元始、教会は家であったその3~主イエスが奇蹟を起こされる家~
聖書箇所;マルコの福音書2:1~12/メッセージ;元始、教会は家であったその3~主イエスが奇蹟を起こされる家~ 「元始、教会は家であった」シリーズも、本日で3回目となりました。 私は先週、久しぶりに出張して、松戸で行われたセミナーに参加してまいりました。題して「主の弟子訓練指導者セミナー」。弟子訓練の指導者養成のセミナーは、通算で6回目の参加となりましたが、今回はこれまでのセミナーとまったくちがった立ち位置で、しかもまったく違った雰囲気の中で学ぶこととなり、きわめて新鮮な体験をしたものでした。セミナーと銘打たれていましたが、私はお勉強をしたというよりも、むしろ癒やしをいただいたという思いでいっぱいです。 今回のセミナーは、昨今のコロナウイルス流行という情勢により、韓国から先生を招くことができない中、それでも日本人の先生方によって開催しよう、という意思のもと、開かれたものでした。しかし今回は、方法論や技術のような「骨組み」を学んだわけではなく、どこまでも、長年弟子訓練牧会に取り組んでこられた教会、そしてその先生方を通して結ばれた「実」に注目するものでした。私もそのような中で、スタッフでもなく、韓国の先生からでもなく、とてもリラックスして受講でき、それだけでも画期的なものでした。 講義は、先生方が一方的に教えを注入するものではなく、その先生方の牧会のもとにある教会員の証しをふんだんに盛り込んだもので、それだけに説得力がありました。つけ加えれば、その証しをしてくださった兄弟姉妹の中には、むかし私が仙台で暮らしていたとき、共同生活をしていた中学生のお父さん、お母さんがおられ、その頃の彼の生活ぶりをお知らせする貴重な時間も持ちました。 そればかりか、実に18年前までの数年間、一緒に暮らして同じ牧師の牧会訓練のもとにあった、いわば「ムショ仲間」のような兄弟が来てくれて、ほんとうにうれしかったものでした。その「ムショ仲間」の証しを聞いた後、一緒に食事をしながら、あの頃の苦労や、それからの苦労を乗り越えてきたお互いのことをたたえ合ったものでした。 このセミナーの会場となった教会、聖書キリスト教会グレイスホームのことを少しだけお話ししたいと思います。この教会は、岡野俊之先生・めぐみ先生と2人の息子さんのご一家によって、松戸の奥の方の細い坂道だらけの住宅街の端っこ、市街化調整区域に隣接した一戸建ての家、首都圏にしては実にひなびた場所でスタートし、こたつにあたりながら礼拝をするという、とても家庭的な形でスタートを切りました。 今回、この教会に行ってみると、今もなお家庭的な雰囲気は保たれていて、ほんとうに、教会とは家の大きくなったものだということを実感したものでした。 この「家」から、特に、傷ついていた家庭の回復、というわざが多く起こされたことを、あらためて聞かせていただきました。離婚、家庭の不和、家庭内暴力、未信者の親との葛藤……そういったことが、「ただ愛すればいい」、「みことばはこう言っている」という、基礎の基礎に忠実な信仰生活にみなで着実に取り組むことにより、力が与えられ、解決に導かれる……言ってみれば、主イエスなる「まれびと」を迎えた家から奇跡が起こるのです。 本日の聖書箇所は、主イエスなる「まれびと」を迎えることで家、すなわち教会をなす基礎は、いかなる奇蹟を体験するか、そして、家という教会、教会という家は、イエスさまがおられるゆえに、奇蹟を体験する場所であることを、ともにみことばから味わってまいりたいと思います。 1節をご覧ください。イエスさまがおられた場所は、「家」です。イエスさまは、荒野ででも、湖畔ででも、ユダヤ教の会堂ででも、実にいろいろなところにとどまり、教えを宣べられましたが、忘れてはならないのは、「家」で教え、病気のいやしのようなみわざを行われた、ということです。 イエスさまの教えというものは、礼拝堂に来ないと聞けない、教われない、というものではありません。あるいは、礼拝堂で教わる教えが「上」で、家でディボーションや聖書通読などの形で受け取る教えは「下」ということもありません。それぞれのご家庭は、イエスさまがとどまられ、教えを語られる場所です。 だまされたと思ってやってみていただきたいのですが、まだの方でクリスチャンホームの方は、ご家庭で聖書を開き、ご家族の方と一緒に家庭礼拝を持ってみてください。そこでイエスさまに教えられる体験は、礼拝堂で一方的にみことばを聞く体験とは、一味も二味も違ったものとなり、その教えに心から嬉しくなるとともに、家族がみことばによって結び合わされる恵みの喜びを体験すること請け合いです。 しかし、イエスさまの恵みをいただく家庭は、その恵みを家族だけで独占しないで、外に向けても公開したいと思うようになります。今日の箇所の家庭も、イエスさまの教えをどうか聴いてください、と、家を公開しました。すると、押すな押すなの大騒ぎ、イエスさまを一目見たい、イエスさまの御声を聞きたい、さわっていただいていやされたい、そんな人が押しかけました。 家を開放する人は、なにも難しい聖書勉強が導けないといけないわけではありません。イエスさまがここにおられるから、楽しいから、うれしいから、ここに来てみてください、そんな思いさえ持てていれば、だれでも家をオープンにできます。そして、そこが教会になるのです。 今はもちろん、いろいろな理由で、人をお招きすることにためらいを覚えていらっしゃるかもしれません。しかし、それならそれで、いずれの日にかお招きできる日を主が来たらせてくださるように、お祈りすることです。その前提で、今日のメッセージを聴いていただければと思います。 この教会の礼拝堂は東茨城郡茨城町にありますが、それは「教会」が茨城町にある、ということとイコールではありません。おわかりでしょうか? 水戸第一聖書バプテスト教会は、みなさまのお住まいの家もその一部です。ということは、水戸市にもあります、鉾田市にもあります、石岡市にもあります、那珂市にもあります……県庁所在地を中心に、茨城県央の極めて広範囲に「水戸第一聖書バプテスト教会」は存在するわけです。お友達やご親戚を教会に招く、ということを、茨城町長岡の礼拝堂に招くことに限定しないで考えていただきたいのです。それぞれのおうちはイエスさまのおられる教会であり、そこに、コロナを気にしないでやってくるような、親しいお友達やご親戚をお招きするのです。 聖書の話に戻りますと、この家の教会が押すな押すなの大盛況となっている中、イエスさま目指してまっしぐらの人たちがいました。中風の人1人と、その人を寝床に乗せたまま担いで運ぶ4人の人でした。 4人というのがポイントです。ひとりの人をイエスさまのもとに運ぶには、4人の人が必要だったということです。これは、ひとりの人を救いに導くには、最低でもそれだけの人が必要であるという示唆を、私たちに与えてくれてはいないでしょうか? 私は高校生のとき、友達に伝道したい一心で、日本武道館で行われた本田弘慈先生の伝道集会に、仲のよかった同級生を2人連れていきました。しかし、1人に対して2人です。だめでした。結局、集会後はその2人のペースで話が進み、個人伝道どころではありませんでした。 これに懲りた私は、考えを変えました。のちに私は大学生になって、韓国に留学しました。そのとき、やはり同じ時期に、同じ大学の学科の友達が韓国に留学しました。伝道しなくては! 私はその友達をソウル日本人教会という教会に誘い、「四つの法則」という伝道ブックレットを読み聞かせました。 しかしその友達のことを、ほんとうにイエスさまを信じる信仰に導いた、つまりイエスさまを救い主と受け入れる祈りを導いたのは、私ではなく、私がその友達に紹介した、宣教団体のスタッフでした。 それだけではなく、その友達は好きなクリスチャンの若者ができて、その若者が聖歌隊員をしている教会に通いはじめてもいました。午前はその教会で聖歌隊席のそばに座って礼拝し、午後はソウル日本人教会で礼拝し、といった具合です。 さらに、その友達は韓国舞踊も習っていましたが、その舞踊教室の先生も熱心なクリスチャンで、とてもよく祈る人でした。これだけでも、私を含めて4人です。 というわけで、ひとりの人をしっかり救いに導くには、少なくとも4人の人が霊的に一致する、すなわちその人の救いを祈るということで一致することが必要だと、私は経験をもって教えていただきました。 一致。それはひとりの人を救いたいという思いで一致することです。中風の人を担いだ4人の人も、急いでいました。しかし、急ぐのと同時に、この人を寝床から落としてはならないから、バランスを崩さず、息を合わせて運ぶ必要もありました。その一致……それは、イエスさまのもとに連れていこう、ということで一致することでした。 家を開放してだれかを伝道したいと思うのはとても結構なことですが、そのような場合でも、伝道は特定の人の頑張り、個人プレーではないことに留意したいものです。家の交わりにおいて、最低4人の主を信じる人がたましいの救いを祈り、人をイエスさまのもとに迎える姿勢が必要であろうということが、この箇所からもヒントとして受け取れます。そういえば松戸の岡野先生による開拓教会も、岡野先生、奥様、そして2人の息子さんの、合わせて4人からスタートして、こんにちの素晴らしい教会につながっています。 聖書に戻ります。やってきたのはいいですが、人がいっぱいで、入れません。そこで彼らが考えたこと……屋根に上って瓦をはがし、そこから吊り降ろす、ということです。 大胆不敵というか、なんというか……ひとんちの屋根を壊すなんて、なんともすごいことをしたものです。しかし、彼らは必死であり、本気でした。イエスさまによってこの人が救われるためなら、家を壊そうが構うものか! そしてその本気の取り組みを、イエスさまはお叱りになるどころか、受け入れてくださったのでした。 たましいの救いは、すべてに優先します。家が壊れようがどうなろうが、それでもその人を愛して受け入れるなら、やがてはその人の救いにつながります。もし私たちが、イエスさまに会っていただきたい一心で、家にお客さんを迎えるとき、もしそのお客さんの連れてきた子どもさんが、クレヨンで壁に落書きしたり、障子やふすまに穴を開けたりしたら、どうしますか? 怒りますか? それとも、そんなことはいやだからと、はなから家に招きませんか? ある、子どもの働きで全国的に有名な教会の牧師先生は、もしあなたが子ども伝道に献身したいなら、礼拝堂の壁が汚れることを恐れてはいけない、という意味のことを語りました。子どもが礼拝堂にやってきて、自由にしたいのに、あれをやっちゃダメ、これをしてはいけない、などと、いちいちがみがみやられたら、もうその子には教会の中に居場所はありません。そんなことでどうやって、子どもに伝道するのでしょうか? ただ、大人の言うことに従順に従い、手がかかりさえしなければいいのでしょうか? そんな子どもがどれほどいるというのでしょうか? そんなことでは、果たしてほんとうの意味でイエスさまに出会ってもらうことなどできるのでしょうか? ただ、やはり多くの教会の場合、礼拝堂というものをそこまで自由に使わせる勇気はありません。それは理解しなければならないでしょう。それでも、家ならばどうでしょうか? 家は、礼拝堂以上にくつろげる場所であるべきでしょう。礼拝堂は不特定多数が集まりますが、家は、家の主人が許可して初めて入れる場所である一方で、入れてもらえるだけのリラックスした環境を提供してもらえる場所です。 イエスさまが教えを語られたその家にも主人はいました。しかし、その主人にとっての主人は、そこにおられるイエスさまでした。この中風の人を吊り降ろすためにひとんちの屋根をはがした行為は、イエスさまが受け入れてくださっている以上、してはならないことではなく、許されていることです。 同じように、家をとおしてのたましいの救いに関しては、たとえば連れてきた子どもが暴れたとか、ものを壊したとか、ちょっとしたアクシデントはつきものです。それをしつけるのはいいとして、力で押さえつけることはありません。とにかく、ありのままを受け入れ、愛することです。 さあ、イエスさまはこの吊り降ろされた患者に対して、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。イエスさまは実に、人の罪を赦し、ご自身のみもとに引き寄せ、永遠のいのちを与えてくださるお方です。かくして、この4人の人の努力は、このたましいが救われるという形で報われたのでした。 これが、イエスさまのお働きの究極の形です。「ジーザス」のような映画を観たりして、イエスさまとはどういうお方を未信者の人が知ろうとすると、どうしても、病人をいやしたとか、悪霊を追い出したとか、わかりやすい奇蹟にばかり目が行きがちですが、ほんとうにイエスさまがなさったことは、たましいを救い、神の子どもとし、天国の民にしてくださるということです。 しかしこの家の教会、パリサイ人がまぎれていました。なぜ彼らはそこにいたのか、イエスさまの教えを素直に聞いて教わろうとするためか、それとも、ことばじりを捉えて訴えるためか、そこまでは聖書に書いてありませんが、パリサイ人ならいかにも考えそうなことを考えました。罪を赦すのは神おひとりではないか、このイエスは何者だ、神を冒瀆しているではないか。 イエスさまがどんなお方かわからないから、イエスさまのことを誤解したり、はなはだしくは批判したりする人というのは、クリスチャンがその交わりを未信者に対して開放しているかぎり、入ってくるものです。そういう、イエスさまのことがよくわからないような人は、イエスさまが「神々しい」人だとか「神がかった」人とは思うかもしれませんが、「神さま」とまでは思わないわけで、イエスさまが神さまであるという前提の話し合いがなされると、つまずくわけです。 しかし、そういう人たちも、家の教会を通してイエスさまとはどんなお方かを知るようになるのです。イエスさまは、ご自身がこのことばを言う資格があるお方だということを、はっきり示されました。9節です。 ……このことばを聞いて、恐らくそこにいた人たちは、ぎょっとしたのではないでしょうか。なるほど、罪を赦すお方は神おひとりですが、このような手の施しようのない病人をいやすことがおできになるのも、神おひとりです。中風の人も、その人を運んできた4人の人も、イエスさまはそれができる神さまであると信じたからこそ、運んできたのではないでしょうか。 いや、よしんば、人気者のイエスさまのことばを単にこの病人に聞いてもらいたいから、という理由であったとしても、イエスさまに出会えるだけでこの絶望的な病人は生き生きする、と信じていたからこそ、大変な思いをして運んできたのではないでしょうか。みんな、イエスさまを信じていたのです。しかし、それをほんとうになさる現場に居合わせようとは……彼らは恐れに打たれるのと同時に、期待に胸を膨らませたにちがいありません。 パリサイ人はそれとはちがいました。自分は神さまのことをよく知っていた気になっていました。だが、聖書の啓示する神の子イエス・キリストのことは、何にもわかっていませんでした。そして、そんな宗教指導者たちに、ユダヤの社会共同体は毒されていました。イエスさまはそんな彼らに対し、ご自身が、人の罪を赦す救い主であり、人の罪をいやす癒やし主である、すなわち神であることを、はっきりお示しになったのでした。 家の教会とは、目に見える奇蹟の起こされる場所です。その最大の奇蹟は、罪人がイエスさまを主と信じ、その罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちが与えられる、ということです。みこころにかなえば、病気だって癒やしていただく奇蹟が与えられます。経済的な行き詰まり、家族関係や職場生活をはじめとした人間関係のトラブルも解決に導かれる奇蹟を体験します。 ただしこれは、家の中のような小さな単位で、秘密が絶対的に守られる中で、オープンに語り合うことを通して実現することです。こういう神さまのお取り扱いを受けることは、礼拝堂での日曜礼拝のような大きな単位での集会、双方向ではなく一方的な集会を通しては、とても難しいことです。しかし、それぞれのご家庭が開かれるならば、とてもやりやすくなります。私はここに、それぞれのご家庭を舞台に、イエスさまに向けたたましいの救いへの協力がなされ、救霊という大いなる奇蹟を体験する「家の教会」というものを、提唱したいと思います。 みなさま、コロナの流行は、多くの教会で、ともに集まることをためらわせました。しかしそれでも、変わらずに人が集まる場所があります。それは、家庭です。家庭を、イエスさまを中心に迎えた場所として、大事にしていただきたいのです。そしてこの家庭が魅力的ならば、人は集まってきます。今はコロナ流行で、家を開放するには主の時ではないとお考えかもしれません。そのお考えは尊重されるべきです。しかしそれでも、今から祈って主の時を待ち望みつつ、備えていただきたいのです。そのときが、たましいの救いに向かって前進するときです。 この働きに用いられることは、私たちにとっては癒しです。私たちもまた、みんなと一緒にイエスさまに会って、触れていただくからです。時には横たわった患者のよう、時にはその患者をイエスさまのもとに運ぶ人のよう、しかし私たちは家において、イエスさまだけが与えてくださる罪の赦し、いやしをいただきます。感謝したいと思います。