「元始、教会は家であった その1~監督の徳目」
聖書箇所;テモテへの手紙第一3:1~7/メッセージ題目;「元始、教会は家であった その1~監督の徳目」 信仰の父アブラハムについての学びは、先週でひとまず区切りといたします。24章からは、アブラハムからイサクへと主人公が移っていきますが、イサク、またその息子ヤコブについては、時を改めて学びたいと思います。 街にはクリスマスソングが流れ、年賀状の広告があちこちで見られています。いよいよ今年も押し詰まっているこのとき、あらためて、教会を構成する要素である「家」というものの持つ意味を、聖書のいろいろな箇所から学んでみたいと思います。 先週私ども夫婦は、「家の教会コンベンション」というものに参加させていただきました。オンラインでの参加でしたが、自宅でパソコンをつけて講義を聴くのは、なかなか楽しいものでした。それはともかく、私どもはあらためて、家の教会による教会形成におけるたくさんの示唆をいただき、恵まれると同時に多くのチャレンジをいただくひとときとなったのでした。 「家の教会」は、教会を構成するそれぞれの家庭の発展形と言えます。みなさん、今年初めの総会でお配りした「年報」の、牧会指針のページに書いたことをご記憶でしょうか? 「家庭礼拝の充実」ということを挙げさせていただきました。クリスチャンホームの方は、週に1回でも家庭礼拝の時間を持ちましょう、と奨励させていただいたのでした。 ところがあの総会から間もなく、たいへんな事態が起こりました。言うまでもありません、コロナ流行。しかしこのことにより、私たちはステイホームの生活の中、家庭において教会を形成するということ、それ以上に、家庭とは教会の一部である、ということを、いやでも意識したのではないでしょうか。 そこで、コロナに揺れに揺れたこの年を締めくくるにあたり、家とは教会である、というお話を、シリーズでメッセージさせていただこうと思います。 題して、「元始、教会は家であった」。婦人運動家、平塚らいてうのことば、「元始、女性は実に太陽であった」という、有名なことばのパロディです。 「元始、教会は実に家であった」。私たちは教会といいますと、礼拝堂という建物を連想し、礼拝とは、礼拝堂に集まることだと真っ先に思わないでしょうか。もちろん、そのとおりです。 ところが本来、教会とはそういうのもではありませんでした。教会とは、はじめのはじめ、礼拝堂のような大きなスペースにだけ集まる集合体ではありませんでした。 私たちは、新約聖書の教える教会とは何か、ということを確かめることで、イエスさまが願っていらっしゃる本来の教会の姿、原点に立ち戻ることをしてまいりたいと思います。 ひとことで言います。新約聖書の教会は「家」です。新約聖書の中で「ローマ人への手紙」から「ユダの手紙」までの、合計21の「手紙類」は、現在進行形の教会形成に必須の内容でしたが、ここでいう「教会」は、現代に存在する大きな礼拝堂の「教会」ではありません。手紙類を読む大前提として、これらの手紙類が「家」に宛てられたものであることを、私たちは理解する必要があります。 コリント人への手紙第一、16章19節をご覧ください。「アキラとプリスカ、また彼らの家にある教会が、主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」アキラとプリスカが自宅を提供して、そこに人々が集まっていたわけです。 コロサイ人への手紙4章15節も、ニンパと彼女の家にある教会によろしく、とあります。ピレモンへの手紙は、ずばり、その宛先が、2節にあるとおり、ピレモンの家にある教会、つまり、ピレモンが家を解放して持っている教会であることがわかります。 手紙類をはじめ、新約聖書は、そのように家々に集まったクリスチャンたちを対象に書かれたものであるわけで、その前提で読むべきものです。そこで本日私たちが考えたいこと、それは、クリスチャンの共同体なる教会の、そのコアにあたる、家庭、その発展形としての家の教会についてです。 さきほども申しましたが、教会というものは、家庭の大きくなったものです。あるいは、家庭の延長線上にあるものです。言うなれば、個人の集まりが家庭、家庭の集まりが家の教会、家の教会の集まりが公的な礼拝、となろうかと思います。 私はうちの教会を牧会して7年目になりましたが、うちの教会の大きな特色は、礼拝において、家族ごとに座る傾向がとても強い、ということです。これはとてもすばらしいことではないかと思います。これはうちの教会が、それぞれの家族、クリスチャンホームの集合体としての教会を形成している、ということであり、聖書的に見ても理想的な教会のあり方ではないかと考えます。 本日の箇所、テモテへの手紙第一3章1節から7節は、監督、つまり家の教会の信徒たちをケアする役割の人は、いかにあるべきか、それを語る中で、彼らの品性や、彼らの家庭のあり方が問われています。 聖書でいう監督というと、こんにちにおいては一般的に「牧師」、「牧会者」という意味に解釈されています。もちろん、それも間違いではありません。しかし、監督の条件であるこの箇所のみことばに当てはまる人は、フルタイムで有給の牧会者にかぎらないのではないでしょうか? この条件が当てはまる人でも、牧師という肩書を持っていないならば、せっかく書かれたこのみことばも、その人には関係がないということになるのでしょうか? 私は、そうではないと解釈します。信徒とは、フルタイムの教会献身者ではない形で教会を構成する人ですが、本来、教会の主体は信徒です。信徒は教会の主体ですから、牧会の働きが担えるのです。伝道と弟子づくりに取り組むことができるのです。 取り組むことができる、どころではありません。伝道にしても弟子づくりにしても、本来、信徒が担ってしかるべきものです。ほんとうの問題は、それで信徒が忙しくなることではありません。問題は、信徒が取り組んで得られるその喜びを、牧師が奪い、独占してしまっていたことです。私も含め、牧師はそのことを、もっと悔い改める必要があります。 そこで今日の箇所の「監督」というものは、少なくとも家庭という形で教会を構成している私たち一人ひとりに当てはめて考えていただきたい課題です。 この、監督の備えるべき徳目として列挙された品性は、クリスチャンであるなしに関わらず、すばらしいもの、備えるべきものであるということに、異論のある人はいないでしょう。しかし、それだけならば、キリスト教は倫理を教えるものでしかなくなります。 ここでこれだけ徳目が列挙されているのは、家を中心として教会が形成されることと、深い関係があります。したがって、家を中心とした教会形成と関連づけて、これらの徳目はひとつひとつ理解される必要があります。それでは、見てまいりたいと思います。 まず、監督の働きは、1節にあるとおり「立派な働き」です。それは異存ないところでしょう。しかし、「立派」というのは、世の中の人たちが求める「立派」というものと、必ずしも一致しません。人々の上に立って支配し、横柄に振る舞ってはばからないことを「立派」と、世の人たちは思うかもしれません。しかしそうではなく、「仕える」ことでその人は「立派」なのです。 イエスさまというお方が「立派」なのはもちろんです。しかしイエスさまは、なぜ「立派」なのでしょうか? イエスさまは、人々を横柄な態度で支配するようなお方でしょうか? まったくちがいます。弟子たちの足を、それこそしもべのようになって洗ってくださるお方です。低くなってへりくだる。しかし、神の国に属する私たちは、そんなイエスさまのことを「立派」と思うでしょう。 そうです。へりくだるリーダーだから、監督は「立派」なのです。イエスさまがそうなさったように、へりくだることが、リーダーのいちばんの条件です。 では、家族の中で監督の役割を果たすリーダーはだれでしょうか? お父さんであり、夫です。夫たる男は、キリストの栄光の現れであることを、理解する必要があります。だから、キリストがへりくだられたように、へりくだることです。それでこそ立派な男性なのです。 とは言いましても、ご家庭によっては、家長でいらっしゃる男性がまだイエスさまを信じておられないケースもおありでしょう。それでも、ここにいらしている方は、それぞれのご家庭において主のご栄光を顕し、とりなして祈ることにおいて、主から霊的主導権が託されていることを記憶していただきたいのです。 その前提で、第一テモテ3章を読み進めてまいりますが、2節に入りまして、そういう人は、非難されるところがないことも条件になります。 もちろん、法律を犯したとか、倫理的にとても許されないことに手を染めたとかは論外です。しかしそうでないとしても、私たちはいつ、どんなときにも清廉潔白ということはありえるでしょうか? どこかでほころびがあるものです。それを指摘されたならば、非難された、ということになりはしないでしょうか? もしそうならば、非難されるところがない、という条件に当てはまる人などいるのでしょうか? そこで、家長にせよ、教会のリーダーにせよ、すべきことがあります。非難はされるでしょう。でも、非難されたままにしないことです。非難されるようなことがあったならば、神と人の前に悔い改めることです。いけないのは、開き直って、家庭であれ、教会であれ、共同体の中にいつまでも、非難の根を残したままにすることです。 一人の妻の夫……これは、テモテが任されていたエペソのような異邦人の社会においては、特に問われるところでしょうが、これは、性的に潔白であるということです。これはクリスチャンとして、つまり、共同体を預かるリーダーとして、必須の条件です。ひとりの配偶者以外の人に性的に惹かれるようなことがない、それが条件です。自分を制し……感情の赴くままのクリスチャンというのがたまにいて、そういう人は、何をやってもイエスさまに許されている、とうそぶき、勝手なことをします。とんでもないことです。罪が十字架につけられたなら、もはや罪に対して死んだ者であり、肉的な感情の赴くままに生きるということは矛盾します。御霊に満たされている人なら、自制、という、御霊の実を結んでしかるべきです。この自制が、家庭にはじまり、教会にまで影響を及ぼすのです。 慎み深く……つまり、神さまがおのおのに与えてくださった限度を超えず、それぞれの信仰の量りに応じて謙遜な態度を保つ、要するに、思い上がらないことです。これは、教会はもちろんのこと、家庭でも必要な態度です。この、慎み深いということにつきましては、後日、日を改めましてお話しさせていただこうと思います。 礼儀正しく……愛は礼儀に反することをしないと、第一コリント13章の「愛の章」にあります。愛は、相手を尊重し、尊敬すること、礼儀という形で実を結ぶものです。この「礼儀」は、親しき中にも礼儀あり、と言いますが、家族の中にもあってしかるべきです。子どもが礼儀をわきまえた人になるには、親が、礼儀正しい姿を忍耐強く示すことです。 よくもてなし……信仰が成熟して愛の人になるということは、人を実際にもてなすという形で実を結びます。愛というものは、自分の中で完結するものではなく、相手あってのものです。今、コロナウイルス流行でおいそれと人を招けなくなっていると思うかもしれませんが、それでも私たちには最低限、顔と顔を合わせて交わりを持つ人はいるはずです。 ひとつ屋根の下に暮らす家族は、その最たる存在でしょう。あるいは、よほど親しい人なら、コロナということを気にしないで訪ねてきてくれるかもしれません。もちろん、三密ですとか、防疫に努めることは大事なことですが、その上で、その大事な存在に、自己中心のコミュニケーションを仕掛けるのではなく、尊重し、相手に仕える行動をするのです。 教える能力……これは、自分には備わっていない、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、親になれば、だれでも子どもに教えるではありませんか。そう意識すれば、教えることができてしまうものです。 教会における私たちも同じことで、私たちがもし、ふだんからみことばによって教えられているならば、私たちは単に、そのままを人に語ればいいだけのことです。難しいことはありません。家庭の発展形である家の教会は、信徒たちが互いに語り合うことによって、結果的に「教える能力」が身に着いていくものです。 酒飲みでなく……お酒というものに関しては、キリストの教会の中でも教団教派によって見解の違いがあります。しかし、私たちもその一員である福音派は、押しなべて、お酒というものは避けるものという考えを持っています。だから、主の晩さんにおいてもそれを徹底して、ぶどう酒ではなく、ぶどうジュースを用いています。 つまり、酒飲みではないというのは、お酒を飲むけれどもお酒に呑まれない、という意味ではありません。アルコールは一滴も口にしない、ととらえるべきでしょう。私たちは主から、御霊に満たされることが命じられていますが、それと対照的に戒められていることは、お酒に酔うことです。酔うつもりもないならば、私たちはお酒など飲まなければいいわけで、お酒を口にするならば、たとえわずかにせよ、必然的に酔うことにつながり、そこには御霊の交わりが妨げられることになります。 聖書的にふさわしい家族の交わりは、お酒のないところに成立し、そこに御霊の交わりが成り立ち、それが発展して、お酒なくして人を招ける、楽しくもてなせる、という形になります。 乱暴でなく……当たり前だとお思いでしょう。でもみなさん、ご存じでしょうか? これを言うと大変ショックかもしれませんが、クリスチャンホームにも家庭内暴力のケースがあるという話をときどき聞きます。嘘ではありません。 男性は特に、粗暴な部分が暴力という形で出てしまう弱さを抱えています。まさかそれを外で出すこともできないので、ドメスティック・バイオレンスという形で、家庭を混乱と悲惨に陥れます。これは、それでもイエスさまはゆるしておられるという問題ではありません。いち早くやめるべきです。肉体的な暴力だけでなく、ことばや態度での暴力もいけません。でも、そこから立ち直り、愛し合う家族になったならば、それは素晴らしい証しになります。その証しをオープンにして、主のご栄光をともにほめたたえたいものです。 柔和で……マタイの福音書5章の、8つの幸いのひとつの徳目です。これは、「謙遜な人」という意味にもなります。人から過ちや足りないところを指摘されたら、意固地にならず、素直に認める。人から過分にほめられてもおごらない。そういう主人に育てられるならば、子どもたちも、イエスさまご自身がなぜ柔和な人のことを「幸いである」とおっしゃったのか、肌で実感するようになるでしょう。そしてその雰囲気は、彼とともにいる信徒たちにも伝わるようになるはずです。 争わず……私たちが受け入れているイエスさまは真理そのものであり、この真理を脅かす、たとえば異端のような存在、あるいは、人を人とも思わないでめちゃくちゃに扱うようなブラックな存在に、カルトのような存在に対しては、私たちは断固としてノーを突きつけ、それ相応の戦いをする必要があります。 しかし、そういうことではなく、ただ単にリーダーである自分が大事にされないとか、自分の思うとおりに家やグループが進んでいかない、とか、そういうことでいちいち腹を立てて、争いを起こすようでは困ります。私たちは、そのような自己中心が取り扱われる必要があります。 金銭に無欲で……金銭を愛することは、あらゆる悪の根であるとみことばは語ります。人は神さまの恵みのような目に見えないものよりも、お金のような目に見えるものにひかれてしまう弱さがあります。しかし、お金は偶像であり、サタンは、この偶像を用いて、教会の中に争いを起こしたり、ふさわしくない力関係を立て上げようとしたりします。お金を稼ぐよりも主の栄光を顕す、それが社会に参加することである、と、しっかり知っている人が、クリスチャンホーム、そして教会を立て上げるにふさわしい人です。 そして、4節と5節です。……これは私にとって、とても耳が痛いことばと思います。私が第一に大事にすべきは、自分の家庭です。しかし、家庭を大事にするとは、子どもたちを甘やかすことで時間と労力を浪費することではありません。子どもたちがしっかり立っていくように導くことです。 これが教会形成と深い関係があるのは、わけがあります。いったい私たちは、子どもを自分の所有物と思っていますでしょうか? それとも、神さまの栄光を顕す存在に育つため、しばらくの間お預かりしている存在と思っていますでしょうか? 子どもを自分の所有物と思うなら、その愛はエゴ、自己愛にすぎないものです。自分が好きな時にしか関心を向けなかったり、自分の思いどおりにならないと激怒したりします。しかし私たちは、そうであってはなりません。子どもたちは自分たちの子どもである以上に、神の子どもとして育つべき存在です。いずれ、この世において神さまの栄光を顕せる存在に育たなければなりません。 だから私たちは、子どもの所有権は神さまにあることを認めるのです。そうすれば、私たちは恐れをもって子育てに取り組み、のちの日に子どもを一本立ちさせることを学ぶでしょう。 教会形成も同じことです。私たちは、エゴによって派閥をつくるようなことをしてはいけません。派閥とは、信徒をリーダーの所有物にすることです。どの信徒も人に言われたり、強制されたりではなくて、たましいの救いと弟子づくりに献身しつつ仕え合うように育て合う、それがほんとうの牧会であり、教会形成です。 信徒は牧師の所有物ではありません。牧師にとって信徒とは、イエスさまを愛するその愛をライセンスに、しばらくの間、牧させていただいているだけの存在です。教会においては牧師ひとりが神の栄光を顕すのではありません。教会の信徒全体が、たましいの救いと弟子づくりに献身して、神の栄光を顕すのです。 たましいの救いと弟子づくりに取り組む信徒は、必然的に、あとにつづく人たちにとって、リーダーの立場になります。したがって私たちはみな、家庭を治めることにより、キリストのからだなる教会に仕えるとはどういうことかを、実際的に身に着けていくことが求められているわけです。こうして、あとにつづく人たちも、たましいの救いと弟子づくりに取り組む教会の主体として立っていくことになります。 最後に挙げてある2つの条件も見てみましょう。信者になったばかりの人は、いきなり、たましいの救いと弟子づくりを任せてはいけません。そういう人は、まだ自分は訓練が必要だということを、まず知る必要があります。聖書知識を学ぶ以上に必要なのはキリストに似た者となることであり、そのためには、ある程度の期間、主のみことばを体験する証しに満ちた共同体の中で学ぶ必要があります。 具体的には、家の教会のような、お互いがお互いを教え、仕え合う小さな単位の共同体の中で学ぶのが最も理想的です。そのようなプロセスもなしにリーダーに立てるのは、自己中心の間違った教えを伝えさせかねないことであり、極端な言い方をしますが、悪魔の所業を許すことです。絶対に避けなければなりません。 そして、教会の外に評判の良い人。つまり、証しになる生き方をしている人です。教会生活は真面目に取り組んでいても、職場や地域社会で評判の良くないような人は、リーダーになるべきではない、というわけです。こんな人がクリスチャンなの! と、後ろ指を指されるような人がいれば、教会にとって、ひいては神の栄光において、マイナスにしかなりません。 これはしかし、小グループのリーダーにかぎりません。私たちはともにキリストのからだなる教会を立て上げる信徒たちであるなら、すべからく、ここでパウロがテモテに伝授したような、監督としての徳目を備えるように取り組むべきです。以上の徳目はしかし、教会が大礼拝にしか集わないような大きな単位でのみ動くならば、目に見える形では表れてこないものです。問題になる部分は、大礼拝に参加するだけのクリスチャン生活では、隠れていたり、そもそもだれの目にもつかなかったりするものです。しかし、それはふさわしい教会形成のあり方ではありません。…