カインとは私たちである
聖書箇所;創世記4:1~26 メッセージ題目;カインとは私たちである 兄弟の仲はいいに越したことはありません。しかし、聖書を見ると、新約聖書には、同じ弟子の共同体に属したペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネのようなケースはありますが、旧約聖書を見ると、だいたいは兄弟仲がうまくいっていないケースが登場します。イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の兄、ダビデと兄たち…… なんといっても、聖書に最初に登場する兄弟からして、兄弟愛という点で大きな問題を抱えていました。愛し合うべき兄弟の間で起きたのは殺人でした。世界で初めての殺人、それは兄弟の間で起こったのでした。 アベルは羊飼いです。神の民イスラエルの象徴ともいえる人物です。それがゆえなく迫害にあったということも象徴的です。私たちはアベルに肩入れしたくなるでしょう。しかし、今日のメッセージは、アベルではなく、カインのほうにスポットを当ててお語りしたいと思います。と言いますのも、聖書をよく読んでみると、神さまと会話を交わしている記録が聖書にあるのは、アベルではなく、カインのほうです。さらに、カインの記事のほうによほど紙幅が費やされています。私たちはもちろん、アベルから学ぶ者でありますが、罪という問題と闘いながらこの地上を生きていく者として、カインを反面教師として、また、カインに注がれた主のみこころから、学ぶ必要があります。そういうわけで本日のメッセージの中心はカインです。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。カインは、罪の動機を治められませんでした。 農夫カインと羊飼いアベルの兄弟。彼らはある日、神の御前にささげものをささげることになりました。 これはたいへんなことです。大舞台とさえいえます。普段の彼らのすることは、農夫であり、羊飼いです。しかしこの日ばかりはちがいました。神さまの御前に出て、礼拝をささげるのです。大地であったり、羊たちであったり、そういったものを相手にすることから、神さまへと向かう。どれほど晴れがましい瞬間だったことでしょうか! 礼拝というものは、そのような晴れの舞台です。みなさん、いま私たちのいるこの場所は、晴れの舞台です! 一週間に一度、このように御前に集う時間を大切にしたいものです。 さて、この晴れの舞台に、カインは大地の実りを、アベルは羊の初子の肥えたものを携えてやってきました。そして……神さまが顧みてくださったのは、アベルのささげ物の方でした。カインのには目を留められませんでした。 カインは怒りました。私たちもカインならば、怒るのが当然だと思うでしょうか?しかし、もしそうならば、私たちは少なくとも、3つの心の罪に関わっていることになります。第一に、自分が正しいとする罪、第二に、ほかの人と自分を比較して惨めになる罪、第三に、神さまとアベルに対して腹を立てる罪です。 まず、自分が正しいとする罪から見てみましょう。カインがこの、いけにえを神の御前に持ってきたとき、どのような気分だったでしょうか? 当然これは、神さまに受け入れられるはずだ、どうだ! とばかりの態度だったのではないでしょうか? もしかするとカインは、アベルのことを見下していたかもしれません。聖書、特に旧約聖書を読んでもわかることですが、兄は絶大な権限が与えられています。また、さきほども述べました、イサク、ヤコブ、ヨセフ……いずれも、兄が彼らに対してふさわしくない形で大きな権力をふるおうとしたことを、聖書は問題にしています。ともかく、兄は弟より先に生まれた分、大きな権力をふるいますし、また劣っているからと見下すのは、どうにもならないことです。しかし、アベルのほうが受け入れられた。カインにとって、それはどれほど衝撃的だったことでしょうか。 そこで第二の心の罪、それは、比較して惨めになることです。もし、この礼拝の前に、カインが普段からアベルに対して優越感をいだいていたとしたら、それも比較の問題です。しかし今回の場合は、受け入れられたのはアベルのほうで、カインではありませんでした。そこでカインは、アベルと比較をして怒りに満たされたのです。優越感は変わり、劣等感となりました。この心の罪は、実際の行動で犯す罪へと駆り立てる原因ともなったものです。 カインは、どうすればよかったでしょうか? 礼拝というものを、他者との比較の道具にせず、ただ黙々と自分のささげるべき礼拝をささげていればよかったのです。もし、自分のささげるささげ物が受け入れられないと知ったならば、どこが悪かったのか思い巡らし、悔い改めてふさわしいかたちで礼拝をすればよかったのです。 しかし、カインはそうしませんでした。その結果第三の心の罪、神さまとアベルに対して怒るということをしました。そもそも神さまは、なぜアベルのいけにえを受け入れられたのでしょうか? それは、カインのよりもすぐれていたからです。ヘブル人への手紙11章4節にあるとおりです。 では、どういう点で、アベルのいけにえはすぐれていたのでしょうか? それは、先週学びました、神さまがアダムとエバのはじめからイエスさまのことを予告され、そのしるしとして、獣をほふって皮の衣をつくり、彼らの罪の結果である裸の恥を覆ってくださったことを思い出していただければと思います。生きるものの血が、いのちが流されることにより、罪赦されて神さまと和解すること、アベルはそのことを知っていて、それだからこそ正しいいけにえとして、羊をほふってささげたのでした。ヘブル9章22節もご覧ください。 カインにしてもおそらく、最良のものを持ってきたはずです。しかしこれでは神さまとの和解にふさわしくありません。みこころにかなわないからです。それなのにカインは怒りました。これは、みこころを定めて善悪をさばかれる神さまへの挑戦です。カインがよいと思っても神さまに受け入れられなければ、そこですることは悔い改めることであるはずなのに、あべこべに怒る、これが罪人の性質です。もし、心の中の罪を正しく治めることができないならば、どうなるでしょうか? カインは、どうなりましたでしょうか? 第二のポイントです。カインは、取り返しのつかない罪を犯しました。 彼は、アベルを呼び出して殺しました。大変なことをしてしまいました。しかし、私たちはここで考えないでしょうか? いったい、いけにえが受け入れられなかったくらいで、人殺しなどしてしまうものなのだろうか? しかしそれが、義人に対して罪人の取る態度です。イエスさまはアベルを義人とお呼びになりました。そのような義人に対して迫害を加える者には、容赦ないさばきを加えるとイエスさまは宣言されました。しかし罪人らは、その神さまのみこころを恐れるよりも、自分たちの悪い根性の方を優先させるのでした。 それはまさしく、悪魔に魅入られた者の取る態度です。神さまに祝福されている者、神さまに選ばれている者を見ると、いても立ってもいられなくなり、怒りの刃(やいば)を向けるのです。 もし、私たちが、兄弟姉妹が自分よりも祝福されていると思い込み、あんな人間などいなくなってほしい、などと思うならば、きわめて要注意です。罪は戸口で待ち伏せしています。 私たちはそのような感情になっていることに気づかせていただき、悔い改める必要があります。さもなくば、人にいなくなってほしいというこの悪感情が、とんでもないかたちで現れるかもしれません。 もちろん私たちは、殺人のような大それたことは起こさないかもしれませんが、教会という主のみからだに分裂をもたらしたり、この群れを去っていのちの恵みにあずかるのをやめる人を生み出したりしないともかぎりません。あるいは、分裂しなくても、教会の中に一致できない状態がいつまでも保たれ、主のみからだとしてまことにふさわしくなく、つねにサタンに付け入る隙を与えている無防備な状態になるかもしれません。 そもそも、殺人というものはなぜ問題になるのでしょうか? それは、人間が神のかたちに創造されている以上、殺人とは神のかたちを破壊することだからです。だから、実際に人をあやめ、血を流す行為に及ばなくても、その人の人格を破壊する致命的なことばを投げかけるならば、それは殺人の罪に匹敵することです。イエスさまは何とおっしゃっているでしょうか? マタイ5章22節です。…… 実際に血を流して殺してしまうならば、もうその人はもとに戻りません。取り返しのつかない罪を犯したことになります。だから、先週も少しお話ししたとおり、日本には殺人罪を償わせる制度として、死刑という刑罰があるのです。人の人格を破壊することばをいうことも、これと同じ、さばきを受けることになります。 カインは、まず神さまの問いかけに知らん顔をしました。いざ神さまに呼びかけられたら、知りません、私は弟の番人なのでしょうか、と口答えしました。愛し合うようにと神さまがこの世界に定められた兄弟の関係を、番人などと表現するとはあんまりです。 こんな表現をしたのは、自分は当然兄として弟の上に君臨すべきなのに、神さまがその順番を変えたととらえ、神さまに向かって精いっぱいの皮肉を言い放っているかのようです。さすが、神さまがこの者のいけにえを受け入れなかっただけのことはありました。彼は神さまとの関係が壊れていたのです。その壊れた関係が、兄弟の間にあるべき愛が冷え切り、ついに殺人に至ったことにつながったと言えましょう。 そうです、あらゆる罪は、神さまとの関係が壊れているところから始まります。大それた罪を犯す者は、神さまとの関係がどこかおかしい状態にあるものです。そして、罪から来る報酬は死です。すなわち、まことのいのちなる神さまとの断絶した状態です。これは被造物として、取り返しのつかない状態です。自分ではこの罪を、どうすることもできません。どんなに努力しても、どんなにいい人間になろうとしても、この罪が赦されて永遠のいのちを回復するということなど、絶対にありえないことです。そうです、あらゆる罪は、みな取り返しのつかない状態です。大小にかかわりません。すべては取り返しのつかないものです。その点では、カインも私たちも、大差ない存在です。いえ、もっとはっきり言ってしまえば、カインとは私たちのことです。 こんなカインに、そして私たちに、救いはあるのでしょうか? そこで第三のポイントです。神さまは、取り返しのつかない罪を覆ってくださいました。 神さまは、カインの犯した罪がどんなに大きいか、宣告されました。10節から12節です。……ここではじめて、カインは自分のしたことの重大さに気づかされました。その咎の大きさに圧倒されました。やはり人は、きよい神さまと向き合うことによって、はじめて自分が途方もない罪人であることに気づかされるものです。 しかし、自分の罪の結果におびえるカインに、神さまは守りを与えられました。地上をさすらい歩く者となろうとも、あなたのことはわたしが守る……カインはようやく、神さまとの関係を回復しました。それは、カインが自分の罪を認めたところから、そして神さまが一方的なあわれみによってカインに臨んでくださったから、はじめて可能となったことでした。 カインは結婚して子をもうけ、町をつくりました。そして、そこから生まれていったカインの子孫は、文化を創造する者たちとなりました。遊牧をする者、楽器をつくって演奏する者、青銅器や鉄器をつくる者が生まれました。 ある聖書学者は、神の守りが信じられなくなった者たちがこのような文化をつくった根拠である、と語っていますが、たしかにそういう側面もないとは言えないにせよ、そう言い切れるものでもないでしょう。ここは、そのような堕落した人間たちの間にも創造的な文化が生まれるように主があわれんでくださった、と考えた方がよろしいでしょう。なにしろ、イスラエル、そして今日(こんにち)の教会に至るまで、神の民はみなこの時代に生まれた数々の創造物の恩恵にあずかっているわけです。牧畜もしますし、楽器を奏でて賛美もします。金属の道具も使います。文化は一般恩寵として受け継がれています。 とは言いましても、カインのような負の性質は、5代目の子孫のレメクに受け継がれてしまいました。レメクは殺人をして、妻たちにこんなことを言いました。23節と24節です。 これは、カインを殺す者に七倍の復讐が与えられるならば、俺様に危害を加える者には七十七倍の復讐をしてやるぞ、という、復讐を禁じる神さまのみこころを不遜にもというか、大胆不敵にもというか、完全に真逆に曲解してはばかるところを知らない、傲慢極まる宣言です。カインの蒔いたものは、実に残酷な形で刈り取らなければならなくなったわけです。 私たちもまた、いかに守られているとはいえ、ときに私たちの不従順が生むマイナスの結果に、自分自身も、家族も、教会全体も苦しむことがありえます。神さまは、私たちの言動に対して責任を問われることが時にあるものです。要はそのとき、レメクのようにみこころもなにもあったものではない態度を取らず、素直に悔い改め、神さまの御手を求めることです。 しかし、神さまはこの世界をなおも守ってくださいます。25節、26節をお読みください。……この世界には、義人アベルに代わるセツが生まれ、彼から増え広がった人々から、主の御名によって祈ることが広がりました。 主は、カインの罪によって汚されたこの世界を放っておくことはなさいませんでした。主に属する民を起こし、彼らが主の御名によって祈れば何でもかなえてくださるように、道を備えてくださったのでした。まさしく、神さまのあわれみです。 私たちも、かつてはカインのようであったかもしれません。主を知らなかったゆえに、取り返しのつかない罪を犯したかもしれません。今もなお、罪を犯してしまう自分に落ち込んでしまうかもしれません。しかし神さまは、そのような世界に生きる私たち、罪を犯すことをさも当然のように振る舞う人々に満ちた世界に生きる私たちのことを、なおもあわれんでくださっています。本来カインのようであった私たちを、セツのように、殉教者のたましいを継ぐ者としてつくり変えてくださいました。主の御名によって祈る者へとつくり変えてくださいました。 私たちは、カインのように罪深い自分の性質に目を留めて、自分を呪ってはなりません。私たちの罪はイエスさまの十字架によって完全に贖われました。私たちはイエスさまの御名によって祈り、祈りを聞いていただける者としていただいたのです。私たち自身を振り返る祈りをしたいと思います。聖霊なる神さまに、心を探っていただきましょう。