聖書箇所;ヨハネの手紙第二1節~13節
メッセージ題目;教会を守るために
本日のメッセージは、私たち教会は何を学び、何を守るべきか、みことばから思い巡らしつつ作成したものです。私たちの教会と、私たちの信仰を守ることを前提に、ともに学びたいと思います。
第一のポイントです。私たちの持つものは、表裏一体の真理と愛です。
1節から3節をお読みします。……私はあなたがたを本当に愛しています! まさしく、ヨハネが愛の使徒と呼ばれるゆえんです。この手紙はヨハネの手紙第二ですが、ヨハネの手紙第一は、そのテーマが「愛」です。「神は愛です」という、聖書をひとことで要約するようなことばも、このヨハネの手紙第一に含まれています。それほどまでに愛を強調するヨハネが、「私はあなたがたを本当に愛しています」というのです。とても説得力のあることばです。
しかし、愛しているのはヨハネだけではありません。「私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています」ともヨハネは語ります。真理を知っている人とはだれでしょうか? そもそも、真理とは何でしょうか? 真理とは、自分が真理と思えばそれが真理なのではありません。
真理とは、創造主なるイエスさまご自身と、そのみことばによって示されたものです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスさまはそうおっしゃいました。私たちは信仰によって、イエスさまが道であり、真理であり、いのちであることを受け入れています。ですから、イエスさまというこの真理を持つ者は、教会の兄弟姉妹を、ほんとうに愛するように導かれるのです。
私たちはみことばをお読みするとき、自分の愛のなさ、みことばから遠い現実に、時に悲しまされることがあるでしょう。しかし、それで私たちはさばかれることなど決してありません。私たちはどんなに自分の貧しさを痛感しようと、「愛している」のです。なぜでしょうか? それは、愛なるお方、イエスさまを心の中にお迎えしているからです。
「神は愛です」、そうです。神さまは愛そのもののお方でいらっしゃいます。ですから、愛なる神さまであられるイエスさまを受け入れているならば、その人には、イエスさまの愛で人を愛する可能性が、無限に開かれていくのです。
コインの裏表どちらから見てもコインそのものであることは変わらないように、真理と愛は側面がちがうものであっても、実際は同じものです。それは、イエスさまが真理であり、同時に愛であられるゆえです。私たちは変わらない基準、真理として、神さまとそのみことばなる聖書を受け取り、その神さまとの交わりを通して、またそのみことばに啓示されているとおりに、愛を実際に行うのです。
教会とは、真理と愛が旗印として掲げられているところです。もし私たちが、この世に対して真理を指し示すことができなかったらどうなるでしょうか? 私たちの間に愛がなかったならどうなるでしょうか? 単なる宗教者の集まり、聖書同好会の集まりと何ら変わることがなくなります。私たちは人間的なレベルの宗教をやっているのでもなければ、同好会のレベルのことをやっているのでもありません。この地上にイエスさまの統べ治める、御国を実現すべく召された存在、それが私たちです。
愛というものは神の真理なしには成り立ちません。ここに私たちは、真理の骨組みを私たちの中に確かにするために、聖書の教理を体系的に学ぶ必要が出てくるのです。また、毎日の聖書通読を通して、聖書の真理をわがものとする必要があるのです。それでこそ、私たちにとっての愛はみこころにかなった、確かなものとなります。
逆に、私たちが真理を持っているということは、愛という形で実現することで証明されます。いかに正しいとか、聖書的とされる教理を教会で教えていようとも、愛するという点において落第生となるということは、充分にありえることです。パリサイ人などまさにそういう例です。福音書には、なぜあれだけたくさんパリサイ人の記事が登場するのでしょうか?それは、信仰によって救われた私たちはああではない、などと、安心させるためでは決してありません。私たちも真理を知るあまり、パリサイ人のようになることは充分にある、気をつけなさい、と、警鐘を鳴らしているからと受け取るべきでしょう。私たちに求められているのは、真理によって人をさばく生き方ではありません。真理によって人を愛する生き方です。
私たちは、神は愛であることを証しする生き方をするために、愛と表裏一体の真理を身に着けてまいりたいものです。ともに聖書の真理を学ぶことに、一生懸命になってまいりましょう。
第二のポイントです。私たちのすることは、互いに愛し合うことです。
4節、5節をお読みします。……愛し合う! これが私たちに求められていることです。忘れてはなりません。「愛し『合う』」です。だれかが一方的に愛すれば、それで完結するのではありません。愛し愛される関係の中で、愛がお互いに実践されていく、これが私たちに必要です。
最初は教会は、多くの、愛されることを必要とする人たちに満ちていました。しかし彼らは、「愛し合う」ように導かれました。愛されてばかりでは、教会は成長しませんし、ほんとうの意味での交わりが成り立っているとは言えません。充分に愛を受けた人は、最初はへたくそでも、人を愛する歩みへと踏み出していくことが求められます。そうして、その人は愛する人へと成長します。でも、そういう人は愛されることを卒業するのではなく、ますます愛されるようになるのです。だから、愛する人になることを恐れたり、いやがったりするべきではありません。
すると、ここで私たちは考えるべきことがあります。「愛ってなに?」私たち教会は、これをちゃんと抑えていないとなりません。愛ということばの定義は、人それぞれの解釈に陥ってしまう危険があります。
だからこそ6節のみことばが大事になります。「御父の命令にしたがって歩む」、これが聖書の定義する「愛」なのです。ということは、御父の示された、みことばに従うあらゆる行動を「愛」と呼ぶべきなのです。人間的に愛し愛されるという次元とは、根本的に異なるとさえいえます。だから私たちにとっての愛とは、時に人間的な気持ちよさと距離のあるものであるかもしれません。時にとてもきびしいものです。けれども聖書はそれを「愛」と呼びます。
そして私たちにとって、愛は選択ではありません。神の命令は愛に集約され、また、愛は神の命令です。必ず愛するのです。愛することをしない教会など、看板を下ろさなければなりません。そしてこの愛することとは、御父の命令にしたがって歩むことです。
これは信仰の初歩の方にとっては、かなり厳しい命令になるでしょう。といいますのも、その人のうちには神のみことばはほとんど蓄えられていないから、どのように愛すればいいかわからないからです。だからある程度信仰の経歴のある信徒は、そのような方々が愛する人、すなわちみことばを守り行える人に成長できるように、そばにいて助けてあげる必要があります。これももちろん、愛することです。やがてその関係は、愛し愛し合う関係へと成長します。
さて、私たちは御父の命令にしたがって歩むこと、愛することが神の命令そのものであることを学びました。では、このヨハネの手紙第二では、なぜそのことを強調しているのでしょうか?
そこで第三のポイントです。私たちのすることは、真理と、その上に立つ教会を守り抜くことです。
7節をお読みします。……この時代に顕著に現れてきた異端の特徴です。彼らはもっともなことを言っていると、多くの人がだまされていたようです。なにしろ、神さまというお方は霊であり、目に見えないと刷り込まれているからです。となると、目に見えてこの地上を生きたナザレのイエスは神の子キリストではない、という結論になります。
8節をお読みします。……もし、このような異端についていくならば、それは、使徒たちを中心にこの地上に立て上げた教会、そして教会を教会ならしめる健全な教理を壊すことになります。その健全な教会と教理を立て上げるために、時には殉教もものともせずに努力してきた先人の犠牲が、このような異端によってあれよあれよという間に崩壊するのです。使徒ヨハネは、このような者たちに決して加担しないで、むしろ、愛と真理によって教会を建て上げ、終わりの日に主から豊かな報いを受けられるようにしなさい、と勧めています。
9節をお読みしましょう。……「先を行って」キリストの教えにとどまらない者、つまり、聖書の真理につけ加えて、自分たちこそがほんとうの真理を教えているとうそぶく者は、神を持っていない、つまり、神さまとの交わりもなく、救われてもいない人間であり、そういう者をクリスチャンとか、兄弟姉妹と呼んではならないのです。
ここ数十年で顕著になりましたが、キリスト教大国といわれる韓国には、それまでになかったタイプの異端が発生するようになりました。その派手な活動により、韓国では、プロテスタント人口900万人に対し、そのようなものも含めた異端の人口は、200万人にもなるといいます。それほど、既存の教会から多くの信徒が引きはがされたのです。
彼らが異端なのは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」ことに集約されます。一見すると彼らはイエス·キリストを告白しているようですが、ほんとうのメシアは、その団体をつくった教祖であると教えます。名前はいちいち挙げませんが、それぞれの団体がみな、その最高指導者をあがめる体制になっています。要するに、神の御子イエス·キリストを告白しないという点では同じなのです。それは、イエスさまの十字架によって完全に私たちの罪が赦され、イエスさまの十字架を信じる信仰により私たちが神さまと和解し、神の子どもとなるということを否定することでもあります。
しかし、こんなでたらめを一般信徒が信じるだけのシステムができあがっているのだから、実に恐ろしいことです。これは、教会に入りこんだ工作員のような者が信徒と一定の信頼関係をつくったところから、自分たちの聖書勉強会に誘い、そうしてじっくりマインドコントロールしていく形で実行されていきます。そして気がつくと、信徒は正しい信仰を捨て去り、身も心もカルト宗教的な異端にささげきることになります。
しかし、これははっきり言っておきますが、彼ら異端にはみこころにかなう愛など一切存在しません。いい人に見えたとしたら、それは神の愛を演技でやっているだけです。ほんとうに愛してなどいません。なぜ、彼らのしていることを愛と呼んではならないのでしょうか? それは、今まで見てきたとおり、彼らにはみことばの真理がないからです。しかし、私たちは真理を持っているならば、彼らのそれがまことの愛かどうかを見抜けるだけの霊的感覚を持つことにもなります。恐れないで、みことばを学んでいただきたいのです。
10節、11節には、そのような異端者たちに対する私たち信徒の接し方が書かれています。お読みします。……家に入れてはいけない、あいさつさえしてはいけない、実に厳しいことを書いています。しかし、私たちは普段から、どんな人にも愛を実践するように教えられているはずなのに、と思いますでしょうか?
でも、この場合においては、それはちがうのです。それは、私たちが人々を愛するのは、それがキリストのからだをこの地上に立て上げることだからです。だから、キリストのからだを立て上げるという目的に一切つながらない交わりは、絶対にしてはならないのです。異端者と交わり、彼らの領域を教会内に拡大させるならば、間違いなく、教会は崩壊します。それは交わりと称するものによって、主のみこころを損なうことです。私たちはだれでも彼でも教会に招き入れていいわけではないのは、これではっきりします。彼らはキリストによって愛することなど、絶対にしませんし、またできません。することは自分たちの領域を拡大し、教会を崩壊させることだけです。
私たちはこの教会を愛し、兄弟姉妹を守りたいなら、みことばの真理を学び続けましょう。愛し合いつづけましょう。この日々の歩みを生むことなく続けていくならば、主は終わりの日に、私たちに、「よくやった。よい忠実なしもべたちよ」と言ってくださると信じます。その日を目指して、祈りつつ、励まし合いながら、歩んでまいりましょう。