエバの答えはといえば、これも自分の罪を認めることばではありません。「蛇が私を惑わしたのです。」こんどは蛇のせい、サタンのせいにしています。 これが、人が自分の罪の責任を転嫁するパターンです。神さまのせい、人のせい、サタンのせい……しかしこれらはいずれも、自分のせい、と認めて、自分で責任を取る態度ではありません。 しかし、神さまは犯した罪の責任を取らせるお方です。まずは蛇、サタンです。14節と15節です。……サタンは、動物にも劣る存在とされる、というわけです。特に15節は、この女の子孫として生まれるお方、イエス・キリストによってサタンが完全にさばかれることを預言したみことばです。かかとを打つ、これは、サタンがイエスさまを十字架につけるということです。しかし、その死は決定的なものではありません。イエスさまは死から復活されたからです。イエスさまのこの復活により、サタンは、頭が踏み砕かれた蛇のように、完全に息の根を止められました。 そうです、サタンはすでにさばかれました。しかし、頭が砕かれていても、まだからだがうねうね動く蛇のように。完全に死に切ったわけではありません。できれば主の民さえも惑わそうと、いまもなお隙を窺っています。しかし忘れてはなりません。神さまはすでにサタンをさばかれたのです。いたずらに恐れる必要はありません。 神さまは、エバにも宣告を下されました。16節です。子を産むこと、夫婦として生活することが、大きな苦しみになる、というのです。生めよ、増えよ、それは祝福のしるしですが、それが途方もない苦しみを伴うことになってしまったのでした。それは、罪を犯したということの責任を取らされるためです。出産や子育て、また夫婦としての生活には、多くの苦しみが生まれるようになりました。 アダムへの宣告はどうでしょうか。17節から19節です。……それまでは、どこにでもなっている果物を取って食べさえすればよかったのが、雑草も生えてくるような荒れた大地と格闘して、額に汗して土から取れたものを食べる、そうです、労働の苦しみが大いに増し加えられました。 男、という漢字は、田んぼの田に力、と書きます。田んぼの田はもともと水田という意味ではなく、畑、という意味です。畑で力をふるって労する存在、男とはそういう存在であることを、この漢字は言い当てています。今日は労働も多様化しましたが、それでも人にとって、仕事とは苦しいものであるということはむかしも今も同じです。 さらにこの19節の最後、これは何を語っているのでしょうか?「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」そうです、死ぬ、ということです。死んで朽ちて、ついには土になる、ということです。 働いて働いて、ついにはむなしくも土に朽ちる最期を迎える。なんというさばきでしょうか。しかし、それもこれも、人が善悪の知識の木の実を口にしたところからすべては始まりました。神さまはそれにふさわしいさばきを下されるのです。神さまは侮られるようなお方ではありません。 しかし、人間はさばかれて、それで終わりではありませんでした。そこで第三のポイント、これがいちばん大事です。罪は、主によって血を流されることで覆われます。 21節をご覧ください。……いったいこの皮の衣は、どうやって作られたのでしょうか? そうです、獣の皮を剥いでです。ということは、獣がアダムとエバの裸を覆うために、ほふられた、殺された、ということを意味します。 その皮の衣は、アダムとエバが作ったのではありません。神さまが手ずからお作りになりました。これは、アダムとエバの裸、つまり罪の結果伴う醜いものを、神さまが直接覆ってくださった、ということです。 アダムとエバは、この醜さを覆うためにいちじくの葉で対処しました。しかしそれは所詮、もはや罪人となってしまった人間の考え出したやり方にすぎません。神さまはそのような人間的な一時しのぎではなく、神さまの方法で罪の醜さを隠されました。それが、生きものの血を流す、という方法でした。 アダムとエバの罪が神さまから隠されるために、生きものが犠牲になる、動物が好きな人は、残酷だ、とおっしゃるかもしれません。でも、ほんとうに残酷なこととは何でしょうか? 人間が永遠に神さまと関係のないまま生きる、そして神さまがそれをお許しになる、そちらの方がよほど残酷です。しかし、それは神さまのみこころではありませんでした。だからこそ神さまは、人が罪を抱えたまま永遠に生きることのないように、人をエデンの園の外に出し、いのちの木の実を取って食べることがないようにされたのでした。 ともかくも、アダムとエバの罪が覆われるために、血が流されたのでした。これは究極的には、イエスさまの十字架の血潮につながることです。私たちはイエスさまが十字架に掛かってくださった、そのことを信じる信仰を聖霊なる神さまによって与えていただいたゆえに、罪が覆われ、永遠のいのちをいただきました。その血潮によって罪を洗いきよめていただきました。神さまはこのすべての人類を救うためのご計画を、すでに最初から備えていてくださったのでした。 罪を犯したなら、そしてその罪が子々孫々遺伝するならば、人間というものは神さまの失敗作なのでしょうか? いいえ、断じてそうではありません。もし人間が失敗作ならば、神さまは愛するひとり子イエスさまを、失敗作のためにその死をもって人間に差し出される、ということがあるでしょうか? 私たち人間は、神さまが実にそのひとり子を与えてくださるほどに、愛してくださる存在です。御子を信じるならばひとりとして滅びません。永遠のいのちが与えられます。どんな罪の中にあったとしても、神さまが赦してくださるのです。私たちは完全な作品です! 私たちは時に、自分が罪人であることを思わざるを得ないことがあるでしょう。理由のわからない苦しみに遭うようなとき、特にそう思うかもしれません。しかし、私たちが苦しみに遭うのは、神のみわざが現れるためです。私たちを赦し、私たちを力づけ、私たちを励ましてくださる神さまは、今なお私たちのそばにいてくださいます。 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わりました。このみことばはまことです。まさしく、罪のはじまりは、それを完全に覆ってくださる神さまの恵みのはじまりです。私たちは神さまに立ち帰りましょう。 人は、間違った欲望から罪を犯します。その罪の責任を取ろうとしない人間に、神さまは罪を問われます。しかし、それで終わりではありません。神さまはその罪を、イエスさまの十字架によって赦してくださいます。私たちも信じるならば、赦されます。この恵みを日々味わいましょう。そして、この恵みの喜びがもし内側から湧き上がって来るならば、ためらうことなく、いろいろな方にこの恵みを分かち合ってまいりましょう。もしその方々が信じ受け入れたならば、その方々は永遠のいのちに生きることになります。
聖書箇所;創世記2章1節~25節 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ その2 神さまが天地を創造されたという事実を受け入れるとき、私たちは創造者を認め、謙遜にさせられます。そして、創造者のみこころは何であるかを知ろうとし、聖書を熱心に読むようになります。そうすれば素晴らしく用いられる、喜びに満ちた人生を歩んでいくことができます。 さて、今日の箇所は、創世記2章、神さまの最高の被造物である人間の創造について、くわしく書かれている箇所です。 人とはどのような存在か? 私たち人間は自分の存在について、たえず問いかけていますが、みことばから学ぶならば、私たちはそのことを知ることができます。そして、私たちの生きる指針をいただいて、神さまの御目にふさわしい生き方をしていくことができます。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまは人に、霊的ないのちを与えられました。 7節のみことばをお読みしましょう。……人間の原料は、大地の土です。神さまは霊なるお方なので、物質的な形をお持ちの方ではありません。しかし人間は、物質であるわけです。創造主と被造物のちがいが、ここにも現れています。 人間の原料は土です。このことを知ることは、人を謙遜にさせないでしょうか。もし、神さまに形づくられなかったら、私たちは土の泥のような存在のままです。なんだか得体の知れない存在です。そこに何の「神のかたち」を見いだせるでしょうか。しかし私たちは土のちりにすぎなかったのに、もったいないことに、神さまの御手によって「神のかたち」に仕上げていただいたのです。 神さまのかたちに仕上げていただいたのは、人間だけです。サルの種類は人間に姿かたちが割と似ていますが、彼らは「神のかたち」ではありません。単なる獣、動物です。神さまがご自身のかたちに創造されたのは、ただ、人間だけです。 それだけでしょうか? 神さまはいのちの息を、人間に吹き込まれました。それで人間は生きるものとなったと、みことばは語ります。いのちの息、つまり霊が吹き込まれたと特にみことばが証しする被造物は、これも人間だけです。 神の息吹が吹き込まれている、これぞ、人がほんとうの意味で生きているということです。これは人が霊的な存在にされているということであって、それゆえに人は神さまと交わりを持つことが許されます。神さまとの交わりもなく、神さまのみこころをないがしろにして生きているということは、生きてはいても死んでいるような状態であるということです。 私たちの「生きたい」と願う飢え渇きを満たすことができるのは、いのちの息を吹き込んでくださった神さまだけです。だから私たちは、。朝に夕に、主を求めてまいりましょう。本来創造された主のみこころに忠実になり、いのちの息が吹き込まれた者としてふさわしく主との交わりを持ちつづけるならば、主は必ず私たちを、大いなる祝福へと導き入れてくださいます。 では、その祝福とは何でしょうか? 第二のポイントです。神さまは人に、生活の彩りと戒めをともに与えられました。 9節のみことばをお読みしましょう。あらゆる果樹が実を結びます。16節もお読みしましょう。その果樹から、好きなだけ食べていいというのです! 果物というものは、創造のはじめから人間を養うために神さまがお造りになった、特別な存在です。果物はいろいろな形、いろいろな色をしています。味もさまざまです。 果物は実に不思議なものです。果樹が葉っぱで光合成をし、また土に下ろした根っこから水分と栄養分を取り出し、大きくなり、時が来ると実をつけます。太陽の光には味などなく、果樹も、土も、舌で舐めたらえらいことになります。それなのに、結ぶ実は甘くておいしく、栄養がたっぷりです。神さまはそういうシステムで人間を養われることを良しとされたのです。 神さまはみことばの中で、神さまとの交わりを通して私たちの生活に現れる良い結果のことを、しばしば「実」と表現しています。特に有名なのが、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節の「御霊の実」です。これはちょっと読んでみましょう。新約聖書の382ページです。 ……こういう実を結ぶには、それなりの忍耐が必要です。神さまの恵みという光を浴び、水を得るのです。時には風雪に耐えながらも、神さまのみことばという大地に根を下ろしつづける、つまり、揺るぐことのない神さまに拠り頼みつづけなければなりません。ある聖書箇所では、みことばは腹に苦かった、とありますが、土が口にできたものではないが果樹に栄養を供給するように、みことばは時に、口に甘しといえるようなものではない、厳しいものであるかもしれません。しかし、私たちはみことばに根を下ろすことで、養われ、健康に成長するのです。もし、安逸をむさぼり、神さまの恵み以外のものから栄養を得ようとするならば、その結ぶ実はひどいものであり、とても食べられたものではありません。その悪い実のことを、聖書は「肉のわざ」と呼びます。お読みしませんが、19節から21節にリストアップされています。このような悪い実を結び続けるのは、この世の快楽という肥料から栄養を取ることをやめようとしないからです。神の子どもらしく生きるならば、こんなことは早くやめるべきです。 木に代表される植物というものも、数えきれないほどの種類がこの世界には存在します。それは神さまが、私たち人間の生きるこの世界がつまらないものとならないように、かぎりない彩りを与えてくださったゆえと言えるでしょう。そのようなバラエティに富み、そして美しい被造物を見るとき、私たちは創造主なる神さまを認め、その被造物とされていることを覚えて謙遜にさせられるものです。 そう、私たちは被造物です。私たちが被造物であることを、神さまは「善悪を知る知識の木」というものを備えることによって教えてくださいました。これは、神さまの設けられた限界です。神さまが聖である、つまり、神さまは被造物と同じレベルの存在では決してありえないことを、お示しになる「教材」ともいうものでありました。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ。神さまはこの木によって、ご自分が聖なる存在であることを示されたのでした。あなたがもし、わたしのこの命令に背くならば、あなたは必ず死ぬ。 なぜ、従順ということが大事なのでしょうか? それは、従順がいのちだからです。しかしある人は、この従順という考え方に反発をいだきます。それは大きく分けて、2つの理由があるからです。 ひとつは、この世の従順を強いるあらゆる存在は完全ではなく、その存在のもとで従順の生き方をするならば、とても苦しい目に遭う、ということがその理由です。ブラック企業、などということばがありますが、企業の経営者が人に給料、すなわち経済的な安定を提供する代価として、長時間の労働、劣悪な環境のもとに留め置くわけです。従順というものをひどく悪用するケースでしょう。 もうひとつ、人が「従順」を嫌がる理由があるとすれば――こちらの方が深刻ですが――、それは権威に対する反発、自己中心から来るものです。神さまなど認めない、従順な生き方などするものか、自分の好きなように生きてやる……しかしこのように、神さまよりも自分の欲望を優先させる傾向の強い私たちが、神さまに従順に従う道を選ぶならば、それは幸いなことです。しかし私たちはなんと、禁止されていることを見て、自分のことを不自由だと思いたがるのでしょうか! なぜ、自分に与えられた大きな自由、恵みに目を留めようとしないのでしょうか! ここに私たちの自己中心、罪の性質が現れています。私たちはそのような発想から、早く自由になる必要があります。 私たちはぜひとも、「神さまの与えた自由」を基準としながらも、神さまに対する不従順の罪を犯させようとするあらゆる罪に警戒し、従順の歩みを実践していきますようにとお祈りします。それが、いのちの道です。 第三のポイントにまいります。神さまは人に、愛する相手を与えられました。 18節と19節をお読みします。……神さまはまず、鳥や獣をアダムのもとに連れてこられました。それは、人が名前をつけるという、その作業を与えられるためでした。 世界中のあらゆる動物には、名前がつきます。新種が発見されたら、ただちに新しい名前が命名されます。まことに、同じ土から造られた被造物であっても、その被造物の特徴にしたがって名前をつけることができるのは、人間だけです。動物はほかの動物に名前などつけません。これは、人間が、その与えられた知性をもって、動物に代表される被造物を統べ治める存在であることを示しています。ここに神さまが、この地を従えるわざを人間に与えられたことを見ることができます。 人はあらゆる生物に対するネーミングライツを持っていますが、その所有者は神さまです。人間が被造物を従えるということは、その被造物に対して勝手気ままに振る舞っていい、ということではありません。どこまでも創造主なる神さまとの関係で、被造物を管理する必要があります。それが、被造物である人間に与えられた使命です。 これらの被造物はみなわたしのものだ、けれどもあなたがこれを治めるのだ、私がその責任と権限をあなたに与えよう。私たちがこの環境を浪費してはならないのは、それが神さまのものだからです。しかしその一方で、この環境を保護する、というときもまた、それは創造主であり、すべての被造ぶちの持ち主である神さまとの関係において考えていくべきことです。 さて、神さまは人がこの地に増え広がるようにとみこころを定められましたが、男の助け手としてふさわしい動物はいませんでした。 それは、動物にはいのちの息が吹き込まれていない、すなわち神さまと交わりを持つことができる存在ではないことが、その大きな理由といえるでしょう。二人は一体となる、それは、肉的に一体となるということもさることながら、同じひとりの御霊によってひとつとなる、という意味を含みます。最近私は、海外のある国ではペットの犬との結婚が合法化される、などというニュースを見ましたが、とんでもないことです。それがとんでもないということは、アダムのはじめからそうでした。霊のない動物では結婚して助け手にすることなどできないのです。そのため神さまは、人から人をお造りになりました。 アダムはエバを見て、何と告白しましたでしょうか? 23節のみことばです。……ここからわかることは、男性と女性は平等な存在、ということです。心臓にいちばん近いあばら骨から取られ、造られたということがそれを象徴しています。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが、頭の骨から取られたならば、女は男より上ということになるでしょう。足の骨から取られたならば、女は男より下ということになるでしょう。そうではなくてあばら骨、まさしく、対等の立場の助け手です。 あばら骨のそばには、いのちを司る心臓や肺があります。私はこのあたりに関しては、個人的に言うべきことがあります。私は中高生のとき、肺を手術するため、両胸のあばら骨の間にメスを入れました。それ以来、そのあたりの皮膚や筋肉の感覚がおかしくなり、30年経った今もそれは治っていません。天気が悪いときは呼吸が苦しくなり、からだ全体に影響が出ます。あばら骨を取らなくてもそうなのだから、いわんやあばら骨を取ったとしたら、それはどれほど苦しいだろうかと思います。 そう、愛するということ、助け合うということに召されているとは、相手が生きるために、あえて苦しむことです。アダムよ、エバにいのちを与えるために、そして、エバと助け合う生き方をするために、苦しみなさい、しかしその苦しみは、喜びだよ、神さまはそうおっしゃっているようです。 24節のみことばを見てみると、そのことが一層はっきりします。……このみことばは一見すると、結婚についての一般的な概念を語っているようですが、このほんとうの意味が、モーセがこのみことばを記して1600年経って、パウロによって明らかにされました。これは、キリストと教会を指したみことばだということです。 男があばら骨を取られて女をいのちに生かす。それは痛みの伴う、苦しいことです。しかし、あたかもそれは、私たち教会に永遠のいのちの喜びを与えるために、十字架の上で傷ついて苦しまれた、イエスさまの苦しみを現しているようです。しかし、もったいないことに、イエスさまは私たちを愛するあまり、喜んでご自身を差し出し、痛みを背負ってくださったのでした。私たちはイエスさまの痛みによって、生きるものとされたのでした。 私たちもまた、愛する人のために苦しむ道を選べるでしょうか? なかなかそうなれない、自己中心の醜い姿を思って落ち込むかもしれません。しかし神さまはそんな私たちであると知ってもなお、イエスさまの十字架によって私たちの罪を完全に取り去ってくださり、神さまの子どもらしく歩ませてくださいます。日々、イエスさまの十字架を思うことです。 私たちは自分には愛がないと思っているようでも、神さまの恵みによって、愛する人になれるのです。愛するためにあえて苦しみを選ぶ、祝福の生き方ができるようになるのです。その約束を握って、祈りつつ歩んでまいりましょう。 神さまは私たち人間に、霊的ないのちの祝福、従順の祝福、愛することの祝福をくださいました。私たちの人生は、あらゆる祝福に満ちています。ただ、創造主なる神さまとの交わりの中で、その祝福のほんとうの意味を知ることができます。ともにこの祝福を味わい、神さまのすばらしさを讃美してまいりましょう。
聖書箇所;創世記1:1~31 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ 私たちの教会は創立以来、創造主の御手によりこの天地万物が形づくられたという、その事実をとても大事にしてきました。その事実を堂々と宣言するもの、それは聖書のみことばです。私たちは聖書のみことばから、神さまについて、この世界について、そして私たち人間について、何を学ぶことができますでしょうか。 今日の本文はおそらく、これまで50年以上にわたる当教会の歴史において、おそらく相当な回数、日曜礼拝の聖書本文になったことと思います。しかし私はといえば、この教会に赴任して5年になりますが、このように日曜礼拝において創世記を1章から学ぶのは、はじめてのことです。 私はこの教会の伝統にしたがって、といいますよりも私が生涯信じ受け入れてきた神学の立場にしたがって、創造の事実を大切にいたしますが、私自身は創造科学の学者ではありません。聖書、特に創世記を創造科学の観点から観察するのは専門の先生方にお任せして、私はみなさまのことを、みことばによって整える働きが委ねられた牧師としての立場から、創造という事実を基礎に、この創世記をはじめからみなさまとともに学んでまいりたいと思います。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべてを創造されたお方だということです。 聖書は、始まりからすごいことが書いてあります。「はじめに神が天と地を創造された」。この世界は偶然にできたとか、進化してできたとか、そんなことはどこにも書いてありません。天と地、水、光、大空、地、海、植物、天体、海洋生物、水生動物、鳥類、家畜、小動物、哺乳類……これらが日を追うごとに、そう、神さまの手によって創造されたわけです。そしてその創造のわざの完成として、人が、男と女が創造されました。 神さまが万物を創造されたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、神さまがこの天地万物の主権者であられるということです。 私たちが神さまの御前で被造物であるという事実が突きつけられるとき、私たちの取る道は2つに1つです。謙遜に創造主を認める道と、創造主を認めずに自分勝手に振る舞う道です。 人がもし創造主を認めるならば、その人は謙遜な歩みをすることになります。あらゆる無駄な浪費を慎むことになるでしょう。なぜならばこの世界にあふれるものは、全能なる神さまが持っておられるものであり、人間はそれらの資源を一時的に預けられ、管理する存在にすぎないからです。また、神さまの前にへりくだり、神さまがお定めになった秩序の中で身を低くして生きていくことを選ぶようになるでしょう。しかし、そうではなくて、創造主を認めないならば、その人の歩みはとても驕ったものになります。聖書のみことば、創造主がおられ、その創造主が天地万物をお造りになったと語ることは、そのようなあらゆる罪人に対する大いなる戒めとなります。 全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 この夏、教会学校は、岩手県のキャンプ場、シオン錦秋湖に行ってまいりました。そこで私たちは素晴らしい体験をいたしました。自然の中で遊ぶという経験です。中でも忘れられないのが、星空を観察するという経験です。キャンプ場から数百メートル歩き、なんと、道路の上に一斉に寝そべります。真下から星空を見るわけです。あのようなものを見てしまうと、夜でも煌々と明かりが照らされている住宅街など、なにほどのことがあろうか、ほんとうに、人間は小さいなあ、しかし神さまは何と大きなお方なんだろう、と考えてしまいます。みなさまも機会があれば、ぜひ、晴れ渡る夜空の星たちを眺めていただければと思います。神さまを感じていただく絶好の機会です。 しかし人間はなんと、この世界の主権者である神さまに逆らって生きていることでしょうか。その果てに考え出したものが、進化とか偶然という概念です。これで人間は、万物のあらゆる原理を説明できる気になっています。教育も、マスメディアも、あらゆるものは進化ということを真理また真実として受け入れることが前提となっています。それはしかし、聖書に啓示された創造主、神さまを否定することからすべては始まります。その結果人間はどうなったでしょうか? 自分が何者かということを見失ってしまいました。 ローマ人への手紙1章を読むと、この世界にあふれる被造物を見ると、人は創造主なる神さまを認めざるを得なくなる、しかし、それでも人は、神さまを認めようとしない、その神さまを礼拝する代わりに、被造物や偶像を礼拝するようになった……そのような人間に、神さまは怒りを下され、人がその罪深い性質のまま生きるように放っておかれた……という意味のことが書かれています。この世界はなぜこんなにも、破壊、争い、怒り、憎しみ、淫乱に満ちているのでしょうか? すべては、創造主なる神さまを認めないで、人間がその罪の性質のままに歩むことにあります。 しかし、忘れないでいただきたいことがあります。第二のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべての創造のみわざを「良しと見られた」お方です。創造の記述の、それぞれの締めくくりをご覧ください。「神はそれを良しと見られた」とあります。最後の創造の日、第六日目に至っては、何と書いてありますか?「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」すべての創造のみわざは、神さまの御目から見て、完全だったのです。 完全な世界。神さまがお喜びになっておられる世界。どれほどのものでしょうか。私たちもこの世界を生きていて、そこかしこに創造主なる神さまのみわざを見ることができます。それがどれほど緻密で、すばらしいものであるか。私たち人間も素晴らしい叡智を働かせてあらゆるものをつくり出しますが、究極的なことを言ってしまうと、所詮それは、神さまのみわざの真似をしているだけです。いわんや大自然に目を留めるならば、そのようなわざは逆立ちしても人間にできないことを、ただ認めるだけです。 このみことばはまた、神さまがお認めになることとは、ことごとく、神さまが「良しと見られる」ことであることであるとわかります。神さまは正義をもってこの世界を統べ治めるお方です。というより、神さまがすべての基準なのですから、神さまが良しと見られないことは、すべてが不義、義ではないことと言うほかありません。 だから、私たち人間が生きる基準は、この世界の創造主であり、また持ち主である神さまが「良しと見られる」ことであります。私たちはこの基準を、神さまのみことばである、聖書から知ることができます。この聖書が、「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭に記しているとおり、創造主なる神さまを認めるところから、神さまが「良しと見られる」ふさわしい生き方を始めることができるわけです。それこそ聖書が、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と語るとおりです。若いときから神さまの「良しと見られる」歩みをしていくことができるならば、その人はどれほど神さまに用いられ、また、喜びに満ちた生涯を送ることができるでしょうか! 罪ということばの原語が「ハマルティア」といって、それが「的はずれ」という意味だということは、お聞きになった方も多いと思います。神さまが「良しと見られる」正しい基準を守り行わなければならなかったのに、それを守り行わない、つまり「良しと見られる」基準の的から外れている、これが「罪」です。 法律に反すること、それもたしかに「罪」です。盗みとか、殺人とか。しかし、この場合の「罪」は、神さまが「良しと見られる」基準から外れた、その結果ともいうべきもので、やはりほんとうに問題にすべきは、神さまが「良しと見られる」、そのみこころから外れて生きようとすることです。 神さまが「良しと見られる」かどうかなど、まるで関係ない生き方をする、それもやはり罪です。創造主が「良しと見られている」この世界のあらゆる環境から搾取し、環境を破壊する、そういうことができてしまうのは、神さまのこの「良しと見られた」という視点が、人間から決定的に欠けているためということができるでしょう。しかし神さまは、最後に創造された被造物、人間に対し、どのようなみこころを持っていらっしゃいますでしょうか。 第三のポイントです。私たちの信じる神さまは、最高の被造物として人間を愛してくださるお方です。 第一日目から第六日目までの創造のわざ、その最後に、神さまは人間を創造されました。人間は最高の被造物です。人間だけが、神さまとの交わり、コミュニケーションを持てる存在として創造されました。 すると、それまでの第一日目から第六日目までのあらゆる創造のわざは、何のために行われたのでしょうか? それは、人間が住むのに最高の環境が整えられるためでした。 この整えられた環境の中で、人は創造主なる神さまを喜び、神さまの栄光を現すのです。では、人はどのようにして神さまの栄光を現すのでしょうか? その答えは、28節に書かれているとおりです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 地上のあらゆるものを従え、支配する。神さまはその役割をわれわれ人間にお与えになりました。これは、人間が環境を勝手気ままに用いていいということではありません。神さまのみこころがこの地上に行われるように、管理するのです。そのために、生めよ、増えよ、と、神さまは人間に命じられました。まことに、人がこの地に増え広がるのは、大きな祝福のしるしです。みなさん、赤ちゃんが生まれるということは、とてもうれしいことですよね? そうです、それは生めよ、増えよという、主のみこころがまたひとつ実現し、神さまのご栄光がこの地に現れたためです。 愛しているから用いたい! 愛しているからわたしのつくった完全なこの世界に広がってほしい! これが私たち人間に対する、神さまのみこころです。私たちがこの神さまのみこころに忠実に生きるとき、神さまはそのような私たちのことを「良しと見られる」のです。 しかし人間は、神さまが「良しと見られる」歩みをしない道を選びました。それが最初の人、アダムとエバから始まり、すべての人は罪を犯したので、神さまからの栄誉を受けることができない状態となりました。そう、神さまは、このように神さまを認めない歩みをするようになった人間の罪を「良しと見られる」ことはとてもおできにならず、罪をおさばきになるしかありません。 それでも私たち人間は最高の被造物です。神さまが愛してやまない存在です。なによりも「良しと見られる」最高の存在です。神さまはそんな愛する存在をさばきたくはありません。 それで神さまがお選びになった道は、自分勝手な道を歩んでご自身から離れた人間の罪を赦す、究極の「良しと見られる」ことです。イザヤ書53章、4節から11節をお読みします。 これは、十字架の上で死なれた、神の御子イエス・キリストを預言したみことばです。イエスさまはなぜ十字架で死なれたのでしょうか? それは、私たちを神のさばきから救うという、神さまのみこころを成し遂げるためでした。11節のみことばをご覧ください。「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する」……そう、満足する、とあります。御父と御子が切り離されるという、このあまりにも激しく苦しいみわざは、神さまがご覧になって「良しと見られた」ことだったのです。このイエスさまの十字架によって罪が赦されたと信じるならば、人は神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。そう、十字架こそ、究極の「良しと見られた」ことです。神さまはそれほど、私たち人間のことを愛してくださったのです。 私たちが生きている世界は、あらゆる罪がはびこっています。環境も破壊されています。私たちはそのような世界を生きることに、時に大きな苦しみを覚えます。しかし神さまは、それでもこのあらゆる被造物を「良しと見ておられる」のです。なぜでしょうか? 最高の被造物、最高の「良しと見ておられる」存在である私たちが、現実に生きている世界だからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。私たちは愛されています。イエスさまを信じる信仰によって罪赦された私たちの生きるこの世界、そしてこの世界に住む人々を、神さまは愛してくださっています。 私たちは何をすべきでしょうか? この世界に、生めよ、増えよ、地を満たせ……主のみこころ、良しと見られることを守り行う、そのわざを広めることで、この地を主の栄光に満たすことです。私たちクリスチャンは、そして私たち教会は、そのために存在します。 私たちは、主の主権を思いましょう。そして、この主権者なる主が、私たちのことを「良しと見られた」、愛しておられる、喜んでおられることをしっかり心に留め、主に用いられる歩みに踏み出してまいりましょう。