8月15日、その次に

水戸第一聖書バプテスト教会 日曜礼拝 導入讃美「主の愛はとこしえまで」「主イエスの十字架の血で」/祈祷/使徒信条/交読 マタイ5:3~16/主の祈り/讃美 讃美歌338/聖書箇所 マタイ4:1~11/メッセージ題目 8月15日、その次に  本日、8月16日は、主題を決めてメッセージをさせていただきます。その主題は、「みこころに従って、いかに平和をつくる者となるか」ということです。  この8月16日という日は、私個人にとって、人生を左右する3つの体験をした日でもあります。最初は1990年8月16日、高校2年の夏、この日私は、松原湖バイブルキャンプにいました。音楽ゲストの小坂忠・岩渕まことのデュエットの歌う讃美が流れる中、講師のアーサー・ホーランド牧師の導きで、献身を約束する祈りへと踏み出しました。  次は1992年8月16日、大学1年の夏、私ははじめてこの日、韓国の地にて、韓国語で礼拝をささげました。夕礼拝にも出席し、その席上で私は前に出て、自分が韓国に召されていることを証ししましたところ、満場の礼拝者のみなさまから大きな拍手をいただき、礼拝後、多くの方に握手をしていただきました。私はその日、自分が日本人のクリスチャンとして、韓国教会から生涯学ぶ者であるという意識を新たにしたものでした。  3度目は2008年8月16日、私と陳宣教師はその日、韓国で結婚式を挙げました。今日は結婚記念日です。まあ、この日についていろいろ解説するのは野暮というものでしょう。  そんな私ですから、8月16日という日については、毎年この日が巡ってくるたび、人一倍、この日の象徴する意味について想い巡らしてきたものです。今日はそのような私の黙想に、おつきあいいただきたいと思います。 8月16日の前の日は言うまでもなく8月15日、日本では終戦記念日ですが、この日の持つ重みが、戦後75年、年を追うごとに薄れてきてはいないでしょうか。そのような中で憲法改正ですとか、再軍備といったことが、一部で声高に言われるようになっています。 一方、韓国では、この日を「光復節」といいます。足掛け36年にわたる日本の支配から解放された日として、韓国にとってこの日は特別な意味を持っています。  私はその方面の社会問題をこのメッセージの時間に扱うつもりはありません。この時間は、聖書から私たちにとっての平和のあり方を語りたいと思います。 私たちにとって、戦争が終わったこと、終戦は、たしかにめでたいこと、うれしいことにはちがいありません。昨日のように、8月15日を終戦記念日と定めて覚えるゆえんです。しかし、そこにとどまっていてはならないのではないでしょうか。 問題はそのあとです。戦争というこの悲惨なことを繰り返さないことが、私たちに求められているのは言うまでもありません。特に私たちは、「平和をつくる幸いな神の子」として、神さまから召されている存在です。 そのために私たちは、何を祈り、どのように行動すべきか、いろいろ問われるでしょう。本日はそのような中でも、直接「世界平和」に言及していない、しかしまことの「世界平和」を実現するうえでとてもぴったりしたみことばから、ともに学びたいと思います。題して、「8月15日、その次に」。 本日の箇所は、イエスさまが荒野の40日の断食の果てに、悪魔の試みを受けられた場面です。それが平和をつくることとどのように関係があるのか、以下、見てまいりたいと思います。 まず、1番目の誘惑から見てみましょう。2節から4節です。 断食というものは、生きるための命綱である食物を絶つことで、身もたましいも神さまに集中させることです。 イエスさまにとってそれは、食べるものも口にしないで、聖霊なる主に荒野を引き回される厳しい祈りの時間でありました。そこには、罪深い肉欲の入り込む余地はありません。 しかしイエスさまは、人間の肉体をもってこの地に生きられたお方です。空腹を覚えられました。それはただごとでなかった空腹だったはずです。40日の断食のあとの空腹です。目の前の石がパンに見えてくるような空腹です。 主がそれまで40日の断食を行なっておられたのは、御父のもとに徹底してへりくだることでありました。それを、全能のわざは自分にもあるとばかりに、そのわざを用いて石をパンに変えるならば、それは何を意味しているのでしょうか? もしそのようなことをなさるならば、ほんとうに人の必要を満たすものは、あくまで肉の糧である、それは霊の糧なるみことばに優先する、という世的な常識に、イエスさまも従われた、ということになりはしないでしょうか。 この世においては、世界平和は肉の糧が満たされるか否かという次元で考えがちなものです。もちろん食糧が確保されることも必要ですし、いのちの安全が保障されることも大事です。食べ物は必要です。しかし、この世の多くの人が見落としていることがあります。それは、人はパンだけで生きるのではなく、この世界を統べ治める創造主なる神さまの御口から出るひとつひとつのことばによって人は生きる、ということです。 平和というものは、特定の国や民族さえ安定していればいいうものではありません。世界のすべての人が神さまに創造された存在であるかぎり、世界のどこにおいても、平和は実現している必要があります。そのためにも、そのようにすれば人は神さまのみことばによってまことの飢え渇きをいやし、平和をつくり出すものとなれるかを祈りつつ考えなければなりません。 しかしこの世界は、ひたすら神さまとそのみことばの存在抜きで、すべての人が幸せに過ごすことを追求したりします。しかし、少なくとも私たちクリスチャンは、そのようなこの世の流れを正しいと考えてはいけません。ほんとうに平和をつくることができるお方は、平和の主なるイエスさまだけです。 この世界は、イエスさまによって御父と和解させられることなしに、まことの平和を受け取ることはできません。平和をつくり出す人間の努力は確かに素晴らしいものですが、それは石をパンに変えることもできない被造物、罪人の働きでしかないことを、どこかで私たちは謙遜に認める必要があります。 神さまがイエスさまを通して平和を与えられたことを、何によって私たちは知り、身に着けるのでしょうか? みことばです。それもイエスさまがおっしゃるとおり、神の口から出るひとつひとつのことばとしてのみことばです。 「神の口から出る」とわざわざイエスさまがおっしゃっているのは、どういうことかといいますと、聖書のことばを読みさえすればそれで平和をつくり出すものに自動的になれるわけではない、ということです。神の口から出ることばで生きる、つまり、聖霊なる神さまの導きの中で、神さまとの密なコミュニケーションを分かち合ってみことばをしっかりお聞きするのです。 こういうことができている人は、この世界にどれくらいいるでしょうか? 私たちにはできているでしょうか? もっとそういう人が増えるならば、この世界はもっと平和になるはずなのに、と思います。 そういうわけで第一の誘惑、それは、神さま抜きでこの地上に人が生き残る道を提示することです。私たちはこのような、この世の流れに流されてはなりません。平和は神さまのみことばにお従いするところから始まる、これを私たちは忘れてはなりません。 それでは2番目の誘惑にまいります。それは、みことばを曲解して神さまを試みる誘惑です。それは、平和をつくり出すこととどんな関係があるのでしょうか? 5節をご覧ください。イエスさまは悪魔に、エルサレム神殿のてっぺんに連れて行かれました。そこで悪魔は、下に身を投げよ、おまえが守られることは、聖書のことばにも書いてあるとおりじゃないか、と誘惑しました。 しかし、これをイエスさまは拒否されました。なぜでしょうか? みことばの根拠も立派にあるのではないでしょうか? いいえ、これは約束のみことばではありますが、神を試みる者をそれでも守ってあげよう、という意味のみことばではありません。むしろ、悪魔にとっては皮肉なことですが、悪魔が6節で引用したこの詩篇91篇のみことばは、このような、悪魔に試みられるような状況に陥って神さまの護りを必要とする人のことを、神さまは必ず守ってくださる、という意味のことを語っています。かくして、このみことばのとおり、イエスさまは守られたのでした。 クリスチャンはしばしば、自分の祝福を願ってみことばを引用するということを行います。まあ、それもあると思います。何もかも悪いわけではありません。しかしそのために、自分の行動はみこころにかなっているから大丈夫だ、とばかりに、反省もしないで突き進むような場合は問題です。 かつて日本は、天皇を中心とした神の国ゆえに、まつろわぬ国や民族は征伐する、とばかりに、他国に戦争を仕掛け、そのために多くの人が犠牲になりました。その根底にあるものは神社参拝に代表される霊的なものでした。戦争で死ねば護国の鬼となって靖国神社に祭られる、靖国で会おうということばを合言葉に兵士たちは戦場にいのちを落としました。その当時の日本のキリスト教会は、ほぼすべてが、国家によるそのような宗教的管理、霊的管理に屈し、神ならぬものを神とすることをみこころだとばかりに教え、国家の宗教政策に協力していったのでした。 一方で、この戦争の相手国はどうだったのでしょうか? もともとが聖書的に信仰によって人々が育てられてきた誇らしい理念を持った国でした。しかし彼らの実際にしたことは、先住民を虐殺し、アフリカから奴隷を連行して酷使し、そして日本には2度も原爆を落としたということです。これが、誇るべき信仰を持っているはずの彼らがしたことです。 私たちが先祖の罪を悔い改めるというときには、日本民族にかぎらず、同時代に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を叫びながら、まるでそれが主のみこころのように信じてわが国を攻撃した、かの国の兄弟たちの罪をわがこととして悔い改めることを、ここに提唱したいと思います。 クリスチャンにとっての戦争、それは、神の祝福はあるとばかりに突き進みながら、実はその神さまがどこまで忍耐され、沈黙されるか試すような、神を試みる罪を犯していることであることを、私たちはしっかり考え、先祖の罪を悔い改める必要があります。 考えてみてください。イエスさまはいったい、主の民が主のために武器を取って戦うことをみこころとして奨励されたでしょうか? とんでもないことです。イエスさまははっきりおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」イエスさまははっきり、武器を取るな、とおっしゃったのです。主のために武器を取れ、なんて、まやかしでしかありません。 クリスチャンでありながら戦争を好んだり、争ったりする、それは、そうしてはいけないのがみこころだと心のどこかで知っていながら、自分の立場を主が祝福しておられるから大丈夫だ、とばかりに突き進む、きっと神さまは忍耐される、そう信じ込む、そのような、神を試みる罪を犯していることになります。 先の戦争の記憶が薄れてきたということは、人はまた、戦争に向けて突き進むようになるということにはならないでしょうか。私たちは目覚めて祈っている必要があります。私たちは自分勝手みことばを解釈しがちな罪人です。それでもって、神さまを試みる罪を犯しがちな罪人です。私たちはこの罪が自分のうちにあることを認め、まず自分こそが悔い改め、国のため、主にある兄弟姉妹のためにとりなして祈ってまいりたいと思います。 平和を壊す働きはどんなにみことばを用いてでも正当化しようとしても、神のみこころでは決してありません。それは忍耐深い神を試みる罪であることを、私たちはしっかり、心に留めたいと思います。 3つ目の誘惑にまいります。8節から10節です。 ……さて、イエスさまは神の子であるので、全知全能の、すべての上に高くいますお方でいらっしゃいます。ということは、すべてをお持ちのお方ということもできます。韓国式には、イエスさまのことを、万有の主、とおっしゃるとおりで、すべてを所有しておられるお方です。 そう考えるならば、サタンがイエスさまのことを、この世の王国とそのすべての栄華をもって誘惑したことは、果たして誘惑になるのだろうか、という疑問がわいてはこないでしょうか? これは、見方を変えて見てみたいと思います。並行箇所のルカの福音書4章6節では、サタンは国々とその栄華のことを、「国々の権力と栄光」と表現していて、それらはすべて自分に任されている、と語っています。 そうです、国々の権力と栄光は、サタンに支配されている領域です。古今東西、栄華を誇った国々はその背後に、重労働や重税などの搾取、行き過ぎた国民の管理、国を挙げての偶像礼拝、姦淫……そういったものが存在し、神さまのみこころをいたく損なってきましたが、それはすべて、この世界の国々がサタンの手に陥っているからです。 そのようにサタンとその勢力にやられ放題の人間、それなのにけっして創造主なる神さまのほうに行かない人間、その悲惨さの中で死んでいき、滅びゆく人間……その人間たちは主が愛をもって創造された、かけがえのない存在です。私たちがイエスさまだったら、どう思うでしょうか? 乞うまでして人間を支配し、隷属させるサタンに対し、「やめてくれ!」と叫び出したくはならないでしょうか? しかし、このときサタンは、ひとつの条件を出してきました。「私を拝むなら、おまえにこれらすべてをくれてやろう。」この悲惨さから人間を解放してやっていい、だが条件がある、私を拝め……。 しかし、イエスさまのお答えはひとつでした。下がれサタン、みこころは、主を礼拝し、主にのみ仕えることだ。 これしか答えはありません。下手をすると人間は、世界平和を達成するために、悪魔にたましいを売るようなことさえしかねない存在です。平和をつくるために神さまを礼拝することを放棄する、そういうことをしてしまうのです。 みなさん、インターネットでもいいですし、書店のキリスト教のコーナーに並ぶ本でもいいです。いろいろなところで触れるキリスト教の姿は、戦争をつくり出す元凶(げんきょう)のように描かれてはいないでしょうか? イエス・キリストの父なる神以外に神はないと主張する者が、いちばん戦争をつくり出している……。 絶対にだまされてはいけません。私たち自身を考えてみてください。私たちは人と平和をつくるために、どれほど努力していることでしょうか? なぜなら、それがみこころと信じているからです。 ただしサタンは、私たちが善良なクリスチャンでありたいという思いを、悪い意味でのお人好しな生き方へと取り替え、この世において光でも塩でもない、毒にも薬にもならない生き方へと妥協させようとします。 具体的に言えば、キリスト教式ではないお葬式に参列するときなど、いわゆる神仏を拝む行事に私たちクリスチャンが接するとき。そのようなとき私たちは、どういう行動を取るでしょうか? お焼香をしたり合掌をしたりするでしょうか? そうする理由は何でしょうか? ご遺族や親戚と波風を立てないためでしょうか? それは言うなれば、平和をつくる行為でしょう。 だが問題は、どういう根拠によって平和をつくるかです。この行為は間違いなく、「主だけを拝み、主だけを礼拝する」という、主のみことばに反しています。そうやって人にへりくだれば証しが立てられるぞ、人はイエスさまを信じるかもしれないぞ、しかしこれは、悪魔のささやきというものです。そのようにして平和をつくったつもりになっても、主の栄光はけっして現れることはありません。 私たちがクリスチャンとして平和をつくり出すことは、他の宗教と妥協することではありません。世は私たちの持つ聖書信仰でないかぎり、多様な宗教のあり方としてその存在を奨励しますが、唯一私たちだけは、その存在を許されないか、他の宗教と混在することを求められます。しかし、私たちの信じる神さまは、ほかの神々に並んで存在するお方ではありません。世の中が私たちに何を求めようとも、私たちは神さまだけに従うことをやめてはいけません。…