それでも「神は愛なり」と言うために
聖書本文;ヨハネの福音書11章1~16節 メッセージ題目;それでも「神は愛なり」と言うために 今日のメッセージに臨む私の心は、とてもつらいものがありました。日本は大雨に見舞われ、多くの方々が亡くなり、家々は破壊され、道路は寸断され、人々は避難所での生活を余儀なくされています。しかも東京にはこれまでにないほどのコロナウイルス感染者が現れ、いよいよ第二波がやってきたのか、と、戦々恐々とさせられています。 このような中にあって、人々はどんな気持ちでしょうか。私たちはそれでも、神は愛なり、と告白することができるでしょうか。いいえ、このときだからこそ、私たちは自分の中の告白をしっかり保つべきだと考えます。 コロナウイスルの流行がたけなわになってきたころ、保守バプテスト同盟で総会議長として奉仕する大友幸証先生が同盟役員会の席でおっしゃっていました。このようなとき人々は、クリスチャンが何を言うかに期待しているのではないだろうか……。ほんとうにそうだと思います。 いったいこのような中で、ほんとうの希望を語ることができる立場にある者が、語らないでどうしようというのかと思います。私たちこそが、愛なる神さまを語り伝えることにより、この世界にまことの慰めを提供することができるはずです。だからこそ私たちは、このようなときだからこそ、私たちのうちにある希望を確かに保つ必要があるはずです。 しかし、現実はとてもきびしいものです。テレビや新聞で連日報道される悲しいニュースを見るたび、私たちはいかにして自分の信仰を働かせるべきか、とても問われていることと思います。その信仰は、それでも神さまは私たちを愛してくださっている、神は愛なり、と、告白するところから始まります。 私たちの信仰は、移ろいやすい感情に根ざしたものであってはなりません。もちろん、悲しみに暮れる人たちに寄り添う務めも私たちにはあるので、感情というものを無視することはふさわしくありませんが、私たちはまず、感情に流される以前に、変わることのない神さまに対する信仰、そしてその信仰を告白するところから、すべてを始めてまいりたいものです。 そこで今日の本文から学びたいと思います。本日の箇所、ヨハネの福音書11章は、先週の箇所の続きです。イエスさまがエルサレムでの迫害をのがれ、ヨルダンの向こう側に行かれ、そこでみことばを語られ、多くの人がまことの信仰に立ち帰った、というのが、先週の箇所の締めくくりでした。 その流れから本日の箇所にまいりますと、イエスさまの一行は、ヨハネがバプテスマを授けていた場所から、ラザロの家まで行くように要請されていたことになります。実はこのどちらの地も、共通点がありました。それはどちらの地の名前も「ベタニア」という名前だった、ということです。 ベタニア、それは、悩みの家、貧しさの家、という意味です。まさにこの地名は、悩みの中で貧しくされた者たち、ヨハネからバプテスマを受けた者たちもそうですし、マリアとマルタとラザロの三きょうだいもそうですが、貧しさの悩みの中で神にすがる信仰が育てられた人たちの信仰を象徴しているようです。 貧しさが貧しさに終わらない秘訣、悩みが悩みに終わらない秘訣、それは、すべての富の源でいらっしゃるイエスさまに立ち帰ることです。その富は金銭的、物質的なものとはかぎりません。しかしイエスさまに出会うならば、この地において神さまを見上げる、主と交わるという、何にも代えがたい富、豊かさを得られるのは確かなことです。 私たちはこのことを、ほんとうの豊かさと認めていますでしょうか? ならば、貧しさを感じられてならないとき、悩みの中に置かれていると思えてならないとき、イエスさまを呼び求めることです。イエスさまはきっと、そんな私たちに出会ってくださいます。 だがときに、イエスさまを呼び求めても、イエスさまが来てくださっていることが感じられなくてならない、そういうことはあるものです。今日の本文のマルタとマリアの姉妹がまさにそうでした。彼女たちは、イエスさまにすぐにでも来てほしいと、イエスさまのもとに使いを送りました。だが、イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか? 4節です。 イエスさまのこのおことばは、何とおっしゃっていることになるのでしょうか? 「ラザロはよくなる! 心配しなくてもいい!」でしょうか? 「わたしが行って、ラザロの病気を治してあげよう!」でしょうか? いいえ、「ラザロは死ぬ!」と、はっきりおっしゃっているのです。 しかし、5節をご覧ください。イエスさまがこの三きょうだいに対し、どのように思っていらっしゃったかが書かれています。そう、愛しておられたのです。この関係をある人は、「イエスさまの友」ということで説明します。 しかしこの友だち関係は、イエスさまの側から友だちにしてくださったというべきでしょう。前にもお話ししましたが、私が大学院の面接試験を受けるときのこと、大学に着いたはいいが、どこに行ったらよいか迷っていたら、私のことを知っていた教授が私を見つけ、総長のお部屋まで連れて行ってくれて、「この友だちの面接をしていただきたいのですが……」と切り出してくださり、事なきを得て面接をしていただき、晴れて合格しました。 あのときの「友だち」ということばに、私は教授のとりなしを見る思いがいたしました。しかしこの「友だち」ということばは、目上の立場におられる教授が言うべきことばであり、間違っても私から、教授を「友だち」と呼ぶべきではありません。 イエスさまにしても、この上ないほど目上の存在といえましょう。しかしこのお方はへりくだって、この庶民の三きょうだいを友としてくださったのでした。彼らを愛しておられたのです。私たちもまた、イエスさまの弟子であるとともに、イエスさまの友としていただいていることをしっかり心に留めてまいりたいものです。 さて、イエスさまがほんとうに彼らを愛していたならば、それなら、すぐ駆けつけてしかるべきだと思うでしょう。だが6節をご覧ください。この使いのことばをお聞きになってもなお、イエスさまはそのおられた場所になお2日とどまられたのでした。 人は、神さまに期待して祈ります。自分の願っていることが願いどおりに叶えられるように、切なる期待を込めて祈ります。しかし、神さまのお答えは、人の願っているとおりではなかったりするものです。 イエスさまがなぜ2日もさらにその地にとどまられたか、その地にはまだまだ語るべき人がいたからだとか、行うべきみわざがあったからだとか、説明はいくらでもつけられるでしょう。しかしこの理由については、聖書は沈黙しています。わかっていることは、イエスさまはこのことをお聞きになってもなお、そこにさらに2日とどまられたという、その事実だけです。 しかし、イエスさまがこのように振る舞われた理由を考えるならば、ひとつだけ確実なことが言えます。それは、イエスさまが「神の時にしたがって」行動された、ということです。 聖書の原語であるギリシャ語では、「時」というものを表すことばは「カイロス」と「クロノス」の2つがあります。早い話が、カイロスが神の時を指すのに対して、クロノスは人の時を指します。私たち人間にとって時間というものは大事です。この時間をしっかり把握するために、人は時計を用い、この時計の動きに合わせてみな行動します。現にこの礼拝も、午前10時30分という時間に始まり、11時30分くらいを終わりにするのも、クロノス、人の時の基準にのっとっているわけです。 しかしカイロスはちがいます。これはときに、人には測れないような形で現れます。マリアとマルタは、一刻も早くイエスさまに駆けつけていただきたかったでしょう。しかしイエスさまが御父から受け取っておられたスケジュールは、人の思いとはちがうものでした。神の時にしたがって行動された結果、2日さらにその地にとどまられたというわけです。 しかしその次の7節をご覧ください。イエスさまは、三きょうだいの家に向かうためにユダヤに行こうと弟子たちにおっしゃいました。神の時が満ちたのです。しかし弟子たちは、恐れました。今度こそイエスさまは石打ちに遭われるのではないだろうか。どうか行かないでいただきたい。 実際、イエスさまが直接ユダヤに行かなくても、ラザロを治す方法などいくらでもあったのではないかと考えられるでしょう。実際、直接患者のところに行かないで、みことばひとつでその病んだ人を癒されたということを、イエスさまが何度もなさったということが、福音書には記録されています。今度もそのようになさったならば、石打ちに遭うかもしれないという危険を避けることはできようというものです。 しかし、イエスさまはここでも、神の時にしたがって歩まれることを宣言なさいました。9節、10節をお読みください。……のちにイエスさまが捕らえられ、裁判へと引いていかれるとき、イエスさまは彼らに向かって「今はあなたがたの時だ、暗やみの時だ」とおっしゃいました。神の子を十字架につけようとするサタンの勢力がいよいよ盛んになるとき、それが暗やみのとき、霊的な夜であり、そうなるまでは、いかに敵対する者たちがイエスさまの周りにうごめいていようとも、手出しなどできないのです。 これこそ「神の時」です。弟子たちはこのときも、「人の時」で物事を推し量ろうとして怖れていましたが、神の時は人の時に優先するので、怖れることはなかったのです。 さて、イエスさまは何をしに行かれるのでしょうか? 眠ったラザロを起こしに行くためだとおっしゃいました。しかし、眠った、ということばを、弟子たちは誤解していました。単なる睡眠だと思ったのです。睡眠ならば、助かるでしょう。このことばの裏には、睡眠ならば助かりましょう、何も出向いていって危険にさらすことはありますまい、という弟子たちの思いが隠れているといえます。 しかし、眠る、ということばは、聖書にもしばしば用例がありますが、死んでたましいはもう地上にない、という意味でもあります。だからこそ14節をご覧ください、イエスさまははっきりと、ラザロは死にました、とおっしゃいました。 さらに15節をご覧ください、イエスさまがその場に居合わせてラザロのことをすぐに病気から立ち直らせることをしなかったのは、あなたがた弟子たちのためによかったのだった、わたしはそれを喜んでいる、とさえおっしゃっています。それは、あなたがたが信じるためである……。 イエスさまの弟子にとっていちばん必要なもの、それは、イエスさまが神の時にしたがってみわざを行われるという信仰です。その信仰があなたがたの間で確かになるために、わたしは死の眠りについたラザロを起こす、すなわちよみがえらせる……これは、十字架について死なれるイエスさまが、墓からよみがえり、いのちの主の栄光を豊かに現されるその前触れであり、とても大事なみわざでした。 弟子たちはのちの日に、復活の主を宣べ伝えるべく派遣されます。そのためには、何を差し置いても、イエスさまのこのみわざを目撃する必要があったのでした。 するとこのことばを聞いたトマスが、何を思ったか、こんなことを口にしました。16節です。……これだけはっきり、今はみわざを行う昼の時であるとイエスさまがおっしゃったというのに、トマスはこれを殉教の時と勘違いしたのです。トマスはなおも、神の時を人の時ととらえることをやめてはいませんでした。 ときに私たちは、主のみことばを聴き、主のみこころが示されてもなお、それを充分に受け取れず、神さまはきっと私が思っているような最悪の状況を用意しておられるにちがいない、ならばいっそ、それを覚悟して臨もう、などと思い込んでしまうことがあるものです。しかしトマスは、ほかの弟子たちとともに何を見たでしょうか? イエスさまの死ではありません。イエスさまの栄光です。実にイエスさまのみわざは、私たちの先入観、思い込みを越えてあまりある形で現されます。私たちはつねに、その主のみわざに余裕をもって期待してまいりたいものです。 ただ、トマスのこのことばはのちの日に、神の時至って実現しました。十二弟子は、脱落したイスカリオテのユダと、ヨハネを除いては、みな殉教の死を遂げました。トマスもその中に含まれていました。主とともに死ぬのはこのときではありませんでしたが、やがて充分に整えられた者となったとき、トマスもまた、主のために死ぬという栄光に浴することができたのでした。これもまた人の時ではない、神の時が成るということです。 そこで私たちもまた、神の時というものを考えてみたいと思います。コロナウイルスの流行はいつ終息するのか、日本列島が大雨の苦しみから解放されるのはいつだろうか、そればかり思うならば、私たちは絶望的な気分にならないでしょうか? このようなとき、私たちはどうすれば、その絶望的な気分から解放されるのでしょうか? 天を見上げることです。イエスさまはいかに歩まれたのでしょうか? 神の栄光が顕されるため、立ち止まるときには立ち止まられ、進むべき時に進まれた、イエスさまの歩みに心を留めてまいりましょう。 神さまが働かれない領域、神さまが目を留めていらっしゃらない領域は、この世界のどこにも存在しません。今この日本にも、神さまは目を留めておられ、最善をなしてくださると信じ、どうかこのときこそ最善をなしてくださいと祈ることです。そして、神の時にゆだねることです。そうすれば私たちは、絶望から救われます。 イエスさまのもとに使いを送ったマルタとマリアの気持ちを考えてみましょう。そばにイエスさまがいらっしゃらなかったことを、どれほど恨めしく思ったことでしょうか。どれほど、イエスさまのみわざを待ち望んだことでしょうか。しかし、イエスさまに与えられた父なる神さまのみこころは、マルタとマリアの思ったとおりではありませんでした。しかしイエスさまがみこころを持って働かれると、そこには最高のみわざが現され、主のご栄光が豊かに現されたのでした。 私たちも今、同じ思いで主を待ち望むべきではないでしょうか? 恨みたくもなるでしょう。泣きたくもなるでしょう。私はこれまで、自分がどんなにひどい目にあっても、神さまを恨むようなことはしないできました。それが信仰者としての在り方だと固く信じてきたからです。しかし今度ばかりは、涙をもって天を見上げる兄弟姉妹の痛みがひしひしと伝わってくるような気がしてならなくなっています。 助けたい。しかし私たちもはやり病に痛んでいる。しかもこのはやり病のせいで、被災地にボランティアにも行けない。かつての大震災は痛みの中で人を束ねることにもつながりました。まさにその痛みの中で、人は「絆」ということばの尊さに気づかされました。 しかし今度はちがいます。コロナウイルスは「絆」そのものを持たせないまま、人をかぎりなく病ませます。大雨に痛む人を行って助けることもできない、こんなことはかつてありませんでした。 こんなとき私たちは、それでもラザロ、マルタ、マリアの三きょうだいを愛された同じ愛をもって、イエスさまが被災地の人たちを愛し、コロナにおびえる私たちを愛してくださっている、それゆえに、神の時をもってみわざを必ずなしてくださることを信じ、その神の時を待ち望む信仰を育てていただくべく、祈ってまいりたいものです。 私たちは、人間のちっぽけな器で神さまを推し量るような愚かなことをしてはなりません。神さまは、イエスさまは、私たちがいま考えているよりも、知っているよりも、はるかに大きなお方であり、はるかに知恵に富むお方でいらっしゃいます。このお方がそのときにしたがってみわざを行われるなら、それこそ「最善」と呼ぶべきことです。 今こそ言いましょう。「神は愛なり」。神さまのみこころは、人の思いをはるかに超えます。