ハガルの回復

聖書箇所;創世記16:1~16 メッセージ題目;ハガルの回復  今日の箇所は、ハガルという人物が主人公の役割をしています。今日は、ハガルという人物を中心に、私たちの持つべき信仰のあり方を学んでまいりたいと思います。  ハガルとはどのような人物だったのでしょうか? エジプト人の女性の奴隷でした。アブラムがエジプトに下ったとき、ファラオにサライを召し入れさせたことがきっかけになって、多くの財産とともに奴隷たちも手にすることができたのですが、ハガルはそのときにアブラム一家の手に渡った人物と推定されます。生まれつき奴隷の家系に生まれたうえ、エジプトを離れて、流浪の生活をするアブラムの一家と生活をともにしました。  ハガルは、サライのもとで身を低くして仕えていました。サライはハガルに対し、絶大な権限を持っていました。そんなサライはある日、このようなことを夫のアブラムに言いました。2節です。  ……サライのこのことばは、いろいろな意味で問題を含んでいました。まずサライは、アブラムに与えられた主のご計画、子どもを星のように生まれさせてくださるという約束を聞いていて、その約束を信じ受け入れてはいたようです。しかし、その約束がいかにしてかなうかということに対し、全能なる神さまがそのみわざにより事を行なってくださるということを信じ、忍耐することができませんでした。サライは、全能なる主のみこころよりも、事実、子どもが産めないでいるという現実のほうを大事に思いました。  そして、自分のしもべをアブラムに与えました。それは、主の約束されたとおりの子孫を残すためという大義名分がありましたが、ハガルはもちろん断ることができません。主人と奴隷という地位を利用して、人に対してふさわしくない行動をしたのでした。  そして何よりも、アブラムにやはりふさわしくない形での性的関係を持たせたことです。 たしかに、自分の女奴隷に主人の子どもを産ませれば、それは主人の子どもとして認知させることになりますし、妻としても生まれた子どもを自分の子どもともすることができます。のちにヤコブもそのようにして子どもをもうけたケースが聖書に記録されており、この時代にはしばしば見られた風習だったようです。しかしそれでも、アブラムに与えたのは、明らかに子どもをもうけられそうな、若くて健康な女性です。サライの心中は穏やかではなかったはずです。  こういうことが起こる背景には、神さまから与えられたビジョンというものを信仰によって受け取る以前に、人間的な意識で受け止め、人間的なプロセスでかなえようという誘惑にさらされる、プレッシャーが存在したであろうことが推測されます。アブラムは神さまの臨在にふれ、いよいよ子孫が生まれることが明らかになった。しかしそうなると、サライがこの年齢になって子どもが産めていないという現実とのせめぎ合いになります。そうなると、神さまのビジョンをかなえるために、人間的な方法に頼るという、あってはならないことが起こるようになります。  ここに、私たち人間に知恵が要求されます。私たちはいかにして、神さまのビジョンがかなうように用いていただくのでしょうか? そのために必要なことは、「神さまの時を待つ」ことです。もし、教会やその指導者に与えられたというビジョンがほんとうに神さまのみこころにかなうものであるならば、神さまは必ず、そのビジョンをかなえてくださいます。しかし、そのビジョンはみこころだから必ずかなわなければいけないとばかりに、教会を人間的に努力させるならば、必ず破綻します。  ともかく、サライはこのように、神さまのビジョンがかなうために現実的な方法を選択してしまいましたが、それはアブラムも同じでした。アブラムがほんとうに信仰を貫徹させたならば、サライの申し出を断ることもできたはずです。しかしアブラムは、サライの言うなりになってしまいました。  ここで、ハガルの気持ちを考えてみましょう。ハガルにとってサライは、どこまでも服従すべき存在でした。それは奴隷という立場にあるからです。しかしハガルはみごもりました。これはどういうことを意味しているでしょうか? ハガルがサライになり代わり、アブラムの跡継ぎを産む、つまりは星のごとく増やされる約束の子どもたちの母となることを意味していました。少なくとも、この時点ではそう思われていました。  しかし、ハガルがそのような立場になれたのは、第一に、本来はその立場になかったのに、アブラムが召し入れてくれたため、そして第二に、そうなるようにサライがアブラムに召し入れさせてくれたためでした。それなのにハガルは、主人サライを軽く見るようになりました。もう、主人として接さなくなったということです。もしかするとハガルはサライに対し、アブラムの跡継ぎをみごもった以上、あなたではなく私こそが正妻であるというような態度さえ示したかもしれません。  耐えられなくなったのはサライです。それはそうでしょう。このようなことになったのは、もとはと言えば自分がけしかけたことに始まるからです。しかし、サライはこのようなことを言いました。5節です。……サライは、自分がこのように悲惨になったことを、アブラムのせいにしました。実際、新改訳聖書の以前の訳では、「あなたのせいです」と訳しています。まるで、アブラムがハガルをみごもらせたことが、本来アブラムの正妻として保障されるべき自分の立場を脅かしたかのように、サライは抗議しています。サライはまた、主が私とあなたの間をおさばきくださいますように、と言っていますが、これは一見すると主のご主権に委ねているようでも、実際には、怒りに駆られて発したことばです。神さまの御目から見ても、私は間違っていない、間違っているのはあなただ、と言っているわけです。  しかしアブラムは、ここでサライのことばに折れました。それは、アブラムにとって正妻なのは、ハガルではなくサライなのだということを、はっきりさせるためでした。それでサライは、ハガルを苦しめたとあります。これは、アブラムの権威の後ろ盾があった上での、サライによるパワー・ハラスメントです。  ハガルはこのとき、あらためて自分の立場が正妻ではなく、しもべの立場であることを思い知ったことでしょう。しかし、サライのパワハラは苛烈を極めました。ハガルはついにアブラムのもとを逃げ出しました。  しかし、ここで私たちは、このような状況の中でもなお逆転のみわざを行なってくださる、神さまのみこころにこそ目を留める必要があります。主の使いがハガルに現れ、声をかけました。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」ハガルは、どこから来たと答えましたか。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」サライはここで、自分にとって主人はやはりサライであることを告白しています。本来ならば自分はサライのもとにいるべきだが、訳(わけ)あってサライのもとから逃げ出さなければならなかったということもまた告白しています。  そんなハガルは、どこへ行くかと問われて、何と答えようとしたのでしょうか。その問いに「私の女主人サライのもとから逃げた」と語ったのは、やはり自分の行くべき場所は、サライのもとであることを、心のどこかでわかっていたからではないでしょうか。ハガルのその答えに、主の使いは語りかけました。9節です。……そのように、本来いるべき場所で身を低くして生きることにより、主への従順を実践しなさい、ということでした。  もしかすると、こんにちの人権という観点を一方的に適用すると、主の使いの語ったこのことばは、理不尽に思えるかもしれません。奴隷として身を低くして生きることを、神さまのみこころとして聖書は推奨しているのか! ですとか。しかし、そうではないのです。まず、ハガルは守られる必要がありました。それは同時に、ハガルの胎内にいるアブラムの子どもが守られるということでもありました。荒野に妊婦がひとりいるということは、どれほど大変なことでしょうか。そして、もしその過酷な状況のせいで流産でもしたら、その責任をアブラムも、サライも負うことになります。しかし神さまはそういうことのないように、ハガルをいちばん安全な場所、アブラムのもとに遣わされました。そのことによりアブラムの子どももまた守られることになりました。 そして、ハガルをみごもらせてくださった神さまには、失敗というものはありません。11節、12節をお読みしましょう。……イシュマエル、という名前は、神は聞く、という意味です。神さまは人間の意識や感情と関係なく、一方的にお語りになったり、みわざを行われたり、というお方ではありません。現実に苦しんでいる人、つらい思いをしている人のその嘆き、うめきを聞いてくださり、ふさわしくみわざを行なってくださるお方です。たしかに、ハガルとイシュマエルから生まれた子どもたちは、神の民として選ばれるというその約束を、受け取れない民であったかもしれません。 しかし、神さまはこのイシュマエルの子孫も数えきれないほど増し加えると約束してくださいました。神さまはこのようにして、アブラムの不信仰と不従順ゆえの失敗さえも益にしてくださいました。ハガルは、主の使いのこの語りかけに、力を得ました。13節をご覧ください。ハガルは神さまに向かって、あなたさまはエル・ロイです、ご覧になる神さまでいらっしゃいます、と呼びかけています。イシュマエルという名前をつけることで、主は聞かれると告白し、さらにエル・ロイと呼びかけることで、主はご覧になると告白する、ハガルはなんと、このような逆境の中にあって、祈りを聴かれ、自分の全存在をご覧になってくださる神さまを体験したのでした。それがどれほど彼女の人生に大きな影響を及ぼす体験だったかは、その出会いを体験した井戸に「べエル・ラハイ・ロイ」、生きて私を見てくださる方の井戸、と名づけたことからも明らかです。 これで、ハガルは恐れることはなくなりました。このようにお交わりを持ってくださった神さまのみこころが、サライのもとに戻って仕えることであると受け取ったハガルは、サライとアブラムのもとに戻りました。そして、ハガルは男の子を産み、アブラムはその子に、神さまがハガルに示されたとおりの名前、イシュマエルと名づけました。この時すでにアブラムは86歳、充分に奇蹟といえる出産でした。 ハガルは、主のビジョンを人間的な方法で実現させようとした人たちの中にあって、犠牲の羊のような役割を強いられた女性でした。人間的に見れば少なくともそうです。アブラムにとっては奇蹟のようだった、男の子を宿すという特権を得たにもかかわらず、妻として振る舞うことが一切許されず、挙句の果てに荒野へと逃げだすという……しかしハガルは、神さまが祈りを聞いてくださるお方であることを体験しました。神さまが自分の全存在を見てくださるお方であることを体験しました。何よりも、神さまご自身を体験しました。強い権力に任せて、「主がおさばきになりますように」と口走ったようなサライよりも、よほどよく神さまを体験していたのでした。 私たちは、祈りが聞かれていると信じていますでしょうか? 神さまが自分のことを見てくださっている、顧みてくださっていると信じていますでしょうか? そのような信仰は、もしかすると、生活が安定しているときにはなかなか生まれてこないものかもしれません。あるいは、仮に自分がよくない状況に陥っていたとして、それを神さまや周りのせいにしていたら、なかなか信じられないかもしれません。しかし、そのような私たちのことを、なお神さまは見つめてくださっていますし、私たちの祈りを待っていらっしゃいます。 一方で私たちは、祈りがかなえていただくまで、忍耐して待つことも時には必要になるでしょう。自分にはビジョンが与えられていると思っていても、そのビジョンがかなうことがほんとうに神さまのみこころであることを教会のみなが信仰によって受け止めるまで、時にはそれ相応の時間がかかることも有り得ます。 私たちは失敗もします。その失敗のせいで、私たちこそが、傷を受けた人となることも有り得ます。そのようなとき、私たちは神さまから逃げ出したくなるかもしれません。しかし、そのような私たちの祈りを聴いてくださり、私たちの全存在に目を留めてくださる神さまを、そのときこそ体験し、神さまとの交わりをそのような危機的な状況にあるときこそ結び直す私たちとなるように、祈ってまいりたいと思います。

主が結ばれた契約

聖書箇所;創世記15:1~21 メッセージ題目;主が結ばれた契約  信仰は私たちの目から見れば、からし種のように、あるかないかわからないほど小さなものかもしれません。けれども神さまの御目には、大きく育てようとのみこころが注がれているものです。私たちは自分の小ささではなく、神さまのみこころにこそ目を留めてまいりたいものです。   さて、今年に入ってから私たちは、アブラム、アブラハムをモデルにして、信仰というものについて学んでいます。信仰によって歩むことを志す私たちにとって、アブラハムは素晴らしいモデルです。本日の箇所は特に、神さまがアブラムと契約を結ばれるという、だいじな内容を扱っています。ともに見てまいりたいと思います。 アブラムは、戦争を通してロトを助け出したそのできごとのあと、神さまの御声を聞きます。――アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。―― アブラムは、御声を聞く人でした。それは神さまが特別にアブラムをお選びになり、使命を与えられた証拠でもあります。この地上に普通に生きている人は、創造主の御声を聞かなかろうと、普通に生きています。しかし神の人、信仰の人は、御声によって生きるべく召されています。これが世の人とのちがいです。 しかし、2節をご覧ください。……アブラムはみことばに唯々諾々と従ってはいませんでした。現実がありました。もう、子どもをもうけることもできないほど高齢になった。そればかりか、自分自身がもう死にそうになっている。それでも神さまが跡継ぎを備えていらっしゃるというならば、それは子どもではない以上、家のしもべであるにちがいない。跡継ぎとなるのは、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか、と、神さまに問うています。 しかし神さまはアブラムに、みことばをもって正確な導きをくださいました。4節です。……神さまのみこころはあくまで、アブラムから生まれる者が跡を継ぐ、ということです。より正確に言えば、アブラムがその妻であるサライとの間に男の子をもうけ、その子が跡を継ぐ、ということです。 しかしもう、ここまでになると、人間業ではどこまでも不可能です。アブラムはもう、子どもをもうけるどころか、死にそうな年齢になっていますし、サラももともと不妊の体質だったところに持ってきて、年齢まで行ってしまっています。さらに、もし万が一それで妊娠ができたとして、生まれてくる子どもが子孫をなせる男の子だということは、もはや神さまのご介入なしには決して可能なことではありません。 主はアブラムに、そのようなことをも信じ受け入れよと迫られ、さらにアブラムを天幕の外、いちめん星の埋めつくす夜空の下にアブラムを連れ出されました。5節です。……私は以前神学生のとき、奉仕教会だったサラン教会において、ホン・ジョンギ先生という副牧師の先生のもとで弟子訓練を受けておりました。そのコースの中でホン先生は、アブラハムの歩みについて、一言で総括していらっしゃり、それを折にふれておっしゃっていたものでした。それは、「アブラハムの歩みは、神さまに説得される歩みだった」ということです。 全能の創造主であるわたしがあなたを選んだのだよ。わたしにはできないことは何もないことを、信じてみなさい。この満天の星を創造したわたしに、できないことがあると思うか? このわたしがあなたを選び、あなたから、わたしの民族を生まれさせるのだよ――。 みなさんは、夜空を埋めつくす星をご覧になったことがあると思います。あれを見ていると、被造物である私たちのちっぽけさ、それでもそのようなものに特別に目を留めてくださっている神さまの偉大さを思うものです。星のひとつひとつよりもはるかに値打ちのあるひとりひとりを、この私を通して生まれさせてくださるのか……! 圧倒される思いだったことでしょう。 そしてついに、6節です。アブラムは主を信じました。そしてご覧ください。このように、主のみことばをみこころを信じ受け入れたことを、神さまは義としてくださったのです。すなわち、みこころにかなった正しいことと認めてくださったのです。私たちが神さまによって正しい者、みこころにかなった者と認めていただくのは、ただ信仰によることです。神さまへの献身とか、従順とかいったことは行いの領域であり、これらはすべて「信仰」のあとについてくることです。 アブラムもこのようにして、信仰をもって神さまの自分に対するみこころを受け入れました。けれどものちの日に、その信仰を働かせないで、妻のサライではなくハガルとの間にイシュマエルをもうけるという不従順へと走り、その結果たいへんに苦しむことになりました。しかし、それだからといって、神さまはアブラムのことを不信仰だとさばき、祝福の源としての権限を取り上げられたのでしょうか? 決してそんなことはありません。アブラムの側が不信仰、そして不従順に陥ろうとも、ひとたび神さまを信じたアブラムを、神さまは決してお忘れにならず、またお見捨てにならなかったのでした。 私たちにしてもそうです。不信仰、不従順になるときはあります。自分でもよくないとわかっていながら、そうなってしまうことのなんと多いものでしょう。しかしここは、神さまがそのような私たちの信仰を認めてくださり、それゆえに正しい者と認めてくださる、神さまのその真実さにこそ目を留めるべきではないでしょうか。私たちは不確かでも、神さまの真実は変わることがありません。 神さまはそのようにして、アブラムを義と認めてくださいました。そして神さまはアブラムに、何と語ってくださいましたでしょうか? 7節です。神さまはご自身のことを、なんと紹介していらっしゃいますでしょうか? アブラムを召したお方、アブラムを導かれたお方、そして、アブラムに約束の地を与えてくださるお方として、ご自身のことを紹介していらっしゃいます。神さまとは、そういうお方なのです。 しかしアブラムは、神さまご自身がそのように示してくださっても、なお充分に信じることができませんでした。8節です。アブラムは確かにみことばを信じてはいましたが、盲信するように、無批判に思考停止していたわけではありませんでした。まだこの時点で疑問がありました。しかし、充分に信じられなければ、何度でも神さまにお伺いしました。この姿勢はとても大事です。 さて、アブラムがそのように食い下がると、神さまはまたもアブラムを目に見える形で説得されました。9節です。家畜は真っ二つに切り裂かれました。契約が結ばれるために生けるものの血が流されたのです。神さまと御民の間に、いのちが仲立ちとなりました。また、このようにして真っ二つにいのちあるものが切り裂かれるということは、この契約を守らなかったならば、守らなかった者は真っ二つにされるという意味が込められています。神さまはご自身の真実さにかけて、このようにアブラム、そしてのちの子孫と契約を結ばれたのでした。アブラムにしても、このような形で神さまと契約を交わすことには、相当な覚悟が必要だったことでしょう。 しかし、天からの炎はまだ降りてきません。アブラムはその炎を今か今かと待ち望んでいました。しかし、そのとき降りてきたのは天からの炎ではなく、肉食の猛禽でした。神さまにささげるべきいけにえを狙って降りてくるわけです。アブラムは果敢に体を張って追い払いました。信仰の人のこの姿勢は、私たちも見習うべきでしょう。この世には、神さまに対して私たちがおささげするものを、当然のように狙う勢力が一定数存在します。私たちが献金としてとっておこうとするお金や、礼拝のために用いようとする時間を、当然のように奪い取ろうとする勢力、礼拝よりもこの世のことを優先させようと私たちに迫ってくる勢力……私たちがこのような勢力に勝つのは容易なことではありませんが、少なくともアブラムの、恐ろしい猛禽から必死に契約のいけにえを守る姿を思い、私たちも神さまの救いの恵みに少しでもお応えする者として、できるかぎりのことができるように、祈ってまいりたいものです。 しかし、心は燃えていても肉体は弱いものです。日が沈むにしたがって、とうとうアブラムは眠くなりました。そのとき、彼には大いなる暗闇の恐怖が襲いかかり、主の御声を聞きました。13節から16節です。 ……なんと、はるかあとの時代の預言が臨みました。イスラエルの民がはるかの地にエジプトの地で400年にわたって寄留者となり、奴隷として苦しむ。それはなんと受け入れがたい未来予測でしょうか。「しかし」、このことばが大事です、主がこの国エジプトをさばき、イスラエルに出エジプトを果たせられる、のちの日にはその民がこの地カナンに戻ってくる……このことも同時に語られました。 私たちはここで、神さまは愛する民に苦難を与えられる、そしてあえて沈黙を守られるお方である、ということを学ばせられます。神さまはもちろん、御自身の愛する民に祝福を与えられるお方ですが、その祝福はときに、人間の側で思い描いているような祝福と異なる場合があります。気持ちよさや平安、かっこよさといったものと対極な、できれば避けたいようなことが、神さまのお許しの中で行われることがあると、私たちは心に留める必要があります。 しかし、そのような厳しい思いを私たちにさせられようとも、神さまは変わらず、愛なるお方です。私たちがつらい思いをしていれば、その状況を許しておられる神さまは愛がないなどと、そんなことを考えてはなりません。ただ、そのような状況で神さまの愛を見いだすのは、とても難しいことです。苦しいことです。しかしそのことによって、人は自分の弱さを認め、神さまに拠り頼むようになり、世的な祝福に左右されない強靭な信仰を持つようになるのではないでしょうか。そうだとすると、これこそ祝福というべきです。 それでもその祝福に気づかせていただくまで、多くの苦しみを体験しますし、もしかしたらたくさんの涙を流すかもしれません。そんな私たちであると知るならば、ほかの兄弟姉妹に寄り添ってもらうことも必要になりますし、また、ほかの兄弟姉妹に寄り添えるように成長させてもらえるでしょう。こうして、私たちはキリストの愛をその身に備える者とならせていただくのです。 アブラムは、子孫の受ける苦難を見ました。しかしその末に、子孫が大きな祝福を受けるのを見ました。その苦難の長さが400年ということは、人の一生よりはるかに長いですし、何代にもわたって苦難を体験するということも意味します。私たちももしかすると、この世では信仰のために犠牲にした分の気持ちよさなど、満足のいく形で体験できないかもしれません。しかし、私たちのほんとうの満足は、この世の終わりのあとで用意されている天国にて永遠に味わうものです。この世においてはその永遠に備えて、種蒔きに労するのみであるかもしれませんが、神さまの待っておられる未来を思うならば、その労苦はきっと報われるという信仰が生まれ、日々の歩みに力を得られるのではないでしょうか。 そしてすっかり暗くなったとき、神さまがアブラムと契約を結ばれたしるしとして、煙の立つかまどと、燃えるたいまつが、切り裂かれたいけにえの間に通り過ぎました。神さまの臨在が火をもって現れることは旧新約問わず聖書によく登場しますが、ここでも神さまは火をもって臨在されたのでした。そして神さまはアブラムと、目下10の部族の住む広大な地を子孫に与えられることを約束してくださいました。 信仰というものは、人間的な積極的思考と似ているようで、その内容は大きく異なります。最大のちがいは、信仰によって実現することを願う神さまのみこころは、しばしば人間的な祝福、繁栄であったり、安楽であったり、そういったものがかなうこととはかぎらない、ということです。しかし、私たちはそれでがっかりする必要はありません。アブラムがこの地上で神さまの臨在にふれる、至上の祝福を手にすることができたように、私たちはみことばをお読みすることで、そしてイエスさまの御名によってお祈りすることで、神さまが私たちに与えてくださっているそのみこころを知ることができる、そういう者としていただいた祝福をいただいています。 この世のいかなる祝福や成功も色あせるほどの祝福です。この世の成功者のいったいどれだけの人が、そのまことの創造主である神さまと交わることができているでしょうか? その手にしている富が神さまからの祝福であることを受け止め、神さまに感謝の祈りをささげているでしょうか? しかるに私たちはそれができているということは、これはアブラハムにも匹敵する大いなる祝福です。 私たちは不信仰に陥ることもあるかもしれません。私たちは厳しい体験をするかもしれません。しかしそのようなとき、いけにえを切り裂いて血を流すように、イエスさまを十字架につけてくださり、十字架の上で血潮を流すことによって私たちと永遠の契約を結んでくださった、神さまのみこころ、私たちを神の民としてくださった事実に目を留める者となりたいものです。

「神への従順」対「世への従順

聖書箇所;創世記14:1~24 メッセージ題目;「神への従順」対「世への従順」  私が韓国で神学の勉強を始めるまでの間、献金というものについてそれほどちゃんとした考えを持っていませんでした。そのような中、神学校の寄宿舎で同じ部屋になった関西出身の方と、ある日話題がたまたま献金のことになったとき、その方が「什一献金はささげなあかんもんや。什一献金は、いのちや」とおっしゃったことに、びくっ、としたものでした。それ以来、どの韓国教会においても普通に行なっている「什一献金」というものを、自分も実践することにしたのでした。  みなさんは以前から、月定献金という形で収入の一部を定期的にささげることを実践してこられたわけですから、今日のメッセージは献金の奨励として行うわけではありません。今日のメッセージのタイトルは、「『神への従順』対『世への従順』」とつけさせていただきました。アブラムにとっての神との関係、そしてそれに対照的な世との関係がいかなるものであったかを見ることにより、私たちの働かせるべき信仰のあり方を考えてまいりたいと思います。  先々週も学びましたとおり、ロトは一見すると得をする選択をして、ヨルダンの低地、ソドムへと引っ越しました。しかし聖書の評価に従うと、ソドムの人々は邪悪で、主に対してはなはだしく罪深い者たちであった、ということでした。ソドムは、都市そのものがひとつの王国をなすものであり、その都市全体、国全体が極めてひどい状態にあったというわけです。それゆえ神さまは、このソドムをことごとく、天の火をもって滅ぼされました。  このソドムの王ベラはもともと、エラムという国のケドルラオメル王に仕えていました。ケドルラオメルは勢力があり、ソドムの王のほかにも、やはり天の火によって滅ぼされたゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王を12年にわたって支配下に置いていました。しかし彼らは翌年、ケドルラオメル王に謀反を起こし、その支配から脱することを企てました。  これに対しケドルラオメル王は、シンアル(シュメール)、エラサル、ゴイムのそれぞれの王と連合軍を組織し、彼ら5人の王の連合軍との戦争を始めました。この連合軍は彼らと戦闘を繰り広げることになる戦場に至るまで、レファイム人、ズジム人、エミム人、フリ人、アマレク人、アモリ人と、片っ端から諸民族を打ち破りながら進んできました。非常に強い軍隊だったことが窺い知れます。  そして、シディムの谷で戦争が繰り広げられたとき、ケドルラオメルの軍のほうが優勢になり、ソドムの王とゴモラの王はアスファルトの穴に落ちて出られなくなりました。その間にケドルラオメルの連合軍は、ソドムとゴモラから財産や食料を略奪しました。それだけではありません。ソドムにはロトが住んでいましたが、ロトは拉致され、その豊かな財産もろとも奪われました。自分のために豊かな土地を選んだ近視眼的な選択が、このような悲惨な結果を生んでしまったのでした。  さて、この知らせはアブラムに届きました。アブラムはかつて、配下の者たちがロトの群れと争いを起こしたことに対し、それはよくないので別々の道を行こうと提案したわけで、もはやロトとともに歩まず、カナンの地を切り開く立場にありました。そんなアブラムは、甥の窮乏を見ても黙っていられたでしょうか? そんなことはなかったのです。あの愚かな選択の責任をロトに取らせて自分は知らん顔とはならず、自分のところで育てた318人の屈強な者たちを伴って、ケドルラオメルの連合軍に戦いを挑んだのでした。  これは、私たちのモデルと言うことができるでしょう。私たちの信仰生活というものは、自分だけが祝福されて終わり、というものであってはならないはずです。兄弟姉妹の窮乏を見て、私たちは心が動かないでいるでしょうか? ヤコブの手紙2章14節から17節には、このようなことばがあります。――私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。  私たちはもちろん、よい行いを積み重ねることで天国行きの切符を手にするわけではありません。そんなことは不可能なことです。しかしそれなら、よい行いは必要ないかというと、決してそんなことはありません。私たちは「救われるために」よい行いをするのではなく、「救われているから」よい行いをするのです。この違いは、ご理解いただけると思います。私たちのことを救ってくださったイエスさまのそのみこころに従おうと、少しでも隣人、兄弟に愛を施そうとなってしかるべきではないでしょうか? もちろん、なかなか難しいことではありますが、ここはひとつ、ロトのために一肌脱いだアブラムを模範としてまいりたいと思います。  結局、アブラムはケドルラオメルの連合軍を打ち破りました。そして拉致されていたロトをはじめ、奪われた人々や財産を取り戻しました。しかし、この戦争は侵略のための戦争ではありません。ロトを救いたい、ただそれが強い動機となって行なったものでした。ロトのたましいが救われるために、多くの血が流されたのでした。  ロトの姿を考えてみましょう。これはもしかすると、私たちの姿ではなかったでしょうか? 私たちは神さまのみこころを知りながら、それに知らんふりをして自分勝手な道を行きます。そのために迷います。わざわいにも遭います。損害も被ります。しかし、そのような私たちであることを主はすべてご存知で、そんな私たちであっても決して見捨てず、助けてくださいます。あの自分勝手なロトが救われるために多くの血が流されたように、私たちが救われるために、なによりも尊い、イエスさまの血潮が流されたのです。このことを私たちはどれほど感謝しているでしょうか? 感謝することにも鈍感なのが私たちです。しかし、それにもかかわらず、主はなおも私たちを愛してくださいます。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりとする。……イザヤ書43章4節のみことばにあるとおりです。私たちはどれほど愛されているか? 神の子なるイエスさまのいのちが代わりとなるほどです。この罪人をそれほどまでに愛してくださった神さまの愛を思う者となりたいものです。  さて、今日特にお話ししたい内容は、ここからです。アブラハムが戦争という一大イベントを終えてから、「神との関係」また「世との関係」をいかに持ったか、ともに見ることによって、私たちはどのように信仰を働かせる必要があるかを見てみたいと思います。  戦争を終えたアブラムを、2人の王が出迎えました。ひとりはソドムの王ベラです。彼は戦いの中で戦場に点在するアスファルトの穴に落ち込み、その間に人々や財産が敵に奪われるという踏んだり蹴ったりの状態に陥りましたが、そこから救われ、自分のいのちも助かり、財産も回復しました。そんな彼がアブラハムにどんな態度を取ったかは、のちほど見てみましょう。  もうひとりはサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクはパンとぶどう酒でアブラムを迎え、アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えました。アブラムがこのようにメルキゼデクに祝福され、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、聖書を貫くメシアなるイエスさまの到来を語るメッセージに鑑みると、きわめて重要な意味を持っています。このメルキゼデクについては聖書は多くを語りませんが、その存在は詩篇110篇、そしてヘブル人への手紙の5章と7章に語られています。 詩篇110篇は、ダビデ王に向けた主のみこころを語る詩です。その中の4節のみことばに、このようにあります。――主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」つまり、ダビデが王であるのと同時に祭司であることを、神さまご自身が変わらない誓いをもって定められたということです。 この事実は、ダビデの子孫としてこの地にイエスさまが来られたことによって成就しました。ヘブル人への手紙7章は、この詩篇110篇4節のみことばがイエスさまにおいて成就したことを語っています。おうちに帰ったら、ぜひヘブル人への手紙7章をお読みいただけたらと思いますが、このみことばをお読みすると、律法によって立てられた祭司よりも、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司が優先することが語られています。 律法において祭司としてレビ族が立てられるはるか以前、そのレビの先祖にあたるアブラム、アブラハムが、信仰をもってメルキゼデクを祭司として認め、その信仰告白として十分の一を与えている以上、レビ族を祭司として立てた律法を守り行うことによって人は義と認められるのではなく、アブラハムの信仰に倣い、人は信仰によって義と認められることが明らかになっているわけです。そのようなことを踏まえると、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、信仰によって義と認められるという観点からも、きわめて重要なことであると言えます。 そうです。十分の一はそういうわけで、信仰によって義と認められたことと深い関係があります。どことは申しませんが、牧師の権限の強い教会では、十分の一献金をささげなければ地獄に落ちるかのようにおどかす教会もあったようですが、それは非常に問題があります。それでは、天国とは信仰によって入る場所ではなく、お金で買う場所であると言っているのと同じことです。十分の一をささげることは信仰の告白以上のものであってはなりません。多く献金するのは結構なことなのでしょうが、それは絶対に誇りとすべきことではありません。私たちの誇りとすべきはキリストの十字架のみです。 メルキゼデクがキリストの予表であったことはヘブル書7章も証ししているとおりですが、この創世記14章をお読みしても、いろいろわかります。メルキゼデクという名前は「私の王は義である」または「義は私の王である」という意味で、すなわち「義の王」となります。義の王とはまさしくイエスさまのことです。また、彼はサレムの王でしたが、サレムとは平和という意味で、平和の君なるイエスさまの予表です。そしてサレムとは、のちのエルサレムと推測され、イスラエル建国以前のエルサレムにおいてすでに王であった、ダビデに優先する存在であったことがわかります。イエスさまはメルキゼデクに言及された同じ詩篇110篇の1節を解き明かされ、ダビデがキリストを主と呼んでいるならば、どうしてキリストがダビデの子孫なのか、と語られましたが、メルキゼデクとはダビデのすえにして先在する祭司なる王であったことを考えると、これもキリストの予表と言えます。 何よりも、メルキゼデクはアブラムのことを、パンとぶどう酒で迎えました。イエスさまが定められた主の晩さんへとつながる形で祝福しています。まさしく、アブラハムを父とするすべての主の民は、イエスさまのみからだなるパンと、血潮なるぶどう酒で、まことのいのちの祝福をいただきます。私たちはこれこそ祝福であることを、信仰によって受け取らせていただくのです。 こうして見るとアブラムは、メルキゼデクにはるかキリストを仰ぎ見ていたことがわかります。アブラムは信仰の父と唱えられますが、単なる信仰ではありません。イエス・キリストへの信仰を持っていたのです。いわんや私たちは、聖書によってはっきり、信仰の対象がイエス・キリストであることが明らかになっているわけですから、どれほどイエスさまから目を離さずに生きていく必要があることでしょうか。 パンとぶどう酒にあずかること、ささげものをすること、どちらも信仰告白です。やることで神さまに認められようとする宗教行為では決してありません。神さまはもうすでに、救いというかたちで、私たちにしてくださいました。あとはそれに対し、私たちが応答するかどうかにかかっています。パンとぶどう酒を受け取るのも、おささげするのも、私たちの信仰の応答として行うことです。 さて、これに対するソドムのベラ王の態度をご覧ください。ベラはアブラムにこんなことを言っています。21節を見てみましょう。……一見するとベラはもっともなことを言っているようです。まるで戦勝をもたらしてくれたアブラムに感謝するしるしとして、こう言っているように見えないでしょうか? しかしアブラムは、きわめてよこしまなソドムを代表するこの人物の心を見透かしていました。神さまに誓って、このベラからは何ももらうまい。 アブラムはその理由として、こう語っています。――それは、「アブラムを富ませたのは、この私だ」とあなたが言わないようにするためだ。もちろん、戦争に必要な兵士の糧食の分、アブラムの一族ではないが行動をともにしてくれたアネル、エシュコル、マムレの分は、アブラムは正当に要求しました。しかし、自分の財産としては、ソドムからは何一つ要求しない潔癖さを貫きました。 もし、ソドムの王に「アブラムを富ませたのはこの私だ」と言わせたとしたら、どうなるでしょうか。アブラムとアブラムにつく者、すなわち神の民の守護者が、ソドムということになります。神さまではないのです。あの忌まわしいソドムが、神の民の守護者となる。こんなことはあってはならないことです。アブラムはそういう点からも、とても賢明な選択をしました。 私たちのことを考えてみたいと思います。私たちにとっての守護者はだれでしょうか? あるいは、何でしょうか? もし、何者かが、私たちのことを神さまに従わせないことを当然のことと見なし、私たちのことを支配しているならば、私たちはそこから脱し、ただ神さまにだけ従えるように祈っていく必要があります。 私たちがもし、この世と調子を合わせて生きたとして、この世は私たちに感謝するでしょうか? 私たちが譲歩したからと、今度は自分たちが譲歩して、教会に来てくれたり、イエスさまを信じてくれたりするでしょうか? そもそもこの世というものは、私たちが厚かましくないのをいいことに、私たちに対し、当然のようにどんどん支配を強めてきます。神に敵対する自分たちの行いを達成するために、私たちから神への従順を抜き取り、自分たちに従わせる、手足のように用いる、これが私たちの生きている世の中というものです。 しかし、私たちが世の中に屈従して不自由に生きることは、果たして世というものの責任なのでしょうか? ローマ人への手紙12章2節をおひらきください。これはみなさんでお読みしましょう。 ……神さまに変えていただくこと、これは世に調子を合わせずに生きることが要求されている私たちへの「命令」です。私たちはですから、みことばをお読みすることでみこころを学び、お祈りすることで聖霊さまに人生に介入していただくことが必要になります。世に調子を合わせないのは、神さまとの関係にあって、私たちの責任です。 私たちがキリストの似姿として変えていただくこと、そのことで私たちは世に勝利できます。世への従順は神への従順へと変えられていきます。神への従順の歩みをともにする者たちへと、私たちは変えられてまいりましょう。私たちにとってはだれが事実上の主人でしょうか? ソドムが主人になることを拒否し、主にお従いしたアブラムの模範に倣いましょう。

赦しの確信はまことの礼拝へ

聖書箇所;ルカの福音書7:36~50 メッセージ題目;赦しの確信はまことの礼拝へ  世界の歴史には、光があるところに影があるものです。もちろん、あえて言うまでもないことですが、職業に貴賎なしというのは建前で、実際には、手を染めるべきではないと見なされる仕事というものが存在します。それが何であるかということは、具体的に私が申し上げるまでもなく、私たちは共通理解として持っていると思います。いろいろイメージできると思います。  イエスさまの周りにいた人には、そのような、悪い、と周りに認識されていた仕事に就いていた人が結構いたものでした。そもそも、最初にイエスさまを礼拝するために神さまに呼ばれたのは、野の羊飼いでした。天使の歌声を聞いた羊飼いなどというとロマンチックに聞こえますが、実際は、社会からのけ者にされて安息日を守ることもままならない者たちでした。ロマンチックとは程遠い、ならず者の集団、それが羊飼いです。しかしそんな彼らが最初にイエスさまを礼拝する栄誉にあずかったのでした。  今日お読みいただいた箇所でも、イエスさまのそばにやってきた人がどのような人か、はっきり記しています。世の中の人は、そのような人を罪人扱いして、それ相応の接し方をするかもしれません。しかし、イエスさまはどのように接していらっしゃったでしょうか? 今日の箇所からともに学び、私たちに向けられたイエスさまのみこころを、ともに見てまいりたいと思います。  ひとりのパリサイ人が、イエスさまを食事に招きました。このパリサイ人の名前はシモンといいました。パリサイ人といえば、宗教指導者として律法を文字どおり守ること、守らせることにいのちを懸けた人であり、ストレートに神さまのみこころを語るイエスさまに敵対し、排除しようという思いでいっぱいの存在でした。ただ、パリサイ人はみんながみんなそうだったというわけではなかったようで、たとえばパリサイ人のニコデモという人物は、夜中にイエスさまのところを訪問して、教えを乞うています。  このパリサイ人シモンも、聖書で断罪される意味での反キリストの象徴としてのパリサイ人、というのとはややちがったようでした。もしかするとシモンは、パリサイ人にとって宿敵ともいえるイエスさまを食事に招くようなことをして、度量の広さを見せようとしたのかもしれません。ともかくシモンは、イエスさまを食事に招きました。  時にその町には、罪深いことで名の知れた女性が暮らしていました。遊女、つまり売春婦でしょうか? それとも、多くの男をたぶらかす、妖婦、でしょうか? はたまた、男を毒牙にかけて破滅させる、毒婦、でしょうか? ユダヤの社会には存在してはならないことになっている、口寄せや占いをする人でしょうか? 聖書はそこまで、この名もなき女性について詳しくは語りません。 しかし、ただでさえ女性の地位が低かった時代にもってきて、罪深いことで名が知れていたとは、この女性は、社会からどれほど低められていたことでしょうか。  そんな彼女は、この町にイエスさまがやってこられたといううわさを聞きました。イエスさまが入っていかれた先は、宗教指導者シモンの家です。わが身を思うと、とても入っていけない……しかし、そこにイエスさまがおられると知るや、彼女は恥も外聞も捨ててシモンの家に入りました。  それも、彼女は何も持たずに入ったわけではありません。香油を携えました。芳香を放つ油です。この香油は、このような女性でも人並みの結婚を夢見て、嫁入り道具として大事にしまっておいていたものかもしれません。とにかく、とても高価なものです。聖書を読みますと、イエスさまが十字架にかかられる直前に、そのような高価な香油をイエスさまのみからだに注いだ女性の話が出てまいります。この女性は、けっして安いとはいえない香油の壺を携えて、イエスさまのもとにやってきたのでした。  果たして、シモンの家で食卓に着いておられるイエスさまの姿を見るや、彼女は泣き崩れました。とうとうイエスさまにお会いできた! その感激はどれほどのものでしょうか! むかし、宣教団体のスタッフをしていらっしゃる方のメッセージを聴いたとき、その方がこんなことをおっしゃったのがとても印象に残ったものですが、こんなことをおっしゃっていました。「毎日のディボーション……ある日、この毎日お会いするイエスさまというお方は、総理大臣より偉い、天皇陛下より偉いお方だと気づかされました。そこから、私のディボーションは変わりました。」私たちが心にお迎えし、毎日お目にかかるイエスさまというお方は、それほど偉大なお方なのです。礼拝の導入讃美でも歌いました、「主の御前に立ち 驚き仰ぎ見る」……この「驚く」ほどすばらしいお方という気持ちをもって、私たちはいつも主の御前に出ていますでしょうか?  この女性には少なくとも、その感覚がありました。さて、私たちが食卓というと、テーブルについて椅子に座って食事をする、という感じでしょう。あのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」も、そのように描かれているので、あたかも当時のユダヤではテーブルに椅子というスタイルだったように思えますが、あれは西洋的な創作です。イエスさまの伝記映画「ジーザス」を見てみますと、最後の晩さんでは、イエスさまと十二弟子が床の上に座って車座になっていますが、実はあれも正確ではないらしいです。当時のユダヤでは、床に横になって食事をしていた、というのが正解だそうです。実際、ヨハネの福音書を見てみますと、著者である使徒ヨハネがイエスさまの胸のところに寄りかかっていたという記述が出てきますが、それも彼らが横になって食事をしていたということを示しています。  この女性は、横になっておられたイエスさまの足もとに、後ろから近づきました。そして、涙を流してさめざめと泣きました。イエスさまの御足が彼女の涙でぬれたとありますが、彼女はイエスさまの御足を抱いて、その御足で涙にぬれた目をぬぐったのでしょうか。それとも、御足に顔がついてしまうほどにひれ伏したのでしょうか。 これほどまでにイエスさまの御足に近づいた彼女は、その御足に口づけしました。とても高価な香油の壺を割って、その香油をイエスさまの御足に塗りました。  彼女は、自分が何者かということを、世間から思い知らされながら生きていました。しかし、そんな彼女は、すべてをささげてもいいお方にはじめて出会うことができました。それはこの世的な男女の愛とはまったく次元の違う、神の愛により結びつく関係です。恥も外聞も捨てて御足を涙で濡らし、御足に口づけし、御足に自分にとって宝物である香油を塗る……私たちも、イエスさまを礼拝してはいるでしょう。しかし、もし目の前にイエスさまが現れたとして、ここまでの礼拝をすることができるでしょうか? できないとしたら、それはなぜなのでしょうか?  聖書を読み進めてまいりたいと思います。面白くないのはパリサイ人のシモンです。招いたのは自分ではないか。ところが、ここにやってきたこの女は何者だ。罪深いことで有名な女ではないか。その女のなすがままにさせているとは、イエスさまは何をお考えなのか。  私たちは、たとえば元暴力団員の宣教活動である「ミッション・バラバ」の話など、むかしいろいろと悪いことをしていたところからイエスさまを信じて救われたという人の証しを聞くのは好きでしょう。なにしろ面白いものです。しかし、そういう人が実際にそばにいて、一緒に礼拝をささげるとなると、私たちは大丈夫でしょうか? どんな過去があろうとも、イエスさまがその人を受け入れてくださっているから大丈夫、となれる方は幸いです。しかし人はときに、シモンのような反応を示してしまわないでしょうか? この人は罪人だ、の一点張りで拒絶するのです。  イエスさまは否定的な反応をするシモンに、必要な処方箋を施されました。イエスさまはたとえ話を語られました。41節と42節です。とても分かりやすい話です。1デナリが1日分の賃金だから、仮に1万円とすると、50万円と500万円のちがいになります。それは、500万円帳消しにしてもらった方が、50万円のほうよりも多く愛するに決まっています。早い話が、10倍愛します。  イエスさまは、当然の答えをしたシモンに対し、語られました。44節から47節です。  イエスさまはここで、何を問題にされたのでしょうか? イエスさまに対するシモンの態度です。特にこの聖書の記述では、シモンがパリサイ人であることをわざわざ断っているので、イエスさま、そして聖書は、パリサイ人という立場にある者全般の姿勢を問題になさっているとも言えます。  まず、シモンはイエスさまを迎えるにあたり、足を洗う水を出しませんでした。足を洗うのは、外から来た人を迎え入れるためにすべきことで、それは本来は奴隷の仕事でしたが、ともかく、シモンはイエスさまを家の中に招き入れた以上、イエスさまの足を洗ってさしあげてしかるべきでした。それをしなかったということは、イエスさまに対してその程度にしか接しなかった、ということです。口づけですが、これは現代日本のようなところにいるとなかなか理解できませんが、イエスさまの時代のユダヤでは親しさを表現する挨拶のしぐさでした。実際、聖書の中には口づけに関する描写があちこちに登場します。 しかし、相手の顔に実際に唇をつけるわけですから、相当親密な仲だからこそできる挨拶です。それだけに、アマサ将軍を暗殺するために口づけしようとしたヨアブや、兵士たちにイエスさまを逮捕させるために口づけを用いたイスカリオテのユダなどは、ほんとうに、してはならないことをした例であるわけです。しかしこれなどは、愛憎、ということばがあるように、憎しみや怒りの裏返しとしての口づけといえましょう。  それに比べるとこのシモンの場合は、口づけさえしなかったのです。彼はイエスさまのことを預言者と認めてはいたようですが、さしたる重要な関係を持つべき相手と思っていなかったと見受けられます。また、頭に油を塗るというのは、ユダヤのもてなしの習慣で、乾燥する気候の中を歩いて痛む髪の毛を潤してあげるという意味がありました。シモンがイエスさまにそれをしてあげなかったというのは、食事は振る舞ったかもしれなくても、ほんとうの意味でイエスさまをもてなそうとしていたのではなかったことを示しています。  つまりこのシモンの姿勢は、一見するとイエスさまに接しているようでも、実のところほんとうの意味で接しているわけではないわけです。この姿勢は、私たちにとっての反面教師とならないでしょうか? 形式的に礼拝すればそれでよしとする、形式的にお祈りすればそれでよしとする、形式的に献金すればそれでよしとする、形式的にディボーションや聖書通読すればそれでよしとする……そのような表面的なことで満足してしまうのが、私たちというものです。神々しいイエスさまを前にしているのだから、宗教的に振る舞えばそれでいいはずだ……私たちにとってのイエスさまとの交わりは、いつの間にかそのようなものになったりしてはいないでしょうか?  しかし、この女はちがいました。本来ならば水で洗いきよめるべきイエスさまの足は、シモンが洗ってくれなかったので、街道のほこりに汚れていました。それにもかかわらずこの女は、そのままのイエスさまの足に近づき、涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして、オリーブ油どころではない、はるかに高価な香油を塗りました。  イエスさまの足……それは神の国をこの世界に宣べ伝えるために、直接この地の上を歩き回られた御足です。神の国を私たちこの地の者たちに実現してくださるために、イエスさまは神であられたのにその栄光を捨て、人として世俗のちりにまみれて歩まれました。そしてこの御足をイエスさまは、十字架に釘づけにされて血潮を流され、人の罪を完全に赦してくださいました。  この女性はたしかに、罪深いわが身を思ってイエスさまの御足のもとにひれふしました。しかしイエスさまは彼女のしたその行為を、それ以上の本質的な意味を持つものとして評価してくださいました。それは、やがてご自身が十字架によって人を完全に罪から救ってくださるという、そのことを彼女がおぼえて心からの礼拝をささげていることであるということです。ゆえにイエスさまは彼女に宣言されたのでした。あなたは多く愛したのですから、多く赦されています。あなたの罪は赦されました。あなたの信仰があなたを救ったのです。  私たちはイエスさまを愛したい思いでいっぱいでしょう。それはクリスチャンであれば、だれしも同じであろうと思います。 しかし、イエスさまの御目から見れば、シモンとこの女性の愛に違いがあったように、人それぞれの愛にも違いがあることを認めるべきです。  その違いはどこから生まれるのでしょうか? まずそれは、自らをどこまで罪人と自覚しているかです。シモンはパリサイ人であり、厳格にみことばを守る自分を正しいとする人でしたから、自分の罪深さなどとても目が留まらない人でした。これに対してこの女性は、人からそう見られる以上に、自らの罪深さをよく悟っていました。彼女はそれでも、イエスさまを愛したい、イエスさまに赦していただきたい、その思いだけで、傍目から見れば過激にすら思える礼拝行為に踏み切ったのでした。そんな礼拝をすることなどは、パリサイ人シモンには及びもつかないことでした。  そしてイエスさまはこの女性に、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃって送り出されました。ここで問題にされているのは信仰です。過激な行為をしたことそのものでイエスさまが評価なさったのではありません。行為さえよければ、というのでは、律法を厳格に守り行うパリサイ人でもよいということになります。イエスさまが問題にされたのはどこまでも、彼女の信仰でした。  彼女には、イエスさまならこの罪深い私の罪を赦してくださる、という信仰がまずありました。そこからイエスさまへの愛に満ちた礼拝が生まれました。信仰が愛の行いを生んだのです。  愛の行いに直結しない信仰は、ほんとうの意味での信仰ということはできません。愛の行いにつながっていかないならば、厳しい言い方になりますが、「信じているふり」または「信じているつもり」にすぎません。「ふり」や「つもり」にとどまるキリスト信仰に力がないのは当然のことです。  でも、この女性はちがいました。自分の罪のけがれをどこまでも悟るゆえ、その罪を赦してくださる唯一のお方と信じる、イエスさまに一心に駆け寄り、一心にささげる愛の行いができたのでした。私たちは、社会的地位のある立派な人と、下賤な罪人のどちらになりたいかと聞かれたら、百人が百人、社会的地位のある立派な人と答えるでしょう。しかしイエスさまにかかれば、信仰があるかないかをご覧になり、下賤とされている罪人を社会的地位のある人に勝利させてあまりあるのです。その勝利と敗北はどれほど違うのか? 永遠のいのちがあるかないかです。罪の赦しがあるかないかです。天国があるかないかです。  要は私たちが、イエスさまがいなければとても生きていけない最悪の罪人であるという自覚を持ち、イエスさまにすがることです。この女性のような、イエスさまの御足にすがり、泣いてくずおれるがごとき礼拝をささげることです。もちろん、これはたとえであって、実際に泣いてくずおれてみてください、と言っているわけではありません。この女性は泣いてくずおれてイエスさまに礼拝をささげましたが、私たちの愛の応答もそういう形でなければならないということではありません。 御霊の与えてくださる、ほんとうの感激に満ちた礼拝は、人の演技や見せかけで何とかなるものではありません。形だけ感激して満足するのでは律法主義と同じです。盛り上がった感情に満たされようと礼拝に過剰な演出をするのも同じことでしょう。そういうことをする必要はありません。  ただし私たちは、礼拝をささげるにあたりましては、ただ一つ必要なものがあります。それは「小羊なるイエスさまの血」です。神さまがエジプトに下された死の怒りを過ぎ越された条件は、それぞれの家の門に塗られた羊の血でした。私たちも罪人のゆえに受けるべき、神さまの怒りを過ぎ越していただくために、まことの小羊イエスさまがどんなに苦しんで、私のために十字架の上で血潮を流してくださったか、そのことを覚えて礼拝をささげるのです。人間的な宗教心を満足させる、などという次元で礼拝をささげるのではないのです。必要なのは罪の自覚と、そのためにイエスさまが地塩を流してくださったことを信じ受け入れる信仰です。  その信仰は、私たちの間に愛のわざを生みます。イエスさまを愛するゆえに、兄弟姉妹を愛するのです。この愛し合う姿はこの世に証しとなり、人々は私たちのこの姿を見て、主を礼拝することの素晴らしさを知るようになります。  祈りましょう。神を愛し、人を愛する価値すらない私たちのことを、イエスさまが愛し、かぎりなく赦してくださったと信じる信仰をもって、主のみもとにまいりましょう。