主イエスは医者なり
招詞 詩篇127篇/祈り/信徒信条/交読 詩篇57篇/主の祈り/讃美 讃美歌9/主の祈り/聖書朗読 マタイの福音書9:9-13 メッセージ題目;主イエスは医者なり イエスさまは、律法学者、パリサイ人に対して、何度となく警告のことばを発されました。マタイの福音書23章などその最たるもので、パリサイ人のいろいろな悪い特徴を列挙しながら「わざわいだ」と語っておられます。さて、パリサイ人は律法を守り行うことにより救いを完成させようと教える者たちであり、ゆえにイエスさまと対立するわけです。 ならば、恵みによって救われたと信じている私たちは、このパリサイ人をさばくことのできる側にいるのでしょうか? いいえ、聖書がこれほど、パリサイ人に対する警告に紙面を割いているということは、私たちクリスチャンにもこのパリサイ人のような要素があることを警告しておられるからではないでしょうか? いえ、極言するならば、私たちこそがパリサイ人なのであって、神さまの怒りを受ける存在です。だから私たちは神さまのあわれみにすがる必要があります。下手をすれば、救われたはずの私たちは、気がつけばちっぽけな肉を誇りとし、パリサイ人のようになってしまうのです。 そんな私たちではありますが、イエスさまに救っていただいたときの感激は今も胸にあるでしょう。そのときの感激を思い起こしていただきたいのです。さきほどお読みいただいたみことばは、そのように救われた感激に裏打ちされたみことばということができます。では、ともに見てまいりましょう。三つのポイントでお話しします。 第一のポイントです。イエスさまは、罪人を招くお方です。 9節をお読みしましょう。「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」 マタイは、収税所にすわっていました。取税人です。前に教会にいらっしゃった水谷潔先生のメッセージをおぼえていらっしゃるでしょうか? ユダヤの三大悪人は、「強盗、人殺し、取税人」です。宗主国ローマの手先となって同胞ユダヤ人から税金を取り立て、しかも決められた以上のお金をむしり取って自分を肥え太らせる……とんでもない輩(やから)です。しかし、税金というものは納めなければなりません。 この取税人という存在は、いわば「必要悪」とでも言うべきものですが、この役割にある者は、どのような気持ちでこの仕事についていたのでしょうか? 神の民のアイデンティティを持って生きたくても、ローマの権威をかさに着て生きるかぎりそれもできない、なぜならば、信仰をともにする民の共同体からのけ者にされているからです。それでもあえて金持ちになるためにこの職にしがみつかざるを得ない、そんな取税人の気持ちが私たちにわかりますでしょうか? その日もマタイは収税所に座っていました。道行く人々は、彼に極めて冷たい視線を投げかけたでしょう。唾を吐きかける人もいたかもしれません。マタイはそれでも、自分は間違っていない、自分は社会に必要とされているからこの仕事をしているんだ、社会に相手にされない分、少しぐらいお金を自分のふところに入れたからって、どうだと言うのだ……もちろん、こんな言い訳をしたところで、重い税金をむしり取られる立場のユダヤ人は納得するどころか、何を言っているんだと反発するでしょう。しかしマタイにしてみれば、こうでもして自分を慰めるしかなかったことでしょう。 そこへ通りかかったのがイエスさまです。イエスさまはマタイを見つめられました。マタイは、はっとしたはずです。自分を見つめるまなざしがまったくちがう! イエスさまは、やさしいまなざし、しかし強い意志のこもったまなざしで、マタイのことをじっと見つめられたのでした。マタイは思ったことでしょう。このお方はちがう! あるいはマタイが、すでにうわさでもちきりの先生だったイエスさまのことを知っていた可能性は充分にあります。もしそうだとすると、なぜこのような先生が自分のことを見つめておられるのだろうか……それもこのような嫌われ者の自分のことを……マタイは、驚きと感激で胸がいっぱいになったことでしょう。 そして、イエスさまはおっしゃいます。「わたしについて来なさい。」当代一の先生でいらっしゃるイエスさまにここまで言われては、マタイの答えは決まっていました。「はい! お従いします!」収税所をあとにして、イエスさまにお従いするのみでした。 マタイにとっては、お金持ちとして生きる生き方が終わりを告げることを意味していました。これから待つ生活は、人間的に見ればとてもきびしい生活です。マタイにそれがわからないはずがありませんでした。しかし、ついて行きました。そして、それは正しい選択でした。なぜでしょうか? 天地万物を創造され、動かし、生かしておられる全能なる主のみそばにて、ともに過ごす生き方へと入れられたからです。表面的には何も持たないように見えても、実際は宇宙のすべての富を手にしたも同然の生活です。マタイはこの無限の富に目が開かれたのでした。 それにくらべると、いかにお金持ちになれると言っても、取税人として得られる富などたかが知れています。しかもその富は、あえて嫌われ者になる道を選んで手にした富です。その富は、人として当然受けるべき愛情というものを失ってまで、言い換えるならば人としての在り方、人間らしさというもの失ってまでして得たものです。 そこまでして富を得て、いったい何の意味があるというのでしょうか? そこにはただ、絶望とむなしさしかありません。イエスさまはそのむなしさから救ってくださり、汲めどもつきぬ永遠のいのちの世界に導き入れてくださったお方です。 さて、ここで、マタイにとっては、救いが即献身であった点にも注意したいと思います。私たちも救っていただいたならば、即、主に身をささげてしかるべきです。何もそれは、教職者になるべきというのではありません。 「置かれた場所で咲きなさい」ということばがありますが、このことばを私なりに解釈すると、それぞれが遣わされている家庭、職場、学校の人間関係の中で、主のご栄光を顕す生き方をする、と言うことができると思います。その生き方を実践すべくつねに祈りつつ取り組んでいる人は、主に献身した人ということができます。マタイが特別なのではありません。私たちは一人の例外なく、イエスさまに「わたしについて来なさい」とお声をかけていただいた存在です。私たちの することは、イエスさまについて行くことです。 また一方で、私たちは人に伝道して救いに導くことについて、どのような考えを持っていますでしょうか? その人が信仰告白に導かれてバプテスマを受けるところまでこぎつけたならば、「さらに」信仰が成長して神さまに献身するようになればラッキー、そんなことを考えてはいないでしょうか? 違うのです。イエスさまは、信仰告白をする者をすべて、献身者と見なしていらっしゃいます。人の側で勝手に段階や優劣をつけて見てはいけません。私たちにも、救われてほしい、伝道させてほしいと祈る対象はいるでしょう。その人たちのことを私たちは、イエスさまによって御国の献身者に召された人、と見るべきです。そういう意味で、クリスチャンはみんなマタイなのです。 ついでに申し上げれば、このマタイは言うまでもなく、この「マタイの福音書」を書いている人です。そのマタイがこのような記事を書いた意図は何でしょうか? 自分のような者もイエスさまは召してくださったのだから、イエスさまはあなたのことも召してくださるのですよ……そういうメッセージを読者に、まごころをこめて送っていると読み取るべきでしょう。そう、私たちはみな、イエスさまに召されたマタイです。罪の奴隷から神のしもべへと完全に生き方が転換させられた、この上なく素晴らしい存在です。 私たちのかつての姿を思うならば、イエスさまの救いがどんなにすばらしいかわかるでしょう。そのような罪人に、イエスさまはどう接してくださいますでしょうか? <後半につづく> 第二のポイントです。イエスさまは、罪人と交わるお方です。 10節のみことばをお読みします。「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」……JTJ神学校を創設された岸義紘(きしよしひろ)先生が語っておられましたが、これはマタイが、イエスさまの弟子共同体に加入するために取税人仲間とお別れパーティを開き、そこにいろいろな人を招いたのだ、ということです。そうだとすると、イエスさまのそばになぜこうも取税人や罪人が多く集まったのか、納得がいきます。嫌われ者のマタイにとっての友達は、このような嫌われ者しかいなかったでしょう。 しかし、先ほども少し触れましたが、取税人はいわば社会の必要悪です。取税人が税金を取り立てるから、パレスチナはローマによって平和が保たれると言えます。罪人というのも、言ってみれば世の中から必要悪にされてしまった人たちではないでしょうか? たとえば遊女。漢字で「遊ぶ女」と書くのでとても誤解しやすいですが、彼女たちは何も遊んで暮らしているわけではありません。貧しい家を支えるために、売られて、好きでもない男の欲望のはけ口になる、あまりにもかわいそうな社会的弱者です。そしてこういう言い方をするのはとてもつらいですが、社会は彼女たちを必要悪に仕立てています。それでいて社会は彼女たちのことを忌み嫌うのです。 また、以前にもクリスマスのときお話ししましたが、羊飼いというのも罪人扱いされています。クリスマス物語の聖画などを見ると羊飼いがとても神聖に、かつ格好良く描かれていますが、もともとこの時代のパレスチナでは羊飼いとは、ならず者が社会から追いやられてつく職業でした。何しろ彼らは羊の番をするので、安息日に礼拝に行くこともままなりません。ますます社会は彼らを罪人扱いします。 その他にも、律法の解釈で罪人扱いされる人というのはいろいろいたわけです。律法学者、パリサイ人たちはそのような者たちを片っ端から罪人扱いし、そうすることで共同体をきよく保とうとしました。しかし、そのように共同体から切り捨てられるということは、目に見える神の民に属せなくなるということで、それは彼らにとって、死ぬことも同然でした。 イエスさまはそのように、共同体から罪人扱いされている人と一緒に過ごされました。一緒にごちそうを食べ、一緒にワインを飲み、笑い合いました。神の民の共同体であるはずのイスラエルからは除かれていた彼らは、ほかならぬイスラエルの神であられるイエスさまと出会い、交わり、だれよりも確実な回復をいただいたのです。 ヨハネの黙示録3章20節に、イエスさまのおことばが書かれています。このおことばによれば、イエスさまはどのようなお方でしょうか? お読みします。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 取税人や罪人は、喜んで自分の心の扉を開けました。イエスさまが、「いっしょに交わろう! あなたと友だちになりたいんだ!」と言ってくださったからです。「はい、喜んで!」彼らは心の扉を開けて、イエスさまを迎え入れました。そのような彼らとイエスさまは飲んで、食べて、親しく交わってくださいました。 イエスさまは神であられるのに、へりくだって、人の視線に降りてくださるお方です。その人が罪人であろうが何だろうが、嫌ったりせず、むしろ「友だちになりたいんだ!」と、近づいてくださるお方です。私たち罪人はイエスさまと、一生の友情を分かち合いつつ、成長させていただく存在です。 イエスさまとの交わりを楽しみにしましょう。聖書を開いてお祈りする時間はイエスさまとのデートの時間です。デートだったら時の過ぎるのも忘れるでしょう。このスイートな時間を心から味わい楽しんでいただきたいのです。 第三のポイントにまいります。イエスさまは、罪人をいやすお方です。 11節のみことばです。「これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、『なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか』と言った。」取税人や罪人を受け入れ、交わりを持たれるイエスさまのことを、パリサイ人は批判しました。みことばを教える教師ともあろう者が、このような輩(やから)と交わりを持つとは何事か。……このようなことを言うパリサイ人は、間違っても罪人たちといっしょに食事をしたりなどしませんでした。 しかしイエスさまは、このようなことを言うパリサイ人に反論されました。12節です。「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。』」彼らはいやされる必要のある病人なのですよ、彼らのことを放っておくつもりですか! それが愛のみことばを説く者のすることですか! わたしはだれが何と言おうとも、この病人たちをいやして立ち上がらせます! さて、このイエスさまのみことばには、一種の皮肉が込められています。あなたがたは人を罪に定めているところを見ると、どうやらいやされる必要のない丈夫な人のようですね。そうおっしゃっているかのようです。しかし、イエスさまによっていやしていただかなくてよい人などどこにいるのでしょうか? 人はみな罪人であり、罪という名の病によって病んでしまっている人たちです。イエスさまと食事をともにした取税人や罪人たちは、自分が罪人であり、したがって自分は赦され、いやされなければならないことをよくわかっていました。だが、パリサイ人にはその自覚がありませんでした。自分のことを神と人の前に正しいと思ってはばかるところがありませんでした。神さまにいやしていただかなくとも、自分は充分に丈夫だとうぬぼれているようです。 イエスさまは、このように宗教的に正しいとうぬぼれて、弱者を踏みにじる人たちの味方ではありません。むしろ、罪人、罪に病んだ人たちの味方です。イエスさまはそのような罪人のお医者さんであると自ら宣言されました。 言うまでもないことで、お医者さんになるのはとても難しいことです。いっぱい勉強しなければなりません。人の体や病気のことなら何でも知っていなければなりません。そしてそれ以上に、病気が治りたいと願う患者さんの味方になって、患者さんと二人三脚で治療に取り組むような愛にあふれたお医者さんである必要があるでしょう。どんなに頭がよくて腕がたしかでも、患者さんを利得の手段としか見なさないで、検査漬け、薬漬けにするようなお医者さんでは困ります。 イエスさまは何でもご存知の神さまです。私たち罪人のことを何でも知っておられます。私たちがどんな罪人で、どんな罪の中にいるかも、みーんな知っておられます。しかし、だからといって、お前はこんな罪を犯しただろう、だめな奴だ、などと、その罪にしたがっておさばきになることは「ありません」。 かえって、私たちの罪の性質が取り除かれてきよいキリストの似姿に変えられるように、とことんまで私たちにつきあって、私たちをいやし、きよめてくださるのです。 ところで、私たちはお互いの顔を見てみましょう。お互いもまた、いやされなければならない罪人です。神の民、クリスチャンにしては整っていない部分が垣間見えることもあるでしょう。しかし、それでがっかりしてはいけません。みんな、イエスさまというお医者さんにいやしていただく罪人、病人です。あの十二弟子にしたって、完全に整ってからイエスさまの弟子となったわけではありません。問題行動や問題発言がたくさんありました。言うなれば彼ら十二弟子もまた、病人の集団でした。しかし、イエスさまが根気よくいやしてくださり、整えてくださって、初代教会の礎となる使徒となって用いられたのでした。 だから私たちもお互いをさばいたりしてはいけません。それではパリサイ人と同じです。さばいたり批判したり、人の陰口をたたいたりするくらいならば、むしろ自分自身の罪深さにまず目を留めて悔い改めるべきです。それから、だれにも言わないでその人のために祈るべきです。悪口や陰口というものはしばしば、「祈りの課題」という形を借りて教会の中に蔓延します。私たちがパリサイ人にならないためにも、気をつけなければなりません。むしろ自分こそがいやされるべき罪人であると自覚し、また、兄弟姉妹もまたいやされるべき存在として、そのいやしをとりなして祈る者とならせていただきましょう。 まとめたいと思います。私たちはイエスさまにいやしていただくことではじめて健やかになれる、罪に病んで傷ついた存在です。イエスさまは、そんな私たちのことを弟子として招いてくださいました。私たちは生涯イエスさまに弟子としてお従いし、鍛えられることによって、この罪の病、傷をいやしていただけます。イエスさまは、私たちが罪の中で孤独になることがないように、いつでも私たちと交わってくださいます。その交わりの中で、私たちはいやしていただくのです。 私は取税人のような罪人ではない、と言って、その救いの御手、いやしの御手を拒んではいないでしょうか? 私たちに必要なのは、「私は罪人のかしらです」という、真剣な告白であり、いやされたいと真剣にイエスさまのみもとに行くことです。イエスさまは私たちをいやして健やかにする交わりに招いてくださり、私たちはその交わりの中でいやされます。今日も、そしてこれからも、いやし主なるイエスさまに自分を差し出し、ともに健やかになり、ともに罪人の姿からキリストの似姿に変えられて、主のご栄光を顕す者として用いられてまいりましょう。 では、お祈りいたします。 聖歌261/献金 讃美歌391(お手元に献金を聖別してください)/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り