現代のティキコ、それは私たち

聖書箇所;エペソ人への手紙6章21~24節 メッセージ題目;現代のティキコ、それは私たち  暑い夏にぴったりのみことばを、ひとつご紹介します。箴言25章13節のみことばです。……言うべきことを忠実に伝言してくれる人がもしいるならば、それはその人にとってとてもすばらしいことです。    私たちにもそんな人がいるといいですね。パウロにはいました。それが、今日学びます、ティキコという人です。このティキコという人は、それこそ、夏の雪のようにすごい役割を果たしたわけです。夏に行きが味わえるということは、ただ爽快というだけではありません。ありえないようなことです。この、ありえないような恵みをもたらしたティキコについて、そして、このティキコの人となりから学べることを、これから見てまいりたいと思います。    第一に、ティキコはパウロと初代教会をつなぐ人となりました。  ティキコは脇役です。黒子です。しかし、私たちにみことばの教えが届くうえで、大きな役割を果たした人です。21節をご覧ください。……パウロはティキコのことを、主にある忠実な奉仕者であると、わざわざエペソ教会に向けて紹介しています。このティキコがエペソ教会にとって大事な存在であるパウロのことを伝えるということは、それは同時に、このエペソ人への手紙という書簡を言づけされていたことを推測させます。同じようにパウロが書簡の巻末でティキコのことに言及しているものには、コロサイ人への手紙、テトスへの手紙、テモテへの手紙の第二があります。   獄中のパウロが万感の思いをこめて書いた手紙を、パウロの指導してきた教会や弟子に届ける、それは、よほど信頼されていなければできないことです。パウロは獄中という限られた空間の中においても、ティキコがその任を全うできると見抜き、彼にすべてを任せたのでした。その結果、私たちはいまこうして、聖書を手にすることができているわけです。   パウロにしても、獄中ではなくて自由の身であったならば、それだけ人々にみことばを伝えて回り、より効果的に教会や指導者を訓練できたかもしれません。しかし、パウロは福音の正しさを立証する道を歩み続けた結果、こうして獄につながれることになったわけです。こうしてつながれることは、パウロにとっては避けられない道でした。   しかし、パウロは獄につながれようとも、愛をもって育てた教会や指導者を養育する道が残されているかぎり、最善を尽くしました。そのパウロのことばが届くために働いた無名の人、それがティキコでした。   ティキコのしたことは一見すると、パウロのしたことに比べるととても地味なもののように思えるかもしれません。しかし、彼のしたことは、パウロの手紙を忠実に、教会や指導者に送り届けたということです。   パウロの書簡の巻末の部分を見てみると、だれだこれは? というような名前が結構登場します。たとえばローマ書を見てみると、すごいです。プリスカとアキラは使途の働きとか、ほかの箇所に出てきたからまだ知っているとして、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロディオン、ナルキソ、トリファイナ、トリフォサ……。   まだまだ続く、ここ以外には出てこない名前が、これでもか、これでもか、と書かれています。しかし、こういう信徒たちがローマ教会を支え、それがこのローマ人への手紙を書く原動力になったと考えるならば、彼ら無名の信徒たちの存在は、実は私たちと関係があることになります。私たちがみことばによって生かされるというとき、その背後にはこのような無名の信徒たちがいたことを、私たちは忘れてしまうそうになりますが、彼らの存在は使徒パウロにとって、かけがえのないものでした。   私たちは、無名であっていいのです。要は、主に用いられるかどうかです。新約聖書、コリント人への手紙4章、1節と2節をお読みください。……パウロは、初代教会の指導者のチームを指して、「神の奥義の管理者」と言っています。その管理者になる資格は「忠実であることと」というわけです。そういう点では、諸教会や指導者に手紙を届けたティキコも立派な初代教会指導者チームの一員であり、パウロが「忠実」と太鼓判を押すだけのことはあるわけです。   有名じゃない、黒子のようだった、しかし忠実だった、そういう人によって、こんにち私たちが手にしているように、神のみことばである聖書を読めていることを、私たちは深く心に留め、そのような人を備えてくださった神さまに感謝をおささげしたいものです。    第二のポイントにまいります。ティキコは現代の働き人のモデルです。 ティキコは、パウロの様子を伝えただけではありません。23節、24節をご覧ください。……この祈りをもって締めくくられるエペソ人への手紙を、過不足なくエペソ教会に届けたことにありました。   ほんとうの働き人は、ほかでもない、みことばをこそ届ける人です。私たちの信仰生活は、たとえ有名ではなかったとしても、忠実にみことばをもって神と人とに仕える、多くの人の支えによって成り立ってきました。中には、名前さえ挙げられない人もいるかもしれません。しかし、そういう日本中、世界中の、あらゆる歴史に存在した有名無名の聖徒たちによって、私たちは支えられてきました。    私たちにもだれか手本になる人がいると思います。それは有名人である必要はありません。要は、私たちにとってのティキコがだれなのかを思い、その人との交わりの中で神さまに育てられることが必要です。   私たちにもだれかそのように、信仰を保つように祈ってくれた人、働きかけてくれた人がいるのではないでしょうか。ちょっと思い巡らしてみましょう。それはだれでしょうか? 有名な牧師のような実力者でなくてもいいのです。無名であっても信仰を支えてくれた、そのような方の存在はどんなにありがたいでしょうか。そういう方々に支えられてキリスト教会は成り立ち、私たちは成長するのです。このような方々を備えてくださった神さまに感謝いたしましょう。    第三のポイントです。ティキコは私たちのモデルです。 このエペソ人への手紙は、「恵みがありますように」ということばで締めくくられています。そうです、だいじなのは恵みです。私たちが救われ、神の子どもとなっていることは、ひとえに神さまの恵みによるものです。私たちが何かいい人であったり、努力をしたりしたからではありません。   エペソ人への手紙の中から、一箇所、だいじなみことばを抜き出すとしたら、どこになるでしょうか。それはおそらく、2章の8節と9節です。お読みしましょう。……これこそがクリスチャンです。恵みのゆえに、信仰によって。神からの賜物。賜物とは、プレゼントです。   私は一時期、トランプをたくさん持っていました。教会の子どもお楽しみ会などでかなり分けましたが、それでも手もとにはまだいくつか残っています。なんでこんなにたくさんトランプがあるのでしょうか? それは、トランプのコレクションが趣味の友人からもらったからです。   このあいだ、山中先生がこちらにいらっしゃったとき、私は山中先生と一緒にその友達に会い、伝道しました。そのとき、恵みということを説明するとき、私はこんなことを言いました。もし君がくれたトランプの値段をいちいち僕が計算して、じゃあ、これだけ払うよ、と、財布からお金を取り出したらどう思うかい。彼は、そんなのはいやだ、と、はっきり言いました。プレゼントにお金で応えてはならないのです。同じことは、救いというものにも言えることで、何かの努力の報酬として救われるのではありません。人は罪人ですから、罪がある以上、何をどうしても聖い神さまのもとには行けません。   神さまは人を愛しているから、さばきたくない。しかし、人には罪がある以上、きよい神さまは罪をさばかなければならない。その神の愛と神の正義を同時に実現したものが、イエスさまの十字架でありました。   このイエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちは救いを受け、天国に入れていただけるのです。このプレゼントは、ただ受け取るだけでいいのです。何の努力もいりません。   このような恵みを受け取った者として、その恵みがあるように人のために祈る、また、その恵みのみことばを人に伝える、その働きを担うことは、難しいことではありません。私たちはだれかを愛しているならば、その人に主を信じる恵みがあるように祈るのではないでしょうか? その人が恵みのみことばを受け取れるように、努力できるようになるのではないでしょうか?   私も、講壇から語るメッセージが、難しくなりすぎないようにしなければ、と思います。予告しますが、9月からは創世記を1章から学びます。メッセージの仕方ももっとわかりやすくする取り組みもしていくつもりです。私は有名な牧師などではありませんが、ティキコのように、無名だけれども忠実、これを目指していきたいのです。   みなさんにも励んでいただきたいのです。この水戸第一聖書バプテスト教会という、キリストのからだなる教会を建て上げるために、神さまと人の前に、まず忠実であることを目指していただきたいのです。そのように忠実であるならば、第一コリント4章のみことばのように、神さまは私たちに、みことばの奥義を管理する働き、すなわち、みことばを学び、その学んだことを人々にふさわしく宣べ伝える働きを委ねてくださいます。忠実であることを目指してまいりましょう。   私たちがティキコのようであるために、ティキコのようになるために、しばらく祈りましょう。神さまがティキコの存在を通してこの恵みのみことばをこの地に残してくださったこと、私たちにもティキコのような信仰の先輩、信仰の友を備えてくださり、私たちの信仰を成長させてくださったこと、私たちもまたティキコのようになれるように、忠実さを増し加えてくださいますように、しばらく祈りましょう。

代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り

聖書箇所;エペソ人への手紙6:10~20 メッセージ題目;代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り だれかが自分のために祈ってくれている。その嬉しさは、私たちならばだれでも感じることではないでしょうか。本日は、昨年のメッセージの復習になりますが、あらためまして、「神の武具」について学び、その前提で、「とりなしの祈り」というものについて学んでまいりたいと思います。 まずは本日のみことばの、10節のみことばをお読みしましょう。……私たちが主によって「強められる」こと、これは「強められなさい」とあるとおり、命令です。しかし、この命令は、自分の力で「強めなさい」と言っていないことがわかります。「強められなさい」なのです。 私たちはなぜ強められる必要があるのでしょうか? そのことが11節、12節で説明されています。お読みします。……ここから分かることは、私たちの戦いが、血肉、つまり、人間を相手にする戦いではない、ということです。そして、悪魔の策略とは何でしょうか? それは教会を無力にすることです。 なにしろ教会というものは、キリストのからだであるわけです。悪魔はイエスさまを十字架につけ、神の国とそれに属するすべての民もろとも滅ぼそうとしました。しかし、イエスさまは復活されました! 悪魔と悪霊どもはもはや、頭が踏み砕かれた蛇も同然になりました。 しかし、敵もさるものです。どっこい、頭が踏み砕かれても、まだ完全に死んだわけではありません。教会に影響を及ぼすだけの力は残っています。よくも、俺様の頭を踏み砕いてくれたな……復讐心に燃えた悪魔は、それ以来2000年にわたって、キリストのからだなる教会を弱体化させるためには、どんな方法でも用いてきました。 教会を悪魔の攻撃から守るためには、霊的リーダーのためにも、あらゆる信徒のためにも、そして自分のためにも祈る必要があります。それが霊的戦いです。とりなしの祈りとは即、悪魔と悪霊を相手にした霊的戦いです。 キリストのからだなる教会は、私たち一人ひとりが形づくっています。ということは、悪魔と悪霊の攻撃は、ほかならぬ、私たち一人ひとりに及ぶことになります。だからこそ私たちは、お互いのことについて具体的に関心を持ち、お互いのために祈る必要があるわけです。また、自分のお祈りの課題を、教会というこの共同体の中で分かち合い、祈ってもらう謙遜さも必要になります。 では、私たちはどのようにして悪魔や悪霊と戦うのでしょうか? 悪魔が何者かを知るのと同時に、私たちがどういう者にされているかを知って、戦いに出て行くのです。 13節をお読みください。……「邪悪な日」、と書いてあります。「邪悪な日」とは、私たちのいま生きているこの時代といえないでしょうか? 神さまはしかし、そんな時代に生きる私たちに、はっきりと使命を与えておられます。そのために私たちは、「神の武具」を身につけます。武具も身につけないで戦うならば、それは死ぬことを意味します。 武具は6つ出てまいります。ともに学び、しっかり武装しましょう。 ①まず14節です。「腰には真理の帯を締め」……帯、要するに「ベルト」です。ベルトをびしっと締めるならば、それだけ装備全体がきっちり身につきます。真理とはつまり、神さまのみことばは真理である、ということですが、このみことばの真理を身につけるならば、それが神の武具という装備全体を引き締める役割をする、ということです。 私たちを引き締めるものは、みことばの真理です。そうでないならば、あっという間に不安に落ち込みます。そこを悪魔は容赦なく狙うのです。私たちが聖書を学ぶ理由は何でしょうか? それは私たちが、まことの真理なるイエスさまを心にお迎えしている者にふさわしく、その真理を身に着け、真理の道を生きるためです。真理がしっかり身についているならば、どんな脅かしがあっても私たちは簡単には揺れ動きません。不安に陥ることもありません。 だからまず何よりも生きる基礎として、私たちは真理を身につけるのです。そのためにみことばをつねに読むのです。 ②次に、「胸には正義の胸当てを着け」……胸当ては、心臓や肺のように、いのちを司る臓器を守ります。ですから、正義がいのちを守るのです。 私たちにとっての正義は、神さまご自身であり、正義の基準は、神さまのみことばです。よく、私たちは「神は愛」と申します。しかしそれは単なる甘やかしとは、根本的に異なるものです。この神さまの愛には、いっさい譲ることのできない神さまの正義、悪を悪として徹底的にさばかれる神さまの正義の裏付けが、厳然として存在します。 その、正義の裏付けに満ちた愛の究極の形、それはイエスさまの十字架です。神さまにそむく罪を犯すことを選んだ人間は、死をもってさばかれることを選んだも同然でした。そうならないと、神さまはもはや、正義ではありえません。しかし神さまは、その罪の罰を、ひとり子イエスさまに負わせられました。イエスさまのあの十字架……ほんとうは私たちこそ、あのようにむごたらしく死んで、神さまに見捨てられて地獄に墜ちるべきだったのです。しかし、その罰をあえて御子イエスさまに負わせられることで神さまは正義を果たされ、私たちを滅びから免れさせて、愛を果たされました。 この愛に裏打ちされた正義こそ、私たちのいのちを守るものです。私たちも心の中にイエスさまをお迎えしている限り、そのように、いのちを捨てていのちを生かす、正義の人になれます。私たちにその力がなくても、神さまが恵みによって、私たちをそのような正義の人に変えてくださいます。これは、素晴らしい祝福の生き方です。 ③次に15節にまいります。「足には平和の福音の備えを履きなさい。」 戦場の土地は、さまざまな姿を見せます。それは岩地であるかもしれませんし、砂地であるかもしれません。草が生い茂っているかもしれません。 低い木々が生えているかもしれません。ぬかるみかもしれません。そのように、どんな場所であるか予測もつかない場所を縦横無尽に駆けるには、きちんと足にフィットし、なお丈夫な靴を履く必要があります。そうすれば、どんな攻撃にも対応でき、どんな攻撃も積極的に仕掛けることができます。戦場の環境によって無意味に傷つくこともありません。 その履物とは、「平和の福音の備え」であるとみことばは語ります。世の中には「福音」ということばがあふれていますが、私たちにとっての福音とはそもそも、イエスさまの十字架によって私たちは神さまと和解させられた、十字架を信じさえすれば私たちは救われて神の子どもとなり、永遠のいのちをいただく。 それには何の努力もいらない! これぞ福音です。平和の君イエスさまによって、神さまと平和を得ることができる……しかし、この福音、よき知らせを告げることには、「準備」がそれなりに必要になります。 私たちはいつでも、人にきちんと福音が語れるように、自分自身を訓練する必要があります。準備をするのです。福音の語り方を練習するだけではありません。私たちはだれに福音を語るのか、そのためにはその人とどんなコミュニケーションをあらかじめ取る必要があるのか、しっかり考える必要があります。ここにも「準備」が必要です。 履物をしっかりはいて戦場に行き、動き回って、福音を必要とする人々のたましいを悪魔の手から奪還する……これぞ霊的戦いであり、非常に奥深く、わくわくするものです。 しかし、私たちはその戦いに実際に出て行くには、それなりのクールな準備をする必要があるわけです。いざ伝道するにあたって、自分の態度やコミュニケーションの取り方には、もしかしたら問題がないか、相手とはどのように会話したら最も心を開かせられるか……また、相手に語る内容にしても、さまざまな側面を持つ福音の中でも、どの要素から順に語ったらよいか、あらゆる準備を普段からしておくことです。そのようにして、縦横無尽に福音を伝えるにふさわしい備えをするのです。 ④では、つづいて16節にまいります。「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」……これらすべての上に……つまり、真理と正義、平和の備えによって武装したうえで、信仰を働かせなさい、と語っています。 真理が自分自身を律すること、正義がいのちを守るもの、福音宣教の準備が実際の霊的戦いの備えだとすれば、信仰とは、悪い者の放つ火の矢、つまり悪魔と悪霊の具体的かつ激しい攻撃を見極め、それに合わせて用いるものである、ということがわかります。 矢は鋭くとがっており、これが刺さっただけでも相当なダメージを受け、当たりどころが悪かったらいのちにかかわります。それに火がついていたら、めらめら燃えた状態で刺さるのだから、ただの矢とは比べ物にならないほど、ダメージは大きくなります。火の特徴は、燃え広がる、ダメージを果てしなく大きくする、という点にあります。 この、悪魔の「2段階攻撃」を防ぐもの……それが「信仰」という名の「盾」であります。盾はもちろん、手で持つわけですから、火の矢が飛んで来る方向を見極めて、その方向に向けて盾を差し出せば、火の矢はからだに刺さらず、落とすことができます。悪魔は四方八方から、火の矢を放ってきます。しかし、悪魔の存在と策略が意識できていれば、悪魔と悪霊どもは私たち教会に向けて、いかなる攻撃を具体的に仕掛けてくるか、見抜けるようになります。そのように、敵の攻撃がいかに及ぶかを見極め、その攻撃を防ぐことを可能にするのが、信仰です。勝利のイエスさまがともにおられるという信仰、これこそが、私たちを悪魔のどんな攻撃に対しても勝たせる力です。 ⑤ では17節、「救いのかぶとをかぶり」、かぶととは何でしょうか? 私たちの頭を保護するものです。 旨と同じように、この「頭」というところも、攻撃されれば確実にいのちにかかわります。不測の攻撃を防ぐために、かぶとはいつも頭にかぶって戦う必要があります。 また、古代の戦争は馬に乗って戦うことも多くありましたが、落馬して頭でも打ったら、それこそいのちがありません。兜はそういう点で、頭を守る「ヘルメット」の役割も果たしています。以上のことから言えることは、兜とは、「いのちを守る物」であると言えます。 また、かぶとが覆っている頭とは、人を代表するものです。人は頭にかぶとをかぶれば、すぐにはそれがだれかということは見分けがつきません。かぶととは、その人の人格の象徴である顔を隠すものです。 言い換えるならば、人のいのちを守るにはその人の人格が隠れている必要がある、それを可能にするのが、救いである、というわけです。 私たちのすることは「自分ではなくキリストを現して生きること」、これではないでしょうか? キリストの救いが、私たちの顔、つまりいのち、全人格を覆うのです。そのように、キリストを現して生きることこそ、救いの兜をかぶって霊的戦いに臨む姿勢です。このような私たちにはもはや、悪魔の付け入るすきはありません。 ⑥そして、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」剣は「攻撃」のために用いる武器です。今まで見てきた5つの武具はすべて防御のためのものです。しかし、私たちは攻撃をしない限り、悪魔に勝利することはできません。そのために剣を用いるわけですが、このみことばではその「剣」とは、聖書のみことばであると語っています。 マタイの福音書4章で、イエスさまが公生涯に出て行かれる前、荒れ野で悪魔の試みをお受けになったとき、悪魔のささやきを何によって退けましたか? そう、「みことば」です。しかし、この場面にはミソがあります。悪魔を退けるたびに、イエスさまはみことばを引用しながら、「……と書いてある」と、いちいちお語りになったのです。イエスさまがこのようにみことばを引用して語られたのは、それが私たちクリスチャン、そして教会にとって、正しい悪魔への攻撃の方法であることをお示しになったからでした。 以上、霊的戦いにおける「武具」について見てまいりましたが、その「霊的戦い」において、私たちが何よりもすべきこと、それは「祈り」です。 この「祈り」の中身も、このみことばから見ますと、大きく分けて「聖徒のための祈りの勧め」と「著者パウロのための祈りの要請」に分けられます。 私たちはだれのために祈るのでしょうか? 「聖徒」のためです。みことばは私たち教会のひとりひとりのことを、「聖徒」と呼んでいます。「聖なる者」なのです。なぜならば私たちは、イエスさまの十字架を信じ受け入れたゆえ、すべての罪が赦され、神の子どもとなり、天国に入れられたからです。 しかし、私たちはこうして「聖徒」と呼ばれてはいても、依然として罪を犯すことがやめられません。いえ、罪深い考えそのものをやめることが、できないでいるのです。そのようなひどい罪人であるのは、どうしようもない事実です。しかし、そんな私たちであっても、私たちクリスチャンはお互いのことを、何を基準に見るべきでしょうか? 私たちが互いを見る基準は、人のことを「聖徒」としてくださった神さまです。だからこそ私たちにとって、互いのために祈ることに意味が出てくるのです。その人を「聖徒」としてくださった神さまのために、その人のことを神さまが用いてくださるように……そのように祈ってこそ、私たちのお祈りは、みこころにかなうものとなるわけです。 そればかりか、「すべての聖徒」のために祈れ、とあります。教会という、この共同体のひとりひとりのために祈ることが基本になります。しかし、自分たちの共同体の外にも、主の民、神の家族は存在しているわけです。 そして「どんなときにも……目を覚まして……忍耐の限りを尽くして」……率直にお聞きします。こんな風に祈れますか? 「どんなときにも」ですよ? それも「目を覚まして」ですよ? しかも「忍耐の限りを尽くして」ですよ? 発想を変えましょう。一人でお祈りを引き受けようと思うからいけないのです。大勢のチームを編成して、たくさんのお祈りの時間を積み重ねると考えてはいかがでしょうか。そうすると、祈りの時間はあっという間に積み上がります。 それなら私たちは、何をどうやって祈ればいいでしょうか? 具体的にあれこれ考える前に、聖霊なる神さまの助けによってお祈りする、そこからはじめていただきたいのです。そうすればみなさんは、何を祈るのがみこころかを教えていただけて、確信をもってお祈りできるはずです。 みなさんはもちろん、この礼拝に対しては、一定の重荷をお持ちのことだと思います。 しかし、だからといって、祈りの課題を羅列した「リスト」のようなものを手渡されても、それを見ながら毎日、本腰を入れてお祈りするのは少し厳しくはないでしょうか。もっと率直に言えば、退屈ではないでしょうか。厳しいと思ったり、あるいは退屈だと思ったりするのは、理由があります。それは、「聖霊に助けられて」祈っている確信がないからです。聖霊の助けをいただかないでその「祈りのリスト」を眺めていたって、たましいの通(かよ)ったお祈りなどできるはずもありません。 聖霊に導かれる祈り、神によって聖なる者とされたお互いのための祈り、それを「絶えず目を覚まして根気よく」祈りつづけるには、私たちが1つのキリストのからだであることをしっかり受け止めていること、これがどうしても必要です。私たちはキリストの1つのからだですか? そう思えなくても、みことばがそう言っています。水戸第一聖書バプテスト教会という、この共同体のために重荷を持って祈る私たちとなりますように、そのために、日々聖霊なる神さまの助けをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 そして、聖徒を導く教職者のための祈りについて学びます。 言うまでもなく、この「エペソ人への手紙」は、新約聖書を代表する大使徒、パウロが書いたものです。しかし、このエペソ人への手紙を書いたとき、パウロは獄中に幽閉されていました。その足で移動して、福音を伝えて回ることなどできません。あの、女神アルテミスの神殿の門前町、エペソに立てられた教会のことは、パウロとしては気がかりでならなかったでしょう。偶像礼拝をしなければ生きていけないような文化において、壮絶な戦いを体験しているエペソの聖徒たち……彼らへの万感の思いを込めて、このエペソ書は書かれたわけです。 しかし、パウロは彼らに対して、ただ守ってあげるだけの存在として、上から見下ろすようにして接していたわけではありません。いかにエペソ教会が、異教社会にあって立場の弱い群れであったとしても、彼らには自分のためのお祈りを頼んでかまわない……あなたたちは同労者なのです、仲間なのです……なぜならば、彼らもやはり、聖徒、神の民、キリストの同じからだなのだから……。 そのことを前提にして、本文を見てまいりましょう。19節です……。パウロはどんなことを祈ってほしいと頼んでいますか? まず、「語るべきことばが与えられて」、そのようにして「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」です。…

従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように

聖書箇所;エペソ人への手紙6:5~9 メッセージ題目;従順と支配の相似形――人にではなく主に仕えるように    本日のメッセージのタイトルは、「従順と支配の相似形」とつけさせていただきました。  「従順」というと、韓国から日本に来られる宣教師の方が好んでお用いになることばです。この「従順」ということばは、「従順な」という表現があるように、形容詞ですが、韓国の先生は、「従順する」と、動詞形で表現される方が多くいらっしゃいます。それはもちろん、神さまに対する従順であるわけですが、時にそれは、神さまが立てた権威ということで、牧会者のようなリーダーに対する絶対服従という意味合いが込められたりします。  「支配」はどうでしょうか? ワーシップソングに、「われらは歌う あなたの偉大なみわざを 天はその御手の中 治められて 支配されています」という歌詞の歌があります。しかし、この「支配」ということばの持つイメージは、プロ野球の「支配下選手登録」だったり、ホテルの「支配人」だったり、上から絶対的な権威を行使する存在という感じではないでしょうか。 私などは、この「従順」ですとか、「支配」ということばを聞いたり、口にしたりすると、何といいますか、居心地の悪さを感じてしまいます。「いいか、黒いカラスでも、私が白といったら白だ!」というような、不条理な従順と支配、といったようなものです。それは私が、不幸にも、この教会に導かれるまでの道のりで、あまり健全ではない主従関係を体験したことが、いまに至るまで人生に若干暗い影を落としているせいかもしれません。  もしかするとみなさんは、そこまでの不幸な体験をせず、つねに健全な人間関係の中で、従順と支配というものを体験してこられたかもしれません。しかし、そのようなみなさんにも、今日の本文から考えていただきたいのです。私たちは、神さまがこの地上に住む人間にとって、上に立たれるお方であることを認めるとき、どうしてもこの地上における従順と支配というものの相似形としての、自分と神さまとの関係ということを考えずにはいられないはずです。 私もまた、以前体験した不幸な主従関係は、神さまと自分との健全であるべき関係にも、確実に暗い影を落としたと思います。それゆえに、神さまとの交わりの中で時間をかけて、この暗い影が取り払われるように、解決へと歩みを進めていきました。そのようにして、どこまでも健全な主従関係である神さまと自分との関係から、この世におけるあらゆる主従関係というものをとらえ直す知恵を得ることができるようになりました。  そこで、今日の本文です。奴隷という存在が当たり前のようにあった時代において、パウロが勧めをしたことにはどのような意味があったか、ともに見ていくことによって、私たちを支配していらっしゃる主に従順に従うことについて学びたいと思います。 まず、奴隷と主人という関係は、クリスチャンと神さまの関係の相似形と言えます。と言いますのも、この「主人」ということばは、原語では「キュリオス」といって、まさしく、神さまを意味する「主」を意味することばです。5節のみことばを読んでみますと、「キリストに従うように」「地上の主人に従いなさい」と命じられていますが、この「地上の主人」とは、原語においては「肉による」主人です。まさしく、肉体を取られてこの世に来られた主イエスさまを彷彿とさせます。このように、神さまを主とするクリスチャンは、地上の主人のもとにある奴隷と相似形を成していると言えます。 そこで、奴隷という存在について考えてみましょう。 同じ箇所の6節には、「キリストのしもべ」と出てきます。しかし、「奴隷」と「しもべ」は、見てみるとちょっとニュアンスが異なりますが、原語では同じ「ドゥーロス」です。「奴隷」も「しもべ」も、まったく同じです。そこで、主人に従う奴隷の立場を考えることで、私たちにとっての従順のあり方を深めることができると信じます。 もともと、主の民にイスラエルにおいては、奴隷というものに対する扱いが、他の民族に比べて際立っていました。みことばを読んでみればわかりますが、奴隷というものの人権をきわめて大事にしていたことがわかります。出エジプト記21章、1節から6節をお読みください。…… イスラエルはもともと、人間的な隷属状態で激しい苦しみの中にありました。主はそれを憐れんで、彼らをその奴隷状態から救い出してくださいました。エジプトにそのような目に遭わされた彼らは、こうして主に救っていただいた以上、またとそのような非人権的な扱いを人にしないようにと、主に導かれたのでした。 そのような背景で、このような奴隷に対して手厚い制度が定められたわけですが、生涯隷属させるわけでもない、だからといって一定期間が来たら放り出してあとは知らん顔、ということでもない、そのような中で、7年目になって年季が明けるときに、主人を気に入って、主人に生涯仕えることを選べるように定められたわけです。このようにして、主人に仕えることを選ぶことは、主の主権の中で与えられた自由意志において主にお従いすることを選ぶ、クリスチャンの歩みに似たものがあります。 そういうわけで、奴隷という、かぎりなく弱い立場の存在に寄り添うということは、律法の精神であり、みことばの精神です。 この精神は、新約聖書に入り、イスラエルの共同体の枠を超えた宣教地にて教会が形成されていく際にも発揮されていくことになります。今日の箇所のエペソ6章もその文脈で理解できます。 それだけではありません。ピレモンへの手紙は、オネシモという奴隷が主人ピレモンのもとから逃亡したのちに、獄中のパウロの教えを受けて回心し、やはり信仰者として応分の成長を遂げたピレモンのもとに送り返されるという内容ですが、この中でパウロはピレモンとオネシモの関係について、このような表現を用いています。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟……」 「あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか」 そうです。主にあるということならば、人間関係は主従関係で終わるのではありません。主にあって兄弟という、新たな関係に入るのです。 主人も奴隷も兄弟。これはとてもすばらしいことです。というよりも、主がそのように人をお造りになった以上、これは受け入れるべき真理です。しかし、これは権力者にとっては、恐るべき危険思想に映るものです。小中学生の時、秀吉の時代に日本がキリスト教を受け入れなかった理由は、まさにこの平等思想にあったと教えられました。しかしそれを危険思想どころか、進んで受け入れる主人があるならば、そこから社会は改革されていくはずです。近年とみに「ブラック企業」というものがクローズアップされていますが、マネジメントをする人たちにみことばの教えが伝わり、多くの苦しんでいる人たちが解放されるように願ってやみません。 しかし、兄弟だからといって、それなら奴隷が主人を兄弟扱いしてもいい、ということではないわけです。テモテへの手紙第一、6章1節と2節をお読みください。 兄弟という関係は、主にあって確かめるべき立場です。しかしそれ以前に、私たちはこの地上に生かされているものであることを忘れてはなりません。この地上に一定の上下関係という秩序の中で生かされているゆえに、むしろますます、勤勉になり、ああ、さすがクリスチャンだ、すばらしい働きをしているではないか、と、人々の称賛を得られるようにする責任があります。 私にとっても、クリスチャンの「上司」と呼ぶべき存在はいました。この教会にやって来てから2年半の間は、宇佐神先生がそうでしたし、それ以前にもいろいろな教会で、主任牧師、また、さらに下積みのときには、副教職者に仕えてまいりました。 しかし、その先生方のことを、もし「兄弟」などと思って軽く見たならば、私は何一つ学ぶことはできなかったはずです。組織の秩序もあったものではなく、ただ生意気な存在として遠ざけられ、周りのクリスチャンにも、証しにも何にもならなかったはずです。上下関係をきちんとさせることは、主を証しする生活において、とても大事なことです。 さて、エペソ書に戻りましょう。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。すばらしいことばです。私たちはどれほど、キリストを恐れ尊んで従っているでしょうか? この世の権威に従順になることは、日々の交わりの中で形作られるキリストへの従順の度合いに比例すると言えます。 6節のみことばを見てみましょう。「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく……」このように警告されているということは、主が人の心の中をご覧になる、ということを意味します。 普通に考えるならば、奴隷にとっての労働の目的は、主人の気持ちを満足させることであったとしてもいいはずです。実際、気まぐれな主人というものはいるもので、かわいそうに、その主人の顔色に左右されながら仕えざるを得なかった労働者は、古今東西どこにでもいたことでしょう。 もちろん、形さえこなしていれば、あるいは主人は満足してくれるかもしれません。それで充分かもしれません。しかし、みことばが主にある奴隷に求めている労働の態度は、それをはるかに上回るものです。心の中でどう考えているか、これが大事です。 表面的に取り繕いさえすればそれでいい、それは、ほんとうの意味では、主の栄光を現していることにはなりません。神に従っているのではなく、人に従っていることにすぎなくなります。神の御顔を見ているのではなく、人の顔色を見ているのにすぎません。 私たちの信仰生活も、これと同じことが言えます。私はDコースを始めて、ディボーション、聖書通読を毎日したか、また、お祈りを一日どれくらいしたかということをチェックするシートをメンバーに渡していますが、それは、ある人はできた、ある人はできなかった、ということを比較してもらうためではありません。それをしてしまうと、神さまとの関係で成長すべきなのに、人を意識してしまうことになるからです。弟子訓練牧会の落とし穴はいろいろありますが、最大の落とし穴といえるものは、神さまにある訓練が、いつの間にか、人を意識した訓練に取って代わられる危険と隣り合わせ、ということです。 いえ、これは弟子訓練にかぎりません。およそ人のいるところでは、神さまよりも兄弟姉妹を意識した教会生活を送りがちなのは、みな注意しなければなりません。もちろん、よい信仰生活を送る兄弟姉妹はモデルにはなりえますが、その兄弟姉妹に認めてもらおうとして信仰を成長させるわけではありません。いわんや、教会の中で、あの人は素晴らしい信仰者だという噂を立ててもらおうと、人を意識した教会生活を送ることなどは論外です。 私たちのあらゆる信仰生活、あらゆる奉仕に打ち込むことは、即、主にお仕えすることという意識を持つことが、どうしても必要です。と申しますより、私たちが日々愛をもって交わりを保っている主に対し、その愛を表現する場は、奉仕の場、労働の場です。心の中でだけ主を愛している、とはならないはずです。ほんとうに愛しているならば、兄弟姉妹と共有する場において、心からの働きを実践してこそ意味があります。 8節のみことばです。……このみことばをお読みすると、よい行いには主からの報いがあることが示されています。私たちは、人からの評価に左右されず、いまもなおよい行いに打ち込んでいらっしゃる方々が多くいらっしゃることでしょう。そのようなみなさんは、人生に何か特別なプラスアルファを期待することよりも、そのようにして主のご栄光を現すことそのもので、主からの祝福、報いを受け取っていらっしゃるわけです。 しかし、間違えてはなりませんが、私たちはよい行いをすることで「救い」をいただくわけではありません。私たちはイエスさまを信じる信仰によって、すでに救われています。救いを受けて天国に行くために、これ以上努力をする必要はありません。しかし、救われたゆえに、救ってくださったお方のために喜んで働きたい、となってしかるべきではないでしょうか? 考えてみてください。神さまがこの天地を創造され、人を創造されたとき、最初の人アダムに与えられたことは、労働でした。その労働は、もちろん祝福でした。労働することそのものが喜びに満ちた祝福であることを、私たちはこの身をもって、この世界に復活させる必要があるはずです。 さて、ここまで学んでくると、今度は「主人」に立てられた人はどうか、という問題になります。9節のみことばをお読みしましょう。 このみことばを見ると、奴隷に対しての主人は、天におられる主、また地上の主人と、2人いて、同時に天におられる主は地上の主人にとっても主である、という構造が見えてきます。 この、地上の主人である者もまた、奴隷同様、エペソ教会を形づくるメンバーであるわけです。したがってクリスチャンです。しかし彼らは、奴隷に対して一定の権限を持つことが認められている存在です。 このような上下関係の、上に立つ者が主にある人の場合、その責任は重くなります。聖書をご覧ください。名もなき奴隷や庶民のことがクローズアップされる箇所に比べ、王や教会指導者のようなリーダーがクローズアップされる箇所のほうが、それこそけた違いに多くあります。そう考えると、聖書はリーダーの物語といえます。 では、なぜこれほどリーダーの物語が聖書に登場するのでしょうか? それは、アダム以来、「地を従えよ」と神さまから命じられている私たち主の民が、それこそ「地を従える」リーダーとしてふさわしく振る舞うべく、時にモデル、時に反面教師として、神さまが聖書を通して、それぞれの時代のリーダーを提示しておられるからと考えられます。 そういう前提で聖書を読むと、この箇所その他に登場する「奴隷」もまた、「地を従える」リーダーと読み取れなくもないのですが、それはともかくとして、「主人」は、この地上において主の権威と支配を「代行」する立場として、私たちにとっての主にあるリーダーシップを確認する上で、とても大事なモデルです。 「脅すことはやめなさい」とあります。このところ、芸能事務所の社長が、その看板タレントを、仲間たちの解雇を盾に脅したことが話題になりましたが、あれが批判されるのはもちろん、パワハラという、非人道的な支配を行うことだからです。パワハラとは「パワー・ハラスメント」で、上下関係、力関係を用いた嫌がらせ、という意味です。あのタレントはそれこそ、記者会見を開くことで風穴を開けることができましたが、奴隷にはいったい、そのような力などどこにあるというのでしょうか。だから、奴隷が主の民として保障されるためには、主人が主を恐れることが、どうしても前提として必要になります。 主にあるリーダーシップを行使することは、その組織を維持させるうえで、時には必要になります。それもなくだらしなく振る舞うならば、組織がどうやってふさわしく運営できるというのでしょうか。しかし、だからといって、人間的な厳しさで組織が保たれるわけではありません。主人もまた、主にあって部下に接する必要があります。それが、自分もまた、主のしもべであるという態度を謙遜に持つ者としてふさわしいことです。 私たちはいろいろな形で上下関係に生かされています。時に私たちはしもべのような立場におかれますし、また主人のような立場におかれます。この上下関係の中で、私たちが人を意識するか、それとも神さまを意識するか、その違いはとても大きいものです。私たちは神さまにある振る舞いを選択してまいりたいものです。 大前提として、私たちは人のしもべである以前に、主のしもべです。だれであれ、主のしもべとして振る舞うことが求められています。主のしもべとして歩むのです。その歩みは、この世界の片隅で苦しむ、奴隷状態にある人たちが解放されていく歩みへとつながります。 その歩みを私たちが一歩一歩進めていくことができるように、そのようにして、私たちがこの地にまことの平和を実現する者として用いられる者となりますように、主の御名によってお祈りいたします。

従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教

聖書箇所;エペソ人への手紙6章4節 メッセージ題目;従順と養育の相似形 後篇――子どもを怒らせない教育    インターネット上には怒りと呪いのことばがあふれています。それは、人は何かで怒り、鬱憤を晴らしたいからではないかと思います。しかし多くの場合、その怒りはとても幼稚なものです。なぜ人は幼稚な怒りをいだくのでしょうか? それはもしかすると、幼いときからいだいてきた怒りの感情を、大人になってそれ相応に成熟してきたはずなのに、いまだに捨てることができないでいるせいではないでしょうか?  怒るのは大人の特権ではありません。子どもも怒ります。エペソ書6章4節、私たちはこの短い箇所から、子ども怒らせない教育、主の教育と訓戒によって育てる教育はいかにあるべきか、ともに考えてみたいと思います。   まず、親である大人が子ども怒らせるときとは、どのようなときでしょうか? それは子どもが、してはならないことをしたり、するべきことをしなかったりして、叱責し、その結果、反抗心をいだいて怒った場合でしょうか? そうではありません。 多くの教育理論においては、反抗期というものが当たり前に存在することを教えます。しかし、この理論に、真っ向から異議を唱える牧師先生が日本にいらっしゃいます。岡野俊之先生という方で、弟子訓練を軸とした牧会で、とても健康に教会形成をされている方です。以前も岡野先生のことは、メッセージの時間にお話ししたことがあるので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。 岡野先生はおっしゃいます。いったい、反抗期というものは、聖書に書いてありますか? クリスチャンのみなさんは、聖書よりも、一般的な教育理論のほうを正しいと思っているのですか? 私もときに、子どもの教育に手を焼くことがあります。私以上に子どもに関わる時間の長い妻などは、なおさらそう感じていることと思います。しかし、岡野先生のお話をお聞きして以来、私は子どもたちのその跳ね返る態度を、反抗期という、まことしやかに語られているもののせいにするまい、と考えるようになりました。 それなら、子どもが怒って反抗するならば、それを親である大人はどうとらえるべきなのでしょうか? それは「罪」と見なすべきです。箴言のみことばをご覧ください。箴言はどれほど、子たる者に、親に対して従順であるべきことを説いていることでしょうか? また、親に対する不従順のもたらす害毒について、これでもか、と語っていることでしょうか? 私も親ですので、子どもが罪を悔い改めないままでいてほしくありません。私自身を振り返ってみると、時に自分が親としてふさわしくない、親と呼ばれるに値するほど成熟していないことを痛感させられますが、しかしそのたびに立ち帰らされる事実、それは、ほかならぬ神さまが、私のことを2人の娘の親に立ててくださったという事実です。私がいかに未成熟であろうとも、また人格に欠けがあろうとも、その欠けは、神さまにあって解決すべき問題です。それなのになお、私が自分のことを親失格などと言うとすれば、それは私のことを親にしてくださった、神さまに対する冒瀆ということになります。私がどうしても自分の欠けに目が留まってならないならば、それを満たしてくださる神さまにこそ目を留めるべきです。 そういうわけで親に立てていただいた者として、子どもが罪の状態にとどまることがないように、時には厳しいことも言わなければなりません。子どもが悔い改めるならば、とても素晴らしい神の子どもとしてふさわしい人に、またひとつ変えていただくことができるからです。 『境界線』という題名の本があります。ご存知でしょうか。読めば人生観が変わるようなとてもいい本です。お読みいただければと思います。『境界線』という本です。その本は、ヘンリー・クラウド先生とジョン・タウンゼント先生というお二人の共著で、人はそれぞれ、神さまから定められた境界線を持っている、その境界線の中でこそ責任を果たし、境界線を乗り越えてくるような者たちには「ノー!」と言うことを学びなさいと言う、なかなかのチャレンジを与えてくれる内容ですが、このお二人は子育てということに関しても、これまた素晴らしいことをおっしゃっています。 「親の仕事は、子どもの中に眠っている『神の似姿』が成長し、それが花開くように手助けすることです。」 創世記1章27節をお読みすると、人は「神の似姿」に創造された、とあります。神の似姿ゆえに、聖書に啓示されている神さまに似た者へと変えられ、またそれ以上に、神と交わりを持つことができます。前にも何度か語ったことがあります。キリスト教というものはひと言でいえば「神との交わり」です。子どもが成長して、神と交わり、神のみこころを行えるだけの、神のかたちへと整えること、それが親の役割です。うちの子どもたちも、単に勉強ができるようになったり、単に身の周りのことができるようになったりすることが、教育することの目的ではないはずです。もちろん、それもたしかに大事なことでありますが、やはり大事なことは、子どものうちに神のかたちが育ち、神との交わりに生きる人になるように育ってくれることです。 しかし、そのように神のかたちが育つためには、子どものうちにある幼い罪の性質を、徹底して取り除いていく必要があります。それでも子どもは抵抗するでしょう。しかしその抵抗もまた、神さまが立ててくださった親という権威に対する不従順であり、したがって神さまに対する不従順です。育てる親の側もそのことをわきまえ、徹底して対決していく必要があります。 しかしもちろん、それは簡単なことではありません。ヘブル人への手紙12章11節をご覧ください。……このみことばには「苦しい」ということばが出てまいります。これは以前の訳の聖書では「悲しく思われる」と訳していて、もともとの意味は、単なる苦しみや悲しさではなく、「耐えがたいほどの悲しさ」を意味します。子どもの罪を取り扱うことは、その分子どもに痛みを覚えさせることであり、それはいわば、耐えがたいほどの痛みです。子育てがしばしば難しくなるのは、親の側に幼いころからの痛みが残されていて、その痛みを子どもが今まさに味わっている痛みに重ね合わせてしまうためと言えます。そういう点では、親もまた親としての役割を果たしていくために、日々主との交わりの中で傷をいやしていただく必要があります。そうしてこそ、しつけや教育のプロセスで現れる子どもの痛みに立ち向かえるようになります。 子どもは抵抗します。親から妥協や譲歩を引き出そうとするでしょう。しかし、そういうときこそ、親は、神さまが自分に与えてくださった権威のうちにとどまり、子どもに対してふさわしい導きをすることを、最後まで実践する必要があります。言うなれば、子どもとの間に引いてある、境界線にしがみつくのです。 もちろん、それは高圧的にすべしということではありません。子どもは生まれつき、自分は何でもできるという全能感の中で生きています。しかし、自分は決して全能の存在ではないというk十を思い知らせるのは、親たる大人の務めです。子どもは、自分から全能感が剥ぎ取られるとき、それをたまらなく不愉快に感じます。しかし、そうだからこそ、親はもがき苦しむ子供のそばに寄り添ってあげる必要があるわけです。そのようにして、子どもの痛みに充分に共感してあげられるならば、子どもの中には訓練された者にふさわしい、平安な義の実が結ばれ、人格的に成長し、キリストの似姿へと変えられるようになります。 しかし、このみことばが問題にしているのは、そのふさわしい子育てのプロセスで子どもが怒りを発することではありません。そうではない場合で、大人の身勝手な言動によって子どもが怒りを覚える場合、これが問題になります。  子どもが幼稚であることはもちろんなのですが、時に大人も幼稚さのゆえに子どもを怒らせることがあります。それは、子どものためを思って子どもをしつける際、その反応として子どもが怒ることとは異なります。   「つべこべ言わずにやりなさい」ということばがあります。一見するとこれは、大人が権威を示しているようでいいように思えますが、実のところ、行動だけではなくて、態度や感情においても大人の望むようにコントロールしようとすることばです。もちろん、勉強をさせたり、お手伝いをさせたりするとき、それをいやがる子どもにはそれ相応の権威をもって接する必要はありますが、その上で子どもの感情をろくに理解しようともしないで高圧的に接するならば、問題はちがってきます。  そうなると子どもは、表面的には従うふりをしても、心の中は怒りで満ちるようになります。また、やる気を失ったりもします。それで、心から親の教えに同意して、喜んで従うという状態からは程遠いことになります。  さらに子どもは、大人のダブル・スタンダードにも耐えられません。私たち大人も、ダブル・スタンダードを人に使われていい気持ちのする人はいないはずです。自分に甘く、他人に厳しい。それを親たるものが子どもにしてしまうならば、子どもはどれほど悲しみ、また、怒ることでしょうか。そういうわけで大人も、自分自身のことを律する必要があります。それでももし大人が、自分の居場所を保ちたいと思っているならば、子どもにも居場所を確保させてあげるだけの余裕を持つことが必要になるはずです。  私自身もとても自戒させられることですが、スマートフォンに向かっていたいときに、子どもにせがまれて遊びの相手ができるならば、きっとその人は、子どもを喜んでみもとに呼び寄せた、イエスさまの心に近い人ではないかと思います。自分に死んだ人、子どものために自分を喜んで差し出せる人、それこそ主の弟子にしていただけるにふさわしい人です。  また子どもは、どんなときに怒るのでしょうか。自分の人格を否定されたり、見下すような態度や言動を取られたりしたときに、子どもは怒ります。  上から目線、ということばがあります。、本来親しく人格的な関係を結ぶべき家族の間に、封建的な上下関係が存在するとするならば、それはたまったものではありません。  もちろん、親は子どもに対して権威を示す必要はあります。しかしイエスさまは、近寄ってくる子どもたちに対して、果たしてパリサイ人や、みこころを無視する言動に出た弟子たちに対するような、とてもきびしい態度をなさったでしょうか。決してそんなことはなかったはずです。イエスさまは子どもを抱き上げて、だれでもこの子どものように神の国を受け入れる者が、天の御国でいちばん偉いのです、とおっしゃったのでした。イエスさまの用いられた権威とは、そのような柔和に満ちて、それでいて決してさげすまれることはなかったような、したたかな権威です。  そういう権威と、むかしのカミナリ親父のようなおっかないばかりの人間的な権威とを、私たちはごっちゃにしてはなりません。日本のクリスチャンがときに不幸なのは、みこころにかなう権威のモデルを示すお父さんに出会う確率が、日本の教会にいるととても低いということではないかと思います。しかし、嘆いてばかりもいられません。嘆くくらいならば、私たちがそのモデルになるように取り組み、また、そのようなお父さんが生み出されていくようにお祈りすればいいことです。  イエスさまは少なくとも、私たちの人格を否定したり、軽んじたりするように接することはなさいません。私たちもイエスさまにならい、子どもを柔和に受け入れたけれども決して子どもに見下げられることはなかった、イエスさまの権威と人格に少しでも近づくものとなりたいものです。  最後に、神さまというお方は私たちにとって、どのような「親」でいらっしゃるでしょうか。言うまでもなく完璧なお方です。しかし、時に神さまは、人が罪ゆえに道をそれることを、あえてお許しになるお方でもあられます。あれほど神さまに愛されたダビデをご覧ください。子育てにおいてどれほど失敗したことでしょうか。ダビデは子どもを4人亡くしていますが、いずれも子育てであったり、ダビデの不始末であったり、そういうことの責任を取らされた結果とも見ることができます。それを、ひどい、と言うこともできるかもしれません。しかしそれでも、ダビデは神さまに愛されたことに変わりはありません。 私たちも失敗するでしょう。子どもを怒らせてしまった、主の訓戒と教育によって育てていることからは程遠い、そんな自分の姿にほとほといやになることもあるかも知れません。しかし、神さまはそんな私たちであろうとも、変わらずに愛してくださっています。教会において、親族の中において、学校において、あとに続く世代をふさわしく育てる私たちとなることができるように、私たちのために忍耐してくださっています。私たちもまた、神さまという親に育てられています。私たちは神さまによって理不尽に怒らされたことなど、あるはずがありません。日々みことばと祈りによって、教えられ、訓戒されています。そんな私たちは、だれであれ、子どもを育てるのにふさわしい大人へと変えていただけるのです。

従順と養育の相似形 前編

聖書箇所;エペソ人への手紙6:1~4 メッセージ題目;従順と養育の相似形 前編 先週に引きつづき、「相似形」シリーズです。今回は、従順と養育の相似形、と題しまして、親子関係を扱います。 親子関係は何の相似形でしょうか? そう、神さまと私たち人間の関係との相似形です。聖書を読みますと、神さまを「父」と表現する箇所がなんと多く登場することでしょうか! 私たちも信仰によって、この神さまを、天のお父さま、とお呼びすることができるのです。 ご案内のとおり、イエスさまが天のお父さまに呼びかけられたことばは「アバ」です。日本語の聖書によっては「アッパ」と書かれています。これもご存知の方は多いと思いますが、妻の母国韓国のことばで、パパ、は、「アッパ」といいます。日本語だと、かつてなら「お父ちゃん」ということばがありましたが、今、そんなふうに呼ぶ子どもなどいるのでしょうか。 それに比べると、韓国語の「アッパ」というのは自然です。むかし東京に住んでいた頃に奉仕していた韓国人教会の主任牧師は、もちろん韓国の人で、メッセージを韓国語で語る人でしたが、メッセージに熱が入ると、イエスさまが天のお父さまを呼びかけるシーンに差し掛かるたび、「アッパ、アッパ」なんておっしゃっていたものでした。私はそれを聞くたび、韓国語ということばに大きな嫉妬を覚えたものでした。特定の言語に嫉妬というのも変ですね。より正確に言えば、韓国語を母語とする韓国のクリスチャンたちに対してでしょう。ただし私は、韓国人のクリスチャンの方が、天のお父さまに向かって「アッパ」と呼びかけているのを聞いたことはありません。それはあまりに畏れ多いことだと感じておられるのだと思います。 今日学びますのは、そういう、天のお父さまと私たちの関係を映す鏡としての、地上の親子関係についてです。本日はその前編として、子どもから親に向かう関係を扱います。 まず、主にあって自分の両親に従いなさい、というみことばから見てまいります。 「主にあって」が鍵です。それがないとどうなるでしょうか? 自分の両親に従えって、じゃあ、親が物を盗め、と言ったら、盗んでもいいの? なんて言われたら、まともに反論しにくくなります。 もう100年ちかく昔の映画になりますが、みなさんは、チャップリンの「キッド」という無声映画をご存知でしょうか? しみじみする名作です。でも、こんな場面もあります。チャップリンは長屋で貧しい暮らしをするガラス屋さんです。ひょんなことから彼は、捨て子の赤ちゃんを拾って育てることになります。その子は5年経って、かわいい男の子に成長しますが、彼は石を投げてひとんちの窓ガラスを割ります。するとそこにガラス屋のチャップリンが現れて、直し、儲けるという、「親子」がグルになってのとんだ悪知恵に観る者が大笑いする仕掛けになっています。でも、いかに親の命令で、親を助けるためといっても、これは「主にあって親に従う」ことというには、もちろん無理があります。 うそをついてはいけません、ケンカしてはいけません、勉強しなさい、これらの命令もまた、「主にある」ものだから従うべき、ということになります。 私たちの主にある考えやことばや行動の基準を決めるお方は、神さまです。より正確に言えば、神さまご自身が「主にある」ということの基準です。神さまはこのご自身という基準を人間に教えてくださるにあたり、聖書のみことばを備えてくださいました。聖書には、この人間の守り行うべき基準が、ことごとく記録されています。そういう点では、聖書には「説明書」という側面があります。 しかし仮に聖書が「説明書」だとしても、現代人が何かの製品を手にしたときについてくる説明書とちがって、被造物である人間の図面がついているわけでも、「よくある質問」のように使い手に合わせた懇切丁寧な解説がついているわけでもありません。ここに私たちは、聖書を解釈する必要というものが出てくるわけです。 聖書を解釈させてくださる方は、聖霊なる神さまです。聖霊なる神さまが、神さまのみ思いを私たち人間に伝えてくださいます。ですから私たちは、聖書を読むにあたり、自分の人間的な知恵で読んでしまわないように、聖霊なる神さまの助けをいただく必要があります。お祈りしてから聖書を読むのです。 そして、聖書の解き明かしにも普段から触れておく必要があります。礼拝メッセージを聴くことももちろんですし、毎日のディボーションのテキストをはじめ、聖書に忠実な書籍を数多く読むことも大事になります。 そして何よりも、この悟らされたみことばの教えを、私たちが集うときにともに分かち合うことが必要です。このことによって私たちは多角的にみことばを学ぶことになります。その分、みことばに対する理解が深まるわけです。 浅田次郎という小説家はかつて、ベストセラーになったウォルター・ワンゲリンの『小説 聖書』を評して、この本は難解な聖書を通読せしめる、と語りましたが、たしかにその本は素晴らしい作品にはちがいありませんが、どうしたって「二次創作」です。それを読んだからと、聖書を通読したことにはなりません。 聖書そのものを理解するには聖書を読むしか方法がありませんし、今あげたとおり、聖霊の働き、聖書に基づく解き明かし、分かち合いがなければ、浅田さんのおっしゃるとおり、聖書は難解なものでしかありません。だから私たちが、主にあって両親に従う、といっても、その根幹をなす聖書のみことばを基準とすることにおいて、この3つの要素を欠いてはならないのです。 しかし、そこから導き出される聖書の教えを、実は親たるもの、多く語っているものです。それは親であれ子であれ、人間である以上、神のかたちにつくられた存在だから、もちろんのことなのです。 私は今回のメッセージを備えるにあたって、岡野俊之先生の本、そしてもう1冊、ヘンリー・クラウドとジョン・タウンゼントの共著の本の、合わせて2冊を通読しました。そのどちらにも語られていたことは、子どもをしつけるのに妥協してはならない、ということでした。 よく、子どもは天真爛漫、純粋無垢などというフレーズが人々の口にのぼりますが、そういう面ももちろんある半面、子どもはいわば、「小さな罪人」です。親の命令に反抗したり、ケンカしたり、うそをついたり……誰から教わったわけでもないのに、そういう罪深いことをやってのけます。しかしもちろん、そのままでいいはずがありません。 そういう子どもたちをしつけるとなると、とても激しい反抗にあうことを覚悟しなさい、しかし、子どもは従順に従う喜びを知っているものです。あきらめずにおやんなさい、私はその2冊を読みながら、大きなチャレンジを与えられました。 何よりも、親に従順に従うことを知る者は、神さまに従順に従うことに何のためらいも覚えなくなります。まさしく、天のお父さまに従順になられた、実に十字架に至るまでも従順になられたイエスさまこそ、私たちのモデルです。もし、私たちが神さまとの関係において健全ではない部分があるならば、もしかすると私たちには、親との関係において、神さまのお取り扱いを受けなければならない部分があるかもしれません。 そこでつぎのみことばにまいります。「あなたの父と母を敬え。」 これはもちろん、モーセの十戒のことばです。この十戒の構造は、どうなっているでしょうか? 一応念のため、おさらいしましょう。第一、わたし以外にほかの神があってはならない、第二、自分のために偶像を造ってはならない、それらを拝んではならない、第三、主の名をみだりに口にしてはならない、第四、安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ、第五、あなたの父と母を敬え、第六、殺してはならない、第七、姦淫してはならない、第八、盗んではならない、第九、偽証してはならない、第十、隣人の家を欲しがってはならない……。 さて、この10の戒めが、前半は神さまとの関係を語り、後半が人との関係を語るものであることは、お分かりだと思います。しかし、第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」に関しては、この両者の橋渡しをする役割をしており、たんに生んでくれた親を敬いなさいという意味であるのと同時に、私たち被造物の親なる、父なる神さまを敬え、という意味にもなりえます。 この、敬うということは、「従順になる」ということで具体的に現れます。しかし実際のところ、親を敬っていても親の言うことを聞けてはいないということは、往々にして起こります。それは、神さまを信じ、愛していても従えていない、ということと相似形、といえます。 しかしそれでも、私たちがたとえ親に対して不従順の行いをしてしまったとしても、基本的に親を敬っていて、ごめんなさいと言えば許してもらえるという信頼があれば大丈夫でしょう。それは、もし私たちが神さまの御前に罪を犯したとしても、そのことに良心のとがめを与えてくださる聖霊なる神さまの働きによって悔い改めに導かれ、神さまとの関係を回復していただけるだけの信仰がうちに保たれていることと相似形です。 問題は、「敬う」という心がなかった場合です。もし人が、創造主なる神さまを敬うことができないならば、もはやみこころに沿った悔い改めなど期待すべくもないということになります。従順となるとなおさらです。 もちろん、よい行いをすれば、それはみことばに示されたよい行いと重なる部分はあるでしょうが、そのよい行いで神さまに認めてもらえるわけではありません。神さまの怒りは相変わらず、その人に注がれています。 同じことで、自分の親なのに敬うことをしないならば、いったいどうやって親に従うことなどできるでしょうか。というより、その人にとって、親に従うことなど、したくないことか、どうでもいいことかのどちらかでしょう。もしそれでも、親に従うことをその人がしたとするならば、それはたまたまか、いやいやながらか、計算ずくのおためごかしか、といったところでしょう。 しかし、親を敬うということは、従順によって秩序が保たれるという結果が伴う以前に、主のご命令です。私たちは主が地上に備えてくださった親を敬うことで、はじめて父なる神さまを敬う、すなわち聖なる恐れをもって近づくことができます。 ただ、このような話をよく聞きます。自分は父親との関係が悪かった。だから、父なる神さまという存在がどうしても信じられない。 なんとも悲しい話です。神さまとの関係すらゆがめてしまうような親子関係だったなんて、考えるだけでとても胸が痛みます。 そういう人は、こう考えたらどうでしょうか。地上の父親はどこまでも不完全だった。しかし、私が信じている神さまは、私の肉の父親のようではない、完全なお父さんだ。この天のお父さまは、決して私を裏切らない。このお父さまとの関係を、日々の主との交わり、礼拝と学び、交わりによって、しっかり保ち、それによって、地上の不完全なお父さんのことを少しでも赦す道が開かれるように、祈るのみです。 いえ、こうは申しましても、赦すということは、お父さんのところに行って和解しなさい、という意味ではありません。それをすると、下手をすればそれまで以上に、何倍にも傷つきます。お父さんと現実に関係がよくなければ、避けるべきでしょう。そうではなく、十字架の上ですべての人を赦してくださったイエスさまを思い、憎しみと怒りを手離すことを「選択」するのです。悪い思いに捕らわれているかぎり、私たちは前に進むことができません。それこそサタンの思うつぼです。 もちろん、「父と母を敬え」というこのみことばを律法的に守りさえすればいいわけではなく、守れないなら守れない自分であることを御前に告白し、そういう自分であることを自分で受け入れることも必要です。しかし、その守れないことは絶対に変えられない宿命では、ない、ということも、私たちは心に留める必要があります。 では、私たちは父と母を敬えば、何か祝福があるのでしょうか? あります。それが、第三のポイント、「幸せになる」ということです。 3節を読んでみますと、「あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」とあります。 これは、もとの十戒の第五戒、出エジプト記20章12節と比較すると、若干異なる点があります。まず、「あなたは幸せになり」ということばは、出エジプト記には書かれていません。これはいわば、聖霊なる神さまがパウロに与えてくださった、十戒の解釈のフレーズと言えます。 しかし、幸せとだけ言うと、その受け取り方や定義は人それぞれ、十人十色です。そこで私たちは、なぜパウロがこのように、「父と母を敬う」ことは「幸せになる」道だと語ったのか、もう少し見てみる必要があります。 そこでもうひとつの相違点を見てみましょう。エペソ書で「その土地」と言っているものは、出エジプト記では、「あなたの神、主が与えようとしているその土地」と書かれています。これはこの、出エジプトのただ中にあるイスラエル民族にとってみれば、「約束の地カナン」という、特定の地域を指します。その具体的な場所で長く生きますよ、という、イスラエルに向けた約束だったわけです。 これに対しエペソ書のほうでは、「その土地」としか書いてありません。このみことばを受け取ったエペソ人がユダヤ人ではなく、いわゆる「異邦人」であったことを考えると、パウロがこの十戒のみことばから「約束の地カナン」を意味するフレーズを省略したことはもっともなことです。 しかし、約束の地カナンとは、罪から贖われて永遠のいのちが与えられた者の生きる、神の国の象徴であると考えるならば、このエペソ書のみことばは、単にこの地上で長生きするという意味ではないことがわかります。神さまはなぜこのようなことをお許しになるのか、そのみこころは計り知れないものがありますが、私たちクリスチャンの間にはしばしば、幼いうちに天国に行く家族がいます。しかし、この「あなたの日々は長く続く」というみことばを表面的に読み取らず、そこから天国という意味を読み取れるならば、私たちはかぎりない慰めをいただくことができるのです。 この天国に入るものはだれでしょうか? イエスさまは、「幼子のように神の国を受け入れる者」とおっしゃいました。この幼子とは言うまでもなく、さきほど申し上げたような「小さな罪人」としての子どもではありません。一心に親を見上げ、親の言うことならなんでも喜んで従う心構えのできている子どもです。そして、そのような心構えで素直にみことばを受け入れ、イエスさまを信じる信仰を持つからこそ、天国に入れていただけるのです。 私たちはみな、子どもとして生まれました。お父さん、お母さんの子どもであるのと同時に、神さまの子どもです。まことに、地上の親の存在は、天のお父さまと私たちとの関係をあらためて考えさせてくれる存在です。そして、天のお父さまとの関係を通して、私たちは、この世にご存命にせよ、もう亡くなられたにせよ、地上の親との関係を捉え直し、私たちが主にあって何者かということを確認させられるものです。私たちを、親によってこの地上に生まれさせてくださり、その訓戒によって育ててくださり、この地上において主のご栄光を現す者として成長させてくださる主に感謝をささげましょう。

教会とキリスト、妻と夫

メッセージ題目;「相愛の相似形――教会とキリスト、妻と夫」 今日も雨です。6月にふさわしい天候です。 6月と言えば、「ジューン・ブライド」なんていいます。6月の結婚は縁起がいい、なんて。元はと言えばこれは西洋のしきたりで、調べてみましたところ、ヨーロッパでは昔、農作業に従事する3月から5月の結婚が禁じられていて、晴れて6月になって、結婚を大いに祝福してもらえる、ということだったそうです。 日本だと、梅雨時です。こんな時期に式を挙げたら、雨でたいへんにならないか、と思います。それでよく、新郎の上司とかが、スピーチでこんなフレーズを口にするのが習わしになっています。「雨降って、地、固まる、などと申しまして……」まったく、こんなめでたい場でもお説教をするわけです。でも、ある落語家は、こういう時には言い方がおまんねん、と言っていましたからご参考に。「降るは千年、雨は万年、幸せが二人に降りこんだ。おまけに花嫁さんはビジョビジョ。」すみません、朝からくだらないことを申しました。 このエペソ人への手紙の講解シリーズも、ついにこの箇所まで来ました。私はこの箇所が大好きです。といいますのも、私は若いころから、この箇所を心にいだいて、結婚というものに対するビジョンを持ちつづけてきたからでした。 そんな私は結婚して、今年の夏で12年目を迎えます。この11年を振り返ってみますと、結婚してからのほうがむしろ、私の未熟さを痛感させられたことが多かったように思います。まことに、結婚というものの中で私は育てられ、家族ともにキリストの似姿として成長させられたことを実感します。 そんな私は、自分自身が結婚というものにそれなりの意見を持っていると自負しますが、人生経験が豊富なみなさんを前にしては、やはりへりくだるしかありません。もちろん、みなさんなりのご意見がおありだと思います。私が今日お伝えすることは、ひとりの男性とひとりの女性の結婚というものは、キリストと教会との相愛関係をあらわす、まことに不思議に満ちたものである、ということです。 今日の聖書箇所は、先週学んだ「光の子どもらしく歩むには、どうすればいいか」ということを指し示す箇所の最後の部分、「キリストを恐れ尊んで互いに従いなさい」というみことばを受けています。そうです、キリストを恐れるということを前提に、互いに従うこと、これが、光の子どもとしてふさわしい歩みのひとつであることを学びました。 その相互の従順の関係を具体的にあらわすものとして、まずパウロが挙げたもの、それは結婚という関係です。しかしこの結婚という関係は、親子、また雇い主と奴隷という関係にもまさって、だいじに扱われる必要のある概念です。 なぜかというと、この妻と夫という関係は、キリストと教会という関係をそのまま象徴するものだからです。 教会が花嫁、ということは、よく教会でも語られていることです。私も講壇の上ですとか、いろいろなところで口にします。それはなによりも、聖書が語っていることですし、ゆえに牧師であるからには、語る必要のあることです。しかし……花嫁というものを優先的に考えると、妙なことになってしまいます。私はかつて、ある牧師先生が、教会が花嫁、ということを説明なさったとき、そこまではよかったのですが、「男も花嫁」とおっしゃったのを聞きました。会衆は笑っていましたが、ちょっとこれには違和感を覚えました。まるでこれでは、男が純白のウェディングドレスを着ているようです。そぐいません。 これは、こう考えるといいでしょう。花婿なるキリストに嫁ぐ花嫁、教会。これが先に存在し、そのキリストの象徴として主は男を創造され、教会の象徴として女を創造された。さあ、これならどうでしょう? そういえば、自分がバプテスマを受けた教会のことを、クリスチャンは、はは・きょうかい、と書いて、「母教会」と呼びます。私にとって母教会は、埼玉にある「北本福音キリスト教会」です、といった具合です。そう、母教会とは、クリスチャンである自分を生んだ教会です。でもこれは「父教会(ふきょうかい)」とはいいません。父は神さまです。神さまによってクリスチャンとして私たちのことを生んだ存在、それが教会、母教会です。そういうわけで教会は、女性名詞として呼ばれるのがふさわしい存在です。 それを前提に、22節から見てまいりたいと思います。 まず22節、これは妻たちに命じられていることです。……韓国で長年、地球村教会という大きな教会を牧会してこられたイ・ドンウォン先生という方は、かつて若者たちを前にして、この箇所から結婚を主題にしたメッセージを語られましたが、妻たちへの命令が先に来ていることを、「聖書はレディー・ファーストです」なんて、うまいことをおっしゃっていましたが、とにかく、命令は妻たちの方が先に来ています。 主に従うように、自分の夫に従いなさい……? 冗談じゃないわよ! 奥様方の心の叫びが聞こえてきそうで、ちょっとどきどきします、なんて、半分冗談ですが、これも、教会とキリスト、という前提から読み解けば、すっきりしていただけると信じたいです。 私たちはみな、キリストに従順でありたいという思いを持っているでしょう。しかし実際のところどうでしょうか? 私たちの自己中心、罪に傾きたがる肉の性質、そういったもののために、心はキリストに向いていても、なかなか従順になれないものです。それは女性であれ、男性であれ、みな一様に感じていらっしゃることだと思います。かく申します私も、心がキリストに向けて燃えていてもどうしようもなく肉が弱い、ということを、これまでにも何度も経験してまいりました。 そのような私たちでありますが、キリストに従えないことを、罪や肉の弱さを言い訳にしてはならないはずです。 私たちはいかなる場合もキリストに従えるように、主の恵みを求めていく必要があるはずです。 妻が夫に従うということは、そういう次元のことであるということを、このみことばは語っています。教会がキリストに従う、分かってはいるけれども従えない、しかし、それには一抹の後ろめたさがあるはずです。それは、キリストに従順になることがみこころであると知っているからです。 その、キリストに従うということは、具体的には生活のただ中でみことばを具体的に行うことによって実践するものです。単に修道僧のような生活をしていればいいわけではありません。神さまに礼拝さえささげていれば、それでクリスチャンとしての責任を果たしたことになるわけではありません。神さまが私たち主のからだなる教会に、具体的に与えられたご命令を守り行うこと、それが従順というものです。 このみことばにおいては、妻とされている女性が自分の夫とされている男性に、すべてのことにおいて従う、それが、神さまにお従いすることである、ということになるわけです。 23節を見てみますと、その従順の根拠が、神さまのお立てになった秩序ということで説明されています。教会のかしらがキリストであるように、妻のかしらが夫である、というわけです。 これと同じ考えは、第一コリントや第一ペテロのような書簡にも見ることができます。中でも、第一コリント14章は、教会の中で女性が教える者として振る舞うことについて、厳しく戒めていて、妻に対する夫の権威を具体的に立てています。私たち保守バプテスト同盟は伝統的に、女性の教職者を単独で教会トップの教職に立てないことを原則としてきた歴史があり、それはこの聖書の考えに基づいていると言えます。私が牧師按手を受けた韓国の長老教会の教団はさらにそれが徹底していて、今でも女性の教職者を牧師には立てません。もちろん、議論がある領域ではありますが、聖書的な根拠は充分に挙げられることです。 中でも、妻である女性のかしらがその夫の男性である、ということは、揺るがされてはならない聖書のメッセージです。まずこれは、聖書が宣言していることです。すなわち、みこころです。ご婦人方が、なによ、うちの宿六亭主を見ていると、そんなの嘘よ、とおっしゃりたくても、聖書がそう宣言しているかぎり、それがみこころなのです。 そうだとすると、自分の夫にもし従えないでいるならば、そこには後ろめたさが存在してしかるべきです。それがみことばの基準であるからです。24節と25節をお読みします。……みことばがこのように語っている以上、妻が夫に従わないことは、みこころに対して不従順であるということになるわけです。 とはもうしましても、この問題は慎重に取り扱う必要があります。それなら、みことばがこう言っているということを盾に、夫は妻に、無条件の従順を強いることができるのでしょうか? 答えははっきりしています。ノー、です。妻がそれこそ、すべてのことにおいて、夫に従うには、夫の側にもそれなりの条件があります。 25節のみことばです。……キリストはどのように教会を愛したのでしょうか? どのようにご自身をささげてくださったのでしょうか? そうです。私たちの身代わりに、十字架にかかってくださることによってです。 この十字架を信じる信仰を与えられた者は、イエスさまと結婚する教会のひと枝となった、という、契約の関係に入れられます。11年前の8月16日、私と妻はソウルの禿山という町の教会で結婚式を挙げましたが、そのとき、司式をしてくださったウォン牧師先生が、いろいろ粋な仕掛けをしてくださったもので、その中のひとつに、契約書にサインし、取り交わす、というものがありました。この人を生涯愛します、なんてことばが印刷してあって、いちばん下に、われわれのサインと日付を書き込むわけです。そしてこれを壇上のウォン先生に「提出」します。私はこれを書いたとき、いよいよこの人との結婚の契約がはじまるのか、と、感慨無量になったものでしたが、とにかく、結婚とは「契約」です。 イエスさまは、血潮を流してくださることによって、私たち主を信じる民と契約を結んでくださり、私たちを、花嫁なる教会のひと枝ひと枝としてくださいました。 やがてキリストはこの世に再び来られ、この世は終わり、天国がほんとうに始まります。そのとき天国に入れられるのは、キリストの血潮によりあがなわれた私たちであって、ほかの者たちでは断じてありません。なぜなら、血潮の契約を結んでいないからです。私が妻以外のどんな女性も、恋愛の対象として見ることが金輪際ないのと同じです。キリストが愛する対象としてご覧になるのは、私たち教会という花嫁だけです。 キリストは、ご自身を信じないような者、ご自身に最後まで敵対する悪魔の化身のような者をも、十字架であがなわれたわけではありません。たしかに、そのような者たちの罪も十字架の上で赦してくださるのですが、彼らが最後までキリストとその十字架を拒むならば、彼らの最後はそれにふさわしいものとなります。キリストはそれでも、そんな者たちさえも、無条件に天国に入れてくださるわけではありません。それなら、十字架にかかられるということ、そして信じさえすれば救われるというみこころが、何もかも無意味になってしまいます。 そういうわけでお伺いしたいことですが、夫たる男性は、キリストが愛されたような十字架の犠牲の愛を、妻に「だけ」注いでいますでしょうか? その前提がないならば、妻に従順を強いることをみことばを振りかざして正当化することなど、決してしてはいけません。 さらにみことばは、夫たちがキリストのどのようなみわざに目を留めるべきであると語っていますでしょうか? 26節、27節です。 ……キリストは、たんに私たち教会を贖い出してくださっただけではありません。キリストの花嫁にふさわしくなれるように、終わりの日、再臨の日に向けて、日々整えてくださいます。 みなさんの前ですが、11年前の結婚式、妻は純白のウェディングドレスに身を包み、とてもきれいでした。こんなきれいな花嫁さんをお迎えしてもいいのだろうか! 私はすっかり舞い上がってしまい、新郎入場の時に、やれ歩きながら手と足が一緒に出るわ、やれ牧師先生に向かってお辞儀をするタイミングを間違えるわでさんざん、礼拝堂を埋めたみなさんに大笑いされてしまいました。 きれいな花嫁の身を包むきれいなウェディングドレス……しかしそれがしみだらけだったり、しわくちゃだったりしたら、私はそこまで舞い上がることはなかったでしょう。式もめちゃくちゃです。ウェディングドレスはきれいだから意味があるのです。 白くてきれいなウェディングドレスに身を包む花嫁、それは、キリストの前に完成される私たち教会の象徴です。終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つこと、それが私たち花嫁の目標です。私たちはその日に向けて、ともに、いわば「花嫁修業」に励む身です。 夫に立てられた人は、そのように妻を養う立場に置かれています。「食べさせる」ということばがありますが、日々の糧を提供する立場であるのと同時に、霊的にも養う立場に置かれています。 むかし、神学生のとき、所属していた青年会の小グループで話題が「結婚」になったとき、ある兄弟が「いやあ、俺は奥さんに霊的にリードしてもらえばいいよ」なんて言っていましたが、それははっきり申しまして、まちがいです。信仰者の家庭で霊的リードを取る立場にあるのは、夫のほうです。夫が日々教えられるみことばの恵みを、妻に流すのです。 31節、32節をお読みしましょう。……創世記の最初のほうで提示されたみことば、アダムとエバの結婚、すなわちすべての男と女の結婚というもののほんとうの意味が、キリストと教会の結婚に収れんするということが、これではっきりします。 いろいろ議論はあるとは思いますが、牧師先生のお働きの一環として、未信者同士でも結婚式の司式を引き受けるということ、私は個人的に、それは、ありだと思っています。私自身は信者未信者問わず、これまでの10年にわたる牧師生活で、どなたの司式も引き受けたことはありませんが、もし今後どなたかが私に司式を依頼してこられ、それが未信者の方であったとしても、聖書の語る結婚とはどういうものであるかを充分に理解していただくことを条件に、お引き受けしてもよいと考えています。 と申しますのは、日本の方々はどこかで、キリスト教式の結婚式というものにあこがれをいだいていて、それは根本には、自分の創造主なるキリストと教会の結婚というものをどこかで霊的に察しているゆえではないかと考えるからです。そうだとすると、結婚式というものは、未信者の方にキリストを証しするまたとない機会となるはずです。 夫に愛されたい、それは妻として、当然の欲求です。それはキリストが無条件に教会を愛しておられる、その愛がかつても、そして今もなお、存在しているゆえです。私たちは、キリストと教会との相愛関係を、この世における結婚というものをもって実現できるように、さまざまな形で働きかけを行なっていくものです、婚姻関係にある方はそれを実現し、また実現できるように祈りつつ努めてまいりたいものです。 最後に、独身の場合はどうなるかということを補足させていただきたいと思います。私が韓国の信徒たちに囲まれて教会生活をしていた頃、周囲には独身の、おもに女性の方が存在していらっしゃいました。しかしみなさんは、とても充実した生き方をしていらっしゃいました。この中のある先生は、特に韓国のキリスト教会において有名な方でしたが、その先生があるセミナーで講壇に立たれたとき、司会者の方が先生をこう紹介されました。「みなさんご存知、この先生は、イエスさまと結婚された方です!」そうか、そう考えればいいのか! 私は合点がいきました。 第一コリントを見てみますと、パウロはみなが自分のようであったらいいと語っています。独身を推奨しているわけです。それは多くの場合に言えることでしょう。私の周りでも、結婚したことで信仰をなくしてしまったという、とても残念なケースを見聞きしているので、それは実感としてよくわかります。もし結婚するなら、そのことでかえって信仰が強められるという確信が必要になります。もちろん、結婚したからといって罪を犯すわけではないのですが、その結果信仰から遠ざかるならば、それはとてもたいへんなことになります。こういうことを考えると、結婚というものが即、最高の祝福、最高の幸せと考えることから、私たちは自由にならなければなりません。要はその結婚が、キリストと教会との相愛関係をあらわせるかどうか、ということです。 すでに結婚されていて、お相手が未信者の方というケース……これは、千差万別で、一概には言えないことですが、ひとつだけ言えることは、どうか、夫は信者である妻によって既にきよめられている、というみことばを握って、そのみことばが目に見える形で実現するように、主の恵みを求め、お祈りしていただきたい、ということです。 結婚というものは、私たちの周りにありふれているものです。しかしそれらすべては、キリストと教会との相愛関係につながります。私たちにとっての結婚というものが、そのような至上の存在となりますように、また、私たちが結婚というものの中にいだく不完全さの中に、私たちがともにキリストとの関係を省みる機会となりますように、お祈りいたします

光の子どもとして歩みなさい

聖書箇所;エペソ5:1~21 メッセージ題目;「光の子どもとして歩みなさい」 私は日曜日の朝、いちばん最初に礼拝堂につきます。いろいろとやっておく仕事があるからです。そうこうしているうちに、日曜学校が始まるので、鬼沢さんやうちの家族が教会に到着します。 そのとき、私がよく、うちの妻から言われていたことがあります。礼拝堂の玄関やロビーに明かりがついていないというのです。私は仕事に没頭していて、気づかなかったわけです。 朝、みなさんを迎える礼拝堂が、明かりがついているのがふさわしいのはなぜでしょうか? 逆を考えてみると、せっかく神さまを礼拝するつもりで来てみたのに、明かりもついていなかったら、知らず知らずのうちに気分が沈みます。そうなったら、礼拝する喜びも半減してしまいます。そのことに気づいた今、私は必ず、礼拝堂についたら明かりをつけるのを習慣にすることにしました。 聖書を読んでみますと、神さまというお方が光になぞらえられる場面がしばしば登場します。ヨハネの黙示録21章23節は、天国の様子を描写したみことばですが、こうあります。――都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。――光なる主のお姿が私たち主の民とどのような関係があるか、如実に描いています。神さまご自身という光によって私たちが照らされるのです。 さて、今日のみことばの8節には、「光の子どもとして歩みなさい」とあります。光なる神さまの子どもとして歩む、それが私たち主の民に求められていることです。人の子どもが人であるように、光の子どもは光です。イエスさまが、あなたがたは世界の光です、とおっしゃっているとおりです。では、どのように生きることが、光の子どもの生き方なのでしょうか? まずは大前提として、1節、2節のみことばをお読みします。……そう、愛なる神さまの愛を一身に受けている者として、その愛なる神さまにならい、キリストが十字架の上で現してくださった愛のうちを歩みなさい、ということです。大前提は、神さまの愛です。 しかし、この聖書という、実に分厚い神さまのラブ・レターは、神さまの愛というものを、実にいろいろな側面から解き明かしていて、そのすべてをこのかぎられた時間に詳しく扱うことはできません。 神さまの愛にならう光の子どもとして歩むとはどういうことか、21節分に当たる今日の本文から、ひとつひとつ見てまいりたいと思います。例によって、3つのポイントに分けて見てまいります。 第一のポイントです。光の子どもは、闇を避ける歩みをすることが求められます。 8節のみことばです。……このみことばは、闇というものが、神の子どもたち、光の子どもたちにとっては、すでに過ぎ去った過去の性質であることを語っています。 最近はそんなことはなくなりましたが、うちの子どもたちは夜寝るとき、暗やみをとても怖がり、妻や私に、一緒に寝て、とせがんだものでした。純粋な子どもは、本能的に闇というものを怖がるものです。そうです、人は本来、この闇というものを、怖れるべきもの、避けるべきものと受け止めて生きる者でした。しかしいつの間にか、人は闇というものを、何とも思わなくなります。それは単に光がともっていない、物理的な闇だけではありません。神さまの光が届いていない、聖書的な倫理に照らしてみてもとてもおかしい、悪魔のわざを何とも思わないように、霊的に鈍感にさせられていくのです。まるで大人になるとはそういうことであるかのように人々は語ります。しかし、ほんとうにそうでしょうか? このエペソ5章のみことばは、きわめて具体的にその「闇」というものを扱っています。3節のみことばです。……淫らな行い、これはこの世の中を見回してみると、とてもありふれています。私は東京に住んでいた頃から落語鑑賞が好きでしたが、落語など、廓もの、といって、身も蓋もない言い方をすれば売春産業を扱ったジャンルが存在します。新聞を読んでいても、婚外交渉を当たり前のように扱い、時には美化する記事が普通に登場します。しかしこれらのことは、いかに普通にありふれていても、みな「淫らな行い」、また「汚れ」という闇であり、そういうものを嬉々として口にすることは、光の子どもとしてしてはならないことです。 4節もそれに類するみことばです。……猥談も、いやらしい冗談も、セクハラな発言も、全部アウトです。 しかし、中にはこんな冗談を堂々と口にしておいて、自らを愛のあるクリスチャンである、こういう冗談に顔をしかめているクリスチャンは愛がない、などとうそぶく人もいます。こういう人はえてして人気があるものですが、私たちはだまされてはいけません。聖書が、そういう冗談や猥談を禁じている以上、アウトなものはアウトです。 そのかわりに奨められていることは、「むしろ、感謝しなさい」ということです。いやらしい妄想や行動がなぜいけないのでしょうか? それは、神さまがそれぞれに与えてくださった領域に感謝せず、よけいなものをむさぼっているゆえです。それは、神さまへの感謝と正反対のことです。もし、神さまにつねに感謝する生活ができているならば、このような汚れたむさぼりのことばも行動も出てこないはずです。私たちはよくよく自分自身を点検する必要があります。 5節のみことばは、この罪から足を洗おうとしない者に対する凄まじいまでの警告のことばです。……大前提として、イエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちの罪は未来の罪に至るまでも赦されています。しかし、このみことばを見てみますと、性的なむさぼりは偶像礼拝という罪と直結していることが語られています。 エペソのクリスチャンたちは、魔術であったり、女神アルテミスへの信仰であったり、そういったものを捨てるなどして、イエス・キリストに立ち帰っています。その分、偶像礼拝者という言い方は、最も心が刺される表現だったのではなかったかと思われます。その過去を引きずるような性的な罪を悔い改めていないかぎり、自分はイエスさまではない、偶像に従う者なのか、というわけです。 6節も続けてお読みします。……空しいことば、とは何でしょうか。大丈夫だよ、イエスさまの十字架によりすべては赦されているから、何をやっても大丈夫、とばかりに、罪を許容することばではないでしょうか。イエスさまが十字架の上ですべての罪を赦してくださったのは事実です。しかし、その恵みを受け取り、まだなお絡みついてくる罪から足を洗おうと恵みを求めるのと、罪赦されたのをいいことに相変わらず好き勝手な生き方をやめないのとでは、どちらの生き方を神さまは求めていらっしゃるでしょうか。 いのちを懸けて十字架の上で私たちを赦し、救い、贖ってくださったイエスさまのみわざを軽んじるようなことは、口にしてもいけませんし、思ってもいけません。それこそ、むなしいことばというもので、そんな教えはだれのことも救いはしません。しかし、そのようなむさぼりについ身を委ねたくなるのが、私たちに染みついた肉の特性です。あってはならないことですが、教会に属する若者たちも、そのような過ちに陥るということが多く存在します。いえ、時には若者にかぎらず、そのような不適切な性的行動に走るものが、教会の中に現れることもありえます。 私たちはそのような、聖徒にふさわしくない性質から教会がきよめられるように、ともにお祈りする必要があります。私たちは、イエスさまのこの十字架のみわざにふさわしくなれるように、日々聖霊なる神さまの深い交わりによってきよめていただくものとなりますように、まず私たち自身を主の御前に差し出し、とりなして祈ってまいりましょう。 第二のポイントです。光の子どもは、闇のわざを明るみに出すことが求められます。 11節のみことばをお読みします。……まず、前提として、暗闇のわざに加わらないことです。 世の中の人たちは、私たちを悪いわざに染めようと、あらゆる方法で誘ってきます。しかし私たちは、そのわざに対し、断固として「ノー」を突きつける必要があります。深酒、たばこ、薬物、性的逸脱、ギャンブル……これらのものは、私たちクリスチャンにとっては、呑み込まれるべきものではありません。むしろ、それがどんなに恐ろしいものか、声を大にして叫ぶべきです。よくよく考えましょう。このような放蕩に走ることが、果たしてイエスさまを喜ばせることができるでしょうか? 私たちのすべきことは、この世にはびこるあまり、私たちクリスチャンのことさえも蝕む悪を、私たちに与えられたみことばの光によってあばき出すことではないでしょうか。 とはいえ、私たちは何も、この世の中や私たちの周りに存在するあらゆる悪を、根掘り葉掘りぐたいてきにひとつひとつ。明らかにすることが求められているわけではありません。それをしていてはきりがありません。それよりも、みことばに従う私たちの生き方が、光となって、この世のあらゆる汚れ、ゆがみ、恥を明らかにするのです。 そして、そういうものが明らかにされるならば、人の取る行動はふたつにひとつです。悔い改めてその行動を捨てるか、その行動が悪いと知りながらもやめないかのどちらかです。 そうして、キリストに従うという善を行う人はますます善に進み、悪を行う人はますます悪に陥り、かくして、麦と毒麦は充分に生えそろって、さばきを待つばかりとなるのです。 私たちがもし光の子どもであるならば、人々に生き方の決断を迫るモデルとなる生き方を人々の前にしてしかるべきです。イエスさまの存在が、イエスさまに従う一部の人と、イエスさまを十字架につけた大群衆とに分かれたように、私たちの存在によってこの世の悪が照らしだされ、神さまにお従いするごくわずかの人が明らかになっていくのです。その、わずかの人たちとともに、私たちは何よりも強い、キリストのからだなる教会を形づくるのです。 私たちがいつも主に従順でありますように、その従順を実践する生き方によって、この世にキリストの光、みことばの光を照らし、まことの弟子の生き方のモデルをこの世に示す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第三のポイントです。光の子どもは、主に喜ばれることを吟味します。 10節のみことばにあるとおりです。 その、主に喜ばれることは、聖書のあらゆる箇所に書かれているとおりです。それが、消極的な形では、暗闇のわざに仲間入りしないこと、積極的な形では、暗闇のわざを明るみに出すことですが、具体的な形ではどうなのか、この箇所に限定しても、じつにいろいろな側面が見えてまいります。 まず17節です。……このために必要なのは、日々みことばから学ぶことです。私たちが日々みことばお読みすることは、光の子どもとして聖霊なる主が私たちのことを整えてくださるプロセスです。そのようにして私たちは知的にも、霊的にも、武装していただくことができます。賢くしていただけます。しかし、サタンはこのような時間にも、私たちに対し、間違った聖書解釈、間違った受け取り方をさせるように誘惑してきます。私たちはですから、みことばをお読みするときに、自分の思いで読んでしまわないためにも、聖霊なる神さまのお導きをいただく必要があります。 18節、お酒に酔うことはみことばでこうして戒められています。お酒に酔うことと対比して語っていることは、御霊に満たされることです。それに続くのが19節で、御霊に満たされた結果人がどうなるか、そうなるように命じておられるみことばです。みことばを分かち合い、みことばを歌いなさい、というわけです。 何度かお話ししましたが、私が高校生のとき参加した松原湖バイブルキャンプは、小坂忠さん・岩渕まことさんをゲストに迎え、賛美を歌って盛り上がっていました。しかしその中で、私の部屋に、とても盛り上がれなくて悩んでいた男の子がいました。彼は、聖書のお勉強が少なくて、賛美ばかり歌うキャンプについて行けなくて、帰ろうとしていました。しかし、機転を利かせた担当カウンセラーが彼を忠さんに会わせ、相談相手になってもらいました。忠さんいわく、みことばを学ぶことは取り入れることだ、しかし、賛美を歌うことは吐き出すことだ、取り入れてばかりいたらからだはおかしくなるだろう、ぜひ歌ってみよう、そのことばに勇気をもらった彼は、その忠さんのアドバイスを部屋で分かち合ってくれて、最後までキャンプをやり遂げました。その姿に私も励まされたものでした。 みことばによっていただいた御霊の満たしは、賛美の歌として表現してこそです。みなさん、どんどん歌っていきましょう。 そして20節、すべてのことについて、キリストの名によって感謝しなさい、これは、今月初めに水谷潔先生もテサロニケ人への手紙第一の5章からおっしゃっていたことですが、私たちクリスチャンのあるべき姿は、キリストの御名があがめられることゆえに感謝をささげることです。感謝にあふれる生き方こそ、光の子どもとしてふさわしい生き方です。私たちが感謝すべきことも、キリストの御名にふさわしいかどうか、つねに吟味する必要があるでしょう。 そして、キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。従うべき姿勢も、吟味される必要があります。このみことばから後、夫婦、親子、奴隷と主人といった人間関係が具体的に取り扱われますが、強制された従順、うわべだけの従順は、みこころにかなった従順ではありません。この点でも、私たちは御霊によって、まことに従いあうことが実行されているか、日々自分自身を吟味する必要があるでしょう。 私たちは光の子どもです。光の子どもとして歩むのは、難しいことではありません。御霊に満たされるならば、暗闇を避けられるようになります。暗闇を照らす生き方ができるようになります。そして、みこころに従う生き方を吟味し、真にお従いする生き方ができるようになります。そのようにして、光の子どもとしてともに整えられ、主のご栄光をこの世に輝かせる、祝福された歩みに用いられる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

古い人を脱ぎ捨てる

聖書箇所;エペソ人への手紙4:17~32 メッセージ題目;古い人を脱ぎ捨てる    暑いんだか寒いんだか、よくわからない日々が続いています。みなさん、おからだの具合はいかがでしょうか? このような天候で、体調を崩していらっしゃらなければと思います。  暑くなれば、意識するのは「衣替え」です。娘たちの学校は制服なので、季節の変わり目には、成長著しい小学生のこと、どうしても、新しい服のことを考えなければなりません。新しい服を手に入れたら、ちょっともったいないですが、古いのは処分します。そうでないと場所取りです。  私たちにとってこのような「衣替え」が必要なように、聖書は、「衣替え」というものを、私たちが根本的に行なう必要があるということを語っています。本日の箇所には、22節と24節に、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという、象徴的なことばが登場します。なんとなく、言っていることはお分かりだと思います。人間、新しくなれるならば、どんなにいいことでしょうか。いつまでも自分の古い性質を引きずっていてはならないわけです。そんな自分を脱ぎ捨てて、新しくなる、それは素敵なことです。いいえ、私は古いままでいい、新しくなんかなりたくない、そんなことをおっしゃる方は、まあ、いないと思います。  問題は、どうすることが古い人を脱ぎ捨てることであり、どうなることが新しい人を着ることか、ということです。聖書は何と語っていますでしょうか? 今日の本文から、3つのポイントにわけて、ともに見てまいりたいと思います。    第一のポイントです。脱ぎ捨てるべき古い人とは、神の民ではないアイデンティティです。  17節のみことばをご覧ください。……ここで戒められている歩みは、異邦人のような歩みです。  異邦人とは何でしょうか? まことの神さまに属さない民です。旧約聖書にはこの異邦人がいろいろな形で出てきますが、それはたいていの場合、まことの神さまに敵対する存在、神さまの忌み嫌われる存在であったりするわけです。  それは、神さまを認めず、したがって神さまにお従いしないゆえ、また、それゆえに、神さまとその民に敵対するゆえです。彼らは幼いときから、偶像の神に従うことを教えられます。また、それにしたがって、まことの神さまに敵対するあらゆる非聖書的な教えを行うように導かれます。何をどうしても、行きつくところは偶像の神々だったのでした。   しかし、神さまはそのような者たちの罪に気づかせてくださり、その罪とそのさばきから救い出すべく、イエスさまの十字架を信じる信仰へと導いてくださいました。 これは、彼らの努力によることではありません。神さまの一方的なあわれみによることです。この福音のことばを聞いているエペソの人たちにしても、そのままでは女神アルテミスを神とした生活をするしかありませんでした。しかし神さまは時至って、パウロを通して彼らに福音を伝えてくださり、イエスさまを信じる信仰を与えてくださったのでした。これこそ恵みのわざです。 こうしてエペソの人たちは、異邦人という古い人を脱ぎ捨てることができました。ただしこれは、自分の努力によって脱ぎ捨てたのではありません。神さまが脱ぎ捨てさせてくださったのです。そして、神の民という、新しい衣を着せてくださったのです。 むかし、「グリーン・マイル」という、アメリカの刑務所を舞台にした映画を観ていて、暴れる囚人をおとなしくさせるために身動きを取れなくさせる「拘束衣」というものの存在を知りました。看守たちに押さえつけられてこれを着せられると、両手両足は縛られたも同然となり、もう何もできなくなります。 神の民ではない異邦人という状況も、これと同じです。異邦人という拘束衣にがんじがらめにさせられている以上、神のみこころに従うことなど金輪際ないわけです。神さまに従うには、神さまによってこの拘束を解いていただく以外にありません。 私たちもまず、神さまによってこの「異邦人」という縛りから解いていただく必要があります。ここにいらっしゃる多くの方々が、この「異邦人」という縛りから、信仰によって解いていただいた方々であろうと思います。しかし、からだというものは、癖を持っています。たとえば、このメッセージの準備をしていた際、私はパソコンに向かって原稿を書いていました。いつもの作業ではありますが、その作業が終わった後、私は必ずと言っていいほど、妻に注意されます。「ほら、背中が曲がっているよ!」そうなると私は、妻がYouTubeで見つけてくれた体操をして、少しでも曲がった背中を何とかします。 そういう、からだの癖というものが、習慣によってからだにしみついてしまうように、私たちにも罪の性質が、まだきよめられていない習慣によって自分の中に残り、増え広がってしまうことを、私たちは自覚する必要があります。私たちはたしかに、もう異邦人のような神さまを認めない人々ではありません。しかし、かつての神さまを認めないゆえに習慣になっていた罪の性質というものは、そう簡単に私たちの中から去ってはくれません。 それゆえ私たちはこの領域で、古い人を脱ぎ捨てさせていただくという、神さまのお取り扱いを必要としているわけです。私が「背中が曲がっているよ」という妻の声を聞くことで、そういう自分に気づき、曲がった背中を何とかするように、聖霊なる神さまの御声を聞いて、古い人を脱ぎ捨てさせていただくのです。私たちは日々のお祈りをとおして、この古い人を脱ぎ捨てさせていただきます。 はたして神さまは、私たちが、ご自身の民にふさわしくない古い性質を引きずったまま生きることを、喜んでいらっしゃるでしょうか? もし私たちが相変わらずであったとするならば、イエスさまは何のために十字架にかかってくださり、私たちを罪からきよめてくださったのでしょうか? 私たちは日々、古い人を脱がせていただく必要があります。御霊によって、きよめていただく必要があります。 日々、主の御前に祈りのうちに進み出て、きよめをいただいて神の人としてふさわしくされる、その祝福をいただく私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。    第二のポイントにまいります。脱ぎ捨てるべき古い人とは、みことばに禁じられているあらゆる罪の性質です。  第一のポイントでは、異邦人というアイデンティティを脱ぎ捨てるようにと申しましたが、ここでは、その脱ぎ捨てるべき古い人の、具体的な中身について見てまいります。まずは18節です。……この「古い人」の特徴は、暗い知性とかたくなな心です。暗い知性は、このみことばでは「無知」とも言い換えられています。  この「暗い知性」ないしは「無知」と、「頑なな心」は、コインの裏表のように表裏一体です。どういうことかというと、人は無知である自分を自覚して賢くなろうとすればいいのですが、無知な自分を受け入れられなくて、かえって頑なに無知な自分の状態にとどまる……その頑なさのゆえに、ますます無知であることをやめられない……。 私が小5の時に担任の先生だった「山岸先生」という方がよくおっしゃっていたのは、「無知これ罪悪」ということばで、そのことばに叱咤激励されて生徒たちは勉強させられたものでした。 しかしこの「無知これ罪悪」は、聖書のメッセージでもあります。神さまのみことばを知る機会がありながらも知ろうとしない、自分の考えがすべてである、そういう頑なさの中にとどまりつづけるので、無知であることをやめられない……かくして、その人はますますみことばの真理に到達できない……その状態をみことばは、罪に定めています。そういう無知とかたくなさの中にあるかぎり、まことのいのちを与える神のみことばによってほんとうの賢さを得ようというところには、とても到達することができません。 そういう、無知とかたくなさの中にとどまりつづける者たちは、どうなるとみことばは語っていますでしょうか? まず19節、22節を見てみますと、好色、性的な不潔、情欲という形で現れることが語られています。 情欲というものはいつの時代も、人を、特に若い男性をとりこにします。現代においても、インターネットから学校の雑談に至るまで、どれほどそのようなものにあふれているでしょうか。 しかし、これが罪であることを指し示せる基準は、日本の一般社会からはほぼ消滅しています。 罪を犯したとき、後ろめたさぐらいは覚えていると信じたいですが、その後ろめたさがこの罪を抑止する力になってくれるわけではありません。ただ、それが罪であることを定めていらっしゃる神さまによって、その古い人を脱ぎ捨てていただくことによってのみ、罪を抑止することができます。 古い人の罪の形態に、まっさきに「情欲」ということが書かれているのは、理由のないことではありません。いずれエペソ書の5章を学ぶときに詳しく学びますが、教会は、キリストの花嫁です。貞潔をキリストにのみささげるべき存在、それが私たちキリストの花嫁、教会です。そのようなものが情欲に染まるということ、それは、キリストを離れ、姦淫、不倫の罪を犯すことに等しいことです。私たちは何としても、この「情欲」から身をきよめる必要があります。 それに続く箇所も見てみましょう。25節以下は、古い人のいろいろな形態が列挙されています。25節では偽り、26節では怒りをやめないこと、27節では悪魔に、われわれの信仰生活に干渉する機会を与えること、28節では盗み、29節では悪いことば、30節では聖霊を悲しませること、31節では無慈悲や、怒りから発するさまざまな否定的な行動、そして悪意を挙げています。 これらひとつひとつを詳しく見るならば、1回のメッセージでは足りません。大きく2つに分けて整理したいと思います。これらの罪は、霊的な次元と、人間的な次元の2つに分けることができます。 まず、霊的な次元から見てみますと、27節の悪魔に機会を与えることと、30節の神の聖霊を悲しませることは、表裏一体と言えます。 私たちは恵みによって、神の民とされている者たちですが、そのような私たちであっても、悪魔に働く隙を与えうる存在です。初代教会においても、アナニアとサッピラの例を挙げることができるように、うかうかしていると教会においても、サタンの付け入る隙というものは生まれます。 しかし、こういう悪魔の働く機会というものは、私たちの信仰生活の持ち方のせいで、自分から招いてしまうということが往々にして起こります。みことばを読む代わりに、インターネットやテレビや雑誌や本や、その他いろいろの理由で、みことば以外のものに意識を向けたりする。祈る代わりに、自分でぐるぐる考えたり、余計な妄想をしたりする。教会に行く代わりに、よく考えれば行く必要のないところに足を運んでしまう。こういうことが度重なることで、悪魔はどんどん、私たちの心の中の陣取り合戦で、陣地を広げていって、気がつけば心の中の相当な部分を占拠してしまうのです。 こうなってしまうと、聖霊なる神さまに働いていただく余地を、私たちの力で締め出してしまっていることになりはしないでしょうか? それは聖霊なる神さまの悲しまれることです。ゆえに、このことも私たちにとっては神さまのみこころに反する、罪となります。 では、人間的な次元の罪を見てみましょう。 偽りや怒り、盗み、悪いことば、無慈悲、悪意……こういったものは、悪魔に機会を与え、神の聖霊を悲しませるしるしとして、人に現れる罪です。では、これらのさまざまな現象は、どこから来るのでしょうか? それは要約すれば、人を人とも思わない自己中心から出たものと言えます。早い話が、愛の反対です。自分を守るために、うそをつきます。自分の気持ちの赴くままに、怒ったり、悪いことばを発したりします。自分のものにしたくて盗みます。自分さえよければと考えてあわれみの心をいだきません。 自分の基準で人をさばいて、人に悪意をいだきます。すべては、愛の反対である自己中心から出ることです。 私たちはこのような性質を、脱ぎ捨てさせていただくのです。このような性質を脱ぎ捨てるためには、ある程度の人間的な努力は必要です。しかし究極的には、人間的な努力がきよめを達成するのではありません。神さまにこの古い人を脱ぎ捨てさせていただくこと、そのことによって、ここに列挙されたあらゆる、みこころにかなわない性質から自由にならせていただくことができるのです。そうです、これもまた恵みによることです。 私たちはこのように、礼拝に集うくらいですから、キリストに似た者になりたいという聖なる願いを、ともに持っていらっしゃることと思います。しかし、なかなか変えられなくて、落ち込んだり、自分を責めたくなったりするような方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかし、落ち込んだり、焦ったりすることはありません。私たちの主権は、みな神さまにあります。神さまがみこころのうちに、私たちにふさわしくない古い人を脱がせてくださるのです。聖霊なる神さまが私たちをきよめ、私たちの古い性質を取り去ってくださるのです。聖霊なる神さまに期待してまいりましょう。    それでは最後に、第三のポイントです。古い人を脱ぎ捨てて着るべき新しい人とは、神さまのご性質です。  古い人を脱ぎ捨てるべきことは、ここまで何度も強調してきたとおりです。しかし、脱ぎ捨てたままだと、裸です。裸だと恥ずかしかったり、寒かったりで、とにかく不都合な状態です。何かを着なければなりません。そんなとき、古い人を着てはいけないのです。  教会に来るような人でときどきいるのが、最初はこの赦しの福音を聞いて感激するのに、しばらくするとすっきりしたのか、教会を離れてまた元どおりの生活をするようになってしまう、そういう人です。イエスさまもそういう人のことを語って注意していらっしゃいましたが、福音を聞くような人は、元どおりの人になることを避けなければなりませんし、教会も、新しくやってきた人がそのようになってしまわないように、しっかりとフォローアップする必要があります。  そこで必要なことは、新しい人を着ることです。23節と24節をお読みします。 ……このみことばからわかることは、新しい人を着ることとは、まず、人が霊と心において新しくされ続けることです。  たしかに人は、イエスさまを信じ受け入れることによって、すべては新しく変えられます。しかし、その変化は一回だけで終わるものではありません。一生続くものです。一生、変えられ続けるのです。さもなくば私たちは、肉の身にしみついた習慣により、古い人を着て元どおりになってしまうわけです。その変化は、私たちひとりひとりの神さまとの霊的な交わりから始まります。  そして、「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着る」とあります。新しい人を形づくる神のかたちには、それにふさわしい基準があるわけです。その基準となるものは、義と聖を規定する真理です。そう、真理のみことばなる聖書です。聖書のみことばは変わることなく、私たちの目の前に置かれています。この変わることのない聖書のみことばをお読みすることによって、私たちは神さまのみこころにふさわしく変えていただくことができます。神にかたどられた形に造り変えていただけるのです。これが、新しい人を着せていただくことです。 その、新しい人の特徴も、25節以下でいくつかでてきます。25節では、隣人に対して真実を語ること、28節では、施しのために正しい労苦を伴った働きをすること、29節では、人の成長に役立つ恵みのことばを語ること、32節では、優しい心で赦し合うことが、それぞれ語られています。…

ひとつの教会の成長を目指して

聖書箇所;エペソ人への手紙4:1~16 メッセージ題目;ひとつの教会の成長を目指して 以前のことになりますが、私は長いこと、日本の教会成長におけるモデルとなる教会を探していました。そのような中で出会ったのが、たとえば韓国のサラン教会であったわけですが、私はやがて気がつくことになりました。それは、モデル教会はどこまでもモデルであって、自分の牧会する群れはそのモデルに似せてではなく、どこまでも自分に与えられた健全な牧会哲学にしたがって形成しなければならない、ということです。 教会に集う信徒ひとりひとりが、ほんとうの意味で主からいただいたいのちを生き生きと、喜びをもって生きる、そのような牧会を目指していきたい、そのように切に思います。そのためにも、どうかみなさんには、みなさんおひとりおひとりがそのいのちを生きる、教会の主体であることを、いつも心に留めながら生きていっていただきたいと、切に願います。 そのような私たちにとって、今日学びます箇所は、とても示唆に富むみことばです。ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。私たちはひとりなる主の中で一致する存在です。 1節から6節の中で、漢数字の「一」という数字、何回登場するでしょうか? 6回も登場します。そして、神さまがひとりなるお方、という、この「ひとり」まで含めると、実に8回にもなります。それほど、ひとつ、ひとり、ということは、だいじなことなのです。 神さまというお方は、交わりの中に永遠に生きておられるお方です。父、御子、御霊の、三位一体の交わりです。この三位一体の神さまを、旧約聖書では「エローヒーム」と言いますが、これは複数形です。「神々」という複数形を充てるべき、まことの神さまではない存在も「エローヒーム」で、やはり複数形なわけですが、「エローヒーム」がまことの神さまか、そうではない神々かということは、文脈で判断します。 そういうわけで、創造主なる唯一のお方はいわゆる八百万の神々ではないのだから「神」と呼ぶべきではないという御意見は、一理あるとは思いますが、この「エローヒーム」という原語のことを考えますと、「神」とか「神さま」とお呼びして不都合なことはないというのが、私なりの意見です。 ともかく、このまことの神さまは、複数形であるということは、つねに交わりの中に生きておられ、完全な一致を保っておられるお方ということです。これこそ、三位一体ということです。そのように、三位なる神さまが一体であるように、私たち、主のからだなる教会も、ひとつの中に交わりを保つ存在である、というわけです。 そのような存在であることを私たちが自覚するために必要なこと、それはまず、1節にあるとおり、主の召しにふさわしく歩みなさい、ということです。 このお奨めをしたパウロは、自分のことを何者だと言っていますか? そう、主にある囚人、です。主にお従いするあまり、囚人という、この上なく不自由な存在になった、しかしそれでもなお、みことばを伝え続ける者である、そのように告白しています。そんなパウロは、たとえ自分が囚人であろうとも、主の中で大いなる喜びにあふれていました。そんな私から確信をもってあなたがたに言います、召しにふさわしく歩みなさい。 パウロにとって召しにふさわしいことが、たとえ囚人となろうとも主に従順に歩むことであったならば、エペソの人、そしてこの手紙の読者である私たちにとっては、どのように歩むことでしょうか? それが2節と3節に書かれていることです。お読みします。 なぜ謙遜でなければならないのでしょうか? なぜ柔和でなければならないのでしょうか? 寛容であることも、愛することも、忍耐し合うことも、平和を保つことも、なぜ必要なのでしょうか? それが、三位一体なる神さまが交わりのうちに一致を保っておられるように、御霊による一致を保つことであるからです。そしてそのように一致を保つことを、神さまが私たち主の教会に願っていらっしゃるからです。 神さまは、人や群れによって別の存在となるお方ではありません。神さまは唯一であり、神さまへの信仰を持たせてくださった聖霊なるお方も唯一です。この唯一のお方によって、私たちは同じ信仰を持ち、同じバプテスマを受け、同じ主のからだなる教会に連ならせていただくのです。 先週、水谷先生もおっしゃっていた表現を借りれば、教会というものは個人競技ではなく、団体競技です。ひとりの力で信仰生活や教会形成など、できるものではありません。では、どのようにすれば、私たちは一致を保てるのでしょうか? それは、私たちがともに、主を見上げることによって可能となります。では、私たちは具体的に、どのようにすることで一致できるのでしょうか? 第二のポイントです。私たちはひとりなる主が、多様な働きを与えてくださっていることを互いに認め合うことで一致する存在です。 7節のみことばをお読みします。……ひとりひとりが、キリストの賜物の量りにしたがって、とあります。私たちはそれぞれが、さまざまな個性という形で、キリストより賜物をいただいています。それぞれに合った賜物を、イエスさまは私たち各自にくださっているというわけです。 8節から10節のみことばをお読みします。……イエスさまは天の御国から地上に下られて、人々とともに生活されました。 この、地上の人々は、この世とサタンの捕虜として、罪の縄目にしばられて生活していた者でした。しかし、そのような世とサタンの捕虜だった者を、キリストは解放し、天の御国のいのちを与えてくださいました。 イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって罪とサタンから解放された者たちは、もはやこの世の捕虜のように生きる必要はありません。この世において、天の御国に属する賜物をいただきつつ、そしてその賜物を用いつつ、生きる者と変えていただいたのです。 11節をご覧ください。……ここには、4つ、ないしは5つの働き、または立場が列挙されています。これを見てみますと、キリストのからだなる教会に仕える存在は、さまざまである、ということがわかります。 使徒、これはキリストに直接遣わされた人です。イスカリオテのユダを除くイエスさまの十二弟子、それを充当する形で加わったマッティア、そして、復活のイエスさまに実際に会って遣わされたパウロがこの使徒にあたります。この使徒が、それから2000年にわたって聖書のみことばを残すことを考えると、パウロがこの働きを一番目に持ってきたのも当然と言えます。 次に預言者です。これは、主からの啓示を直接受けて伝える人です。旧約時代にこの預言者は存在し、活動してきました。新約時代に入っても、新約聖書が整備されるまではたびたびこの預言者が起こされ、人々に神さまからの啓示を伝えました。神さまのみことばを受けて伝えるという点で、この預言者はとても大事な仕事です。 そして伝道者です。みことばをたずさえて、まだ福音を聞いたことのない人にみことばを語り伝えます。 最後に、牧師または教師とあります。人々をみことばによって教え、みことばによって養う働きです。この「牧師」という用語は聖書においてはここだけに登場しますが、使徒の働き20章28節など、ほかの聖書箇所と照らし合わせると、パウロがテモテへの手紙などにおいて「監督」と呼んでいる職分と共通することがわかります。 こんにちにおいて使徒と預言者という職分は復活しつつある、と説く立場は、たしかにキリストの教会の中に存在しますが、私はその立場には賛成しかねます。私たちは、使徒と預言者が書き残した旧新約聖書の啓示で、充分と考えるべきです。聖書はすでに完成しています。 それにもかかわらず、それにつけ加えていろいろなことを言う者は、「異端」と見なすべきであり、そのような存在に対してはヨハネの黙示録の最後の箇所で、ぞっとするようなさばきのことばが宣告されています。 ここでいう「使徒」と「預言者」は、聖書の完成をもってその立場は停止しました。では、私たちはわざわざこのように職分が書かれたみことばの意味を、どのように解釈すべきなのでしょうか? それは、教会形成にはさまざまな立場の人が用いられる、というにとどめたいと思います。 こんにちはたしかに、使徒や預言者は存在しません。しかし、伝道者や牧師、教師ならばどうでしょうか? 福音というものは、伝道者の存在によって宣べ伝えられます。私たちの教会の支援している宣教師の先生方や、KGKやキャンパス・クルセードといった宣教団体のスタッフといった方、もっと広範囲に活動する方では、むかしならばビリー・グラハムや本田弘慈先生、現在ならば岸義紘先生や福澤満雄先生のような方が挙げられるでしょう。こういう方々の存在によって、福音は広く増え広がり、伝えられます。 牧師はもちろん、教会を牧会する働きをする人です。教師はそのような中で、みことばを伝える働きであり、教団教派によっては、牧師を教師とも呼んでいます。この牧師と教師をあえて分けるとするならば、担任する教会がある場合は牧師、神学校のような神学教育機関で教鞭をとるのが専門の場合は教師と言えるかもしれません。 いずれにせよ、「みことばを教える」専門職をひとつ取ってみても、これだけ多岐にわたるわけです。使徒と預言者がみことばを受ける人であるならば、伝道者や牧師や教師は、それぞれの立場でその受けたみことばを伝える人です。 時に、人によっては、この3つの賜物を兼ね備えている人もいるかも知れません。しかし、その働きをバランスよく一人で担うには、限界があると言うべきです。 どうすればいいのでしょうか? この、「教える」ということを、専門職に独占させず、信徒で分かち合うのです。ここに、私たちの賜物を見分け、その賜物にしたがって活用する余地が出てまいります。 ある人は、人間関係を形成するのが上手で、福音を伝えるのもその分上手でしょう。そういう人は、「伝道者」の賜物があるのではないでしょうか? 祈りつつ、その賜物を磨くべきです。現在私が取り組んでいる「爆発伝道」は、私自身の伝道のスキルを開発するために取り組んでいることというより、信徒のみなさんが効果的に伝道できるように、まず私が取り組んでいることであるわけです。ぜひとも、自分は伝道に召されていると考える方は、この爆発伝道のメソッドを身に着けることにトライしていただきたいと思います。 またある人は、信徒をお世話するのが好きでしょう。そういう人には、「牧師」の賜物があるかもしれません。なにも、牧師按手を受けて、わざわざ牧師と名乗らなくてもいいのです。 そういう人でもそれなりの訓練を受ければ、牧師のような働きができるのです。世の中には、経済的な理由もありますが、お仕事にかなり集中しておられる牧師先生もいらっしゃいます。そればかりか、れっきとした本業があって、日曜日に牧師を名乗られる先生もいます。そういう方々のことを考えると、私たちにやれないということはないはずです。按手を受けているかどうかのちがいだけではないですか! 私のむかしいたサラン教会は、だいたい1200個ぐらいの小グループによって成り立っていた教会です。そのそれぞれの、だいたい6人から8人くらいの小グループのリーダーは、すべてが信徒です。主婦であったり、社会人であったり、とにかく、専門の牧師がするのではありません。そのリーダーになるためには1年の基礎訓練、さらに1年の応用訓練を受けますが、それでも専門職の牧師になるというわけではありません。しかし、彼らは立派に「牧会」をしていました。自分のグループの信徒のために祈り、励ましの言葉をかけ、みことばを教えていました。専門職ではない信徒であろうとも、牧会はできるのです。 あるいは、人づきあいはそんなに得意でなくても、聖書研究やキリスト教会の研究が好きという人は「教師」の賜物がありそうです。あるいは、教えることに秀でている人も「教師」の賜物はあると考えていいでしょう。そういう方にはどんどん本を読んでいただきたいですし、日曜学校の教師のような働きにもチャレンジしていただきたいところです。 以上見て来て分かりますことは、このようにキリストが天上の賜物を分け与えておられることは、この箇所においてはもっぱら、「みことばを教える」ことに特化されているということです。 しかし、このみことばを語られたお方はおひとりであり、したがってみことばもひとつです。それぞれが同じみことばを学び、また語ること、そのことが、一致して主を見上げるということであるわけです。 では、3つの目のポイントでは、みことばを学ぶことで一致して主を見上げる、その目的について学びます。 第三のポイントです。私たちはひとりなる主に向かって、ひとりなる主によって成長し、一致する存在です。 12節のみことばをご覧ください。……これは、教会がさまざまな教える賜物を持った人たちによって教えられることの益を語っています。 まずそれは、整えられるためです。この「整える」という漢字は、幼いころから私にとって、とても近しい漢字です。と言いますのも、私の父が、「整形外科」の医者だったからです。整形外科なので、実家の入口にはどーんと、この「整」という字が看板になって書かれていました。 整形外科には、けがをした人、筋肉を傷めた人、骨の具合の悪い人がやってきます。彼らが患者さんとしてかかりに来るのは、筋肉や骨が本来あるべき位置にないため、激痛を伴ったり、からだ全体にいちじるしい不具合を生じさせたりしているからです。しかしそのような患部を治すことで、患者さんの骨や筋肉はあるべき位置に戻り、痛みは取れ、からだの不具合は取れます。これが整形外科の役割、整えるということです。 教会というキリストのからだにおいても、それは同じことです。教会を形づくる信徒たちは、そのままでは罪の性質、肉の性質そのままに生きてしまうため、教会が主のからだとは名ばかりで、あちこちが肉の働きによって歪んでしまいます。そうなると教会には、実にいろいろな不具合が生じ、痛んだり病んだりすることになります。だから私たちは、正しくみことばを教えられる必要があるわけです。これが「整えられる」ということです。 そのようにみことばによって整えられることによって、はじめて私たちはふさわしく奉仕をすることができるようになります。世の中には、ボランティア活動が好きな人というものがいるものです。しかし、教会の奉仕と一般のボランティア活動は、似ているようで根本から異なるものです。 一般的なボランティア活動の奉仕は、いわば人に対するものであり、人に対して誠心誠意尽くすことで、すばらしいことです。これに対して私たちキリスト教会における奉仕は、唯一の神さまに向けて、一致してささげる奉仕です。出発点も、到着点も、一般的な奉仕と根本から異なるのです。 その奉仕の目的は、私たちが一致すること、私たちがともに成長し、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること、ここに究極の目標、目的があります。見るべきところは自分たちであるというよりは、キリストなのです。 では、私たち教会が成長することは、なぜ必要なのでしょうか? 14節をお読みします。成長していない者は、子どもです。子どもらしいといって褒められるのではなく、子どもっぽいということでけなされる、そういう意味での「子ども」です。 このみことばによれば、教会が子どもであることのしるしは、悪巧みや悪賢い策略、妙な教義にやられてしまうほど純真で分別力がない、ということです。しかしそれは、みことばをよく学んでいないからにほかなりません。みことばをよく学ぶならば、鳩のように素直になる一方で、蛇のようにさとくもなります。…