みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ

聖書箇所;マタイの福音書28:18~20 メッセージ題目;みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ 今年の年間テーマは「みことばを宣べ伝えよう」でした。みなさんはどれくらい、みことばを宣べ伝えることができたでしょうか? 私たちクリスチャンにとって、みことばを宣べ伝えること、伝道とは、使命であり、取り組むべきことです。その召命に、この年の終わりに立ち帰り、次なる年こそみことばを宣べ伝えるものとして整えていただくべく、今日みことばをともに学んでまいりたいと思います。  さきほどお読みしたみことばは「大宣教命令」と呼ばれるもので、イエスさまがこの地上を去られるにあたって、弟子たち、ひいては私たちを含むすべてのクリスチャンに遺されたみことばです。伝道に召された私たちは、特に今日のみことばから学ぶことで、主が私たちのことをどのような立ち位置に置いてくださっているか、確かめてまいりたいと思います。   まず、大前提といたしまして、このみことばの原語どおりの構造からしますと、第一に「行って」、第二に「バプテスマを授け」、そして第三に「教えなさい」はすべて分詞であり、これらすべてが主たる動詞である「弟子としなさい」を修飾している形になります。つまり、イエスさまの大宣教命令は、「弟子づくり」が最もメインになる命令であり、「行くこと」、「バプテスマを授けること」、「教えること」はすべて、「弟子づくり」の側面を示したものと言えるわけです。   第一に、私たちは「行って」弟子とすることが求められています。   このとき、弟子たちはまず、聖霊を受けるまで待機することが求められました。しかし、ひとたび聖霊を受けたならば、エルサレムにはじまり、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで証人となるべく遣わされました。この働きはもちろん、十二使徒で完結するものではなく、その後を引き継いだ世界中のすべてのキリスト教界が、2000年にわたって実践しつづけたもので、その歴史の果てに私たちの教会があることになります。  さて、それでは、私たちはこの地に遣わされて、それで終わりなのでしょうか? 決してそうではありません。聖霊なる神さまは、なおも私たちを遣わそうとしてくださっています。  しかし、私たちはもしかして、聖霊の導きによって「行く」ということを、何か特別なことのように捉えたりしてはいないでしょうか? ある日突然聖霊さまが霊感に示して、遠いアフリカの国に行くように導かれるとか? そういうことも、ない、とはいいませんが、しかし、私たちが普段の生活の中で体験する聖霊さまの導きは、もっとさりげないものです。考えてみましょう。私たちに生活できる環境があるということは、私たちのことを未信者とのふれあいの現場という「宣教地」に、聖霊さまが送り出してくださっているということです。みなさんはそういう意味で、聖霊の強い力に促されて世界宣教に出ていった初代教会の働き人たちと、何ら変わるところがないのです。  要は私たちが、聖霊なる神さまによって遣わされているという自覚を持ち、聖霊の満たしをいただいてこの世界に出ていくことです。私たちの教会がディボーションと聖書通読を奨励しているのはなぜでしょうか? 聖書を学ぶことで自分の霊的ステージを上げて、ほかの人と差をつけるためでは、決してありません。みことばに耳を傾けることで聖霊なる神さまの御声と導きに敏感になり、今日はだれに遣わされているのか、今日はどこに遣わされているのか、その自覚をもって一日の働きに取り組むためです。聖霊に遣わされる体験を毎日できるなんて、これ以上素晴らしい生き方があるでしょうか!  私たちは聖霊の宮です。聖霊の器です。自分を低く見積もってはなりません。私たちは神さまの働きに用いていただけるのです。そういう者にしてくださるために、今日も神さまは私たちに、みことばによって強い動機づけを与えてくださいます。従順にお従いし、用いられる祝福をいただいてまいりましょう。  第二のポイントです。私たちは「バプテスマを授けて」弟子とすることが求められています。  私たちはなぜ、それぞれの生活の現場に「行く」必要があるのでしょうか? それは「バプテスマを授ける」ためです。  バプテスマを授けるために必須なのは、信仰告白に導くことです。自分が罪人であるゆえに、このままでは神の怒りに触れる存在であることを自覚させること、その罪の罰をイエスさまが十字架の上で身代わりに受けてくださり、私たちを神の怒りから救い出してくださったこと、イエスさまを受け入れるなら私たちは神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、天国に入れられること、このことを私たちは、大好きな隣人に宣べ伝えるのです。このことを宣べ伝えてこそ、その人は信仰告白に至ることができます。  問題なのは、私たちがなかなか、そのようにみことばを宣べ伝えることができない、ということではないでしょうか。気になる人がいれば、辛うじて教会に連れてくることならできる、しかし、実際にみことばを宣べ伝えるのは私ではなく、牧師のすることではないか……そのように考えてはいないでしょうか?  しかし、牧師がいちいちみことばを伝えるのは不可能です。みなさんひとりひとりがみことばを伝えなければ間に合いません。そういう点で、私たちは「何を伝えるか」を明確にしておく必要があります。クリスチャンという存在は、日本の社会にはあまりいませんので、珍しがられる存在だということはみなさんも体験していらっしゃるでしょう。それを利用して、私たちの信仰について分かち合うのです。 もちろん何よりも、私たちの生活がすべてにおいて主にお従いするものとなり、主に対してするように人に対してすることを普段から実践することで、人々の前でよい証しを立てておくことが必要になります。そうでなければ、私たちがいかにみことばを宣べ伝えたくても、そのことばを聞いてくれる人などいない、ということになってしまいます。  さて、このみことばは「バプテスマを授け」とあります。これについてもしっかり見ておきましょう。人にバプテスマを授けるには、信仰告白に導くことが必要になることはこれまで見てきたとおりです。しかし、信仰告白に導いてそれで終わりではありません。「バプテスマを授ける」ところまで導くのです。  バプテスマを授けたならば、その人は単に信仰告白したにとどまらず、キリストのからだなる教会のひと枝に加わります。つまり、伝道そのものが宣教における完成形なのではなく、伝道して人を教会に主体的に参加させることが宣教の完成であるわけです。  しかし、この「バプテスマを授ける」という働きは、教会員一人ひとりがそれぞれの場所で担うものではありません。さりとて、バプテスマを授けるのは牧師だから、牧師の働きなのか、というと、それも正確ではありません。「バプテスマを授ける」働きは、教会全体が担う働きです。  そういう意味でいえば、さきほど取り上げた「行って」というのも、教会に属する働きの一環であると言えます。一見すると、私たちは個人個人がそれぞれの持ち場に行っているように見えますが、私たちはキリストのからだなる教会のひと枝ひと枝としてそれぞれの持ち場に行っているわけです。そう考えますと、私たちの家庭も、職場も、学校も、地域社会も、みな教会の「出張所」ともいうべき存在ということになります。  「バプテスマ」に話を戻しますと、人を信仰告白に導き、教会のひと枝に加えることは、教会全体が取り組むべきことです。私たちそれぞれにだれか伝道の対象となっている未信者がいるとしたら、それはその人だけが霊的責任を負うべきではありません。教会全体が責任を負うのです。その伝道対象者の救いのために、教会全体が祈るのです。いざその人が教会にやってきたら、みんなして迎え入れるのです。食事をしてもてなすのです。とにかく、この関係づくりの働き、関係を深める働きは、教会の一部の人が担えばそれで終わりなのではありません。教会全体がひとつとなって、バプテスマに至るまでひとりの人のたましいの責任を担うのです。  そのようにして群れに加わった新しい人が、今度は次の人を迎え入れるべく教会全体でチームをなしていきます。こうして、教会は量的にも質的にも成長することになるのです。  私たち自身を振り返ってみましょう。私たちも教会の働きによって、バプテスマを受けて教会のひと枝に連なる恵みに導かれたのでした。今度は私たちの番です。私たちが次の人にバプテスマを授け、主の弟子とすべく出ていくのです。  第三のポイントにまいります。私たちは「教えて」弟子とすることが求められています。  「エクレシア」の訳語として日本語では「教会」が充てられていますが、改めて見てみましても、よく訳したものだと思います。文字通り「教える会」または「教わる会」です。何を教わるのか、といえば、私たちは聖書のみことばを教わるのです。  それでは私たちは、なぜ聖書のみことばを教わるのでしょうか? 人よりも霊的な知識を増し加えて、いけ好かない人になるためであっては決していけません。私たちが、愛する人になるため、仕える人になるため、そのためにみことばを教わるのです。これが、弟子の歩みです。私たちはイエスさまを信じてバプテスマを受ければ、あとは惰性で教会に通うのではありません。日々みことばを学ぶことで、主のみこころをこの地上に、隣人に対する愛という形で実践するのです。  ここに、私たちが弟子として訓練されるべき理由が生じます。私たちは訓練されずに、どうやって愛することを具体的に実践するのでしょうか? 私たちは訓練されずに、どうやって主のみこころとそうではないものを区別することができるでしょうか?   みなさんが、こんなにも忙しい中で教会にいらしていることの意味をもっと考えなければと思います。私たちは、みことばから教わりたいのです。訓練を受けて、キリストの弟子になりたいのです。そこを履き違えてはなりません。  今年の日曜礼拝はこれで終わりです。しかし、数日経てば元日礼拝をお迎えします。新たな気持ちで、ともに主にお仕えしてまいりましょう。この年末年始が守られ、新年、みこころにかなう歩みを私たちがしていくことによって、イエスさまの再び来られるその日に備えるものとなりますようにお祈りします。

これぞ福音

聖書箇所;イザヤ書53章6節 メッセージ題目;これぞ福音  みなさん、あいさつしましょう、メリー・クリスマス! クリスマスおめでとう、という意味ですが、それでは私たちにとって、クリスマスとはなぜ、めでたいものなのでしょうか? 今日はそのお話をしたいと思います。 みなさんにお伺いしたいと思います。もし自分が今日この世を去ることになったとしても、自分は間違いなく天国に入ることができる、そのような確信に至ったことはありますでしょうか? みなさまならどうお答えになりますでしょうか? もし、その話をぜひ聞いてみたい、という方は、続けて耳を傾けていただければと思います。正しい答えをもう知っています、という方は、ぜひ初めての方にもその答えがわかるように、メッセージを聴きながらお祈りしていただければと思います。 では、もうひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか? 「それでは、もし仮に、仮にですよ、今日あなたがこの世を去ることになったと想像してみてください。天国の入口には神さまが立っています。そして神さまがあなたにこう問いかけられたとします。『もし、あなたがこの天国に入れるとするならば、それはいったいなぜだと思いますか?』」今のみなさまなら、どのようにお答えになるでしょうか? よい行いをすること、でしょうか? いい人になること、でしょうか?  しかし、聖書はほんとうのところ、そのことについてどう語っているのだろうか? それが知りたい、という方は、ぜひ、この話を終わりまでお聞きいただければと思います。  まず、天国というものについてお話しいたします。聖書の語る天国とは、無償のプレゼントです。プレゼント、それはただだから、プレゼントです。努力の報いとか、それを受ける資格があるから受けるものではありません。 プレゼントなのですから、私たちはそのために何か特別に努力したりする必要はありません。することはただ、受け取ることだけです。このことについては、聖書が人間について何と語っているかを理解すると、よりはっきり理解できます。  人間とはどんな存在であると、聖書は語っていますでしょうか? 聖書は人間を、罪人、と呼んでいます。罪人、という表現をお聞きになった方もいらっしゃると思います。みなさんは罪というと、どのようなことを連想しますでしょうか? 人のものを盗んだり、人を傷つけたり、そのようなこともたしかに「罪」です。しかし聖書が語る罪はそれだけではありません。しなければならないとわかっているのにしない、これも罪です。人に親切にしなければならないときにしなかった、学生だったら、勉強しなければならないのにしない、とか。そういうことも聖書は、罪と語っています。  それだけではありません。心の中で犯す罪というものもあります。あいつなんていなくなってほしい、と、心の中でのろうことも。男の人の場合は、いやらしい思いを持って女の人を見たり、とか。そういうことも聖書ははっきり、罪、と語っています。 そういうことまで罪に含めるとしたら、どんな聖人君子のような人であっても、まことに罪人というしかないのではないでしょうか。  それでは、この罪は、なんとか努力してよい行いをすれば帳消しにできるのでしょうか? しかし人間は、よい行いをしたからといって天国に行けるわけではありません。この問題については、次に聖書が神さまというお方について何と語っているかを理解していただくと、より明確に理解していただけます。 まず、神さまは愛なるお方です。神は愛です、と聖書は語っています。神さまは愛ですから、私たちをさばきたくないのです。 しかし、神さまは正義なる方でもあります。だから私たちの罪をさばかなければなりません。しかし、そうだとすると、いったい私たちのうちで、さばかれずに済む人などいるのでしょうか? 義人はいない、ひとりもいない、これが聖書の宣言です。だれもさばかれなくて済む人はいません。しかし、神さまは愛なるお方です。私たちをさばきたくありません。 方法はあるのでしょうか? あるのです。この問題を解決するため、神さまはイエス・キリストを送ってくださいました。 キリストとはどのようなお方でしょうか。無限なる神さまであり、また、人です。人となってこの世界に来られた神のひとり子、それがイエスさまです。 イエスさまは何をしてくださったのでしょうか? イエスさまは、十字架の上に死なれ、そして死からよみがえることによって、私たちの罪の代価を支払い、天国に私たちの場所を買い取ってくださったのでした。 しかしイエスさまは、十字架で罪を背負って死なれて、それで終わりではなかったのです。イエスさまは十字架にかかって3日目に復活されました。そして、天に昇られて、今は父なる神さまの右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっています。 イエスさまがこのようにしてくださったことで、神さまと私たちの間に隔ての壁となっていた罪が取り除かれました。そして、私たちは神さまと和解し、つながる道が開かれました。 では、このプレゼントを、私たちはどのように受け取るのでしょうか? 聖書は、信仰によってそれを受け取ると語ります。私たちを救いに至らせるまことの信仰とは、救いの根拠と信頼をイエス・キリストに移すことです。 では、天国というプレゼントを受け取るのにふさわしい信仰は何を含むのか、明確に4つのポイントにまとめると、次のとおりになります。 一番目は、救いの根拠と信頼をキリストに移すことです。これは、すでに椅子のたとえでみなさんにお伝えしたとおりです。 二番目は、復活し、今も生きておられるキリストを、救い主として受け入れることです。イエスさまは単なる歴史上の人物ではありません。十字架に死なれましたが、復活され、今も生きていらっしゃいます。このお方が自分のことを罪から救ってくださる救い主であると受け入れるのです。 三番目は、キリストを人生の主として受け入れることです。救われたらそれで終わりではありません。心の中心にキリストをお招きし、キリストに人生を導いていただくのです。 そして四番目は、悔い改めることです。悔い改めるといっても、「ああ、自分はなんて愚かなことをしたんだ、バカバカバカ!」などと自分を責めることとはまったくちがいます。それは「悔い」であって「悔い改め」ではありません。「悔い改め」とは、罪深い自分を悔いて、罪のない神さまに向きを改め。方向転換することです。 いかがでしょうか? クリスマスとは、このようなみわざを成し遂げてくださったキリストが来られたことをお祝いする日です。私たちも心からキリストをお迎えするとき、人生には大きな祝福が訪れます。

インマヌエルを祝う

聖書箇所;サムエル記第二6:12~23 メッセージ題目;インマヌエルを祝う クリスマス、私たちの救い主、イエスさまの誕生をお祝いする日です。来週日曜日はいよいよ、クリスマス礼拝の日です。その日私たちは、どんなに喜ばしく礼拝をおささげすることでしょうか! イエスさまのお誕生を預言したみことば、イザヤ書7章14節は、このように語ります。 「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって いる。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエルとは、神はわれらとともにおられる、という意味です。神の子イエスさまは肉体を取って人となられ、人々の間に住まわれました。まさに、ともにおられる神であり、このお方がお生まれになることが、イエスさまがお生まれになる700年以上も前に預言されていたのでした。 この、ともにおられるイエスさまのお誕生をお祝いするのがクリスマスですが、私たちはともにおられるイエスさまの、その臨在の御前に、どのような姿勢で進み出るべきでしょうか? さきほどお読みいただいたみことばは、一見するとこの「インマヌエル」なるイエスさまと関係がないように見えますが、実は大いに関係があります。そのことを以下説明したいと思います。 ダビデが運び入れたのは、神の箱というものでした。神の箱は、神の臨在の象徴です。モーセの時代に、神の律法にしたがって、すでにつくられていました。これは礼拝の対象となる偶像のようなものではありませんでしたが、イスラエルはこの神の箱をとても大事にしておりました。 神の箱とは神さまの臨在そのものとも言うべき存在でした。単なる象徴を超えた存在です。そういう点で神の箱とは、インマヌエル、神はわれらとともにおられる、と唱えられるイエスさまの予表、さきがけとも言える存在です。 このたび迎えるクリスマス、それがインマヌエルなるイエスさまのお誕生をお祝いすることであるならば、私たちもそのお祝いに馳せ参じる礼拝者として、このダビデの祝宴から学ぶことができます。この祝祭を巡る3つの立場から、私たちはいかなるお祝いをするのがふさわしいか学びたいと思います。 第一にダビデの立場、それは「礼拝に導く人」です。 この祝祭を主導しているのは、祭司のような宗教指導者ではありませんでした。ダビデでした。ダビデが王としてのリーダーシップを発揮しつつ、この祝祭を導いていたのでした。 しかし、ダビデは王としての権威をまとった形で、この祝祭を導いていたのではありませんでした。亜麻布のエポデを身に着けていた、とあります。王服ではありません。祭司としての服装です。祭司、つまり礼拝者として、神さまの臨在の前に出ていっていた、ということです。 しかし、このエポデは祭司が身に着けるようなきらびやかなものではなく、亜麻布でできていました。亜麻布のエポデといえば、まだ幼い日のサムエルが祭司の見習いとして身にまとっていたものでもあります。つまり、王さまとはいえ、子どものような礼拝者、主に仕える者としての姿勢を、その服装からして存分に示したのでした。 あなたがたは、王である祭司、というみことばが、ペテロの手紙第一にあります。王である祭司、これが私たちなのです。まさに、王であり祭司である姿で神さまの御前に出たダビデの姿は、この私たちの象徴とも言えます。 さて、では、主の民を祝祭に導くダビデの立場は、教会に当てはめればだれになるでしょうか? 私はここで、祝祭に導くダビデとは、私たちひとりひとりであると申し上げさせていただきたいのです。今申し上げましたとおり、あなたがたは王である祭司、と語られている以上、私たちは王の役割を果たし、祭司の役割を果たす存在です。そんな私たちは、このダビデを模範とするのです。そのダビデが民を導いて、率先していけにえをささげ、力のかぎり喜びおどるならば、私たちひとりひとりこそが人々を祝祭に導く存在と言えるはずです。 イエスさまのお誕生、インマヌエル、主が私たちとともにいてくださる、ということは、私たちにとって、人々を喜びに巻き込みたくなるほどの大きなできごとです。あの、民に率先して跳ね回るダビデは、私たちの目指す姿なのです。このクリスマス、すでにイエスさまによって救われている者たちとして、人々を喜びに導き、喜びに巻き込む礼拝を率先してささげる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二の立場です。それは民の立場、ともに礼拝をささげる人々です。 ダビデはこの、主の箱を運び入れることを、ひとりで行なったのではありません。イスラエルの全家とともに、群衆とともに行いました。つまりこれは、王家の祝福にとどまることではなく、イスラエル全体の祝福ということであったのです。イスラエルはこの祝福をいただいているものとして、ダビデの町に集まり、ともにこの祝祭に参加したのでした。 ともに礼拝をささげる人たちも、いろいろな人たちがいました。神の箱を担ぐ祭司たち、角笛のような楽器で賛美を盛り上げる人たち、祭壇をつくる人たち……しかしなんといっても、だいじなのは、ともに礼拝をささげ、盛り上げる群衆たちでした。ここでわかることは、礼拝において奉仕者とともに大事なのが、そのものずばり、「礼拝者」の存在、ということです。 私たちは普段の生活において、自分が礼拝者であるという意識を持っていますでしょうか? 当教会は何年にもわたって、聖書通読を奨めてまいりましたが、それは、普段の生活においても、私たちがみことばの前に整えられ、きよい、生きた供え物として人生を送ることを願っていらっしゃる神さまのみこころにお応えすることを目指すからです。私たちの生き方そのもの、それが礼拝というわけです。 その礼拝の究極のかたち、それが、今こうしてともにおささげしている礼拝です。安息日として、この日曜日、主の日を聖別し、しっかり礼拝をおささげすることで、私たち主の民がともに礼拝者の群れとして整えられるのです。 さて、このように神の箱の前で歓声を上げた民のことをもう少し考えてみましょう。彼らはひとりでは、このような礼拝をささげることはできませんでした。ともに! これが大事なのです。礼拝は、ひとりでつくるものではありません。もちろんそれは、礼拝というものが信徒のみなさんのいろいろな奉仕を必要としているということでもあります。しかしそれ以前に、礼拝開始の時間からともに礼拝をささげる、このことがとても大事であると、あらためて申し上げさせていただきたいのです。あえて多くのことを要求することはいたしません。ともにその場に座り、礼拝をささげるだけで充分です。インマヌエルなるイエスさまがともにいてくださっているという喜び、それを礼拝という場でみなさんが体験してくださるならば、こんなにうれしいことはありません。 第三の立場、それは、ミカルです。礼拝をささげず、冷笑的になる人です。 ミカルは、このパレードが入ってきたとき、どこにいたのでしょうか? 窓から見下ろしていた、とあります。高い所にいて、そこで心の中でダビデのことをさげすんでいたわけです。まさに、上から目線です。そしてミカルは、ダビデを心の中でさげすむにとどまりませんでした。戻ってきたダビデに、言い放ちました。20節です。…… ミカルとはもともと何者だったのでしょうか。先王サウルの王女です。サウル王の王女として、蝶よ花よと愛でられてきた人です。それだけプライドもありました。かつては勇士として名を馳せるダビデに惚れて結婚した者でしたが、その愛情はサウル王家の王女としてのプライドに勝つことはありませんでした。裸踊りする王さま? くだらないわ! ダビデは、そんなミカルの心を見抜いていました。それで、このように言いました。21節です。……ダビデは、ミカルの父親であるサウル王、そしてミカルの属する家系を精いっぱい尊重しつつ、それでも私を王として選んでくださった神さまの御名をほめたたえ、喜び踊るのであると語ります。 それに続きダビデは、ミカルのさげすむことばを引き取るようにして、逆説的なことを語ります。22節です。……私は神さまの前に、もっと、もっと、子どものようになるだろう。あなたはますます、そんな私のことをさげすみ、卑しめるだろう。しかし、あなたの言うところの女奴隷たちは、そんな私のことをますます敬うのである。 女奴隷たちは、自分が低くされていることをよくわかっています。そんな彼女たちは、神さまが素晴らしいあまり、自分のところにまで、いや、自分より低いところにまで下りてきてくれるダビデのことを、なんてすばらしい王さま! と、敬わずにはいられないのである、ということです。その尊敬の念は、王女であり、王妃であることを鼻にかけて、夫である王のことも見下すようなプライドの塊ミカルには、決して湧き上がってこないでしょう。 23節、6章を締めくくるみことばによれば、ミカルには死ぬまで子どもがなかった、とあります。当時のイスラエルの常識からすれば、子どもがないということは恥でした。神さまの祝福が臨んでいない、ということを象徴するようなことです。このことは、2つの可能性を考えさせます。ひとつは、このミカルの発言がきっかけで、神さまはミカルから子をなすという祝福を取り去られた、ということ、もうひとつは、このできごとをきっかけにダビデとの間の愛情がすっかり冷め、もはや夫婦関係を持つどころではなくなってしまった、ということです。 しかしいずれにせよ、このようなことを考えるミカルから、ダビデとサウルの血を同時に引く子どもが生まれなかったことは事実であり、それは考えようによっては祝福でした。このようなミカルに育てられた王子は、いったいどのような子どもに育つでしょうか。それが長じてイスラエルを治める王になったら、イスラエルはいったいどうなったことでしょうか。 さて、ミカルにおける、神の臨在インマヌエルに対する冷笑的な態度、これはなんと、約1000年後に、そっくり同じ場所、ダビデの町で繰り返されることになりました。ダビデの町、そう、それはベツレヘムです。この時もダビデの町は、人々であふれていました。しかしそれはイエスさまのお誕生をお祝いするためではなく、ローマ帝国の住民登録という、至って人間的な用件を人々が済ますためでした。この人々はみな、その本籍地がベツレヘムにあったということは、先祖はこのダビデの町の人だったということであり、この神の箱が運び込まれたとき、その盛り上がる群衆の中に、彼らの先祖はいたということになります。しかし時が下り、ほんとうのインマヌエルなるイエスさまがベツレヘムに来られたとき、人々は宿屋の部屋を譲ってあげることさえしませんでした。暗くて汚い馬小屋に、救い主を追いやったのです。 これが、人というものの姿です。救い主が生まれようと、神さまがインマヌエルの恵みをくださろうと、人はとても冷笑的なのです。ダビデの町ベツレヘムで、インマヌエルなる神の臨在を前にしても冷笑的な態度を取ったミカルは、1000年後の、イエスさまを受け入れなかったベツレヘムの人の姿であり、さらにそれから2000年後の私たちの姿ではなかったでしょうか。ほんとうならインマヌエルの恵みの前に喜びおどるべきなのに、喜ぶこともせず、心が覚めてしまっている。関係ないよ、勝手にやれば? という態度になってしまっている。私たちはいつの間にか、そんな中で、ただ年中行事だからという理由で、惰性のようにクリスマスをお祝いすることで済ませてはいなかったでしょうか? イエスさまは、そんな私たちなのをすべてご存知の上で、それでもそんな私たちを赦すため、十字架にかかってくださるために、この世界に生まれてくださいました。何と大きな愛でしょうか! そして、なんともったいないことでしょうか! これほどまでに私たちは神さまに愛されています。こんな私たちと、イエスさまは一緒にいてくださいます。インマヌエルの恵みです! このクリスマス、ともに喜びましょう!

罪人の企てと神のご介入

聖書箇所;創世記11章1節~9節 メッセージ題目;罪人の企てと神のご介入 なぜ世界にはさまざまな言語があり、それを身に着けるのはとても難しいのでしょうか? 聖書はちゃんとその理由、というより、そのいきさつを語っています。それが今日のみことば、バベルの塔にまつわるできごとです。 さあ、それでは本日の本文を、いつものように3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。罪人の企ての動機は、「名をあげる」ことです。2節を見てみますと、彼らはシンアルの地に土地を見つけて住んだとあります。このシンアルの地というのは、10章に登場する「ニムロデ」という人物によりつくられた王国を含む場所です。つまり、この創世記11章のお話は、ニムロデが王国を立てたことに端を発します。 ニムロデという人物は、「主の前に力ある猟師ニムロデのように」という慣用句を生むような人物だったと創世記10章は語ります。以前の翻訳では「主のおかげで」と訳されています。しかしこの「主の前に」とか「主のおかげで」ということばは、ニムロデが謙遜に主にお従いする者であったという意味ではありません。むしろその逆で、ニムロデは神への反逆者でした。ニムロデという名前が「反逆する者」という意味を持ちます。 どのように反逆したのでしょうか? ニムロデは地上で最初の勇士であったとありますが、勇士ということは、戦争を行う人間です。ニムロデは地上で最初の勇士、というわけですから、つまりニムロデは、ノアの子孫として主にあって平和を保つべき人類の世界に戦争をはじめて持ち込んだ人間、ということになります。それほど、神のみこころに不従順で、反逆した人物、というわけです。 その、ニムロデの治めた地が、のちにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア、ユダ王国を滅ぼしたバビロンにつながっていることが、すでに創世記10章に示されているのを見ると、ニムロデとはまさしく、神さまに反逆する者の根源、権化ともいうべき存在です。しかし、かの慣用句は、そのような主への反逆により権力を得た者も、所詮は全能なる主の御力によってその力が許されているにすぎない、ということです。地上の権力者、恐れるべからずです。 さて、ニムロデの建てた町に集まった者たちは、何を話し合ったのでしょうか? 3節と4節です。 彼らは町を建てたのみならず、塔を建てました。ジッグラトという、宗教的な施設のことであろうということが、聖書学者たちの間で一致しています。これは巨大な建築物ですが、創世記におけるもうひとつの巨大建築物というと、なんといってもノアの箱舟です。しかし、ノアの箱舟とこの塔には、決定的な違いがありました。それは「神さまが命じられて建てたものか否か」ということです。神さまが建てろとおっしゃらなかったのに、人は建てたのです。その理由は、「自分たちのため、名をあげるため」であり、「全地に散らされないため」でした。 その目的は完全に、神さまへの不従順です。人は、神さまの栄光を現すために生きる存在なのに、自分たちのため、自分たちの名をあげるために取り組んでいます。それも、地に満ちよ、という、神さまのみこころに反抗して、全地に散らされず、ひとつにくっついていようとするためです。 その結果彼らがしたことは、天地万物をおつくりになり、治めておられる神さまではない宗教的な存在に届けと、偶像の神殿をつくることでした。そして、どういうわけだかそのような偶像の神殿は、壮麗、壮大になるものです。実際、煉瓦とアスファルトという新技術で立てられたその塔は、相当な威容を誇ったことでしょう。 しかし、それがどんなに素晴らしくても、目的が神への反逆であり、神ならぬ自分の栄光のためであるならば、それをみことばは、罪、と呼びます。このときシンアルの人々は、自分たちは素晴らしいことをしているつもりになっていたかもしれませんが、していたことは罪の行いそのものでした。 私たちはどうでしょうか? 何の目的で生きていますでしょうか? 私たちは何に優先順位を置いて生活していますでしょうか? 神さまは私たちの生きる目的、生き方そのものをご覧になります。私たちの働きがほんとうに主のみこころにかなうものとなっているか、どこかで立ち止まって祈りつつ、主に問いかける時間が必要です。私たちは主に愛されているかぎり、主はもし、私たちの生き方ならびに生きる目的が間違っているならば、必ず気づかせてくださり、主の栄光を現すという正しい生き方に立ち帰らせてくださいます。 第二のポイントです。神のご介入される方法は、人を罪により一致させないことです。6節と7節のみことばをお読みします。……人とは、その企てることでできないことはない存在である、と神さまは語っていらっしゃいます。人とは、かくもすごい存在です。 しかし、ここで神さまが語っておられるおことばをもう少し詳しく見てみますと、「このようなことをし始めたならば」とあります。そうです、「このようなこと」ということばがだいじになります。つまり、「天に届くような巨大なジッグラトを建てて、創造主なる神さまに反抗する」企てを人が始めたら、それをとどめることはできない、ということです。そういう目的で人が知恵と技術を結集したら、何でもできてしまう、ということです。 人間の知恵と技術というものは偉大なものに思えてきます。いみじくも神さまが、できないことは何もない、とおっしゃったとおりにすべてが進んでいることを、私たちはこの21世紀という時代に生きていて、いよいよ実感させられています。しかし、人はいったい、その知恵と技術をどこに、何のために用いようとしているのでしょうか。 この塔を建てた人々の時代から、その知恵と技術を先鋭化させて一致する試みは、すでに始まっていました。しかし神さまはそこにご介入されました。それは「ことばを混乱される」ということを通してでした。 この、シンアルの地に塔を建てていた者たちにとって、ことばとは、神さまへの反逆をともに成し遂げていくために互いをつないでいた、コミュニケーションの手段、絆ともいうべきものでした。ことばを介して塔の建て方を話し合い、ことばを介して塔を建てる目的を確認し合っていたわけです。神さまはことばなるお方です。ことばとは実に、神さまと交わりを持つための手段であり、人々が神さまにあって交わりを持つための手段です。それが、人が神さまに反逆し、そのために互いを一致させるための手段として用いられたということならば、神さまのなさることは、いまや罪の絆として用いられてしまったことばというものに、混乱という名のくさびを打ち込むことでした。 それは、神さまのさばきというよりも、神さまの愛のゆえでした。人が罪によって一致するならば、またもやノアの洪水前夜のような罪に満ちあふれた世界が展開することになることは充分予想されます。しかしもはや、神さまはそんな世界を破滅的なさばきで打つことをしないと、ノアと契約を結ばれた以上、滅ぼすわけにはいきませんでした。するとますます、人は罪にまみれ、神さまと愛の関係を結ぶことなど決してできないまま増え広がることになります。神さまが人のことばを混乱させられたのは、人が罪によって一致し、神さまに反逆したまま生きつづけることのないようにされるためでした。 罪というものは、人を一致させるすさまじい力があります。あの、振り込め詐欺を行う者たちの悪知恵とチームワークの巧妙さをご覧ください。凄まじすぎて見ているだけでうすら寒いものを感じます。それは半グレのレベルにとどまらず、私たちの生活するあらゆる領域で、そのような不正による一致、罪による一致というものを見ることができるのではないでしょうか? それでは私たちは、何をもって一致するのでしょうか? 私たちがもし、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という罪の性質で一致して教会形成をするならば、主のみからだとしてとてもふさわしくない共同体をつくってしまうことになります。それは、とても人間的に過ぎる共同体であったり、いわゆるカルトのような強迫観念に満ちた不健康な共同体であったりします。私たちが一致するのは、日々お読みするみことばによって、そして、日々私たちを祈りへと導く聖霊なる神さまによって……それによって私たちは一致する必要があります。神さまはそのように一致する私たちに、かぎりない祝福を与えてくださると信じていただきたいのです。罪による一致を捨てて、みことばと御霊による一致へと日々導かれる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、第三のポイントです。罪人の企ては、神のご介入に最終的に負けます。8節、9節をお読みしましょう。……そうです。人は、罪により一致し、その場で創造主なる神さまに反逆しつづける罪の生活をすることを希望しましたが、神さまはそんな彼らのことを散らされました。 これにより神さまのみこころである、生めよ、増えよ、地に満ちよ、というご命令は達成されることとなりました。このご介入によって、人は全地に散るものとなり、そこで子どもを産んで増えるからです。しかし、神さまのご介入は、それ以上の効果をもたらしました。それは、罪によって一致しようとする人の企てが壊されたことです。 神さまはこのお取り扱いをなさるために、人のことばを混乱させられました。では、ことばとは何でしょうか。人と人とをつなぐコミュニケーションの道具です。ことばが通じなければ、人はどんなに一致してことを行おうとしても、できません。それ以前に、ことばの通じない者と何か一緒に事を行おうと思うものでしょうか。こうして人は、もはやバベルの塔を一緒に建てようと考えるのをやめ、ことばの通じる者どうしで集まり、全地に散って行ったのでした。 このことからわかるのは、神さまに反抗しようとして一致する人の企ては、最終的には神さまのご介入によって壊される、ということです。 この世界には、聖書に啓示された神さまのみこころを壊そうとする試みが、たくさん存在します。技術革新は日々なされていて、それはとても素晴らしいことのように思えますが、それが神さまのご栄光を現すという目的でなくてなされているとしたらどうでしょうか。 私たちはそういう世界に生きている現実を認める必要がありますが、とはいいましても、私たちはそのような環境に生きていることを、過度におっかながる必要はありません。なぜならば、大多数の人を一致させているそれらの反キリスト的な企ても、まことの神さまの御手にかかればあっけなく崩れ去るものであるからです。 終わりの日になると、私たちはキリストの名のゆえに苦しむことも、今まで以上に多くなるでしょう。しかし彼ら反キリストは、からだを殺せても、たましいを殺すことのできない存在にすぎません。 私たちキリストにつく者は、彼らを恐れてはなりませんし、また恐れる必要もありません。主は、からだもたましいもゲヘナで滅ぼすことのできるお方です。彼ら反キリストが、この世界に対して悪のかぎりを尽くし、好き勝手なことをしようとも、最終的には神さまが彼らのからだもたましいもゲヘナで滅ぼしてしまわれます。恐れるべきは、そしてお従いするべきは、この絶対的な権威を持っていらっしゃるお方、神さまです。 新聞やニュースでは、世界や日本の残酷な現実、また、何が起こるかよくわからない現実を毎日見せつけられます。それは私たちをとても不安にさせるでしょう。しかし、私たちは不安なままでいなくてよいのです。大波の上を歩かせてくださるイエスさまを見つめて近づくならば、私たちは安全です。人の企ても、この世のありとあらゆる環境も、永遠なる神さまの前にはすべて有限、限りあるものです。 私たちがそれでも何か、言いようもない恐れに取りつかれているならば、イエスさまを見つめましょう。イエスさまはこの罪の世界から私たちを救い出し、神さまのものとしてくださいました。それゆえにイエスさまは私たちひとりひとりに、「恐れるな」と言ってくださいました。イエスさまの御声を聞きましょう。この世のあらゆる企て、罪人の企ては、永遠なる神さまのご計画の前には完全に負けます。今私たちはディボーションで、ヨハネの黙示録を毎日読んでいますが、これは人の終末意識をあおって恐怖に陥れる書物ではなく、神さまの完全な勝利を高らかに宣言した書物です。神さまの勝利、キリストの勝利は、私たちのものです。確信を持って歩み出し、日々の歩みにおいて、絶対的な勝利を体験しましょう。

神の子となる特権

聖書箇所;ヨハネの福音書1章9~13節 メッセージ題目;神の子となる特権 聖書では、光とはイエスさまのことを指し、また、イエスさまという光をこの闇の世に照り輝かせる私たちのことを指しています。この「光」をめぐって、三者三様の立場がこのみことばに登場します。順を追って見てみましょう。   一番目に、光を照らすお方、イエスさまです。9節のみことばをお読みします。……世を照らすことは、主のみこころでした。この世はいつも、人の思い図ることは悪に傾きます。それは、人が罪人だからです。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。  このような世界は、それこそノアの時代の洪水のような全地球規模の災害により、何度滅ぼされたとしても当然でした。しかし神さまは、ノアと結ばれた契約ゆえに、この地をそのような破滅にあわせることをなさらないと約束されました。その代わりにしてくださったこと、それは、ひとり子イエスさまという光によってこの地を照らしてくださることでした。   イエスさまは、すべての人を照らすまことの光であると聖書は語ります。イエスさまという光によって、この世界の暗やみに閉ざされていた人々は照らされ、まことのいのちの道を歩みます。  そのように、神さまが人々をイエスさまという光で照らされるのは、この世界が暗やみのままであってはいけない、というみこころゆえでした。考えてみましょう。私たちの子どもたちが、光を避け、暗やみの中に生きることを、果たして私たちは望むでしょうか? 神さまのみこころも同じことです。光をつくられた主は、ご自身が愛をもってつくられた人間たちが、イエスさまという光のうちを歩むことを願っていらっしゃいます。 人は神のかたちにつくられているので、神さまのみこころどおり、この世をよくしていきたい本能が与えられている。その現れとして、医学においても産業においても哲学においても、優秀な指導者が現れ、この世が決定的に悪くなるのを防いできた、とも。それでも人の努力で世の中をよくしていくには限界があります。 といいますのも、やはり人の心の思うことは、はじめから悪であるとおり、人の力ではこの世をよくしていくには限界があるからです。神さまはそのような世を憐れんで、まことの光であられるイエスさまを送ってくださり、この世を明るく照らすというみこころを示されたのでした。 しかし、このように世界をイエスさまという光によって照らしてくださった神さまのみこころを、人はどのように受け取ったのでしょうか? 二番目に、光を拒んだ存在、世について見てみましょう。まず、10節を見てみましょう。……そうです。この世は、イエスさまという光を知らなかったとあります。   知らなかったのはなぜでしょうか? イエスさまではないものを、光と見なして生きていたからです。といいますよりも、そういうイエスさま以外のものを光と見なして生きる方が、彼らには都合がよかったからです。イエスさまの時代の宗教指導者たちをご覧ください。あれだけ聖書に通じていたはずの人々が、いざ神の御子イエスさまを前にしても、そのお方がまことの光であることがわからなかったのです。彼らは頑なになり、民衆がイエスさまのことを救い主と言おうとも、このお方が神の子であることを、頑として認めませんでした。   彼らにとって光とは、自分たちの教え、言い伝えであって、それらの物は一見するととても神がかっていて、有難い教えのように思えます。しかし実際のところは、人を立て上げるどころか、人を罪に閉じ込め、落ち込ませる教えです。それでも、その教えの中に民衆を閉じ込めておくかぎり、宗教指導者たちは安全です。イエスさまはそんな彼らのことを偽善者と呼ばれ、天国の鍵を持ち去ったと激しく非難されました。   そのようにしてイエスさまがわからなかったということは、どのような結果を生んだのでしょうか? 11節です。イエスさまはユダヤに来られました。神さまを王とすることに誇りを持った国、神の民であることに誇りを持った民のところです。しかし彼らはそのアイデンティティに反して、結局のところ、神の子なるイエスさまを受け入れなかったのでした。彼らは、一時(いっとき)はイエスさまを救い主と受け入れたように見えましたが、彼らのしたことは、声を合わせてイエスさまを十字架につけるようにと訴えたことでした。彼ら群衆こそがイエスさまを十字架につけたようなものです。 民がイエスさまという光を受け入れない、それはまさに、イエスさまを十字架につけて亡き者にしたほど拒絶したということです。しかし、このようにイエスさまを拒絶するということは、その時代にかぎったことではありません。イエスさまの時代以来2000年にわたって行われてきた宣教のわざにおいて、いったいどれほどの人が、イエスさまを拒絶してきたことでしょうか? しかし、世の勢力が支配しているかぎり、イエスさまという光に照らされることを人々が嫌がるのは当然のことなのです。  いえ、過去や現代だけのことでしょうか? 未来においてもそうなのです。今私たちは、毎日のディボーションのみことばで、ヨハネの黙示録を通読しています。ヨハネの黙示録は、第一義的には迫りくるローマ帝国の滅亡を預言した書物ですが、巨視的に見れば、これが私たちの生きるこの世界の終わりを預言した書物であることを疑うクリスチャンはいないでしょう。このヨハネの黙示録を見ると、どれほどの災害に合おうとも人々が決して悔い改めない、その頑なな様子がこれでもかと描写されています。全知全能なる神さまが未来を見通されたレベルにしてそうなのです。私たちはそれでも世の終わりのリバイバルを願いつつ宣教に励むものですが、世界は最後までイエスさまを拒絶する者たちで満ちることもまた、私たちは受け入れる必要があります。   しかし、それなら私たちは絶望したままでいなければならないのでしょうか? 決してそうではありません。三番目、光を受け入れた存在、私たちについても、聖書は語っています。12節をお読みしましょう。……ご覧ください!「神の子どもとなる特権」です! 全知全能なる神さまを「お父さん」と呼べること、それはどれほどの特権でしょうか!  そして、天のお父さんのものは、みな私のもの、ということにもなります。すごいことです。私たちは、天の御国の王子、王女であり、やがてイエスさまとともに御国を継ぐ者です。   しかし、この御国の世継ぎはだれでもなれるものではありません。この方、つまりイエスさまを受け入れた人、すなわちその名を信じた人、その人が神の子どもにしていただけるのです。   イエスさまを受け入れるということは、イエスさまが神の子であるとか、人の罪のために十字架にかかったとか、そういうことを単なる情報、インフォメーションとして知っていればいいのではありません。「私」が罪人であることを認め、「私の罪」のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れるのでなければ、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れたことにはならないのです。  しかし、人がひとたびイエスさまを受け入れるならば、その人は神の子どもになります。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されるのです。永遠のいのちが与えられ、天国に入れられます。それだけではなく、この地上の生涯を、神の栄光を現して生きようという、何よりも素晴らしい目的が与えられます。  信じるということは、何か難しいことをすることではありません。それこそ、ただ信じることです。しかし、このただ信じることはなんと難しいことでしょうか。私たちはこうして信じることができましたが、それが素晴らしいからと人々に伝道しようとすると、私たちはどんなに、この特権を得られることがやさしいことをいっしょうけんめい伝えたとしても、聞いてもらえないことなどしょっちゅうです。  その秘密は、13節で語られています。……信仰を持たせてくださる、すなわち救いに導いてくださるということは、完全に神さまのご主権の領域です。もし、救いというものが血筋によって得られる者だとするならば、その血筋に生まれた人と生まれなかった人との間に、人間的な差別をもうけてよいということになってしまいます。また、単なる欲望や意志によっても信仰を持つことはできないことをこのみことばは語ります。ただ、神によって、神さまの恵みによって人は信仰を持ち、神の子どもとしていただくのです。  そういうところから、私たちは個人的な回心の体験というものがどうしても必要になります。私たちはみな、聖霊なる神さまによって、イエスさまの十字架を信じる信仰に導いていただいた存在です。私たちはほんとうの意味で家族です。私たちはこの地上においても、天国においても、永遠に変わることのない家族です。 私たちはこの地上を生きるかぎり、神さまを父とする家族としての役割を果たしてまいりたいものです。また、その家族の一員としての生き方を、隣人を愛するという生き方をもって全うしてまいりたいものです。学校でも、職場でも、近所づきあいにおいても、私たちが神の家族、神さまの子どもらしく振る舞うならば、いつしかその愛は隣人に伝わっていきます。その中から、主に召された人は特別な恵みを受けて、イエスさまを信じ受け入れて神の家族に加えられます。  私たちは祈ってまいりましょう。私たちが隣人を愛する人になれますように、また、その隣人とともに、同じキリストのからだなる教会を形づくるビジョンを思い描けますように。主がこのお祈りを聞いてくださると、信じて祈ってまいりたいものです。  イエスさまは、この世を照らす光として来られました。しかし、人はその光を拒みました。罪人ゆえに、その行いが悪く、イエスさまに照らされたくなかったのです。私たちもそのうちのひとりではなかったでしょうか? しかし、私たちはあわれみをいただいて、イエスさまを信じ受け入れる信仰を聖霊なる神さまに与えていただき、天の神さまを父と呼ばせていただく立場、神の子どもとならせていただきました。ほんとうにもったいないことですが、この貴い立場にしていただいたことにただひたすらに感謝し、この一週間も、そして生涯、神の子どもらしく、光の子どもらしく、ともに歩んでまいりましょう。