信仰の年
聖書箇所;ヘブル人への手紙11章6節 メッセージ題目;信仰の年 みなさん、今年もよろしくお願いいたします。 今年初めのメッセージはどの箇所から語るのがふさわしいか、私は昨年末、先週から祈り求めておりましたが、この2020年、原点に帰ることを目指したらいかがだろうか、と考え、さきほどお読みした箇所から選ばせていただきました。 信仰、これは大事です。義人は信仰によって生きる、ともみことばは語っています。私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰によって義人とされた者として、信仰によって生きるのです。それでは、聖書の語る信仰とは何か、ということを、改めまして、この箇所から学んでまいりたいと思います。 今お読みした箇所はヘブル人への手紙の11章6節のみことばですが、ヘブル人への手紙は11章に入ると、特に信仰というものを読者に説き聞かせ、その実例として旧約聖書の人物をたくさん挙げて説き起こす形になっています。 まず1節を見てみますと、信仰というものの定義について語っています。信仰とは何か。それは、望んでいることを保証するものであるということです。 望んでいること、私たちもいろいろなことを希望します。では、私たちは何を希望するのでしょうか。どのような希望が本物なのでしょうか。それは何よりも、神さまのみこころにかなう希望です。 自分の望んでいることは神さまのみこころにかなっている。そのように信じきることのできる人は幸いです。では、その希望がみこころにかなっているということを、私たちはどのようにして受け入れることができるのでしょうか。それは何よりも、聖書のみことばによって吟味することによってです。みことばどおりであると知るならば、私たちの心には平安が生まれます。その平安を抱いて、私たちは揺れ動くことなく希望を持ちつづけるのです。 この1節のみことばはさらに、次のように続きます。信仰とは、目に見えないものを確信させるものである、ということです。 もし、目に見えているならば、つまり、当たり前のようにして起こることならば、私たちは何も、特別な希望を持つ必要はありません。当たり前とはかぎらないこと、とても当たり前ではないことでも、神さまがかなえてくださると確信して、希望を持たせるもの、それがまことの信仰であるというわけです。 2節のみことばを見てみますと、むかしの人々はこの信仰によって賞賛された、とあります。新約聖書も含めてよろしいと思いますが、聖書の人物を測る物差しは、「信仰があるか否か」という点に尽きます。それは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。このことにつきましては、のちほど見てみたいと思います。 3節のみことばを見てみましょう。見えるものは見えるものからつくられたものではない、と語ります。現代という時代は、進化論に代表される唯物論がまことの信仰にとって大きな壁となっていますが、その唯物論的な考えは、この初代教会の時代にすでに存在し、まことの神信仰に大きな脅威となっていたことを見ることができます。つまり、この聖書の書かれた時代の問題は、私たちの時代の問題と共通していたわけですが、いつの時代においても、創造主なる神さまの存在をみことばへの信仰から認めることのできる人は幸いであると言えます。この神信仰から、私たちの信仰のすべてが始まるからです。 そこで、6節、本日お読みした本文にまいります。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはできない、と語っています。よく、神さまは私たちの存在そのものを喜んでくださる、などということばを、私たちはたやすく口にしてしまいがちのようですが、このみことばを見てみると、信仰のない人のことを神さまは喜ばない、とはっきり語っています。 信仰とは何でしょうか? イエスさまが私たちの身代わりに十字架について、私たちを父なる神の怒りから救い出してくださったことを信じることです。私たちはそのままでは、神の怒りを受けるべき罪人でした。神に喜ばれるなど、とんでもないことでした。そこから救い出してくださったイエスさまに、救いの根拠と信頼を置く、これがまことの信仰です。 しかし、ひとたびその信仰を持つべく導かれたら、神さまの怒りは、神さまの喜びへと変わります。信仰によって神さまと和解した私たちのことを、神さまが喜んでくださるのです。 さて、このみことばは、「神に近づく者は」と展開します。信仰によって神に喜ばれている者が、神に近づくことができるのです。神さまの立場になって考えてみましょう。私たちがもし、神さまの喜びという存在になっているならば、神さまは私たちに対し、ご自身にもっと近くに来てほしいと願っていらっしゃるのではないでしょうか? そのみこころに応答して、私たちは神さまに近づくのです。 しかし、神さまに喜ばれている者として神さまに近づくには、条件があることもこのみことばは語ります。まず、神がおられることを信じなさいと語っています。 神さまはおられます。私たちはもちろんそう信じ、そのように告白するでしょう。しかし、私たち自身の生活を振り返ってみたいと思います。私たちはどれほど、神さまがおられることを普段の生活の中で信じているでしょうか? 神さまは、私たちの遠くにおられるのではありません。私たちとともにおられるのです。私たちが信じるべきは、神さまがこの世のどこかに、私と関係ないけれどもおられる、と信じることではありません。神さまは、いつでも、私とともにおられる、一緒におられる、そう信じることです。 考えてみましょう。天地万物を創造され、すべてを司っていらっしゃる神さまが、ほかならぬ私のことを選ばれ、ともにいてくださるのです。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? このお方がともにおられることを考えないで生きるなんて、人生最大の損失です。しかし、神さまがともにおられるということを信じぬくならば、その人はどれほど人生が祝福されていることでしょうか。このお方が私たちの味方なのです。何者も私たちに敵対することはできません。 そして、6節をさらに見てみましょう。神さまが、ご自分を求める者には報いてくださるお方であることを信じなければならない、と語っています。このことを信じるためには、大前提として、神さまが生きて働いておられるお方であることを信じ受け入れる必要があります。多くの人にとっては、神さまは単なる空想の産物でしかないかもしれません。あると思えばあり、ないと思えばない、という。しかし、まことの神さまは、私たち人間がどう考えようとも、存在され、そして、みわざを行なっておられるお方です。 聖書を見てみましょう。どれほど多くの奇蹟の記事が書かれていることでしょうか。このことをもってしても、神さまは生きて働かれるお方だということがわかります。私たちが神さまを信じるということは、聖書の時代にこれだけのみわざを行われたお方が、同じように、私たちの生きるこの時代にもみわざを行ってくださると信じる、ということです。 私たちは聖書をお読みするとき、むかしはむかし、今は今、と、無意識のうちに分けて考えて、もうそのような奇蹟はこんにち起こることはない、などと考えたりしてはいないでしょうか? それは信仰的な読み方ではありません。同じお方が、同じ全能さをもって、私たちの生きるこの世界においても働いてくださる、私たちはそう信じ受け入れる必要があります。 そして、神さまが全能のみわざをおこなってくださるそのみわざは、ほかならぬ「私のため」、ということを、私たちは信じる必要があります。もし私たちが神さまを求めるならば、その信仰にしたがって、神さまが「ほかならぬ私に」みわざを行なってくださる、このことを信じることです。私たちのことを振り返ってみましょう。私たちはイエスさまを信じ受け入れてから、どれほど多くのみわざを体験させていただいたことでしょうか? それは、神さまが私たちひとりひとりに特別に目を注がれ、私たちを神の子どもとしてふさわしく取り扱ってくださった、ということです。 全能のみわざを、ほかならぬ私のために用いてくださった、ということです。あなたを特別に選んで、特別に働かれたのです! どれだけすごいことでしょうか? 私たちはその素晴らしさに気づいていますでしょうか? そこでこの2020年、私たちは信仰をもって神さまに近づいている者として、具体的に求めるべきことがあるのではないでしょうか? いろいろあると思います。私の人生にこのみわざを起こしてください! 私は信じます! そのように願い、具体的に祈るべきことを祈り求めましょう。 繰り返しになりますが、目に見える望みは望みではありません。少し努力すれば必ず達成できることならば、何もこの時間に祈る必要はありません。そうではなく、経済的な必要でもいいですし、努力してもなかなかどうにもならない人格の欠けが整えられることでもいいです。絶望的に思える家族や友人の健康でもいいでしょう。とにかく、祈りましょう。神さまは、その祈りがみこころにかなうものである以上、聞き届けてくださり、かなえてくださいます。 私自身を見るならば、できない、としか思えないでしょう。しかし、イエスさまならば、できないことがあるでしょうか? 何でもできるのです。信仰をもって祈ってみましょう。