エリヤの祈り後篇疲れし者への神の応答
招詞 詩篇133篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇65篇/主の祈り/讃美 讃美歌516/聖書朗読 列王記第一19章1節~18節/メッセージ「エリヤの祈り後篇 疲れし者への神の応答」 この日曜礼拝のメッセージの時間、私たちはこれまで、代々(よよ)の聖徒たちの祈りの模範を、聖書から学んでまいりました。しかし今日は、模範というアプローチとはちがったかたちで「祈り」について見てみたいと思います。 コロナ疲れ……先週水曜日、教会で幾人かの信徒たちで集まったとき、改めて私たちが、「コロナ疲れ」というものにやられていたことを思わされました。私たちはどうでしょうか? 疲れてなんかいない、と思っているような方でも、実は疲れていた、ということはありえると思います。非常事態が長く続き、そこから緊張の糸が解けたときが、いちばん危ないのではないかとも思われます。 疲れから回復する技術を持っている人はすばらしいです。しかし時に私たちは、そのキャパシティを越えて、もうどうにもならなくなるときというものがあるものです。しかしそんなときにも、神さまは私たちを祈りに招いていらっしゃいます。先週に引きつづき、エリヤの祈りから学びましょう。 第一のポイントです。神さまは疲れ切った者をどこまでも慰め、力づけてくださいます。 先週みことばから学びましたとおり、エリヤは素晴らしい業績を上げました。しかしその目的は、エリヤがスーパースターになることではありません。アハブ王をはじめ、神の民イスラエルが、偶像を捨てて、主に立ち帰ることに大きな目的がありました。 しかし、結果はどうなったでしょうか? 主のみわざを見たならば、今後もう偶像を礼拝するのはやめて、まことの神さまにだけ礼拝するようになるべきだったのに、結果はあべこべでした。1節、2節のみことばをご覧ください。 エリヤにとって、あの雨乞合戦は相当な労力を要するものでした。午前中いっぱい、バアルの宗教儀式をじっと見つめることは、いかにその神々が実体のないものだと知っていても、霊的にとても疲れることだったはずです。みなさんも神社仏閣に行くようなとき、どこかしら霊的に疲れを覚えませんか? 仏式や神道式のお葬式に参列するようなときなど、なおさらでしょう。そして、まことの神さまが臨んでくださったときには力を得たとしても、神さまに敵対するバアルやアシェラの預言者850人を聖絶するということは、それが必要なこととはいえ、たいへんな労力を必要とします。しかし、そこまでしたというのに、アハブの王家は悔い改めず、イゼベルは直接対決を避け、自分のいのちにかけて刺客(しかく)を送ることをエリヤに言い送ったのでした。 聖書は、このときエリヤがどんなに絶望したことかもしっかり記録しています。やはりエリヤはスーパースターではなかったのでした。3節と4節です。エリヤは、今ここで殉教するということにより、主なる神さまの確かさを証しするという選択ができなかったのでした。むしろ、自分のいのちを救うために逃げたのでした。 しかしエリヤは、現実を見誤っていました。もしイゼベルがほんとうにエリヤを葬り去るつもりだったら、そのまま刺客を送ってエリヤを暗殺していたはずです。しかしもし、そのようなことをしたらどうなったでしょうか? エリヤは殉教したことになり、主なる神さまの正しさが証しされることになります。イゼベルとしては、何としてもそのようなことは避けなければなりませんでした。イゼベルには悪魔的な知恵があったのでしょう。自分の献身する神々の名にかけてエリヤを脅迫すれば、エリヤは逃げるにちがいないという計算があったはずです。果たしてエリヤは、まんまとイゼベルの術中にはまりました。イゼベルはこうして、エリヤを敗北者に仕立て上げることに成功したのでした。 エリヤは、ひとりでユダの南にある荒野に行きました。日の照りつける荒野では、暑さをしのぐことができるのは、低い灌木であるエニシダの木陰くらいしかありません。エリヤはそこに座り、何をしたか。自分の死を願ったのです。 エリヤの中には何らかのシナリオがあったことでしょう。バアルがさばかれ、神さまが3年6か月ぶりに雨を降らせてくださった。イスラエルはこれを見て、地位の高い者から低い者まで、まことの神さまに立ち帰るにちがいない。しかし現実はそうならなかったばかりか、イゼベルはますます強情になり、バアルの神々の名によってエリヤを葬り去りにかかりました。火をもって応えられ、大雨を降らせてくださった……あれだけのことを神さまはしてくださったというのに、バアルはまだ、まことの神さまに負けてはいなかった。エリヤはこの現実にうちのめされました。それなら、イゼベルの刺客によっていのちを落とすくらいなら、神さまの御手に陥ってこの世を去らせていただきたい……エリヤはそこまで思い詰めてしまったのでした。 エリヤはスーパースターではありませんが、神さまのみこころにかなった人でした。だからこそ神さまは、雨乞合戦においてエリヤの祈りを聞いてくださったのでした。それなら、エリヤのこの死を願う祈りも、みこころにかなった人物だからという理由で、お聞きになるのでしょうか? そうはなさらなかったのでした。 だれであれ、死にたくなることはあるでしょう。しかしわれわれクリスチャンの場合、いのちというものが神さまの御手のうちにあることを知っています。だからなおさら苦しくなるのですが、その苦しさに耐えられなくなると、本気で死にたいと思い、どうかいのちを取ってくださいと祈りたくもなります。しかしそれなら、神さまはその祈りをみこころにかなうものと受け止め、その祈りのとおりにいのちをお取りになるのでしょうか。とんでもないことです。神さまがその祈りにお応えにならないのは、生きるのがみこころということが、大前提だからです。 神さまは追い詰められている私たちの味方です。5節から7節をお読みください。……聖書は私たち人間のことを、どのように表現していますでしょうか? 土の器、とも語っています。聖霊の宮、とも語っています。私たちは有限な存在であり、壊れやすい存在です。だから、どこかで壊れやすい私たち自身を保たせる必要があります。 私たちはしばしば、信仰生活というものを、何やらとても宗教的な修養(しゅよう)のようなものと勘違いしている節はないでしょうか? コロサイ人への手紙2章の末尾を読めばわかりますが、そんな禁欲的な生き方はしょせん肉を満足させているものにすぎないと言い切っています。それでは、好き放題のことをする快楽主義の生き方と、見かけはちがっても同じことをしていることになります。 神さまの恵みにすがる生き方は、禁欲主義でも快楽主義でもありません。あえて言えば「恵み主義」です。私たちの肉的な努力で生きることに限界を覚えるとき、神さまの御手へと主導権を渡すのです。そのとき私たちは、そこからさらに禁欲的になる必要はありません。疲れたら寝てもいいですし、好きなものを食べてもいいですし、罪にならないかぎり、好きな映画のビデオを観たっていいのです。神さまが願っていることは、私たちが元気を出すことです。 神さまはエリヤの疲れ切った肉体に、いちばん必要な物は休息と食べ物だということを教えてくださいました。さあ、起きて食べなさい。旅はまだ遠い。 しかし、この旅は、ひとりで行かなければならない孤独な旅ではありません。神さまが一緒にいてくださるうれしい旅です。つねに慰めと励ましをいただく旅です。この世を生きる人たちは、みな旅人に例えることができるでしょう。私たちクリスチャンは、イエスさまが重荷を負ってくださる旅人です。つねに必要を満たしていただく旅人です。疲れたら後ろめたさを覚えずに休んでいい旅人です。私たちは天国という、はるか遠くの目標に向かって歩むために、今体験している苦しみがすべてだと思ってはなりません。疲れたら疲れている自分を認めて休み、栄養を補給することは、むしろみこころにかなっていると思ってください。それでもいま休めないでいる兄弟姉妹に、憩いのときが与えられるように、私は祈りますし、みなさんも祈っていただきたいのです。 第二のポイントです。神さまは次なる目標を見せてくださり、否定的な現実から自由にしてくださいます。 力を得たエリヤは、四十日四十夜歩き、神の山ホレブにつきました。ここはモーセが神さまに出会った場所でもあります。特別な場所です。 エリヤは御使いの備えた食べ物と飲み物を得たら、それですぐに働きに復帰したわけではありません。エリヤにはまだ、リトリートの時間を必要としていました。神さまとの交わりを持つために、実に40日にもわたってホレブ山に歩いて行ったのでした。 ここでエリヤは、神の御声を聴く体験をします。9節です。……ここで何をしているのか。神さまはもちろん、全知全能なるお方ですから、お尋ねにならなくてもエリヤが何をしているかご存じでした。しかしそれでもあえてお尋ねになったのは、エリヤの現住所をエリヤ自身が神さまの御前で知る必要があったからでした。 あなたは、何をしているのか。私たちが日々、神さまの御前に出る時間は、私たちがいまどこにいて、何をしようとしているのか、神さまの御前で確かめ、明らかにする時間です。しかしここでエリヤは、何と答えていますでしょうか。10節です。……これが、エリヤの訴えたかったことでした。これだけいっしょうけんめい神さまにお仕えしたのに、相変わらず偶像が幅を利かせ、神さまにお仕えする者たちは皆殺しにされている。ただ一人残った私さえも、今や殺されそうになっている。神さま、私が置かれているところは、こんなところなのです! 私はこの場所から、神さまに訴えさせていただきます! 聖書注解書など、この箇所に関するいろいろな解説を読んでみました。多くは、エリヤは間違った自己憐憫に捕らえられていて、自分を見失っている、というものでした。たしかに、そうかもしれません。しかし、そういう状況に陥っていたことは、当のエリヤがいちばんよくわかっていたのではないでしょうか。 岡目八目、ということばがあります。当事者の立場からいったん距離を置いてみると、見えていなかったものが見えてくる、という意味です。しかし私たちは、このエリヤの苦悩を見て、なお傍観者のような態度を取って、だからエリヤは間違っている、などと論評するのは、正しいことでしょうか? エリヤの悩みは、あれだけ神さまとの交わりを持った者にしていだかされた激しいものです。いわんや凡人の私たちは、どれほど悩みに右往左往させられることでしょうか? しかし神さまは、エリヤのこの赤裸々な祈りに対し、臨在、という形で回答を与えられました。11節、12節をお読みしましょう。 岩を砕く激しい大風、地震、それに続く火……いかにもこれらの現象は、大いなる神さまを象徴しているように思えます。だがそのいずれの中にも、神さまはいらっしゃいませんでした。先週のみことばを思い返しましょう。雨乞合戦。水浸しの祭壇を土もろとも火でなめ尽くすほどのみわざを行われたお方、そして、3年6か月にわたる干ばつをあっという間に大雨で潤されたお方、それが全能なる主であり、イスラエルもアハブ王もこの現象に、神さまを認めました。だがそれでも、イスラエルは根本から変わったわけではありません。神さまの臨在を目に見える現象に求めるならば人は燃え尽きてしまいます。 先週、いのちのことば社の営業の方が、教会にたくさんの本のサンプルを持ってお見えになったとき、私はウィリアム・ウッド先生が書かれた「新使徒運動」に関する本を見つけ、さっそく購入しました。 新使徒運動とは、現代においても聖書に書かれているとおりの使徒が存在すると主張する立場のムーブメントで、現代に立てられた「使徒」は、キリストの何より預言し、命じればどんな悪しきものも治められる、というものです。実際、このコロナウイルスの流行においては、アメリカの各地でコロナウイルスに命じて退散させる大祈祷会が開催されたそうです。だがそれとは逆に、アメリカでは流行の拡大はとどまらず、この立場に立つ牧師さえもコロナウイルスに感染して亡くなったとのことでした。ウッド先生はこのムーブメントを、はっきり危険なものと評価していらっしゃいます。それは、単に命じる祈りをすることにとどまらず、この祈りをすることにより主が必ず聞いてくださる、すなわちどんな悪い自然現象も治めてくださると会衆をあおることにより、結果としてそうならなかったときに会衆がどれほどむなしさに襲われるか、最悪の場合にはイエスさまへの信仰をなくしてしまうか、そう考えると、これはやはり支持すべきムーブメントではないと、私も考えるようになりました。 しるしという「現象」は、神さまのご臨在の本質ではありません。では、神さまはエリヤに、どのようにご自身を現されたのでしょうか? それは、火のあとの、かすかな細い声です。 神さまは大いなるお方ですが、私たちにみこころを啓示されるその御声は、もしかすると聞き逃してしまうそうになるほど細くて小さい御声です。これを聞きとるには、全身を耳にする必要があります。「ヒア」の聞く、と、「リッスン」の聴くは、漢字で書くとちがいます。リッスン、のほうは、十四の耳と心、と書きます。それだけ耳を澄まして、心を注いで「聴く」ことが、御声を聴くうえで必要になります。 エリヤはこのとき、もはや神さまの御前に出る以外にすることはありませんでした。それがリトリートというものです。しかし私たちの場合はどうかといいますと、意識しないと神さまの御前には出られないのではないでしょうか。県境を越えて移動することは解禁になったとはいえ、まだまだどこかに行くのには慎重になりますし、だいいちそんな時間を確保するには余裕がなければなりません。日々のディボーションの時間が、形式的に聖書を読んでお祈りして、それで終わりでは、あまりにももったいないことです。そこで神さまが語っていらっしゃるさやかな御声に耳を傾け、全身を耳にして御声を聴くことです。 でも、間違ってはいけません。神さまは人に意地悪をして、わざと小さな声で語っておられるのではありません。あなたが聴く姿勢ができているなら、わたしはいくらでも語って聞かせよう、さあ、心を整えてわたしのもとに来てごらん……私たちは、このみこころを受け取ることです。 神さまはエリヤに語りかけられます。エリヤよ、ここで何をしているのか。神さまはもう一度同じことをおっしゃいました。それに対してエリヤは、またも同じことを答えました。エリヤの訴えたかったことはこのことでした。もはや進退窮まっていました。 しかし神さまは、この試練に脱出の道を備えてくださいました。15節から17節です。 これは、神さまが歴史の主人であることをお示しになった、ということです。イスラエルに敵対する国の王も、アハブに代わる王朝を立てる王も、エリヤの後継者として霊的権威を行使する者も、みな主がエリヤの霊的権威を持ってお立てになる、ということです。 このように、神さまはなおもエリヤのことを、神の国イスラエルのキャスティング・ボードを握る者として用いようとしていらっしゃる、そのみこころをお示しになりました。エリヤは、死んでいる場合ではなかったのです。まだまだ用いられる必要がありました。 18節にも注目しましょう。……エリヤは、バアルに従わずに神さまに従っているのは、自分ひとりだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。この7000人の存在、そしてとりなしの祈りに支えられて、エリヤの存在とその働きがあることを思い起こさせてくださいました。 コロナウイルス流行は、私たちを孤独にしたように感じさせました。しかし、私たちは決して孤独ではありません。みなさんは、この水戸第一聖書バプテスト教会のために、全国の保守バプテストの教会が、そして韓国のカルバリ教会、さらには韓国の日本宣教に特化した宣教団体が祈ってくださっていることをご存じでしょうか? 私たちは孤独ではないのです。 私たちは倒れたままでいることはありません。必ず立ち上がらせていただけます。いま目の前に何も見えないようでも、神さまは私たちに、次に進む道を備えてくださっています。その道を行くことは喜びです。 いま、私たちは否定的な現実しか見えなくなっていないでしょうか? どうか、細いけれどもやさしい、主の御声を聴いていただきたいのです。そこから、主が示してくださる次の目標へと踏み出す力を、受けていただきたいのです。 まだ、そこには踏み出せないでしょうか? それはもしかしたら、働きすぎて疲れているせいかもしれません。主のみもとに休みましょう。でも、休んだままで私たちは終わるのではありません。ここからさらに、私たちは大きく用いられます。神さまを信じて、踏み出すための力をいただいてまいりましょう。 讃美 聖歌409/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷