「祈りは聞かれる」
招詞 詩篇130篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇62篇/主の祈り/讃美歌66/聖書朗読 マタイ9:18~26/メッセージ;「祈りは聞かれる」 聖書には、数多くの、お祈りが聞かれたことの記録が登場します。本日は、イエスさまがお祈りを聞いてくださったことについての学びです。 イエスさまがこの地上に生きておられたとき、イエスさまが神の御子であると信じることのできた人は幸いでした。律法主義に毒されていたユダヤ人たちは、ことあるごとにイエスさまをなきものにしようとしました。イエスさまが神の子だとわかっていたなら、なきものにするなどという発想そのものが浮かぶわけもなく、ただひたすら礼拝するのみでしょう。しかし神の民であるはずのユダヤ人はイエスさまを迫害し、十字架にまでかけました。 私たちがその時代のユダヤに生きていたならば、どのような態度をイエスさまに対して取ったでしょうか? イエスさまを神の子と信じて、どこまでも従うことができたならば幸いです。そのような人は特別な恵みをいただいた人ということができるでしょう。 特別な恵みは、イエスさまに対し純粋な信仰を持つという形で現れます。ユダヤの宗教共同体に毒されていたならば、イエスさまのことはただの人としか映らず、間違ってもこのお方を創造主の御子と認めることはできなかったでしょう。それほど、神の民であるはずのユダヤの宗教の教えは、イエスさまがどのようなお方であるかを見えなくしていました。 今日の本文には2人の人が登場します。いずれもイエスさまへの信仰を恵みの中で持ち、その結果素晴らしいみわざを体験した人たちでした。彼らはどのような信仰を持ち、どのようなみわざを体験したのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 まず、18節からまいります。……やって来たのは会堂管理者でした。折しも、彼の娘が死んでしまいました。ほかの福音書の並行箇所を読んでみますと、彼女は12歳だったということです。わずか12歳、洋々たる前途が、死んでしまったことによっていっさい閉ざされました。どれほど悲しいことでしょうか。そして絶望的なことでしょうか。 しかし、この会堂管理者は、イエスさまというこの方ならばきっと生き返らせてくださる、という信仰をもって、イエスさまの御前に進み出ました。イエスさまが娘に手を置いてくだされば、必ずいやされる。 この会堂管理者は、自分の管理していた会堂にていろいろな集会が催されるのを見てきた人です。もちろん、ユダヤ教の教師による集会も体験している一方で、この町まで巡回してこられたイエスさまの持たれた集会を目撃していました。 この会堂管理者は、長年ユダヤ教の教師たちによる集会を見てきた立場として、イエスさまの集会がどれほど彼らのと異なり、神からの権威に満ちていたかをよく体験していました。もしかしたら、イエスさまがその会堂で何らかの奇蹟を行われたりしたのかもしれません。ともかくこの会堂管理人は、イエスさまのそのお姿を見て、この方なら必ず娘をいやしてくださる、という、確かな信仰を持ったのでした。イエスさまの教えは、口だけの教えではない、権威ある方の教えである、そのことを会堂管理者はわかっていたのでした。 ただ、もしかすると、この会堂管理者という立場ゆえに、それまでイエスさまに対する信仰を公に言い表せなかった可能性もあるかもしれません。普段はユダヤ教の教師を迎え入れている会堂の管理者であるわけで、もしイエスさまが神の御子であると告白したら大変なことになります。しかし、もうなりふり構っていられません。娘は死んでしまったのです。会堂管理者は、イエスさまにすべてを懸けて、御前にひれ伏しました。 19節のみことばです。イエスさまはただちにバプテスマのヨハネの弟子たちとの議論を中断し、会堂管理者の家へと向かっていかれました。そこに、イエスさまの弟子たちもついて行きました。あとで詳しくお話ししますが、イエスさまのみわざはひそかな形で行われたものでした。そこに弟子たちを伴われたということは何を意味するのでしょうか? そう、弟子たちには、神の御子としてのご自身のひそかなみわざをしっかりお示しになった、ということです。その秘められたみわざを目撃する特権にあずかった存在、それがイエスさまの弟子です。 しかし、こんにち私たちは、聖書をお読みするという形で、弟子たちと同じようにイエスさまの秘められたみわざを目撃することができています。その、聖書に書かれたみわざをそのまま信じ受け入れるならば、私たちもまた、イエスさまのみわざを目撃し、イエスさまが神の御子であることを信じ受け入れる弟子であるわけです。だから、この秘められたみわざの記録された聖書に相対するとき、私たちはイエスさまのみそばでみわざを目撃する、イエスさまの弟子となる特権に招かれているということになります。私たちは聖書を読むとき、弟子の態度で、よく目をひらいて、みことばに記されたイエスさまのみわざを見ることが必要です。 ともかく、早く行かなくてはなりません。しかし、ここに、ひとりの女性が登場します。十二年の間わずらっている女性です。「長血」とありますが、これは婦人病です。並行箇所であるマルコの福音書から推察しますと、からだから血が流れだしつづけ、ひどい痛みがつねにともなっていたようです。彼女は治りたくて必死でした。多くの医者を訪ね歩きましたが、彼ら医者たちは彼女から治療費を取るだけ取って、治してなどくれませんでした。彼女は生活のために持ち物をみな売り払い、まったく絶望的な状態にありました。 しかし、彼女の中には治りたいという思いが保たれていました。人生を悲観して自殺しかねないほど追い詰められていた彼女の中にも、治りたい、救われたいという、最後の思いが残されていたのでした。彼女はこのような中で、イエスさまが近くに来られたということを知り、いてもたってもいられなくなりました。しかし、イエスさまの周りにいたのは弟子たちだけではありません。おびただしい群衆があとをついてきていたのでした。彼女は群衆にまぎれました。そして、どうしたでしょうか? 20節、21節です。 この姿は、会堂管理者の姿と対照的です。会堂管理者は社会的に信用される地位にあり、イエスさまに堂々と近づいてイエスさまが神の御子なるお方であることを告白することで、ユダヤ教の宗教指導者を敵に回す危険なリスクを抱えていました。しかし彼は堂々とイエスさまの御前にひれ伏し、イエスさまの御腕にすがったのでした。 対照的にこの女性はどうでしょうか? 当時の宗教社会を支配していたのは、律法、またその解釈でした。漏出を病んでいるならば、その人にさわってはいけないことになっています。なぜならば「けがれる」と見なされるからです。 人は罪人です。他人が自分よりも明確にけがれているように見え、なおかつ律法がそう語っていると解釈するならば、人は他人を自分よりもけがれた存在と見なし、遠ざけます。あたかもその人に触れたならば、強力な伝染病のごとく、自分にもそのけがれが伝染するぞと言わんばかりにです。そんなわけで彼女は堂々とイエスさまのもとに出ていくなどということはできませんでした。群衆に紛れこんでイエスさまの服にさわったら、あとはひそかに去っていこう……ただ、それでも彼女を支えていたものは、イエスさまの服にでもさわれたら治るという信仰でした。社会の最底辺のような地位におかれた彼女がひそかにイエスさまに近づいたのは、社会的地位のある会堂管理者が堂々とイエスさまに近づいたのと実に対照的ですが、どちらにも共通していたのは、「イエスさまならできる」という、純粋な信仰でした。ともかく、この女性はイエスさまの着物のふさにさわりました。するとたちまち、いやされました。 しかし、イエスさまはそこで立ち止まられました。並行箇所の福音書を読んでみますと、だれがさわったのか、と、わざわざ問うておられます。しかし、弟子たちも言うとおり、イエスさまのところには群衆が押すな押すなと押し寄せており、だれがさわったかはわからないものです。しかしイエスさまは、いや、たしかにさわった者がいた、わたしの中から力が出ていったのを感じた、と語られました。それでこれ以上隠れていることができなくなって、この女性が名乗り出たのでした。 そう、イエスさまに触れる人はたくさんいます。しかし、イエスさまに「信仰をもって」触れるか、そうでないかの違いはとても大きいものです。大ぜいの群衆はイエスさまにさわっていました。しかしイエスさまの力は、その人たちに向かっては出ていきませんでした。彼らはたださわっていただけだったからです。しかし、この女性はちがいました。お着物にでもさわれたらきっと治る、その必死の信仰でイエスさまにさわった結果、イエスさまは御力をもって彼女をいやされたのでした。22節をお読みしましょう。……まさにそのように、イエスさまは彼女の信仰に応えてくださったのでした。 それにしても急いでいるときに、イエスさまはなぜわざわざこのようにこの女性のために時間をお取りになったのでしょうか? それはなんといっても、この女性とは格別な個人的コミュニケーションが必要だったからではないでしょうか? イエスさまは、はるか遠いお立場のスーパースターにも等しいお方です。お着物のふさにさわれた、それでよかった、それでも人間というものは満足してしまうものです。しかしイエスさまは、アイドルの握手会や寺社参拝のような、一方的な願望の投影の対象ではありません。信仰をもって近づく人と、ちゃんとコミュニケーションをとってくださるお方です。この女性がそのまま去っていくことをお許しにならず、しっかりした信仰に立たせてくださいました。イエスさまとはそういうお方です。私たちにみわざを体験させてくださるのみならず、その意味を深く悟らせてくださいます。そうしてイエスさまとのより深い関係に入れていただけるのです。 だが、このような中で、人を不信仰に引き戻そうとする力は働くものです。マルコの福音書によれば、イエスさまがこの女性と話している間に、会堂管理者の家から人がやってきて、お嬢さんは亡くなったのだから、これ以上イエスさまをわずらわせるべきではありません、と告げたのでした。とにかく、死んでしまったという厳然たる事実を受け入れさせようとしたのでした。その人は親切心からそのように告げたとも考えられますが、それは逆に考えれば、引導を渡すことばを告げたとも言えます。しかしイエスさまはそのことばをお聞きになっても、「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。引導を渡す人のことばなど、神の御子であるイエスさまには関係ありませんでした。 そしてイエスさまは、もう群衆がついて行くことをお許しになりませんでした。それどころか、十二弟子もより分けられました。特に弟子の中でリーダー的な役割を果たす、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人に絞って連れていかれました。この3人は、変貌山のできごとに同伴させていただくなど、イエスさまにとって奥義に等しい場面に伴われていますが、この会堂管理者の娘の家にも伴われました。 ともかく、女性はいやされて帰り、イエスさまの一行はいよいよ会堂管理者の家に着きました。そこには弔いの笛を吹く者たち、また葬儀に来た者たちが待ち構えていました。彼らは泣き悲しんで大騒ぎしていました。もう彼女を葬ってしまう手はずは整っていました。あとはその父親である会堂管理者が帰ってくれば、彼女を墓に運ぶだけでした。しかし、会堂管理者はイエスさまを連れてきました。 家に到着され、イエスさまは騒ぐ彼らを一喝しました。23節、24節です。……彼らはあざ笑いました。なぜでしょうか? 現実に彼女は死んでいることが、だれの目にも明らかだからです。しかし、イエスさまをお呼びしたのは会堂管理者であることを考えると、この群衆はその管理者の管理する会堂でイエスさまのメッセージを聴いたこともあったでしょう。そしてもしかしたら、先ほども申しましたとおり、イエスさまのみわざも会堂の中で目撃したかもしれません。何よりも、神の御子そのものであるイエスさまを、彼らはその目ではっきりと見ているのです。しかし、彼らは信じませんでした。このお方がいのちの主なるお方であることも、創造主なる神の御子であられるということもです。 その不信仰が、畏れ多くもイエスさまをあざ笑うという行動に出ます。イエスさまの語られるみことばを評価し、判断するのです。これはしょせん被造物である人間に許されていることではありません。だが人間はなんと傲慢なのでしょう。聖書を批評し、天地創造に始まりノアの洪水やバベルの塔、イエスさまのみわざ、果ては十字架や復活に至るまでも神話と片づけ、聖書の記述よりも人間の理性のほうに重きを置きます。窮極の不信仰です。 イエスさまは彼らのことを家の外に出してしまわれました。そして、娘の両親と3人の弟子だけを伴われ、床に横たわっている娘の傍らに立たれました。そして……少女よ、あなたに言う。起きなさい。……このひとことで、娘をよみがえらされました。そうです。イエスさまにあっては、死んだ人というのはいません。すべては眠っているだけの人です。イエスさまにある人を、終わりの日にイエスさまがよみがえらせてくださる……イエスさまは実に、ご自身が復活され、人々を復活させてくださるお方です。 この奥義を、イエスさまはご自身が十字架にかかられ復活される前に、おもだった3人の弟子にお示しになったのでした。この復活の真理は、イエスさまが十字架にかかられ、墓からよみがえられ、それによってイエスさまが神の御子であることが証しされることによって実現する、それがなっていないこの段階では、イエスさまはこのことを人にお話しになることをお許しになりませんでした。 ただ、それでも、死んだはずの娘はぴんぴんして外を出歩くようになるわけで、ほどなくしてうわさは広がるわけです。しかし、いったいどういううわさでしょうか? ものごとを表面的にしか見ない人には、所詮現象しか見えません。それは「群衆」にとどまっている人です。しかし私たちは、みことばをお読みすることで、イエスさまに伴われてこの娘の傍らに立たせていただき、みわざを目撃させていただいた、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと同じ立場にならせていただけるのです。信仰の窮極の形、それは、日々自分の十字架を負ってイエスさまについて行く、イエスさまの弟子になることです。 私たちもこの女性のように、そして会堂管理者のように、絶望的な状態から救っていただいた存在です。イエスさまは私たちに、「生きよ!」と言ってくださいます。私たちにとって真に生きることは、イエスさまにだけ信仰を置き、日々イエスさまの弟子としてお従いすることです。イエスさまの秘められた御業が克明に記録されたこのみことばを、私たちは信じますでしょうか? 私たちもこの女性のような、そして会堂管理者のような信仰をもってイエスさまに近づくとき、イエスさまの弟子に加えられる光栄に預かります。 ひとつだけ、イエスさまがお祈りを聞いてくださるのは、御父のご栄光を顕してくださるゆえです。ときに私たちが祈っても、その祈りが応えられなかったり、あるいは「すぐには」応えられなかったり、ということは、往々にして起こるものです。しかしそれでも、私たちは祈ることをやめてはなりません。私たちは祈るうちに、そして、日々みことばをお読みするうちに、イエスさまはどのようなお祈りに応えようとしていらっしゃるかを知ることができ、お祈りにおいて的を外すことがなくなります。お祈りを聞いていただけるようになるのです。 その信仰を私たちのうちに確かにしていただきたいと願っていますでしょうか? イエスさまは私たちの祈りを聞いてくださるお方です。イエスさまが祈りを聞いてくださることを、私たちは日々、あらゆる局面で体験し、弟子としての歩みを確かな者としていただきたいものです。祈りの生活の中で、日々、そして生涯、イエスさまの弟子としてお従いする恵みが与えられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。 聖歌516/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷