救われよ、神をも恐れぬ世代から
聖書箇所;創世記19:1~38 メッセージ題目;救われよ、神をも恐れぬ世代から 日本と西洋の神観を端的に示すエピソードを、私は以前、ある本で読んだことがあります。第二次世界大戦のころだそうですが、同盟国どうしである日本とドイツの軍人どうしが、自慢比べをしたそうです。ドイツの軍人は言いました。「私は、神以外の何ものも恐れない。」これに対して、日本の軍人は言ったそうです。「私は、神をも恐れない。」日本の軍人は勝ったつもりなのでしょうが、ドイツの軍人に嗤われたそうです。 みなさん、日本人ならこのようなことを言いそうだと思いませんか? 私は神をも恐れない。しかし私たちはクリスチャンとして日本という国を見るとき、政府にせよ国民にせよ神をも恐れないために、どれほど不幸になっていることかと思いませんか? 神を恐れないことは、すべての罪の根源です。これは日本にかぎりません。古今東西、神を恐れない国や民族が、どれほど存在してきたことでしょうか。このような民は、旧約聖書の創世記の昔から、既に存在しました。先週、そして今週と学んでいますソドムの町など、まさにその典型的な例です。 先週学びましたとおり、アブラハムはこの町が滅ぼされないようにと祈りました。それは、義人が少しでもいれば、その義人もろとも滅ぼすことは主のみこころではないのだから、ということで、主はアブラハムのひざ詰めの祈りに、10人でも義人がその町にいるなら滅ぼさない、と、約束してくださいました。 さて、そのソドムとはどのような町だったのでしょうか? まず、主の使いは、ソドムの町を訪れました。ロトがソドムの門のところに座っていると、御使いがやってきました。ロトは彼らが御使いであることがわかりました。ロトはしきりに勧め、彼らを家に招き入れ、食事をもってもてなしました。 これは、先々週アブラハムのエピソードから学んだことと同じです。ロトは、主の使いをそうと認め、もてなしました。もてなすということにおいて、彼は模範を示しています。しかし、問題なのは、そのもてなしは行き過ぎ、といいますか、ピントの外れた方に行ってしまっていた、ということです。 4節、5節をご覧ください。……彼らをよく知る、とは、婉曲的な表現です。これは、彼らは主の使いだからいろいろ教えてもらって、神さまに対する知識を増し加えたい、という意味ではありません。彼らと性行為に及びたいから引き出せ、ということです。 アブラハムやロトをご覧ください。彼らはちゃんと、この訪問客が神の使いであることを知っていました。ところが彼らソドムの者たちは何でしょうか。よりにもよってこの聖なる存在を、性欲を満足させる存在と見ているのです。神をも恐れぬ、とは、このことです。この存在を犯す、われわれ神の民にとっては、震え上がるほど恐ろしいことを、彼らはしようとしていたのです。 罪は特に、性的に粗暴になることで現れます。それはとりもなおさず、人間のことを、性欲という自分の欲望のために粗暴に扱うことを意味します。人間とは何でしょうか。神のかたちです。神のかたちを性的に粗暴に扱うのです。いわんや、ロトのもとを訪ねてきた彼らは、神の使い、すなわち神の顕現でさえあります。神の顕現が性欲のはけ口にしか見えないとは、ソドムの者たちは、どれほど呪わしいことでしょうか。 たとえば同性愛や強姦といったことが問題になるのは、それが神のかたちである人間に対する「アビューズ」であるからです。アビューズ、ということばは「虐待」と訳されますが、この「アビューズ」という英単語を分析すると、アブ、異常に、ユーズ、用いる、すなわち、性的に異常な用い方をすることが、問題となるのです。神のかたちである人を異常に扱うから虐待となるわけですが、ともかく、このソドムの連中のように、性的に異常なことは「アビューズ」であり、これは、人が何と言おうと、どんなに美化しようと、神さまの視点、聖書の視点から見るとそうなります。 私たちが普段、当たり前のように接している、映画やテレビ番組や音楽、小説のような文学、演劇、雑誌やインターネット、これらのものには、性的に堕落した文化が詰め込まれていて、あたかも、性的に堕落することは仕方ないとか、格好いいとか、そういうように喧伝します。私たちクリスチャンはそのようなこの世の毒に慣らされてはいないでしょうか? この創世記19章、合わせて38節分の短い箇所の中に、いろいろな立場の人物が登場しますが、私たちはだれに似ていますでしょうか? よもや私たちは、このソドムの連中のような存在に与(くみ)する者となってはいないでしょうか? 私たちは、私たちのうちに形づくられている神のかたちを、アビューズしてはなりませんし、神のかたちをアビューズするこの世の文化を格好いいとか、しかたないなどと考えては決してなりません。もし、そう考えていたならば、私たちはすぐにでも悔い改める必要があります。それを格好いいなどと考えるならば、神のみこころにかなって物事を考え、判断すべき私たちの霊、また頭脳を、それこそ「アビューズ」していることになります。 しかし、「アビューズ」という点では、ロトも同じだったようです。ロトは、自分の処女の娘たちを差し出そうとしました。そうまでして、御使いたちを彼らの魔の手から守ろうとでも思ったのでしょうか。しかし、これはとんでもないことです。あまりに人間的で、罪深い解決策というものです。 結局、11節にあるとおり、御使いたちはソドムの連中に目つぶしを食らわせ、ロトの一家を守りました。御使いが人間どもによって何か悪いことをされることなど、ありえないことでした。このことは、主がそのご主権によって敵をさばかれるのであって、それに対して人間が何か愚策を弄するべきではないことを示しています。 ロトのこの、いざというときにめちゃくちゃな判断をする性質は、おそらく、一族にも伝わっていたのでしょう。14節にはロトの婿たちが登場します。この婿たちは、ロトとひとつ屋根の下で暮らしている娘たちの「いいなずけ」と解釈するのが、いちばんしっくりきます。実際、口語訳聖書ですとか、尾山令仁先生の訳された現代訳聖書ですとか、いくつかの聖書の訳を見てみますと、この「婿」は、この時点ではまだロトの娘と結婚していない立場として訳されていますし、原典のヘブライ語からもそのように訳すことが可能です。 ともかく、ロトはこの未来の花婿たちを説得しようとしました。しかし、彼らはこのさばきの知らせを本気にしませんでした。悪い冗談、とありますが、別の訳では「たわごと」などと訳しています。このことは、ロトが普段、一族に対していかなる霊的リーダーシップを発揮していたかを、如実に示してはいないでしょうか? いざというときの真剣な話でさえ、信じてもらえないという。結局、彼らは本気にしなかったことにより、天からの火によって焼き滅ぼされてしまいました。 さて、ロトが婿たちを訪ねたのは、12節にあるとおりの、御使いの警告があったからでした。「あなたの婿や、あなたの息子、娘、またこの町にいる身内の者をみな連れ出しなさい」とあります。しかし、ロトが声をかけたのは、19章全体を読んでも、婿たちだけのようです。 それなら、ロトには息子、娘がいるのに、声をかけなかったのでしょうか? それとも御使いたちは、全能の主の知恵が与えられているはずなのに、ロトに息子や、家の外に暮らす娘、あるいは一族はいないことを知らなかったのでしょうか? これは、この聖書箇所の前後関係から考えると、ロトには息子や、一緒に暮らしていない娘はいなかったと考えるべきです。声をかけているのは婿たちだけだからです。それでも御使いたちがそのようにロトを促したのは、これは、ロトひとりの問題ではなく、後世になってこのみことばを読むすべての人、ひいては私たちに対する警告のためではないでしょうか? コリント人への手紙第一10章11節には、旧約聖書の記述は何のためにあるのかということが書かれています。このように語られています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」 私たちは、創世記19章のこの記述からどのような教訓をいただくのでしょうか? 息子や娘、婿のような身内の者がいるかぎり、この世の終わり、崩壊を警告する使命が与えられている、ということにならないでしょうか? 私たちは、愛する家族を救うのです。そのために、語るべきことを語るのです。 もちろん、その警告をどう受けとるかの責任は、最終的に彼らが負うことになりますが、それでも私たちには最低限、彼らを説得する責任があります。もちろん私たちには、それを冗談と取られないような、説得の知恵も必要ですし、何よりも、そのリーダーシップに信頼してもらえるだけの信頼関係が必要です。ロトのように、冗談としかとられなかったら、それこそ終わりです。 結局、婿たちの説得に失敗したロトは、それでもぐずぐずしていました。しかし彼は、御使いたちにせき立てられ、ついには妻、そして二人の娘とともに、手をつかまれて連れ出されます。これは、主のあわれみによることであると、16節のみことばは語ります。 私たちはこの世に滅亡が訪れることを、本気で信じているでしょうか。残念ながら、私たちはまだ、この世界というものを買いかぶっています。まだ、この世界がよいものであるかのように思っています。しかしはっきり申しますと、これほど堕落した世界をまだ神さまが滅ぼさないでいてくださっていることは、神さまのあわれみ以外の何ものでもありません。 私たちは、聖書全体に記された神さまの怒りというものに目を留めるならば、どれほどこの怒りからかくまってほしいと思うことでしょうか。イエスさまの十字架に逃げ込まなければと思うことでしょうか。 しかし、この世界に注がれる怒りから人が救われるのは、ひとえに神さまのあわれみによることです。私たちの努力以前の問題です。神さまはみこころのままに人を救い、人を用いられます。私たちも人の救いのために用いられることを願い、祈って行動しますが、その結果だれかが救われたならば、それは私たちの努力の結果以前に、神さまがその人をあわれんでくださったからです。私たちは自分の行いを誇るのではなく、神さまのあわれみに感謝すべきです。 実際、私たちにしても、そのような神さまのあわれみによって救っていただいた存在です。しかし、救っていただいたならば、あとは何をしても許されるのではありません。いのち拾いをさせてくださった神さまのおっしゃることに従うべきです。ロトの話に戻りましょう。このとき御使いは、ひとつのことをロトに命じられました。17節です。 滅びというものは、私たちが考える以上に壮絶なものです。しかし、この世というものの持つ魔力は、なんとわれわれのことを惹きつけてやまないことでしょうか。私たちは世界が滅びに定められていると知るかぎり、そこから全力で逃げ出すべきなのに、まだこの世に未練を持ち、やり残したことにうじうじと拘泥するのです。 結局、ロトの妻はみことばを守らず、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。そんなにとどまりたければ、そこに永久にとどまるがいい、柱にして永久に立たせてやるから……そのような主のさばきが下ったかのようです。私たちがもし、天国よりもこの世を愛するならば、このようなさばきが下されてもなにも文句が言えないことになります。 一方、ロトは別の意味で不信仰でした。御使いははっきり、山に逃げなさい、と言っています。御使いがそう言った以上、どんなに天からの火が迫ってきていても、全力で逃げるならば逃げられるのです。要は、ありったけの力を込めて逃げることです。自分を救うために死力を尽くすのです。しかしロトは、私たちはきっと山にまで逃げることはできませんから、あそこにある小さな町に逃げさせてください、と御使いに楯突きました。 しかし御使いはそのことばを聞き入れ、ロトがその町、ツォアルに逃げるまで、さばきの手を下すことはしませんでした。これも主のあわれみによることです。しかし、ロトはそうなるまで、二重の間違いを犯しています。まずロトは、主のみこころを信じず、主のおっしゃるとおりにするならば滅びる、と言っています。これは不信仰です。 そればかりではなく、自分の考えに従って、別の提案をしています。小さな町に逃げさせてください、と。これは、神さまのみこころよりも自分の考えを優先させる、不従順です。不信仰と不従順、ロトはそういう2つの罪を犯したのです。しかし神さまは、そんなロトの言うことを聞いてくださり、ロトのことを救われたのでした。 神さまが救ってくださったのは、なぜだったのでしょうか。29節のみことばをお読みしましょう。……それは、神さまと契約を結んだアブラハムのゆえでした。 先週のメッセージでも少し触れましたが、ペテロの手紙第二2章7節のみことばは、以上見てきたとおり、これほど信仰的におかしかったロトのことを、それでも「義人」と呼んでいます。その根拠として、ソドムの連中の振る舞いに心を日々痛めていたことを続く8節で挙げていますが、彼がそのような良心を持てるほどの義人だったのは、ひとえに、アブラハムのとりなしの祈りがあったからです。神さまはアブラハムのその義に目を留めてくださり、ロトをこの滅びの中から救い出してくださったのでした。 だが、そのようにして滅びから救っていただいたロトは、きわめて不道徳なことを行いました。娘たちが自分たちの子孫を残そうと、こともあろうに父親であるロトと性行為をして、妊娠しました。それはロトにしてみれば、お酒に酔った上でのことであり、ロトは自分が何をしたか全くわからなかったとみことばは語りますが、だからといって、彼がしたことは免責されるものではありません。立派な罪です。酒の上でとばかりにセクハラやパワハラを働くおじさんがいますが、それが許されることではないのと同じです。 ロトが娘たちにはらませた子どもは、モアブ人とアンモン人の先祖となりました。この両民族は旧約聖書を読めばわかるとおり、イスラエル民族に激しく敵対する存在となりました。どれほど敵対したか、それは、申命記23章3節から6節に書かれているとおりで、彼らの祝福を祈らないことは主の命令ですらありました。 しかし、このような中にも、主のあわれみは注がれました。モアブ人の女性、ルツは、マフロンというイスラエル人に嫁いだことから主の会衆につながる道が開かれ、のちにイスラエル人のボアズと再婚したことで大きな祝福を得て、その子孫にダビデ王が生まれました。そのダビデの子ソロモンのあとを継いだ王レハブアムは母親がアンモン人のナアマという人であり、つまりソロモンはアンモン人の女性との間にあとつぎをもうけたことになります。 すると、どういうことになるでしょうか? ダビデ王家はモアブ人とアンモン人双方の血が流れていることになります。このダビデ王家のすえにおられる方はどなたでしょうか? イエスさまです! ということはイエスさまの先祖は、モアブ人でもあり、アンモン人でもあるのです。 全能の神さまの御前に、宿命ということはありません。神さまはみこころのままに人をお救いになり、人を立てられます。こんな血筋に生まれたから絶望するしかない、ということは、主にあってあり得ないことです。…