だれの祈りが受け入れられるのか
招詞 詩篇134篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇66篇/主の祈り/讃美 讃美歌514/聖書本文;ルカの福音書18章9節~14節/メッセージ題目;だれの祈りが受け入れられるのか コロナウイルス流行に伴って「私たちはいかに祈るか」ということを、これまでこの日曜礼拝の時間に学んでまいりました。この事態を主が鎮めてくださるように、私たちはどれほど祈らされたことでしょうか。しかし主は、日本にかぎってのことではありますが、ある程度の回復をくださいました。そこで、今日でひとまずこの「祈り」をテーマにした学びを締めくくりたいと思います。 私がはじめてお祈りしたときのことを想い出します。それは日曜学校の中高生科のことで、先生も交えて数人のメンバーでお祈りしました。いきなり私の番が回ってきて、しどろもどろになりながらお祈りしたものでした。しかし、そのグループには歳の近い長老のお嬢さんがいらっしゃり、彼女はすらすらと、きれいなことばづかいさえ用いてお祈りしたものでした。そう、私にとって初めてのお祈りは、ちょっとコンプレックスを覚えるような体験でもありました。 あれから30年以上たち、それなりに私のお祈りのことばは豊かなものになったと思います。しかし考えなければならないことは、神さまはお祈りの表現の豊かさ、きれいさにしたがって、お祈りを聞いてくださるわけではない、ということです。今日お取次ぎするメッセージを備えながら、自分はどうだろうか、自分のお仕えしているこの群れはどうだろうか、と、たえず問われる思いでいっぱいでした。それでは、みことばの解き明かしにまいりたいと思います。 イエスさまは、お祈りということに関して、2種類の人を例に挙げられました。それは、自分は正しい人間だと確信していて、ほかの人々を見下している人たちを戒めるためです。具体的には、当時の宗教界を支配していた人たち、律法学者のパリサイ人たちを念頭に置いてのおことばでした。彼らパリサイ人の宗教的支配により、実に多くの人が不自由を強いられ、悩みと苦しみの中にありました。イエスさまは、そのように抑圧された人々に対し、彼らを解放するみことばを語られた一方で、パリサイ人を戒め、その宗教的な偽善を暴き出されました。 少し考えてみましょう。私たちはパリサイ人でしょうか? そうではない、自分は恵みによって救われた、と思いならば、自らに問うてみる必要があります。自分は神さまの正しさを基準に、人のことをさばいていないだろうか? 自分は神さまに近い分、人は自分よりも劣っているとか、けがれているとか、間違っているなどと思っていないだろうか? もしそうならば、私たちは立派に、鼻持ちならないパリサイ人です。福音書の記者たちがあれだけ、パリサイ人に関する記事に紙面を割いているのももっともなことになります。 心して聖書をお読みする私たちになりたいものです。 宮、これはエルサレム神殿です。エルサレムの中でも高いところにあります。この高きに向かって上っていくとき、神さまに出会うんだという高揚感はいやがうえにも高まろうというものです。みなさんも、服装を整えて車に乗り、はるか茨城町長岡を目指していらっしゃるときにも、同じような思いになられるのではないかと思います。しかし問題は、宮に上ることそのものではなく、その宮においてどんな祈りをささげるかです。 宮に上った2人の人、パリサイ人と取税人……イエスさまはこの2人を、とても対照的な姿で描かれます。まず、パリサイ人の祈りの特徴を、3つのポイントに分けて見てみたいと思います。 第一にパリサイ人は、敬虔ななりをして自分を義としました。 パリサイ人はどこで祈っていますでしょうか? 宮です。まさに、自分のような宗教指導者にとっては本拠地です。 ここで祈るということは、いかにも自分は宗教的にすぐれた人であるとばかりに、人に見せびらかすに充分なことです。イエスさまは、偽善者は人々に見えるように、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだと喝破していらっしゃいます。そのような者は、すでに自分の受け取るべき報いを受けている、ともおっしゃいました。祈っただけの報いをその後も、いわんや天国においても受け取る余地はない、ということです。 このパリサイ人もまさに、そのような偽善的な態度で、宮にいたわけです。愛するみなさん、私たちの信仰生活を、日々のお勤めにも似た宗教行為ののりでしてしまうならば、それはとても危険なことです。することそのものが目的となり、することによって自分が何やら霊的な人になったように思えたり、霊的な人と思ってもらえたり……イエスさまなら、それは偽善者の態度であるとおっしゃることでしょう。 かく申します私などは、なまじ牧師のような働きをしているゆえに、どれほどそのように宗教的に満足することの誘惑にさらされていることか、どうか理解していただきたいのです。イエスさまは、先生と呼ばれてはいけません、とおっしゃいました。しかし私は今、みなさまに先生と呼んでいただいています。そう呼んでいただけることが主の御目には素晴らしいことである一方で、私は決して慢心してはなるまい、と、心を新たにさせられます。 しかし、あえて申しますが、私たちもみな、多かれ少なかれ、パリサイ人になりえる要素というものを持っているものです。特に、イエスさまの十字架にの恵みにより、信仰によって救われた、その証しをする聖書は誤りなき神のことばである、と信じ告白する私たちのことを、一般には「福音派」と呼びますが、われわれ福音派は一歩間違えると、とても鼻持ちならない集団と化します。自分たちこそ神さまが選んでくださった、自分たちこそ神さまと交わりを持たせていただいている、自分たちこそ聖書もイエスさまもよく知っている、あとは正しくない、足りない……私たちはときに、こんなことを考えたりしていないでしょうか? そのような私たちであることに気づかされたならば、すぐにでも悔い改める必要があります。そのような者の祈りは、一見するととても立派なことばに飾られています。しかしそこには、神さまとの交わりが成り立つ余地はありません。立派なことばを使ってお祈りすればいいというものではありません。もちろん、お祈りのことばが整えられるのは大事にはちがいありませんが、それ以上に大事なのは、立派な自分ではなく、神さまに焦点を合わせたお祈りをすることです。 私たちの普段ささげているお祈りを点検しましょう。お祈りしているとき、神さまが見えていますか? いえ、神さまだけを見つめていますか? 神さまだけを見つめるならば、宗教的に飾った自分のことなど見えなくなります。 パリサイ人の祈りの、第二の特徴にまいります。パリサイ人は、他者との比較で自分を正しいとしました。 11節を見てみますと、パリサイ人は、4つのことを感謝しています。自分が奪い取る者ではないこと、不正な者ではないこと、姦淫する者ではないこと、そして、その祈りの場にともにいる取税人のようではないことをです。 たしかに、彼の祈ったとおりなのかもしれません。法律的、道徳的規準から言えば、奪い取ったり、不正だったり、姦淫したりはしていないのかもしれません。それに、取税人のように、ユダヤ人から税を取り立ててローマに貢ぎ、必要以上に取り立てたぶんで私腹を肥やすようなことはしていないのかもしれません。 しかし、それを感謝した気分になるということは、神さまに栄光をお帰しする態度ではなく、自分の手柄のように誇るということです。そこには神さまの恵みを認め、感謝する余地はありません。 さらに厳密に言えば、パリサイ人はこのどの比較によっても義と認められることはできません。パリサイ人は窃盗犯や強盗のように人からものを奪うことはしていないかもしれません。しかし彼らは、合法的に庶民を苦しめるように宗教社会をつくり上げ、彼らを搾取してはばかりません。まさにパリサイ人は奪い取る者です。そして、そのようなことをきよい神、公平な神、愛なる神の名において行うのは、これ以上ないほど不正なことです。また、肉欲を行使するか否かという点でも、姦淫の罪は犯していないでしょう。しかし、律法というものは、十(とお)のうちひとつでも破るならば、すべてを破ったと見なされます。姦淫の罪を犯していないことなど、何も誇ることではありません。 さらにこのパリサイ人は、そばでともに神さまに祈っている取税人を、同じ神の民として扱ってはいません。人としてすら扱っていないようでもあります。取税人は確かに取税人という悪い肩書を持っていますが、同じユダヤ人、神の民であることに変わりはありません。そのような彼に対するあわれみの心など欠けらも持ち合わせず、自分さえよければという思いでいっぱいです。兄弟としての意識もなく、さばく思いでいっぱいです。 神さまは、あなたが人と比べて罪深くないから受け入れてくださる、というお方ではありません。神さまの前にはみな罪人です。義人はいません。ひとりもいません。それなのに、人よりも自分のほうが罪深くないとか、すぐれているとか言ってみたところで、何になるのでしょうか。 私たちが神さまを恐れているならば、くれぐれも、人と比較して自分のほうがすぐれているなどと、誇ったりしないことです。そのような態度は、救いようのない罪人だったのが恵みによって救いっていただいた、そのような私たちに、いちばんふさわしくないものです。私たちの祈りを点検しましょう。くれぐれも人と比較しないでいただきたいのです。 パリサイ人の祈りの、第三の特徴を見てみましょう。パリサイ人は、宗教的行為で自分を義としました。 12節を見てみますと、2つの宗教的行為をこなせていることを彼は誇っています。まず彼は、週に2回断食していると言っています。……しかし実際に聖書が呼びかけている断食は、週に2回というものではありません。年に数回の「贖罪日」に断食を要求するのみです。しかし、時代が下り、宗教指導者たちは週に2度の断食をすることが慣わしとなっていました。 みなさん、断食というものをなさったことがおありでしょうか? あれは、とても苦しいものです。特に、食べないと血糖値が下がってふらふらになるような方の場合、生きた心地がしなくなります。しかし断食とは本来、主のみこころをより深く自分のものにさせていただくためにすべきものであって、断食そのものによって、自分が何か偉い人になったかのように錯覚するためのものではありません。 一日、断食をしたとします。しかし、そのことで、自分はすごいことができたなどと自分を誇る態度になったならば、はっきり申します、その断食は大失敗です。パリサイ人は、そのようなひとつも実を結んでいない失敗の宗教的行為を、しかも週に2回、年に換算すると100回以上もしているわけです。これほどむなしいことがあるでしょうか。 そして彼は、全収入の十分の一をささげていることを誇ります。この十分の一というささげものについては、モーセ律法五書のあちこちにその根拠があり、ささげるべきものと教えています。しかし、パリサイ人に関しては、その全収入は本来、ユダヤの宗教社会の中で人々から受け取っているものであり、「労働の対価」というのとは性質が異なります。だからパリサイ人の十分の一は、庶民が労働で得た収益の中から苦労して十分の一をささげることとは、本質的に異なります。パリサイ人にとっては、いわば宗教的生活の一環です。それはパリサイ人という「職業」についているかぎりささげるべきものであって、誇るなど筋違いもいいところです。 断食と十分の一献金は、私が韓国教会と関わるようになって、はじめて身近なものとなり、これを生活化して信仰生活を送っている韓国教会から大いに学ぶべきだと、最初私は思っていました。 しかし自分が韓国教会の中に実際に身を置いてみると、その、断食と十分の一を実践することはどんなに難しいことかと、身をもって思い知りました。しかし人によっては、あまり悩まないでできてしまう人もいるものでした。でもそういう人は、「えらい」のではありません。それだけ、主の恵みを受け取っているにすぎないだけです。 私は、そのような「断食と十分の一」の流れに長年身を置いたので、それが教会形成において重要なことはわかっています。しかしそれだからこそ、私はみなさんに、断食と十分の一を強制するような牧師にはなりたくないと切に願います。これを強制でするならば、万一、一日断食ができた、今月十分の一をささげることができた、と、実践に移した場合、そんな自分のことを誇る余地が出てきてしまうものです。そうではありません、断食にしても十分の一にしても、日々いただく神さまの恵みがあまりにも素晴らしいことを受け取れて、はじめて可能になることです。はっきり申し上げます、もしそのような恵みがどうもわからない、とお思いの方は、断食や十分の一に象徴される教会生活に、そんなに一生懸命にならなくても大丈夫、と思います。もちろん、恵みを体験していただくことがいちばん素晴らしいことなので、私はそのようなみなさまのためにお祈りしますが、くれぐれも、人の目を気にして無理するようなことはなさらないでいただきたいのです。 では、パリサイ人を反面教師としてここまで見てきましたが、それなら取税人のほうはどうなのか、ということも見てみたいと思います。 取税人は、ただ自分が罪人だということを認めて嘆き悲しみ、神さまにあわれみを求めました。 13節をご覧ください。……この「あわれんでください」ということばは、岩波書店発行の福音書の訳では「お慈悲を」となっています。これなら、日本人にもわかりやすいのではないかと思います。とにかく、この取税人は、宮から遠く離れ、それでも宮にできるだけ近づいて、うなだれて胸をたたいて、ひたすらに祈ります。宮の中には彼のような立場の者は受け入れてもらえません。それでも彼は、少しでも主の臨在を求めて近づきます。うなだれるのは、自分の罪深さに恥じて、天におられる神さまに合わせる顔がない、という態度でしょう。そして、罪深い思い、そしてそれを悔いる思いでいっぱいの心をたたくように、胸を打ちたたき、叫びます。「神さま、罪人の私をあわれんでください。」 はっきり自分のことを罪人と認め、告白しています。罪人だから神さまに受け入れていただくなどとんでもない、彼はよくわかっていました。でも、彼は一縷の望みをいだいて、神さまにあわれみを求めました。あわれんでください! 彼の祈りは必至です。まるでこの祈りは、神さまのあわれみで覆っていただかなけば、死んでしまいそう、そう、必死に叫んでいるかのようです。 さあ、どちらの祈りを神さまは聞いてくださり、義と認めてくださったのでしょうか。14節です。 ……さて、この14節の「あのパリサイ人ではなく、この人です」ということばに注目しましょう。これはギリシャ語の原語でも、「パリサイ人」、「この人」と書いてあります。「この人」なのであって、「取税人」ではないのです。 これは、どういうことでしょうか? 神さまが義と認めてくださったならば、神さまはもはやその人を「取税人」に象徴される罪人としては扱わない、ということを暗示しています。神さまに罪赦されて、取税人としての在り方を外していただいた「この人」です。 一方で、「パリサイ人」は、やっぱり「パリサイ人」です。みこころから外れたこと、自分を正しいとする高慢なことを祈るような者は、依然として、人をさばき、人を不自由にする罪を決して悔い改めない「パリサイ人」として、御父もイエスさまも扱われる、ということです。 これが神さまのみこころであることを知った私たちは、ただひたすらに、神さまにあわれみを求める祈りをささげるべきです。しかし、よく考えてみましょう。私たちはなんと、小さな自分を誇る祈りをささげることでしょうか。人と比較して自分を正しくする祈りをささげることでしょうか。そんな私たちは何という罪人でしょうか。 しかし、私たちはそれでも、神さまに祈りを受け入れていただく余地があります。それは、そのような罪人、人をさばき自分を義とする罪人であることを素直に認め、その罪から自由にならないことを嘆き悲しみ、神さまの御前にあわれみを求めるのです。神さまはそんな私たちの祈りを、必ず聞いてくださいます。罪を赦し、義としてくださいます。 へりくだりましょう。神の国は、私たちげへりくだるときに、神さまが私たちに与えてくださるものです。 讃美 聖歌426/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」