導入讃美「たたえよ栄光の神」「イエスが愛したように」/祈祷/使徒信条/交読 詩篇67篇/主の祈り/讃美 讃美歌532/聖書箇所;ヨハネの福音書10章31節~42節/メッセージ題目;イエスさまを信じるということ
今年のテーマは「信仰によって歩もう」、この標語を掲げて、もう今年も後半に突入しました。なんといっても今年の前半は、3分の2以上もコロナウイルスのことで話題が持ちきりで、メッセージもかなりそのことを意識したものとなりました。
しかし考えてみれば、いえ、考えてみなくても、私たちにとって祈るべきことは、コロナに関することにとどまりません。平安のため、健康のため、安定のため……しかし私たちは、少しも疑わずに、信じて願うようにとみことばで命じられています。その、つねに信じて願う信仰は、その信仰の対象である、イエスさまがどのようなお方であるかをみことばから教えられ、それゆえに私たちはイエスさまとどのような関係に入れられているかを知ることに始まります。
先週、私たちは自分を義とするゆえに祈りが聞き入れられないパリサイ人を反面教師として学びました。今日の箇所も、ユダヤ人とありますが、イエスさまを責め立てるユダヤの宗教指導者の姿が描かれています。
この、イエスさまを迫害する宗教指導者たちとの対話をとおして、イエスさまはご自身がどのようなお方か、明らかにしていらっしゃいます。このイエスさまに対して信仰を働かせるとはどういうことか、学んでまいりましょう。本日も、3つのポイントからお話ししたいと思います。
第一のポイントです。イエスさまは、神のことばであられるゆえに、信じるべきお方です。
今日の箇所は、イエスさまがエルサレム神殿のソロモンの回廊という場所で、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれて詰問される場面から続いています。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」
しかし、ユダヤ人たちがイエスさまにそう迫ったのはなぜでしょうか? イエスさまがもし、ご自身がキリストであると彼らにおっしゃったならば、彼らは信じるのでしょうか? 自分の罪が救われ、神の子どもとなるために、イエスさまを信じるのでしょうか? とんでもないことです。そうではないことは、あとにつづく会話からもはっきりしています。イエスさまは、すでにご自身がキリストだと話したのに、彼らユダヤ人たちは信じないとおっしゃいました。そうです、すでに語っておられるのです。
それならば、なぜ彼らは受け入れないのでしょうか? これもイエスさまがおっしゃっているとおりです。それは彼らが、イエスさまの羊ではないからだ、ということです。
イエスさまの羊である人は、イエスさまについていく人、イエスさまが永遠のいのちを与えてくださる人、御父がイエスさまに与えてくださっている人だと、イエスさまはおっしゃいました。ということは、このイエスさまを詰問する宗教指導者たちは、そのどれにも当てはまらない者たち、ということになります。
そしてイエスさまは、このはっきりした事実に加え、わたしと父とは一つです、とまでおっしゃいました。ユダヤ人たちはこのおことばを聞いて、イエスさまに対する殺意が燃え上がり、投げつけるために石を取りました。
そのような彼らに対し、イエスさまはおっしゃいます。32節です。……これは、どういうことでしょうか? イエスさまが行われた数々の奇蹟は、みな、父なる神さまとイエスさまが一つであることを示している、それを見て、それでもわたしのことを石打ちにする理由はなかろう、というわけです。このことについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、イエスさまのみわざを見てきたならば、彼らはいやでも、そこに父なる神さまのご存在とみこころとみわざを認めざるを得ないはずです。それなのに彼らは、イエスさまのことを迫害しているのです。
彼らの言い分を聞いてみましょう。33節です。……イエスさまが行われたわざが「良いわざ」であることは、さしもの彼らも認めざるを得ませんでした。だが、彼らにとっては、イエスさまがいかに良いわざ、愛にあふれた奇蹟を行おうとも、関係ありませんでした。彼らは、イエスさまがご自身のことを、神であると言っていることが冒瀆であると問題にしているのです。
しかし、イエスさまがキリストであるということは、ほかでもなく、イエスさまが人であるのと同時に、神さまであるということを意味します。それを認めることができないとは、やはりイエスさまの羊の群れに属していない者たちということになります。あなたがキリストならばはっきりおっしゃってください、と詰め寄りながら、あなたは自分を神としているのだから冒瀆だ、などとは、彼らが何を考えていたかよくわかります。語るに落ちる、とは、このことです。ここまで傲慢ならば、何をどうしてもキリストを主と告白する、すなわちイエスさまを主と告白することなどできません。
だが、自分のことを神と名乗ることは、イエスさまに関しては、冒瀆に当たりません。そのことをイエスさまは、旧約聖書・詩篇82篇のみことばを引用して証明されます。
まずイエスさまは、このみことばを「律法」と呼んでおられます。つまり、彼ら宗教指導者にとってはいのちのように大切なものです。このみことばが何と語るかを示せば、いかに彼らでも受け入れざるを得ないわけです。
そのみことばは、何と語っているでしょうか。……わたしは言った。「おまえたちは神々だ」。この「わたし」とは神さまです。では「神々」とはだれでしょうか。神さまのみことばを託されながらも、そのとおりに守り行わず、弱い者を切り捨て、悪しき者の味方をする者のことです。
もちろん、この「詩篇」が第一にはイスラエル人、のちのユダヤ人の間で唱和されたことを考えると、この警告を受けた「おまえたち神々」とは、ユダヤ人です。まさに、このようにしてイエスさまを責め立てている者たち、みことばを託されているのに悪を行う宗教指導者たちのことと言えます。
さて、この訳は「神々」となっています。これは、日本のだいたいの聖書は「神々」と訳していますが、新改訳の以前の訳や、文語訳の聖書は、ずばり「神」と訳しています。日本語のイメージでは、「神」と「神々」では全く異なり、「おまえたちは神だ」となったら、どういうことだろうかと思いませんか?
しかし、詩篇の原語であるヘブル語によれば、「神」も「神々」も、どちらも同じ「エローヒーム」であり、「神」とも「神々」とも訳してもいいのです。よく、日本語の「神」は聖書の語る唯一なる創造主とはちがう存在だから「神」と呼ぶべきではなかろう、という議論があり、韓国語には唯一の創造主を表す「ハナニム」ということばが特別にあることをうらやましがるクリスチャンがいますが、考えてみれば私たちは、このお方を「神さま」と呼んだからと、正確な聖書信仰を持っていない、ということにはなりません。詩篇82篇、そしてそれを引用されたイエスさまのおことばを根拠にすると、「神」と「神々」の区別さえ、本来はなかった、あくまで文脈で理解し分けるべきものだということがわかります。しかもイエスさまはそれに加えて「聖書は廃棄されない」とさえおっしゃっています。あなたがたは廃棄されることのない聖書を根拠に生きている、その聖書は何と語っているか、正確に耳を傾けよ、それはユダヤ人にも、私たちにも語られている、主のみこころです。
その聖書は、驚くべきことに、神のことばを託された者たちを父なる神さまが、神々になぞらえていらっしゃると語ります。では、イエスさまはどうでしょうか? イエスさまは神のみことばを託されているどころではありません。このヨハネの福音書が冒頭から語っているとおり、神のみことばそのものです。イエスさまがここで、御父が聖なる者とし、世に遣わされた存在、それがご自身であると語っていらっしゃるとおりです。
したがってイエスさまは、父なる神さまから神と呼ばれるのに、これほどふさわしいお方はいらっしゃらない、ということになります。それを、みことばを託されていようとも、しょせん人間にすぎない者に、あなたは神ではないから神を名乗るなど冒瀆だ、などと言われる筋合いはありません。
私たちはイエスさまをどのようなお方と信じ受け入れていますでしょうか? もし私たちが、イエスさまのことを、肉体をとってこの世界にいらっしゃった神のみことばなるお方であると信じ受け入れているならば、私たちのみことばに向かう姿勢は変わるはずです。この聖書のことばは、イエスさまのご本質と、神のみことばであるという点で同じです。そう考えますと、私たちには恐れが生じないでしょうか? 私たちはその恐れをもってみことばをお読みしていますでしょうか?
日々、みことばをお読みする時間は、イエスさまに出会う時間です。単なるお勤めとか、人生の素養を増し加える時間とはちがいます。みことばをお読みするとき、それが私たちにとってイエスさまに出会い、イエスさまと深く交わる時間となりますように、その時間を毎日大切にする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。
では、第二のポイントにまいります。イエスさまは、神のみわざを行うゆえに、信じるべきお方です。
37節、38節をお読みしましょう。……イエスさまが、ご自身が神の御子であることを証ししたものは、イエスさまが行われた奇蹟、わざでした。マタイの福音書11章5節で、バプテスマのヨハネの弟子たちにイエスさまが語られたとおりのことを、イエスさまはなさっていました。そのわざはすべて、イエスさまがメシアとしてこの地に来られたことを証しするものでした。
これを主のわざとして受け入れ、それゆえにイエスさまを救い主として信じる人は幸いです。その人はイエスさまを信じる信仰によって、永遠のいのちをいただくことができるからです。実に、この奇蹟を受け入れるかどうかは、永遠のいのちをいただけるかどうかの分かれ目となります。
イエスさまは、すばらしいみことばをたくさん語られました。しかしそれは、単なる道徳的な教師のことばではありません。それは、ご自身が神である、父なる神とひとつであると語られるみことばでもありました。人によっては、こんなことはとても聞いていられない、という告白です。実際、イエスさまの十字架刑を決定づけたものは、まさにイエスさまが、大祭司の前でご自身が神の御子キリストであると告白されたことでした。その告白を聞いた大祭司らユダヤの指導者たちは、即座に死刑を言い渡し、そしてその死刑とは十字架だったのでした。ご自身が神であるということゆえにイエスさまは十字架に死なれたわけです。
それがユダヤの社会の不寛容さでした。このような社会において、その宗教的な構造ゆえに苦しまされていた庶民たちを救ったのは、この力あるみことばを証拠づける、数多くの奇蹟でした。この奇蹟は、人々をそれで惹きつけておいて、自分の配下に下った者を意のままに操り、搾取するような、悪魔に魅入られたような者たちのものとは根本的に異なっていました。まさに、この数々のわざは、神の国の到来を告げるに充分なものでした。
イエスさまを信じるということは、イエスさまがこの数々のわざを行われたということを信じる、ということです。時代が下り、あらゆることを科学的に説明しようという風潮になり、科学的に説明できないものは事実ではないと切り捨てる社会において、次第に人々は、イエスさまのみわざは神話にすぎないとばかりに、遠ざけるようになりました。しかしそのような人は、仮にクリスチャンを名乗っているとしたら、イエスさまの何を信じているというのでしょうか。
聖書のあらゆる記述は、科学の発達した現代にさえも説明できないことばかりです。ある人は聖書の記述と科学を調和させようとあらゆる努力をしたり、聖書の奇蹟を科学で説明しようとしたりします。それは科学という観点から見ればとても面白い取り組みには違いないのですが、その作業が、神さまの起こされたわざを奇蹟と受け入れることによって神さまを恐れ、神さまを信じ受け入れることにとって障害となってしまうならば問題です。
10年以上前、埼玉の実家に住んでいたときのことです。ある日私は父と一緒に、NHKの番組を見ていました。それはアメリカの科学番組で、出エジプト前夜に起こった十のわざわいをすべて科学的に説明するという内容でした。ご覧になったという方はいらっしゃいますか? 実によくできた番組でした。その説明はすべて、無理も矛盾もないように思えました。私はテレビを眺めていて、へえ、十の災害をこうまでみんな論理的に説明できてしまうなんて面白い! などと無邪気に感心していましたが、ノンクリスチャンである父が番組を見終わって、ぼそっと言いました。「こうまで説明しちゃ、奇蹟の意味がないよなあ。」
いったい私たちは、科学の力で弁護しなければ聖書が真実である、事実であると受け入れないのでしょうか? こんなことを事実として書いている聖書のことを人に伝えたら、私たちの信仰はどう思われるだろう? そんなことを考えて、福音を人に伝えることをためらってはいないでしょうか? いいえ、神さまが選んだ人ならば、聖書が現代科学の説明に合わないなどとは考えません。私たちがそうしたように、ちゃんとみことばを真理として受け入れます。
要は、及び腰にならないことです。「臆病者は神の国を継げない」という、私たちにとって恐ろしい警告のことばが聖書にありますが、私たち、ああ、自分は臆病だ、神さまはこんな私をとがめられる、とお思いでしょうか? 私たちにとって大事なのは、何よりも、聖書を真理として受け入れる点で臆病にならないことです。この聖書を事実、真実、真理として受け入れることにためらう恐れがあってはなりません。私たちはみことばを受け入れることにおいて、大胆になる必要があります。このみことばの語るとおり、奇蹟は起こった、今もなお主は祈りを聞いてくださり、奇蹟をもって応えてくださるお方である、そう信じて、みわざをもって祈りに応えてくださる主がともにいてくださることを信じつつ、日々の歩みをなしていくことです。
私たちはまだ、聖書に書かれているイエスさまのみわざ、父なる神さまのみわざが、信じきれていない、ということはないでしょうか? 私たちのうちに信仰が増し加わり、どんなわざも信じ受け入れ、そのわざをなしてくださったイエスさまに対する信仰をますます強い者にしていただくように祈りましょう。私たちの不信仰が信仰に変えられる、これは実に素晴らしいみわざです。日々の主とともに歩む歩みの中で、このみわざを味わい、主に感謝する歩みをなす私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。
最後に、第三のポイントです。イエスさまは、預言の成就そのもののゆえに、信じるべきお方です。
40節から42節をお読みしましょう。……ヨハネは、ヘロデの罪を告発したことが原因で逮捕され、ヘロデの妻へロディアによって無残な死を遂げました。このヨハネは、イエスさまの到来を告げる働きをしていましたが、ある人はこのヨハネがメシアではないかと考えていました。
しかし、メシアはイエスさまであって、ヨハネではありません。そもそも、生前のヨハネは、イエスさまを差し置いて自分がメシアとして人々に扱われることなど、考えることさえしませんでした。
イエスさまも、ヨハネの業績がすべて、ご自身の到来をもって成就することを証しされる必要がありました。ヨハネを信じていた人々が、そのまま、イエスさまを信じないままでいるようなことがあってはならないからです。もしそうなったら、彼らはキリストには出会えなかったということになります。そういうわけで、ヨハネのバプテスマしか知らなかった人たちは、イエスさまによってフォローされる必要がありました。イエスさまは彼らに奇蹟を行われ、イエスさまこそメシアであることを示してくださいました。
また、イエスさまがヨハネの後をご自身でフォローされたということは、もうひとつの意味があります。マタイの福音書11章13節で、イエスさまがヨハネについて評価していらっしゃるみことばから、そのヒントを得ることができます。お読みします。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」
つまり、イエスさまご自身は、ヨハネが最終的に示した旧約の預言を、究極的に成就されたお方である、ということです。そのとき信じた人たちは、イエスさまはヨハネが語ったとおりのお方だった、と言っていますが、それはつまり、イエスさまは旧約の預言の成就だった、ということになるわけです。
イエスさまがこのような、みことばの成就、わけても旧約のみことばの成就そのもののお方でいらっしゃるということに私たちが心を留めるなら、私たちの聖書の読み方は豊かにならないでしょうか? 私たちはホテルなどでよく、新約聖書の分冊を見ます。ないよりはある方がいいのでしょうが、新約聖書だけというのは、これは正確には「聖書」とはいいません。英語でもそれは「ニュー・テスタメント」であって、「ザ・バイブル」にはならないわけです。
千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていますが、推理小説を解決篇だけ読んでも面白くないでしょう、そこに至るまでの伏線をじっくり読むから、推理小説は面白いのです、旧約聖書もそれと同じで、解決篇に当たるイエスさまの登場までの伏線をじっくり読むということです……。
しかし、多くのクリスチャンにとって、旧約聖書はとっつきにくいことは否めません。難しい、というより、退屈、という印象を受けたりはしないでしょうか? そんな旧約聖書を生き生きとお読みする、ひとつのヒントをご提供します。それは、そこに書かれている記述から、イエスさまを発見することです。これは、イエスさまがどのようなお方であるかを新約聖書から学んでいるほど、発見しやすくなります。そして発見するたび、イエスさまというお方の豊かさに触れることになり、私たちの信仰はいやがうえにも深まります。みなさんも面倒くさがらないで、ぜひ旧約をお読みいただければと願います。イエスさまに秘められた豊かさをどんどん発見し、恵みを大いに体験していただきたいのです。
以上見てきたことから結論を下しますと、イエスさまを信じるということは、旧約そして新約に証しされたイエスさまのご存在、おことば……そしてみわざに至るまで、すべて事実、真実、真理と信じ受け入れることを意味します。イエスさまを信じることと聖書のみことばを受け入れることは、密接な関係があるどころではありません。同じことです。私たちが座右に聖書を置いてみことばとともに歩むとき、イエスさまがつねにともに歩んでくださり、私たちを恵んでくださる祝福をつねに体験する私たちとなりますように、そのために、みことばに絶えず親しむ私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。
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