メッセージ題目;ペテロの涙
コロナウイルスの流行に伴う世の中の混迷は、いよいよ極まってきた感があります。これからどうなるのか、そればかり考えるととても不安になるでしょう。私たちはこの混迷の世界に、キリストに従う最高の生き方を示すことをもって、主の御手に用いられてまいりたいものです。しかしそのためには、私たちはまず何が必要でしょうか? 今日のみことばから、ともに学んでまいりましょう。
本日の箇所は、先週学びましたマタイの福音書の箇所のちょうど続きです。弟子たちはゲツセマネの園において、イエスさまと一緒に祈ることができませんでした。眠りこけてしまったのでした。そのようにして祈れなかった弟子たち、特に、ペテロは、ここから目まぐるしい変化を体験することになりました。
まずペテロは、何をしたのでしょうか? イエスさまを捕らえにやってきた大祭司のしもべ、マルコスに襲いかかり、耳を切り落としました。もちろん、イエスさまはそれを止めさせ、その耳をいやしてくださいましたが、このときペテロが刃傷沙汰に及んだということは紛れもない事実です。
先週、肉体の弱さが燃えている心に打ち勝ってしまうことについて学びましたが、ペテロはこの刃傷沙汰においても、心が燃えていたというべきでしょうか? ある意味、それはほんとうです。心が燃えていたからこそ、イエスさまを守ろうとしたわけでした。しかし、別な側面から見れば、ペテロは「正しく」心が燃えていたわけではありませんでした。言うなれば、聖霊なる神さまの炎により、心が燃やされていたわけではありません。もしそうならば、イエスさまにとがめられるような刃傷沙汰になど及ばなかったはずです。
ペテロはかつて、ご自身の十字架を予告されたイエスさまを諌めるような真似をしました。そんなことがあってはなりません、と。しかし、それは神のことを思わないで、人のことを思う、みこころを理解しない態度です。このときもペテロはそうでした。人の子は罪人たちの手に渡される、とイエスさまが予告されたとおりのことが起こったならば、それに抵抗するようなことなど無意味です。ペテロは自分の行為により、事の成り行きを変えようとしたのでしょうが、それはみこころを曲げようとするに等しいことでした。
イエスさまはこのペテロの行為を諌められ、十字架にかかることがみこころであるとはっきり語られました。すると今度は、ペテロも含めて弟子たちはどうしたのでしょうか? 逃げたのです。ヨハネの福音書の記述を見てみますと、イエスさまは兵士たちや群衆に向かって、弟子たちはこのまま去らせなさい、と語られたとあります。彼らを去らせるのは確かに、イエスさまのみこころでした。しかし、聖書の記述の評価は、彼ら弟子たちは「イエスさまを見捨てて逃げた」のです。
これは、どういうことでしょうか? 彼ら弟子たちは、あれだけイエスさまのためにいのちを捨てる、と大見得を切っておきながら、しょせんいざというときには、イエスさまのことを見捨てるものである、ということです。
イエスさまは山上の垂訓において、一切誓ってはならない、とおっしゃいました。神かけて誓う者は、神の領域を侵す者である、それなら、と、自分を指して誓う者も、その髪の毛を白くも黒くもできない、有限な存在ではないか、というわけです。私は決してつまずきません、裏切りません、あなたのためならいのちも捨てます、そんな誓いをした者たちは、いざとなったらイエスさまを「見捨てた」のです。
これが、3年にわたってイエスさまと愛の交わりを分かち合ってきた弟子たちのまことの姿でした。そこで、私たちの姿を省みたいと思います。私たちはときに、霊的な高揚感を体験するものです。祈っているとき、賛美しているとき、ほかの兄弟姉妹と交わりを持っているとき……そのとき、全能なる神さまの霊、聖霊さまの満たしを体験し、私たちの感情はいやがうえにも高まります。しかし、このようなところに、サタンの誘惑もまた臨むことを、私たちは謙遜に認める必要があります。神さまは全能でも、私たちは全能ではありません。私たちはこのたびのコロナウイルスの流行の中にあって、いかに自分たちが弱い存在、はかない存在であるかを思い知らされているところです。いわんや全能などとんでもないことです。
しかし、こうも言えます。このとき、宗教指導者の前に引き出されて、裁判を受けたのはイエスさまおひとりでした。神さまは、十字架という栄誉を、イエスさまおひとりにのみ負わせられたと見るべきでしょう。この栄誉には、いかに主の弟子であろうともしょせんは罪人である人間を伴わせることを、神さまはお許しにならなかったのです。もし、ペテロでも誰でもいい、だれかがイエスさまとともに十字架につくようなことがあったならば、その者はイエスさまと同等のような扱いを受けることにならないでしょうか。後世の者たちが、そのような弟子を神格化したりはしないでしょうか。ひいては、イエスさまよりも尊く扱ったりはしないでしょうか。そんなことは絶対にあってはならないことです。
そうだとすると神さまは、人の弱ささえも用いて、イエスさまおひとりに十字架を負わせられたといえるのではないでしょうか。まことに、イエスさまだけが救い主、贖い主です。
しかしペテロは、それでもイエスさまのあとをついていきました。なんとか裁判の場に入りこんで、イエスさまの様子を隠れて見つめていました。
このときイエスさまはご自身のことを、あざける者ども、迫害する者どもの手に、あまりに無防備に任せていらっしゃいました。嘘をついてでもイエスさまをローマに引き渡し、十字架にかけようという証人たちがしゃしゃり出てきました。偽りの証言を前にしても、イエスさまはご自身を弁護するおことばを語られることなく、沈黙を守られました。しかし、イエスさまが沈黙を破られる時が来ました。それは、大祭司カヤパが、神の御名により命じるという行動に出たときでした。答えよ、おまえは神の子キリストか!
カヤパのしたことは、霊的に鈍感というにはあまりに罪の重いことでした。人が神をさばく、何ということでしょうか。しかし、イエスさまは、ここにおいて、ご自身がキリストであると宣言され、さらには、ご自身がやがてこの世に来てさばく存在であることを宣言されました。
カヤパがほんとうに神の人ならば、このおことばを聞いた途端、服を引き裂いて、おお主よ! このように神の御子をさばいた私どもを幾重にも罰してくださいますように! と、泣いてくずおれ悔い改めてしかるべきでした。だが、彼はまったく違う理由で服を引き裂きました。この者は自らを神と宣言した。何という冒瀆だ! 許してはおけぬ。十字架だ、十字架につけろ!
こうなっては、イエスさまは罪人どもの呪いとあざけりの対象となるしかありませんでした。罪人どもはイエスさまが神であられることを否定する行為に出ました。目隠しをして見せて、イエスさまの顔を平手で打ち、だれが打ったか当ててみろ、などと。そんなこともできないとは、おまえが神の子などとは嘘つきだ……。
しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか?「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょうか。」今、この瞬間にも、この罪人どもを天から御使いたちを呼び、皆殺しにすることなどイエスさまにはたやすいことでした。しかし、イエスさまはそうなさらず、罪人どもの手に落ちることを選ばれました。それは、十字架にお掛かりになるという、御父のみこころに従順になられるためでした。
ペテロは、イエスさまが殴られたり、つばをかけられたりする光景を、ありのままに見ていました。それは、イエスさまを愛し従ってきた者として、どれほど目をそむけたくなるものだったことでしょうか。このときペテロは、もはやイエスさまとともに迫害されよう、十字架を負おうという思いなど、どこかに消し飛んでしまっていました。
そんなペテロの心の隙に、ひとつのことばがかけられました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」暗闇の中に熾された炭火に照らされるペテロの顔を、取り囲む人々がまじまじと見つめます。ペテロを恐怖が襲いました。この場所に来てしまったことを、どれほど後悔したことでしょうか。
ヨハネの福音書にあるこのできごとの記録を見ると、ペテロをその裁判の場のそばまで導いたのは、大祭司にコネのあったイエスさまの弟子であったとあります。この弟子の名前は記されていませんが、ある意味彼は、皮肉なことですが、大祭司の存在に守られていたといえるのかもしれません。しかしペテロはそうではありませんでした。勇気を出してイエスさまのあとについていっても、実際はとても心細い中にありました。大祭司の存在がペテロを守ってくれたわけではありません。むしろ大祭司は、イエスさまを極限まで迫害する者でした。周りにいる者たちは、ほぼ、大祭司につく者たちです。その現実に気づかされたとき、ペテロは、イエスさまを知らない、あなたは何を言っているのか、必死で取り繕い、ついには、私がもし知らないというのが嘘なら、私は呪われてもよい、と、恐ろしい誓いを立てました。
そのとき、鶏が鳴きました。ルカの福音書を読むと、そのときイエスさまが振り向いて、ペテロを見つめられたとあります。イエスさまがどんな眼差しだったかをみことばは記していませんが、目はどれほど雄弁にお気持ちを語ることでしょうか。イエスさまと目があったペテロに、いわく言い難い感情が押し寄せてきて、彼は外に出て、泣き崩れました。
しかし……イエスさまはペテロがこうなることを、すでに告げていらっしゃいました。あなたは、今はついてくることができないが、のちにはついてくる。
すべての人類を救う十字架を負われるのは、イエスさまおひとりであり、イエスさまはこの十字架を負うことに、だれがついてくることもお許しになりませんでした。それがたとえ、愛する弟子たちであったとしてもです。しかし、イエスさまはまた、まことの弟子としてふさわしい人は、イエスさまのあとを自分の十字架を背負って従う人である、とおっしゃいました。
イエスさまが生きておられたとき、ペテロはことばでも行いでも、多くの失敗をしました。それは、イエスさまの弟子としてふさわしくない姿、十字架というおのれに死ぬ道とはあまりにかけ離れた、目立とう精神で生きる姿であったとも言えましょう。しかしペテロのそのような罪も、イエスさまは十字架にかかってくださり、完全に赦してくださいました。
この、人を救いに導くわざ、そのためには自分のいのちさえ惜しまずに投げ出す生き方、その生き方に踏み出していくことで、ペテロはイエスさまについていくことができるようになりました。しかしその生き方をするためには、まず、十字架の前に自我が完全に砕かれる必要がありました。
それまでペテロは、イエスさまについていくことを人間的な蛮勇を振るうことと勘違いしていたふしがあります。そんなペテロは、たったひとり十字架を負われたイエスさまの御前に引き出される必要がありました。砕かれる必要がありました。
あの裁判は、一見するとイエスさまがさばかれていたようでも、ほんとうは全人類がさばかれる場でした。神の子を十字架につけることによって、全人類がいかに罪にまみれた存在であるかがはっきりしたからです。
そのさばきの場にペテロが引き出されたように、私たちひとりひとりも引き出されています。私たちはしばしば、イエスさまへの従い方を肉の力でしてしまうような過ちを犯します。今年の教会の標語は「信仰によって歩もう」であり、私たちは生活のさまざまな領域に信仰を働かせることを目指すものですが、それが間違った生活の習慣により、ときに、信仰を働かせることを、人間的な頑張りや形ばかりの宗教的な行為で代用してしまう弱さを、私たちはつねに持っています。それをしてしまうと、私たちはどこかで無理がたたり、疲れます。もしかすると、人間関係に齟齬をきたして傷つくかもしれません。涙を流すことだってあるでしょう。
そのときこそ、私たちがイエスさまの御前に出ていくときです。私たちは罪あるままだとさばかれても仕方ないものです。しかし私たちは、すでにイエスさまの十字架によって罪赦されている者として、悔い改めることにより神さまとの絆を結び直す特権が与えられています。神さまとつながれる祝福を、私たちはどれほど日々の生活の中で有難く味わっているでしょうか。
私たちも肉の弱さのゆえに、罪に走ることもあるでしょう。自分の罪深さに落ち込んだり、泣いたりすることもあるでしょう。しかし、それで終わりではありません。ペテロの涙の向こうに、初代教会の使徒として大きく用いられたペテロの姿があったように、私たちも悔い改めの涙の向こうに、大きく用いていただく祝福があります。だから、悔い改めを恐れてはなりません。