聖書箇所;創世記6:1~22
メッセージ題目;主の心にかなった人
この本文に入る前に、確認しておこうと思います。私たちは現実に体験する災害と神のさばきをはっきり区別しなければなりません。ノアの洪水の場合、その洪水そのものからの回復をノアが祈ったという記述はありません。さばきである以上当たり前です。しかしこのたびの台風はちがいます。私たちは、この世をとりなす者、この世の破れ口に立つ者として神さまに召されている以上、ノアの洪水の場合とまったくちがい、私たちはこの日本のために、現実に傷ついている人たちのために祈る必要があります。まずはそこから確認したら、本文の学びに入りたいと思います。
本日の本文の主人公、ノアは、8節にあるとおり、ひとことで要約すれば、「主の心にかなっていた」人でした。このノアから学ぶならば、私たちも主の心にかなった者として生きる道が開けてまいります。では、いつものように、3つのポイントからお話しいたします。
第一のポイントです。ノアは正しい人でした。
9節のみことばをお読みします。……彼の世代の中、つまり、この時代の人々の中にあっても、ということです。では、このノアの生きた時代は、どういう者たちがいたのでしょうか? 1節と2節をお読みします。
……この箇所は解釈が分かれます。ひとつは、セツを先祖に持つ神の祝福の家系が堕落し、カインを先祖に持つような堕落した人の娘たちと雑婚するようになったというものです。それを象徴的に「神の子」、「人の娘」と表現している、というわけです。旧約聖書を通読すればわかることですが、イスラエルはいかに神の民とされていても、ひとたび堕落するとその堕落ぶりは目を覆わんばかりになります。神の民以外の者たちと交じり合い、民族全体の堕落は加速されます。そのような神の民の堕落が、すでにノアの時代には極みに達していたという解釈です。
もうひとつ、これは興味深い解釈ですが、神の子とはずばり「御使い」「天使」という解釈です。つまり、御使いが堕落し、人間の女性の美しいのをめとり、子どもを産ませた、というのです。でも、私たちは普通、御使いを霊的な存在と受け取っているので、そのような霊的存在が結婚したり、子どもを産ませたりさせられるものか、と思うでしょうか。実際イエスさまは、御使いはめとることも嫁ぐこともない、とおっしゃっています。だから私たちには、この解釈は荒唐無稽に思えるでしょうか。
しかし、同じ創世記を見てみると、たとえば18章の8節で、御使いが人間と同じようにものを食べる場面が出てきます。また、19章では、御使いを見た町の男どもがいやらしい感情をいだいたり、御使いがロトたちの手を引っ張ってソドムの外に導き出したりしています。そうだとすると、もしかしたら御使いは、私たちが常識的に考える「霊的」な存在とはちがうのかもしれません。
そして、この解釈を裏づけるのが、4節に登場する「ネフィリム」だといいます。このネフィリムについては、民数記の敵地偵察のできごとで、強そうに見えた敵に震え上がった偵察隊が、敵の巨大さを「ネフィリム」に例えている場面に登場します。もちろん、ノアの洪水でネフィリムはみんな滅びた以上、そのアナク人たちはネフィリムの子孫などではありませんが、そういうところに引き合いに出されることを見ると、ネフィリムは神の民を取って食うような強力な敵対者、というイメージがイスラエルに定着していたのでしょう。創世記6章に登場するこのネフィリムがイスラエル人のイメージのような「巨人」であったのは、御使いと人間の交雑の結果異様な肉体を持つようになったからだ、と大真面目に主張する人もいます。
どちらがほんとうなのかは、今となっては検証のしようもありません。しかしどちらの解釈であれ、はっきりしていることは、地上に「生めよ、増えよ」と広がった人間は、もはや神のかたちを失い、堕落に堕落を重ねて主を大いに怒らせ、また悲しませていたということです。この世界に対する主のみこころは、3節に表れています。
……人の齢が120年、これは、神さまは人のことを120歳までしか生きさせない、という意味にも取れるでしょう。実際、この創世記を書いたモーセ自身が120歳でこの世を去っていますし、このノアの洪水を境に、何世紀にもわたって生きるような途方もない長寿だった人間は、ぐっと寿命が短くなっています。現代人は寿命が長くなりましたが、それでも、地球上のほぼ全員が120歳の壁を越えていません。こうして見ると、120年というのは、寿命の標準に見えてきます。つまり、人間の寿命を短くされたのは、だらだらと長く生きたぶん罪をたくさん重ねないようにという、罪深い人間に対する神さまのお取り扱いだったということです。
しかしもうひとつ解釈があります。それは、このみことばを主が語られてからあと120年で、人間の寿命はおしまいになる、ということです。もちろん、地球規模の洪水によってです。あと120年です。ご自身に反逆する人間に対するすさまじいまでの御怒りの中、120年のチャンスを与えるから何とか悔い改めてほしい、というみこころが見えてきます。ヨナ書を読むと、神さまは悔い改める民族に対するさばきを撤回されるお方だということがわかります。このさばきも撤回されるチャンスはあったのです。
しかし、実際はどうでしょうか。11節、12節です。……これが現実です。ひとりノアだけが、この世界において主のみこころにかなった、正しい人だったのです。ノアは、そういう世界においても、正しい生き方ができたのです。しかし、ノアにとっての正しさの基準は何でしょうか? それが、ノアを取り囲む人々の倫理になかったことは確かです。なぜならその倫理は、どれひとつとして神さまのみこころにはかなわない、正しくないものだったからです。その倫理が少しでも正しければ、彼らは滅ぼされずに済んだでしょう。でも実際、彼らは滅ぼされました。こうなるとノアは、世界と交じり合いながら生きることを放棄しなければなりませんでした。あるのはただ、神さまとの個人的な交わりだけです。
ノアの生き方を象徴するみことばが新約聖書の中にあります。ローマ人への手紙、12章2節です。……ノアはこの堕落した世界から四方八方迫りくる人間関係の侵略から、つねに心を新しくして神さまに守っていただかなければなりませんでした。そしてそれは、私たちも同じではないでしょうか。私たちもいろいろな人間関係に取り囲まれていますが、時にその人間関係は、この世、すなわち神さまのみこころにかなわない基準に調子を合わせようとさせ、あたかもそれが美徳のように迫ります。
しかし私たちは、すでにこの世から救い出されている者たちであるという自覚が必要です。完全なみこころを知る必要があります。私たち人間はどこまでも不完全ですが、みこころは完全です。だから私たちは、みことばから学ぶのをやめてはならないのです。みなさまがご希望ならば、私はいくらでもみことばを学ぶ機会をもうけたいと思います。それは、私たちの聖書知識を増し加えて、何か自分が偉くなるためではありません。みことばにとどまることでこの世から自分を守り、また教会を守るためです。ノアによって人類が守られたのは、正しい主のみこころを保つためであったように、私たちも守られるように、みことばを変わらない基準として、私たちの中にしっかり保ってまいりたいものです。
第二のポイントです。ノアは従順な人でした。
6章14節から22節には、箱舟をつくる手順、また箱舟の中に入れる生き物について、くわしく書いてあります。これらの記述を現代人が読むと、かなり荒唐無稽に思えるのでしょう、このノアの箱舟の記事は神話であり、したがって一事が万事、聖書全体は神話であるという、とんでもない結論が導き出されるわけです。しかし、この教会で養われてきなみなさんは、この洪水、またそれに耐えた箱舟がいかに科学的に立証できるものだったか、よく学んでこられ、それがみなさんの聖書信仰をしっかり裏づけていると思います。私は創造科学の専門家ではないので科学的に深入りはしませんが、この箱舟建造とあらゆるつがいの生き物を箱舟に導き入れたことについて、ノアはいかなる神さまのみこころに従順になったか、3つの側面から見ることができます。
まずは、いのちを守れ、というみこころです。地を覆う洪水からサバイブせよ、そのためには、わたしの言うとおりに箱舟をつくりなさい、というわけです。かくして、あのすさまじい洪水から、ノアとその家族は守られたのでした。さきほども触れたとおりですが、みことばに従順に従うことは、この世の嵐のようにすさまじい迫害や誘惑から、私たちを守り、きよく保つことになります。
そして、いのちを保て、というみこころです。ノアがこれだけの生き物を、それもつがいで導き入れたのは、洪水で破壊された環境が自然の秩序を取り戻すためです。生き物が新しく出発する地上に放たれると、そこでは食物連鎖がなされ、環境が十全に保たれます。それはもちろん、人間を生かすことになります。人間のいのちを保つために、生き物のいのちは生かされる必要があったのでした。そのために、ノアの家族はもちろん、それらの生き物のいのちを保つためにも、食べ物をふんだんに運び込みなさいとも命じられました。
そして何よりも、「自分のために」箱舟をつくれ、ということです。わたしはこの地を滅ぼすが、あなただけはまず何としてでも生き残りなさい、というみこころが現れています。さて、このみことばをお読みすると、神さまはノアに利己的になるように勧めておられたのだろうか、という疑問がわき上がりますでしょうか。「自分のため」ということが、主にあって人に尽くす生き方と対照的に見えるからです。
この時代の人々とノアがどのようにつき合っていたか、それは想像の域を出ません。しかし、あのような巨大な建造物をつくれば、いやでも人目につきますし、それをなぜつくっているのか尋ねられたら、ノアは正直に答えたでしょう。そして、なんとしてでも入ってくださいと勧めたでしょう。しかし、彼らがどんな反応を示したかは、結局箱舟に入ったのがノアとその家族だけだったという事実を見ても、一目瞭然です。それでもノアは救いの旗印として、この大きな建造物を世に示したのでした。やがて来る破滅から救われる道は、これに乗ることしかありませんでした。大きな箱舟をつくり、それに次々と生き物を入れていくなんて、どれほど人々から馬鹿にされたでしょうか。しかしそれでも、これこそが救いの道であると知る以上、ノアはその歩みをやめるわけにはいかなかったのでした。
私たちも同じように、破滅から免れる道を与えていただきました。それはイエスさまの十字架を信じる信仰です。これ以外、救いの名は人間には与えられていません。そんなことを言うと、やれキリスト教は偏狭だ、独善的だ、などという声が飛んできそうですが、この信仰告白にこだわるのをやめるならば、私たちはクリスチャンであるのをやめなければなりません。ノアが大建造物をもって世に証ししたように、私たちはクリスチャンである以上、イエスさまこそが救いの道であることを証しする必要があります。どんなに馬鹿にされても、どんなに攻撃されても、これこそがまことである以上、私たちは十字架に歩むことをやめてはならないのです。
それでは第三のポイントにまいります。ノアは、神さまと契約を結んだ人でした。
18節のみことばをお読みします。……さて、契約と言いましても、対等の立場で結ぶものではもちろんありません。神さまがご自身の正しさにかけて、ノアという人を選んで契約を結ばれるのです。その契約に伴って、ノアの家族も救われることが約束されました。
私たちも日常生活で、契約というものをします。問題が起こると、契約は破棄され、下手をすると法廷に持ち込まれます。契約というものは、履行されることが前提で結ばれるものです。
神さまの場合はもちろんのこと、神さまの側は契約をかならず履行してくださいます。それが、絶対的な救いというものでした。これは、この曲がりに曲がった時代の人々の中からたったひとり、ノアだけを選び、救ってくださった、神さまの恵みの選びに基づくものでした。
しかし、それが神さまの側から見た契約の履行内容ならば、人の側にも履行すべき条件はあったのでしょうか? ありました。それはノアが、そっくりそのまま、神さまのみことばに示された救いのご計画を、信じたことです。
そしてこの「信仰」は、とてつもないことを可能にしました。それは、箱舟という大建造物をつくり、なおその中にすべての生き物をつがいで入れる、ということでした。もしノアが、神さまがみことばで示された箱舟にまつわる条件をひとつでもたがえたならば、彼も彼の家族も生き残ることができませんでした。ノアが生き残って神さまに用いられるためには、徹底してみことばに従順になる必要がありました。大建造物をつくり、あらゆる生き物を箱舟に運び込むことは、ただごとでないくらいたいへんなことです。それでもノアは、神さまの救いの恵みに甘えることなく、この重労働をやり遂げ、そして救われたのでした。
私たちも、神さまが契約を結んでくださった存在です。神さまは私たちを救うために、ひとり子イエスさまを私たちの身代わりに十字架につけてくださいました。私たちはイエスさまを信じる信仰により、神さまに救っていただきました。信仰、これこそ、神さまと契約を結んだということです。
この信仰によって、私たちはこのみことばに従順に従う力が与えられます。ひとり子イエスさまによって私をあがなってくださったほどの神さまのみこころに、なんとしても従おう! そのみこころを知るために、聖書を読もう! こうなるのです。
これは、神さまの恵みです。私たちがみな、この恵みにとどまりますように、また私たちの周りの方々も、この信仰によって神さまと永遠の契約を結び、永遠のいのちという恵みを手にされますように、祈ってまいりたいと思います。
私たちは神さまによって正しい者とされていますゆえに、この世から自分を守ってまいりたいと思います。それは、教会を主のからだとして守ることでもあります。そして、みことばに従順に従ってまいりましょう。しかしその従順は人間的な頑張りではありません。救いの恵みをいただいたゆえに、救ってくださった神さまを喜ぶその喜びで従順に生きるのです。ノアにならうこの歩みを、私たちでともに歩んでまいりましょう。