三きょうだいに学ぶ礼拝
聖書箇所;ヨハネの福音書12:1~11/メッセージ題目;三きょうだいに学ぶ礼拝 もし、みなさんが、2000年前のパレスチナの、エルサレムにほど近い、ベタニアという町にいたとしましょう。その町には、三人で肩寄せ合って暮らしている、けなげなきょうだいがいました。ところがその家は、その中の男のきょうだい、ラザロが亡くなるという悲劇に見舞われました。 そのおうちでラザロのお葬式が執り行われ、人々はわんわん泣いている姉妹たちを慰めてあげたりしました。ところがそこに、この三きょうだいが慕ってやまない、イエスさまがやってきて、ラザロを生き返らせました。もちろん、このことは大変な話題となりました。ところがイエスさまは、このできごとのあとに、姿を消してしまいました。 さて、ユダヤの一大イベントの過越の祭りがあと6日に迫りました。そのとき、イエスさまは再び現れ、この三きょうだいのもとに来られました。たくさんの人が集まります。さあ、みなさんならここに来たいと思いませんか? あのよみがえったラザロに会えるのです! いえ、それ以上に、ラザロをよみがえらせたイエスさまに会えるのです! それもごはんつきです! 私なら行っちゃいます。 さあ、それでは、みなさまもこの復活パーティーの現場にいると思って、今日のみことばからともに恵みをいただいてまいりたいと思います。 このパーティーは、イエスさまをお迎えしてのパーティーです。シモンという人の家を借りて行われましたが、このホスト役は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいです。この三きょうだいは、イエスさまへの礼拝という観点から見て、実に際立った模範を示しています。 まずはマルタから見てまいりましょう。マルタは、奉仕をもって主を礼拝しました。言い換えれば、マルタは彼女の「現在をささげました」。 2節のみことばをお読みしましょう。「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。」 ベタニアの人たちは、食事を用意することでイエスさまをもてなす奉仕をしました。しかしこの中で、ホスト役として腕を振るっていたのはマルタです。「マルタは給仕し」と、わざわざ書いてあるとおりです。 マルタにとって、仕えること、特に食事の奉仕をすることは、賜物とさえ言えるものでした。ルカの福音書10章で、イエスさまのご一行をこの三きょうだいの家がお迎えしたという場面が出てまいります。そのとき、マルタが忙しく立ち働いていたことが記録されています。ただ、忙しさにわれを忘れ、手伝ってくれない姉妹のマリアを叱ってやってくださいな、と、イエスさまに言いつけるようなことをしてしまって、かえってそのせいで、イエスさまに注意されています。 それでもマルタは、こうしてイエスさまをはじめ、やってくるお客さんたちをこうしておもてなししているのは、やはり奉仕というものが、マルタにとっての賜物だったからといえるでしょう。 賜物を用いて奉仕するということは、現在自分に与えられているものを用いて主を礼拝するということでもあります。礼拝とは、いまこうして、日曜日の午前10時半から1時間ほどの時間を用いて礼拝することだけを指しているのではありません。もちろん、この時間もとても大事な礼拝の時間ですが、ローマ人への手紙12章1節には、何と書いてありますでしょうか?「ですから、兄弟たち。私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」 からだをもって献げることがふさわしい礼拝……以前の訳の聖書では、この「ふさわしい礼拝」ということばを、「霊的な礼拝」と訳しています。それは、現在持てるものをことごとくささげる生き方をする、ということであり、それが聖徒としてふさわしいことであり、また霊的である、ということです。 マルタは、イエスさまやその一行、また、そのほかにやって来た人たちをもてなすという、いわば「労働」をしました。それは、体力があってこそ可能なことであり、マルタはいわば、今与えられている「健康」を主にささげたことになります。 また、やってきた人たちは彼女の近所の人、友達、知り合いであることを考えると、マルタは、彼らのことをイエスさまの御前に導くという点で、「人間関係」を主にささげてもいます。もちろん、自分で食べ物や飲み物も用意したでしょう。「財物」もささげています。 私たちが「奉仕」をしたり、「伝道」をしたり、「献金」をしたり、といったことは、そういう文脈で考えると、「ささげる」ことではありますが、この世で言うところの宗教行為と同じとは言えません。そうすることで私たちの霊的ステージを上げて、より天国に近づく、などと考えるのは大間違いです。 私たちはすでに、イエスさまとその十字架を信じる信仰によって、天国に入れていただいています。何かの努力や犠牲で天国に入ろうと思ったり、またそのように人に教えたりすることは、絶対にしてはなりません。 しかしそれでも、私たちはこの与えていただいた救いの恵み、天国の恵みに何か応えたくはならないでしょうか? 生活に行いの実が結ばれていくのです。 行いの実が結ばれていくプロセスで、私たちは、私たちに財物が与えられていることに感謝して、お金をささげる「献金」や、ものをささげる「献品」をするのです。救いを与えてくださった神さまを礼拝する喜びを伝えたくて、与えられている人間関係に感謝しつつ「伝道」をするのです。健康や技術が今自分に与えられていることを感謝し、その感謝の表現として「奉仕」をするのです。 すべては、現在の自分をもってささげる礼拝のあり方で、ローマ12章1節のみことばに従順にお従いする「表現」です。 そういうわけでマルタは、現在の自分をささげました。もちろんこれは、宗教行為などというレベルの話ではありません。きょうだいラザロを復活させてくださったイエスさまは、ご自身語ってくださったとおり、よみがえりであり、いのちであり、イエスさまを信じる者は死んでも生きる。生きていてイエスさまを信じる者は、決して死ぬことがない。……このイエスさまを前にして、マルタは正しい信仰を持たせていただいたわけです。 本来罪に死ぬはずだった私が生かしていただいた。永遠のいのちを与えていただいた。この信仰を持たせていただいたことに感謝して、マルタは自分の「現在」をおささげしたのです。 私たちの礼拝も、イエスさまによって罪赦されて神さまの子どもとなり、永遠のいのちを与えていただいたことに由来するものです。この時間にささげている礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、すべては永遠のいのちへの応答、感謝の表現です。私たちはこの永遠のいのちの恵みに感謝して、真剣に私たち自身をささげてまいりたいと思います。 次に、マリアを見てみましょう。マリアは彼女の、「未来をささげました」。 3節をご覧ください。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 この短い記述をよく読むと、マリアがイエスさまに対して何をしたか、実にいろいろなことがわかってきます。 ナルドの香油、これは嫁入り道具です。とても高価なものです。一リトラ、これは欄外の脚注によれば328グラムであり、よく女性の方や男性の方が手にしておられる香水の瓶よりもよほど分量があります。並行箇所であるマルコの福音書14章によれば、この女性はこのナルド香油の壺を割ってイエスさまに注いだとあります。家は香油の香りでいっぱいになりました。 彼ら三きょうだいがイエスさまとそのご一行をもてなした場所は、さきほども申しました、シモンという人の家です。しかしこのシモンは、マルコの福音書によれば、当時差別されていた病気、ツァラアトの患者でした。そんな人の家であったことを考えると、この三きょうだいの経済状況は推して知るべしです。そんなマリアが嫁入り道具に取っておいたナルドの香油は、売れば300デナリにもなります。それは、1デナリが一日分の賃金に相当することを考えると、何百万円もする宝物です。 それは嫁入り道具、本来、花婿のために使われるべきものです。それを惜しげもなくイエスさまに注いだということは、私の花婿はイエスさまです、と、みなの前で告白した、ということです。家中に広がったナルド香油の芳香をかいだ満場のお客さんたちは、このマリアの犠牲を伴った信仰告白に、まことの花婿とはイエスさまであることを、弥が上にも実感したことでしょう。 ヨハネの黙示録に描かれていることですが、終わりの日には、子羊なるイエスさまと花嫁なる教会の結婚式が持たれます。教会は飾られた花嫁として、聖くされた姿をもって子羊なるキリストの前に出ていきます。先週、結婚式の話をしましたが、結婚式というものは、このキリストと教会の結婚式、窮極の結婚式を象徴していると言えます。 私たち教会はイエスさまというお方にふさわしくなるように、御霊によってきよめられ、整えられ、花嫁として御前に出ていくのです。まことに、私たちにとってのこの地上の歩みは、イエスさまの花嫁修業です。 マリアは、未来にだれかこの世界の男性のお嫁さんになることを諦めてでも、イエスさまの花嫁になることを選びました。なぜ、これだけの献身ができたのでしょうか? それは、愛する兄弟ラザロをよみがえらせてくださったイエスさまに対し、自分の未来を託す信仰を持つことができたからでした。 イエスさまはラザロをよみがえらせてくださったように、いずれこの地上でいのち果てる私のことも終わりの日によみがえらせてくださり、花嫁としてくださり、永遠にイエスさまともに生きる者としてくださる……その信仰をマリアは、自分の持てる最高のもの、嫁入り道具の香油をささげ尽くすことにより、はっきりと表明したのでした。 このことをイエスさまは、7節のみことばで、このように評価していらっしゃいます。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」 マリアは、イエスさまが兄弟ラザロをよみがえらされたことが宗教指導者たちを激怒させ、彼ら宗教指導者たちが、イエスさまを死刑にするために捜査をはじめたことを知っていました。もはやイエスさまに残された時間はわずか、自分もイエスさまに会える時間はわずかしかない……マリアは、そのわずかの時間に懸けたのでした。 礼拝とは、イエスさまの死と復活にあずかることです。本日の礼拝において「主の晩さん」が執り行われますが、「主の晩さん」はイエスさまの死にあずかることであり、私たちにとっては極めて大事なものです。これを守ることは、イエスさまの死と復活にあずかり永遠のいのちをいただいた私たちにとって、本来、欠かすべからざることです。 しかし、イスカリオテのユダはここで何と言っているでしょうか? 一見すると「正論」ともいえることを主張して、マリアを責めました。こんな高価なナルドの香油をむだにしたとは何事か、これを売れば貧しい人に施しができたではないか……。 しかし、これは一理あるように見えても、イエスさまの御目にはそうではありませんでした。貧しい人を助けることはいつでもできる、しかし、わたしの葬りの備えをすることは、このとき一回限りだ。そのままにさせておきなさい。 もちろんイエスさまは、貧しい人を助けるな、とおっしゃったのではありません。時と場合を見極めよ、とおっしゃったのです。よく言われることですが、ベストの最大の敵はベターです。貧しい人を助けるのは確かに素晴らしいことで、何もしないよりははるかにいいことにはちがいありません。しかし、それは「ベター」です。ほんとうの「ベスト」は、主の十字架と復活、再臨を忍んで、主に礼拝をおささげすることです。 私たちが主を礼拝することは、この世でクリスチャンとして善行を積み、証しを立てることに優先します。クリスチャンとしてのすべてのよい行いは、こうしてともにささげる礼拝から始まります。そこから、生活そのものを聖い生きた供え物としておささげする、生活をもってする礼拝へとつながるのです。 しかし、私たちはこのユダのことばから、さらに真剣に考えるべきことがあります。善行を積もうとすることはしばしば、罪を犯すことに取って代わられる危険があることを、私たちは謙遜に認める必要があります。 この箇所を読むと、ユダがなぜこのような発言をしたか、その背景が語られています。彼は十二弟子の会計係でしたが、この共同体にささげられた献金をひそかに盗んでいました。ユダは、マリアからナルドの香油を受け取ったらそれを売って、それでつくった300デナリの中から盗もうという魂胆だったことが、ここでほのめかされています。 しかし、残念なことですが、こういうことはクリスチャンの間でも、しばしば起こることです。私たちキリスト教会は、神さまを礼拝することに集中すれば基本的にはそれで充分ですが、ときにそれに付随して、いろいろな事業を行います。クリスチャンどうしが集まって学校を経営したり、病院を経営したり、さらには、神学校を経営したり、宣教団体を運営したりと、いろいろな働きが展開されます。 それらの働きは、クリスチャンとしてこの世界に仕えたいという純粋な意図をもって始められ、運営されているものです。素晴らしいことです。しかし、そのような意図を持った働きの中でも、金銭的な問題が起きることはあるものです。それはやはり、神さまの御前に徹底して生きる姿勢がどこかで欠けてしまっているからではないでしょうか。私たちはやはり、イエスさまの助けがなければ片時も生きていけない罪人であることを謙遜に認める必要があります。 だから私たちは、主の御前に真剣に礼拝をささげることが大事になります。礼拝はまるでともに集っている人を意識するように、形だけささげていればそれで充分なのではありません。御霊と真理によって、主の御前に徹底して礼拝をささげることです。御霊に導かれ、真理のみことばを握って、真剣に礼拝をささげるのです。 世の中の人たちは、私たちクリスチャンに対していろいろ期待することがあると思います。特に私たちには、まるでボランティアのような善行を積むことをおそらく世間は期待しているはずです。もちろん、それも大事なことにはちがいありませんが、私たちにとって何よりも大事なのは、私たちが未来のいつかの日に完全に贖われることを望み見て、今日この日に、主の十字架の死と復活、再臨を覚えて、真剣に礼拝をささげることです。 私たちのこの、善行よりも礼拝を最優先にする姿を、世間は理解せず、かえって批判したり、非難したり、あるいは嘲ったりすることもあるかもしれません。 しかし私たちは、終わりの日、贖いの日を見据えるなら、そんな世間の評価など、どれほどのことがあるでしょうか。私たちは周りがどう評価しようと、変わらずに、主に礼拝をささげ、贖いの日を待ち望むのです。 私たちの毎日は、終わりの日、イエスさまと教会との結婚に備える、花嫁修業の日です。私たちはその日を待ち望み、主の御前に徹底して、真剣に礼拝をささげる生き方をしてまいりたいものです。 最後に、ラザロの姿を見てみましょう。ラザロは彼の、「存在そのものをささげました」。 ラザロは、イエスさまに復活させていただいたいのちそのものを生きていました。そしてこのラザロは、ここではどのような存在となっていたでしょうか? 9節をお読みしましょう。「すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらされたラザロを見るためでもあった。」 復活のいのちを生きるラザロは、イエスさまとともにいました。イエスさまがラザロを訪ねてきてくださったからです。私たち、イエスさまによって復活のいのちを生かしていただいている者がイエスさまとともにいさせていただく、そこに礼拝が成り立ちます。ラザロの存在がマルタとマリアを礼拝に導いたように、私たちも復活のいのちに生かされている存在そのものをもって、人々を礼拝へと導くのです。 生き証人、ということばがあります。このラザロの存在は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであられることを、雄弁すぎるほどに語っていました。まさに「生き証人」です。ユダヤ人の群衆は、イエスさまを見に来ただけではありません。ラザロを見て、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを信じるために来たのです。 ラザロは何かしたわけではありません。主のあわれみによってよみがえらせていただいただけです。 私たちも主の御前で何かしているわけではありません。ただ、存在しているだけです。しかしこの存在は、イエスさまによって復活のいのちを生きる者としていただいたという存在です。…