危機の祈りは平時の祈りから

詩篇122篇/祈り/使徒信条/交読 詩篇47篇/主の祈り/讃美 讃美歌495 聖書箇所;詩篇34篇1節~22節 メッセージ題目;危機の祈りは平時の祈りから 新型コロナウイルス流行は、教会の在り方を変えてしまいました。何よりも、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励ましあい、かの日、すなわち主の再臨が近づいているのを見て、ますますともに集まり励ましあいましょう、という、へブル10章25節の主のご命令に、教会が従えなくなってしまった、ということです。使徒信条で告白している「聖徒の交わり」、これが持てなくなった教会の受けたダメージは、そうとうに大きなものがあります。 コロナウイルスの流行という世界の危機は、東日本大震災という、やはり日本を襲った危機と比べてみると、その恐ろしさが際立っています。東日本大震災でも多くの人のいのちが奪われ、破壊的な被害をもたらしましたが、それでも人々はボランティア活動などを通して一緒になってこの問題に立ち向かうなど、連帯が生まれました。「絆」ということばが流行したとおりです。しかし、このたびのコロナウイルス流行は、その人として持つべき、人と人との「絆」を断ち切るものとなりました。目の前の人に感染させるかもしれない、逆に、感染させられるかもしれない、だれのこともそのように思って、おちおち会話することもできない、出かけることもできない、そんな事態が今まであったでしょうか? このようなとき、私たちのできることは何だろうか……祈っているうちに与えられたのが、今日の本文です。そうだ、聖徒の交わりを持てないと嘆くのではなく、神さまとの交わりを持つべきではないだろうか! そこで、今日の本文から祈りについて学びたいと思います。 今日の本文、詩篇34篇はダビデの祈りの告白です。今日は特に、やや長い本文のうち、7節までを中心に学びたいと思います。 まずはタイトルをご覧ください。これは、サムエル記第一の21章にて、サウル王から逃れたダビデがガテの王アキシュのもとに落ち延びたとき、家来が、この男は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌われた、あのダビデではないですか、と王に注進しました。本来ならばダビデは、そうです、その私があなたのもとに助太刀にまいりました、と、自分をアピールして、ちゃっかりガテの軍隊に加わってもよさそうなものでした。しかし、今ダビデは恐れに取りつかれていました。サウルという名前を聞いただけで震え上がるような心境にいました。 それでダビデは、早くここから逃げなければ、と思い、一計を案じて、気がおかしくなったふりをしました。門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりしました。なぜこんな奴を連れてきた……アキシュは呆れ、結局ダビデは追い出され、事なきを得ました。この詩篇34篇はそのできごとの後に生まれたものだと、題名で明かされています。 ダビデはこの行動によりいのちは守れましたが、未来の王としての尊厳など、あったものではありませんでした。みっともない姿をさらした……見ようによっては、これはイスラエルの偉大な王さまダビデの「黒歴史」ともいうべきものです。「黒歴史」……思い出したくない歴史というものは、だれにでもあるものでしょう。それが何かの拍子に脳裏をかすめると、気がおかしくなりそうな、あの行動。私にもたくさんあります。ダビデは、まさにその最悪な事態のただ中にありました。 しかし、このおかしな行動のゆえにダビデが屈辱に打ち沈んだ、とか、自己憐憫に陥ったというような記述は、聖書のどこを探してもありません。むしろ、この詩篇は何を語っていますでしょうか?「私はあらゆるときに/主をほめたたえる。/私の口には/いつも主への賛美がある。」嘆きや自己憐憫ではありません。賛美です。 ダビデは、わが身を守るためとはいえ、神の民なるイスラエルの王となる人物にあるまじき行動を取ったことに変わりはありません。しかし、ダビデがそのようなおかしな行動をしたことは、結局はダビデのいのちを救いました。神さまが守ってくださったのです。 そんなダビデの恥を覆ったものは何でしょうか? 神さまへの賛美です。では、ダビデはその賛美を、どのようなときにささげると言っていますか?「あらゆるときに」「いつも」……そうです、ダビデは今、いのちの危機から脱したということへの感謝の祈り、また逆に言えば、いのちの危機から脱したものの、人前でとんでもなく恥ずかしい行動に出たという事実、しかし、それをもってしても消すことのできない賛美と感謝をささげています。 このような最悪なときにも賛美と感謝が絶えないのはなぜでしょうか? それはダビデが、普段から賛美と感謝を主におささげすることが身についていたからです。詩篇をお読みになるとわかりますが、多くはダビデによるもので、ダビデがいかにして、神さまの御前に祈りをささげていたかを知ることができます。時には激烈な表現さえも用いて、敵がどんなに悪い存在なのかを表現したり、敵がさばかれることを祈ったりしています。そこには、いかにも達観したような取り澄ました態度は見られません。この、詩篇に現れたダビデの祈りを目にすると、これぞ「祈りの達人」という印象を受けます。取り澄ました表現ややたらと文学的な表現を多用するのが達人なのではありません。 4節から7節をお読みしましょう。……主はどのようなお方でしょうか? すべての恐怖から救い出してくださるお方、すべての苦難から救い出してくださるお方、主の使いによって助け出してくださるお方です。ダビデもそうであったように、主の子どもたちも恐怖に陥ります。しかし主は、どんな恐怖からも救い出してくださるのです。 敵の前、異邦人の前で醜態を見せる、ダビデは最悪の状態にありました。しかし、5節のみことばをご覧ください。彼は「辱められていない」のです。なぜなら、主を仰ぎ見て輝いているからです。主の光は、恥と屈辱に歪む顔を、恐怖に歪む顔を、その表情もわからないほどに照らし、主のご栄光に変えてしまうのです。 私たちも今、コロナウイルス流行という恐怖に置かれています。しかし、ダビデをあらゆる恐怖から助け出してくださった主は、私たちのことを助け出してくださいます。恐怖に歪む顔は、主の光に照らされるのです。いえ、それだけではありません。私たちは主を呼び求めると、助け出していただけるのです。信じますか。 この信仰を養うことが、いま私たちに必要とされていることです。私たちはいろいろな情報に囲まれていて、その数々の情報に耳を傾けてばかりいると、翻弄され、何が正しいかわからなくなります。そればかり見ていると、私たちはどんなに怖ろしくなるでしょうか。また、不安になるでしょうか。しかし、幸いなことに、私たちは主を呼び求めるならば平安が与えられます。それは、主ご自身が助け出してくださるということです。 私たちがもし、普段からあらゆる場合に、そしていつも賛美の祈りをささげることを忘れないでいるならば、「いざというときに」私たちは、祈りをもって主の御前に出ていくことができます。今はまだ、コロナウイルスは私たちの身の周りにまで及んでいないかもしれません。しかし、もしかすると、私たちは予期せぬような危機に瀕することもあるかもしれません。それこそ、いざというとき、が私たちに臨むのです。そうなる前に、私たちは備えておく必要があります。 私たちは、祈らなければ、と思っていても、なかなか祈れない自分の現実に気づき、落ち込んだりするかもしれません。しかし、お祈りをしているかどうかということは、クリスチャンとして優秀かそうでないかのバロメーターのようなものではありません。お祈りできていないからと、自分はだめなクリスチャンなどと、自分をさばかないでいただきたいのです。そんなことをしたら、それこそサタンの思うつぼです。私たちがすることは、自分をさばいて落ち込むことではありません。「だからこそ」主の御前に出ていくことです。祈れない姿そのままに、主の御前に出ていくのです。そんなことができるのでしょうか? できるのです! むかし読んだ信仰書籍の中に、絶えず祈るためのヒントが書かれていました。それは祈る際に、短いことばで祈るのです。一息で繰り返せる短い文章や短い句を選びます。短いみことばを引用してもいいです。それを、できるだけ頻繁に祈るのです。そうすることによって、心に祈りとみことばが深く根づくようになります。私はこれを「ツイッターの祈り」と呼んでいます。この「ツイッターの祈り」の積み重ねは、やがて祈りを介した神さまとのたえざる交わりへと発展していきます。 私たちの心の中には、祈らなければという切なる思いがあります。ローマ人への手紙8章26節にありますとおり、御霊なる神さまが私たちのために言いようもない深いうめきをもってとりなしていてくださるので、私たちの霊もその御霊のとりなしに共鳴して、祈らなければ、という思いになるのです。問題はその祈りが、ことばにならないことです。 それは言ってみれば、ふたをされている状態です。世の常識ですとか、私たちのみこころにかなわない習慣ですとか、そういったことが、ふたをしているわけです。私たちはですから、何によって祈れていないかを聖霊なる神さまの導きの中で見極めて、正直に告白する必要があります。そこから、祈りの生活は始まるのです。 例に挙げたいのが、水道管と蛇口です。しばらくひねっていない蛇口からは、赤さびで汚くなった水がしばらく出ます。しかし、その水が汚いからと、また蛇口を閉めてしまうならば、水道管の中の水は汚いままです。どうすればいいのでしょうか? 蛇口を開ければいいのです。蛇口を開け放って、汚い水を全部出してやれば、きれいな水が出てきます。その水は飲めますし、料理にも使えます。 同じように、私たちは自分の中の祈りたい思いを、少しでもことばにして開放する必要があります。とにかく、どんなことばでもいいです、祈ってみることです。個人でささげる祈りのことばはだれも聞いていません。だれに聞いてもらう必要もありません。何でもいいですから、祈るのです。もし、ことばや表現が神さまに聞いていただくにふさわしくないものならば、聖霊なる神さまがふさわしいものへと整えてくださいます。そうすることで私たちは、自分の中に満ちている思いをことごとく、主に知っていただくことができます。 さきほど申しましたツイッターの祈りは、少しずつでも祈りを表現することにより、うちに秘めている祈りたい思いを開放する行動です。もし、祈れていない自分を嘆くならば、少しずつでいいですから、短いことばにして祈りを表現してみることを強くお勧めいたします。そこからだんだんと、長いお祈りへと発展していきます。 だから、長く祈れないからと落ち込むことはありません。このような状況の中で、祈らなければならないと思わないクリスチャンなどいないはずです。ただ、ことばにならないだけです。でも、そろそろ、祈りの水道管を開放してみてはいかがでしょうか? 最初は自分でも何を祈っているんだろうと思えても、やがて、ふさわしいことばに変えられていき、主のみこころと一致した祈りをささげている確信を持てるようになります。 さて、そうなると、逆に「長い祈りをささげる」ことはどうなのか、という問題が出てきます。みなさんの中には、短くよりもむしろ長く祈る方が平安がある、という方もいらっしゃると思います。すばらしいことです。それだけ、みこころを握っていらっしゃるということでしょう。 ただしそれでも、気をつけることがあります。その連ねている祈りのことばは、神さまとの生きた交流になっているだろうか、ということです。マタイの福音書6章の5節から8節をお読みしましょう。……このみことばからわかることは、お祈りとは、人に見せるためのパフォーマンスではないということ、また、長ければいいというものではない、ということです。異邦人のように、というのは、答えてくれるかどうかもわからない偶像に向かってお勤めのようにことばを連ねることで、宗教的な満足を満たしてはならない、ということです。それは、普段から祈っているということではありません。 私たちがもし、長く祈れるようになったならば、さやかな御声を聴くためにいちど静まって、黙想する習慣も身に着けたいと思います。私たちの祈りは、神さまの御声であるみことばによって導かれるべきです。 お勧めしたいのは、短いみことばを暗唱することです。そうすると、聖書のみことばを字引を引くようにいちいちめくらなくても、私たちはスムーズにお祈りをつづけることができるようになります。 さあ、今日はまず、決心したいと思います。いざというときはいつやって来るかわからない状況にあります。そのときに備え、少しずつでいいです、祈る者となりましょう。今日から始めましょう。 「賛美します。」「感謝します。」「御手にゆだねます。」このような短いフレーズでいいのです。そこから始めましょう。そして、お祈りの達人を目指すならば、みことばを暗唱しましょう。暗唱したみことばを口に出して、また祈りましょう。神さまは私たちのことを、ご自身とよい交わりを持つにふさわしい人へと整えてくださいます。 讃美 聖歌524/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

見ないで信じる人たちは幸いです

聖書朗読;ヨハネの福音書20:24~29 メッセージ題目;見ないで信じる人たちは幸いです 先週の礼拝で私たちは、イエスさまのご復活をお祝いしました。そして、イエスさまの復活はどれほど、人から怖れを取り去り、そして主の働き人として遣わしてくださるものなのか、ともに見てまいりました。今日の箇所は、前回学びましたマルコの福音書とはまた異なる、復活のイエスさまに弟子が取り扱われる内容のみことばです。復活のイエスさまが弟子たちにどのように接してくださったかを学び、私たちもイエスさまの復活の喜びにあずかる者となることを願います。 今日の箇所を読みますと、復活のイエスさまに出会えなかった、トマスという弟子が登場します。このトマスは、まず、イエスさまが復活されたという、弟子たちの言うことを信じませんでした。しかし、その彼もまた、復活のイエスさまに会うという恵みを体験することになりました。私たちはイエスさまを見ていなくても、イエスさまを信じています。イエスさまとお交わりしていると、堂々と語ることができます。それがどれほど「幸い」なことなのか、今日、その意味を学び、主とのさらに深い交わりに導かれますようにお祈りいたします。 今日のみことばの第一のポイントです。イエスさまは私たちに平安を与えてくださるため、何度でも出会ってくださいます。 復活のイエスさまに会うことができた弟子たちは、その場にいなかったトマスに言いました。「イエスさまはよみがえって、僕たちに会ってくださったんだよ!」しかし、実際にイエスさまに会うのと会わないのは、何というちがいでしょうか。トマスはとても信じられない、と言いました。それも、何と言ったのでしょうか。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」 このトマスのことばは、ほかの弟子たちにどんな影響をもたらしたでしょうか。言われてみれば弟子たちは、イエスさまの手に釘の跡を認めたわけではなかった。槍で刺された脇腹に手を入れてみたわけでもなかった。してみると、弟子たちは揃って、幻を見たのかもしれない。弟子たちはあのとき、復活のイエスさまに息を吹きかけられて「聖霊を受けなさい」と言われ、直接遣わされ、この世に罪の赦し、すなわちイエスさまの十字架の福音を宣べ伝えるべく聖霊なる神さまの力をいただいたというのに、またもや元の状態に逆戻りしました。もう復活のイエスさまに会ったから大丈夫、堂々と世に出ていこう、とはならなかったのです。結局、またもや弟子たちは、ユダヤ人を怖れて扉に鍵をかけて、みんなで引きこもってしまったのでした。まことに、不信仰というものは、ひとりから全体に伝染する、恐ろしい力を持っています。だから私たちは、この共同体の中からとにかく不信仰というものを除き去らなければならないわけです。 しかし、弟子たちがそうして閉じこもっていたそのとき、またもや驚くべきことが起こりました。26節です。……トマスの疑いに満ちたことばが、弟子たちからイエスさまの復活の確信を奪っていたそのとき、彼らにもう一度、イエスさまは現れてくださったのでした。 私たちはこのことから、どんなことを学ぶことができるでしょうか。それは、ひとたびイエスさまが弟子として選んでくださった人ならば、イエスさまはけっして見捨てない、ということです。イエスさまを見失ったならば、イエスさまは何度でも出会ってくださるのです。出会ってくださり、不安に満ちていたその心に、限りない平和を与えてくださるのです。 トマスのように、イエスさまが目に見えないものだから信じない、というようなことを言う人は、世界中に満ちています。そんな世に生きる私たちは、どれほど、イエスさまに対する信仰を持つことが難しいことでしょうか! もしかしたら私たちさえも、そのようなこの世と調子を合わせることをいともたやすく選んでしまい、イエスさまを見失ってしまいはしないでしょうか? しかしみなさん、安心していただきたいのです。イエスさまはおっしゃっています。ヨハネの福音書、15章の16節です。いみじくも十字架に掛かられる直前に、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばです。……十二弟子は、イエスさまによって救われ、さらにはイエスさまの働きが託された人々でした。トマスももちろん、その中のひとりでした。ひとたびイエスさまが弟子として召され、ひいては働き人として召されたならば、もうその人は、どんなことがあったとしても、イエスさまの側で手離さないのです。不信仰に陥り、使命を見失ってしまったならば、イエスさまが出会ってくださり、信仰を回復させてくださいます。平安がありますように、主はおっしゃいます。私たちが不信仰ゆえに言いようのない不安に取りつかれていたならば、主が臨んでくださり、平安に満たしてくださいます。 これだけは忘れてはなりません。主の民になった、主の弟子になった、主の働き人になったということは、イエスさまが召されたということです。私たちからイエスさまに弟子入りしたのではありません。 イエスさまが私たちのことを、弟子になれる、働き人になれると見込んで、弟子に取ってくださったのです。そうであるならば、私たちの人生は、イエスさまが責任を取ってくださいます! 信仰をなくさないように、必ず守ってくださいます! ところで、率直にお聞きしますが、先週の復活祭の日に、礼拝を通して復活のイエスさまへの信仰が確かにされてもなお、この一週間、私たちは生活のどこかで、復活のイエスさまと関係のない生活を送ってはいなかったでしょうか。そのせいで、心に不安を抱えたり、神さまを見失ったり、問題が起こったりしなかったでしょうか。 復活のイエスさまはそんな迷える私たちに、何度でも出会ってくださり、平安をくださいます。何度でも出会ってくださり、不安を平安に変えてくださいます。それでも私たちは不信仰に陥って、不安に陥ることもあるでしょう。しかし、私たちのそのような感情を越えて、イエスさまのご臨在は絶対です。神さまのみことばである聖書が、そう言っているからです。 私たちが生きる世界は、新型コロナウイルス、世界恐慌以来とも言われる不況、大地震、放射能、サバクトビバッタ、森林火災、環境破壊、天変地異、あらゆる形で危機に陥っており、そのニュースを目にする私たちも、悩まないわけにはいきません。そのようなとき私たちは、イエスさまだけがくださるこの絶対的な平安を味わってまいりたいものです。そして、そのような世の中に生きる地の民が、主の弟子となり、平安をいただくことができますように、イエスさまの御名によって祈ってまいりたいものです。 第二のポイントにまいります。イエスさまは不信仰を、信仰へと変えてくださいます。 27節のみことばをお読みしましょう。……せっかく、復活のイエスさまに出会って喜んでいた弟子たちに、不信仰そのもののことばを語って冷や水を浴びせるような行動に出たトマスに、イエスさまは特別に語りかけてくださいました。このことばはまさしく、トマスが弟子たちに語ったことと同じです。トマスよ、あなたが弟子たちに言ったとおり、あなたの手をこの傷あとに差し入れてみなさい。 イエスさまはあえて、証拠がなければけっして信じようとしないトマスの目の高さまで下りて、あなたの求める通りのことをしてみなさい、とおっしゃったのでした。それは、トマスが、「信じない者ではなく、信じる者になる」ためです。そのためならば、傷あとにさわらなきゃ信じないなどという、そのあまりに厚かましい要求にだって、わたしは応えてあげよう。 みなさまも体験していらっしゃることと思いますが、ひとたび信仰から迷い出た人を再び神さまのもとに引き戻すのは、とても難しいことです。しかし、もし神さまがその人を、すでに神さまの子どもとして召しておられるならば、また、イエスさまが弟子として召しておられるならば、その人が今どんな不信仰に陥っていたとしても、イエスさまは必ず、その人の不信仰のどん底まで下りてきてくださり、その人が何によって信仰をなくしているか、ことごとく理解してくださいます。 ローマ人への手紙8章を読みますと、聖霊なる神さまは私たちのために、言いようもない深いうめきをもってとりなしてくださっている、と書かれています。そうです、私たちがまことの信仰を持てるように、聖霊さまはうめいて、うめいて、祈っていてくださるのです。 私たちはトマスを笑ったり、批判したりはできません。私たちだって、24時間365日、1秒たりとも不信仰に陥らないでいる人など、ひとりもいません。どこかでトマスのような不信仰に陥るものです。しかし、それでも私たちが信仰をまったく捨てないでイエスさまを信じていられるのは、それは主が私たちに恵みを与えてくださっているからです。いつでも神さまが目を注いでおられる存在、それが私たちです。間違っても、私は神さまに見捨てられている、などと思ってはいけません。私たちは、特別に恵みによって神さまの子どもとして選んでいただいています。そんな私たちのために、聖霊なる神さまはうめいて祈り続けてくださっています。それゆえ、私たちは神さまを信じる恵みと喜びに満たされていられるのです。 今年の教会の標語は、「信仰によって歩もう」です。今年初め、私たちは信仰を働かせてそれぞれが決心をしました。しかし、あれから3か月以上が経った現在、私たちはどれだけ信仰を働かせて、それぞれの決心を保っていますでしょうか? むしろ私たちは、不信仰に陥ったりしてはいないでしょうか? 今、不信仰に陥って苦しんでいる方々のためにお祈りします。しかし、その方が神さまに選ばれた人であるかぎり、必ずイエスさまはその方に出会ってくださり、信仰を回復してくださいます。そして、その方が不信仰に陥って苦しんでいた年月が無駄にならず、同じようにいま不信仰に陥って苦しんでいる人のために豊かに用いられるようになります……そして、信仰の守られている人はそれを当然のことと考えず、その信仰を与え続けてくださる神さまの恵みに感謝できますように……そのようにお祈りいたします。 第三のポイントです。イエスさまは、目に見ないでイエスさまを信じる者は幸いであるとおっしゃいました。 イエスさまが直接、トマスの要求に最大限寄り添うことばをかけてくださったとき、トマスはイエスさまにこう答えました。「私の主、私の神よ。」しかし、そんなトマスにイエスさまはおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 一見するとイエスさまのこのみことばは、トマスにだけ語られているように見えます。けれども、よく考えていただきたいのですが、イエスさまを見たからようやく信じたのは、トマスだけではなかったはずです。ほかの弟子たちも同じでした。イエスさまの弟子たちは、もはや何年にもわたって語られていたイエスさまの復活についての教えなど、十字架によって完全に消し飛び、もはや恐れのかたまりにしかなっていませんでした。そんな彼らが信仰を回復するには、復活のイエスさまが再び出会ってくださるしかありませんでした。その意味でもトマスにかぎらず、ほかの弟子たちだって、イエスさまを見たから信じた人でした。 しかしイエスさまはやがて、この地上での生涯を終えて、天におられる父なる神さまのみもとに上らなければなりませんでした。ここから先は、イエスさまを目に見ないで信じる者たちがこの地上に神の国を形づくる時代です。天に上られたイエスさまが、この地上の主の民に送ってくださった聖霊さま……このお方、聖霊さまが、働き人を遣わされ、目に見えないイエスさまを信じるようにしてくださり、目に見えないイエスさまを宣べ伝えさせてくださるのです。 そのようにして、イエスさまを見たことはなくても信じる人たちのことを、イエスさまは、幸いである、と言ってくださるのです。そうだとすると、私たち主の教会、主の民は、どれほど幸いな存在にさせられていることでしょうか! なぜならば、復活のイエスさまを実際に目に見なければ到底使い物にならなかった弟子たちとちがって、実際にイエスさまを目に見えなくても、イエスさまを信じ、イエスさまのために働くことができている、それが私たちだからです! このことがどれほど「幸い」なことか、よく思いを巡らして、感謝していただきたいのです。ペテロの手紙第一、1章8節をお読みしましょう。……私たちがこのような状況に置かれていても喜べるのは、イエスさまを見ずに信じる信仰を与えていただいているからです。 そこで私たちは考えてみましょう。私たちはいま、イエスさまが見えなくなっていないだろうか? そのために不安に陥っていないだろうか? それはなぜなのか考えてみてください。私たちは聖書を読んだり、お祈りをしたりするよりも、この世の情報にばかり目を留めてはいませんか? インターネット、テレビ、人のうわさ話……そのようなものが私たちを救うでしょうか? 私たちにほんとうの意味での平安を与えてくれるでしょうか? むしろ私たちは、みことばを握って祈ることをしていかなければならないのではないでしょうか? それが私たちをまことの平安にとどまらせ、世に対して平安の主を宣べ伝えるべく、主に用いていただく道です。 イエスさまは私たち主の弟子が不安に陥ってしまわないよう、何度でも出会ってくださり、平和に満たしてくださいます。そして、私たちを主の弟子として選んでくださったかぎり、私たちがどんな不信仰に陥っても、必ず信仰に戻してくださいます。そんな私たちは、イエスさまを実際に見たことはなくても信じ従う、主の弟子とされた幸いな者です。どれほど感謝なことでしょうか。わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てないと約束してくださったイエスさまの愛に感謝して、いま神さまにお祈りいたしましょう。 讃美 聖歌631「罪に満てる世界」/献金 讃美歌391(お手もとにて献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝祷

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16:9~20 メッセージ題目;復活から派遣へ 讃美;聖歌547 お祈り;各自お祈りしましょう。  本日は復活祭、イエスさまのご復活をお祝いする日です。ほんとうならばこの日は、盛大にお祝いしたいところでした。しかし、折からのコロナウイルス流行で、食事を囲んでのパーティもままならなくなってしまいました。私たちもいつ、集まらないという決断を下さざるを得なくなるかわかりません。ともにお祈りしてまいりたいと思います。  本日はもうひとつ、愛するファミリーを遠くに送り出さなければならない日です。さびしいのは確かです。しかし私たちはどうか、悲しみの涙を流すのではなく、新たな地で姉妹が用いられるようにという祈り心をもって、そして彼の地にてファミリーが用いられるというビジョンを、喜びをもって描いて、祝福とともに送り出したいものです。  復活と派遣。本日の箇所は、そんな私たちにとってこれ以上ないほどぴったりしたみことばではないかと思われます。ともに見てまいりましょう。  イエスさまの弟子たちは、悲しみの中にいました。私たちの愛するイエスさまは、十字架に釘づけになって死んでしまわれた! 次は自分たちにも迫害の魔の手が伸びてくるにちがいない! 弟子たちは隠れて、ぶるぶる震えていました。  しかし、この暗闇のような状況を打ち破るできごとが起こりました。それは、イエスさまが復活された、ということです。イエスさまの墓に訪れたマグダラのマリアに、復活されたイエスさまが現れました。マグダラのマリアは大喜びで、このできごとを弟子たちに知らせに行きました。しかしです、弟子たちは信じようとしませんでした。  イエスさまはまた、2人の弟子たちの前に現れてくださいました。彼らもまた、ほかの弟子たちにこのこと、イエスさまの復活を知らせました。しかし、やはりほかの弟子たちは信じませんでした。  それでイエスさまはどうなさったでしょうか? ご自身が直接、11人の弟子たちに現れてくださいました。イエスさまは彼らに対し、その不信仰とかたくなな心をお責めになりました。  私たちには不思議に思えないでしょうか? いったい、3年間も寝食をともにし、ご自身の十字架と復活をつねに聞かされてきた弟子たちが、イエスさまの復活のことを聞いても信じられなかったのでしょうか? しかし聖書は、そうだった、弟子たちは信じられなかった、それほど弟子たちはかたくなだった、と評価しています。  弟子たちはイエスさまの昇天の直前まで、最後までその信仰と態度を取り扱われる必要がありました。十二弟子にしてそうだったのです。まことに、人にとって、不信仰という問題はどれほど根深いものかということを思わされます。  しかし、こうも言うことができます。これまで弟子たちは、イエスさまという存在を直接目で見て、イエスさまのみことばを直接耳で聞ける状況にありました。しかしこれからは、もうそうはいきません。イエスさまを直接肉の眼で見ていなくても、イエスさまがともにおられるものとして生きていく必要があります。みことばを聞くということにおいてもそうです。たとえ実際目にしている世界にイエスさまがともにおられなくても、イエスさまを信じてお従いすることは、まず弟子たちから始めなければなりませんでした。そうすることであとに続くすべての聖徒が、たとえ目に見えなくても、信仰によってイエスさまにお従いすることができます。だからまず、弟子たちの不信仰さえ取り除かれれば、あとはだれにでも、復活のイエスさまを信じる信仰への道は開かれることになります。信じる上で何の妨げもなくなります。  ともかく弟子たちは、このお叱りによって変えられ、続くイエスさまのおことばによって、恐れに震えて閉じこもる思いは大きく変えられることになりました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」そうです、復活のイエスさまに出会うならば、その人はイエスさまに、新たな地へと遣わされるのです。 しかし私たちは何も、まだ見たことのない地域や国々、それこそ地球の裏側などを思い浮かべなくてもよいのです。私たちの周りでまだイエスさまの福音を聞いたことがない人がいるならば、その人のいるその場所こそ「全世界」であり、「地の果て」です。   しかし、その人に福音を伝えようとするならば、私たちがまず、福音に生きることを喜びとしている必要があるでしょう。私たちは何をもって喜ぶのでしょうか? 復活し、今も生きておられるイエスさまによってです!  いま私たちは、このコロナウイルスの流行を思うと、とても喜べないと思えてならないかもしれません。しかし、私たちは喜んでいいのです。私たちの置かれた状況は確かに厳しいですが、その中においても、私たちと苦しみをともにし、悩みをともにしてくださるイエスさまは生きておられ、私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。要は苦しみの中に、主がともにおられるゆえの喜びを見出すかどうかです。  私たちも状況のせいにして不満を言うことはたやすいことです。しかし、状況に目をとめていやな気持ちになるのではなく、その状況を超えてともにおられる主に目をとめ、主との交わりを保つならば、どんなに幸いなことでしょうか。この主に私たちは遣わされ、それぞれの場所に出て行くのです。  イエスさまのことばは続きます。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じる、ということは、神さまと個人的な契約を結ぶことです。永遠の神さまの子どもにしていただく契約を結ぶのです。神さまと契約を結ばせていただいたことを、私たちは、「バプテスマを受ける」という形で表明します。教会において聖徒の前でバプテスマを受け、教会というキリストのからだのひと枝に加わるのです。  しかし、バプテスマという「水に浸されること」以前に、必要なのは「信じる」ことです。イエスさまが十字架の上で私の罪のために死なれたこと、そして、三日目に死人のうちよりよみがえってくださったことを信じ受け入れるのです。  そのように信じた人には、しるしが伴うとあります。17節、18節を読むと、一見すると驚くべきことが書かれています。読んでみましょう。……このようなことがほんとうに起こるのだろうか? 半信半疑でしょうか? しかしこれは、イエスさまの十字架と復活を信じ、ゆえにイエスさまに全世界に遣わされた人に伴うしるしであるという前提で読むべきです。  悪霊を追い出し、とありますが、悪霊は人がイエスさまを信じることをありとあらゆる形で妨害します。しかし、主のみことばを語る人は、この悪霊の妨げに、信仰によって打ち勝つのです。  新しいことば、それは、福音のことばです。罪人の私を神さまが恵みによって救ってくださったこと、あなたも信じれば救われる、ということです。主の復活を体験した人は、この新しいことば、福音のことばを語ります。  その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます……これは、文字通りにそのとおりにせよ、と勧めているのではありません。これも、私たちにとっての宣教とは何かという文脈で考えるべきことです。 私たちにとって、みことばをその身をもって宣べ伝える普段の生活において、蛇、すなわちサタンの存在や、毒、すなわちサタンの攻撃にさいなまれることはあるものです。しかし、その影響を受けたままでいることはありません。なぜならば、私たちとともにおられるイエスさまは、サタンなど足元にも及ばないほど強いお方だからです。私たちのうちにおられるイエスさまの力で、私たちはサタンに打ち勝てるのです。   そして、病人に手を置けば癒やされる、とありますが、これも、福音宣教という文脈で、病人ないしは病というものを定義しなおす必要があります。私たちの場合、何が癒されるべき病なのでしょうか? それは、父なる神さまとの関係が絶たれ、たましいが病んでいる、死んでいる状態にあるということです。しかし、イエスさまを信じて、神さまとの関係が結びなおされるならば、その人は生きるのです。永遠のいのちに生かされるのです。私たちが人々に語るのはこの希望の福音です。福音こそ、死に至る病の中にあるたましいを癒し、救うことができます。イエスさまの復活を信じる私たちは、その大事な働きのために、主に用いていただけるという特権が与えられています。  そうです。福音を語り告げることは、イエスさまが私たちのために復活してくださったことと密接な関係があります。復活は、死をも地獄をも打ち破る力です。私たちは、復活のイエスさまに出会ったならば、心燃やされ、イエスさまを伝えずにはいられなくなるはずです。  主は、私たちがそこまで燃えることを願っていらっしゃいます。主が私たちに復活の信仰を与えてくださったのは、私たちのことを、この地に福音を宣べ伝える使者、アンバサダーとして遣わしてくださるためでした。私たちさえ満足してそれで終わりではいけません。  考えてみましょう。主は私たちにどれほど、ご自身の夢を託してくださったことでしょうか? ごらん、あなたの前に広がるこの世界は、わたしが愛している人に満ちている。この世界に住む人々を、わたしのもとに連れ帰ってきてほしい。この働きは、あなたじゃなければできないのだよ。さあ、行っておくれ。……私たちにこの御声が聞こえますか? 聞こえたら、主よ、私がここにおります。私を遣わしてください、そう言ってお応えしましょう。私たちひとりひとりは、人を救うという主の大いなる夢が託された、大事な存在です。  このたび私たちにとって大事なファミリーを遠くの地に送り出すことは、なによりも、その地に住む人々を主のもとに導くという大いなる使命のために、主が遣わされたということです。いつまでも寂しがっている場合ではありません。しかしそれと同時に、私たちは覚えておきましょう。私たちひとりひとりもみな、主によって遣わされています。それぞれの職場に、学校に、家庭に、地域社会に……私たちは日々、復活のイエスさまに出会い、復活のイエスさまと交わり、復活のイエスさまに力づけられ、復活のイエスさまに遣わされてそれぞれの地に出て行くのです。イエスさまは遣わしてくださった先々でも、私たちと一緒にいてくださいます。  私たちは復活を喜びましょう。そして、主の復活を語り告げましょう。私たちは復活の信仰をもって、遣わされます。私たちが遣わされた先々には、サタンに打ち勝つ数々のしるしが現れ、人々を救いに導くために用いられると信じていただきたいのです。今、新型コロナウイルスの流行は、人々を不安に陥れていますが、私たちはそのような世界に、復活のイエスさまを宣べ伝え、人々を永遠のいのちに、変わることのない平安に導くのです。私たち自身を、主の御手にゆだねる祈りをいたしましょう。主よ、私たちに復活の力を味わわせてください! そして主よ、私がここにおります。私をお用いください。遣わしてください!  では、お祈りいたしましょう。

生きよ!

聖歌540「地の塵に等しかり」 聖書箇所;マタイの福音書27章1節~10節 メッセージ題目;生きよ!  今日は「ユダ」のお話です。ユダの特徴は大きく2つ挙げることができます。ひとつは、言うまでもなく「裏切り者」、しかしもうひとつ、「自殺した人間である」ということを挙げることができます。  先にお断りしておきますが、本日のメッセージは、自殺をなさった方々が聖書的ではないとか責めることを目的とはしていません。むしろそのような方々は、水kら命を絶たなければならなかったようなとても苦しい境遇に置かれていたわけで、そのことを考えるならば、責める資格はだれにもありません。しかし、ユダの自殺は、そのような方々の自殺とは根本的に異なる事情があると考えられます。  ご存知でしょうか、聖書の中には、自殺をした人の記述は多くはありません。旧約聖書では3人、戦争で瀕死の状態になって死を選んだサウル王、そのサウルに殉じる形で死んだサウルの道具持ち、そして、ダビデの部下だった軍師アヒトフェルです。このアヒトフェルについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、長い旧約の歴史の中で自殺者が3人とは、きわめて少ないです。そして新約では、たったひとり、イスカリオテのユダだけが自殺しています。  自殺……なんとも嫌な響きのことばです。このところの新型コロナウイルス流行により、人々の間に不安が広がっていることに伴い、いのちを自ら断つ人がちらほら現れている、というニュースを目にしています。彼らの絶望たるやどれ程のものだったのか、と、考えるだに心が悲しく、また、重くなります。彼らを責めることなど、だれにもできないでしょう。しかし、私たちは自ら死を選ぶことをしてもいいのでしょうか? 亡くなった方の悲劇を繰り返さないために、私たちには何ができるでしょうか? どんなことを学べばいいでしょうか? 今日の箇所に登場する、イスカリオテのユダのことを反面教師にして、ともに学んでまいりたいと思います。 ユダは、宗教指導者たちから金を受け取って、イエスさまを逮捕させる手引きをしました。その額わずか銀貨30枚、これで何ができたというのでしょうか、人のいのちの価にしてはあまりに安すぎます。いわんや、神の御子のいのちの価は、わずか銀貨30枚だったというのです。しかし、安かろうと何だろうと、ユダがイエスさまのことを宗教指導者たちに売り渡したのは間違いないことです。売るとは、裏切ることです。韓国語の聖書を読めば、日本語で「裏切る」となっている箇所が「売る」となっています。 イエスさまがいのちがけで愛してくださった、このことを知りながら、イエスさまよりも大事なものがあるとばかりに、それらのつまらないものとイエスさまのいのちを取り代えてしまう……それは、私たちの姿です。ユダが、やってはならないことをしたとばかりに責め立てるのは簡単です。しかし、人をさばいて罪に定める私たちが、同じことをしてはいないでしょうか? だがユダは、イエスさまを売ったことをあとになって後悔しました。それは、罪のない人の血を売ったという理由からでした。イエスさまに罪がないことは、3年間の十二弟子の共同体の生活をして、充分すぎるほどわかっていました。そんな彼が、イエスさまを売るという暴挙に出たのです。 イエスさまは、このような者の存在を十二弟子にほのめかすようなことを語られました。人の子は聖書に書かれているとおりに去ってゆく。しかし、人の子を裏切る者はわざわいである。その者は生まれてこなかったほうがよかった。イエスさまは最後の最後まで、ユダに悔い改めの機会を与えておられたと見ることもできます。 しかし、ユダはこのような警告のことばを受けていても、裏切りました。心が頑なになってしまった人には、何を言っても通じないことがこれでわかります。むしろ、このような裏切りを通しても、主は十字架という御業を成し遂げられたことを覚えることが大事なのでしょう。 しかし、ユダはイエスさまが捕まって、初めて自分のしたことの重大さに気がつきました。ユダの向かった先は宗教指導者のところでした。この銀貨はそっくり返すから、イエスさまを死刑にすることをどうか思い直してほしい……しかし、もはやこうなっては、宗教指導者たちは聞き入れませんでした。自分で始末をつけろ! ユダは銀貨を神殿に投げ込みました。もうこうなっては、銀貨など持っていても何にもならないことを彼は知っていました。 ユダという男は、とてもさとい人だったと見るべきでしょう。さといあまり、計算が先に立って、イエスさまの喜ばれることを見失うという、主の弟子として決定的な弱さがありました。というより、常習的に犯す罪を悔い改めないゆえに、主のみこころを見失っていたと見るべきでしょう。しかし、ユダがほんとうの意味でさとい人だったならば、彼のすべきことは「後悔する」ことでしょうか? ちがいます。「悔い改める」ことです。「後悔する」と「悔い改める」は、日本語で表現するとことばは似ていますが、まったくちがうものです。聖書の原語からして別々のことばを用いています。日本語の「悔い」ということばが共通しているにすぎません。ユダは、悔いてそれで終わりでした。その悔いた罪を、すべての罪を赦してくださるイエスさまのもとに持っていくことをしなかったのでした。自分でけりをつけてしまいました。 知恵があるのはもちろん素晴らしいことにはちがいありませんが、知恵がありすぎてもいけません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。旧約聖書のアヒトフェルをその例として挙げることができます。ダビデ王の時代、ダビデは三男のアブサロムにクーデターを起こされ、逃亡し、のちにアブサロムの軍と戦争状態になりました。このとき、アブサロムにとって軍師の役割を担うことになったのが、アヒトフェルです。聖書はこのアヒトフェルがアブサロムに対して助言することを、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった」と評価しています。このような軍師を敵に回しては、ダビデも絶体絶命です。しかしダビデは、腹心の軍師フシャイをアブサロムのもとに潜り込ませ、神さまのご介入があってアブサロムは、アヒトフェルではなくフシャイの作戦を採り入れることになり、ダビデは殺されずに済みました。しかしアヒトフェルはさとい男であるので、自分の作戦が受け入れられないということが何を意味するかが分かりすぎるほどわかっていました。それはアブサロムの破滅、ひいては自分の破滅でした。彼はそれを知って、自らいのちを絶つ道を選びました。 アヒトフェルはおそらく、神通力とさえ言える自分の戦略が退けられ、戦略として話にならないフシャイの戦略が受け入れられたことに、ダビデの背後におられる神さまの存在を認めたにちがいありません。しかしそうなら、アヒトフェルのすべきことは、ダビデのもとに投降し、ただひたすらにあわれみを乞うことではなかったでしょうか。そうすればもしかすると、ダビデはその寛容さのゆえに、アヒトフェルのことを許したかもしれません。 ユダはどうでしょうか。もし、自分のしたことが万死に値することであると知り、その罪の重さに耐えられなくなったとしても、彼はイエスさまにすがることをすべきでした。だが、イエスさまのそばにいながらそのみこころがまるで理解できていなかった彼には、きわめて残念なことに、そんなことなど期待できなかったと見るべきでしょう。ユダはそのさばきを神さまにゆだねる前に、自分で自分をさばくことを選びました。それはまるで、さばきの権限さえも神さまから取り上げるかのような行為です。越権行為もここに極まれりというものです。 しかし、ここで私たちは考えるべきことがあります。私たちはどうだろうか、ということです。私たちは知恵が回るあまり、自分のあそこが罪深い、ここが罪深い、と、やたらと自分のことを罪に定め、死にたくなったりしてはいないか、もしそうならば、それは罪を悔い改める生き方では、ありません、まじめな生き方をしているようでも、それは、人を評価する神さまからそのさばきの権限を取り上げる、実はとても罪深く、傲慢な姿勢であることを、私たちは覚えておく必要があります。 私たちが罪深いことは、今に始まったことではありません。要はその罪を、すべて赦してくださるイエスさまの前に持っていくことです。そうすれば、すべて赦してくださいます。すべてです。しかし、ちょっと聖書に詳しい方は、こんなことをおっしゃるかもしれません。いや、聖書には、聖霊をけがす罪は永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる、と書いてある、私は何度悔い改めても罪を犯してしまう、これは、聖霊を軽んじているからにちがいない、つまり、聖霊をけがす罪を犯していることになる、ああ、私はもう赦されないのだろうか……。 そんなことはおっしゃらないでいただきたいのです。私たちはイエスさまを意識しているかぎり、悔い改めの機会はいくらでも残されています。私たちの心にイエスさまとその十字架が思い浮かぶのは、私たちの力ではなく、聖霊さまがそのように導いてくださっているからです。罪を犯した自分に気づいたら、必ず悔い改めることです。何度でも悔い改めることです。おまえはもう、こんな罪を犯したから赦されない、というのは、サタンの声です。神さまの声ではありません。 私たちには聖書のみことばが与えられている以上、主の弟子、イエスさまの弟子です。しかし、自分をさばいて破滅する主の弟子は、ユダひとりで充分です。私たちはイエスさまについている以上、自分で自分のことをさばいて、滅びを意識したりしては絶対にいけません。私たちは死んではいけません。生きよ! これが、神さまのみ思いです。 いま、私たちは祈りたいと思います。私がもしかしたら、死にたいと思っていなかったか? 私の周りの人に、死にたいと思っている人はいないか? インターネットでこのメッセージを聴いていらっしゃる方が、もしかしたら、生きるために一縷の望みをいだいて、みことばにかけようとしていないだろうか? どうか、みんな生きますように。神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶという、神さまのみこころを実現する私たちとなりますように。