エリヤの祈り前篇 雨乞合戦
招詞 詩篇131篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇63篇/主の祈り/讃美 讃美歌62/ 聖書朗読 列王記第一18:16~40/メッセージ題目;エリヤの祈り前篇 雨乞合戦 新型コロナウイルス流行という事態の中、日本中、世界中の教会が、すべてを司っておられる神さまに祈ってまいりました。一刻も早くこの流行をとどめてください! 旧約聖書にも、人間の力ではどうにもならない事態に人々が巻き込まれたという記録が、いくつも登場します。本日学びます箇所、エリヤの時代のイスラエルも、実に3年6か月にわたる干ばつに見舞われていました。このときイスラエルはどのような状態にあったのでしょうか? そうです、創造主なる神さまを捨て、偶像の神バアルを国を挙げて礼拝していました。なんといっても、バアル礼拝の背後には、まるでバアルのパトロンのごとく君臨するイゼベル王妃がいました。しかしこのとき、神を捨てたイスラエルには、明らかに懲らしめの御手が、干ばつという形で臨んでいました。イスラエルは、神さまに立ち帰ることが求められていました。 しかし、イスラエルのためにとりなして祈れる人は、もはやエリヤだけになっていました。エリヤが神さまに従う者として、アハブ王からも相当に煙たがられていたことが、17節からも知ることができます。まるで雨が降らないのは、エリヤのせいだとでも言わんばかりの態度です。それはある面ではあたっています。たしかにエリヤは、そのとおりに祈りました。しかしそれは、国を挙げた偶像礼拝をイスラエルが悔い改めないゆえでした。しかし、ここに決着をつけるときが来ました。エリヤは、まことの神さまが雨を求める祈りに応えてくださるのは今だ、とばかりに、雨乞合戦を提案しました。 雨乞合戦――ささげたいけにえに、天からの炎をもって応える神がほんとうの神。その神こそ、この干ばつに覆いつくされたイスラエルに雨をもって応えてくださる神。アハブよ、あなたがそこまでして従っているバアルの神がまことの神ならば、その預言者をことごとく集めたらどうだ。従うべき神がはっきりするではないか。そこでアハブは、バアルの預言者450人と、そのつがいの女神アシェラの預言者400人を、エリヤの提案どおりにカルメル山に集めました。全イスラエルもカルメル山に集まりました。 さて、この雨乞合戦、エリヤにとっての祈りに至るプロセス、エリヤの祈り、その祈りの結果、この3つのポイントから見てみると、エリヤにならう私たちはいかなる理由で祈るのか、よく見えてまいります。この雨乞合戦から、ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。雨乞合戦は、偶像の神のむなしさを示しました。 エリヤはまず、ここに集まったイスラエルの民に尋ねました。21節です。……イスラエルの民は、なぜ答えることができなかったのでしょうか? それは、エリヤを前にしては、間違っても、バアルがまことの神だとは言えなかったからでした。しかし一方で、創造主なる神さまがまことの神さまだと言い切るには、彼らはあまりにもバアル崇拝に染まっていました。 このようにはっきりした答えを出せない状態は、日本の多くのクリスチャンが置かれた状況に通じるものがあります。人前でクリスチャンであることを言い表すことができない。法事などがあったら右へ倣えで合わせてしまう。私たちは果たして、このどっちつかずのイスラエルの民を見下すことなどできるでしょうか。 偶像というものは目に見える形で鎮座している分、人に強烈な存在感を示します。神の民はかねてより、偶像を礼拝してはならないことを神さまからずっと戒められてきました。それは、偶像というものに惹かれ、いとも簡単にまことの神さまを捨て去ってしまう人間の罪深さを、人が思い知る必要があるからでした。 そのためにもエリヤは、偶像に頼ることがどんなにむなしいかを示しました。エリヤは彼らに、長い時間を与えました。彼らはその長い時間、踊りまわりました。しかしもちろん、何の奇蹟も起こるはずもありません。バアルは単なる人間のイメージであり、存在するはずがないのです。 何をどうしても奇跡が起こらない中、エリヤはバアルの預言者たちにあざけりのことばを投げかけました。27節です。……リビングバイブルというバージョンの聖書では、ここをどう訳しているか。「もっと、もっと大声を出せ。おまえたちの神には聞こえんぞ。だれかと話し中かもしれんからな。トイレに入っているかもしれんし、旅行中かもしれん。それとも、ぐっすり寝こんでいて、起こしてやる必要があるかもしれんな。」トイレとはずいぶんな訳をつけたものだ、と、笑ってしまいますが、ともかく、このようにエリヤが言ったのはなぜだったか。それは、バアルの預言者たちをあおることそのものが目的だったのではありません。イスラエルの民に、偶像の神は存在しない、むなしいことをはっきりわからせるためでした。 私たちは気をつけなければなりません。私たちの生きている世界は、偶像の神でも奇跡を起こせる、と吹聴するような者たちで満ちています。八百万(やおよろず)の神、ということばを侮ってはいけません。それは、どこもかしこも神を名乗る者たちで満ちている、ということを意味します。 私たちは、まずそのような存在から自分自身を守るため、偶像の神がどれほどむなしいかを心から認める必要があります。そのためには、この世にうごめく八百万の神がどのようなものか、いちいち検証するのではありません。そんなことをしていてはきりがありません。私たちのうちに、私たち神の民にとっての変わらない基準である聖書のみことばを保つことから、すべては始まります。歴代誌第一、16章25節と26節をお読みください。……これです、これが私たちの基準なのです。私たちの主は、あらゆる神々と呼ばれるものたちにまさって偉大なるお方、このことを私たちは、いつでも確かな信仰告白として自分のうちに保っておく必要があります。このほかにも聖書には、このエリヤの箇所だけでなく、たとえばギデオンの箇所のように、偶像のむなしさが描写された箇所、また、出エジプトにおける金の子牛やダニエル書の王の像のように、神の民に対しチャレンジを与えるような箇所が登場し、そこから私たちは、この世で神と呼ばれている存在に対しいかに対処するか学ぶのです。繰り返します、この世の神々のことを知ろうとする前に、聖書をしっかり学んでいただきたいのです。 さて、ついにバアルの預言者たちは、刃物や槍でからだを傷つけはじめました。まるでここに備えた牛のいけにえでは足りなくて、自分たちをいけにえにするがごとしです。しかしそんなことをしても、もちろん、バアルへの祈りが何らかの奇跡を呼ぶはずもありませんでした。ここから私たちは、何を教えられますでしょうか? この世の神々に身をささげた者たちは、むなしく傷つくだけである、ということです。私たちの隣人がそのようなむなしさに陥っているならば、そこから早く抜け出せるように、私たちはとりなして祈っていく必要があります。私たちの主は、傷を与えるお方ではありません。あらゆる傷をいやしてくださるお方です。ともかく、偶像のむなしさを私たちはしっかり悟り、私たち自身も、そしてほかの偶像にとらわれている人たちも、その支配から自由になるように、祈ってまいりたいと思います。 第二のポイントです。雨乞合戦は、主への祈りの確かさを示しました。 ついに何も起こらなかったバアルの陣営を尻目に、自分の番が回ってきたエリヤは、何をしたのでしょうか? 20節、まず、壊れていた主の祭壇を築きなおしました。 そうです、それまでイスラエルは、まことの神さまを礼拝することをなおざりにするあまり、祭壇は壊れるに任せていました。壊れたままに放っておかれた祭壇は、今のイスラエルの壊れた霊的状況を象徴しているかのようでした。しかしエリヤは、まずこれを立て直すことから始めました。イスラエルよ、あなたがたがすることは、神さまとの壊れた関係、壊れた礼拝の態度を立て直すことではないか、あなたがたは壊れている、でも今からでもやり直せる、さあ、礼拝に招こう……それが神さまのみこころでした。 祭壇は、十二の石で築きました。十二の石は、イスラエルの十二部族を象徴しています。エリヤは神さまの御前に、一人で英雄のように立ったのではありません。エリヤの祈りにはイスラエル全体もともにあることを神さまの御前で明らかにし、同時にここに集う全イスラエルの前で明らかにしたのでした。まことにこの祈りは、イスラエル全体の祈りでした。イスラエルがまことの神さまへの祈りを回復したことを象徴していました。 さて、エリヤはいけにえをささげる際に、何をしたでしょうか? 33節から35節です。いけにえは水びたし、もはや、普通に火をつけてもぜったいに火などつかない、燃えるなどもってのほかという状態です。さあ、見よ、イスラエルよ、神さまが全能ならば、このいけにえも火で焼き尽くされよう。 そして、ささげものは完成しました。エリヤは祈りました。この祈りのことばを見てみましょう。36節と37節です。……アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。私たちイスラエルの民は、先祖が神さまと直接契約を結んでくださった神の民。あなたさまがイスラエルの神であることを明らかにしてください。私が今日行うこの礼拝が、神さまのみことばに従うことであることを明らかにしてください。祈りに応えてくださることによって、この民があなたさまに立ち帰ったことを自ら知るようにしてください。 そうです、神さまが祈りに応えてくださることは、エリヤがすごいスーパースターとしてイスラエルの民の間で輝くためではありません。すべてはイスラエルの信仰が復興するためです。 神さまはこのお祈りに、お応えになりました。38節です。……天から下った激しい炎は、いけにえも、石の祭壇も薪も、水も、もろともなめつくしました。奇跡を起こされたのは主だったのです。主は全能なるお方だったのです。そして、主はすさまじいまでのその主権を現してくださったのです。 私たちはもちろん、何らかのしるしと不思議がなければ信じないというレベルにとどまるものではありません。しかし、主が全能であることを私たちがほんとうに信じているならば、私たちはその全能の御手にすがり、そのご栄光を民全体に現してくださり、民が主を信じるようにと祈ってしかるべきではないでしょうか? 主は必ず、この祈りに応えてくださいます。 さて、それならばその一方で私たちには考えるべきことがあります。主が全能の御手を下してくださっていることを、私たちはどれほど認め、主の御名をほめたたえていることでしょうか? たとえば今、うちの娘は夜の聖書通読の時間ごとに、コロナウイルスの流行が収まりつつあることを主に感謝しています。私は、夜ごとささげられる祈りを聞いて、娘のこの態度からとても教えられています。コロナウイルス流行の終息には、だれもがほっとしています。しかし私たちは果たして、その背後に全能なる主の癒しのみわざがあることを、どれほど認め、また感謝しているでしょうか? コロナウイルスだけではありません。個人的な病気のいやし、経済的な回復、人間関係の葛藤の解消、これらすべては、人間の力でどうにかなるものではなく、すべて、全能なる神さまのご介在のうちに可能になることです。ならば私たちは、感謝していますでしょうか? しかし、私たちならば、これらのことに主の御手を認め、感謝する余地が残されています。それでは周りを見回してみましょう。いったい、あらゆるできごとの中に全能なる神さまの御手を認め、神さまに立ち帰る人がどれほどいるというのでしょうか? 私たちは自分たちのためだけでなく、周りの人たちのためにも祈る必要があります。主がその方々の前に御業を示されるとき、彼らが主を認め、主に立ち帰るように、祈ってまいりたいものです。 第三のポイントです。雨乞合戦は、主への信仰告白を引き出しました。 祭壇をもろともなめ尽くす火を見たとき、全イスラエルの恐れはどれほどのものだったことでしょうか。39節をご覧ください。 このイスラエルの信仰告白、賛美のことばはどうでしょうか。イスラエルがこぞって、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白したのです。エリヤは、この雨乞合戦に勝ったのです。 雨乞合戦は雨が降ることにその目標があったのではありません。人々から「主こそ神です」という信仰告白を引き出すこと、これが雨乞合戦の究極の目標でありました。エリヤはそのために、いかなる努力も惜しみませんでした。しかしさらに言えば、この信仰告白はエリヤの努力の結果のみによってもたらされたのではありません。やはりなんといっても、主ご自身がイスラエルの民を憐れんでくださったゆえでした。かくしてイスラエルの民はこぞって、主こそ神です、とひれ伏して告白したのでした。 さて、この「主こそ神です」という信仰告白を引き出すという、雨乞合戦におけるこの究極の目標は、私たちの人生においてもやはり、究極の目標となるべきものです。 ちょっと目を閉じて、私たちの周りの人たちの顔を、思いつくかぎり思い起こしてみてください。クリスチャンであるなしにかかわらずです。そんな彼らがこぞって、「主こそ神です」と叫ぶ場面を想像してみてください。胸が熱くなりませんか? はい、目を開いてください。 エリヤの人生は、人々をして「主こそ神です」と言わしめることに、その究極の目標がありました。その生き方は、私たちにとっても同じように目標となるべきものです。マタイの福音書5章16節の、イエスさまのお語りになったみことばをお読みしましょう。……これが私たちの人生の、究極の目標です。 しかし、この生き方をするために、クリスチャンならぬクルシミチャン、ガンバルチャンになる必要はありません。毎日みことばを開き、どうすることが主の栄光を人々の前で輝かせることなのか、みことばに照らして必要な行動を具体的に教えていただくのです。そして、その行動の目標を、ほんの少しでいいですから、それこそ、一日にたった一つでいいですから、聖霊なる神さまの導きと助けの中で実践するのです。頑張ろうとして息切れし、あとはいいや、とならないためにも、毎日少しずつ、こつこつと実践することです。 JTJ神学校の創設者である中野雄一郎先生が普段からおっしゃっていることば、コツ、コツ、勝つ、コツ、いいことばでしょう? コツコツ取り組んで何に勝つのですか? 世と悪魔にです。 エリヤも主のみことばを聴いて行うことにおいて、コツコツ、ということを実践していたことに疑いの余地はありません。その結果神さまは、エリヤを通してご自身とイスラエルの民の勝利をもたらしてくださったのでした。 私たちも同じです。人々が私たちのよい行いを見て、天におられる神さまをほめたたえる生き方をする、そのことによって世と悪魔に打ち勝つものとなるために、日々、みことばと祈りによって御前に進み出ることを願っていらっしゃいます。これまでなかなかできなかったならば、今日から始めましょう。主は喜んで、私たちを受け入れてくださり、用いられるにふさわしく、私たちを整えてくださいます。 最後に、エリヤとはどんな人物だったのかも見てみましょう。ヤコブの手紙5章17節と18節です。神さまは奇跡のようにしてエリヤの祈りを聴いてくださいましたが、聖書の評価によれば、エリヤは「私たちと同じ人間」でした。それなら、エリヤが神さまに従うことができて、私たちがお従いできないということは、決してないはずです。今日の雨乞合戦の学びから、偶像のむなしさ、祈りを聴いてくださる主の素晴らしさ、人を信仰告白に導く私たちの人生の究極の目的を学んだ私たちは、エリヤのように、主の前に立たせていただいている一人の信仰者として、主の御力をいただきながら、この世において用いていただくものとならせていただきたいと、切に祈り求める者となることを願います。 では、お祈りします。 讃美 聖歌604/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」