墓碑銘転じて祝福の系図に
聖書箇所;創世記5:1~32 メッセージ題目;墓碑銘転じて祝福の系図に 本日の聖書本文は、「こうして彼は死んだ」ということばが、これでもか、これでもか、と登場します。ある牧師先生がおっしゃっていましたが、このように立ち並ぶ名前は、「墓碑銘」のようだということでした。谷中霊園も、立ち並ぶ無数の墓石にはあらゆる人々の名前が刻まれていました。みんな死んだ人です。この、創世記5章の記録も、そのような無機質に立ち並ぶ墓碑銘のように見えてきます。 しかし、この墓碑銘、続けて読むと、希望、そして祝福をもたらす系図にも読めてきます。本日のメッセージでは、この系図に登場する3人の人物にスポットライトを当てて、私たちはいかなる存在であるべきか、ともに学んでみたいと思います。 第一はアダムです。アダムは、神のかたちを伝える存在です。 まず、1節をお読みします。……この系図は、子孫が、アダムの何を受け継いだことを証ししているのでしょうか? そうです、「神の似姿」を受け継いだのです。3節を見て見ますと、「彼の似姿として、彼のかたちに」とあります。人は、遺伝によって親に似た顔になります。このみことばも一見すると、その親から子への遺伝というものを示しているのかな、と思わせます。 しかし、それ以上に、アダムが神さまから与えられた神のかたちを、人は受け継ぐ、ということを示しているわけです。前回、創世記を学んだときにも触れましたが、この直前の4章26節で、人々が主の御名を呼ぶことをはじめたことを、聖書は語っています。これぞ、神のかたちに人がつくられた証拠です。被造物であるという点では人間も動物も同じですが、動物はお祈りをしません。しかるに人間は、まことであれいつわりであれ、神さまという存在を意識しているだけに、みな宗教的ということができるでしょう。そのような、自分の信じる対象に献身するのです。 人がみなアダムの子孫であるかぎり、人はみな、神のかたちを受け継いでいます。しかし、すべての人がまことの神さまに献身できているわけではありません。そのことを象徴するのは、アダムが死んだということです。アダムが生きたのは930年、途方もない長寿です。仮に今年2019年にそのいのちが終わったとしても、生まれたのは西暦1089年、鎌倉時代より100年以上もむかしです。どれだけ長寿なのだろう、と思いますが、それでも彼は死んだのです。そしてアダム以来、アダムの子孫はことごとく死にました。セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、ヤレデ……みな死にました。 善悪の知識の木の実を取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ……アダムに与えられた預言がそのとおりになったばかりか、その、罪の報酬は死、という現実が、すべての人間に降りかかるようになったのでした。 しかし、このような性質を受け継ぎながらも、人は「神のかたち」としての性質も同時に受け継ぎました。罪と死の性質を受け継ぐようにしたものが人の責任にあるとしたら、神のかたちを受け継ぐようにしたものは、神さまの恵みでした。 私たち自身を見てみたいと思います。私たちは、自分のどんなところに目を留めますでしょうか? 死にゆく自分のさだめ、その罪ゆえのさだめに目を留めてしまいがちですが、そうではなく、その罪さえも贖ってくださり、神のかたちを保ってくださる神さまの恵みにこそ目を留めさせていただきたいものです。 私たちに与えられた神のかたちを活かしていただくべく、主の御前に出てまいりましょう。神さまは罪深いこの身、死ぬべきこの身を、神の似姿にふさわしく造り変えてくださいます。 第二はエノクです。エノクは、神とともに生きる存在です。 24節を読みましょう。……なんと、彼は「死んだ」のではありません。「いなくなった」とあります。その理由を、みことばははっきり記しています。「エノクは神とともに歩んだ」、そうしてもうひとつ、「神が彼を取られた」……。 エノクがこの世を去ったありさまは、現代を生きる私たちにとって難解なものです。ただ私たちは、後代になって書かれた「ヘブル人への手紙」のみことばから、その実際を類推することができるのみです。11章5節と6節をお読みします。……はい、はっきり、「死を見ることがなかった」とあります。「彼はいなくなった」とは、「死んだ」ことを比喩として書いているのではありません。 ……エノクは、信仰の人でした。そしてその信仰のゆえに、神さまに喜ばれていました。神さまがおられることと、神さまを求める人には神さまが報いてくださることを信じる、これが信仰です。 神とともに歩むとは、そのように、信仰の歩みをすることです。この地上では神さまを目に見ることができません。しかし、神さまがおられることと、求める者に報いてくださることとを信じることはできます。そのようなものを神さまは喜んでくださり、みそばに置こうとしてくださるのです。 私たちにとって、この世界はどのようなところでしょうか? こだわるべき場所でしょうか? この世に執着してはいないでしょうか? この世は、私たち神の民にとってふさわしくない場所です。私たちは上にあるもの、神さまがおられる天の御国を求める必要があります。 たしかにエノクは、この地上を去るにあたっては、尋常ではない去り方をしました。しかし、神さまに召されたという点では、主にあって亡くなられた方と同じと言えます。だから私たちにとっては、エノクは特別な存在ではありません。私たちもエノクのように、日々主とともに歩むべく召された存在です。私たちにはみことばが与えられています。私たちにはできるのです。主が私たちにできるように、祈りとみことばという道を備えてくださっているのです。 私たちは、何かの行いで神さまに喜んでもらおうとしてはいけません。私たちはただ、神さまがおられること、そして求める者には報いてくださることを信じるのみです。だからこそ私たちはお祈りをするのですし、みことばをお読みするのです。間違っても、お祈りの時間やみことばを読む分量を積み重ねることで、神さまにそのぶん喜んでもらえるなどと思ってはいけません。 そして第三はノアです。ノアは、神の慰めを実現する存在です。 29節のみことばをお読みします。……それでは、ノアのもたらす慰めとは、どのようなものだったのでしょうか? それを知るために、もう一度エノクにさかのぼって、ひとりひとり見てまいりたいと思います。22節を見てみますと、エノクが神とともに歩んだのが、メトシェラをもうけてから300年、ということでした。つまりこのメトシェラという人物は、エノクが神とともに歩む、その霊的な新境地を開くうえで、重大な役割を果たした人ということができます。 ある解釈によれば、このメトシェラという名前は、「死を送る」という意味があり、すなわち、「神のさばきが下される」ということを意味しているのだといいます。そうだとすると、エノクがこの名前をつけただけの霊的な境地はどのようなものだったか、よく考える必要があります。 メトシェラは息子レメクを生んでから、782年生きたとあります。この箇所だけを読んでいると、メトシェラが969年も生きたことについ優先的に目が行ってしまいますが、その息子、レメクがノアをもうけた年齢に注目すると、驚くべきことに気づかされます。そう、レメクは182歳でノアをもうけているのです。すると……計算すると、メトシェラは、ノアが600歳の時に死んだ、ということになります。 ノアが600歳のとき、それは、大洪水の直前のときでした。それを考え併せて、メトシェラという名前の持つ意味を考えてみると……神さまは実に数百年もの長きにわたり、悪に満ちるこの世界を忍耐され、忍耐され、忍耐された、その末に、人類滅亡規模のさばきを下されたことが浮かび上がってきます。 そのような世界において、レメクはノアにどのような役割をすることを願ったのでしょうか? それは、のろいに満ちたこの世界に、慰めをもたらすことでした。 しかし、レメクがノアに願ったのは、人間的な快楽でこの世に慰めを与えることではありませんでした。まことの慰めは、慰め主である神さまから来ます。ノアは600年もの人生において、この慰めを地上に実践するということにおいて、主のみこころにかなった存在でした。 しかし、その世界は、メトシェラという名前が示すとおり、さばきがすでに宣告された世界でした。しかしレメクは、そのような世界であるゆえに諦めたりなどしませんでした。神の民の置かれている絶望的な状況を、宿命として受け入れることをしなかったのです。かえって、少しでもこの堕落した世界に神の慰めをもたらせるようにと祈って、この世界にノアを送り出したのでした。 果たしてノアは、神さまのみこころにかなう者となりました。ノアは、どんなに堕落した世界にあっても決して染まることはなく、そのような世界から救い出されたのでした。まさし、堕落した世に慰めをもたらすという、神のみこころにかなった生き方をすべく導かれるという、神の恵みのなせるわざでした。 今日私たちは、台風19号という絶望的なニュースを聞く中で集まりました。途方もない災害が世界を覆う、そのような時代に私たちは生きています。まるで、ヨハネの黙示録に書かれているとおりの、2000年間封じられていたこの世界の終わりの絵巻が、ひとつひとつ開かれ、現実になっているかのようです。 それなら、私たちは、もう信仰によってこの世界から救われているとばかりに、自分たちさえよければという態度で、この世に無関心であってもいいのでしょうか? いいえ、決してそうではありません。私たちはこの世界がどうであろうとも、この世界に神の慰めをもたらしつづけることが求められています。 私たちのそのような愛の行いを、世の人たちは評価しないかもしれません。私たちがどんなに愛を説き、愛を行なっても、世の人たちはまるで振り向いてくれないかもしれません。しかし、だからといって私たちは、愛すること、慰めることをやめてはならないのです。 メトシェラという存在がこの世に対する神のさばきを宣告したように、私たちにも、神のみことばである聖書が与えられました。そして、聖書ははっきりと、この世の終わりのさばきを語っています。それはとても耐えがたいものです。しかし、聖書ははっきりと、「すぐにでも起こること」と書いています。私たちは油断していてはならないのです。 むしろ私たちは、これほどまでに悪がはびこるこの世界を、ここまで神さまが忍耐してこられたことを思い、感謝するべきではないでしょうか? メトシェラは969年生きました。私たちはと言えば、聖書が与えられてから実に2000年ちかくも神さまが忍耐してこられた末に、ここにいます。 考えてみましょう。私たちも罪人です。私たちの罪を思うとき、神さまがなお忍耐して、私たちのことを滅ぼさずにいてくださることに、感謝せずにはいられなくならないでしょうか? この神さまの忍耐を思い、この世界に愛と慰めを実践する力をいただき、忍耐をもって神の栄光を現してまいりたいものです。その生き方ができるように、ともに励まし合ってまいりましょう。 アダムのように、神のかたちを受け継いでいる私たちは、エノクのように、信仰によって神とともに歩む生き方をするように召されています。その生き方は、この世に慰めを注ぎ続けることにより、神のご栄光を現す生き方によって実を結びます。 ノアの洪水は、決して古代の夢物語ではありません。あれでも地球は滅びませんでしたが、終わりの日に主がもたらされるさばきは、あんなものではありません。こんどこそほんとうにすべてのものは滅びます。 しかし主は、私たちにイエスさまを信じる信仰を与えてくださって、その御怒りから救い出してくださいました。私たちが恐れるべきは、ただ主おひとりです。主の栄光を現すべく、神のかたちに召された自分自身であることに、つねに目を留めてまいりましょう。神さまがおられること、神さまを求める者には必ず報いてくださることを信じて、信仰の歩みをしてまいりましょう。その歩みが、この世界に愛と慰めをもたらす歩みへと実を結ぶものとなりますように。そのようにして、終わりの日に私たちがイエスさまの御前に立つとき、恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 私たちは、この地上に墓碑銘を刻んで終わりの存在ではありません。私たちは祝福をもたらす存在です。主は、信仰によって生きる私たちを必ず用いてくださいます。