とりなし手となろう
聖書箇所;創世記18:16~33 メッセージ題目;とりなし手となろう 先日、東京を中心に「路傍伝道」、道行く人々に福音を伝える働きをなさっている、菅野直基先生という方とお話しする機会がありました。路傍伝道を展開される際の苦労話などいろいろお伺いしましたが、中でも面白い、というか、クリスチャン生活全般において実に示唆に富むできごとについても分かち合ってくださいました。 それは、とりなしの祈りの持つ力についてです。それは原宿の竹下通りで伝道していらっしゃったときのことだそうですが、道行く人々にチラシを配ろうとしてもなかなか受け取ってくれない。ちょっと、霊的な妨げのようなものを感じたのだそうです。 すると、その伝道チームのうちの何人かが、とりなしの祈りをすることを買って出て、祈りはじめました。すると、不思議なように、するするとチラシを配ることができるようになったそうです。このことについて菅野先生は、イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、とりなしの祈りをささげるモーセの天に挙げた手を両側から支えた、アロンとフルのようだったとおっしゃいました。 今日は、とりなしの祈りについて学びます。本日の箇所のアブラハムの姿から、私たちもとりなして祈る者となるために何を学ぶべきか、ともに見てまいりたいと思います。 先週学びましたとおり、神さまと御使いたちの一行が、アブラハムのもとを訪ねてきました。そのとき、サラの不信仰が取り扱われたというのが、先週学んだ内容です。今週の箇所は、それに引きつづく箇所で、主はアブラハムに語っておられます。これもまた、主がアブラハムのもとを訪ねてこられた目的でもありました。 16節です。……主はソドムを見下ろしておられました。神さまが来られた目的は、ソドムに対するさばきにありました。このことについてはあとで詳しくお話しするとして、17節以下の主のみことばをまず見ておきたいと思います。 17節のみことばです。……主はすべてを超えて存在される、大いなるお方です。まことに、主のみこころは計り知れません。だからこそこのお方は、神さまであると言うことができるでしょう。しかし、このお方はときに、みこころにかなう人に対し、その隠されたみこころをお示しになることがあります。 このとき、主がアブラハムを選び、そのみこころをお示しになったこともそうでした。アブラハムが主のみこころを知ることができたのも、まさしく、主の一方的なあわれみのゆえでした。 私たちも、神さまの隠されたみこころを受け取ることができます。それは、聖書に余すところなく示されています。ただし、私たちがみこころを受け取るには、この聖書が誤りなき神のみことばであると受け入れていることが条件になります。 まさしく、アブラハムが目の前におられる方のお声を主のみことばと受け取れたように、私たちも、この聖書のことばを神のことばとして受け取ることです。主は、大いなるみこころを、私たちに示してくださいます。 それでは主は、何をアブラハムに隠さないで示してくださったのでしょうか? それはソドムとゴモラに対するさばきですが、その前提として、神さまがどれほど、アブラハムを特別な存在として選んでおられたか、そのみこころが描写されたみことばが登場します。それが、17節から19節のみことばです。 18節をご覧ください。主はアブラハムとその子孫を祝福されることを宣言されました。この宣言は、すでに、創世記12章、13章、15章、17章で語られ、聖書に記録されているだけでも5度目になります。主がこの年老いたアブラハムから祝福の子孫を生まれさせてくださるということを、これでもか、これでもか、と語ってくださったのでした。 私の神学生時代、弟子訓練という形で私の霊的ケアをいっしょうけんめいしてくださった牧師先生、ホン・ジョンギ先生という方は、よくおっしゃっていました。神さまとアブラハムとの関係について、それはアブラハムが神さまに「説得される」プロセスだった。とても印象に残るおことばでした。 アブラハムは信仰の父として選ばれましたが、何かの折に人間的な不信仰が現れてしまうものでした。しかしそのようなアブラハムのことを神さまは決してあきらめることはなさらず、これでもか、これでもか、と説得してくださり、そのようにしてアブラハムは、信仰の父としての成長を遂げることができたのでした。 私たちの歩みもそうです。私たちも信仰によって歩むことが必要であると知っていても、なんと人間的、肉的になってしまうものでしょうか。しかし、神さまはそんな私たちのことを諦めることはなさいません。何度でも、何度でも、私たちをみことばによって説得してくださり、信仰者としての道に戻してくださいます。 私たちもこの主の恵みに感謝こそすれ、甘えることはせずに、主の御声をお聞きする歩み、信仰者としてつくりかえられる歩みをとどめないでまいりたいと思います。 もう少し、アブラハムへの祝福の内容を具体的に見てみましょう。18節にあるとおり、アブラハムは強く大いなる国民となります。しかしそれは、自分たちだけが祝福されて、あとは祝福されない、という意味ではありません。「地のすべての国民は彼によって祝福される」とあります。 祝福をもたらす権威が与えられている、ということは、大いなることです。もし、その人が祝福を祈ったら、その祈られた対象は祝福されるのです。その存在に対して神さまがみこころを注がれるのです。実に、神の人の祈りには、絶大な力があります。このことについては、あとの箇所で大事な意味を持つようになりますので、まずは覚えておいていただければと思います。 しかし、神さまがひとたび選ばれたならば「自動的に」祝福され、地上に祝福をもたらす存在になるかといえば、それはちがいます。19節をご覧ください。神さまがアブラハムを召し出された理由が書かれています。……まず、アブラハムがその子どもたちとのちの家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるため、とあります。 正義と公正。これが主のみこころです。しかし、これは神の民としてひとたび選ばれたならば、自動的に実践できるものではありません。そうと意識して守り行なうことが必要になります。それは、一歩間違えると、まったく正反対のこと、罪を行うようになってしまうからです。 イザヤ書5章7節を見てください。実は、「公正」と「流血」、「正義」と「悲鳴」は、表裏一体ともいえるものです。ヘブライ語で「公正」は「ミシュパート」に対して「流血」は「ミスパーハ」、そして「正義」は「ツェダーカー」に対して「悲鳴」は「ツェアーカー」、もちろんこの両者は、ヘブライ語の文字で書いてもよく似ています。 「公正」や「正義」は、神の民だからと自動的に備えることができるものではなく、むしろ、神の民であるぶん、より責任をもって「公正」や「正義」を行うべく主のみことばを積極的に守りなさい、と警告されているわけです。 そのようにして、正義と公正を行うことによって主のみことばを守ることは、どのような結果をもたらすでしょうか? 主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就する、とあります。 まことに、信仰とは、みことばを守り行なうことによって完成されるものです。間違ってはなりませんが、行いを積み重ねて救われるのではなく、救われるのはあくまで、信仰によることです。しかし、ひとたび信仰によって救われたならば、その信仰による救いのあまりの素晴らしさに、みことばを行わずにはいられない……信仰は、行いという形で生活に実が結ばれてしかるべきです。このあたりのことは、あとでおうちにお帰りになって、ヤコブの手紙をお読みいただきたいと思います。 さて、20節にまいりましょう。ここで主が、アブラハムに隠さないで伝えようとされたみこころが登場します。そうです、このソドムとゴモラの悪は、主のみもとにまで立ち上っていました。この町を滅ぼすべきか見てみるつもりだ、という、神さまのみこころを、主はアブラハムにお示しになりました。 神さまはときに、滅びをもたらすお方である……しかし、こういう聖書箇所を読むと、必ずこんな反応をする人がいるものです。残酷だ! 人を滅ぼすなんて、そんな神さまは残酷だ! そんな神さまなど信じるものか! しかし、それなら、そういう方々に問いたいのです。悪を放置することが神さまの愛なのでしょうか? 悪が放置されているならいるで、問題にはならないでしょうか? なぜこの世界にはこんなにも悪があふれているのか! 神はいるのか! そういうことにならないでしょうか? 聖書は、そのような悪の中にいる者たちに対して、神さまは速やかにさばきを行われるお方であると語っています。私たちが信じるべきは、このさばき主なる神さまです。恐れるべきお方です。私たちも本来、神さまのさばきを受けるに値する罪人であったことを覚える必要があります。 しかし、このみこころが示されるや、アブラハムは神さまの前に立ちはだかりました。23節です。 もし、悪い者がその悪さのゆえに滅ぼされるならば、ある意味、彼らは自分のその悪の責任を取らされたということであり、しかたのないことでしょう。しかし、その中に正しい人、すなわち、神さまのみこころにかなった人がいて、その者たちまで彼らの巻き添えになるとしたらどうでしょうか。あってはならないことです。それこそ、神さまご自身の正義と公正はどこにあることになるのでしょうか。 アブラハムは、神さまが正義と公正のお方であることに訴えました。正しい人が50人いれば滅ぼさないでください! すると、神さまはこの訴えを聞いてくださいました。26節です。その人たちのゆえに、その町のすべてを赦そう。 むかし読んだ本、それは聖書に関するキリスト教書籍というよりも、一般の世界史の謎のような本でしたが、神さまが悪に満ちたソドムとゴモラを天の火をもって焼き滅ぼされたという記事の中に、このようなことが書かれていました。「現代だったら、何度でも焼き滅ぼされているのではないだろうか。」 みなさま、そう思いませんか? このところ妻と私は、世界にどれほど悪がはびこっているか、そのようなニュースばかりに接して、暗澹たる気分になっています。今にも神さまは、こんな悪い世界など、滅ぼし尽くすのではないかと思えてならなくなります。しかし、神さまはまだあわれみをもって、この世界を滅ぼさないでいらっしゃいます。それは、神さまの御目から見て正しい人の数が、まだこの地に満ちているからではないでしょうか? イエスさまは、あなたがたは地の塩です、とおっしゃいました。地の塩とは、この世を腐敗から救う防腐剤としての役割をする存在です。食べ物が腐らないように塩するには、たくさんの塩を使う必要はありません。少しでも充分に腐らなくなります。それと同じで、私たちクリスチャンは少ないように思えるかもしれませんが、それでも私たちが塩としての役割を果たすことによって、この世界は腐敗から免れます。まさに、ソドムに50人の義人がいれば、彼らに免じて主はすべてをお赦しになるのです。わずかの義人の存在は、どれほど大事なものでしょうか。 しかし、もしかすると義人は50人もいないかもしれない。そうなったら、神さまは滅ぼされよう。しかし、それであきらめるアブラハムではありませんでした。まず27節です。 まず、祈る者にとっては、この認識が必要です。アブラハムは信仰の父として選ばれていますが、神さまの御目にはちりや灰にすぎません。神さまに何か申し上げられるような立場になどありません。そのことを悟ることが、主の御前に出る上での第一条件です。自分はひとかどの人間のように思う態度では、主の御前に出る資格はありません。 アブラハムは、ちりや灰であると告白しました。自分がそのような存在であると、心底知っていました。しかし、ソドムとゴモラを主の怒りの日から救えるかどうかは、自分の祈りにかかっていることも知っていました。さきほども学びましたとおり、地のすべての国民がアブラハムによって祝福されることがみこころである以上、彼はソドムとゴモラの祝福を祈らなければならなかったのでした。 しかし、神さまが受け入れられた条件は、義人50人でした。この条件に不足するということは、すなわち、神さまがお赦しになる条件を満たしていない、ということを意味します。アブラハムは、その条件にやや不足して、義人が45人ならば、それでもあなたさまは滅ぼされるのですか、と、神さまに食い下がりました。 神さまはアブラハムの祈りを聞かれました。滅ぼしはしない。 しかし、アブラハムはそれであきらめることはしませんでした。40人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめませんでした。お怒りにならないでください。30人なら? 滅ぼしはしない。 まだあきらめません。あえて申し上げます。20人なら? 滅ぼしはしない。 あのソドムとゴモラに、義人がたった20人。悪が圧倒している状態です。その悪は依然として、主のみもとに立ち上ることでしょう。しかし主は忍耐して、その20人のゆえに町を赦すと約束してくださいました。しかしそれでも、アブラハムはあきらめませんでした。32節です。 しかし、これで主はアブラハムのもとを去って行かれました。アブラハムも帰りました。これが主のみこころだったので、受け入れるばかりでした。 もちろん、これほどまでにアブラハムが祈りつづけたのは、愛する甥のロトの存在を思ってゆえでした。彼には助かってもらわなくては! 天から炎が下ってはおしまいだ! しかし結果として、ソドムとゴモラには天から火が下りました。そうです。義人は10人もいなかったのです。ロトの家族しかいませんでした。ロト自身、ロトの妻、ロトの2人の娘、その夫たち……合わせて6人。逃げなさい! 主の命令が下りました。しかし、ロトの婿たちはソドムの滅亡を冗談ととらえて信じようとせず、結局、御使いに連れ出されるしかなくなり、連れ出されたのは、ロトの妻と娘たちだけ、しかも、ロトの妻は主のみことばを守らず、死んでしまいました。その娘たちもあとになって、極めて不道徳な形で子どもをもうけるということをしており、その子孫はイスラエルに敵対する民族となりました。ほんとうの意味で正しいだったのは、第二ペテロ2章の語るとおり、ロトでした。 アブラハムは、ロトに助かってもらいたい一心で、とにかくとりなしの祈りをささげました。50人なら! 45人なら! 40人なら! 30人なら! 20人なら! 10人なら! 実に6度も食い下がりました。 みなさま、こんな悪い世界など滅ぼされるのがみこころだ、自分たちはどうせ、この悪い世界から救われて天国に行くのだから関係ない、などとお考えではないでしょうか? それは絶対に主の願っておられる態度ではありません。私たちは世界を祝福する立場にあります。とりなして祈る立場にあります。 残念なことに、私たちの生きて暮らしている世界は、とても悪いです。どれほど多くの人が、神さまのみこころを損ない、その道を乱していることでしょうか。しかし私たちは、この世界にやがて主がもたらすと警告された火のさばきを、ただ待っているだけでいてはなりません。とりなして祈る必要があります。神は愛です、とみことばが語るとおりの、その神さまの愛によりすがって、どうかこの世界を滅ぼさないでください、この世界から正しい人を救い出してください、と、祈るのです。 神は愛、ということは、私さえ愛されればそれでいい、ということでは、絶対にありません。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 これがみこころです。間違ってはいけません。神は愛なのです。しかし主は、やがてこの世界を火をもって滅ぼすときのことを、みことばにおいて警告されています。その日に、義人として主の御前に立つべき人が滅ぼされてはなりません。 私たちは、愛する人のために祈っていますでしょうか? ちょっと祈っても救われないからと、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることをやめていないでしょうか? あるいは、この世界がよくなるように祈っても、少しもよくならないから、ああ、みこころじゃないんだ、と、祈ることを諦めてはいないでしょうか? それは、地に祝福をもたらす責任を放棄していることです。いざとなればロトのことを特別に滅びから救い出された主は、この世の終わりの滅びからも、私たちの愛する人たちを救い出してくださいます。私たちはそう信じているならば、粘り強く、祈ってまいりたいものす。それが、信仰によって生きる、祝福の源としての私たちの生きる道です。…