元始、教会は家であった その4~主の晩さん考察~
聖書箇所;使徒の働き2:41~47/メッセージ題目;元始、教会は家であった その4~主の晩さん考察~ 今日は、恥ずかしい話からお分かち合いしたいと思います。 私は中学生のとき、母に連れられて初めて教会にまいりました。兄がすぐにイエスさまを信じてバプテスマを受け、ほどなくして母も、祖母もバプテスマを受けたのですが、私はバプテスマを受けるまでに少し時間がかかりました。 そんなときにどうしても気にしてしまうのが、主の晩さんの時間です。バプテスマを受けている人はみな受けられても、バプテスマを受けていない私はいただくことができません。みんな、いいなあ、と思いながら、手持無沙汰な時間を過ごしたものです。 そんな私もやがてバプテスマを受けました。主の晩さんにあずかれるようになったわけです。しかし、そうなるとどうなったか、といいますと、今度は、主の晩さんの時間を、とても退屈なものと思うようになってしまったのでした。 要するに、主の晩さんというものをちゃんとわかっていなかったわけです。それにしても今思い返しても、恥ずかしいことです。 本日学びますのは、主の晩さんに関してです。さきほどお読みいただいたみことば、使徒の働きは、イエスさまが天に昇られた後、聖霊なる神さまのお働きによって、エルサレムにはじまり各地に教会が形づくられたという記録に満ちています。 その中でも今日の箇所、2章は、エルサレムに集った聖徒たちに聖霊なる神さまがお降りになり、その聖徒を代表したペテロのメッセージをとおして、実に3000人もの人がイエスさまを主と信じ受け入れ、バプテスマを受けた、という、ダイナミックな箇所です。 マタイの福音書を締めくくるみことば、28章の18節から20節のみことばには、このようにあります。……イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。 この「バプテスマを授け」ということばは、ただ単に宗教的儀式としてバプテスマを授けるということではありません。このことばは「弟子としなさい」ということばと密接な関係があり、「バプテスマを授けて弟子とする」という意味でもありますし、「弟子とするためにバプテスマを授ける」ということでもあります。 つまり、バプテスマはゴールではないのです。むしろスタートというべきです。一説によると、日本のクリスチャンの平均信仰年数は、2年8か月ということです。短いと思いでしょうか? しかしこれは、10年、20年、30年以上、信仰生活をしている人と平均した数字です。となると、バプテスマを受けてたった数か月以内に教会に行くことをやめてしまう人というのが、とても多い、ということになりはしないでしょうか? このような問題を引き起こす背景には、2つのことが考えられます。ひとつは、バプテスマ準備クラスさえ終えればそれでよしとしてしまう、教会教育の不在、もうひとつは、主の晩さんが単なる儀式としかとらえられず、軽んじられている、ということです。 今日はその中でも、教会の存在の根本に主の晩さんが存在するというテーマでお話しします。本日お読みいただいたこの短い箇所の中に「パンを裂き」ということばが、2回も登場します。それは、すべての教会の基礎の基礎である初代教会にとって、パンを裂くこと、すなわち、主の晩さんを口にすることは、それだけ大事だった、ということではないでしょうか? 「主の晩さん」は、ほかならぬイエスさまが「守り行いなさい」と定めてくださったものであり、つまりそれは必ず守り行うべきものであり、それだけ、厳粛な思いで参加させていただくものです。 この「主の晩さん」を守り行う人は、バプテスマを受けている聖徒です。それはなぜなのでしょうか? それを知るには何よりも、聖書がバプテスマというものをどのように定義しているかを知る必要があります。ペテロの手紙第一、3章18節から21節です。 ……キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。 8人の家族が箱舟の中に入って救われたのは、彼らが、その時代に生きたほかの人よりもよい生き方をしたからでしょうか? そうとは言えません。ただひとつ確実なのは、箱舟の中に入るという、神さまの方法に従えば救われるという、信仰を保っていたからでした。その信仰の実践として、箱舟の中に入ったのでした。 われわれが受けるバプテスマというものも、これと同じだというわけです。バプテスマはその形が形なので、つい私たちは、「みそぎ」のように、それを宗教儀式として体験すれば、きよくなる、きれいになる、と考えてしまいがちかもしれません。実際、バプテスマを連想する記述が旧約聖書にありますが、ヨルダン川に浸かるとナアマン将軍の皮膚病、それも、宗教的けがれの象徴とさえ言えるツァラアトが治ったなどという箇所をうのみにしていると、余計そう思えてきそうです。 しかし、このペテロの手紙第一によれば、そうではない、「健全な良心が神に対して行う誓約」だというのです。 しかし、私たちは罪人である以上、心がけがれていない人などいません。しかし、イエスさまの十字架の血潮は、そのような私たちの心をきよめてくださり、それこそ、健全な良心と見なしていただけるにふさわしく変えていただきました。そのように私たちの心を変えてくださった神さまに対し、これからは自分のために生きるのではなく、神さまのために生きるようにしてください、私はこの人生を神さまにおささげします、と、誓約させていただくのです。 誓約、誓いということは、神さまの恵みの中で初めてできることです。結婚式のとき私たちは、病めるときも健やかなるときも配偶者を愛することを誓うわけですが、そのような誓いを立てても別れるときは別れます。ここ数年私は、そのようにして別れていったカップルの話をよく聞くようになって、つくづく、誓いというものは人間の意志でできることではなく、神さまの恵みがあって初めてできるものであることを思わされます。 神さまの恵みによって献身したい、そう願ってするものがバプテスマです。その願いも、これも神さまの恵みが臨んで初めてできることなわけです。バプテスマはどこまでも、神さまの恵みの中でなされるものです。 人はバプテスマによって、古い自分が水に葬られ、その水から引き上げられて、キリストにあって新しい人として生きる誓いをしたことを、人々の前に公(おおやけ)にします。もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分のうちに生きていることを公にするのです。 その生き方を公にした人こそ、キリストのみからだと血潮にあずかる、すなわち、主の晩さんにおいてパンとぶどう汁の杯にあずかるのです。よく、日曜学校の子どもなど、そのパンとぶどう汁を見て、欲しがるのを私はよく見てきましたが、神さまへの献身をバプテスマという形で表せるほど、神さまと教会において従順の態度を示していないかぎり、やはりこれを口にすることはふさわしくないわけです。 ただ、このようなことを私たちクリスチャンが主張すると、差別だ、と言い出す人が現れないとも限りません。そのような意見を考えてでしょうか、教会の中には、バプテスマを受けていない人にも広く主の晩さんをオープンにする教会もあります。だれでもパンと杯を取れるわけです。しかし私は、どうしてもそのような立場を取ることができません。 それを口にすることは、礼拝に参加したということ以上の意味があります。私はキリストのからだを食べ、キリストの血を飲み、キリストとひとつにしていただいている、つまり、キリストとともに十字架につけられている、自分に死に、キリストに生きる、その誓いをさせていただいている、私はキリストに一生ついていきます、という覚悟がなければ、それを口にすることなど到底できないはずです。主の晩さんとは、そういうものです。 そうだとすると、主の晩さんがクリスチャンにだけ開かれていることは、差別ではないことをご理解いただけると思います。 こんな話もあります。先週お話しした私の友人のことですが、はじめてソウル日本人教会に連れていった日が、なんと、たまたま主の晩さん、聖餐式の日でした。あっちゃー、こういうことで心を閉ざさないかな、私はちょっと心配になり、隣の席に座った友達に、ごめん、洗礼を受けていないと食べられないんだよね、と言いました。すると友達はこう言ったのでした。「あ、食べなくていいのね。」 私はこのことばに、とてもほっとしました。また一方で、友達が主の晩さんの本質をよく理解していたとも思いました。これを食べるということは、神さまに献身していることを表明することである、と。 そう考えると、毎回主の晩さんのたびにお読みしている第一コリント11章27節から29節のみことばの意味がわかってくるのではないかと思います。 ……したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。 ここでいう「ふさわしくない仕方で」とは何か、ということを考える必要があります。 キリストに従うことも誓えないのに、いかにもクリスチャンとして、何か立派な人であるかのように周りに認められようと振る舞う。それは、いけないことであり、それこそ「ふさわしくない仕方」ということです。いつもの主の晩さんにおいては、この29節につづく30節のみことばはお読みしていませんが、30節には、ふさわしくない仕方でパンと杯にあずかる者がいるせいで、コリント教会には、弱い者や病人、死んだ者が数多く現れたのだ、という、かなりぞっとすることばが続きます。 もしかすると実際コリント教会には、そのような目に見える怖ろしいことが起こっていたのかもしれません。しかし、このみことばをこんにちの教会に当てはめてみると、主への従順を誓えない一方で、教会の中で勝手気ままに振る舞う、宗教儀式を行なってさえいれば何をしてもいいなどと考える……そういう教会、クリスチャンは、病みますし、霊的に死にます。私たちが主の晩さんというものを、単なる宗教儀式のように守りさえすればそれでいいのではないことが、このことからもわかります。 しかしその一方で、ある人はこうおっしゃるかもしれません。自分はバプテスマを受けたとき、実は信仰のことがよくわかっていなかった、ということが、あとになってわかった。いま自分には確信がないことがわかった。そんな自分は主の晩さんを受けて信仰生活を送るにふさわしくないのではないか。 そういうことはよくあるものではないかと思います。私のよく知っているクリスチャンの中にも、バプテスマを受けたときに教会から発行してもらった「証書」を、教会に返しにいこうとした人がいるくらいです。要するに、クリスチャンをやめようとしたわけです。 そこまで極端でなくても、主の晩さんのパンと杯が回ってくるときに、何やら後ろめたい思いに駆られるということもあるわけです。自分はこれをいただいていいのか? 自分はこれをいただけるほど、立派なクリスチャンではないよ? しかし、問われるということは、実は私たちがそれだけ、神さまに拠り頼む道が開けているということで、むしろ歓迎すべきことです。むしろ、なにも考えないでパンと杯を取り、平気な顔をして口にする方がよほど問題です。 私たちは、この目の前にあるパンと杯が、主イエスさまのみからだであり、血潮であると考えたら、平気で口になどできるものでしょうか? むしろ、やめてください、私はふさわしくありません! と、叫び出したくなりはしないでしょうか? しかし、そんな私に、取りて食らえ、とおっしゃるのは、イエスさまご自身です。イエスさまは私たちのことを、十字架の血潮で洗いきよめてくださいました。神がきよめたものをきよくないなどと言う権利はだれにもありません。自分自身にさえありません。自分はけがれているから救われないよ、こんなことを言うべきではありません。自分はけがれているから神さまに救っていただくしかないよ、こう言うべきです。 わたしが十字架の血潮で洗ってあげたあなたこそ、わたしのからだと血潮を口にするにふさわしい、イエスさまご自身がそう言ってくださるのです。私たちはこの恵みに拠り頼んで、今日も主の晩さんにあずかりたいものです。 最後に、今日の箇所で、会堂という大きな集まりを持つ一方の、家という小さな集まりの中でパンを裂いた、すなわち、主の晩さんを持った、ということに注目して、メッセージを締めくくりたいと思います。 イエスさまはかつて、男だけで5000人のような大規模な集会で、彼らを満腹させられるほどのパンと魚を用意されたものでした。しかし、イエスさまが記念せよとおっしゃったのは、そのような大規模な食事会ではありませんでした。あるいは、復活のあとでイエスさまが湖の岸辺でペテロたち、漁から帰ってきた弟子たちをパンと魚の朝ごはんでお迎えになったという、感動的な食事の場面も福音書には記録されていますが、これもイエスさまが記念しなさいとおっしゃったわけではありません。 つまり、イエスさまが記念しなさいとおっしゃったのは、大集会の食事でもなければ、屋外のいわば仕事場の食事でもなかったのです。イエスさまが記念しなさいとおっしゃった食事は、人の家の2階の大広間での食事でした。 そう、家です。家で記念して行いなさい、という意味にならないでしょうか? のちに、主の晩さん、聖餐式は、教会の礼拝堂で行うのがつねになりましたが、本来は、家で行うものであったわけです。 そして、その記念の食事は、初代教会においては、毎日会堂で集まるのとは別の、家々での集まりでなされたわけでした。初代教会における主の晩さんはまさに、教会が家である、家が教会であるという精神の中で行われたわけです。 本来、主の晩さんとは家で行われたものだということを、ここで私たちは考える必要があります。いま私たちは、集まる人数もとても少なく、また、ソーシャル・ディスタンスを意識するので、離ればなれになっているとお思いでしょうか? でも、ここはひとつ、この』とんがり屋根の礼拝堂を、ひとつの大きな家と考えていただきたいのです。 この大きな家において、私たちはキリストのみからだと血潮にあずかっていることを記念して、バプテスマをもって神と人との前に誓約した、イエスさまへの献身の思いを新たにするのです。 私たちの献身の歩みは、一人ひとりでするものではありません。この、水戸第一聖書バプテスト教会の家族にならせていただいているどうし、ともに歩むものです。その誓約にともに連ならせていただいている証しとして、本日の主の晩さんを大切に守りたいものです。