だれの祈りが受け入れられるのか

招詞 詩篇134篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇66篇/主の祈り/讃美 讃美歌514/聖書本文;ルカの福音書18章9節~14節/メッセージ題目;だれの祈りが受け入れられるのか  コロナウイルス流行に伴って「私たちはいかに祈るか」ということを、これまでこの日曜礼拝の時間に学んでまいりました。この事態を主が鎮めてくださるように、私たちはどれほど祈らされたことでしょうか。しかし主は、日本にかぎってのことではありますが、ある程度の回復をくださいました。そこで、今日でひとまずこの「祈り」をテーマにした学びを締めくくりたいと思います。  私がはじめてお祈りしたときのことを想い出します。それは日曜学校の中高生科のことで、先生も交えて数人のメンバーでお祈りしました。いきなり私の番が回ってきて、しどろもどろになりながらお祈りしたものでした。しかし、そのグループには歳の近い長老のお嬢さんがいらっしゃり、彼女はすらすらと、きれいなことばづかいさえ用いてお祈りしたものでした。そう、私にとって初めてのお祈りは、ちょっとコンプレックスを覚えるような体験でもありました。  あれから30年以上たち、それなりに私のお祈りのことばは豊かなものになったと思います。しかし考えなければならないことは、神さまはお祈りの表現の豊かさ、きれいさにしたがって、お祈りを聞いてくださるわけではない、ということです。今日お取次ぎするメッセージを備えながら、自分はどうだろうか、自分のお仕えしているこの群れはどうだろうか、と、たえず問われる思いでいっぱいでした。それでは、みことばの解き明かしにまいりたいと思います。  イエスさまは、お祈りということに関して、2種類の人を例に挙げられました。それは、自分は正しい人間だと確信していて、ほかの人々を見下している人たちを戒めるためです。具体的には、当時の宗教界を支配していた人たち、律法学者のパリサイ人たちを念頭に置いてのおことばでした。彼らパリサイ人の宗教的支配により、実に多くの人が不自由を強いられ、悩みと苦しみの中にありました。イエスさまは、そのように抑圧された人々に対し、彼らを解放するみことばを語られた一方で、パリサイ人を戒め、その宗教的な偽善を暴き出されました。  少し考えてみましょう。私たちはパリサイ人でしょうか? そうではない、自分は恵みによって救われた、と思いならば、自らに問うてみる必要があります。自分は神さまの正しさを基準に、人のことをさばいていないだろうか? 自分は神さまに近い分、人は自分よりも劣っているとか、けがれているとか、間違っているなどと思っていないだろうか? もしそうならば、私たちは立派に、鼻持ちならないパリサイ人です。福音書の記者たちがあれだけ、パリサイ人に関する記事に紙面を割いているのももっともなことになります。 心して聖書をお読みする私たちになりたいものです。  宮、これはエルサレム神殿です。エルサレムの中でも高いところにあります。この高きに向かって上っていくとき、神さまに出会うんだという高揚感はいやがうえにも高まろうというものです。みなさんも、服装を整えて車に乗り、はるか茨城町長岡を目指していらっしゃるときにも、同じような思いになられるのではないかと思います。しかし問題は、宮に上ることそのものではなく、その宮においてどんな祈りをささげるかです。  宮に上った2人の人、パリサイ人と取税人……イエスさまはこの2人を、とても対照的な姿で描かれます。まず、パリサイ人の祈りの特徴を、3つのポイントに分けて見てみたいと思います。  第一にパリサイ人は、敬虔ななりをして自分を義としました。  パリサイ人はどこで祈っていますでしょうか? 宮です。まさに、自分のような宗教指導者にとっては本拠地です。  ここで祈るということは、いかにも自分は宗教的にすぐれた人であるとばかりに、人に見せびらかすに充分なことです。イエスさまは、偽善者は人々に見えるように、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだと喝破していらっしゃいます。そのような者は、すでに自分の受け取るべき報いを受けている、ともおっしゃいました。祈っただけの報いをその後も、いわんや天国においても受け取る余地はない、ということです。  このパリサイ人もまさに、そのような偽善的な態度で、宮にいたわけです。愛するみなさん、私たちの信仰生活を、日々のお勤めにも似た宗教行為ののりでしてしまうならば、それはとても危険なことです。することそのものが目的となり、することによって自分が何やら霊的な人になったように思えたり、霊的な人と思ってもらえたり……イエスさまなら、それは偽善者の態度であるとおっしゃることでしょう。  かく申します私などは、なまじ牧師のような働きをしているゆえに、どれほどそのように宗教的に満足することの誘惑にさらされていることか、どうか理解していただきたいのです。イエスさまは、先生と呼ばれてはいけません、とおっしゃいました。しかし私は今、みなさまに先生と呼んでいただいています。そう呼んでいただけることが主の御目には素晴らしいことである一方で、私は決して慢心してはなるまい、と、心を新たにさせられます。  しかし、あえて申しますが、私たちもみな、多かれ少なかれ、パリサイ人になりえる要素というものを持っているものです。特に、イエスさまの十字架にの恵みにより、信仰によって救われた、その証しをする聖書は誤りなき神のことばである、と信じ告白する私たちのことを、一般には「福音派」と呼びますが、われわれ福音派は一歩間違えると、とても鼻持ちならない集団と化します。自分たちこそ神さまが選んでくださった、自分たちこそ神さまと交わりを持たせていただいている、自分たちこそ聖書もイエスさまもよく知っている、あとは正しくない、足りない……私たちはときに、こんなことを考えたりしていないでしょうか?  そのような私たちであることに気づかされたならば、すぐにでも悔い改める必要があります。そのような者の祈りは、一見するととても立派なことばに飾られています。しかしそこには、神さまとの交わりが成り立つ余地はありません。立派なことばを使ってお祈りすればいいというものではありません。もちろん、お祈りのことばが整えられるのは大事にはちがいありませんが、それ以上に大事なのは、立派な自分ではなく、神さまに焦点を合わせたお祈りをすることです。 私たちの普段ささげているお祈りを点検しましょう。お祈りしているとき、神さまが見えていますか? いえ、神さまだけを見つめていますか? 神さまだけを見つめるならば、宗教的に飾った自分のことなど見えなくなります。  パリサイ人の祈りの、第二の特徴にまいります。パリサイ人は、他者との比較で自分を正しいとしました。  11節を見てみますと、パリサイ人は、4つのことを感謝しています。自分が奪い取る者ではないこと、不正な者ではないこと、姦淫する者ではないこと、そして、その祈りの場にともにいる取税人のようではないことをです。  たしかに、彼の祈ったとおりなのかもしれません。法律的、道徳的規準から言えば、奪い取ったり、不正だったり、姦淫したりはしていないのかもしれません。それに、取税人のように、ユダヤ人から税を取り立ててローマに貢ぎ、必要以上に取り立てたぶんで私腹を肥やすようなことはしていないのかもしれません。  しかし、それを感謝した気分になるということは、神さまに栄光をお帰しする態度ではなく、自分の手柄のように誇るということです。そこには神さまの恵みを認め、感謝する余地はありません。  さらに厳密に言えば、パリサイ人はこのどの比較によっても義と認められることはできません。パリサイ人は窃盗犯や強盗のように人からものを奪うことはしていないかもしれません。しかし彼らは、合法的に庶民を苦しめるように宗教社会をつくり上げ、彼らを搾取してはばかりません。まさにパリサイ人は奪い取る者です。そして、そのようなことをきよい神、公平な神、愛なる神の名において行うのは、これ以上ないほど不正なことです。また、肉欲を行使するか否かという点でも、姦淫の罪は犯していないでしょう。しかし、律法というものは、十(とお)のうちひとつでも破るならば、すべてを破ったと見なされます。姦淫の罪を犯していないことなど、何も誇ることではありません。  さらにこのパリサイ人は、そばでともに神さまに祈っている取税人を、同じ神の民として扱ってはいません。人としてすら扱っていないようでもあります。取税人は確かに取税人という悪い肩書を持っていますが、同じユダヤ人、神の民であることに変わりはありません。そのような彼に対するあわれみの心など欠けらも持ち合わせず、自分さえよければという思いでいっぱいです。兄弟としての意識もなく、さばく思いでいっぱいです。  神さまは、あなたが人と比べて罪深くないから受け入れてくださる、というお方ではありません。神さまの前にはみな罪人です。義人はいません。ひとりもいません。それなのに、人よりも自分のほうが罪深くないとか、すぐれているとか言ってみたところで、何になるのでしょうか。  私たちが神さまを恐れているならば、くれぐれも、人と比較して自分のほうがすぐれているなどと、誇ったりしないことです。そのような態度は、救いようのない罪人だったのが恵みによって救いっていただいた、そのような私たちに、いちばんふさわしくないものです。私たちの祈りを点検しましょう。くれぐれも人と比較しないでいただきたいのです。  パリサイ人の祈りの、第三の特徴を見てみましょう。パリサイ人は、宗教的行為で自分を義としました。  12節を見てみますと、2つの宗教的行為をこなせていることを彼は誇っています。まず彼は、週に2回断食していると言っています。……しかし実際に聖書が呼びかけている断食は、週に2回というものではありません。年に数回の「贖罪日」に断食を要求するのみです。しかし、時代が下り、宗教指導者たちは週に2度の断食をすることが慣わしとなっていました。  みなさん、断食というものをなさったことがおありでしょうか? あれは、とても苦しいものです。特に、食べないと血糖値が下がってふらふらになるような方の場合、生きた心地がしなくなります。しかし断食とは本来、主のみこころをより深く自分のものにさせていただくためにすべきものであって、断食そのものによって、自分が何か偉い人になったかのように錯覚するためのものではありません。  一日、断食をしたとします。しかし、そのことで、自分はすごいことができたなどと自分を誇る態度になったならば、はっきり申します、その断食は大失敗です。パリサイ人は、そのようなひとつも実を結んでいない失敗の宗教的行為を、しかも週に2回、年に換算すると100回以上もしているわけです。これほどむなしいことがあるでしょうか。  そして彼は、全収入の十分の一をささげていることを誇ります。この十分の一というささげものについては、モーセ律法五書のあちこちにその根拠があり、ささげるべきものと教えています。しかし、パリサイ人に関しては、その全収入は本来、ユダヤの宗教社会の中で人々から受け取っているものであり、「労働の対価」というのとは性質が異なります。だからパリサイ人の十分の一は、庶民が労働で得た収益の中から苦労して十分の一をささげることとは、本質的に異なります。パリサイ人にとっては、いわば宗教的生活の一環です。それはパリサイ人という「職業」についているかぎりささげるべきものであって、誇るなど筋違いもいいところです。  断食と十分の一献金は、私が韓国教会と関わるようになって、はじめて身近なものとなり、これを生活化して信仰生活を送っている韓国教会から大いに学ぶべきだと、最初私は思っていました。 しかし自分が韓国教会の中に実際に身を置いてみると、その、断食と十分の一を実践することはどんなに難しいことかと、身をもって思い知りました。しかし人によっては、あまり悩まないでできてしまう人もいるものでした。でもそういう人は、「えらい」のではありません。それだけ、主の恵みを受け取っているにすぎないだけです。  私は、そのような「断食と十分の一」の流れに長年身を置いたので、それが教会形成において重要なことはわかっています。しかしそれだからこそ、私はみなさんに、断食と十分の一を強制するような牧師にはなりたくないと切に願います。これを強制でするならば、万一、一日断食ができた、今月十分の一をささげることができた、と、実践に移した場合、そんな自分のことを誇る余地が出てきてしまうものです。そうではありません、断食にしても十分の一にしても、日々いただく神さまの恵みがあまりにも素晴らしいことを受け取れて、はじめて可能になることです。はっきり申し上げます、もしそのような恵みがどうもわからない、とお思いの方は、断食や十分の一に象徴される教会生活に、そんなに一生懸命にならなくても大丈夫、と思います。もちろん、恵みを体験していただくことがいちばん素晴らしいことなので、私はそのようなみなさまのためにお祈りしますが、くれぐれも、人の目を気にして無理するようなことはなさらないでいただきたいのです。  では、パリサイ人を反面教師としてここまで見てきましたが、それなら取税人のほうはどうなのか、ということも見てみたいと思います。  取税人は、ただ自分が罪人だということを認めて嘆き悲しみ、神さまにあわれみを求めました。  13節をご覧ください。……この「あわれんでください」ということばは、岩波書店発行の福音書の訳では「お慈悲を」となっています。これなら、日本人にもわかりやすいのではないかと思います。とにかく、この取税人は、宮から遠く離れ、それでも宮にできるだけ近づいて、うなだれて胸をたたいて、ひたすらに祈ります。宮の中には彼のような立場の者は受け入れてもらえません。それでも彼は、少しでも主の臨在を求めて近づきます。うなだれるのは、自分の罪深さに恥じて、天におられる神さまに合わせる顔がない、という態度でしょう。そして、罪深い思い、そしてそれを悔いる思いでいっぱいの心をたたくように、胸を打ちたたき、叫びます。「神さま、罪人の私をあわれんでください。」  はっきり自分のことを罪人と認め、告白しています。罪人だから神さまに受け入れていただくなどとんでもない、彼はよくわかっていました。でも、彼は一縷の望みをいだいて、神さまにあわれみを求めました。あわれんでください!  彼の祈りは必至です。まるでこの祈りは、神さまのあわれみで覆っていただかなけば、死んでしまいそう、そう、必死に叫んでいるかのようです。  さあ、どちらの祈りを神さまは聞いてくださり、義と認めてくださったのでしょうか。14節です。 ……さて、この14節の「あのパリサイ人ではなく、この人です」ということばに注目しましょう。これはギリシャ語の原語でも、「パリサイ人」、「この人」と書いてあります。「この人」なのであって、「取税人」ではないのです。  これは、どういうことでしょうか? 神さまが義と認めてくださったならば、神さまはもはやその人を「取税人」に象徴される罪人としては扱わない、ということを暗示しています。神さまに罪赦されて、取税人としての在り方を外していただいた「この人」です。 一方で、「パリサイ人」は、やっぱり「パリサイ人」です。みこころから外れたこと、自分を正しいとする高慢なことを祈るような者は、依然として、人をさばき、人を不自由にする罪を決して悔い改めない「パリサイ人」として、御父もイエスさまも扱われる、ということです。  これが神さまのみこころであることを知った私たちは、ただひたすらに、神さまにあわれみを求める祈りをささげるべきです。しかし、よく考えてみましょう。私たちはなんと、小さな自分を誇る祈りをささげることでしょうか。人と比較して自分を正しくする祈りをささげることでしょうか。そんな私たちは何という罪人でしょうか。  しかし、私たちはそれでも、神さまに祈りを受け入れていただく余地があります。それは、そのような罪人、人をさばき自分を義とする罪人であることを素直に認め、その罪から自由にならないことを嘆き悲しみ、神さまの御前にあわれみを求めるのです。神さまはそんな私たちの祈りを、必ず聞いてくださいます。罪を赦し、義としてくださいます。  へりくだりましょう。神の国は、私たちげへりくだるときに、神さまが私たちに与えてくださるものです。 讃美 聖歌426/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

エリヤの祈り後篇疲れし者への神の応答

招詞 詩篇133篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇65篇/主の祈り/讃美 讃美歌516/聖書朗読 列王記第一19章1節~18節/メッセージ「エリヤの祈り後篇 疲れし者への神の応答」  この日曜礼拝のメッセージの時間、私たちはこれまで、代々(よよ)の聖徒たちの祈りの模範を、聖書から学んでまいりました。しかし今日は、模範というアプローチとはちがったかたちで「祈り」について見てみたいと思います。  コロナ疲れ……先週水曜日、教会で幾人かの信徒たちで集まったとき、改めて私たちが、「コロナ疲れ」というものにやられていたことを思わされました。私たちはどうでしょうか? 疲れてなんかいない、と思っているような方でも、実は疲れていた、ということはありえると思います。非常事態が長く続き、そこから緊張の糸が解けたときが、いちばん危ないのではないかとも思われます。  疲れから回復する技術を持っている人はすばらしいです。しかし時に私たちは、そのキャパシティを越えて、もうどうにもならなくなるときというものがあるものです。しかしそんなときにも、神さまは私たちを祈りに招いていらっしゃいます。先週に引きつづき、エリヤの祈りから学びましょう。  第一のポイントです。神さまは疲れ切った者をどこまでも慰め、力づけてくださいます。  先週みことばから学びましたとおり、エリヤは素晴らしい業績を上げました。しかしその目的は、エリヤがスーパースターになることではありません。アハブ王をはじめ、神の民イスラエルが、偶像を捨てて、主に立ち帰ることに大きな目的がありました。  しかし、結果はどうなったでしょうか? 主のみわざを見たならば、今後もう偶像を礼拝するのはやめて、まことの神さまにだけ礼拝するようになるべきだったのに、結果はあべこべでした。1節、2節のみことばをご覧ください。  エリヤにとって、あの雨乞合戦は相当な労力を要するものでした。午前中いっぱい、バアルの宗教儀式をじっと見つめることは、いかにその神々が実体のないものだと知っていても、霊的にとても疲れることだったはずです。みなさんも神社仏閣に行くようなとき、どこかしら霊的に疲れを覚えませんか? 仏式や神道式のお葬式に参列するようなときなど、なおさらでしょう。そして、まことの神さまが臨んでくださったときには力を得たとしても、神さまに敵対するバアルやアシェラの預言者850人を聖絶するということは、それが必要なこととはいえ、たいへんな労力を必要とします。しかし、そこまでしたというのに、アハブの王家は悔い改めず、イゼベルは直接対決を避け、自分のいのちにかけて刺客(しかく)を送ることをエリヤに言い送ったのでした。  聖書は、このときエリヤがどんなに絶望したことかもしっかり記録しています。やはりエリヤはスーパースターではなかったのでした。3節と4節です。エリヤは、今ここで殉教するということにより、主なる神さまの確かさを証しするという選択ができなかったのでした。むしろ、自分のいのちを救うために逃げたのでした。  しかしエリヤは、現実を見誤っていました。もしイゼベルがほんとうにエリヤを葬り去るつもりだったら、そのまま刺客を送ってエリヤを暗殺していたはずです。しかしもし、そのようなことをしたらどうなったでしょうか? エリヤは殉教したことになり、主なる神さまの正しさが証しされることになります。イゼベルとしては、何としてもそのようなことは避けなければなりませんでした。イゼベルには悪魔的な知恵があったのでしょう。自分の献身する神々の名にかけてエリヤを脅迫すれば、エリヤは逃げるにちがいないという計算があったはずです。果たしてエリヤは、まんまとイゼベルの術中にはまりました。イゼベルはこうして、エリヤを敗北者に仕立て上げることに成功したのでした。  エリヤは、ひとりでユダの南にある荒野に行きました。日の照りつける荒野では、暑さをしのぐことができるのは、低い灌木であるエニシダの木陰くらいしかありません。エリヤはそこに座り、何をしたか。自分の死を願ったのです。  エリヤの中には何らかのシナリオがあったことでしょう。バアルがさばかれ、神さまが3年6か月ぶりに雨を降らせてくださった。イスラエルはこれを見て、地位の高い者から低い者まで、まことの神さまに立ち帰るにちがいない。しかし現実はそうならなかったばかりか、イゼベルはますます強情になり、バアルの神々の名によってエリヤを葬り去りにかかりました。火をもって応えられ、大雨を降らせてくださった……あれだけのことを神さまはしてくださったというのに、バアルはまだ、まことの神さまに負けてはいなかった。エリヤはこの現実にうちのめされました。それなら、イゼベルの刺客によっていのちを落とすくらいなら、神さまの御手に陥ってこの世を去らせていただきたい……エリヤはそこまで思い詰めてしまったのでした。  エリヤはスーパースターではありませんが、神さまのみこころにかなった人でした。だからこそ神さまは、雨乞合戦においてエリヤの祈りを聞いてくださったのでした。それなら、エリヤのこの死を願う祈りも、みこころにかなった人物だからという理由で、お聞きになるのでしょうか? そうはなさらなかったのでした。  だれであれ、死にたくなることはあるでしょう。しかしわれわれクリスチャンの場合、いのちというものが神さまの御手のうちにあることを知っています。だからなおさら苦しくなるのですが、その苦しさに耐えられなくなると、本気で死にたいと思い、どうかいのちを取ってくださいと祈りたくもなります。しかしそれなら、神さまはその祈りをみこころにかなうものと受け止め、その祈りのとおりにいのちをお取りになるのでしょうか。とんでもないことです。神さまがその祈りにお応えにならないのは、生きるのがみこころということが、大前提だからです。  神さまは追い詰められている私たちの味方です。5節から7節をお読みください。……聖書は私たち人間のことを、どのように表現していますでしょうか? 土の器、とも語っています。聖霊の宮、とも語っています。私たちは有限な存在であり、壊れやすい存在です。だから、どこかで壊れやすい私たち自身を保たせる必要があります。  私たちはしばしば、信仰生活というものを、何やらとても宗教的な修養(しゅよう)のようなものと勘違いしている節はないでしょうか? コロサイ人への手紙2章の末尾を読めばわかりますが、そんな禁欲的な生き方はしょせん肉を満足させているものにすぎないと言い切っています。それでは、好き放題のことをする快楽主義の生き方と、見かけはちがっても同じことをしていることになります。  神さまの恵みにすがる生き方は、禁欲主義でも快楽主義でもありません。あえて言えば「恵み主義」です。私たちの肉的な努力で生きることに限界を覚えるとき、神さまの御手へと主導権を渡すのです。そのとき私たちは、そこからさらに禁欲的になる必要はありません。疲れたら寝てもいいですし、好きなものを食べてもいいですし、罪にならないかぎり、好きな映画のビデオを観たっていいのです。神さまが願っていることは、私たちが元気を出すことです。  神さまはエリヤの疲れ切った肉体に、いちばん必要な物は休息と食べ物だということを教えてくださいました。さあ、起きて食べなさい。旅はまだ遠い。  しかし、この旅は、ひとりで行かなければならない孤独な旅ではありません。神さまが一緒にいてくださるうれしい旅です。つねに慰めと励ましをいただく旅です。この世を生きる人たちは、みな旅人に例えることができるでしょう。私たちクリスチャンは、イエスさまが重荷を負ってくださる旅人です。つねに必要を満たしていただく旅人です。疲れたら後ろめたさを覚えずに休んでいい旅人です。私たちは天国という、はるか遠くの目標に向かって歩むために、今体験している苦しみがすべてだと思ってはなりません。疲れたら疲れている自分を認めて休み、栄養を補給することは、むしろみこころにかなっていると思ってください。それでもいま休めないでいる兄弟姉妹に、憩いのときが与えられるように、私は祈りますし、みなさんも祈っていただきたいのです。  第二のポイントです。神さまは次なる目標を見せてくださり、否定的な現実から自由にしてくださいます。  力を得たエリヤは、四十日四十夜歩き、神の山ホレブにつきました。ここはモーセが神さまに出会った場所でもあります。特別な場所です。  エリヤは御使いの備えた食べ物と飲み物を得たら、それですぐに働きに復帰したわけではありません。エリヤにはまだ、リトリートの時間を必要としていました。神さまとの交わりを持つために、実に40日にもわたってホレブ山に歩いて行ったのでした。  ここでエリヤは、神の御声を聴く体験をします。9節です。……ここで何をしているのか。神さまはもちろん、全知全能なるお方ですから、お尋ねにならなくてもエリヤが何をしているかご存じでした。しかしそれでもあえてお尋ねになったのは、エリヤの現住所をエリヤ自身が神さまの御前で知る必要があったからでした。  あなたは、何をしているのか。私たちが日々、神さまの御前に出る時間は、私たちがいまどこにいて、何をしようとしているのか、神さまの御前で確かめ、明らかにする時間です。しかしここでエリヤは、何と答えていますでしょうか。10節です。……これが、エリヤの訴えたかったことでした。これだけいっしょうけんめい神さまにお仕えしたのに、相変わらず偶像が幅を利かせ、神さまにお仕えする者たちは皆殺しにされている。ただ一人残った私さえも、今や殺されそうになっている。神さま、私が置かれているところは、こんなところなのです! 私はこの場所から、神さまに訴えさせていただきます!  聖書注解書など、この箇所に関するいろいろな解説を読んでみました。多くは、エリヤは間違った自己憐憫に捕らえられていて、自分を見失っている、というものでした。たしかに、そうかもしれません。しかし、そういう状況に陥っていたことは、当のエリヤがいちばんよくわかっていたのではないでしょうか。  岡目八目、ということばがあります。当事者の立場からいったん距離を置いてみると、見えていなかったものが見えてくる、という意味です。しかし私たちは、このエリヤの苦悩を見て、なお傍観者のような態度を取って、だからエリヤは間違っている、などと論評するのは、正しいことでしょうか? エリヤの悩みは、あれだけ神さまとの交わりを持った者にしていだかされた激しいものです。いわんや凡人の私たちは、どれほど悩みに右往左往させられることでしょうか?  しかし神さまは、エリヤのこの赤裸々な祈りに対し、臨在、という形で回答を与えられました。11節、12節をお読みしましょう。  岩を砕く激しい大風、地震、それに続く火……いかにもこれらの現象は、大いなる神さまを象徴しているように思えます。だがそのいずれの中にも、神さまはいらっしゃいませんでした。先週のみことばを思い返しましょう。雨乞合戦。水浸しの祭壇を土もろとも火でなめ尽くすほどのみわざを行われたお方、そして、3年6か月にわたる干ばつをあっという間に大雨で潤されたお方、それが全能なる主であり、イスラエルもアハブ王もこの現象に、神さまを認めました。だがそれでも、イスラエルは根本から変わったわけではありません。神さまの臨在を目に見える現象に求めるならば人は燃え尽きてしまいます。  先週、いのちのことば社の営業の方が、教会にたくさんの本のサンプルを持ってお見えになったとき、私はウィリアム・ウッド先生が書かれた「新使徒運動」に関する本を見つけ、さっそく購入しました。 新使徒運動とは、現代においても聖書に書かれているとおりの使徒が存在すると主張する立場のムーブメントで、現代に立てられた「使徒」は、キリストの何より預言し、命じればどんな悪しきものも治められる、というものです。実際、このコロナウイルスの流行においては、アメリカの各地でコロナウイルスに命じて退散させる大祈祷会が開催されたそうです。だがそれとは逆に、アメリカでは流行の拡大はとどまらず、この立場に立つ牧師さえもコロナウイルスに感染して亡くなったとのことでした。ウッド先生はこのムーブメントを、はっきり危険なものと評価していらっしゃいます。それは、単に命じる祈りをすることにとどまらず、この祈りをすることにより主が必ず聞いてくださる、すなわちどんな悪い自然現象も治めてくださると会衆をあおることにより、結果としてそうならなかったときに会衆がどれほどむなしさに襲われるか、最悪の場合にはイエスさまへの信仰をなくしてしまうか、そう考えると、これはやはり支持すべきムーブメントではないと、私も考えるようになりました。 しるしという「現象」は、神さまのご臨在の本質ではありません。では、神さまはエリヤに、どのようにご自身を現されたのでしょうか? それは、火のあとの、かすかな細い声です。 神さまは大いなるお方ですが、私たちにみこころを啓示されるその御声は、もしかすると聞き逃してしまうそうになるほど細くて小さい御声です。これを聞きとるには、全身を耳にする必要があります。「ヒア」の聞く、と、「リッスン」の聴くは、漢字で書くとちがいます。リッスン、のほうは、十四の耳と心、と書きます。それだけ耳を澄まして、心を注いで「聴く」ことが、御声を聴くうえで必要になります。 エリヤはこのとき、もはや神さまの御前に出る以外にすることはありませんでした。それがリトリートというものです。しかし私たちの場合はどうかといいますと、意識しないと神さまの御前には出られないのではないでしょうか。県境を越えて移動することは解禁になったとはいえ、まだまだどこかに行くのには慎重になりますし、だいいちそんな時間を確保するには余裕がなければなりません。日々のディボーションの時間が、形式的に聖書を読んでお祈りして、それで終わりでは、あまりにももったいないことです。そこで神さまが語っていらっしゃるさやかな御声に耳を傾け、全身を耳にして御声を聴くことです。 でも、間違ってはいけません。神さまは人に意地悪をして、わざと小さな声で語っておられるのではありません。あなたが聴く姿勢ができているなら、わたしはいくらでも語って聞かせよう、さあ、心を整えてわたしのもとに来てごらん……私たちは、このみこころを受け取ることです。 神さまはエリヤに語りかけられます。エリヤよ、ここで何をしているのか。神さまはもう一度同じことをおっしゃいました。それに対してエリヤは、またも同じことを答えました。エリヤの訴えたかったことはこのことでした。もはや進退窮まっていました。 しかし神さまは、この試練に脱出の道を備えてくださいました。15節から17節です。 これは、神さまが歴史の主人であることをお示しになった、ということです。イスラエルに敵対する国の王も、アハブに代わる王朝を立てる王も、エリヤの後継者として霊的権威を行使する者も、みな主がエリヤの霊的権威を持ってお立てになる、ということです。 このように、神さまはなおもエリヤのことを、神の国イスラエルのキャスティング・ボードを握る者として用いようとしていらっしゃる、そのみこころをお示しになりました。エリヤは、死んでいる場合ではなかったのです。まだまだ用いられる必要がありました。 18節にも注目しましょう。……エリヤは、バアルに従わずに神さまに従っているのは、自分ひとりだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。この7000人の存在、そしてとりなしの祈りに支えられて、エリヤの存在とその働きがあることを思い起こさせてくださいました。 コロナウイルス流行は、私たちを孤独にしたように感じさせました。しかし、私たちは決して孤独ではありません。みなさんは、この水戸第一聖書バプテスト教会のために、全国の保守バプテストの教会が、そして韓国のカルバリ教会、さらには韓国の日本宣教に特化した宣教団体が祈ってくださっていることをご存じでしょうか? 私たちは孤独ではないのです。 私たちは倒れたままでいることはありません。必ず立ち上がらせていただけます。いま目の前に何も見えないようでも、神さまは私たちに、次に進む道を備えてくださっています。その道を行くことは喜びです。 いま、私たちは否定的な現実しか見えなくなっていないでしょうか? どうか、細いけれどもやさしい、主の御声を聴いていただきたいのです。そこから、主が示してくださる次の目標へと踏み出す力を、受けていただきたいのです。 まだ、そこには踏み出せないでしょうか? それはもしかしたら、働きすぎて疲れているせいかもしれません。主のみもとに休みましょう。でも、休んだままで私たちは終わるのではありません。ここからさらに、私たちは大きく用いられます。神さまを信じて、踏み出すための力をいただいてまいりましょう。 讃美 聖歌409/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

エリヤの祈り前篇 雨乞合戦

招詞 詩篇131篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇63篇/主の祈り/讃美 讃美歌62/ 聖書朗読 列王記第一18:16~40/メッセージ題目;エリヤの祈り前篇 雨乞合戦 新型コロナウイルス流行という事態の中、日本中、世界中の教会が、すべてを司っておられる神さまに祈ってまいりました。一刻も早くこの流行をとどめてください! 旧約聖書にも、人間の力ではどうにもならない事態に人々が巻き込まれたという記録が、いくつも登場します。本日学びます箇所、エリヤの時代のイスラエルも、実に3年6か月にわたる干ばつに見舞われていました。このときイスラエルはどのような状態にあったのでしょうか? そうです、創造主なる神さまを捨て、偶像の神バアルを国を挙げて礼拝していました。なんといっても、バアル礼拝の背後には、まるでバアルのパトロンのごとく君臨するイゼベル王妃がいました。しかしこのとき、神を捨てたイスラエルには、明らかに懲らしめの御手が、干ばつという形で臨んでいました。イスラエルは、神さまに立ち帰ることが求められていました。 しかし、イスラエルのためにとりなして祈れる人は、もはやエリヤだけになっていました。エリヤが神さまに従う者として、アハブ王からも相当に煙たがられていたことが、17節からも知ることができます。まるで雨が降らないのは、エリヤのせいだとでも言わんばかりの態度です。それはある面ではあたっています。たしかにエリヤは、そのとおりに祈りました。しかしそれは、国を挙げた偶像礼拝をイスラエルが悔い改めないゆえでした。しかし、ここに決着をつけるときが来ました。エリヤは、まことの神さまが雨を求める祈りに応えてくださるのは今だ、とばかりに、雨乞合戦を提案しました。 雨乞合戦――ささげたいけにえに、天からの炎をもって応える神がほんとうの神。その神こそ、この干ばつに覆いつくされたイスラエルに雨をもって応えてくださる神。アハブよ、あなたがそこまでして従っているバアルの神がまことの神ならば、その預言者をことごとく集めたらどうだ。従うべき神がはっきりするではないか。そこでアハブは、バアルの預言者450人と、そのつがいの女神アシェラの預言者400人を、エリヤの提案どおりにカルメル山に集めました。全イスラエルもカルメル山に集まりました。 さて、この雨乞合戦、エリヤにとっての祈りに至るプロセス、エリヤの祈り、その祈りの結果、この3つのポイントから見てみると、エリヤにならう私たちはいかなる理由で祈るのか、よく見えてまいります。この雨乞合戦から、ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。雨乞合戦は、偶像の神のむなしさを示しました。 エリヤはまず、ここに集まったイスラエルの民に尋ねました。21節です。……イスラエルの民は、なぜ答えることができなかったのでしょうか? それは、エリヤを前にしては、間違っても、バアルがまことの神だとは言えなかったからでした。しかし一方で、創造主なる神さまがまことの神さまだと言い切るには、彼らはあまりにもバアル崇拝に染まっていました。 このようにはっきりした答えを出せない状態は、日本の多くのクリスチャンが置かれた状況に通じるものがあります。人前でクリスチャンであることを言い表すことができない。法事などがあったら右へ倣えで合わせてしまう。私たちは果たして、このどっちつかずのイスラエルの民を見下すことなどできるでしょうか。 偶像というものは目に見える形で鎮座している分、人に強烈な存在感を示します。神の民はかねてより、偶像を礼拝してはならないことを神さまからずっと戒められてきました。それは、偶像というものに惹かれ、いとも簡単にまことの神さまを捨て去ってしまう人間の罪深さを、人が思い知る必要があるからでした。 そのためにもエリヤは、偶像に頼ることがどんなにむなしいかを示しました。エリヤは彼らに、長い時間を与えました。彼らはその長い時間、踊りまわりました。しかしもちろん、何の奇蹟も起こるはずもありません。バアルは単なる人間のイメージであり、存在するはずがないのです。 何をどうしても奇跡が起こらない中、エリヤはバアルの預言者たちにあざけりのことばを投げかけました。27節です。……リビングバイブルというバージョンの聖書では、ここをどう訳しているか。「もっと、もっと大声を出せ。おまえたちの神には聞こえんぞ。だれかと話し中かもしれんからな。トイレに入っているかもしれんし、旅行中かもしれん。それとも、ぐっすり寝こんでいて、起こしてやる必要があるかもしれんな。」トイレとはずいぶんな訳をつけたものだ、と、笑ってしまいますが、ともかく、このようにエリヤが言ったのはなぜだったか。それは、バアルの預言者たちをあおることそのものが目的だったのではありません。イスラエルの民に、偶像の神は存在しない、むなしいことをはっきりわからせるためでした。 私たちは気をつけなければなりません。私たちの生きている世界は、偶像の神でも奇跡を起こせる、と吹聴するような者たちで満ちています。八百万(やおよろず)の神、ということばを侮ってはいけません。それは、どこもかしこも神を名乗る者たちで満ちている、ということを意味します。 私たちは、まずそのような存在から自分自身を守るため、偶像の神がどれほどむなしいかを心から認める必要があります。そのためには、この世にうごめく八百万の神がどのようなものか、いちいち検証するのではありません。そんなことをしていてはきりがありません。私たちのうちに、私たち神の民にとっての変わらない基準である聖書のみことばを保つことから、すべては始まります。歴代誌第一、16章25節と26節をお読みください。……これです、これが私たちの基準なのです。私たちの主は、あらゆる神々と呼ばれるものたちにまさって偉大なるお方、このことを私たちは、いつでも確かな信仰告白として自分のうちに保っておく必要があります。このほかにも聖書には、このエリヤの箇所だけでなく、たとえばギデオンの箇所のように、偶像のむなしさが描写された箇所、また、出エジプトにおける金の子牛やダニエル書の王の像のように、神の民に対しチャレンジを与えるような箇所が登場し、そこから私たちは、この世で神と呼ばれている存在に対しいかに対処するか学ぶのです。繰り返します、この世の神々のことを知ろうとする前に、聖書をしっかり学んでいただきたいのです。 さて、ついにバアルの預言者たちは、刃物や槍でからだを傷つけはじめました。まるでここに備えた牛のいけにえでは足りなくて、自分たちをいけにえにするがごとしです。しかしそんなことをしても、もちろん、バアルへの祈りが何らかの奇跡を呼ぶはずもありませんでした。ここから私たちは、何を教えられますでしょうか? この世の神々に身をささげた者たちは、むなしく傷つくだけである、ということです。私たちの隣人がそのようなむなしさに陥っているならば、そこから早く抜け出せるように、私たちはとりなして祈っていく必要があります。私たちの主は、傷を与えるお方ではありません。あらゆる傷をいやしてくださるお方です。ともかく、偶像のむなしさを私たちはしっかり悟り、私たち自身も、そしてほかの偶像にとらわれている人たちも、その支配から自由になるように、祈ってまいりたいと思います。 第二のポイントです。雨乞合戦は、主への祈りの確かさを示しました。 ついに何も起こらなかったバアルの陣営を尻目に、自分の番が回ってきたエリヤは、何をしたのでしょうか? 20節、まず、壊れていた主の祭壇を築きなおしました。 そうです、それまでイスラエルは、まことの神さまを礼拝することをなおざりにするあまり、祭壇は壊れるに任せていました。壊れたままに放っておかれた祭壇は、今のイスラエルの壊れた霊的状況を象徴しているかのようでした。しかしエリヤは、まずこれを立て直すことから始めました。イスラエルよ、あなたがたがすることは、神さまとの壊れた関係、壊れた礼拝の態度を立て直すことではないか、あなたがたは壊れている、でも今からでもやり直せる、さあ、礼拝に招こう……それが神さまのみこころでした。 祭壇は、十二の石で築きました。十二の石は、イスラエルの十二部族を象徴しています。エリヤは神さまの御前に、一人で英雄のように立ったのではありません。エリヤの祈りにはイスラエル全体もともにあることを神さまの御前で明らかにし、同時にここに集う全イスラエルの前で明らかにしたのでした。まことにこの祈りは、イスラエル全体の祈りでした。イスラエルがまことの神さまへの祈りを回復したことを象徴していました。 さて、エリヤはいけにえをささげる際に、何をしたでしょうか? 33節から35節です。いけにえは水びたし、もはや、普通に火をつけてもぜったいに火などつかない、燃えるなどもってのほかという状態です。さあ、見よ、イスラエルよ、神さまが全能ならば、このいけにえも火で焼き尽くされよう。 そして、ささげものは完成しました。エリヤは祈りました。この祈りのことばを見てみましょう。36節と37節です。……アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。私たちイスラエルの民は、先祖が神さまと直接契約を結んでくださった神の民。あなたさまがイスラエルの神であることを明らかにしてください。私が今日行うこの礼拝が、神さまのみことばに従うことであることを明らかにしてください。祈りに応えてくださることによって、この民があなたさまに立ち帰ったことを自ら知るようにしてください。 そうです、神さまが祈りに応えてくださることは、エリヤがすごいスーパースターとしてイスラエルの民の間で輝くためではありません。すべてはイスラエルの信仰が復興するためです。 神さまはこのお祈りに、お応えになりました。38節です。……天から下った激しい炎は、いけにえも、石の祭壇も薪も、水も、もろともなめつくしました。奇跡を起こされたのは主だったのです。主は全能なるお方だったのです。そして、主はすさまじいまでのその主権を現してくださったのです。 私たちはもちろん、何らかのしるしと不思議がなければ信じないというレベルにとどまるものではありません。しかし、主が全能であることを私たちがほんとうに信じているならば、私たちはその全能の御手にすがり、そのご栄光を民全体に現してくださり、民が主を信じるようにと祈ってしかるべきではないでしょうか? 主は必ず、この祈りに応えてくださいます。 さて、それならばその一方で私たちには考えるべきことがあります。主が全能の御手を下してくださっていることを、私たちはどれほど認め、主の御名をほめたたえていることでしょうか? たとえば今、うちの娘は夜の聖書通読の時間ごとに、コロナウイルスの流行が収まりつつあることを主に感謝しています。私は、夜ごとささげられる祈りを聞いて、娘のこの態度からとても教えられています。コロナウイルス流行の終息には、だれもがほっとしています。しかし私たちは果たして、その背後に全能なる主の癒しのみわざがあることを、どれほど認め、また感謝しているでしょうか? コロナウイルスだけではありません。個人的な病気のいやし、経済的な回復、人間関係の葛藤の解消、これらすべては、人間の力でどうにかなるものではなく、すべて、全能なる神さまのご介在のうちに可能になることです。ならば私たちは、感謝していますでしょうか? しかし、私たちならば、これらのことに主の御手を認め、感謝する余地が残されています。それでは周りを見回してみましょう。いったい、あらゆるできごとの中に全能なる神さまの御手を認め、神さまに立ち帰る人がどれほどいるというのでしょうか? 私たちは自分たちのためだけでなく、周りの人たちのためにも祈る必要があります。主がその方々の前に御業を示されるとき、彼らが主を認め、主に立ち帰るように、祈ってまいりたいものです。 第三のポイントです。雨乞合戦は、主への信仰告白を引き出しました。 祭壇をもろともなめ尽くす火を見たとき、全イスラエルの恐れはどれほどのものだったことでしょうか。39節をご覧ください。 このイスラエルの信仰告白、賛美のことばはどうでしょうか。イスラエルがこぞって、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白したのです。エリヤは、この雨乞合戦に勝ったのです。 雨乞合戦は雨が降ることにその目標があったのではありません。人々から「主こそ神です」という信仰告白を引き出すこと、これが雨乞合戦の究極の目標でありました。エリヤはそのために、いかなる努力も惜しみませんでした。しかしさらに言えば、この信仰告白はエリヤの努力の結果のみによってもたらされたのではありません。やはりなんといっても、主ご自身がイスラエルの民を憐れんでくださったゆえでした。かくしてイスラエルの民はこぞって、主こそ神です、とひれ伏して告白したのでした。 さて、この「主こそ神です」という信仰告白を引き出すという、雨乞合戦におけるこの究極の目標は、私たちの人生においてもやはり、究極の目標となるべきものです。 ちょっと目を閉じて、私たちの周りの人たちの顔を、思いつくかぎり思い起こしてみてください。クリスチャンであるなしにかかわらずです。そんな彼らがこぞって、「主こそ神です」と叫ぶ場面を想像してみてください。胸が熱くなりませんか? はい、目を開いてください。 エリヤの人生は、人々をして「主こそ神です」と言わしめることに、その究極の目標がありました。その生き方は、私たちにとっても同じように目標となるべきものです。マタイの福音書5章16節の、イエスさまのお語りになったみことばをお読みしましょう。……これが私たちの人生の、究極の目標です。 しかし、この生き方をするために、クリスチャンならぬクルシミチャン、ガンバルチャンになる必要はありません。毎日みことばを開き、どうすることが主の栄光を人々の前で輝かせることなのか、みことばに照らして必要な行動を具体的に教えていただくのです。そして、その行動の目標を、ほんの少しでいいですから、それこそ、一日にたった一つでいいですから、聖霊なる神さまの導きと助けの中で実践するのです。頑張ろうとして息切れし、あとはいいや、とならないためにも、毎日少しずつ、こつこつと実践することです。 JTJ神学校の創設者である中野雄一郎先生が普段からおっしゃっていることば、コツ、コツ、勝つ、コツ、いいことばでしょう? コツコツ取り組んで何に勝つのですか? 世と悪魔にです。 エリヤも主のみことばを聴いて行うことにおいて、コツコツ、ということを実践していたことに疑いの余地はありません。その結果神さまは、エリヤを通してご自身とイスラエルの民の勝利をもたらしてくださったのでした。 私たちも同じです。人々が私たちのよい行いを見て、天におられる神さまをほめたたえる生き方をする、そのことによって世と悪魔に打ち勝つものとなるために、日々、みことばと祈りによって御前に進み出ることを願っていらっしゃいます。これまでなかなかできなかったならば、今日から始めましょう。主は喜んで、私たちを受け入れてくださり、用いられるにふさわしく、私たちを整えてくださいます。 最後に、エリヤとはどんな人物だったのかも見てみましょう。ヤコブの手紙5章17節と18節です。神さまは奇跡のようにしてエリヤの祈りを聴いてくださいましたが、聖書の評価によれば、エリヤは「私たちと同じ人間」でした。それなら、エリヤが神さまに従うことができて、私たちがお従いできないということは、決してないはずです。今日の雨乞合戦の学びから、偶像のむなしさ、祈りを聴いてくださる主の素晴らしさ、人を信仰告白に導く私たちの人生の究極の目的を学んだ私たちは、エリヤのように、主の前に立たせていただいている一人の信仰者として、主の御力をいただきながら、この世において用いていただくものとならせていただきたいと、切に祈り求める者となることを願います。 では、お祈りします。 讃美 聖歌604/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

「祈りは聞かれる」

招詞 詩篇130篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇62篇/主の祈り/讃美歌66/聖書朗読 マタイ9:18~26/メッセージ;「祈りは聞かれる」    聖書には、数多くの、お祈りが聞かれたことの記録が登場します。本日は、イエスさまがお祈りを聞いてくださったことについての学びです。  イエスさまがこの地上に生きておられたとき、イエスさまが神の御子であると信じることのできた人は幸いでした。律法主義に毒されていたユダヤ人たちは、ことあるごとにイエスさまをなきものにしようとしました。イエスさまが神の子だとわかっていたなら、なきものにするなどという発想そのものが浮かぶわけもなく、ただひたすら礼拝するのみでしょう。しかし神の民であるはずのユダヤ人はイエスさまを迫害し、十字架にまでかけました。  私たちがその時代のユダヤに生きていたならば、どのような態度をイエスさまに対して取ったでしょうか? イエスさまを神の子と信じて、どこまでも従うことができたならば幸いです。そのような人は特別な恵みをいただいた人ということができるでしょう。  特別な恵みは、イエスさまに対し純粋な信仰を持つという形で現れます。ユダヤの宗教共同体に毒されていたならば、イエスさまのことはただの人としか映らず、間違ってもこのお方を創造主の御子と認めることはできなかったでしょう。それほど、神の民であるはずのユダヤの宗教の教えは、イエスさまがどのようなお方であるかを見えなくしていました。  今日の本文には2人の人が登場します。いずれもイエスさまへの信仰を恵みの中で持ち、その結果素晴らしいみわざを体験した人たちでした。彼らはどのような信仰を持ち、どのようなみわざを体験したのでしょうか? ともに見てまいりましょう。  まず、18節からまいります。……やって来たのは会堂管理者でした。折しも、彼の娘が死んでしまいました。ほかの福音書の並行箇所を読んでみますと、彼女は12歳だったということです。わずか12歳、洋々たる前途が、死んでしまったことによっていっさい閉ざされました。どれほど悲しいことでしょうか。そして絶望的なことでしょうか。  しかし、この会堂管理者は、イエスさまというこの方ならばきっと生き返らせてくださる、という信仰をもって、イエスさまの御前に進み出ました。イエスさまが娘に手を置いてくだされば、必ずいやされる。  この会堂管理者は、自分の管理していた会堂にていろいろな集会が催されるのを見てきた人です。もちろん、ユダヤ教の教師による集会も体験している一方で、この町まで巡回してこられたイエスさまの持たれた集会を目撃していました。 この会堂管理者は、長年ユダヤ教の教師たちによる集会を見てきた立場として、イエスさまの集会がどれほど彼らのと異なり、神からの権威に満ちていたかをよく体験していました。もしかしたら、イエスさまがその会堂で何らかの奇蹟を行われたりしたのかもしれません。ともかくこの会堂管理人は、イエスさまのそのお姿を見て、この方なら必ず娘をいやしてくださる、という、確かな信仰を持ったのでした。イエスさまの教えは、口だけの教えではない、権威ある方の教えである、そのことを会堂管理者はわかっていたのでした。  ただ、もしかすると、この会堂管理者という立場ゆえに、それまでイエスさまに対する信仰を公に言い表せなかった可能性もあるかもしれません。普段はユダヤ教の教師を迎え入れている会堂の管理者であるわけで、もしイエスさまが神の御子であると告白したら大変なことになります。しかし、もうなりふり構っていられません。娘は死んでしまったのです。会堂管理者は、イエスさまにすべてを懸けて、御前にひれ伏しました。  19節のみことばです。イエスさまはただちにバプテスマのヨハネの弟子たちとの議論を中断し、会堂管理者の家へと向かっていかれました。そこに、イエスさまの弟子たちもついて行きました。あとで詳しくお話ししますが、イエスさまのみわざはひそかな形で行われたものでした。そこに弟子たちを伴われたということは何を意味するのでしょうか? そう、弟子たちには、神の御子としてのご自身のひそかなみわざをしっかりお示しになった、ということです。その秘められたみわざを目撃する特権にあずかった存在、それがイエスさまの弟子です。  しかし、こんにち私たちは、聖書をお読みするという形で、弟子たちと同じようにイエスさまの秘められたみわざを目撃することができています。その、聖書に書かれたみわざをそのまま信じ受け入れるならば、私たちもまた、イエスさまのみわざを目撃し、イエスさまが神の御子であることを信じ受け入れる弟子であるわけです。だから、この秘められたみわざの記録された聖書に相対するとき、私たちはイエスさまのみそばでみわざを目撃する、イエスさまの弟子となる特権に招かれているということになります。私たちは聖書を読むとき、弟子の態度で、よく目をひらいて、みことばに記されたイエスさまのみわざを見ることが必要です。  ともかく、早く行かなくてはなりません。しかし、ここに、ひとりの女性が登場します。十二年の間わずらっている女性です。「長血」とありますが、これは婦人病です。並行箇所であるマルコの福音書から推察しますと、からだから血が流れだしつづけ、ひどい痛みがつねにともなっていたようです。彼女は治りたくて必死でした。多くの医者を訪ね歩きましたが、彼ら医者たちは彼女から治療費を取るだけ取って、治してなどくれませんでした。彼女は生活のために持ち物をみな売り払い、まったく絶望的な状態にありました。  しかし、彼女の中には治りたいという思いが保たれていました。人生を悲観して自殺しかねないほど追い詰められていた彼女の中にも、治りたい、救われたいという、最後の思いが残されていたのでした。彼女はこのような中で、イエスさまが近くに来られたということを知り、いてもたってもいられなくなりました。しかし、イエスさまの周りにいたのは弟子たちだけではありません。おびただしい群衆があとをついてきていたのでした。彼女は群衆にまぎれました。そして、どうしたでしょうか? 20節、21節です。  この姿は、会堂管理者の姿と対照的です。会堂管理者は社会的に信用される地位にあり、イエスさまに堂々と近づいてイエスさまが神の御子なるお方であることを告白することで、ユダヤ教の宗教指導者を敵に回す危険なリスクを抱えていました。しかし彼は堂々とイエスさまの御前にひれ伏し、イエスさまの御腕にすがったのでした。 対照的にこの女性はどうでしょうか? 当時の宗教社会を支配していたのは、律法、またその解釈でした。漏出を病んでいるならば、その人にさわってはいけないことになっています。なぜならば「けがれる」と見なされるからです。 人は罪人です。他人が自分よりも明確にけがれているように見え、なおかつ律法がそう語っていると解釈するならば、人は他人を自分よりもけがれた存在と見なし、遠ざけます。あたかもその人に触れたならば、強力な伝染病のごとく、自分にもそのけがれが伝染するぞと言わんばかりにです。そんなわけで彼女は堂々とイエスさまのもとに出ていくなどということはできませんでした。群衆に紛れこんでイエスさまの服にさわったら、あとはひそかに去っていこう……ただ、それでも彼女を支えていたものは、イエスさまの服にでもさわれたら治るという信仰でした。社会の最底辺のような地位におかれた彼女がひそかにイエスさまに近づいたのは、社会的地位のある会堂管理者が堂々とイエスさまに近づいたのと実に対照的ですが、どちらにも共通していたのは、「イエスさまならできる」という、純粋な信仰でした。ともかく、この女性はイエスさまの着物のふさにさわりました。するとたちまち、いやされました。 しかし、イエスさまはそこで立ち止まられました。並行箇所の福音書を読んでみますと、だれがさわったのか、と、わざわざ問うておられます。しかし、弟子たちも言うとおり、イエスさまのところには群衆が押すな押すなと押し寄せており、だれがさわったかはわからないものです。しかしイエスさまは、いや、たしかにさわった者がいた、わたしの中から力が出ていったのを感じた、と語られました。それでこれ以上隠れていることができなくなって、この女性が名乗り出たのでした。 そう、イエスさまに触れる人はたくさんいます。しかし、イエスさまに「信仰をもって」触れるか、そうでないかの違いはとても大きいものです。大ぜいの群衆はイエスさまにさわっていました。しかしイエスさまの力は、その人たちに向かっては出ていきませんでした。彼らはたださわっていただけだったからです。しかし、この女性はちがいました。お着物にでもさわれたらきっと治る、その必死の信仰でイエスさまにさわった結果、イエスさまは御力をもって彼女をいやされたのでした。22節をお読みしましょう。……まさにそのように、イエスさまは彼女の信仰に応えてくださったのでした。 それにしても急いでいるときに、イエスさまはなぜわざわざこのようにこの女性のために時間をお取りになったのでしょうか? それはなんといっても、この女性とは格別な個人的コミュニケーションが必要だったからではないでしょうか? イエスさまは、はるか遠いお立場のスーパースターにも等しいお方です。お着物のふさにさわれた、それでよかった、それでも人間というものは満足してしまうものです。しかしイエスさまは、アイドルの握手会や寺社参拝のような、一方的な願望の投影の対象ではありません。信仰をもって近づく人と、ちゃんとコミュニケーションをとってくださるお方です。この女性がそのまま去っていくことをお許しにならず、しっかりした信仰に立たせてくださいました。イエスさまとはそういうお方です。私たちにみわざを体験させてくださるのみならず、その意味を深く悟らせてくださいます。そうしてイエスさまとのより深い関係に入れていただけるのです。 だが、このような中で、人を不信仰に引き戻そうとする力は働くものです。マルコの福音書によれば、イエスさまがこの女性と話している間に、会堂管理者の家から人がやってきて、お嬢さんは亡くなったのだから、これ以上イエスさまをわずらわせるべきではありません、と告げたのでした。とにかく、死んでしまったという厳然たる事実を受け入れさせようとしたのでした。その人は親切心からそのように告げたとも考えられますが、それは逆に考えれば、引導を渡すことばを告げたとも言えます。しかしイエスさまはそのことばをお聞きになっても、「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。引導を渡す人のことばなど、神の御子であるイエスさまには関係ありませんでした。 そしてイエスさまは、もう群衆がついて行くことをお許しになりませんでした。それどころか、十二弟子もより分けられました。特に弟子の中でリーダー的な役割を果たす、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人に絞って連れていかれました。この3人は、変貌山のできごとに同伴させていただくなど、イエスさまにとって奥義に等しい場面に伴われていますが、この会堂管理者の娘の家にも伴われました。 ともかく、女性はいやされて帰り、イエスさまの一行はいよいよ会堂管理者の家に着きました。そこには弔いの笛を吹く者たち、また葬儀に来た者たちが待ち構えていました。彼らは泣き悲しんで大騒ぎしていました。もう彼女を葬ってしまう手はずは整っていました。あとはその父親である会堂管理者が帰ってくれば、彼女を墓に運ぶだけでした。しかし、会堂管理者はイエスさまを連れてきました。 家に到着され、イエスさまは騒ぐ彼らを一喝しました。23節、24節です。……彼らはあざ笑いました。なぜでしょうか? 現実に彼女は死んでいることが、だれの目にも明らかだからです。しかし、イエスさまをお呼びしたのは会堂管理者であることを考えると、この群衆はその管理者の管理する会堂でイエスさまのメッセージを聴いたこともあったでしょう。そしてもしかしたら、先ほども申しましたとおり、イエスさまのみわざも会堂の中で目撃したかもしれません。何よりも、神の御子そのものであるイエスさまを、彼らはその目ではっきりと見ているのです。しかし、彼らは信じませんでした。このお方がいのちの主なるお方であることも、創造主なる神の御子であられるということもです。 その不信仰が、畏れ多くもイエスさまをあざ笑うという行動に出ます。イエスさまの語られるみことばを評価し、判断するのです。これはしょせん被造物である人間に許されていることではありません。だが人間はなんと傲慢なのでしょう。聖書を批評し、天地創造に始まりノアの洪水やバベルの塔、イエスさまのみわざ、果ては十字架や復活に至るまでも神話と片づけ、聖書の記述よりも人間の理性のほうに重きを置きます。窮極の不信仰です。 イエスさまは彼らのことを家の外に出してしまわれました。そして、娘の両親と3人の弟子だけを伴われ、床に横たわっている娘の傍らに立たれました。そして……少女よ、あなたに言う。起きなさい。……このひとことで、娘をよみがえらされました。そうです。イエスさまにあっては、死んだ人というのはいません。すべては眠っているだけの人です。イエスさまにある人を、終わりの日にイエスさまがよみがえらせてくださる……イエスさまは実に、ご自身が復活され、人々を復活させてくださるお方です。 この奥義を、イエスさまはご自身が十字架にかかられ復活される前に、おもだった3人の弟子にお示しになったのでした。この復活の真理は、イエスさまが十字架にかかられ、墓からよみがえられ、それによってイエスさまが神の御子であることが証しされることによって実現する、それがなっていないこの段階では、イエスさまはこのことを人にお話しになることをお許しになりませんでした。 ただ、それでも、死んだはずの娘はぴんぴんして外を出歩くようになるわけで、ほどなくしてうわさは広がるわけです。しかし、いったいどういううわさでしょうか? ものごとを表面的にしか見ない人には、所詮現象しか見えません。それは「群衆」にとどまっている人です。しかし私たちは、みことばをお読みすることで、イエスさまに伴われてこの娘の傍らに立たせていただき、みわざを目撃させていただいた、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと同じ立場にならせていただけるのです。信仰の窮極の形、それは、日々自分の十字架を負ってイエスさまについて行く、イエスさまの弟子になることです。 私たちもこの女性のように、そして会堂管理者のように、絶望的な状態から救っていただいた存在です。イエスさまは私たちに、「生きよ!」と言ってくださいます。私たちにとって真に生きることは、イエスさまにだけ信仰を置き、日々イエスさまの弟子としてお従いすることです。イエスさまの秘められた御業が克明に記録されたこのみことばを、私たちは信じますでしょうか? 私たちもこの女性のような、そして会堂管理者のような信仰をもってイエスさまに近づくとき、イエスさまの弟子に加えられる光栄に預かります。 ひとつだけ、イエスさまがお祈りを聞いてくださるのは、御父のご栄光を顕してくださるゆえです。ときに私たちが祈っても、その祈りが応えられなかったり、あるいは「すぐには」応えられなかったり、ということは、往々にして起こるものです。しかしそれでも、私たちは祈ることをやめてはなりません。私たちは祈るうちに、そして、日々みことばをお読みするうちに、イエスさまはどのようなお祈りに応えようとしていらっしゃるかを知ることができ、お祈りにおいて的を外すことがなくなります。お祈りを聞いていただけるようになるのです。 その信仰を私たちのうちに確かにしていただきたいと願っていますでしょうか? イエスさまは私たちの祈りを聞いてくださるお方です。イエスさまが祈りを聞いてくださることを、私たちは日々、あらゆる局面で体験し、弟子としての歩みを確かな者としていただきたいものです。祈りの生活の中で、日々、そして生涯、イエスさまの弟子としてお従いする恵みが与えられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。 聖歌516/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷