「神への従順」対「世への従順

聖書箇所;創世記14:1~24 メッセージ題目;「神への従順」対「世への従順」  私が韓国で神学の勉強を始めるまでの間、献金というものについてそれほどちゃんとした考えを持っていませんでした。そのような中、神学校の寄宿舎で同じ部屋になった関西出身の方と、ある日話題がたまたま献金のことになったとき、その方が「什一献金はささげなあかんもんや。什一献金は、いのちや」とおっしゃったことに、びくっ、としたものでした。それ以来、どの韓国教会においても普通に行なっている「什一献金」というものを、自分も実践することにしたのでした。  みなさんは以前から、月定献金という形で収入の一部を定期的にささげることを実践してこられたわけですから、今日のメッセージは献金の奨励として行うわけではありません。今日のメッセージのタイトルは、「『神への従順』対『世への従順』」とつけさせていただきました。アブラムにとっての神との関係、そしてそれに対照的な世との関係がいかなるものであったかを見ることにより、私たちの働かせるべき信仰のあり方を考えてまいりたいと思います。  先々週も学びましたとおり、ロトは一見すると得をする選択をして、ヨルダンの低地、ソドムへと引っ越しました。しかし聖書の評価に従うと、ソドムの人々は邪悪で、主に対してはなはだしく罪深い者たちであった、ということでした。ソドムは、都市そのものがひとつの王国をなすものであり、その都市全体、国全体が極めてひどい状態にあったというわけです。それゆえ神さまは、このソドムをことごとく、天の火をもって滅ぼされました。  このソドムの王ベラはもともと、エラムという国のケドルラオメル王に仕えていました。ケドルラオメルは勢力があり、ソドムの王のほかにも、やはり天の火によって滅ぼされたゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王を12年にわたって支配下に置いていました。しかし彼らは翌年、ケドルラオメル王に謀反を起こし、その支配から脱することを企てました。  これに対しケドルラオメル王は、シンアル(シュメール)、エラサル、ゴイムのそれぞれの王と連合軍を組織し、彼ら5人の王の連合軍との戦争を始めました。この連合軍は彼らと戦闘を繰り広げることになる戦場に至るまで、レファイム人、ズジム人、エミム人、フリ人、アマレク人、アモリ人と、片っ端から諸民族を打ち破りながら進んできました。非常に強い軍隊だったことが窺い知れます。  そして、シディムの谷で戦争が繰り広げられたとき、ケドルラオメルの軍のほうが優勢になり、ソドムの王とゴモラの王はアスファルトの穴に落ちて出られなくなりました。その間にケドルラオメルの連合軍は、ソドムとゴモラから財産や食料を略奪しました。それだけではありません。ソドムにはロトが住んでいましたが、ロトは拉致され、その豊かな財産もろとも奪われました。自分のために豊かな土地を選んだ近視眼的な選択が、このような悲惨な結果を生んでしまったのでした。  さて、この知らせはアブラムに届きました。アブラムはかつて、配下の者たちがロトの群れと争いを起こしたことに対し、それはよくないので別々の道を行こうと提案したわけで、もはやロトとともに歩まず、カナンの地を切り開く立場にありました。そんなアブラムは、甥の窮乏を見ても黙っていられたでしょうか? そんなことはなかったのです。あの愚かな選択の責任をロトに取らせて自分は知らん顔とはならず、自分のところで育てた318人の屈強な者たちを伴って、ケドルラオメルの連合軍に戦いを挑んだのでした。  これは、私たちのモデルと言うことができるでしょう。私たちの信仰生活というものは、自分だけが祝福されて終わり、というものであってはならないはずです。兄弟姉妹の窮乏を見て、私たちは心が動かないでいるでしょうか? ヤコブの手紙2章14節から17節には、このようなことばがあります。――私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。  私たちはもちろん、よい行いを積み重ねることで天国行きの切符を手にするわけではありません。そんなことは不可能なことです。しかしそれなら、よい行いは必要ないかというと、決してそんなことはありません。私たちは「救われるために」よい行いをするのではなく、「救われているから」よい行いをするのです。この違いは、ご理解いただけると思います。私たちのことを救ってくださったイエスさまのそのみこころに従おうと、少しでも隣人、兄弟に愛を施そうとなってしかるべきではないでしょうか? もちろん、なかなか難しいことではありますが、ここはひとつ、ロトのために一肌脱いだアブラムを模範としてまいりたいと思います。  結局、アブラムはケドルラオメルの連合軍を打ち破りました。そして拉致されていたロトをはじめ、奪われた人々や財産を取り戻しました。しかし、この戦争は侵略のための戦争ではありません。ロトを救いたい、ただそれが強い動機となって行なったものでした。ロトのたましいが救われるために、多くの血が流されたのでした。  ロトの姿を考えてみましょう。これはもしかすると、私たちの姿ではなかったでしょうか? 私たちは神さまのみこころを知りながら、それに知らんふりをして自分勝手な道を行きます。そのために迷います。わざわいにも遭います。損害も被ります。しかし、そのような私たちであることを主はすべてご存知で、そんな私たちであっても決して見捨てず、助けてくださいます。あの自分勝手なロトが救われるために多くの血が流されたように、私たちが救われるために、なによりも尊い、イエスさまの血潮が流されたのです。このことを私たちはどれほど感謝しているでしょうか? 感謝することにも鈍感なのが私たちです。しかし、それにもかかわらず、主はなおも私たちを愛してくださいます。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりとする。……イザヤ書43章4節のみことばにあるとおりです。私たちはどれほど愛されているか? 神の子なるイエスさまのいのちが代わりとなるほどです。この罪人をそれほどまでに愛してくださった神さまの愛を思う者となりたいものです。  さて、今日特にお話ししたい内容は、ここからです。アブラハムが戦争という一大イベントを終えてから、「神との関係」また「世との関係」をいかに持ったか、ともに見ることによって、私たちはどのように信仰を働かせる必要があるかを見てみたいと思います。  戦争を終えたアブラムを、2人の王が出迎えました。ひとりはソドムの王ベラです。彼は戦いの中で戦場に点在するアスファルトの穴に落ち込み、その間に人々や財産が敵に奪われるという踏んだり蹴ったりの状態に陥りましたが、そこから救われ、自分のいのちも助かり、財産も回復しました。そんな彼がアブラハムにどんな態度を取ったかは、のちほど見てみましょう。  もうひとりはサレムの王メルキゼデクです。メルキゼデクはパンとぶどう酒でアブラムを迎え、アブラムはすべてのものの十分の一を彼に与えました。アブラムがこのようにメルキゼデクに祝福され、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、聖書を貫くメシアなるイエスさまの到来を語るメッセージに鑑みると、きわめて重要な意味を持っています。このメルキゼデクについては聖書は多くを語りませんが、その存在は詩篇110篇、そしてヘブル人への手紙の5章と7章に語られています。 詩篇110篇は、ダビデ王に向けた主のみこころを語る詩です。その中の4節のみことばに、このようにあります。――主は誓われた。思い直されることはない。「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」つまり、ダビデが王であるのと同時に祭司であることを、神さまご自身が変わらない誓いをもって定められたということです。 この事実は、ダビデの子孫としてこの地にイエスさまが来られたことによって成就しました。ヘブル人への手紙7章は、この詩篇110篇4節のみことばがイエスさまにおいて成就したことを語っています。おうちに帰ったら、ぜひヘブル人への手紙7章をお読みいただけたらと思いますが、このみことばをお読みすると、律法によって立てられた祭司よりも、朽ちることのないいのちの力によって立てられた祭司が優先することが語られています。 律法において祭司としてレビ族が立てられるはるか以前、そのレビの先祖にあたるアブラム、アブラハムが、信仰をもってメルキゼデクを祭司として認め、その信仰告白として十分の一を与えている以上、レビ族を祭司として立てた律法を守り行うことによって人は義と認められるのではなく、アブラハムの信仰に倣い、人は信仰によって義と認められることが明らかになっているわけです。そのようなことを踏まえると、アブラムがメルキゼデクに十分の一を与えたことは、信仰によって義と認められるという観点からも、きわめて重要なことであると言えます。 そうです。十分の一はそういうわけで、信仰によって義と認められたことと深い関係があります。どことは申しませんが、牧師の権限の強い教会では、十分の一献金をささげなければ地獄に落ちるかのようにおどかす教会もあったようですが、それは非常に問題があります。それでは、天国とは信仰によって入る場所ではなく、お金で買う場所であると言っているのと同じことです。十分の一をささげることは信仰の告白以上のものであってはなりません。多く献金するのは結構なことなのでしょうが、それは絶対に誇りとすべきことではありません。私たちの誇りとすべきはキリストの十字架のみです。 メルキゼデクがキリストの予表であったことはヘブル書7章も証ししているとおりですが、この創世記14章をお読みしても、いろいろわかります。メルキゼデクという名前は「私の王は義である」または「義は私の王である」という意味で、すなわち「義の王」となります。義の王とはまさしくイエスさまのことです。また、彼はサレムの王でしたが、サレムとは平和という意味で、平和の君なるイエスさまの予表です。そしてサレムとは、のちのエルサレムと推測され、イスラエル建国以前のエルサレムにおいてすでに王であった、ダビデに優先する存在であったことがわかります。イエスさまはメルキゼデクに言及された同じ詩篇110篇の1節を解き明かされ、ダビデがキリストを主と呼んでいるならば、どうしてキリストがダビデの子孫なのか、と語られましたが、メルキゼデクとはダビデのすえにして先在する祭司なる王であったことを考えると、これもキリストの予表と言えます。 何よりも、メルキゼデクはアブラムのことを、パンとぶどう酒で迎えました。イエスさまが定められた主の晩さんへとつながる形で祝福しています。まさしく、アブラハムを父とするすべての主の民は、イエスさまのみからだなるパンと、血潮なるぶどう酒で、まことのいのちの祝福をいただきます。私たちはこれこそ祝福であることを、信仰によって受け取らせていただくのです。 こうして見るとアブラムは、メルキゼデクにはるかキリストを仰ぎ見ていたことがわかります。アブラムは信仰の父と唱えられますが、単なる信仰ではありません。イエス・キリストへの信仰を持っていたのです。いわんや私たちは、聖書によってはっきり、信仰の対象がイエス・キリストであることが明らかになっているわけですから、どれほどイエスさまから目を離さずに生きていく必要があることでしょうか。 パンとぶどう酒にあずかること、ささげものをすること、どちらも信仰告白です。やることで神さまに認められようとする宗教行為では決してありません。神さまはもうすでに、救いというかたちで、私たちにしてくださいました。あとはそれに対し、私たちが応答するかどうかにかかっています。パンとぶどう酒を受け取るのも、おささげするのも、私たちの信仰の応答として行うことです。 さて、これに対するソドムのベラ王の態度をご覧ください。ベラはアブラムにこんなことを言っています。21節を見てみましょう。……一見するとベラはもっともなことを言っているようです。まるで戦勝をもたらしてくれたアブラムに感謝するしるしとして、こう言っているように見えないでしょうか? しかしアブラムは、きわめてよこしまなソドムを代表するこの人物の心を見透かしていました。神さまに誓って、このベラからは何ももらうまい。 アブラムはその理由として、こう語っています。――それは、「アブラムを富ませたのは、この私だ」とあなたが言わないようにするためだ。もちろん、戦争に必要な兵士の糧食の分、アブラムの一族ではないが行動をともにしてくれたアネル、エシュコル、マムレの分は、アブラムは正当に要求しました。しかし、自分の財産としては、ソドムからは何一つ要求しない潔癖さを貫きました。 もし、ソドムの王に「アブラムを富ませたのはこの私だ」と言わせたとしたら、どうなるでしょうか。アブラムとアブラムにつく者、すなわち神の民の守護者が、ソドムということになります。神さまではないのです。あの忌まわしいソドムが、神の民の守護者となる。こんなことはあってはならないことです。アブラムはそういう点からも、とても賢明な選択をしました。 私たちのことを考えてみたいと思います。私たちにとっての守護者はだれでしょうか? あるいは、何でしょうか? もし、何者かが、私たちのことを神さまに従わせないことを当然のことと見なし、私たちのことを支配しているならば、私たちはそこから脱し、ただ神さまにだけ従えるように祈っていく必要があります。 私たちがもし、この世と調子を合わせて生きたとして、この世は私たちに感謝するでしょうか? 私たちが譲歩したからと、今度は自分たちが譲歩して、教会に来てくれたり、イエスさまを信じてくれたりするでしょうか? そもそもこの世というものは、私たちが厚かましくないのをいいことに、私たちに対し、当然のようにどんどん支配を強めてきます。神に敵対する自分たちの行いを達成するために、私たちから神への従順を抜き取り、自分たちに従わせる、手足のように用いる、これが私たちの生きている世の中というものです。 しかし、私たちが世の中に屈従して不自由に生きることは、果たして世というものの責任なのでしょうか? ローマ人への手紙12章2節をおひらきください。これはみなさんでお読みしましょう。 ……神さまに変えていただくこと、これは世に調子を合わせずに生きることが要求されている私たちへの「命令」です。私たちはですから、みことばをお読みすることでみこころを学び、お祈りすることで聖霊さまに人生に介入していただくことが必要になります。世に調子を合わせないのは、神さまとの関係にあって、私たちの責任です。 私たちがキリストの似姿として変えていただくこと、そのことで私たちは世に勝利できます。世への従順は神への従順へと変えられていきます。神への従順の歩みをともにする者たちへと、私たちは変えられてまいりましょう。私たちにとってはだれが事実上の主人でしょうか? ソドムが主人になることを拒否し、主にお従いしたアブラムの模範に倣いましょう。