聖書箇所;創世記7:1~24
メッセージ題目;洪水と箱舟に示されたみこころ
1966年の映画で、「天地創造」というものがあります。ジョン·ヒューストン監督、天地創造から創世記22章のイサク奉献までの、創世記の記事に従って大スペクタクルが展開するという映画、音楽も日本人の黛敏郎で、あの当時の日本人にとっては誇らしい映画だったと思います。もちろん、ノアの洪水の場面も登場し、いろいろな動物が箱舟につがいで入る場面もあります。創造科学の立場からは、このように、動物が箱舟に入ることについても、解答が与えられています。興味のある方はDVDを視るなりして調べてみてください。本日のメッセージではその領域は扱いません。
このような聖書箇所をそのまま信じ受け入れるか否かということは、みことばに対する私たちの態度が問われることであり、それは大げさではなく、私たちの信仰のあり方、ひいては、人生を左右します。私たちは、自分の常識や感覚といったものと、みことばの語ることと、どちらを優先するのでしょうか? とても問われることです。聖書の解き明かしは、みことばが正しいということ、実際に起こったことの記録であるということを前提に行います。みなさまもその前提でメッセージを聴いていただければと思います。では、まいります。
第一のポイントです。神さまはこの世界の環境に、驚くべきみわざを行われました。
神さまは、洪水によって地を滅ぼすことをノアに告げられました。しかし、その後の生態系が保たれるように、動物を生き残らせるようにされました。
ノアに託された働きは、そのような動物が生き残るために箱舟に導き入れ、なお箱舟の中でそれらの動物を養う、ということも含まれます。これはもちろん、たいへんな重労働です。先週のメッセージでも学びましたが、神さまに対するノアの信仰は、このような重労働を行うという驚くべき従順を可能にしました。
しかし、地のすべての動物をしかもつがいで箱舟に入れる、ということが、いったい可能だったのでしょうか? それが、可能だったのです。9節のみことばをご覧ください。……やって来た! なんと、動物がやって来たのです。ノアには時間が残されていませんでした。しかしここで神さまは干渉してくださいました。動物たちに、ノアのもとにやってくる意志を与えられ、実際に来るようにされたのでした。
ここに来れば助かる、これは動物的な感覚ともいうべきものでしょうか。しかし、このような感覚さえも神さまが用いられ、生態系を保つようにされたのでした。人間の知恵の及ばぬところに神さまがご計画を立て、被造物を導かれる、これを「摂理」といいます。神さまの摂理は実に、この被造物全体にまで行きわたっていたことをここに見ることができます。
しかし、そのいちばん大きな目的は、主のみこころにかなったノアとその一家を救うことにありました。そのために、あらゆる自然の法則を動かしてでも、ノアのことを救ってくださったのでした。
私たちにしても同じような存在ではないでしょうか? この曲がった時代を生きているのは、だれであれ同じことで、私たちとて例外ではありません。しかし、私たちは神さまの特別な選びによって救っていただいたのです。私たちにはよいものは何一つありません。ただ、神さまの御目にかなっていると見なしていただいた、神さまの恵みによることです。
そして、私たちは一見すると、自分の意志で神さまのもとにやってきたように見えます。しかしほんとうのところは、神さまの側ですべてを働かせて益となしてくださり、私たちは主を信じ受け入れる信仰に導いていただいたのでした。私たちの目には不思議なことです。このような者さえも救ってくださった恵みのゆえに、私たちは主をほめたたえましょう。
第二のポイントです。神さまはノアを中心にした選ばれし者たちに、驚くべき守りを施されました。
もちろん、ノアの家族やあらゆる生き物を箱舟の中に導き入れられたことも大きなみわざです。しかし、それだけではありませんでした。16節のみことばです。ご覧ください。「主が」……戸を閉ざされた、とあります。これは霊的なお方が、物質的な世界に干渉された、ということでもあります。
そういうことはあるのだろうか……基本的に物質的な世界しか体験していない私たちからすれば、これはとても不思議なことのように思えます。しかし、同じ創世記の3章を見てみますと、神さまご自身が獣をほふって皮の衣をアダムとエバにつくり、着せてやったという記述が出てきます。目に見えないはずの神さまが、目に見える世界に干渉していらっしゃるのです。
これはしかし、当然のことです。私たちが今体験している、目に見える世界は、神さまが創造され、支配していらっしゃる領域です。この領域にみわざを行われたとしても、何の不思議もありません。実際、私たちの主イエスさまは、この目に見える世界にお生まれになり、生きられたのでした。神さまの側から見れば、不思議なことは何一つありません。
その前提であらためてこの16節のみことばを見てみたいと思いますが、このみことばからわかることは、箱舟建造からあらゆる生き物を導き入れることに至るまでの一連のノアの行動が、最終的に神さまが責任をもって導かれた働きである、ということです。
ノアの完全な従順は、従順という行為そのもので終わったのではありません。ノアのうしろの戸を神さまご自身が閉ざされるという形で、神さまが完成させてくださったのでした。そうです、従順という行為そのものに意味があったというよりは、その従順の最終的な責任を神さまご自身が負ってくださったということに意味があるわけです。
ノアのように神の選びをいただいた者にとって、神さまはどのようなお方でしょうか? イザヤ書52章12節をご覧ください。神さまはノアに行くべき道を与えられ、導かれました。箱舟をつくって生き延びなさい、という道です。しかしそれだけではありません。うしろの戸を閉ざされたということは、しんがりとなられた、つまり、後ろにおいて守ってくださったということです。これで、どこから何がやって来ても大丈夫です。
このイザヤ書52章12節のみことば、あわてたり、逃げたりするイスラエルの姿は、ともすれば、私たちの姿のようではないでしょうか? 神さまが前で導き、後ろで守ってくださっているのに、それが見えなくて、あたふたしてしまう不信仰な姿を表しているようです。しかし私たちは、そのような不信仰から自由になり、神さまの絶対的な守りの中で憩う必要があります。ノアをご覧ください。箱舟の中に入ったら、彼はこの大波に対して何かしましたか? ただ、流れるに任せただけです。
ちょっと脱線しますが、あのノアの箱舟というものは聖書の記述どおりの設計ならば、工学的に見て驚くべき構造をしているそうです。あの大洪水に耐えられるだけの設計だそうです。よく聖書マンガや日曜学校の教材などで、ノアの箱舟がそれこそ一般的な「船」の格好、そう、底のほうに行くにしたがって細くなる、あの形をしているものを見かけますが、あれはまちがいだそうです。それなら「箱舟」とは言いません。箱型だから「箱舟」です。ともかく、あの箱舟の中に入れば、あとは流れに任せるだけ、ノアはこの洪水を何とかしようとか、一切考える必要はなかったわけです。
私たちもまた、とんでもない状況に取り囲まれることの多いものです。私たちの周囲の状況は刻々と変化し、ときに私たちはその状況に翻弄されます。しかし私たちはそんなときも、主が先頭に立たれ、またしんがりとなってくださっていることを、忘れないでいたいものです。
それでも私たちは悩みますでしょうか? 仕方ない、人だから当たり前です。それでも私たちと普通の人とを分ける、確実なことがあります。ペテロの手紙第一、5章7節です。……神さまは何よりも、ノアのことを心配され、ノアがこの洪水に呑み込まれてしまいように、万全の手を打たれました。私たちのことも主は心配してくださっています。私たちのために特別な配慮をくださる主に、私たちはすべてを委ねてまいりましょう。
第三のポイントです。神さまはこの地の者たちに、驚くべきさばきを行われました。21節、22節をお読みします。だれひとり生き残らなかったのでした。地上に住む者はすべて死んだのでした。生き残ったのはノアとその家族だけでした。
そうです。神さまはお語りになったとおりのさばきを執り行われました。選ばれた者以外、すべて滅びるという結果をもたらしました。しかし、彼らはこの世が滅ぼされるという知らせを知らなかったのでしょうか? もちろん知っていたはずです。義人ノアが箱舟をつくりつづけたことから、この世にさばきの警告が下されていることを知っていました。しかし彼らは受け入れませんでした。
このような地の民に、みこころにかなう人はひとりもいなかったのでした。すべてがさばきの対象でした。死をもってさばかれなければなりませんでした。これが、さばきというものの実際です。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが」できない、とみことばは語ります。
それならこの「すべての人」は、「神からの栄誉」の代わりに、何を受けるのでしょうか? そうです、「怒りのさばき」です。しかし、私たちはここで、神さまの気持ちになって考えてみたいと思います。神さまが愛もて創造された人間に、怒りを注がれることで正義を全うしなければならない、それはどれほどのことでしょうか。
私はむかし、「イタズ」という題名の映画を観ました。田村高廣演じる主人公の猟師が、子熊のときから可愛がっていた熊が、養鶏場の鶏を襲ったり、果樹園の果物を食べまくったりして、成長して手がつけられなくなり、自然に帰してやるしかなくなった。するとこの熊は、もっとひどい害をもたらすようになった。主人公はついに意を決し、雪山に入り、銃でその熊を仕留める、茫然となった彼が熊のなきがらを隣からじっと見つめていると、やがて折からの雪崩によって彼は熊もろとも呑み込まれる……という、とても悲しい内容です。
あるべき道を乱す者は、それがいかに愛する対象であろうともさばかなければならない、その悲しさをこの映画は教えてくれたようでした。ノアの洪水ですべての人を滅ぼされた神さまのおこころも、それと同じようだったのではないかと思えてきます。あまりにもつらい、しかしさばかなければならない……。
私たちが罪人であるということは、神さまのみこころを罪によってそれだけ損ない、悲しませているということを意味します。私たちもさばかれなければなりませんでした。私たちももし、ノアの時代に生きていたならば、洪水に呑み込まれ、海の藻屑になっていたとしても不思議はありませんでした。
しかし人々は、このようなさばきに関してあまりにも無関心か、さもなくば荒唐無稽ととらえるようです。現代も水害や地震は大きなニュースになりますが、それでも少し経過すれば、のど元過ぎればなんとやら、です。世の終わりというものについて、もしかするとクリスチャンである私たちも無関心であったりするかもしれない、そのことを私たちは警戒する必要があります。みことばは何と語っていますでしょうか? ペテロの手紙第二、3章3節から14節です。これはおひらきください。新約聖書の476ページです。
このペテロのことばから想像力をたくましくしてみますと、おそらくはノアの時代も、洪水を前にした者たちはあざ笑ったことでしょう。しかし主のみことばどおり洪水はやってきて、ことごとくほろぼされました。みことばのとおりです。
そして私たちはいま、「火で焼かれるためにこの地は取っておかれている」というみことばの前に立たされています。私たちはこれを信じますでしょうか、信じませんでしょうか? 聖書の中には火で滅ぼされるという箇所がしばしば登場します。ありえることなのです。
私たちはこのようなさばきから救われている、だから大丈夫、とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、それならそれで、私たちには求められている生き方があります。11節、12節のみことばです。
……私たちはいつイエスさまが来られても大丈夫なように、備えていますでしょうか? 敬虔な生き方、それは、救われている者としてふさわしい生き方を、実際の生活の中で目指すことです。全能の主の御手によって救われたならば、それにふさわしいだけの実を生活のただ中で結んでしかるべきです。何をしても許される、とばかりに好き放題に生きるのは、少なくとも、救われた者としてふさわしい生き方ではありません。そのような生き方のどこに、生ける主との交わりが成り立っているというのでしょうか。
その日が来るのを早めるように、もちろん、イエスさまの再臨がいつになるかということは、全能の主がその主権の中で決めていらっしゃることで、私たちのあずかり知らぬことです。しかし、私たちはマラナタ、主よ来てください、と堂々と言える生き方をするならば、主は私たちのその切なる叫びに応えてくださいます。
それが大いなるさばきとともに来ることを思うと、私たちはどれほどこの地に、それこそノアが大建造物をもって証ししたように、キリストの十字架という旗印を掲げて生きなければならないことでしょうか。キリストの十字架によらずしては、だれひとり救われません。終わりの日に臨む炎に焼き尽くされてしまうほかありません。それは私たちの愛する人とて例外ではありません。私たちの主におしたがいするよい生き方をもって、隣人をキリストへと導くことです。
しかし、それでも彼らがキリストを信じようとしないならば、そのたましいは御手にゆだね、私たちの従順の生き方に集中するばかりです。私たちは何も彼らにあわせる必要はありません。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにというみことばを取り違えてはなりません。ノアは果たして、その時代の人々を救おうとして、あの罪人たちのライフスタイルに合わせて彼らに証ししたりしたでしょうか? とんでもないことです。
今日のみことばを通して、神さまがノアに対して、またこの世界に対して持っておられたみこころから、私たちは学びました。相働きて益となすみこころとみわざにより、私たちは救われました。主は私たちの救いの完成のために、最後まで導いてくださいます。私たちはこの主の愛に対し、従順の生き方をもってお応えしてまいりましょう。その生き方をもって、イエスさまが再び来られるその日に備えてまいりましょう。主は今週も私たちとともにいてくださり、私たちのこの従順の生き方を導いてくださいます。