聖書箇所;創世記20:1~18/メッセージ題目;人の思いを超える祝福
劇作家のつかこうへいが言っていました。詐欺師は、嘘をつくことにおいて、まるで芸術家のようだ。嘘をつくことの犯罪は、最近ですとオレオレ詐欺、にせ電話詐欺、などという、ぞっとしないものが目立ちますが、あれだけ手が込んだ犯罪など、よく思いつけるものだと思います。あんな手合いを芸術家などと呼びたくはありませんが、きっと、あのような犯罪を考えついた者たちは、それがうまくいったときなど、まるで絵や音楽が上手に創作できた芸術家のように、自分たちの悪知恵に酔いしれていることでしょう。
しかし、嘘がどんなに素晴らしく思えても、神さまがご覧になったらいかがでしょうか? 偽証してはならない、と、律法は語ります。あのような悪質な嘘でなくて、嘘も方便、などというケースもあるかもしれませんが、嘘は嘘です。それがどんな理由でなされたものでも、神さまは喜びません。
今日の聖書箇所でも、アブラハムは嘘をついたような振る舞いをしています。サラのことを、自分の妻だと言わず、妹だと言ったことは、かつてエジプトででも行なったアブラハムの処世術でしたが、サラはたしかにアブラハムにとって、母親ちがいの妹ではありましたが、妻という立場が優先するはずです。
そればかりではありません。もっと重大な問題があります。サラは約束の子、神の民の源なるイサクを生むべき立場にありました。アブラハムのこの嘘をついた振る舞いは、自分自身の罪だけではなく、イスラエル民族の危機につながり、神さまのみこころを損なうことにつながる、重大な問題でした。
ともかくも、アブラハムはゲラルの地に寄留していたとき、サラのことを、自分の妹であると公言しました。アブラハムが自分の身を護るためでした。そのためには、サラが取られて人妻となってもかまわない、とさえ言っているような態度です。
それにしても、ここまで私たちは聖書を読んできて、おかしい、と感じないでしょうか? あれだけアブラハムは、神さまの約束のみことばを受け取り、自分の妻であるサラから約束の子どもが生まれることを聞いていたというのに、この不信仰はいったい何だ、そんなことを思わないでしょうか?
しかし、これは私たちにとっては反面教師として、しっかり心に留めておくべきことです。私たちはいつもみことばを読んでいます。神さまの語りかけを受け取っています。
それなのに、私たちはなんと、そのみことばのとおりに振る舞えないことが多いものでしょうか。聴いていたはずのみことばを実行できず、かえって、そのみこころと反対の、罪深いことを行なってしまうものでしょうか。
アブラハムの姿は私たちの姿です。だから、アブラハムの正体見たり、とか、アブラハムは魔が差したのだろう、などと切り捨ててはなりません。今日の箇所からともにじっくり学び、私たちもまた、信仰の人としていかに考え、また語り、振る舞うべきか、考えてまいりたいと思います。
さて、ともかく、アブラハムのもとに王から使いがやってきて、サラは王のもとに召し入れられました。ここでもさらに、私たちは、おかしい、などと思ったりしないでしょうか? サラはこのときで90歳にもなります。90歳のおばあちゃんを召し入れる王さまなどいるのだろうか! 聖書の言っていることはいかになんでも! などと、ちょっと混乱しないでしょうか?
しかし、最近私には、このサラにまつわる聖書の記録は決して誇張でもなく、嘘をついているわけでもないと確信したできごとがありました。その日私はテレビを視ていました。すると、はっとするほど綺麗な女性がテレビに出てきました。明らかに若い人ではないのですが、何と申しますか、並々ならぬ気品をたたえていて、ああ、綺麗だなあ! と、見とれてしまうような女性でした。
いったいだれでしょう? 岸恵子さんでした。いえ、過去の映像とかではありません。新作の舞台の宣伝だったので、今の岸恵子さんです。その女性が岸恵子さんだとわかったときには、もう、びっくりを通り越して、呆れかえってしまいました。
岸恵子さんは昭和7年、1932年のお生まれです。そう、今年88歳になられます。米寿です。映画「君の名は」に出演されたのはもう70年ちかくむかしですが、ずっとお綺麗な方だったわけです。
あの、岸さんのお姿を見て、私は確信しました。岸さんがあれだけお綺麗ならば、子どもを産めるようにしてくださっただけの若さを神さまから与えられた、サラはもっときれいだったにちがいない。年齢がどうあれ、王さまが召し入れることも、充分ありえたはずだ。
アビメレクも、このような美人を召し入れることに成功して、さぞかしご満悦だったのではないでしょうか。しかし神さまは、ご自身の民を生む未来の母に、指一本ふれることをお許しになりませんでした。
3節をご覧ください。……おまえは、夫のある身の女を召し入れたゆえに、死ぬことになる。恐ろしい警告です。しかし、この警告を受け取れたことはアビメレクにとって幸いでした。なぜならば、召し入れることをやめるならば、死ななくて済むからです。
神さまは全能のお方であり、あわれみ深いお方です。このように、まことの神さまを恐れる文化になっていない民族にも、臨んでくださり、みことばを語りかけてくださいます。私たちは、神さまを過小評価してはなりません。私たちクリスチャンにとってだけ、神さまは神さまなのではありません。すべての世界、すべての人を創造された神さまは、人間だれにとっても神さまです。
もちろん、人の側で神さまを神さまと認めるかどうかという問題はありますが、それでも神さまは、すべての人を生かし、その人々の中から、みこころを示すべき人を選んでくださいます。
このときのアビメレクもそうでした。神さまがアビメレクに語られたのは、イスラエル民族を守られるという意味もありましたが、同時に、アビメレクのいのちを救われるためでもありました。
アビメレクはどういう人だったのでしょうか? その語ったことばから、アビメレクの人となりを知ることができます。4節と5節です。
アビメレクは、サラが人妻と知っていたら、当然、召し入れるなどということはしなかった、私は殺されるようなことは何もしていない、潔白だ、と、神さまに訴えています。
その訴えに対し、神さまは何とおっしゃっているでしょうか? 6節と7節です。
まず、アビメレクが神さまの御前で罪ある者とならないように、と、神さまはアビメレクのことを守ってくださいました。あとは、アビメレクが、この夢の中で語られたことばを神さまのことばとして受け取り、神さまを恐れてお従いして、サラを手離す決断をするだけです。
神さまは、いつでも人にみことばをもって警告しておられます。どんな人に対してもです。責任の所在は、その警告を警告として受け取らない、人間の側にあります。人がさばかれるのは神さまの勝手きまぐれではありません。
しかし、人がもしほんとうに神さまを恐れる人だったならば、神さまがその人を守ってくださいます。このときのアビメレクもそうでした。のみならず、アビメレクに祝福が臨むように、神さまは取り計らってくださいます。神さまにあって祝福を祈る神の人につなげてくださるという、最大の祝福をその人はいただくことになります。
私たちもこの世の人たちを恐れてはいけません。私たちに与えられているイエスさまの御名は、みこころにかなう祈りならば何でも求めれば御父にきいていただけるという、すばらしい力を持った御名です。
私たちがイエスさまの御名によって人々のためにとりなして祈り、また祝福するとき、それは、イエスさまがとりなしてくださり、また祝福してくださる、ということです。金銀のような財産がなくても落胆しないでいただきたいのです。私たちには、イエスさまの尊い御名が与えられています。
アビメレクは神さまを恐れていました。そして翌朝、アビメレクがこの夢のことをしもべたちに告げると、しもべたちも一様に神を恐れました。
アビメレクはアブラハムを呼びつけ、抗議しました。あなたはサラのことを妹と言ったではないか、そのために、私にもわが王国にも大きな罪がもたらされるところだった。
ここでアビメレクが罪と言っている、「罪」といういい方にも注目しましょう。罪とは、神さまとの関係の中で生じるものであり、神さまとの正しい関係を保つために、罪があってはならない、と、アビメレクは告白しているわけです。
アビメレクのこのことばに対し、アブラハムは何と言っているでしょうか? まずは11節です。
ゲラルの人々は神を恐れないので、サラのゆえに私を殺すと思った。しかし、今までも見てきたとおり、ゲラルの人々は神を恐れていました。偶像の神々をではありません。創造主なる神さまを恐れていました。それをアブラハムは正当に評価せず、神を恐れないゆえに殺人を犯す者たち、と決めつけています。とんでもない評価を与えたものです。
そして、12節、13節を見てみましょう。……いったい、真実の愛を尽くすとはどういうことでしょうか? アブラハムが生き残るためには、サラがどうなってもかまわない、アブラハムのいのちに危険が及ぶなら別れたっていい、それがアブラハムに対し真実の愛を尽くすことだ、とでもいうのでしょうか?
しかし、その考えがどんなに間違っていたかは、エジプトでファラオがあやうくサラを召し入れそうになったとき、神さまがファラオとその宮廷を痛めつけられたことですでに明らかになっていました。それなのに、同じことを繰り返したのです。
これは、嘘も方便では済まされない話です。アブラハムとサラとの間の愛情という点でも大きな問題をはらんでいますが、事はそれにとどまりません。下手をすると、アブラハムの子どもではない子をサラがみごもるかもしれないという話です。そうなったら、約束の子ども、神の民が生まれるため、神さまがここまでアブラハムとサラを導いてこられたことは、すべて水の泡と化します。
要するに、何が問題だったのでしょうか? アブラハムの不信仰です。ご覧ください。ゲラルのアビメレク王とそのしもべたちの方が、アブラハムよりもよほど神さまを意識しているという点で、信仰的とすら思えないでしょうか?
しかし、ここでも私たちは考えてしまうかもしれません。異邦人よりもよほど信仰的ではないアブラハムが、それでも信仰の父と呼ばれるにふさわしいのだろうか?
そこで私たちは、アブラハムという人ではなく、そのようなアブラハムを選ばれた、神さまに目を留めたいと思います。いざというときに不信仰から、このようなとんでもない行動を取ってしまうアブラハムをとおして、それでも神の民を生み出してくださるお方、それが神さまです。
頭がよいとか、品行方正であるとか、そういったことは、ときに生まれながらにして備えているかのような人がいます。しかし神さまは、そういう人を信仰の父として選ばれたのではありません。
かえって、欠けだらけの人を選び、それでもこのように、失敗や弱さを思い知らせてくださることにより、神さまに拠り頼む信仰を育ててくださることによって、整えてくださるのです。それはアブラハムにかぎったことではありません。私たちも同じなのです。
私たちは取るに足りない者ですが、神さまはときに、この世の人たちが私たちに好意を持つようにさせ、その方々の好意により、私たちを祝福してくださいます。このとき、アビメレクが多くの贈り物をアブラハムとサラに与えたことも、神さまの祝福と深い関係がありました。アビメレクは、サラを取ったり、アブラハムを殺したりするような人ではありませんでした。神を恐れるゆえに、アブラハムを祝福しようと願う人だったのです。
私たちが生きているこの世界、特に日本は、神さま、イエスさまを信じている人がほとんどいないで、その現実に目を留めるならば、私たちは心細くなるかもしれません。しかし、私たちを取り巻く環境の中を生きる人たちのことを生かしておられる神さまにこそ目を留め、その人たちに神さまの祝福があるように、私たちは祈ってまいりたいものです。
イエスさまは、主の弟子としてこの地を生きるさすらいの私たちを励ますことばを語ってくださっています。マタイの福音書10章40節から42節をお読みしましょう。
これが、神さまのみこころなのです。私たちはですから、私たちに対してよくしてくださる方々に、イエスさまの福音を語ることをためらったり、あきらめたりしてはなりません。私たちのことを主の弟子、主のしもべと見込んでよくしてくださる方々のことを、主は祝福してくださる、この主のみこころを私たちは受け取り、あきらめずに福音を語ってまいりたいものです。
アブラハムはといいますと、アビメレクを祝福しました。私たち主のしもべにできることは、金銀をもって人々を養うことでなかったとしても、ナザレのイエス・キリストの名によって、人々を立ち上がらせることです。主は私たちの祈りを聞いてくださり、人々を祝福してくださいます。
アビメレクはどんな祝福を受けたでしょうか? また、子をなすことができる祝福を受け取りました。今日の箇所の最後の部分、18節で、それまでアビメレクの家が子をなすことができなかった理由が述べられています。……アブラハムの妻サラのことで、つまり、サラがみごもることになるイサクは、あくまでアブラハムの子どもであり、アビメレクがなした子どもではない、ということが強調されているわけです。
しかし、アビメレクがこのように主を恐れる人であったことは、結果として、アビメレクが子どもをもうけることができるようになったという、大きな祝福を受けることにつながりました。アブラハムが死ぬか、それともアビメレクが死ぬかという瀬戸際で、主が介在され、そのどちらの悲惨なことにもならず、サラも二夫にまみえるようなことにもならず、すべては丸く収まり、それ以上の祝福を、アビメレクも、アブラハムも、受け取ることになったのでした。
私たちは恐れるかもしれません。私たちの不信仰がもしかして、事をおかしくしないだろうか。神さまのみわざが隠されないだろうか。証しにならないのではないだろうか。人につまずきを与える人々のよくない話を見聞きすると、余計そんなことを私たちは考えるかもしれません。
しかし、そのように思えるときこそ、私たちは神さまの大きさに心を留めたいものです。私たちがこの地に祝福をもたらす器として神さまに選ばれているかぎり、私たちが神さまのご栄光をいたく傷つけるようなことから、神さまは私たちのことを守ってくださいます。この神さまの愛と選びにまず信頼し、アブラハムのように度重なる不信仰と不従順の罪を犯すことから、守っていただくよう、祈ってまいりたいものです。
神さまの祝福はとても大きなものです。私たちはまだまだ整えられなければならないところが多いものですが、そんな私たちの祈りを神さまは聞いてくださり、この世界に祝福をもたらしてくださいます。この神さまの愛と選びに信頼して、今日もこの愛なる主のみ手に用いられるべく、整えられることに感謝してまいりましょう。