信仰による選択
聖書箇所;創世記13章1~18節 メッセージ題目;信仰による選択 私たちは一日のうちでも、数多くの選択をし、また、その数多くの選択の、その結果の数多くの責任を負いながら生きていくことになります。私たちはいま、どのような選択をしているでしょうか。今日の本文のアブラム、アブラハムのモデルから学び、みこころにかなった選択をする者とならせていただこうと思います。 1節、2節を見てみましょう。アブラムは富んでいました。多くの家畜、そして銀も金も、それこそ「非常に豊かに」持っていました。もともと富んでいたところに、エジプトでさらに富が増し加わったわけです。そういう意味ではアブラムは祝福を受けていました。ただしこの祝福をいかに用いるかという問題にも、アブラムは直面していました。 新約聖書・第一テモテ6章10節で、使徒パウロは「金銭を愛することがあらゆる悪の根である」と喝破しています。アブラムは確かに、この世的にはたいへんに富んでいました。しかし、その富は神さまとの関係を深める助けにはなりませんでした。かえってその富に目がくらんだために、サライをエジプトのファラオに売ろうとするなど、不従順にもほどがあるような行為をしてしまったのでした。 しかし、アブラムは悔い改めました。アブラムは、エジプトを追放されてカナンの地に帰ってきたとき、そこにかつて築いた祭壇において、主の御名を呼び求めました。まるでエジプトの地で妻をファラオに売った自分の大きな失敗を悔い改め、神さまとの交わりを改めて求めるかのようです。このカナンはついこのあいだひどい飢饉に襲われたばかりの場所で、普通に考えるならば帰ることをためらう者でしょうが、アブラムはここで、信仰の原点に立ち帰る決断をしました。自分が初めて築いた祭壇の場所で、改めて主の御名を呼び求めることをする、そうです、肥沃な地に家族や群れを導くことよりも、まず、主の召しに立ち帰ることを選びました。困難が待ち受けていると予想されようと、主のもとに行く。言い方によっては、主のもとに逃げ込むことをしたわけです。 もし人が、この世の価値観や基準にどっぷりと漬かっているならば、信仰によって困難な選択をすることは極めてむずかしいことです。しかし、困難な中でも信仰による選択をする人は、揺るがされることはありません。 イエスさまという岩の上に根ざして生きる人は、どんな困難が押し寄せても揺らぐことはありません。しかし、この世という不確かな、いわば砂地のようなものに根ざして生きる人は、困難が押し寄せると崩れてしまいます。 アブラムの場合も、拠り頼むべきが多くの富ではなく、神さまご自身であることに気づかされるようになっていました。しかし神さまはときに、ご自身の愛される人の人生に介在され、拠り頼むべき対象をこの世的なものから神さまご自身へと導かれることがあるものです。 6節を見てみましょう。アブラムは、神さまの祝福と見なすべきこの富を持てあましていました。おそらく、エジプトのような肥沃な地ではこの富は相当役に立ったことでしょうが、カナンのように痩せて貧しい土地では水や牧草にも事欠き、群れの中に葛藤が起こるのは必然でした。 特にその葛藤は、牧者どうしの人間関係の葛藤という形で顕著に現れました。アブラムとロトの関係は決して悪くなかったはずですが、その群れどうしとなると、どうしても人間関係に問題が生じます。それはもちろん、アブラムにしてもロトにしても、彼らどうしが仲良くすることを望んでいたでしょうが、牧草や水が不足しているという現実を前にしては、理想ばかり言っていられなくなっていました。 約束の地は、ただ入ればいいということではありません。その地で増え広がるのがみこころである以上、それが貧しい土地であったとしても、石にかじりついてでもとどまる必要がありました。カナンから一族もろとも去るという選択肢はありませんでした。とどまるしかなかったのですが、アブラムの群れとロトの群れとの深刻な対立は、もう限界に達していて、どうしようもなくなっていました。 しかしアブラムは、ここでロトに一つの提案をします。8節、9節です。……選択の余地をロトに与えたのです。全地はあなたの前にあるではないか。このどこまでも広い土地の、どこに行ってもいい。ただし、私の群れは一緒に行かない。あなたの群れがまずどこに行くか決めたら、私の群れは反対の方に行く。ロトに選択させました。 アブラムは実はこのとき、信仰の父としての危機に瀕していたということにお気づきでしょうか? もし仮に、ロトがカナンの地に残ると言ったら、アブラムはカナンをあとにしなければならなくなりました。主の民となると約束されたのはアブラムから生まれる者であって、ロトからではありません。ロトの民がカナンで増え広がるわけにはいかなかったのです。また、アブラムがカナンをあとにしたら、もうアブラムには、カナンで主の民の父となる道は残されていません。神さまのみこころは成らないことになります。 しかし、神さまの摂理というべきことですが、ロトはここで、ヨルダンの低地、とても肥沃な土地を選びました。神さまはロトの選択に介入されました。このことによってアブラムは、神さまの約束どおり、カナンの地で神の民の父となる道を残されたのでした。ロトの一行が向かったヨルダンの低地はもはやカナンの地には含まれません。ロトはカナンをあとにしたのでした。 ロトがヨルダンの低地を選んだ理由は、11節に記されています。「自分のために」とあります。神さまのためにではなかったのです。自分さえ栄えればアブラムなどどうでもよい、というよこしまな思いがあったわけです。しかし、ヨルダンの低地の町、ソドムとゴモラの地でロトを待ち受けていたのは、主に対してはなはだ邪悪な者たちでした。その地の豊かさ、この世的な栄えを享受するあまり、彼らは凄まじいまでに堕落したのでしょうか。ともかく、そのような者たちが待ち受けているような地であろうとも、ロトは一時(いっとき)の栄えに目がくらみ、アブラムを痩せた土地に残して自分はさっさとヨルダンの低地に行ってしまいました。 もしかするとアブラムは、ロトのこの性格を知った上で、あえてロトに行き先を選択させたのかもしれません。それはロトの自主性を尊重することでもありますが、ともかくもこれでアブラムは、ロトのこの選択により、カナンに残ることができました。 こうしてアブラムは、ロトとその群れ、そして財産を切り離しました。それは、いかにかわいい甥っ子を独り立ちさせる、ほんとうならば喜ばしいことであったといっても、それなりの悲しさ、むなしさはあったはずです。何よりも、この世の富を自分から選択するロトのなすがままにせざるを得なかったことは、アブラムをどんな気持ちにさせたことでしょうか。しかしそのようなとき、神さまご自身がアブラムに現れてくださいました。神さまは何とおっしゃったでしょうか? 14節から17節です。 神さまはアブラムに、どのような約束をくださったのでしょうか? アブラムに、この地、すなわちアブラムが見渡すかぎりの、そして実際に東西南北に歩き回るカナンの地を、永久に、子孫をちりのように増やすことにより、与えるとおっしゃいました。 では、なぜこれが確実にアブラムに与えられるのでしょうか? それはほかならぬ、神さまご自身の約束であるからです。カナンの土地をアブラムとその子孫に与えること、それが神さまの約束でした。アブラムのすることは、神さまのこの約束を、ただ、信仰によって受け取ることだけでした。 人は、よいものを得ようという思いをつねに持っています。そのために、あらゆる努力をします。しかし、神さまのくださるもの以上によいものはありません。アブラムの目の前に広がる土地は、痩せていたかもしれません。けれどもそれが神さまのくださる土地です。アブラムのすることは、その目の前に人がる土地、自分が縦横無尽に踏みしめる土地が、神さまのくださった土地であると受け入れて感謝することでした。それが、アブラムにできる選択、アブラムのなすべき選択でした。 信仰によって歩む者にとっての選択は、その何よりの基準は、「神さま」にあります。神さまが主権によって私の人生に働いてくださる。私はその御手によって、いま生きている生活の現場で神さまの栄光を現すべく用いられる、これが私たちの信仰の歩みです。 この、選択の人生の最大のモデル、それは、イエスさまです。罪なきイエスさまのなさった選択は、すべて神さまのみこころにかなう正しいものでしたが、イエスさまの選択は、すべて、御父に従順であるという、絶対の基準がありました。みことばをお語りになることも、奇蹟を行われることも、すべては御父のみこころに従順に従うという選択をなさった上でのことでした。そして最大の選択、それは十字架でした。ゲツセマネの園での血の汗を流しての祈り、それは、御父のみこころを選択するための最大の闘いで、イエスさまはついにその戦いに勝利され、十字架にかかられたのでした。 アブラムの選択も、御父に従順であるようにと願っての選択でした。時にそれは、アブラムが、エジプトの豊かさを捨てて痩せたカナンに行って神さまを礼拝することを選んだとか、富をロトに分け与えて遠く離し、カナンにとどまることを選んだとか、人間的に見れば厳しいことを選択することも有り得ます。要は、それが神さまのみこころであると受け入れることです。 逆に、ロトの場合はどうでしょうか。彼の選択は神さまのみこころを考えない、それこそ自分のためのもので、また、この世的な祝福を求めるものでした。しかしその結果は、実に悲惨なものになりました。祝福の源であるアブラムと人生をともにしていても、アブラムからいったい何を学んできたというのか、というものです。しかし私たちは、このロトを笑うことはできないでしょう。私たちもまた、この世に生きていると、ときに神さまのみこころを選択することよりも、自分中心の選択、この世的な選択に走ってしまうものです。ロトはそんな私たちにとっての反面教師です。 私たちはいま、どんな選択をしようとしていますでしょうか。アブラムの選択でしょうか? それとも、ロトの選択でしょうか? いえ、究極的に言ってしまえば、イエスさまにならう選択をしようとしていますでしょうか? すなわち、イエスさまが御父に従順であられたように、御父のみこころに従順になる選択です。 人間的に見ればもしかしたら私たちはいま、厳しい選択を迫られているかもしれません。しかしそのときこそ、私たちの信仰を生かすチャンスです。私たちの肉的な頑張りで、難しい選択をして、その選択をやり遂げるのではありません。そんな頑張りは限界があり、やがて破綻します。そうではなく、その選択をすることがみこころだと示されているならば、神さまが必ず最後までやり遂げさせてくださるという信仰をもって、困難な選択へと踏み出すのです。