聖書箇所;創世記18:1~15/メッセージ題目;不信仰は取り扱われる
何度かメッセージの時間にお話ししている、ダウン症のあっこちゃんのことをお話しします。彼女はとても喜んでバイブルキャンプから帰って来ましたが、そのことは、教会に深入りすることを望まないお母さんをうろたえさせ、それを見て取ったあっこちゃんは、あれだけ恵まれたキャンプを境に、ぱったり教会に来なくなりました。
そんなあっこちゃんを心配して、日曜学校の先生があっこちゃんに電話をしました。するとあっこちゃんは、こんなことを言ったというのです。……このあいだ、イエスさまが私のお部屋にやって来たの。どんな恰好かっていうと、立派な格好じゃなくて、パジャマを着ていたの。行くところがないから、あたしの部屋にやって来たんだって!
先生はそれを聞いて感動されたそうです。私はその話を日曜学校の先生にお伺いして、ああ、よかったなあ、と思ったものでした。あの純粋な信仰を持ったあっこちゃんには、イエスさまのお気持ちがよくわかるのだろうなあ、とも思いました。
もし仮に、イエスさまが私たちの家にやってきたら、私たちならどのように接するでしょうか? ちゃんとお迎えして、おもてなしするでしょうか? それとも、イエスさまだとわからなくて、面倒をかけないでよ、と、追い出してしまうでしょうか? ちゃんとお迎えできる、子どものような信仰を保っていますでしょうか?
さあ、今日の箇所は、アブラハムが神さまをお迎えし、おもてなししたというお話です。神さま、そしてその使いが人の姿を取ってこの世界に臨んだという記述は、創世記18章と19章に登場しています。18章はアブラハムの一行のいるマムレの樫の木の場所、19章はロトのいるソドムでのお話で、とても対照的です。今日は18章の、アブラハムが神さまとその使いの、3人のお客さんを迎えた場面から学びます。
主とその使いは、人の姿を取って、アブラハムのとどまっていた天幕の前までやってきました。アブラハムはこのお方がどなたなのか、たちどころに分かりました。アブラハムは急いで走っていって、この一行をお迎えしました。
神さまはご自身の時に従って、私たちのうちに臨まれます。このときもアブラハムは、神さまが臨まれるというご予定を知らずにいました。しかし現れたのが神さまだと知るや否や、すぐに走っていきました、
先月学びました、ヨハネの福音書11章のみことばでは、イエスさまが神の時、神さまのタイムスケジュールに従って歩まれたことを学びました。神さまの時は、しばしば人の予測するときとは異なるものです。また、神さまは思いがけない時に臨まれます。
このときのアブラハムもそうでした。お客さんを迎えに走っていく、これは普通、アブラハムの生きた中東の習慣にはないことです。しかしアブラハムは神さまの御前だからと、なりふり構わず駆けよっていきました。神の箱の前で恥も外聞も捨てて踊り跳ね回ったダビデ、イエスさまに再会したけれども裸だったのでうれしはずかし、服をまとって湖に飛び込んで泳いでいったペテロのようです。まさにイエスさまのおっしゃる、子どものように神の国を受け入れる人!
アブラハムは年長の男性としての威厳も捨てて、子どものようにこの一行に駆け寄り、まず、ひれ伏して礼をしました。そして、足を洗うための水を用意しました。まさしく、おもてなしです。そして、「食べ物を少し持って参ります」と言っていますが、約23リットルとたっぷりの小麦粉でパン菓子をつくらせ、柔らかくておいしそうな子牛を料理させました。この野にある天幕生活にあって、最高のおもてなしです。
アブラハムは、神さまと契約を結んでいただき、永遠のいのちに生かされ、また、のちの子孫、すなわち、アブラハムのように信仰をもって主を受け入れる人たちもまた永遠のいのちに生かしていただくという約束を神さまからいただきました。アブラハムはどれほど、神さまに感謝していることでしょうか。その感謝の表現が、こうして、ささげ物をもってするもてなしへと実を結んだのです。
そしてアブラハムは、自分も食卓にあずかったわけではありません。給仕をしています。先週学びましたラザロの三きょうだいの箇所でも、マルタはイエスさまをはじめ、お客さんたちに給仕をすることによって、主を礼拝する表現をしています。アブラハムのこの箇所でも、奉仕とは信仰の表現、礼拝の表現であることがわかります。
子どものように神の国を受け入れる、と申しました。しかし、子どもっぽい、つまり分別がない、しつけられていない子どものような状態では困ります。そういう幼稚な状態では、仕えることよりも仕えられることを求めるようになります。それではいつまでたっても、神の子どもとしての成長を期待することはできません。
「子どもっぽい」と「子どもらしい」はちがいます。アブラハムの場合は「子どもらしい」です。全能の神さまがみわざをなしてくださると語られたら、そのとおりに素直に信じる。神さまの御前に出るときには、後先のことを考えないで、持てるかぎり最高のものをおささげする。こういうことが大人になると、できなくなる人がなんと多いことでしょう。
私たちは子どもの信仰、素直に神の国を受け入れる信仰を保たせていただきたいものです。神の国……信仰によってイエスさまを受け入れた者たちを、主ご自身が統べ治めてくださる御国、それは私たちのただ中に実現させてくださるもので、神の国を実現させていただくには、なによりも、私たちが子どものようになることです。
神さまはこのように、アブラハムに対し、幾たびかの訓練をとおして純粋な信仰をくださいました。特に、この年老いた身から男の子を生まれさせ、その子孫が星の数のように増やされるという約束を受け入れるとは、どれほど純粋な信仰へときよめられたことでしょうか。しかし、アブラハムがこの信仰を持つことができたように、私たちもこの信仰を持たせていただくことができるのです。それこそ、信仰を働かせてまいりましょう。
しかし、アブラハムのこの信仰が完成させられるために、その信仰が取り扱われなければならない人がいました。それはサラです。
神さまははっきりと、90歳になるサラから男の子が生まれ、その男の子から子孫が増え広がることを約束されました。しかし、このことをアブラハムは信じ受け入れましたが、サラの場合は、それを信じ受け入れるためには、神さまが直接介入してくださることを必要としていました。
私は男なので感覚的にわからないことばかりですが、女性にとっての生理というものは、いわく表現しがたい感覚になるものと聞いております。しかし、女性の方が月に1回の生理を迎えるなら、そのなんともいえない苦痛とともに、血を流されることによって、女性とはいのちを生み出す存在であることをとても実感されるのではないかと想像します。まさに聖書の語るとおり、血はいのち、それが如実に実感できるように、神さまは女性という存在に生理というものを許されたのかもしれません。
サラは、生理が止まって久しくなっていました。90歳にもなるのだから当たり前です。ただでさえもともと、サラは子どもを産めないまま生きてきました。しかも生理まで止まって、90歳にまでなってしまいました。神さまから何と言われようとも、サラの絶望はリアルです。なんと言っていますでしょうか? 12節です。
……私も老いぼれた、主人も老いぼれた、私にはもはや、子どもをもうける楽しみなんてあるわけないでしょう、ご冗談はおよしください……。サラは、おのが身の悲しさに、心の中で薄笑いを浮かべました。
この笑いは、それまでの人生において子どもを与えてくださらなかった、神さまへの怒り、抗議、また、絶望も多分に含んでいると言えましょう。この時代は、子どもが与えられないということは、その人は祝福されていないと世間に思われていました。アブラハムもサラも子どもを欲しがり、召し使いのハガルによって子どもを産ませるということをしたくらいです。しかし、しょせんその子どもはサラが直接はらんで産んだ子どもではありません。ハガルの存在はサラにとってとても疎ましいものとなってしまう、という悲しい結果を生みました。
神さま、あなたは私にこの齢になるまで、子どもを与えてくださらなかったじゃないですか。子どもを産む? 今さら何をおっしゃるのですか。冗談ではありませんよ。もう、怒る気も起きませんわ。サラのそんな深い悲しみも見えてくるようです。
しかし、アブラハムが信仰の父であるかぎり、サラは信仰の子どもたちを数限りなく産む、いわば「母親」です。彼女の不信仰は神さまの御手に取り扱われる必要がありました。13節、14節をお読みしましょう。
まず13節です。主はサラの感情をお見通しでした。主は、サラの不信仰を問題にされました。しかし、よくご覧ください。すぐそばにサラが立ってはいましたが、この厳しい質問を投げかけられた相手は、アブラハムです。
つまり、サラの信仰が確立するか否かは、アブラハムの信仰にかかっていて、さらには、その信仰をもとに、どれほど普段からアブラハムがサラを教えていたかにかかっているということです。
もともと、サラが子どもを産むというお告げを受けたのはアブラハムです。それならばアブラハムは、普段からサラに対し、あなたは男の子を産む、信じなさい、と教えるべきでした。しかし、このように主が現れて直接語られる、という、千載一遇のチャンスに、みじめにもサラは、不信仰の姿をさらしてしまいました。それはアブラハムの責任でもありました。
12節でサラはアブラハムを、「主人」と呼んでいます。この呼び名は重要です。これは第一ペテロ3章6節にある、サラがアブラハムを「主」と呼んで従った、という記述の重要な根拠になります。しかし、責任が重いのは、従う側のサラではなく、従わせる側のアブラハムです。いざというときに不信仰の態度を示してしまったサラの責任を、神さまはアブラハムに問うていらっしゃいます。
では、なぜ、サラは信じなければならなかったのでしょうか。笑ってはならなかったのでしょうか。それは14節に記されているとおりです。
まず、主にとって不可能なことがあるだろうか、いや、ない。主は全能だからです。生理が止まったすでにおばあちゃんになって久しいサラからでも男の子を生まれさせてくださり、その子から子孫を星の数のように生まれさせてくださることなど、全能なる神さまには当然おできになることです。
しかし、この全能のみわざは、神さまの時に従って行われることです。「来年の今ごろ、定めた時に」とあります。神さまがみこころによって、みわざを行われる時を定められます。サラにとってその「時」とは、90歳のおばあちゃんになったときだった、というわけです。このことにより神さまは、ご自身が全能の神さまであることをお示しになられるというわけです。
人が思い描く時というものと、神さまが計画しておられる時というものは、しばしば異なるものです。イエスさまがラザロのもとをお訪ねになるのも神さまの時に従われた結果で、そのことによって、ラザロは死んだがイエスさまによって生き返らされ、イエスさまが全能の神さまであることが示され、主のご栄光が顕された、というわけです。
私たちにしても、自分の思い描いていることが実現しないでやきもきすることもあるでしょう。しかし、私たちは忘れてはなりません。つねに実現するのは、神さまの時です。そして、それが最善なのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるとおりです。
だから私たちは、神さまが時にかなって実現してくださるみこころを信じ、握りしめているものを手離す決断もときに必要です。私たちが何らかの計画を立てることもたしかに大事ですが、それ以上に大事なのは、ヤコブの手紙4章15節にあるとおり、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と、私たちの生活のすべての領域において、その時に従ってみわざを行われる主のご主権におゆだねすることです。
さて、サラは、このように何もかもお見通しの主のおことばに、怖ろしくなりました。サラは「私は笑っていません」と言いました。しかし、主は容赦されません。「いや、確かにあなたは笑った。」
サラの不信仰は、世間の常識で考えれば、思い描いて当然のことと思われるでしょう。おばあさんが出産するだなんて! しかし、主の御目には、これは罪なのです。主のおっしゃること、主のご計画を信じていないことは、どんな理由づけをしようと、罪は罪です。
さらにその上、サラは自分の不信仰が問われると、自分は否定的な反応、皮肉な反応をしなかったと、ごまかしました。しかし、主は容赦されません。あなたは確かに笑った、あなたが不信仰の罪を犯したことをきちんと認め、悔い改めなさい、と迫られます。
あなたは確かに笑った。このお取り扱いは、私たちにも向けられています。書店のキリスト教のコーナーをご覧ください。図書館のキリスト教のコーナーをご覧ください。テレビなどで放映されるキリスト教に関する番組をご覧ください。
それらのものは相当多くが、聖書の記述が現代の科学や常識と合わないからと、むりやり合理的な説明をしていたり、さらには、聖書の記述が間違いであるかのように語ったりしています。まさに、サラのごとく、神さまが全能であることを信じず、全能の神さまに対してうすら笑いを浮かべているのです。
世の中の人々は、そういうものがキリスト教だと思わされています。しかし、それはキリスト教を「標榜」しているだけで、アブラハムが持つ純粋な信仰、子どものような信仰からしたら、あまりに距離がありすぎるものです。私たちは、書店に並んでいるからとか、図書館に並んでいるからと、それらの信仰的ではない資料に権威を覚えたりする必要はありません。
しかし、このサラのうすら笑いは、この世界に生きる私たちもしばしば心にいだいてしまうものであることを、謙遜に認める必要があります。私たちは果たして、聖書と、テレビ番組と、どちらを信頼しますでしょうか? 聖書と、家族の言うことと、どちらを信頼しますでしょうか? 私たちがこの「世間」というものに囲まれているということは、それだけ、その「世間」で通用する「常識」というものが、私たちを純粋な聖書信仰から遠ざけてしまうものであるということを、私たちは認め、そこから守られるように祈る必要があります。
本日から始まる「いのちの道コース」は、アブラハムのように純粋な信仰を持つ上で、そして、サラのように神さまのみことばに対して皮肉な笑いを浮かべない、主に喜ばれるものとなるために、ぜひとも教会全体で共有してまいりたい学びです。しっかり取り組むことで、アブラハムの信仰を受け継ぐ、すなわち、主を信じることによって義と認められる、という、その信仰を受け継ぐ、主に喜ばれる者として整えられる体験をしてまいりたいのです。
もう一度問います。私たちの信仰は子どものようでしょうか? 子どもっぽい、ではなく、子どもらしい、です。この子どもらしい信仰により、私たちは心からささげる生き方、仕える生き方をしてまいります。神さまのみことばを疑わずに、笑わずに受け入れるようになります。もし、私たちのうちに不信仰があるなら、神さまのお取り扱いの御手にゆだね、純粋な信仰を持たせていただくように、ともに祈ってまいりたいものです。
純粋な信仰――その信仰が私たちのうちにともに育てられ、神さまに喜ばれる共同体となることができますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。