洪水と箱舟に示されたみこころ

聖書箇所;創世記7:1~24 メッセージ題目;洪水と箱舟に示されたみこころ  1966年の映画で、「天地創造」というものがあります。ジョン·ヒューストン監督、天地創造から創世記22章のイサク奉献までの、創世記の記事に従って大スペクタクルが展開するという映画、音楽も日本人の黛敏郎で、あの当時の日本人にとっては誇らしい映画だったと思います。もちろん、ノアの洪水の場面も登場し、いろいろな動物が箱舟につがいで入る場面もあります。創造科学の立場からは、このように、動物が箱舟に入ることについても、解答が与えられています。興味のある方はDVDを視るなりして調べてみてください。本日のメッセージではその領域は扱いません。  このような聖書箇所をそのまま信じ受け入れるか否かということは、みことばに対する私たちの態度が問われることであり、それは大げさではなく、私たちの信仰のあり方、ひいては、人生を左右します。私たちは、自分の常識や感覚といったものと、みことばの語ることと、どちらを優先するのでしょうか? とても問われることです。聖書の解き明かしは、みことばが正しいということ、実際に起こったことの記録であるということを前提に行います。みなさまもその前提でメッセージを聴いていただければと思います。では、まいります。  第一のポイントです。神さまはこの世界の環境に、驚くべきみわざを行われました。  神さまは、洪水によって地を滅ぼすことをノアに告げられました。しかし、その後の生態系が保たれるように、動物を生き残らせるようにされました。  ノアに託された働きは、そのような動物が生き残るために箱舟に導き入れ、なお箱舟の中でそれらの動物を養う、ということも含まれます。これはもちろん、たいへんな重労働です。先週のメッセージでも学びましたが、神さまに対するノアの信仰は、このような重労働を行うという驚くべき従順を可能にしました。  しかし、地のすべての動物をしかもつがいで箱舟に入れる、ということが、いったい可能だったのでしょうか? それが、可能だったのです。9節のみことばをご覧ください。……やって来た! なんと、動物がやって来たのです。ノアには時間が残されていませんでした。しかしここで神さまは干渉してくださいました。動物たちに、ノアのもとにやってくる意志を与えられ、実際に来るようにされたのでした。  ここに来れば助かる、これは動物的な感覚ともいうべきものでしょうか。しかし、このような感覚さえも神さまが用いられ、生態系を保つようにされたのでした。人間の知恵の及ばぬところに神さまがご計画を立て、被造物を導かれる、これを「摂理」といいます。神さまの摂理は実に、この被造物全体にまで行きわたっていたことをここに見ることができます。  しかし、そのいちばん大きな目的は、主のみこころにかなったノアとその一家を救うことにありました。そのために、あらゆる自然の法則を動かしてでも、ノアのことを救ってくださったのでした。  私たちにしても同じような存在ではないでしょうか? この曲がった時代を生きているのは、だれであれ同じことで、私たちとて例外ではありません。しかし、私たちは神さまの特別な選びによって救っていただいたのです。私たちにはよいものは何一つありません。ただ、神さまの御目にかなっていると見なしていただいた、神さまの恵みによることです。  そして、私たちは一見すると、自分の意志で神さまのもとにやってきたように見えます。しかしほんとうのところは、神さまの側ですべてを働かせて益となしてくださり、私たちは主を信じ受け入れる信仰に導いていただいたのでした。私たちの目には不思議なことです。このような者さえも救ってくださった恵みのゆえに、私たちは主をほめたたえましょう。  第二のポイントです。神さまはノアを中心にした選ばれし者たちに、驚くべき守りを施されました。 もちろん、ノアの家族やあらゆる生き物を箱舟の中に導き入れられたことも大きなみわざです。しかし、それだけではありませんでした。16節のみことばです。ご覧ください。「主が」……戸を閉ざされた、とあります。これは霊的なお方が、物質的な世界に干渉された、ということでもあります。 そういうことはあるのだろうか……基本的に物質的な世界しか体験していない私たちからすれば、これはとても不思議なことのように思えます。しかし、同じ創世記の3章を見てみますと、神さまご自身が獣をほふって皮の衣をアダムとエバにつくり、着せてやったという記述が出てきます。目に見えないはずの神さまが、目に見える世界に干渉していらっしゃるのです。 これはしかし、当然のことです。私たちが今体験している、目に見える世界は、神さまが創造され、支配していらっしゃる領域です。この領域にみわざを行われたとしても、何の不思議もありません。実際、私たちの主イエスさまは、この目に見える世界にお生まれになり、生きられたのでした。神さまの側から見れば、不思議なことは何一つありません。 その前提であらためてこの16節のみことばを見てみたいと思いますが、このみことばからわかることは、箱舟建造からあらゆる生き物を導き入れることに至るまでの一連のノアの行動が、最終的に神さまが責任をもって導かれた働きである、ということです。 ノアの完全な従順は、従順という行為そのもので終わったのではありません。ノアのうしろの戸を神さまご自身が閉ざされるという形で、神さまが完成させてくださったのでした。そうです、従順という行為そのものに意味があったというよりは、その従順の最終的な責任を神さまご自身が負ってくださったということに意味があるわけです。 ノアのように神の選びをいただいた者にとって、神さまはどのようなお方でしょうか? イザヤ書52章12節をご覧ください。神さまはノアに行くべき道を与えられ、導かれました。箱舟をつくって生き延びなさい、という道です。しかしそれだけではありません。うしろの戸を閉ざされたということは、しんがりとなられた、つまり、後ろにおいて守ってくださったということです。これで、どこから何がやって来ても大丈夫です。 このイザヤ書52章12節のみことば、あわてたり、逃げたりするイスラエルの姿は、ともすれば、私たちの姿のようではないでしょうか? 神さまが前で導き、後ろで守ってくださっているのに、それが見えなくて、あたふたしてしまう不信仰な姿を表しているようです。しかし私たちは、そのような不信仰から自由になり、神さまの絶対的な守りの中で憩う必要があります。ノアをご覧ください。箱舟の中に入ったら、彼はこの大波に対して何かしましたか? ただ、流れるに任せただけです。 ちょっと脱線しますが、あのノアの箱舟というものは聖書の記述どおりの設計ならば、工学的に見て驚くべき構造をしているそうです。あの大洪水に耐えられるだけの設計だそうです。よく聖書マンガや日曜学校の教材などで、ノアの箱舟がそれこそ一般的な「船」の格好、そう、底のほうに行くにしたがって細くなる、あの形をしているものを見かけますが、あれはまちがいだそうです。それなら「箱舟」とは言いません。箱型だから「箱舟」です。ともかく、あの箱舟の中に入れば、あとは流れに任せるだけ、ノアはこの洪水を何とかしようとか、一切考える必要はなかったわけです。 私たちもまた、とんでもない状況に取り囲まれることの多いものです。私たちの周囲の状況は刻々と変化し、ときに私たちはその状況に翻弄されます。しかし私たちはそんなときも、主が先頭に立たれ、またしんがりとなってくださっていることを、忘れないでいたいものです。 それでも私たちは悩みますでしょうか? 仕方ない、人だから当たり前です。それでも私たちと普通の人とを分ける、確実なことがあります。ペテロの手紙第一、5章7節です。……神さまは何よりも、ノアのことを心配され、ノアがこの洪水に呑み込まれてしまいように、万全の手を打たれました。私たちのことも主は心配してくださっています。私たちのために特別な配慮をくださる主に、私たちはすべてを委ねてまいりましょう。  第三のポイントです。神さまはこの地の者たちに、驚くべきさばきを行われました。21節、22節をお読みします。だれひとり生き残らなかったのでした。地上に住む者はすべて死んだのでした。生き残ったのはノアとその家族だけでした。  そうです。神さまはお語りになったとおりのさばきを執り行われました。選ばれた者以外、すべて滅びるという結果をもたらしました。しかし、彼らはこの世が滅ぼされるという知らせを知らなかったのでしょうか? もちろん知っていたはずです。義人ノアが箱舟をつくりつづけたことから、この世にさばきの警告が下されていることを知っていました。しかし彼らは受け入れませんでした。  このような地の民に、みこころにかなう人はひとりもいなかったのでした。すべてがさばきの対象でした。死をもってさばかれなければなりませんでした。これが、さばきというものの実際です。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが」できない、とみことばは語ります。 それならこの「すべての人」は、「神からの栄誉」の代わりに、何を受けるのでしょうか? そうです、「怒りのさばき」です。しかし、私たちはここで、神さまの気持ちになって考えてみたいと思います。神さまが愛もて創造された人間に、怒りを注がれることで正義を全うしなければならない、それはどれほどのことでしょうか。 私はむかし、「イタズ」という題名の映画を観ました。田村高廣演じる主人公の猟師が、子熊のときから可愛がっていた熊が、養鶏場の鶏を襲ったり、果樹園の果物を食べまくったりして、成長して手がつけられなくなり、自然に帰してやるしかなくなった。するとこの熊は、もっとひどい害をもたらすようになった。主人公はついに意を決し、雪山に入り、銃でその熊を仕留める、茫然となった彼が熊のなきがらを隣からじっと見つめていると、やがて折からの雪崩によって彼は熊もろとも呑み込まれる……という、とても悲しい内容です。 あるべき道を乱す者は、それがいかに愛する対象であろうともさばかなければならない、その悲しさをこの映画は教えてくれたようでした。ノアの洪水ですべての人を滅ぼされた神さまのおこころも、それと同じようだったのではないかと思えてきます。あまりにもつらい、しかしさばかなければならない……。   私たちが罪人であるということは、神さまのみこころを罪によってそれだけ損ない、悲しませているということを意味します。私たちもさばかれなければなりませんでした。私たちももし、ノアの時代に生きていたならば、洪水に呑み込まれ、海の藻屑になっていたとしても不思議はありませんでした。  しかし人々は、このようなさばきに関してあまりにも無関心か、さもなくば荒唐無稽ととらえるようです。現代も水害や地震は大きなニュースになりますが、それでも少し経過すれば、のど元過ぎればなんとやら、です。世の終わりというものについて、もしかするとクリスチャンである私たちも無関心であったりするかもしれない、そのことを私たちは警戒する必要があります。みことばは何と語っていますでしょうか? ペテロの手紙第二、3章3節から14節です。これはおひらきください。新約聖書の476ページです。  このペテロのことばから想像力をたくましくしてみますと、おそらくはノアの時代も、洪水を前にした者たちはあざ笑ったことでしょう。しかし主のみことばどおり洪水はやってきて、ことごとくほろぼされました。みことばのとおりです。  そして私たちはいま、「火で焼かれるためにこの地は取っておかれている」というみことばの前に立たされています。私たちはこれを信じますでしょうか、信じませんでしょうか? 聖書の中には火で滅ぼされるという箇所がしばしば登場します。ありえることなのです。  私たちはこのようなさばきから救われている、だから大丈夫、とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、それならそれで、私たちには求められている生き方があります。11節、12節のみことばです。  ……私たちはいつイエスさまが来られても大丈夫なように、備えていますでしょうか? 敬虔な生き方、それは、救われている者としてふさわしい生き方を、実際の生活の中で目指すことです。全能の主の御手によって救われたならば、それにふさわしいだけの実を生活のただ中で結んでしかるべきです。何をしても許される、とばかりに好き放題に生きるのは、少なくとも、救われた者としてふさわしい生き方ではありません。そのような生き方のどこに、生ける主との交わりが成り立っているというのでしょうか。  その日が来るのを早めるように、もちろん、イエスさまの再臨がいつになるかということは、全能の主がその主権の中で決めていらっしゃることで、私たちのあずかり知らぬことです。しかし、私たちはマラナタ、主よ来てください、と堂々と言える生き方をするならば、主は私たちのその切なる叫びに応えてくださいます。 それが大いなるさばきとともに来ることを思うと、私たちはどれほどこの地に、それこそノアが大建造物をもって証ししたように、キリストの十字架という旗印を掲げて生きなければならないことでしょうか。キリストの十字架によらずしては、だれひとり救われません。終わりの日に臨む炎に焼き尽くされてしまうほかありません。それは私たちの愛する人とて例外ではありません。私たちの主におしたがいするよい生き方をもって、隣人をキリストへと導くことです。 しかし、それでも彼らがキリストを信じようとしないならば、そのたましいは御手にゆだね、私たちの従順の生き方に集中するばかりです。私たちは何も彼らにあわせる必要はありません。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにというみことばを取り違えてはなりません。ノアは果たして、その時代の人々を救おうとして、あの罪人たちのライフスタイルに合わせて彼らに証ししたりしたでしょうか? とんでもないことです。   今日のみことばを通して、神さまがノアに対して、またこの世界に対して持っておられたみこころから、私たちは学びました。相働きて益となすみこころとみわざにより、私たちは救われました。主は私たちの救いの完成のために、最後まで導いてくださいます。私たちはこの主の愛に対し、従順の生き方をもってお応えしてまいりましょう。その生き方をもって、イエスさまが再び来られるその日に備えてまいりましょう。主は今週も私たちとともにいてくださり、私たちのこの従順の生き方を導いてくださいます。

主の心にかなった人

聖書箇所;創世記6:1~22 メッセージ題目;主の心にかなった人 この本文に入る前に、確認しておこうと思います。私たちは現実に体験する災害と神のさばきをはっきり区別しなければなりません。ノアの洪水の場合、その洪水そのものからの回復をノアが祈ったという記述はありません。さばきである以上当たり前です。しかしこのたびの台風はちがいます。私たちは、この世をとりなす者、この世の破れ口に立つ者として神さまに召されている以上、ノアの洪水の場合とまったくちがい、私たちはこの日本のために、現実に傷ついている人たちのために祈る必要があります。まずはそこから確認したら、本文の学びに入りたいと思います。 本日の本文の主人公、ノアは、8節にあるとおり、ひとことで要約すれば、「主の心にかなっていた」人でした。このノアから学ぶならば、私たちも主の心にかなった者として生きる道が開けてまいります。では、いつものように、3つのポイントからお話しいたします。 第一のポイントです。ノアは正しい人でした。 9節のみことばをお読みします。……彼の世代の中、つまり、この時代の人々の中にあっても、ということです。では、このノアの生きた時代は、どういう者たちがいたのでしょうか? 1節と2節をお読みします。 ……この箇所は解釈が分かれます。ひとつは、セツを先祖に持つ神の祝福の家系が堕落し、カインを先祖に持つような堕落した人の娘たちと雑婚するようになったというものです。それを象徴的に「神の子」、「人の娘」と表現している、というわけです。旧約聖書を通読すればわかることですが、イスラエルはいかに神の民とされていても、ひとたび堕落するとその堕落ぶりは目を覆わんばかりになります。神の民以外の者たちと交じり合い、民族全体の堕落は加速されます。そのような神の民の堕落が、すでにノアの時代には極みに達していたという解釈です。 もうひとつ、これは興味深い解釈ですが、神の子とはずばり「御使い」「天使」という解釈です。つまり、御使いが堕落し、人間の女性の美しいのをめとり、子どもを産ませた、というのです。でも、私たちは普通、御使いを霊的な存在と受け取っているので、そのような霊的存在が結婚したり、子どもを産ませたりさせられるものか、と思うでしょうか。実際イエスさまは、御使いはめとることも嫁ぐこともない、とおっしゃっています。だから私たちには、この解釈は荒唐無稽に思えるでしょうか。 しかし、同じ創世記を見てみると、たとえば18章の8節で、御使いが人間と同じようにものを食べる場面が出てきます。また、19章では、御使いを見た町の男どもがいやらしい感情をいだいたり、御使いがロトたちの手を引っ張ってソドムの外に導き出したりしています。そうだとすると、もしかしたら御使いは、私たちが常識的に考える「霊的」な存在とはちがうのかもしれません。 そして、この解釈を裏づけるのが、4節に登場する「ネフィリム」だといいます。このネフィリムについては、民数記の敵地偵察のできごとで、強そうに見えた敵に震え上がった偵察隊が、敵の巨大さを「ネフィリム」に例えている場面に登場します。もちろん、ノアの洪水でネフィリムはみんな滅びた以上、そのアナク人たちはネフィリムの子孫などではありませんが、そういうところに引き合いに出されることを見ると、ネフィリムは神の民を取って食うような強力な敵対者、というイメージがイスラエルに定着していたのでしょう。創世記6章に登場するこのネフィリムがイスラエル人のイメージのような「巨人」であったのは、御使いと人間の交雑の結果異様な肉体を持つようになったからだ、と大真面目に主張する人もいます。 どちらがほんとうなのかは、今となっては検証のしようもありません。しかしどちらの解釈であれ、はっきりしていることは、地上に「生めよ、増えよ」と広がった人間は、もはや神のかたちを失い、堕落に堕落を重ねて主を大いに怒らせ、また悲しませていたということです。この世界に対する主のみこころは、3節に表れています。 ……人の齢が120年、これは、神さまは人のことを120歳までしか生きさせない、という意味にも取れるでしょう。実際、この創世記を書いたモーセ自身が120歳でこの世を去っていますし、このノアの洪水を境に、何世紀にもわたって生きるような途方もない長寿だった人間は、ぐっと寿命が短くなっています。現代人は寿命が長くなりましたが、それでも、地球上のほぼ全員が120歳の壁を越えていません。こうして見ると、120年というのは、寿命の標準に見えてきます。つまり、人間の寿命を短くされたのは、だらだらと長く生きたぶん罪をたくさん重ねないようにという、罪深い人間に対する神さまのお取り扱いだったということです。 しかしもうひとつ解釈があります。それは、このみことばを主が語られてからあと120年で、人間の寿命はおしまいになる、ということです。もちろん、地球規模の洪水によってです。あと120年です。ご自身に反逆する人間に対するすさまじいまでの御怒りの中、120年のチャンスを与えるから何とか悔い改めてほしい、というみこころが見えてきます。ヨナ書を読むと、神さまは悔い改める民族に対するさばきを撤回されるお方だということがわかります。このさばきも撤回されるチャンスはあったのです。 しかし、実際はどうでしょうか。11節、12節です。……これが現実です。ひとりノアだけが、この世界において主のみこころにかなった、正しい人だったのです。ノアは、そういう世界においても、正しい生き方ができたのです。しかし、ノアにとっての正しさの基準は何でしょうか? それが、ノアを取り囲む人々の倫理になかったことは確かです。なぜならその倫理は、どれひとつとして神さまのみこころにはかなわない、正しくないものだったからです。その倫理が少しでも正しければ、彼らは滅ぼされずに済んだでしょう。でも実際、彼らは滅ぼされました。こうなるとノアは、世界と交じり合いながら生きることを放棄しなければなりませんでした。あるのはただ、神さまとの個人的な交わりだけです。 ノアの生き方を象徴するみことばが新約聖書の中にあります。ローマ人への手紙、12章2節です。……ノアはこの堕落した世界から四方八方迫りくる人間関係の侵略から、つねに心を新しくして神さまに守っていただかなければなりませんでした。そしてそれは、私たちも同じではないでしょうか。私たちもいろいろな人間関係に取り囲まれていますが、時にその人間関係は、この世、すなわち神さまのみこころにかなわない基準に調子を合わせようとさせ、あたかもそれが美徳のように迫ります。 しかし私たちは、すでにこの世から救い出されている者たちであるという自覚が必要です。完全なみこころを知る必要があります。私たち人間はどこまでも不完全ですが、みこころは完全です。だから私たちは、みことばから学ぶのをやめてはならないのです。みなさまがご希望ならば、私はいくらでもみことばを学ぶ機会をもうけたいと思います。それは、私たちの聖書知識を増し加えて、何か自分が偉くなるためではありません。みことばにとどまることでこの世から自分を守り、また教会を守るためです。ノアによって人類が守られたのは、正しい主のみこころを保つためであったように、私たちも守られるように、みことばを変わらない基準として、私たちの中にしっかり保ってまいりたいものです。 第二のポイントです。ノアは従順な人でした。 6章14節から22節には、箱舟をつくる手順、また箱舟の中に入れる生き物について、くわしく書いてあります。これらの記述を現代人が読むと、かなり荒唐無稽に思えるのでしょう、このノアの箱舟の記事は神話であり、したがって一事が万事、聖書全体は神話であるという、とんでもない結論が導き出されるわけです。しかし、この教会で養われてきなみなさんは、この洪水、またそれに耐えた箱舟がいかに科学的に立証できるものだったか、よく学んでこられ、それがみなさんの聖書信仰をしっかり裏づけていると思います。私は創造科学の専門家ではないので科学的に深入りはしませんが、この箱舟建造とあらゆるつがいの生き物を箱舟に導き入れたことについて、ノアはいかなる神さまのみこころに従順になったか、3つの側面から見ることができます。 まずは、いのちを守れ、というみこころです。地を覆う洪水からサバイブせよ、そのためには、わたしの言うとおりに箱舟をつくりなさい、というわけです。かくして、あのすさまじい洪水から、ノアとその家族は守られたのでした。さきほども触れたとおりですが、みことばに従順に従うことは、この世の嵐のようにすさまじい迫害や誘惑から、私たちを守り、きよく保つことになります。 そして、いのちを保て、というみこころです。ノアがこれだけの生き物を、それもつがいで導き入れたのは、洪水で破壊された環境が自然の秩序を取り戻すためです。生き物が新しく出発する地上に放たれると、そこでは食物連鎖がなされ、環境が十全に保たれます。それはもちろん、人間を生かすことになります。人間のいのちを保つために、生き物のいのちは生かされる必要があったのでした。そのために、ノアの家族はもちろん、それらの生き物のいのちを保つためにも、食べ物をふんだんに運び込みなさいとも命じられました。 そして何よりも、「自分のために」箱舟をつくれ、ということです。わたしはこの地を滅ぼすが、あなただけはまず何としてでも生き残りなさい、というみこころが現れています。さて、このみことばをお読みすると、神さまはノアに利己的になるように勧めておられたのだろうか、という疑問がわき上がりますでしょうか。「自分のため」ということが、主にあって人に尽くす生き方と対照的に見えるからです。 この時代の人々とノアがどのようにつき合っていたか、それは想像の域を出ません。しかし、あのような巨大な建造物をつくれば、いやでも人目につきますし、それをなぜつくっているのか尋ねられたら、ノアは正直に答えたでしょう。そして、なんとしてでも入ってくださいと勧めたでしょう。しかし、彼らがどんな反応を示したかは、結局箱舟に入ったのがノアとその家族だけだったという事実を見ても、一目瞭然です。それでもノアは救いの旗印として、この大きな建造物を世に示したのでした。やがて来る破滅から救われる道は、これに乗ることしかありませんでした。大きな箱舟をつくり、それに次々と生き物を入れていくなんて、どれほど人々から馬鹿にされたでしょうか。しかしそれでも、これこそが救いの道であると知る以上、ノアはその歩みをやめるわけにはいかなかったのでした。 私たちも同じように、破滅から免れる道を与えていただきました。それはイエスさまの十字架を信じる信仰です。これ以外、救いの名は人間には与えられていません。そんなことを言うと、やれキリスト教は偏狭だ、独善的だ、などという声が飛んできそうですが、この信仰告白にこだわるのをやめるならば、私たちはクリスチャンであるのをやめなければなりません。ノアが大建造物をもって世に証ししたように、私たちはクリスチャンである以上、イエスさまこそが救いの道であることを証しする必要があります。どんなに馬鹿にされても、どんなに攻撃されても、これこそがまことである以上、私たちは十字架に歩むことをやめてはならないのです。 それでは第三のポイントにまいります。ノアは、神さまと契約を結んだ人でした。 18節のみことばをお読みします。……さて、契約と言いましても、対等の立場で結ぶものではもちろんありません。神さまがご自身の正しさにかけて、ノアという人を選んで契約を結ばれるのです。その契約に伴って、ノアの家族も救われることが約束されました。 私たちも日常生活で、契約というものをします。問題が起こると、契約は破棄され、下手をすると法廷に持ち込まれます。契約というものは、履行されることが前提で結ばれるものです。 神さまの場合はもちろんのこと、神さまの側は契約をかならず履行してくださいます。それが、絶対的な救いというものでした。これは、この曲がりに曲がった時代の人々の中からたったひとり、ノアだけを選び、救ってくださった、神さまの恵みの選びに基づくものでした。 しかし、それが神さまの側から見た契約の履行内容ならば、人の側にも履行すべき条件はあったのでしょうか? ありました。それはノアが、そっくりそのまま、神さまのみことばに示された救いのご計画を、信じたことです。 そしてこの「信仰」は、とてつもないことを可能にしました。それは、箱舟という大建造物をつくり、なおその中にすべての生き物をつがいで入れる、ということでした。もしノアが、神さまがみことばで示された箱舟にまつわる条件をひとつでもたがえたならば、彼も彼の家族も生き残ることができませんでした。ノアが生き残って神さまに用いられるためには、徹底してみことばに従順になる必要がありました。大建造物をつくり、あらゆる生き物を箱舟に運び込むことは、ただごとでないくらいたいへんなことです。それでもノアは、神さまの救いの恵みに甘えることなく、この重労働をやり遂げ、そして救われたのでした。 私たちも、神さまが契約を結んでくださった存在です。神さまは私たちを救うために、ひとり子イエスさまを私たちの身代わりに十字架につけてくださいました。私たちはイエスさまを信じる信仰により、神さまに救っていただきました。信仰、これこそ、神さまと契約を結んだということです。 この信仰によって、私たちはこのみことばに従順に従う力が与えられます。ひとり子イエスさまによって私をあがなってくださったほどの神さまのみこころに、なんとしても従おう! そのみこころを知るために、聖書を読もう! こうなるのです。 これは、神さまの恵みです。私たちがみな、この恵みにとどまりますように、また私たちの周りの方々も、この信仰によって神さまと永遠の契約を結び、永遠のいのちという恵みを手にされますように、祈ってまいりたいと思います。 私たちは神さまによって正しい者とされていますゆえに、この世から自分を守ってまいりたいと思います。それは、教会を主のからだとして守ることでもあります。そして、みことばに従順に従ってまいりましょう。しかしその従順は人間的な頑張りではありません。救いの恵みをいただいたゆえに、救ってくださった神さまを喜ぶその喜びで従順に生きるのです。ノアにならうこの歩みを、私たちでともに歩んでまいりましょう。

墓碑銘転じて祝福の系図に

聖書箇所;創世記5:1~32 メッセージ題目;墓碑銘転じて祝福の系図に 本日の聖書本文は、「こうして彼は死んだ」ということばが、これでもか、これでもか、と登場します。ある牧師先生がおっしゃっていましたが、このように立ち並ぶ名前は、「墓碑銘」のようだということでした。谷中霊園も、立ち並ぶ無数の墓石にはあらゆる人々の名前が刻まれていました。みんな死んだ人です。この、創世記5章の記録も、そのような無機質に立ち並ぶ墓碑銘のように見えてきます。 しかし、この墓碑銘、続けて読むと、希望、そして祝福をもたらす系図にも読めてきます。本日のメッセージでは、この系図に登場する3人の人物にスポットライトを当てて、私たちはいかなる存在であるべきか、ともに学んでみたいと思います。 第一はアダムです。アダムは、神のかたちを伝える存在です。 まず、1節をお読みします。……この系図は、子孫が、アダムの何を受け継いだことを証ししているのでしょうか? そうです、「神の似姿」を受け継いだのです。3節を見て見ますと、「彼の似姿として、彼のかたちに」とあります。人は、遺伝によって親に似た顔になります。このみことばも一見すると、その親から子への遺伝というものを示しているのかな、と思わせます。 しかし、それ以上に、アダムが神さまから与えられた神のかたちを、人は受け継ぐ、ということを示しているわけです。前回、創世記を学んだときにも触れましたが、この直前の4章26節で、人々が主の御名を呼ぶことをはじめたことを、聖書は語っています。これぞ、神のかたちに人がつくられた証拠です。被造物であるという点では人間も動物も同じですが、動物はお祈りをしません。しかるに人間は、まことであれいつわりであれ、神さまという存在を意識しているだけに、みな宗教的ということができるでしょう。そのような、自分の信じる対象に献身するのです。 人がみなアダムの子孫であるかぎり、人はみな、神のかたちを受け継いでいます。しかし、すべての人がまことの神さまに献身できているわけではありません。そのことを象徴するのは、アダムが死んだということです。アダムが生きたのは930年、途方もない長寿です。仮に今年2019年にそのいのちが終わったとしても、生まれたのは西暦1089年、鎌倉時代より100年以上もむかしです。どれだけ長寿なのだろう、と思いますが、それでも彼は死んだのです。そしてアダム以来、アダムの子孫はことごとく死にました。セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、ヤレデ……みな死にました。 善悪の知識の木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ……アダムに与えられた預言がそのとおりになったばかりか、その、罪の報酬は死、という現実が、すべての人間に降りかかるようになったのでした。 しかし、このような性質を受け継ぎながらも、人は「神のかたち」としての性質も同時に受け継ぎました。罪と死の性質を受け継ぐようにしたものが人の責任にあるとしたら、神のかたちを受け継ぐようにしたものは、神さまの恵みでした。 私たち自身を見てみたいと思います。私たちは、自分のどんなところに目を留めますでしょうか? 死にゆく自分のさだめ、その罪ゆえのさだめに目を留めてしまいがちですが、そうではなく、その罪さえも贖ってくださり、神のかたちを保ってくださる神さまの恵みにこそ目を留めさせていただきたいものです。 私たちに与えられた神のかたちを活かしていただくべく、主の御前に出てまいりましょう。神さまは罪深いこの身、死ぬべきこの身を、神の似姿にふさわしく造り変えてくださいます。 第二はエノクです。エノクは、神とともに生きる存在です。 24節を読みましょう。……なんと、彼は「死んだ」のではありません。「いなくなった」とあります。その理由を、みことばははっきり記しています。「エノクは神とともに歩んだ」、そうしてもうひとつ、「神が彼を取られた」……。 エノクがこの世を去ったありさまは、現代を生きる私たちにとって難解なものです。ただ私たちは、後代になって書かれた「ヘブル人への手紙」のみことばから、その実際を類推することができるのみです。11章5節と6節をお読みします。……はい、はっきり、「死を見ることがなかった」とあります。「彼はいなくなった」とは、「死んだ」ことを比喩として書いているのではありません。 ……エノクは、信仰の人でした。そしてその信仰のゆえに、神さまに喜ばれていました。神さまがおられることと、神さまを求める人には神さまが報いてくださることを信じる、これが信仰です。 神とともに歩むとは、そのように、信仰の歩みをすることです。この地上では神さまを目に見ることができません。しかし、神さまがおられることと、求める者に報いてくださることとを信じることはできます。そのようなものを神さまは喜んでくださり、みそばに置こうとしてくださるのです。 私たちにとって、この世界はどのようなところでしょうか? こだわるべき場所でしょうか? この世に執着してはいないでしょうか? この世は、私たち神の民にとってふさわしくない場所です。私たちは上にあるもの、神さまがおられる天の御国を求める必要があります。 たしかにエノクは、この地上を去るにあたっては、尋常ではない去り方をしました。しかし、神さまに召されたという点では、主にあって亡くなられた方と同じと言えます。だから私たちにとっては、エノクは特別な存在ではありません。私たちもエノクのように、日々主とともに歩むべく召された存在です。私たちにはみことばが与えられています。私たちにはできるのです。主が私たちにできるように、祈りとみことばという道を備えてくださっているのです。 私たちは、何かの行いで神さまに喜んでもらおうとしてはいけません。私たちはただ、神さまがおられること、そして求める者には報いてくださることを信じるのみです。だからこそ私たちはお祈りをするのですし、みことばをお読みするのです。間違っても、お祈りの時間やみことばを読む分量を積み重ねることで、神さまにそのぶん喜んでもらえるなどと思ってはいけません。 そして第三はノアです。ノアは、神の慰めを実現する存在です。 29節のみことばをお読みします。……それでは、ノアのもたらす慰めとは、どのようなものだったのでしょうか? それを知るために、もう一度エノクにさかのぼって、ひとりひとり見てまいりたいと思います。22節を見てみますと、エノクが神とともに歩んだのが、メトシェラをもうけてから300年、ということでした。つまりこのメトシェラという人物は、エノクが神とともに歩む、その霊的な新境地を開くうえで、重大な役割を果たした人ということができます。 ある解釈によれば、このメトシェラという名前は、「死を送る」という意味があり、すなわち、「神のさばきが下される」ということを意味しているのだといいます。そうだとすると、エノクがこの名前をつけただけの霊的な境地はどのようなものだったか、よく考える必要があります。 メトシェラは息子レメクを生んでから、782年生きたとあります。この箇所だけを読んでいると、メトシェラが969年も生きたことについ優先的に目が行ってしまいますが、その息子、レメクがノアをもうけた年齢に注目すると、驚くべきことに気づかされます。そう、レメクは182歳でノアをもうけているのです。すると……計算すると、メトシェラは、ノアが600歳の時に死んだ、ということになります。 ノアが600歳のとき、それは、大洪水の直前のときでした。それを考え併せて、メトシェラという名前の持つ意味を考えてみると……神さまは実に数百年もの長きにわたり、悪に満ちるこの世界を忍耐され、忍耐され、忍耐された、その末に、人類滅亡規模のさばきを下されたことが浮かび上がってきます。 そのような世界において、レメクはノアにどのような役割をすることを願ったのでしょうか? それは、のろいに満ちたこの世界に、慰めをもたらすことでした。 しかし、レメクがノアに願ったのは、人間的な快楽でこの世に慰めを与えることではありませんでした。まことの慰めは、慰め主である神さまから来ます。ノアは600年もの人生において、この慰めを地上に実践するということにおいて、主のみこころにかなった存在でした。 しかし、その世界は、メトシェラという名前が示すとおり、さばきがすでに宣告された世界でした。しかしレメクは、そのような世界であるゆえに諦めたりなどしませんでした。神の民の置かれている絶望的な状況を、宿命として受け入れることをしなかったのです。かえって、少しでもこの堕落した世界に神の慰めをもたらせるようにと祈って、この世界にノアを送り出したのでした。 果たしてノアは、神さまのみこころにかなう者となりました。ノアは、どんなに堕落した世界にあっても決して染まることはなく、そのような世界から救い出されたのでした。まさし、堕落した世に慰めをもたらすという、神のみこころにかなった生き方をすべく導かれるという、神の恵みのなせるわざでした。 今日私たちは、台風19号という絶望的なニュースを聞く中で集まりました。途方もない災害が世界を覆う、そのような時代に私たちは生きています。まるで、ヨハネの黙示録に書かれているとおりの、2000年間封じられていたこの世界の終わりの絵巻が、ひとつひとつ開かれ、現実になっているかのようです。 それなら、私たちは、もう信仰によってこの世界から救われているとばかりに、自分たちさえよければという態度で、この世に無関心であってもいいのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。私たちはこの世界がどうであろうとも、この世界に神の慰めをもたらしつづけることが求められています。 私たちのそのような愛の行いを、世の人たちは評価しないかもしれません。私たちがどんなに愛を説き、愛を行なっても、世の人たちはまるで振り向いてくれないかもしれません。しかし、だからといって私たちは、愛すること、慰めることをやめてはならないのです。 メトシェラという存在がこの世に対する神のさばきを宣告したように、私たちにも、神のみことばである聖書が与えられました。そして、聖書ははっきりと、この世の終わりのさばきを語っています。それはとても耐えがたいものです。しかし、聖書ははっきりと、「すぐにでも起こること」と書いています。私たちは油断していてはならないのです。 むしろ私たちは、これほどまでに悪がはびこるこの世界を、ここまで神さまが忍耐してこられたことを思い、感謝するべきではないでしょうか? メトシェラは969年生きました。私たちはと言えば、聖書が与えられてから実に2000年ちかくも神さまが忍耐してこられた末に、ここにいます。 考えてみましょう。私たちも罪人です。私たちの罪を思うとき、神さまがなお忍耐して、私たちのことを滅ぼさずにいてくださることに、感謝せずにはいられなくならないでしょうか? この神さまの忍耐を思い、この世界に愛と慰めを実践する力をいただき、忍耐をもって神の栄光を現してまいりたいものです。その生き方ができるように、ともに励まし合ってまいりましょう。 アダムのように、神のかたちを受け継いでいる私たちは、エノクのように、信仰によって神とともに歩む生き方をするように召されています。その生き方は、この世に慰めを注ぎ続けることにより、神のご栄光を現す生き方によって実を結びます。 ノアの洪水は、決して古代の夢物語ではありません。あれでも地球は滅びませんでしたが、終わりの日に主がもたらされるさばきは、あんなものではありません。こんどこそほんとうにすべてのものは滅びます。 しかし主は、私たちにイエスさまを信じる信仰を与えてくださって、その御怒りから救い出してくださいました。私たちが恐れるべきは、ただ主おひとりです。主の栄光を現すべく、神のかたちに召された自分自身であることに、つねに目を留めてまいりましょう。神さまがおられること、神さまを求める者には必ず報いてくださることを信じて、信仰の歩みをしてまいりましょう。その歩みが、この世界に愛と慰めをもたらす歩みへと実を結ぶものとなりますように。そのようにして、終わりの日に私たちがイエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 私たちは、この地上に墓碑銘を刻んで終わりの存在ではありません。私たちは祝福をもたらす存在です。主は、信仰によって生きる私たちを必ず用いてくださいます。

教会を守るために

聖書箇所;ヨハネの手紙第二1節~13節 メッセージ題目;教会を守るために  本日のメッセージは、私たち教会は何を学び、何を守るべきか、みことばから思い巡らしつつ作成したものです。私たちの教会と、私たちの信仰を守ることを前提に、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちの持つものは、表裏一体の真理と愛です。  1節から3節をお読みします。……私はあなたがたを本当に愛しています! まさしく、ヨハネが愛の使徒と呼ばれるゆえんです。この手紙はヨハネの手紙第二ですが、ヨハネの手紙第一は、そのテーマが「愛」です。「神は愛です」という、聖書をひとことで要約するようなことばも、このヨハネの手紙第一に含まれています。それほどまでに愛を強調するヨハネが、「私はあなたがたを本当に愛しています」というのです。とても説得力のあることばです。  しかし、愛しているのはヨハネだけではありません。「私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています」ともヨハネは語ります。真理を知っている人とはだれでしょうか? そもそも、真理とは何でしょうか? 真理とは、自分が真理と思えばそれが真理なのではありません。  真理とは、創造主なるイエスさまご自身と、そのみことばによって示されたものです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスさまはそうおっしゃいました。私たちは信仰によって、イエスさまが道であり、真理であり、いのちであることを受け入れています。ですから、イエスさまというこの真理を持つ者は、教会の兄弟姉妹を、ほんとうに愛するように導かれるのです。  私たちはみことばをお読みするとき、自分の愛のなさ、みことばから遠い現実に、時に悲しまされることがあるでしょう。しかし、それで私たちはさばかれることなど決してありません。私たちはどんなに自分の貧しさを痛感しようと、「愛している」のです。なぜでしょうか? それは、愛なるお方、イエスさまを心の中にお迎えしているからです。  「神は愛です」、そうです。神さまは愛そのもののお方でいらっしゃいます。ですから、愛なる神さまであられるイエスさまを受け入れているならば、その人には、イエスさまの愛で人を愛する可能性が、無限に開かれていくのです。  コインの裏表どちらから見てもコインそのものであることは変わらないように、真理と愛は側面がちがうものであっても、実際は同じものです。それは、イエスさまが真理であり、同時に愛であられるゆえです。私たちは変わらない基準、真理として、神さまとそのみことばなる聖書を受け取り、その神さまとの交わりを通して、またそのみことばに啓示されているとおりに、愛を実際に行うのです。  教会とは、真理と愛が旗印として掲げられているところです。もし私たちが、この世に対して真理を指し示すことができなかったらどうなるでしょうか? 私たちの間に愛がなかったならどうなるでしょうか? 単なる宗教者の集まり、聖書同好会の集まりと何ら変わることがなくなります。私たちは人間的なレベルの宗教をやっているのでもなければ、同好会のレベルのことをやっているのでもありません。この地上にイエスさまの統べ治める、御国を実現すべく召された存在、それが私たちです。  愛というものは神の真理なしには成り立ちません。ここに私たちは、真理の骨組みを私たちの中に確かにするために、聖書の教理を体系的に学ぶ必要が出てくるのです。また、毎日の聖書通読を通して、聖書の真理をわがものとする必要があるのです。それでこそ、私たちにとっての愛はみこころにかなった、確かなものとなります。  逆に、私たちが真理を持っているということは、愛という形で実現することで証明されます。いかに正しいとか、聖書的とされる教理を教会で教えていようとも、愛するという点において落第生となるということは、充分にありえることです。パリサイ人などまさにそういう例です。福音書には、なぜあれだけたくさんパリサイ人の記事が登場するのでしょうか?それは、信仰によって救われた私たちはああではない、などと、安心させるためでは決してありません。私たちも真理を知るあまり、パリサイ人のようになることは充分にある、気をつけなさい、と、警鐘を鳴らしているからと受け取るべきでしょう。私たちに求められているのは、真理によって人をさばく生き方ではありません。真理によって人を愛する生き方です。  私たちは、神は愛であることを証しする生き方をするために、愛と表裏一体の真理を身に着けてまいりたいものです。ともに聖書の真理を学ぶことに、一生懸命になってまいりましょう。  第二のポイントです。私たちのすることは、互いに愛し合うことです。  4節、5節をお読みします。……愛し合う! これが私たちに求められていることです。忘れてはなりません。「愛し『合う』」です。だれかが一方的に愛すれば、それで完結するのではありません。愛し愛される関係の中で、愛がお互いに実践されていく、これが私たちに必要です。   最初は教会は、多くの、愛されることを必要とする人たちに満ちていました。しかし彼らは、「愛し合う」ように導かれました。愛されてばかりでは、教会は成長しませんし、ほんとうの意味での交わりが成り立っているとは言えません。充分に愛を受けた人は、最初はへたくそでも、人を愛する歩みへと踏み出していくことが求められます。そうして、その人は愛する人へと成長します。でも、そういう人は愛されることを卒業するのではなく、ますます愛されるようになるのです。だから、愛する人になることを恐れたり、いやがったりするべきではありません。  すると、ここで私たちは考えるべきことがあります。「愛ってなに?」私たち教会は、これをちゃんと抑えていないとなりません。愛ということばの定義は、人それぞれの解釈に陥ってしまう危険があります。  だからこそ6節のみことばが大事になります。「御父の命令にしたがって歩む」、これが聖書の定義する「愛」なのです。ということは、御父の示された、みことばに従うあらゆる行動を「愛」と呼ぶべきなのです。人間的に愛し愛されるという次元とは、根本的に異なるとさえいえます。だから私たちにとっての愛とは、時に人間的な気持ちよさと距離のあるものであるかもしれません。時にとてもきびしいものです。けれども聖書はそれを「愛」と呼びます。  そして私たちにとって、愛は選択ではありません。神の命令は愛に集約され、また、愛は神の命令です。必ず愛するのです。愛することをしない教会など、看板を下ろさなければなりません。そしてこの愛することとは、御父の命令にしたがって歩むことです。  これは信仰の初歩の方にとっては、かなり厳しい命令になるでしょう。といいますのも、その人のうちには神のみことばはほとんど蓄えられていないから、どのように愛すればいいかわからないからです。だからある程度信仰の経歴のある信徒は、そのような方々が愛する人、すなわちみことばを守り行える人に成長できるように、そばにいて助けてあげる必要があります。これももちろん、愛することです。やがてその関係は、愛し愛し合う関係へと成長します。  さて、私たちは御父の命令にしたがって歩むこと、愛することが神の命令そのものであることを学びました。では、このヨハネの手紙第二では、なぜそのことを強調しているのでしょうか?  そこで第三のポイントです。私たちのすることは、真理と、その上に立つ教会を守り抜くことです。  7節をお読みします。……この時代に顕著に現れてきた異端の特徴です。彼らはもっともなことを言っていると、多くの人がだまされていたようです。なにしろ、神さまというお方は霊であり、目に見えないと刷り込まれているからです。となると、目に見えてこの地上を生きたナザレのイエスは神の子キリストではない、という結論になります。  8節をお読みします。……もし、このような異端についていくならば、それは、使徒たちを中心にこの地上に立て上げた教会、そして教会を教会ならしめる健全な教理を壊すことになります。その健全な教会と教理を立て上げるために、時には殉教もものともせずに努力してきた先人の犠牲が、このような異端によってあれよあれよという間に崩壊するのです。使徒ヨハネは、このような者たちに決して加担しないで、むしろ、愛と真理によって教会を建て上げ、終わりの日に主から豊かな報いを受けられるようにしなさい、と勧めています。  9節をお読みしましょう。……「先を行って」キリストの教えにとどまらない者、つまり、聖書の真理につけ加えて、自分たちこそがほんとうの真理を教えているとうそぶく者は、神を持っていない、つまり、神さまとの交わりもなく、救われてもいない人間であり、そういう者をクリスチャンとか、兄弟姉妹と呼んではならないのです。  ここ数十年で顕著になりましたが、キリスト教大国といわれる韓国には、それまでになかったタイプの異端が発生するようになりました。その派手な活動により、韓国では、プロテスタント人口900万人に対し、そのようなものも含めた異端の人口は、200万人にもなるといいます。それほど、既存の教会から多くの信徒が引きはがされたのです。  彼らが異端なのは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」ことに集約されます。一見すると彼らはイエス·キリストを告白しているようですが、ほんとうのメシアは、その団体をつくった教祖であると教えます。名前はいちいち挙げませんが、それぞれの団体がみな、その最高指導者をあがめる体制になっています。要するに、神の御子イエス·キリストを告白しないという点では同じなのです。それは、イエスさまの十字架によって完全に私たちの罪が赦され、イエスさまの十字架を信じる信仰により私たちが神さまと和解し、神の子どもとなるということを否定することでもあります。  しかし、こんなでたらめを一般信徒が信じるだけのシステムができあがっているのだから、実に恐ろしいことです。これは、教会に入りこんだ工作員のような者が信徒と一定の信頼関係をつくったところから、自分たちの聖書勉強会に誘い、そうしてじっくりマインドコントロールしていく形で実行されていきます。そして気がつくと、信徒は正しい信仰を捨て去り、身も心もカルト宗教的な異端にささげきることになります。  しかし、これははっきり言っておきますが、彼ら異端にはみこころにかなう愛など一切存在しません。いい人に見えたとしたら、それは神の愛を演技でやっているだけです。ほんとうに愛してなどいません。なぜ、彼らのしていることを愛と呼んではならないのでしょうか? それは、今まで見てきたとおり、彼らにはみことばの真理がないからです。しかし、私たちは真理を持っているならば、彼らのそれがまことの愛かどうかを見抜けるだけの霊的感覚を持つことにもなります。恐れないで、みことばを学んでいただきたいのです。  10節、11節には、そのような異端者たちに対する私たち信徒の接し方が書かれています。お読みします。……家に入れてはいけない、あいさつさえしてはいけない、実に厳しいことを書いています。しかし、私たちは普段から、どんな人にも愛を実践するように教えられているはずなのに、と思いますでしょうか?  でも、この場合においては、それはちがうのです。それは、私たちが人々を愛するのは、それがキリストのからだをこの地上に立て上げることだからです。だから、キリストのからだを立て上げるという目的に一切つながらない交わりは、絶対にしてはならないのです。異端者と交わり、彼らの領域を教会内に拡大させるならば、間違いなく、教会は崩壊します。それは交わりと称するものによって、主のみこころを損なうことです。私たちはだれでも彼でも教会に招き入れていいわけではないのは、これではっきりします。彼らはキリストによって愛することなど、絶対にしませんし、またできません。することは自分たちの領域を拡大し、教会を崩壊させることだけです。 私たちはこの教会を愛し、兄弟姉妹を守りたいなら、みことばの真理を学び続けましょう。愛し合いつづけましょう。この日々の歩みを生むことなく続けていくならば、主は終わりの日に、私たちに、「よくやった。よい忠実なしもべたちよ」と言ってくださると信じます。その日を目指して、祈りつつ、励まし合いながら、歩んでまいりましょう。