よみがえり、いのちなるイエスさま
聖書箇所;ヨハネの福音書11:17~37 メッセージ題目;よみがえり、いのちなるイエスさま 毎週金曜日の英語教室では、現在「自己紹介」というものをしています。マイネームイズだれだれ、ですとか、アイアム・エイト・イヤーズ・オールド、ですとか。自己紹介というものは、多くの場合初対面のときにするものですが、英語教室での自己紹介は初対面にかぎりません。この自己紹介の練習を何度も繰り返すことで、お互いがお互いのことをよく知ることができるようになります。 ヨハネの福音書を読んでみますと、イエスさまはいくつかの箇所で、わたしはなになにです、という自己紹介をなさっています。わたしはよき羊飼いです、とか、わたしは羊の門です、といった自己紹介です。このおことばを聞くと、イエスさまがどのようなお方であるかがあらためてわかります。 今日の箇所では、あの有名なみことば、「わたしはよみがえりです。いのちです」という、イエスさまの自己紹介が出てまいります。このみことばは、愛するラザロの死という悲しいできごとの中で語られたみことばです。 私たちもいろいろな悲しみの中に置かれています。その悲しみから救い出していただくために、いまこそ私たちはイエスさまの慰めのみことばに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか? 本日の箇所は先週学びましたみことばの箇所の続きです。先週私たちは、神の時に従って行動されたゆえにマルタとマリアのもとにあえてすぐにはいかなかったイエスさまの行動から学びました。しかし時満ちて、イエスさまはユダヤへと向かわれました。そして本日の箇所、イエスさまがユダヤのベタニアに到着されてからのできごとです。 ベタニアは、エルサレムから距離にして15スタディオンほど離れていたとあります。これは3キロメートルにもならない距離であり、それはこの教会からだと、水戸駅どころか、ケーズデンキの水戸本店にまでも届きません。ほんとうにエルサレムの隣町です。まさに、イエスさまを石打ちにしようとしたユダヤ人たちが待ち構えているような場所です。そこを目がけて、イエスさまは入っていかれました。 ユダヤ人たちに殺される心配はなかったのでしょうか? 大丈夫です。先週も学びましたとおり、それをイエスさまは昼間の十二時間に例えられました。つまずくことのない時間、神さまのための働きが許されている時間ならば、彼ら悪の勢力は手出しができない、というわけです。 イエスさまが到着されたとき、ラザロは墓の中に入れられて4日が経っていました。ユダヤでは、死んで4日も経っているならもはやたましいは肉体を離れている、と信じられていました。絶望しかない状態です。 19節をご覧ください。マルタとマリアは、死んで4日してもなお、深い悲しみの中にいました。彼女たちを慰めるために、大勢のユダヤ人が来ていました。ここで、友達と書かず、「ユダヤ人」と書いてあることにも注目しましょう。まさに、直前の10章において、イエスさまを石打ちにしようとした者たちのことを、ヨハネの福音書は「ユダヤ人」と表現しているのです。ともすればイエスさまに敵対するような人たち、しかし、神の民としてだれよりも神の栄光を見るべき立場にあった人たち……マルタとマリアに付き添っていた人たちは、そういう人たちだったと言えましょう。 20節から、マルタとマリアの姉妹がようやく登場します。イエスさまを迎えに出たマルタ、家にとどまったマリア、この対照的な行動に出た2人を巡っては、かなり対照的な場面が展開します。これは、マルタとマリアの性格のちがいに起因すると言えそうです。 聖書を順番どおり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと読み進めますと、本日の箇所以前にもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカの福音書に登場しています。その箇所を読んでみますと、マルタとマリアの姉妹の性格のちがい、態度のちがいを知る手掛かりが得られます。ルカの福音書10章の38節から42節をお読みしましょう、新約聖書の136ページです。 わかることは、マルタはイエスさまの愛、といいますかご存在に応えて、何かせずにはいられなかった人ということです。とにかくよく働いています。しかし、ほかの人にとってイエスさまを大事にすることにまで思いが至らず、自分のしていること、奉仕こそがいちばん必要なことと思い込むあまり、不満が積み重なってしまったような弱さを持っていました。それゆえ彼女はイエスさまに叱られています。 マリアはどうでしょうか。とにかくイエスさまの足もとに座って、イエスさまのおっしゃることに耳を傾けました。マリアはまさしく、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる、というイエスさまの語られたみことばを実践した人でした。その結果、マルタがしているようにイエスさまを奉仕によってもてなすことはしなかったのですが、それをイエスさまはお咎めになることはありませんでした。かえって、マリアは必要なことを選んだのである、と評価していらっしゃいます。 これは、奉仕よりもみことばをお聴きする方が大事である、という意味ではありません。そうだとすると、教会におけるあらゆる奉仕は意味のないものになってしまいます。みことばをお聴きすることはもちろん大事ですが、それは奉仕と優劣をつけるべきことではありません。イエスさまが問題にされたのは、マリアが、主にあって必要なことと判断してイエスさまのもとに座って耳を傾けていることに、マルタがマリアの境界線を越えて介入しようとしたことです。マルタがもし、イエスさまにあって必要なのが奉仕と判断したならば、ただ奉仕に集中しさえすればよかっただけのことです。 この箇所からほかにもわかることは、マルタのことばは記録されているのに、マリアのことばは記録されていない、ということです。これは、マルタが能動的で、マリアが受動的であったことをほのめかしているとも言えます。マルタは能動的だからイエスさまに物申す行動に出て、マリアは受動的だから何も言わなかった、何か言ったとしてもここには記録されなかった、というわけです。 しかし、マルタは能動的な言動をする人だったぶん、その言動に直されるべき部分があるならば、それが明らかにされて、正されやすかった、という特徴も持っています。このたび、イエスさまをお迎えしに出ていったときもそうでした。一方でマリアも、その受動的な性格がよく表れた言動をイエスさまの前に取っています。ただ、その背後で展開する場面は、マルタを巡る場面のほうは静かで、マリアのほうは動的です。まずは、マルタのほうから見ていって、私たちも学んでまいりたいと思います。 21節、マルタがイエスさまを出迎えに行ったとき、何と言っていますでしょうか? まず切り出したのは、あなたはなぜここにいてくださらなかったのか、いてくださらなかったか、ラザロは死んでしまいました、という、恨みにも似たことばです。 恨んでいるから悪いのではありません。私たちも、神さまを恨みたくなることというのはあるものではないでしょうか? 豪雨に見舞われた地域の兄弟姉妹は、天を見上げてなんとおっしゃっているか、考えるだけで心が苦しくなります。いったい、なんとお声がけをしたらよいか、ほんとうにわかりません。 私たちもそれほどではないにせよ、何かあって、神さまを恨みたくなる気持ちになることがあったとしても、不思議はありません。それは不信仰のひとことで片づけるべきではないだろうと思います。ご覧ください。ダビデをはじめとした詩篇の詩人はどれほど、神さまに向かって赤裸々な訴えをしていることでしょうか。私たちも悲しいなら、心にあることを神さまに向かって吐き出す祈りをささげて構わないのです。 ただ、ここでマルタの信仰が取り扱われる糸口となることばを、マルタは語りはじめています。22節です。……マルタは、イエスさまがどのようなお方であるかよくわかっていました。全能なる神さまに求めることは何でもかなえられるお方。この方にすがるならば、今でも願いは聞いていただける。マルタはここで、最後の信仰を働かせようとしたのでした。 私たちもそうです。現実の絶望的な状況にのみ目を留めているならば、そこにはやはり、絶望しかありません。そこで私たちの目を、現実そのものから、現実を越えて司っておられる神さまへと転じるのです。そこから私たちのうちには信仰が育ち、神さまがみわざを起こしてくださる余地が生まれます。 イエスさまはマルタのことばを聞いて、あなたの兄弟はよみがえります、と言ってくださいました。そうです、祈りと願いを聞いてくださったのです。だがマルタは、イエスさまのこのみことばを、半分しか理解していませんでした。マルタは、終わりの日のよみがえりを信じ、そのときにラザロがよみがえることを知っているとは告白しましたが、その告白は充分ではありませんでした。 ここでイエスさまは、きわめて本質的な自己紹介を交え、マルタが、そして私たちが、拠って立つべき信仰の対象としてのご自身のお姿をあらためて示してくださいました。読みましょう、25節と26節です。 ……イエスさまはここで、2つの自己紹介をしていらっしゃいます。第一に「よみがえり」、第二に「いのち」です。 まず、「よみがえり」です。イエスさまは「よみがえり」でいらっしゃるゆえに、イエスさまを「信じる者は死んでも生きるのです」。マルタの告白は、よみがえりを告白していた点では正解でした。しかしイエスさまは何をはっきりされたかというと、ほんとうのよみがえりをもたらすご存在はイエスさまご自身である、ということです。 終わりの日にはみなよみがえります。しかし、天国に行けるのは、罪からの救い主、イエスさまを受け入れた人だけです。人がもし罪があるならば、聖い神さまはどうやって私たち人間のことを受け入れてくださるでしょうか。私たち人間が救われるための道はただひとつ、イエスさまを受け入れることだけです。そうすれば、たとえ死んでもよみがえって永遠のいのちをいただくことができます。まさしく、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とイエスさまがお語りになったとおりです。 一方で、イエスさまが「いのち」である、ということは、26節でイエスさまご自身が解き明かしてくださっているとおりです。この場合のいのちとは、イエスさまを信じることによって、この世界を生きながらすでに与えていただいている「永遠のいのち」です。「永遠に決して死ぬことがない」というのは、とりあえずは、肉体が死なないという意味ではないことは理解できます。だれでも人は肉体が死にますし、それに例外はないからです。 しかし、イエスさまを信じる人は、霊において生かされて、永遠に生きる存在としていただきます。その永遠のいのち、いのちなるイエスさまとともに生きるいのちは、天国から始まるのではなく、つまり死んだあとから始まるのではなく、この地上にてイエスさまを受け入れた瞬間から始まるのです。私たちはそれゆえに、いま現実に、決して死ぬことがない、永遠のいのちに生かされているのです。 しかしイエスさまは、この2つのことを同時にお示しになるため、ラザロをよみがえらされます。これを目(ま)の当たりにするとき、マルタもマリアも、そしてユダヤ人たちも、ひいては私たちも、イエスさまがよみがえりでありいのちである、したがって、イエスさまを信じる者は死んでも行き、生きていてイエスさまを信じる者は決して死ぬことがないことを受け入れるのです。 ここまでお語りになったイエスさまのみことばを聴いて、マルタはようやく、正しい信仰を持つことができるようになりました。そして、27節、立派な信仰告白をしています。イエスさまは単に友達ではない、全能なる神の御子である、このお方がラザロをよみがえらせてくださる……そう告白したのでした。 私たちはイエスさまに対して何と告白しますでしょうか? イエスさまは世に来られる神の子キリスト、そのように告白できるならば幸いです。私たちは多くの試練を体験します。そのような中で私たちの信仰がきよめられ、イエスさまに対する揺るがない信仰告白へと導かれ、まことのいのち、永遠のいのちを実際に体験しつつ生きるものへと日々変えられますように、主の御名によってお祈りいたします。 それでは次に、マリアのほうにまいりましょう。マリアは、マルタが呼びに来るまで家にとどまっていました。イエスさまを愛していたマリアがすぐにでもイエスさまのもとに駆けつけなかったのはどうしてだろう、そんなことも思います。しかし、マルタが呼びにいったら、マリアはすぐにイエスさまのもとに出ていきました。ユダヤ人たちもマリアにぞろぞろとついていきました。 イエスさまに出会うや、マリアはイエスさまの足もとにひれ伏しました。そして何と言ったでしょうか。32節です。 このことばは、マルタが言ったことばとそっくりそのまま同じです。しかしその後の展開は、大きく異なっています。マリアのことばはそこで終わり、あとは彼女はただ泣くだけです。そして、一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。 イエスさまはこの様子に、霊に憤りを覚え、心を騒がせた、とあります。人を絶望と悲しみに陥れる死の勢力に怒りと悲しみを覚えられたのでした。 主が愛をもって創造された世界は、人間の堕落によって死が入りこみ、人は絶望と悲しみに陥るばかりとなりました。だがそれは、愛なる神さまにとってあまりにもつらいことでした。愛をもって創造された人間が永遠に生きることなく、死ぬ。どんなにおつらいことでしょうか。そしてそれを目にする人間も、その人がどうなったかわからない、それをご覧になる主も、どんなにおつらいことでしょうか。 しかし、イエスさまの霊の憤り、そして涙の意味は、ほかにも考えられはしないでしょうか? ラザロがもちろん、イエスさまをまことの神さまとして信じていたことは疑いのないところです。それを信じていたならば、マリアにしてもユダヤ人たちにしても、もっと平安でいるべきだったことでしょう。なにしろ行った先は天国です。現実のこの世界よりもよほどすばらしい場所です。喜んだっていいくらいです。しかし、死の悲しみは彼らを圧倒しすぎるほどに圧倒していました。もはやマリアには、イエスさまがよみがえりでありいのちであることがわからなくなっていました。あれだけイエスさまのみことばを聴くことを奉仕することよりも大事にしていたマリアが、そういうこともわからなくなってしまっていたのでした。 イエスさまはこのことを目の当たりにして、涙を流されました。いのちの主なるイエスさまがここにいるのに、悲しみのあまり見えない……人よ、よみがえりであり、いのちであるわたしがここにいるのに、見えないとは! 立ち帰るなら永遠のいのちを与える神、わたしがここにいるというのに、見えないとは! 私たちには、イエスさまの悲しみがわかりますでしょうか? 人が死ぬこと、いのちをなくすことは、たしかに悲しいことです。だからこそ新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が急がれているわけです。何があっても死んではならないからです。しかしそれでも、人は死にます。問題は、いのちを司っていらっしゃるイエスさまがここにいるならば、イエスさまが見えているかどうかです。見えていると思うなら、イエスさまがどのようなお方であるかがわかっているかどうかです。 マリアは純粋な信仰を持った人でしたが、マルタのようにしっかりした信仰告白に至る論理的な主とのコミュニケーションができなかった弱さがありました。それは私たちにも共通した弱さではないでしょうか? 状況ばかりが見えてしまって、いのちの主なるイエスさまの臨在がまったく見えなくなってしまう。しかしそれでも、イエスさまはこの悲しむ私たちとともに涙を流され、同時に、どうかわたしがいのちの主であることを信じてほしい、と、涙を流しておられるのです。 私たちは、よみがえりでありいのちであるイエスさまが見えていますでしょうか? イエスさまに愛されている私たちが、イエスさまのことがわからないために、イエスさまは涙を流してはいらっしゃらないでしょうか? しばらく、静まって祈るひとときを持ちましょう。イエスさまが見えていないならば、今ここにおられるイエスさまを見ることができるように、心の目を開けていただきましょう。そして、いのちの主なるイエスさまとつながっている喜びをわがものとさせていただきましょう。