元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~
聖書箇所;ルカの福音書15:11~32/メッセージ題目;元始、教会は家であった~その5 教会は帰るべき家、いるべき家~ 本日の箇所はとても有名なみことばです。私たちはこの箇所をお読みして、いろいろなことを思うでしょう。私もこの弟息子のようだった、とか、お兄さんはひどい、とか、いや、お兄さんは正しいことを言っている、とか。 「元始、教会は家であった」シリーズも、本日で5回目となりました。本日は、イエスさまのたとえ話に現れた「家」というものから、「家」なる教会をめぐる人間関係に主はどのようなみこころを持っていらっしゃるか、ともに探ってみたいと思います。 イエスさまのたとえ話は、「ある人に二人の息子がいた」ということばから始まっています。このお話の中でもっとも大事な登場人物は、「ある人」、つまり「お父さん」です。この人が神さまのことであるのは、説明するまでもありません。神さまから見て2種類の人間、それが弟息子と兄息子であるわけですが、まずは弟息子のほうから見てみましょう。 弟息子はどんな人のことでしょうか? 父親の財産をせしめ、父親から遠く離れて別の国に行き、そこで湯水のごとく財産を使い、放蕩のかぎりを尽くした人間です。 これを、神さまと人間との関係に当てはめてみましょう。私たちの持つすべての財産は、ことごとく神さまのものです。しかし人間は、あたかもその所有権が自分にあるかのように振舞うのです。神さまなど関係ないように生きるのです。好き勝手に生きるのです。人間みんな放蕩息子です。 しかし、罪からの報酬は死です。人間は神さまから離れ、好き放題に生きるならば、必ずどこかでその罪の刈り取りをします。そのことをこのたとえ話でイエスさまは、折からの大飢饉に食い詰めて人のところに身を寄せたら、豚の世話をさせられたということにたとえておられます。 ユダヤでは、豚はけがれた動物ということになっていました。そういう戒律です。今私たちクリスチャンはすべての食べ物の戒律から自由になっていて、おいしい豚肉を食べられてありがたいかぎりですが、このたとえ話を聞いていたのは、パリサイ人や律法学者を含めたユダヤ人です。 とかく形から入ることで自分たちはきよいと思いたがるパリサイ人にとって、豚の世話をするなどというたとえ話は、かなりショッキングに響いたはずです。 悪臭ふんぷんたる場所で働かされたこの放蕩息子は、きわめてひもじい思いさえしていました。16節です。「彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」 火も通っていない家畜のエサなどだれが食べるというのでしょうか。しかし、それさえも彼は食べることを許されませんでした。豚のほうが大事なのです。お前が飢え死にしようと知ったことじゃない、勝手に死ね、この家の主人は、そんなことさえ言っているかのようです。 放蕩のすえに食い詰めて彼が身を寄せたこの家の主人は、サタンを象徴していると言えましょう。この世の君は、人を快楽で操り、手先としてこきつかって、ついにはぼろぼろにして、死んでいくに任せます。この世にはサタンの軍門に下った放蕩息子が、なんとたくさんいることでしょうか。 しかし、彼はそれで終わりではありませんでした。17節をご覧ください。「しかし、彼は我に返って言った。」我に返って。この部分、赤い字で印刷して、はっきり読めるようにしたいくらいです。自分の居場所はここではない。帰ろう。恥も外聞も捨てて。 いまさら合わせる顔がないと思ったことでしょう。弟息子は、父親に財産を分けてくださいと申し出たときには、それを元手に一旗揚げて立派な人物になる、そんな青雲の志さえ父親に語ったかもしれません。ところがふたを開けてみれば、一文無し、すってんてんのすっからかんで、何一つ誇れるもののない、ただの罪人です。彼は思いました。もう息子と呼んでいただく資格はない。雇い人の一人にしていただこう。 しかし、なんということでしょう。父親はいつも、家からずっと離れたところに立って、彼のことを待ちわびていたのでした。そして、ついに、遠くに彼のことを見つけました。駆け寄って抱きしめ、口づけしました。罪の汚れにまみれたこの子のことを、父はその威厳もかなぐり捨てるがごときに、受け止めてくれたのでした。 これが、御父の姿なのです。だいじな子どもは背を向けて去っていく、好き放題する、そんな子どもがその罪の刈り取りをすることになっても、御父はただじっと待っておられるのです。どんな思いで待っておられることでしょうか。 しかし、このお方のもとに戻る恵みはわれわれに臨むのです。我に返る恵みをなお、神さまは与えてくださいます。戻ることができるのです。 父は、弟息子が戻るのを、ずっと待っていました。そして、戻ってきた彼のことを、その姿のまま抱きしめてくれたのでした。彼は言いました。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」 彼はこのことばに続いて、あなたの家の雇い人のひとりにしてください、と言うつもりでした。しかし父親は、みなまで言うな、とばかりに、息子のことばを聞かなかったかのように、しもべたちに言いました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履物を履かせなさい。」罪人のきたない恰好のままでいさせません。きれいな格好に飾ってくれました。中でも注目すべきは「指輪」です。これは、父親が自分のすべてを譲り渡す証拠です。雇い人どころではありません。立派な「跡継ぎ」です。 23節もお読みください。「そして肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。食べて祝おう。」父を離れ、悪の世界に身を置くかぎり、豚の餌さえ食べられなくなった者が、なんと肥えた子牛のパーティです。しかもこのパーティの主人公です。救われるということは、こういうことなのです。 救われるとはどういうことか、いみじくも父親が24節で語っているとおりです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。私たち人間は、創造主なる神さまのもとに帰るまでは、みな死んだ者、いなくなっていた者です。行きつくところは滅びです。しかし、そのような者でも救っていただきました。 元始、教会とは、神さまを父とする家であります。救われる人が起こされるたびに、このような喜びが繰り広げられる場所、それが教会なのです。だれかにこの喜びを味わってほしい、私もこの喜びを味わいたい、そこから、伝道ということに対してやる気が出てくるのではないでしょうか。 教会、父の家とは、人の帰るべきただひとつの場所です。ここに帰ってくるまでは、人はさまよっており、どこに行くべきかわからず、たえず不安に支配されます。しかし、父の家に帰るならば、安全であり、安心です。あとは、もう離れないだけです。 私たちは、救われた時の感動を思い起こしましょう。帰るべき家に来た! みんなでともに神の国を継ぐ者とされた! 私たちは救われたゆえに、教会という神の家から離れてはいけません。 さて、ここに、兄息子が登場します。彼は畑で働いていました。そこに、家からパーティの歌舞音曲が聞こえてきて、何事か、と思いました。それが、弟が帰ってきたからだと知ると、怒って、家に入ろうともしませんでした。 父はそんな兄息子を見るに見かねて、家の外に出てきて彼をなだめました。しかし、彼は訴えます。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」 さあ、みなさんなら、この兄息子のことばを聞いて、どのように思われるでしょうか。およそ宗教というものは善行ということを説きますが、そのような見方からすれば、この兄の言っていることは筋が通っているように思えないでしょうか? しかし、繰り返しますが、イエスさまのこのたとえ話は、パリサイ人や律法学者を含むユダヤ人たちを相手に語られたお話です。彼ら宗教指導者たちは、イエスさまが取税人や罪人のような者たちのことを受け入れて、食事さえ一緒にしていることを快く思わず、ケチをつけたわけでした。そんな彼らに対して、イエスさまがこのたとえ話を語られたということを前提に、考えてまいりたいものです。 パリサイ人のような人ならおそらく、この兄息子のようなことを言いかねなかったことでしょう。自分の行い、正しさを主張し、罪人を決して許さない、受け入れない。彼らからすれば、神さまがそんな罪人さえ受け入れるだなんて、到底、理解できなかったはずです。 しかしイエスさまは、そんなパリサイ人に対しても、やさしい心を持っていらっしゃいました。私たちは読みかじりの程度に聖書を読むだけだと、イエスさまはパリサイ人に対して、ただひたすらに厳しい、こわい、という印象を持つかもしれません。マタイの福音書の23章など読むと、イエスさまは口を極めて、パリサイ人のことを罵っておられるくらいですので、余計そう思われるかもしれません。 しかしイエスさまは、パリサイ人の言動を問題にされてはいても、パリサイ人の人格まで呪っておられるわけではありません。むしろ、兄息子に例えられたパリサイ人に対する御父の御思いをこの父親のことばから読み取るなら、とてもやさしいお方、ということがわかると思います。 まず、父はなんと言っていますでしょうか? 31節です。「父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」 兄息子はそれまで、いろいろな問題にとらわれていました。まず、父の戒めを守り行なってきたことが、結局は父に認められていないように思えてしまったこと、それは、その愛の表現として子やぎ一匹もらえなかったからたしかにそうだと思ったこと、それなのに、戒めを破り放題で財産を使い果たした奴に対し、父はとても寛大であることに怒りを燃やしていたこと……。 それは何が問題だったか。まず彼は、正しい行いで自分の正しさを父に認められようとしていました。しかしこれでは、きりがありません。99パーセント正しくても、1パーセントが正しくなければ、すべてが正しくない、人間に対するきよい神さまのありかたは、そういうものです。結局人間は、神さまのほんとうのみこころがわからなければ、的の外れた努力を繰り返すしかないものなのです。 そして彼は、自分が充分に父に愛されていることも考えないで、わかりやすい形で父の愛を受けた弟に嫉妬しました。そう、これは嫉妬なのです。正しくふるまう努力を怠らない自分は認めてもらえないのに、放蕩のかぎりを尽くしたこいつはとっても愛されている……。 私たちが信仰生活をするうえでしてはならないことがあります。それは、「ほかの兄弟姉妹と比較をする」ということです。これほどみじめになるか、傲慢になるかして、自分にさんさんと注がれている神さまの愛を見失わせるものはありません。それもそのはずです、神さまに向けるはずの目を、人に向けているからです。完全な神さまを見上げて、自分も完全なものにされている喜びを味わう代わりに、不完全な他人か、不完全な自分を見て、不完全な信仰を持つしかなくなります。 そんな不完全な人、みじめな人の代表選手が、この兄息子です。そんな兄息子に、父はとてもやさしいです。まず、呼びかけてくださいます。「子よ。」そうです、父の気持ちも知らないで文句を言うような彼のことを、もう子ども扱いしない、そんな父親ではありません。おまえも子どもだ。愛するわが子だ。 どんな子どもなのでしょうか。おまえはいつも私と一緒にいる。そうです。遠い国、サタンの国に行くことがなく、父の家にとどまりつづけていることは、なんという祝福なのでしょうか。 そして、私たちはただ神さまとともにいさせていただいているだけではありません。もちろん、それだけでも充分に祝福と言えますが、それだけではないのです。「私のものは全部おまえのものだ。」父なる神さまのもの、天の御国を、イエスさまを信じる信仰のゆえに受け継がせていただけるのです。子やぎどころではありません。天国そのものです。それをまるごと受け継がせていただいているとは、どれほど大きな祝福でしょうか。 だから私たちは、神さまからいただく祝福というものを取り違えてはいけないのです。神さまの祝福をいただいている私たちはこの世においても繁栄する、などと教える牧師や教会は人気があるものですが、ほんとうの神さまの祝福というものは、必ずしも目に見えるものとはかぎりません。 しかしただひとつ確実なことは、私たちはすでにその祝福、天の祝福を、この地上において受けており、のちの世で永遠のいのちとともにこの祝福を完全にいただく、ということです。だから、この天の祝福につねに目を留める、霊的な目をいつも備えさせていただくように、私たちはどんなときにも神さまと交わりを欠かさないでまいりたいものです。 しかし、そのような天の祝福をいただいているということは、同じイエスさまの十字架により罪赦され、贖われて神のものとされた、兄弟姉妹を愛するという形で実を結んでしかるべきなのです。32節で、お父さんは何と言っているでしょうか?「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 父の戒めを落ち度なく守っていることを誇りにしていた兄息子は、パリサイ人や律法学者のような宗教指導者を暗に指していましたが、このような人は、この神の家、教会の中にもいるものです。私こそ兄息子かもしれない、そう思っていただけるなら、それはすばらしいことです。 なぜなら、このままでは兄弟姉妹をさばく、つまり、同じ神さまから生まれた愛すべき存在を遠ざけることを、当然のことのように思う、自分さえよければそれでいい、心の冷たいクリスチャンになってしまうからで、そんな自分のことを悔い改めるならば、御父のみこころどおり、愛にあふれた素晴らしいクリスチャンになれるからです。 私がメッセージの中で何度も申し上げていることですが、福音書があれだけ、パリサイ人を責めることばに満ちているのは、パリサイ人とちがって私は恵みによって神さまのものとされている、などと、悦に入るためでは決してありません。そうではなくて、これを読むあなたの中にもパリサイ人の要素があります、恵みにとどまりたければ悔い改めなさい、と戒められているからです。パリサイ人とは、私たちのことです。兄息子とは、私たちのことです。 兄息子は、家の中に入ろうとしませんでした。これは象徴的です。兄弟を受け入れず、さばくということは、教会という神の家の中に、父とともにいようとしないということを意味します。これは不幸なことです。 兄息子は家で何が起きているかに関心も払わず、いえ、もしかすると、毎日のように出ていって弟を待ちつづける父の心も知ろうともしないで、その日も畑にいて仕事をしていました。しかし、それを父は喜んだでしょうか? 父とともにいて、喜びを分かち合わないならば、畑仕事に精を出すがごとく、行いで認められようとしたところで、何にもなりません。 私たちも同じです。私たちは父の心を知って、父とともにいることを選ばなければなりません。そうすれば、父の願いどおり、兄弟姉妹を受け入れ、愛する思いが生まれてきます。神の家、教会は、中に入ってとどまるべきところです。 私たちは弟息子のように、戻るべき場所に戻りました。しかし今からは、兄息子のような自己中心、律法主義を、たえずみことばと祈りをとおして悔い改めながら、父に似た者としてともに成長していく群れとなりたいものです。そのために今日、私たちはどんなことを決心しますでしょうか? 初めの愛に帰りましょう。ありのままを受け入れてくださった御父の愛を思えば、私たちもまた、兄弟姉妹を受け入れることはできるはずです。それを阻む自己中心が、主の御手によって取り去られますように、私たちは真剣に祈りたいと思います。