寄留者の祝福

聖書箇所;創世記21:22~34/メッセージ題目;寄留者の祝福 今日のメッセージのタイトルは、「寄留者の祝福」とつけさせていただきました。「寄留者の祝福」とは、「寄留者の受ける祝福」であり、「寄留者の与える祝福」です。 アブラハムは、神さまから祝福の源として召されていました。それは、アブラハム自身が祝福を受けるということであり、同時に、アブラハムが祝福を人々にもたらすということでもありました。しかしその祝福は、どこかに定住してもたらしたものではありません。天幕生活、放浪の生活の中で、祝福を受け、祝福をもたらしたのです。 さきほどお読みしたみことばは、そのようなアブラハムの「寄留者の祝福」を、如実に描いています。このみことばから「寄留者の祝福」を、「寄留者の受ける祝福」と「寄留者の与える祝福」の2つの側面から学んでまいりたいと思います。 まずは、「寄留者の受ける祝福」です。22節をご覧ください。……アブラハムの受けていた祝福は、この地の王であったアビメレクも認めざるを得なかったようなものでした。 それはそうです。アブラハムは100歳にして、90歳の妻サラを通じて子どもをもうけました。そのプロセスで、当のアビメレクがサラに指一本ふれることを神さまはお許しになりませんでした。そしてアブラハムは無事子どもイサクをもうけました。さらには、イサクが跡取りになることにおいて最大の障害であったイシュマエルは去りました。 アビメレクはその様子を見て、アブラハムの背後にはどれほど、神の見えざる手が働いていることかを感じずにはいられなかったことでしょうか。 アブラハムは、ゆえなく祝福されていたわけではありません。創世記12章の1節と2節をご覧ください。……聖書に記録されているかぎり、アブラハムがお聴きした最初の主の御声は、このように語っておられたのでした。わたしはあなたを祝福する。あなたは祝福となりなさい。 アブラハムが祝福されることは、最初から神さまによって定まっていたことでした。主は与え、主は取られる。私たち人間が祝福されるかどうかは、すべて神さまにかかっています。 私たちはどうでしょうか? 私たちは祝福を受けた存在です。最大の祝福、それはイエスさまの十字架を信じる信仰が与えられ、罪赦されて神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられた、ということです。 しかし、このことが祝福であることを実感するには、どのように生きる必要があるでしょうか? そこで私たちは、「神の栄光を顕す」生き方をする必要があります。私たちのことを罪から贖い出してくださった神さまの、その素晴らしさを、私たちの生き方によって、隣人に証しするのです。 お開きにならないでよろしいですが、マタイの福音書5章16節で、イエスさまはこのようにおっしゃっています。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」 光は闇の中に輝いています。闇の中を生きているかぎり、私たちはこの世にあってつまずき倒れます。しかし、光に照らされているかぎり、私たちは安全です。神さまの導きをいただいている確信を持って、日々を生きる力が与えられます。 世界はサタンの支配のもとにあり、そのために人々は悪の道を歩み、あるいは搾取され、塗炭の苦しみを味わっています。この世界にあって、私たちがイエスさまにあって解放された生き方を示していくならば、人々はそのような私たちの生き方を見て、私たちの信じる神さまが素晴らしいことを知るようになるのです。 私たちは、自分が祝福されていることをどれほど知っていますでしょうか? 私たちが聖書を読むこと、お祈りすることは、その、神さまの宝物のような自分の価値を発見させていただくことであり、そのような自分が人々に神さまのすばらしさを顕すということにおいて、神さまの御手に用いられるという、祝福の道に踏み出していくことでもあります。 アブラハムとアビメレクの話に戻りますと、アビメレクはアブラハムの姿を見て、いやでも、そこに神さまが生きて働いておられたことを見るのでした。 そこで、「寄留者の祝福」を、こんどは「寄留者の与える祝福」という側面から見てまいりたいと思います。 23節のみことばを見てみましょう。……あなたは何をしても神がともにおられる。だから、私と私の子孫を裏切らないでいただきたい。私があなたに示した誠意にふさわしく、私にも、この土地にも、誠意を示していただきたい。 このようなことをアビメレクが言った背景には、明らかに、アブラハムの偽ったことばによって、危うく自分がサラを召し入れて、いのちを失うところだったという、アブラハムに対する叱責が込められています。アブラハムは確かに祝福されている。しかし、あなたの祝福、うまくいっていることが、すなわち私とその民に対する呪いとなってはたまらない、私とその民も、主にあって祝福されるようにしていただきたい、ということです。 先々週も学びましたが、アブラハムはアビメレクとその民を、創造主なる神さまを恐れることがないゆえに私のことを殺すような者たちだ、と断じました。まるで野蛮人のような扱いです。しかし、実際はそうではありませんでした。アブラハムは確かに祝福されていましたが、神さまを恐れていたという点では、アブラハムよりも、アビメレクとその臣下の方が上でした。 アビメレクは確かに、アブラハムの姿に創造主なる神さまの栄光を見ることができたのですが、その神の栄光を正しく表すことをしていなかったアブラハムのことは難じました。あらためてアビメレクは、アブラハムが誠意を尽くすことで神の祝福が自分とその民に臨むように、すなわち、呪いから自由になるように、アブラハムに要請したのでした。 私たちが隣人に対して神の栄光を顕すことは、隣人をさばいたり、蹴散らしたりするような形になってはなりません。人々は神さまにお従いする私たちの姿を見て、何やら特別な力が働いている、と思うかもしれません。それはありえることです。 しかしそんな当の私たちが、周りの未信者のことを、イエスさまを信じていない、救われていないなどと、見下したり、さばいたりしていいわけがありません。私たちのすることは愛することであり、さばくことではありません。 しかし、私たちは時に、そのようにまるでパリサイ人のごとく振る舞う自分の傲慢さが、事もあろうに未信者によって指摘されることがあります。そのようなとき私たちは、神の栄光を隠してしまった、とか、証しにならないことをしてしまった、などと、落ち込む必要はありません。 私たちのすることは、そのような傲慢な自分を神の前でも人の前でも素直に認め、悔い改めることです。私たちは所詮、まだまだ整えられている段階にある者です。そうして私たちは、神の栄光を顕す者としてますます整えられます。これは祝福です。 そもそも、神さまは私たちの不完全さによって、そのご栄光が隠れてしまうような小さい方ではいらっしゃいません。 アブラハムは嘘をつき、その結果アビメレクとその民に破滅をもたらしかねないことをしたわけですが、それでもアビメレクは、アブラハムの神なる創造主を、かえって認めています。神の栄光をアビメレクは見ているわけです。 神さまは、そのご栄光を顕すべく遣わされた人間の卑小さを超えて、ご栄光を輝かせるお方であることを覚えましょう。私たちはなにも、人間的な努力をして神の栄光を輝かせようしたり、輝かなかったからと落ち込んだりなどしなくてもよいのです。 アブラハムの話に戻りますと、アブラハムはアビメレクに促されて、アビメレクとその子孫を裏切らない、そして、アビメレクにもその土地にも誠意を尽くすことを誓いました。これで、アブラハムの受ける祝福はアビメレクにとって呪いではなく、祝福となったのでした。 しかし、アブラハムには解決すべき問題がありました。自分が掘った井戸がアビメレクのしもべに奪い取られたというのです。アブラハムは、これは不当であるとアビメレクに抗議しました。 井戸というものは、掘るのに相当な労力を必要とします。しかし、荒野の中で井戸を掘ることをしないならば、遊牧生活をしていたアブラハムにとっては自分の家族やしもべたち、家畜に飲ませる水が確保できないことになり、死活問題です。アブラハムにはどうしても井戸が必要でした。 しかし一方で、アブラハムの寄留していた土地はゲラルの地、アビメレクのものです。アビメレクのしもべたちが、この土地に掘られた井戸の所有権を主張するのは、当然といえば当然のことでした。アブラハムにしてみれば、取られた、奪われた、という意識が強かったでしょうが、アビメレクのしもべたちは、アビメレクの土地を管理する者として、当然のことをしたまででした。 しかし、26節をご覧ください。アビメレクは、そのことは知らなかったし、あなたもそのことを今まで私に告げてはくれなかった、と、反論しています。アビメレクは、それは知らなかったのだから私を責めないでほしいと主張している一方で、もし必要ならばあなたに返還する用意がある、ということも語っていることになります。話が分かる人です。 アビメレクのしもべたちが遊牧生活を送るアブラハムから井戸を奪ったということは、おまえはもうこの土地にいるな、というメッセージを送っていることにもなります。 このような反応は、かつてアビメレクがアブラハムからサラを取って召し入れようとしたとき、あやうくアビメレクにも主のさばきが及ぼうとして、それを聞いたしもべたちも大いに恐れたことと考え合わせると、どうなるでしょうか? アビメレクのしもべたちもまた、アブラハムがあらゆる形で主の祝福を受けていたことを見ていたはずです。そんなアブラハムの姿に、彼らは恐れをいだいたでしょう。このままでは自分たちの土地も奪われるかもしれない、それも不当な形で、なにしろ、サラの一件でもあれだけ不当なことをしたというのに、結局は創造主なる神の祝福を受けているではないか……。 このようなとき、彼らの取る手段は二つに一つです。ひとつは、アブラハムの神である創造主の御前にひれ伏すこと、もうひとつは、創造主を恐れるあまり、創造主の寵愛を一身に受けているアブラハムを遠ざけることです。彼らが取ろうとした手段は、後者、アブラハムを遠ざけることでした。出ていけ。この井戸は、われわれの土地に掘られたものであるかぎり、われわれのものだ。 しかし、アビメレクはそのようには考えませんでした。アブラハムの掘った井戸は、あくまでアブラハムのものであると見なしました。あらゆる面で神がともにおられるアブラハムに、彼が採掘した井戸の所有権を与えることにより、アブラハムが寄留するゆえに神さまがその土地に注がれる祝福を、ともに享受する道を選びました。 ただしアブラハムは、その井戸をただで返してもらうことはしませんでした。自分の群れの中から羊と牛を取って、アビメレクに与えました。これが両者の間の契約となったのでした。アビメレクは土地を提供し、アブラハムは家畜を提供する、そういう契約です。 このことにより、アブラハムはアビメレクの治める土地から井戸水をくみ上げ、しもべたちや家畜とともに土地に寄留することが許されました。しかし、アブラハムは契約を結んだだけではありません。アビメレクに贈ったその家畜の中から雌羊7頭を取り分け、井戸は私アブラハムが掘ったという証拠としていただきたい、と言うのでした。 ここから、この土地の名前がベエル・シェバと名づけられました。ベエル・シェバは2つの意味を含む掛詞(かけことば)となっていて、ひとつは「誓いの井戸」という意味、もうひとつは「七つの井戸」という意味です。この名前、また、アブラハムが贈った羊が7頭であったことから、アブラハムが所有権を主張した井戸は7箇所であったようですが、ともかく、この7つの井戸は、誓いによってアブラハムのものとなっている、というわけです。 このようにして、アビメレクはこの井戸のある土地、ベエル・シェバは、アブラハムの寄留する地であると認めた、と誓いました。これは、創造主なる神さまにかけて誓ったということで、絶対です。こうして、アブラハムはこの地に寄留する権利を、神さまからも、そしてこの地を治める王からも、正式に得ることになりました。 それだけではありません。アブラハムはこの地に、1本のタマリスクの木を植えました。木を植えることは象徴的です。やがて去る土地であるならば、木など植えても仕方がないわけで、木を植えるということは、この地に定住しようというアブラハムの誓いを見ることができます。 そして、次章22章を読むと、アブラハムはここベエル・シェバに腰を落ち着け、ついにウルの地から出発した放浪生活に終止符を打つことになるのでした。もはやアブラハムは、寄留者ではなくなるのでした。 とはいいましても、アブラハムの子孫であるイスラエルがほんとうの意味で「ダンからベエル・シェバまで」と象徴的に言われる、ここパレスチナの地に住むようになるのは、ずっとあとのことですし、その民もさらにのちの時代、2度にわたってこの土地を追われることになりました。イスラエルは寄留者としてこの地を長く生きることになったのでした。 現在は国としてのイスラエルが復興し、多くの人がイスラエル人として国に帰還していますが、世界には今なお多くのディアスポラ、散っている人が存在しています。寄留者なのです。 一方、イエスさまを信じる信仰によって神の民とされ、アブラハムを信仰の父と呼ぶことが許されている、私たちの場合はどうでしょうか。私たちはこの世界の地上の、日本という土地に住んでいますが、いかに自分の土地を持ち、自分の家を建てても、やがてこの地上を去ることが定められています。私たちもまた、寄留者です。 それでも私たちは、寄留者でありながらも、どれほど多くの祝福を神さまからいただいていることでしょうか。私たちには食べるものがあります。住む場所があります。そればかりではありません。神さまをともに礼拝する、主キリストのからだなる教会のひと枝ひと枝とされています。 やがて私たちは、寄留者の生活を終え、永遠の天の御国に入れられます。神さまが私たちを、永遠の住まいに迎えてくださると誓ってくださった以上、私たちは入れていただけるのです。 だから私たちはこの地上の生活に汲々となるのではなく、上にある天の御国をつねに見上げて生きる者となりたいものです。 また私たちの存在は、この寄留している地に祝福をもたらしているという自覚を持って生活したいものです。アビメレクがアブラハムの存在の背後に創造主なる神さまを認めて恐れたように、私たちも神さまとともに生きる生き方をしていくことで、この世に神さまを証しするのです。 その生き方は、この世の人々を愛し、祝福するという形で実を結びます。そして、私たちの愛や奉仕を受け取るこの世の人たちも、私たちのその神さまにならうよい行いに触れて、神さまはおられること、その神さまは世界万物を造られ、人をつくられた創造主であられること、そしてその神さまは愛であられること、その愛によって自分も愛されていること、このお方こそ信じ受け入れ、お従いすべきお方だということを、受け入れられるようになります。 そのような人は、私たちと同じように、この世界は寄留するだけの土地であり、やがて天の御国に迎えられる日を待ち望み、それゆえに日々その天の御国に入れられるにふさわしく、主の栄光を顕して生きるようになります。 私たちは、寄留者として生きるこの地上で、主の栄光を顕して生きるという祝福が与えられており、その祝福は周りの人々を祝福します。こうしてともに、御国を受け継ぐ祝福に入れられるのですから、どんなに素晴らしいことでしょうか。この祝福ゆえに、ともに神さまをほめたたえつつ、この地上の歩みを歩みおおせてゆく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

恵みに目が開かれる

聖書箇所;創世記21:1~21/メッセージ題目;恵みに目が開かれる  私は、独身時代から結婚を経て、下の娘が生まれたころまで、千住(せんじゅ)という東京の下町にある韓国人教会で働いていました。私もまだまだ若かったころで、いろいろな想い出がありますが、その中でも忘れられないのが、上の娘が1歳の誕生日を迎えたとき、教会のみなさまに祝っていただいたことです。  韓国人ばかりが集まって韓国語で礼拝をささげる教会なので、行事の持ち方も韓国式になります。1歳のお祝いというのは、韓国社会では特別な意味を持つものでして、「トルジャンチ」という特別な呼び名もあるくらいです。このトルジャンチを教会のみなさまに祝っていただいたわけです。私ども夫婦はみなさまのお祝いに感謝して、お餅をお配りしました。 お餅といっても、日本式のお餅ではありません。日本で暮らす韓国の人たちを相手に、ちょっと離れた西新井(にしあらい)という町にある韓国式のお餅を売るお店から、わざわざ取り寄せたものでした。教会のみなさまにも喜んでいただけたと思います。懐かしい想い出です。   私どもにとっては、このトルジャンチは日本にいながら韓国式に持ったこと以上に、特別な意味がありました。娘は、3か月早産、27週の超未熟児で生まれており、特に、かかりつけの産婦人科で手の施しようがなくなり、救急車で1時間かけて大学病院に運ばれたときなど、私はおそらく、それまででいちばんいっしょうけんめいにお祈りしたのではないかというくらいに祈ったものでした。 そのような娘を、神さまはしっかり育ててくださったのでした。ああ、よく育ってくれた! まことに、このトルジャンチは、感慨深いものがありました。  私どもですらそうだったのですから、アブラハムとサラの間に生まれたイサクが、乳離れまで果たしたとは、彼らにとってどれほど大きな喜びとなったことでしょうか。何しろ100歳、90歳のときに生まれた子どもです。こんなに年を取ってしまったとは、子どもだけでなく、親も心もとないところです。それが無事に育ってくれて、親も達者でいたとは、喜びもひとしおというものです。 ところが、この喜びが一転、家庭の不和と深刻な悩み、そして別れへとつながるという、聖書を読んでいてもとてもつらいできごとへとつながっていきました。そんな今日の箇所は、私たちに何を教えていますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 まず、1節と2節のみことばを見てみましょう。神さまは約束を果たされて、サラの身からイサクを生まれさせてくださいました。ここからわかることは、神さまは約束を果たして、人を顧みてくださるお方である、ということです。サラからご自身の民を生まれさせてくださると約束してくださった以上、そのとおりにしてくださるのです。 このように神さまが、特別な約束を果たしてくださったことは、アブラハムとサラにどのような祝福をもたらしたでしょうか? 3節のみことばです。 名前に注目しましょう。イサクという名前、これは欄外の脚注にもありますように、「彼は笑う」という意味です。この「笑い」はサラにとってどんな意味を持っていたかは、6節のみことばを読めばさらによくわかります。そうです、サラはここで、ようやくほんとうの意味で、にっこりと笑うことができたのでした。 サラはかつて、御使いの訪問を受けて、男の子を産む、と告げられたとき、こんなお婆さんが子どもを産むなんて、と、笑いました。その笑いはうれしくてにっこりと笑うその笑いではなく、年老いてついに子どもを授からなかったおのが身の悲しさに皮肉な笑いを浮かべた、その笑いです。 そのサラが、このように約束の子どもを授かり、ついにほんとうの意味で「笑う」ことができるようになったのでした。神さまが約束をかなえてくださるということは、「笑い」を回復させてくださる、ということでもあります。 その笑いに満ちた時間、それが、盛大な乳離れの宴会でした。この宴会は、だいたい3歳くらいになると催されたといいます。まさに、年寄り子が寵愛を一身に受けていた様子が伝わってくるようです。 ところが、この笑いに満ちた家族の喜びが、一転して悲劇にたたき落とされます。きっかけとなったのは何でしょうか? 皮肉なことに、これも「笑い」だったのでした。 9節をご覧ください。エジプトの女ハガルがアブラハムに生んだ子、これはイシュマエルですが、イシュマエルがイサクをからかっていた、とあります。この「からかう」ということばをいろいろな聖書の翻訳を比較して読んでみると、「戯れていた」「遊んでいた」という訳もある一方で、「笑っていた」という訳もあります。 しかしこのときイシュマエルの取った行動は、聖書原語のヘブライ語のニュアンスから見ると、イシュマエルは笑うは笑うでも、イサクのことを「あざ笑っていた」と解釈するのがいちばん妥当で、この新改訳聖書の「からかっていた」という表現は的を射ていることになります。 イシュマエルのこの行動がサラを怒らせ、ハガルもイシュマエルも追い出してください、ということになったわけですが、これは、弟をからかうなんて子どもとしてよくあることではないか、何もそんなに目くじらを立てなくても、という問題ではありません。 このときイシュマエルは、乳離れして3歳にもなっていたイサクよりも13歳年上なので、すでに16歳になっていました。イサクがいかに幼児といえども、アブラハムとサラとの間に生まれて家督を継ぐ正式な跡取りとなり、神の民を生み出す源となっていたことを知らないはずがないばかりか、そのことの持つ重みを、イシュマエルは充分に理解していてしかるべきでした。 それが、そのようにからかった、あざ笑ったということは、神さまがイサクに与えられた神の民の源としての権威を無視することでした。サラが耐えがたい思いをしたのは、自分が産んだわけではないイシュマエルがイサクを馬鹿にすることに対してともいえますが、サラの怒りがかきたてられたことは、大局的に見れば、主の大きなみわざが行われる契機となったのでした。 こうまで神の権威をないがしろにするイシュマエルは、やはりアブラハムのあとを継いで神の民に数えられるにはふさわしくなかったのでした。イシュマエルはやはり、出ていかなければならなかったのでした。 しかし、アブラハムは悩みました。もとはといえばイシュマエルは、自分のあとつぎにすべくもうけた子どもであり、まだイサクが生まれる前には、自分に与えられた神の民としての祝福を受け継ぐ存在としてずっと育てつづけてもきたわけです。 そもそも、アブラハムとサラが待ちつづけることができて、神の時にしたがってイサクひとりをもうけていればこんなことにならなかったのです。アブラハムは自分のしたこととはいえ、きわめてつらいかたちで刈り取りをすることを迫られていました。 しかし、神さまはそのように苦境に陥ったアブラハムに、助け舟を出してくださいました。どのようにしてでしょうか? みことばを語られることによってです。12節、13節をお読みください。 ここからわかることは、人は神さまの御手に悩みをゆだねるならば、神さまはその悩みから解放してくださる、ということです。苦しんではならない、そう神さまは語ってくださいます。 ここで神さまは、わたしはあなたに約束したとおり、イサクからあなたの跡継ぎとなる民を増え広がらせる、とおっしゃいました。しかし、神さまはイシュマエルを切り捨てられたわけではありません。イシュマエルからも民を増え広がらせることで、神さまはアブラハムに与えてくださった祝福を実現してくださることを約束してくださったのでした。 世に、望まない妊娠、などということばがあります。望まないのに妊娠したからと、中絶を考えたりします。しかし、子どもをみごもらせてくださることは神さまの主権のうちにあると考えるならば、望まないのはあくまで人間の側であり、神さまにとっては「望まない」ということはないはずです。 この、イシュマエルの存在も、イサクが乳離れするほどに育った今となっては、特にサラにとっては「望まない」存在となっていたかもしれません。しかし、「望まない」のは人間の都合であり、神さまはイシュマエルが生まれることを望んでおられたのです。 神さまがみこころのままにみごもらせ、出産させ、育ててくださった以上、「望まない」ということはありえないのです。神さまはイシュマエルをとおしても、民を増え広がらせる祝福を約束してくださいました。 14節をご覧ください。アブラハムは、翌朝早く、ハガルとイシュマエルを家から出しました。決断と行動は早くしなければならなかったのでした。ハガルは正妻ではなく、奴隷の身分です。主人に言われたならばそのとおりに従わなければなりませんでした。 食べ物と水の入った皮袋を持たせたといっても、そこから先のことまでアブラハムは責任を持つことはできません。あとは、ハガルとイシュマエルで何とかするしかありませんでした。しかし、荒野をさまようのもむなしく、ついに水は尽きてしまいました。 イシュマエルももはや、精も根も尽きたのでしょう。イシュマエルを荒野に立つ灌木の下に放り出すと、ハガルはそこから離れました。ハガルは遠くからイシュマエルの姿を見つめていて、声を上げて泣きました。 思えば、ハガルの人生は、奴隷という立場ゆえに、アブラハムの身勝手さに翻弄されてばかりの人生でした。もともとハガルはエジプトの人でしたが、アブラハムがエジプトに落ち延びてサラを自分の妹だなどとファラオに偽り、その際にファラオがアブラハムに贈った奴隷の中にいたのがハガルでした。そして、神さまの約束を待ち切れなかったアブラハムの子どもをみごもる羽目になったのもハガルでした。ハガルはその身重の身で、サラにいじめられて逃亡し、神の声を聞いてアブラハムのもとに戻ったりしました。 ハガルが泣き叫んだのは、そんな翻弄されてばかりのおのが悲しさのゆえでしょう。「笑い」という意味の名前が与えられたイサクのゆえに追放されることになった自分たちは、もはや笑いとは正反対の身に置かれました。なんと皮肉な生き方を強いられたことでしょうか。 しかしハガルは、神さまを恨むべきではなかったのでした。神さまは何をしてくださったのでしょうか。17節です。……神さまはハガルの泣く声を聞いてくださいましたが、それ以上に、イシュマエルの声を聞いてくださったのでした。イシュマエルとは、「神は聞く」という意味です。まさに、イシュマエルの存在が衰え果てようとしていたとき、神さまはイシュマエルの、声にならない声を聞いてくださったのでした。 イシュマエルは、放っておかれてはならなかったのでした。主のみこころは、ハガルがイシュマエルを放っておいて、死ぬに任せることではない、イシュマエルをしっかり抱きしめ、元気づけることだったのです。 そのとき主は、ハガルの目を開いてくださいました。するとそこには、井戸がありました。もうこれでイシュマエルは死ぬことはありません。イシュマエルは元気づきました。 イシュマエルは神に見捨てられた人ではありません。かえって、神さまはイシュマエルとともにいてくださり、荒野にあっても自分で身を立てて成長するすべを身に着けたことをみことばは語っています。のみならず、結婚まで果たしました。ここから神さまは、先祖をアブラハムとする民を生まれさせてくださったわけでした。 以上見てきたところから私たちが学ぶこと、それは、約束の民に属さない者に対する、神さまのかぎりない恵みとあわれみです。 神のみこころを正しく受け取ることをしなかったアブラハムとサラに翻弄されることになったのは、ハガルとイシュマエルの責任ではありません。しかし神さまはそれでも、イサクからご自身の民を増え広がらせるというご自身のみこころを成し遂げるために、ハガルとイシュマエルをアブラハムのもとから去らせました。イシュマエルは約束の子どもではなかったからでした。 そんな神さまは薄情なお方なのでしょうか? 私たちはそう考えてはなりません。このようなイシュマエルの民に象徴される異邦人も、ほんとうの意味でアブラハムの子どもとして回復されるべき時が来ます。それは、神の御子イエスさまを信じる時です。 エペソ人への手紙2章11節から19節をお開きください。特に12節、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人である、異邦人とはそのような存在ですが、それはすでに、イサクとちがって跡取りから除外されたイシュマエルにすでに、このような悲惨な異邦人の現実は実現していました。 しかし、彼らのそのような悲惨な現実も、イエスさまの十字架を信じ受け入れることで、ほんとうの意味でアブラハムの子孫となることにより、祝福へと変えられるのです。 いま、アラブ人の宗教であるイスラム教は、自分たちが先祖イシュマエルをとおして神の祝福を受け継いでいると教えます。しかしこれは、聖書の教えとは相受け入れるものではありません。ほんとうに祝福を受け継ぐのは、イエスさまを信じ受け入れることによってです。 イシュマエルの子孫を祝福するという神さまのみこころは、今や世界の一大勢力となった、われらキリスト教会と同様に一神教であることを主張するイスラム教が勃興したことで実現したわけではありません。イスラム教は、イエスさまのことを預言者と見なそうと、神さま、主としてお従いしているわけではありません。 一部では、私たちの信じるイエスさまの父なる神さまとイスラム教の神であるアッラアが同じ神であるなどと解釈して、キリスト教とイスラム教を一致させる「クリスラム」または「キリラム教」などと呼ばれる神解釈を推進させる運動がありますが、聖書的に考えるならば、これは間違いです。 しかし、そのような非聖書的な運動が推進される一方で、アラブ社会の中には迫害をものともせずにイエスさまを信じる人たちが起こされているのをご存じでしょうか。彼らアラブ社会のクリスチャンたちは、ほんとうの意味で、イシュマエルが引きついだアブラハムの子孫としての祝福を受け取っているのです。 イシュマエルの子孫が祝福されているという、その祝福は彼らによって実現しているのです。迫害を避けて妥協して「キリラム教」などと主張するのと、アラブ社会の中で迫害されようともイエスさまを純粋に信じようとするのと、どちらが聖書的か、すなわち、まことの神さまのみこころにかなっているか、言うまでもないことです。 ひるがえって、私たちのことを考えてみたいと思います。私たちはもしかして、イエスさまを否定し去るような日本の社会に生まれたことで、神さまを恨んだりしてはいないでしょうか? あるいは、キリスト教社会としての長い歴史を持つ欧米をうらやんだりしていないでしょうか? しかし、その必要はないのです。私たち日本人が、世々の聖徒とともに恵みを受け継ぐことはないなどと、だれが決めつけるのでしょうか? 私たちはそのような中でも、キリストの十字架を信じる信仰を与えていただき、すべての時代、すべての世界の兄弟姉妹とともに、神の民にしていただいているのです。 ハガルとイシュマエルをあわれんでくださった恵みの神さまは、約束の民から除外されたまま生きていたと思わされていた悲惨さから救ってくださったように、私たちのことも救ってくださいます。いま私たちの周りには、神さまから見放されたとばかりに悲しみの中にいる方がいらっしゃるかもしれません。 そんな方々に対し、神さまの恵みに目を開かせた御使いの役割を果たすのはだれでしょうか? 私たちではないでしょうか? 私たちも恵みによって救っていただいたように、そのような方々が神さまの恵みに目を開くために私たちのことを用いていただけるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。 そのためにもまず、私たちが、神さまの恵みに目を開いていただきましょう。そうしてこそ私たちは、愛する同胞、家族を主のもとにお連れすることができます。自分のことしか見えなくなり、何も見えなくなっていたハガルが、目の前の井戸に目が開かれ、死にかかっていたわが息子、イシュマエルを生かすことができたようにです。 私たちは異邦人であろうとも、キリストの血によって神の民に加えていただいた。この恵みに日々感謝し、私たちを愛して召してくださった主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

人の思いを超える祝福

聖書箇所;創世記20:1~18/メッセージ題目;人の思いを超える祝福 劇作家のつかこうへいが言っていました。詐欺師は、嘘をつくことにおいて、まるで芸術家のようだ。嘘をつくことの犯罪は、最近ですとオレオレ詐欺、にせ電話詐欺、などという、ぞっとしないものが目立ちますが、あれだけ手が込んだ犯罪など、よく思いつけるものだと思います。あんな手合いを芸術家などと呼びたくはありませんが、きっと、あのような犯罪を考えついた者たちは、それがうまくいったときなど、まるで絵や音楽が上手に創作できた芸術家のように、自分たちの悪知恵に酔いしれていることでしょう。 しかし、嘘がどんなに素晴らしく思えても、神さまがご覧になったらいかがでしょうか? 偽証してはならない、と、律法は語ります。あのような悪質な嘘でなくて、嘘も方便、などというケースもあるかもしれませんが、嘘は嘘です。それがどんな理由でなされたものでも、神さまは喜びません。 今日の聖書箇所でも、アブラハムは嘘をついたような振る舞いをしています。サラのことを、自分の妻だと言わず、妹だと言ったことは、かつてエジプトででも行なったアブラハムの処世術でしたが、サラはたしかにアブラハムにとって、母親ちがいの妹ではありましたが、妻という立場が優先するはずです。 そればかりではありません。もっと重大な問題があります。サラは約束の子、神の民の源なるイサクを生むべき立場にありました。アブラハムのこの嘘をついた振る舞いは、自分自身の罪だけではなく、イスラエル民族の危機につながり、神さまのみこころを損なうことにつながる、重大な問題でした。 ともかくも、アブラハムはゲラルの地に寄留していたとき、サラのことを、自分の妹であると公言しました。アブラハムが自分の身を護るためでした。そのためには、サラが取られて人妻となってもかまわない、とさえ言っているような態度です。 それにしても、ここまで私たちは聖書を読んできて、おかしい、と感じないでしょうか? あれだけアブラハムは、神さまの約束のみことばを受け取り、自分の妻であるサラから約束の子どもが生まれることを聞いていたというのに、この不信仰はいったい何だ、そんなことを思わないでしょうか? しかし、これは私たちにとっては反面教師として、しっかり心に留めておくべきことです。私たちはいつもみことばを読んでいます。神さまの語りかけを受け取っています。 それなのに、私たちはなんと、そのみことばのとおりに振る舞えないことが多いものでしょうか。聴いていたはずのみことばを実行できず、かえって、そのみこころと反対の、罪深いことを行なってしまうものでしょうか。 アブラハムの姿は私たちの姿です。だから、アブラハムの正体見たり、とか、アブラハムは魔が差したのだろう、などと切り捨ててはなりません。今日の箇所からともにじっくり学び、私たちもまた、信仰の人としていかに考え、また語り、振る舞うべきか、考えてまいりたいと思います。 さて、ともかく、アブラハムのもとに王から使いがやってきて、サラは王のもとに召し入れられました。ここでもさらに、私たちは、おかしい、などと思ったりしないでしょうか? サラはこのときで90歳にもなります。90歳のおばあちゃんを召し入れる王さまなどいるのだろうか! 聖書の言っていることはいかになんでも! などと、ちょっと混乱しないでしょうか? しかし、最近私には、このサラにまつわる聖書の記録は決して誇張でもなく、嘘をついているわけでもないと確信したできごとがありました。その日私はテレビを視ていました。すると、はっとするほど綺麗な女性がテレビに出てきました。明らかに若い人ではないのですが、何と申しますか、並々ならぬ気品をたたえていて、ああ、綺麗だなあ! と、見とれてしまうような女性でした。 いったいだれでしょう? 岸恵子さんでした。いえ、過去の映像とかではありません。新作の舞台の宣伝だったので、今の岸恵子さんです。その女性が岸恵子さんだとわかったときには、もう、びっくりを通り越して、呆れかえってしまいました。 岸恵子さんは昭和7年、1932年のお生まれです。そう、今年88歳になられます。米寿です。映画「君の名は」に出演されたのはもう70年ちかくむかしですが、ずっとお綺麗な方だったわけです。 あの、岸さんのお姿を見て、私は確信しました。岸さんがあれだけお綺麗ならば、子どもを産めるようにしてくださっただけの若さを神さまから与えられた、サラはもっときれいだったにちがいない。年齢がどうあれ、王さまが召し入れることも、充分ありえたはずだ。 アビメレクも、このような美人を召し入れることに成功して、さぞかしご満悦だったのではないでしょうか。しかし神さまは、ご自身の民を生む未来の母に、指一本ふれることをお許しになりませんでした。 3節をご覧ください。……おまえは、夫のある身の女を召し入れたゆえに、死ぬことになる。恐ろしい警告です。しかし、この警告を受け取れたことはアビメレクにとって幸いでした。なぜならば、召し入れることをやめるならば、死ななくて済むからです。 神さまは全能のお方であり、あわれみ深いお方です。このように、まことの神さまを恐れる文化になっていない民族にも、臨んでくださり、みことばを語りかけてくださいます。私たちは、神さまを過小評価してはなりません。私たちクリスチャンにとってだけ、神さまは神さまなのではありません。すべての世界、すべての人を創造された神さまは、人間だれにとっても神さまです。 もちろん、人の側で神さまを神さまと認めるかどうかという問題はありますが、それでも神さまは、すべての人を生かし、その人々の中から、みこころを示すべき人を選んでくださいます。 このときのアビメレクもそうでした。神さまがアビメレクに語られたのは、イスラエル民族を守られるという意味もありましたが、同時に、アビメレクのいのちを救われるためでもありました。 アビメレクはどういう人だったのでしょうか? その語ったことばから、アビメレクの人となりを知ることができます。4節と5節です。 アビメレクは、サラが人妻と知っていたら、当然、召し入れるなどということはしなかった、私は殺されるようなことは何もしていない、潔白だ、と、神さまに訴えています。 その訴えに対し、神さまは何とおっしゃっているでしょうか? 6節と7節です。 まず、アビメレクが神さまの御前で罪ある者とならないように、と、神さまはアビメレクのことを守ってくださいました。あとは、アビメレクが、この夢の中で語られたことばを神さまのことばとして受け取り、神さまを恐れてお従いして、サラを手離す決断をするだけです。 神さまは、いつでも人にみことばをもって警告しておられます。どんな人に対してもです。責任の所在は、その警告を警告として受け取らない、人間の側にあります。人がさばかれるのは神さまの勝手きまぐれではありません。 しかし、人がもしほんとうに神さまを恐れる人だったならば、神さまがその人を守ってくださいます。このときのアビメレクもそうでした。のみならず、アビメレクに祝福が臨むように、神さまは取り計らってくださいます。神さまにあって祝福を祈る神の人につなげてくださるという、最大の祝福をその人はいただくことになります。 私たちもこの世の人たちを恐れてはいけません。私たちに与えられているイエスさまの御名は、みこころにかなう祈りならば何でも求めれば御父にきいていただけるという、すばらしい力を持った御名です。 私たちがイエスさまの御名によって人々のためにとりなして祈り、また祝福するとき、それは、イエスさまがとりなしてくださり、また祝福してくださる、ということです。金銀のような財産がなくても落胆しないでいただきたいのです。私たちには、イエスさまの尊い御名が与えられています。 アビメレクは神さまを恐れていました。そして翌朝、アビメレクがこの夢のことをしもべたちに告げると、しもべたちも一様に神を恐れました。 アビメレクはアブラハムを呼びつけ、抗議しました。あなたはサラのことを妹と言ったではないか、そのために、私にもわが王国にも大きな罪がもたらされるところだった。 ここでアビメレクが罪と言っている、「罪」といういい方にも注目しましょう。罪とは、神さまとの関係の中で生じるものであり、神さまとの正しい関係を保つために、罪があってはならない、と、アビメレクは告白しているわけです。 アビメレクのこのことばに対し、アブラハムは何と言っているでしょうか? まずは11節です。 ゲラルの人々は神を恐れないので、サラのゆえに私を殺すと思った。しかし、今までも見てきたとおり、ゲラルの人々は神を恐れていました。偶像の神々をではありません。創造主なる神さまを恐れていました。それをアブラハムは正当に評価せず、神を恐れないゆえに殺人を犯す者たち、と決めつけています。とんでもない評価を与えたものです。 そして、12節、13節を見てみましょう。……いったい、真実の愛を尽くすとはどういうことでしょうか? アブラハムが生き残るためには、サラがどうなってもかまわない、アブラハムのいのちに危険が及ぶなら別れたっていい、それがアブラハムに対し真実の愛を尽くすことだ、とでもいうのでしょうか? しかし、その考えがどんなに間違っていたかは、エジプトでファラオがあやうくサラを召し入れそうになったとき、神さまがファラオとその宮廷を痛めつけられたことですでに明らかになっていました。それなのに、同じことを繰り返したのです。 これは、嘘も方便では済まされない話です。アブラハムとサラとの間の愛情という点でも大きな問題をはらんでいますが、事はそれにとどまりません。下手をすると、アブラハムの子どもではない子をサラがみごもるかもしれないという話です。そうなったら、約束の子ども、神の民が生まれるため、神さまがここまでアブラハムとサラを導いてこられたことは、すべて水の泡と化します。 要するに、何が問題だったのでしょうか? アブラハムの不信仰です。ご覧ください。ゲラルのアビメレク王とそのしもべたちの方が、アブラハムよりもよほど神さまを意識しているという点で、信仰的とすら思えないでしょうか? しかし、ここでも私たちは考えてしまうかもしれません。異邦人よりもよほど信仰的ではないアブラハムが、それでも信仰の父と呼ばれるにふさわしいのだろうか? そこで私たちは、アブラハムという人ではなく、そのようなアブラハムを選ばれた、神さまに目を留めたいと思います。いざというときに不信仰から、このようなとんでもない行動を取ってしまうアブラハムをとおして、それでも神の民を生み出してくださるお方、それが神さまです。 頭がよいとか、品行方正であるとか、そういったことは、ときに生まれながらにして備えているかのような人がいます。しかし神さまは、そういう人を信仰の父として選ばれたのではありません。 かえって、欠けだらけの人を選び、それでもこのように、失敗や弱さを思い知らせてくださることにより、神さまに拠り頼む信仰を育ててくださることによって、整えてくださるのです。それはアブラハムにかぎったことではありません。私たちも同じなのです。 私たちは取るに足りない者ですが、神さまはときに、この世の人たちが私たちに好意を持つようにさせ、その方々の好意により、私たちを祝福してくださいます。このとき、アビメレクが多くの贈り物をアブラハムとサラに与えたことも、神さまの祝福と深い関係がありました。アビメレクは、サラを取ったり、アブラハムを殺したりするような人ではありませんでした。神を恐れるゆえに、アブラハムを祝福しようと願う人だったのです。 私たちが生きているこの世界、特に日本は、神さま、イエスさまを信じている人がほとんどいないで、その現実に目を留めるならば、私たちは心細くなるかもしれません。しかし、私たちを取り巻く環境の中を生きる人たちのことを生かしておられる神さまにこそ目を留め、その人たちに神さまの祝福があるように、私たちは祈ってまいりたいものです。 イエスさまは、主の弟子としてこの地を生きるさすらいの私たちを励ますことばを語ってくださっています。マタイの福音書10章40節から42節をお読みしましょう。 これが、神さまのみこころなのです。私たちはですから、私たちに対してよくしてくださる方々に、イエスさまの福音を語ることをためらったり、あきらめたりしてはなりません。私たちのことを主の弟子、主のしもべと見込んでよくしてくださる方々のことを、主は祝福してくださる、この主のみこころを私たちは受け取り、あきらめずに福音を語ってまいりたいものです。 アブラハムはといいますと、アビメレクを祝福しました。私たち主のしもべにできることは、金銀をもって人々を養うことでなかったとしても、ナザレのイエス・キリストの名によって、人々を立ち上がらせることです。主は私たちの祈りを聞いてくださり、人々を祝福してくださいます。 アビメレクはどんな祝福を受けたでしょうか? また、子をなすことができる祝福を受け取りました。今日の箇所の最後の部分、18節で、それまでアビメレクの家が子をなすことができなかった理由が述べられています。……アブラハムの妻サラのことで、つまり、サラがみごもることになるイサクは、あくまでアブラハムの子どもであり、アビメレクがなした子どもではない、ということが強調されているわけです。 しかし、アビメレクがこのように主を恐れる人であったことは、結果として、アビメレクが子どもをもうけることができるようになったという、大きな祝福を受けることにつながりました。アブラハムが死ぬか、それともアビメレクが死ぬかという瀬戸際で、主が介在され、そのどちらの悲惨なことにもならず、サラも二夫にまみえるようなことにもならず、すべては丸く収まり、それ以上の祝福を、アビメレクも、アブラハムも、受け取ることになったのでした。 私たちは恐れるかもしれません。私たちの不信仰がもしかして、事をおかしくしないだろうか。神さまのみわざが隠されないだろうか。証しにならないのではないだろうか。人につまずきを与える人々のよくない話を見聞きすると、余計そんなことを私たちは考えるかもしれません。 しかし、そのように思えるときこそ、私たちは神さまの大きさに心を留めたいものです。私たちがこの地に祝福をもたらす器として神さまに選ばれているかぎり、私たちが神さまのご栄光をいたく傷つけるようなことから、神さまは私たちのことを守ってくださいます。この神さまの愛と選びにまず信頼し、アブラハムのように度重なる不信仰と不従順の罪を犯すことから、守っていただくよう、祈ってまいりたいものです。 神さまの祝福はとても大きなものです。私たちはまだまだ整えられなければならないところが多いものですが、そんな私たちの祈りを神さまは聞いてくださり、この世界に祝福をもたらしてくださいます。この神さまの愛と選びに信頼して、今日もこの愛なる主のみ手に用いられるべく、整えられることに感謝してまいりましょう。

十字架に向けての入城

聖書箇所;ヨハネの福音書12:12~19/メッセージ題目;十字架に向けての入城  先日まで行われていた大相撲秋場所は、正代(しょうだい)関が初優勝と大関昇進を決め、大きな話題となりました。さて、大相撲の本場所の優勝にはいろいろなセレモニーが伴いますが、残念ながら、昨今の事情でできなくなっているセレモニーがいろいろあります。優勝力士がオープンカーに乗ってのパレードなど、その最たるものでしょう。  紋付き袴、大銀杏の優勝力士は、沿道を埋め尽くす群衆に、満面の笑みをたたえて手を振ります。隣で優勝旗を持った、やはり大銀杏に紋付き袴の関取も、うれしそうです。なんとも晴れがましい姿! 私はむかしから大相撲が好きで、この優勝パレードの様子は何度となく見たものでしたが、見ているこちらまでうれしくなり、祝福したくなる気分になります。  さて、このオープンカーの祝賀パレード……そのオープンカーに乗った主人公が、オープンカーではなく、何の変哲もない軽トラックの荷台に乗って登場したら、どうしますか? でも、沿道の群衆が割れんばかりの歓声で迎えたとしたら、どうしますか? 今日はそんなお話です。  今日の箇所は、イエスさまのエルサレム入城のエピソードです。これは、前回のヨハネの福音書の学びの時扱いました、ベタニアの三きょうだいの家をイエスさまが訪問された、あのできごとの翌日のできごとです。そのとき、何があったでしょうか? マリアがイエスさまに、香油を注いだのでした。 売れば数百万にもなろうかという大変な宝物を、惜しげもなくイエスさまに注いだという……弟子たち、特に、イスカリオテのユダなどはこれを見て憤慨し、マリアを責めましたが、イエスさまはむしろ、これはご自身の葬りの日のためにマリアが行なったことだと、マリアのこの行動をほめてくださいました。 マリアが香油を注いだというこのことにより、いよいよイエスさまの死、十字架の死が備えられることになりました。今日の箇所は、その翌日のできごとで、イエスさまはベタニアからエルサレムに入城されます。 14節に、イエスさまはろばの子に乗られた、とあります。このろばは、荷物を載せるための子ろばです。まだ、だれも乗ったことのないろばです。この子ろばの持ち主は、主がお入用だから連れていきます、と弟子たちが言うと、喜んで、とばかりに子ろばを引き渡します。 かくして、イエスさまは子ろばにまたがって、エルサレムに入城されました。イエスさまがラザロをよみがえらせたことを知って、その話題で持ちきりになっていたエルサレムの住民たちは、沿道に群れを成して、メシアなる王を迎える態度で、なつめやしの枝を手にし、自分の上着や木の枝を道に敷いて、最大級の歓迎をしました。 そんなイエスさまがまたがっているのは、しかし、荷物用の子ろばです。しかし、王さまなら、立派な白馬にでもまたがったほうがよくないでしょうか? しかし、イエスさまが乗られたのは、荷物用の子ろばです。まさしく、オープンカーではなく、軽トラの荷台です! 15節を見てみますと、これは、旧約聖書みことばの成就であると書かれています。ゼカリヤ書9章9節で預言されていたとおりです。 ちょっと、ゼカリヤ書の9章9節を開いてみたいと思います。……イエスさまは、義なるお方として、勝利の凱旋をされることが強調されています。しかし、この神さまの絶対的なさばきによって人をさばき、罪に定めるのではありません。「柔和な者」とあります。そうです。イエスさまは柔和な方なのです。 イエスさまは、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいを友とされたお方でもいらっしゃいます。十二弟子にしても、厳しく鍛えられたばかりではなく、この世の徒弟制度のような関係ではない、友として接してくださいました。イエスさまは、このような罪だらけの私たちにとって、大上段(だいじょうだん)にさばくお方ではありません。むしろ、このような私たちを諦めることなく、どこまでも寄り添ってくださる、それこそ「友」、柔和なお方です。 そんなイエスさまに似合っていたのは、この世に堂々と君臨する「白馬」ではありません。庶民の視線に降りてきてくださる「子ろば」でした。群衆はそんなイエスさまの姿に、自分たちの味方となってくださる王さまという、かぎりない親しみを感じたにちがいありません。しかし何よりも、彼らのこの熱狂的な歓迎ぶりは、ゼカリヤ書9章9節の成就であり、かくして、みことばはほんとうだったということが明らかになったわけでした。 それにしても私たちは、もし、イエスさまが私たちのことを用いてくださるとするならば、自分のことを立派な「白馬」だと思いますか? それとも「子ろば」だと思いますか? いえいえ、私たちは「白馬」などと言いきれるものではないでしょう。せいぜい「子ろば」程度のものでしょう。しかし、「子ろば」であろうと、私たちはその背中にイエスさまをお乗せできるならば、立派に用いていただけるのです。主のご栄光を顕させていただけるのです。 むかし、榎本保郎という牧師がいらっしゃり、彼の物語は三浦綾子が小説にして週刊朝日に連載し、「ちいろば先生」というあだ名とともに有名になりましたが、取るに足りない子ろばのような存在、華やかなオープンカーではなくて軽トラのような存在でもイエスさまをお乗せできるならば栄誉極まりないことです。 榎本先生だけではありません。私の母教会、北本福音キリスト教会で30年にわたって牧会していらっしゃる小西直也先生は、この子ろばがイエスさまをお乗せしたという箇所に示され、自分のような者でも主をお乗せして用いていただけるならば、と、直接献身に踏み出されたと語っていらっしゃいます。 イエスさまが柔和な王さまでいらっしゃるのは、それが、私たちのように、罪を認めてへりくだる者、けっして威張らない、威張れない者の、王さまとなってくださるゆえです。この世の王さまなら、大金持ち、偉い人、そういう人の上に堂々と君臨したがるでしょう。しかしイエスさまはちがいます。私たちのような者たちの上に君臨するどころではありません、「仕えてくださる」お方です。その汚い足を洗ってくださるお方です。イエスさまはそんな王さまです。   しかし、イエスさまが王であられるのは、この世の者たちが王に立てたからそうなるのではありません。このとき、エルサレムの者たちは、イエスさまを王として迎えましたが、そんな彼らがイエスさまを王にしたのではありません。イエスさまを王に立ててくださったのは、父なる神さまです。どのようにして御父はイエスさまを王にお立てになるのでしょうか? イエスさまを十字架におつけになることによってです。  イエスさまがエルサレムに入城されたのは、いわば「王の戴冠式」、冠をかぶせられて王に立てられる、そのためのご入城といえましょう。では、イエスさまにかぶせられた冠は、どんな冠でしょうか? 茨の冠です。茨の冠のあとを待つものは、十字架でした。  イエスさまを大歓迎したはずのユダヤ人たちは、宗教指導者たちに焚きつけられ、イエスさまを裏切り、イエスさまのことを、十字架につけられるほどの極悪人と見なしました。十字架は、彼らユダヤ人にとっては、この上ない呪いを表す存在でした。 しかし、主に選ばれた者たち、私たちにとっては、この血なまぐさい存在、目をそむけたくなる存在が、どれほど麗しく、慕わしいことでしょうか? イエスさまは十字架の上で両手を広げ、御父が私たち罪人に怒涛の如く注がれる激しい御怒りから、私たちをかくまってくださいました。私たちは王なるキリストの打ち傷によって、いやされたのです。 イエスさまの十字架はまた、私たち人間のうちに平和をもたらす存在です。世の王たちは、臣民に平和を実現してこそ、よい王として認められます。イエスさまこそは、私たち人間のうちに平和を実現してくださるお方です。 その平和は、まず私たち人間が神さまと和解させていただく、つまり、神さまと平和な状態にしていただくところから始まります。その、父なる神さまとの平和を実現してくださるのは、イエスさまの十字架をおいてほかにありません。イエスさまの十字架によって平和を実現していただいた私たちは、同じイエスさまの十字架によって和解していただいたどうし、お互いの間に主にある平和を実現していくのです。こうして、キリストが王として統べ治める御国が、私たちの間に実現します。 ただ、このときイエスさまのことを「ホサナ!」主、わが救い、と大歓声でお迎えした群衆は、わずか数日後にはそんな自分たちが一致団結してイエスさまを十字架につけよなどと叫ぼうとは、思いもしなかったことでしょう。彼ら群衆がイエスさまを十字架につけさせるように、扇動した存在がありました。宗教指導者たちです。そんな彼らの苦々しいつぶやきが、19節に書かれています。 イエスさまはおっしゃいました。彼ら群衆が黙れば、石が叫ぶ、と。彼ら宗教指導者たちは、まるで石が叫び出すようなとんでもないことを、着々と進めていたわけでした。彼らはこのとき、群衆を見て、何を思ったでしょうか。律法に通じた彼らのことです。ゼカリヤ書9章9節のメシア預言を連想したにちがいありません。しかし、彼らはこのように、ゼカリヤ書のとおりにイエスさまが現れても、なお信じませんでした。かえって、よくもこのとおりになったな、と、怒りまくったわけです。 何とかたくななのでしょうか。しかし、主の真理に目がふさがれ、けっしてその覆いをイエスさまによって取り除けていただこうと思わない者は、どんなにみことばによってイエスさまが神の子であると示されても、受け入れることはありません。かえって、彼らのすることは、ますますイエスさまに敵対し、したがって神さまに敵対することです。 ただ、このようなパリサイ人に関する記述を、聖書が、これでもか、と書いているのは、なぜだとお考えでしょうか? それは、私たちが、イエスさまを信じることによって自分はもはや律法主義者じゃない、ばんざーい! それに引き換え、あの律法主義者どもはなっていない、などと、安心して、人を罪に定めるためでしょうか? いえ、それこそが、パリサイ人のすることなのです。おわかりでしょうか? パリサイ人に関する記述に聖書があれほど紙面を割いているのは、私たちもパリサイ人になりうる、もっと言えば、私たちもパリサイ人である、からです。 パリサイ人とはもともと、分離主義者、という意味です。世の中のけがれ、俗から分けられた生き方を目指す存在です。しかし、それが度を過ぎると、みことばを一字一句、文字どおりに守り行なわなければ認められない、という、極端な考えになります。その発想に立つならば、たやすく人を罪に定めるようになります。 でも、そのような生き方は、私たちもしばしば、してしまったりしてはいないでしょうか? 私はイエスさまの十字架を信じてきよい存在としていただいた。それなら私たちは、イエスさまの十字架を誇るべきなのに、私たち自身を誇るという、実に愚かなことをするのです。そればかりか、自分の目の梁を差し置いて、人の目のちりを取らせてもらおうとするのです。 聖書に書かれたパリサイ人、宗教指導者は、そういうわけで、自分と関係ない存在と考えてはいけません。いわば反面教師であり、自分の中にもそのようなダークサイドがあることを、謙遜に認める必要があります。 ともかく、ユダヤの宗教指導者たちは、この時点ではイエスさまを引き渡すための十分な策を練ることができずにいましたが、しかし、それであきらめたわけではありません。結局彼らは、最終的に、エルサレムの民衆を抱き込むことに成功しました。彼ら民衆は、イエスさまを王として迎えたはずだったのに、わずか数日後にはピラトに向かってイエスさまを十字架につけよと騒ぎました。暴動寸前になるところで、ピラトはイエスさまを十字架につけました。 それは、御父のみこころが成就したということでもありますが、だからといって、エルサレムの者たちの罪が減じられたということにはなりません。彼らエルサレムの住人たちは、どうなったのでしょうか?  彼らはのちに、ペテロの説教によって、心を刺されて悔い改めました。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのだ!」その一回の説教で、実に三千人もの人が主の弟子になったとみことばは語ります。大変な数です。それから日々、イエスさまを信じる人は増し加わり、宗教指導者たちに翻弄されたエルサレムの住民たちは回復しました。 このときこそエルサレムの民は、イエスさまを王としてお迎えしたことのほんとうの意味を知ったのでした。イエスさまはローマ帝国の支配から解放する王ではなかった。十字架によって成し遂げてくださった神の平和により、私たちを統べ治めてくださる王さまであった。イエスさまの十字架を受け入れるならば、私たちも神との平和を得させていただける。それまでは、律法を守り行うことで神さまに認められようとしたユダヤ人たちは、ようやくほんとうの意味で救いを得ることができたのでした。 エルサレム入城……それは、柔和な王としての入城で、十字架におかかりになることで、私たちを王として統べ治めてくださるための入城でした。 私たちのうちに王として入城されたイエスさまは、その十字架によって私たちを統べ治めてくださいます。私たちのすることは、十字架をもって私たちに仕えてくださったイエスさまの、その御力をいただいて、主と、人々を愛し、お仕えすることです。 今日私たちは、主の晩さんをもって主の十字架をしのびます。私たちが主の晩さんにあずかるとき、罪人のこの私に寄り添うように、子ろばに乗って私のもとに訪ねてきてくださったイエスさまとひとつとされていることを心から感謝し、イエスさまの十字架の犠牲をしのぶ者となりましょう。