恵みに目が開かれる
聖書箇所;創世記21:1~21/メッセージ題目;恵みに目が開かれる 私は、独身時代から結婚を経て、下の娘が生まれたころまで、千住(せんじゅ)という東京の下町にある韓国人教会で働いていました。私もまだまだ若かったころで、いろいろな想い出がありますが、その中でも忘れられないのが、上の娘が1歳の誕生日を迎えたとき、教会のみなさまに祝っていただいたことです。 韓国人ばかりが集まって韓国語で礼拝をささげる教会なので、行事の持ち方も韓国式になります。1歳のお祝いというのは、韓国社会では特別な意味を持つものでして、「トルジャンチ」という特別な呼び名もあるくらいです。このトルジャンチを教会のみなさまに祝っていただいたわけです。私ども夫婦はみなさまのお祝いに感謝して、お餅をお配りしました。 お餅といっても、日本式のお餅ではありません。日本で暮らす韓国の人たちを相手に、ちょっと離れた西新井(にしあらい)という町にある韓国式のお餅を売るお店から、わざわざ取り寄せたものでした。教会のみなさまにも喜んでいただけたと思います。懐かしい想い出です。 私どもにとっては、このトルジャンチは日本にいながら韓国式に持ったこと以上に、特別な意味がありました。娘は、3か月早産、27週の超未熟児で生まれており、特に、かかりつけの産婦人科で手の施しようがなくなり、救急車で1時間かけて大学病院に運ばれたときなど、私はおそらく、それまででいちばんいっしょうけんめいにお祈りしたのではないかというくらいに祈ったものでした。 そのような娘を、神さまはしっかり育ててくださったのでした。ああ、よく育ってくれた! まことに、このトルジャンチは、感慨深いものがありました。 私どもですらそうだったのですから、アブラハムとサラの間に生まれたイサクが、乳離れまで果たしたとは、彼らにとってどれほど大きな喜びとなったことでしょうか。何しろ100歳、90歳のときに生まれた子どもです。こんなに年を取ってしまったとは、子どもだけでなく、親も心もとないところです。それが無事に育ってくれて、親も達者でいたとは、喜びもひとしおというものです。 ところが、この喜びが一転、家庭の不和と深刻な悩み、そして別れへとつながるという、聖書を読んでいてもとてもつらいできごとへとつながっていきました。そんな今日の箇所は、私たちに何を教えていますでしょうか? ともに見てまいりたいと思います。 まず、1節と2節のみことばを見てみましょう。神さまは約束を果たされて、サラの身からイサクを生まれさせてくださいました。ここからわかることは、神さまは約束を果たして、人を顧みてくださるお方である、ということです。サラからご自身の民を生まれさせてくださると約束してくださった以上、そのとおりにしてくださるのです。 このように神さまが、特別な約束を果たしてくださったことは、アブラハムとサラにどのような祝福をもたらしたでしょうか? 3節のみことばです。 名前に注目しましょう。イサクという名前、これは欄外の脚注にもありますように、「彼は笑う」という意味です。この「笑い」はサラにとってどんな意味を持っていたかは、6節のみことばを読めばさらによくわかります。そうです、サラはここで、ようやくほんとうの意味で、にっこりと笑うことができたのでした。 サラはかつて、御使いの訪問を受けて、男の子を産む、と告げられたとき、こんなお婆さんが子どもを産むなんて、と、笑いました。その笑いはうれしくてにっこりと笑うその笑いではなく、年老いてついに子どもを授からなかったおのが身の悲しさに皮肉な笑いを浮かべた、その笑いです。 そのサラが、このように約束の子どもを授かり、ついにほんとうの意味で「笑う」ことができるようになったのでした。神さまが約束をかなえてくださるということは、「笑い」を回復させてくださる、ということでもあります。 その笑いに満ちた時間、それが、盛大な乳離れの宴会でした。この宴会は、だいたい3歳くらいになると催されたといいます。まさに、年寄り子が寵愛を一身に受けていた様子が伝わってくるようです。 ところが、この笑いに満ちた家族の喜びが、一転して悲劇にたたき落とされます。きっかけとなったのは何でしょうか? 皮肉なことに、これも「笑い」だったのでした。 9節をご覧ください。エジプトの女ハガルがアブラハムに生んだ子、これはイシュマエルですが、イシュマエルがイサクをからかっていた、とあります。この「からかう」ということばをいろいろな聖書の翻訳を比較して読んでみると、「戯れていた」「遊んでいた」という訳もある一方で、「笑っていた」という訳もあります。 しかしこのときイシュマエルの取った行動は、聖書原語のヘブライ語のニュアンスから見ると、イシュマエルは笑うは笑うでも、イサクのことを「あざ笑っていた」と解釈するのがいちばん妥当で、この新改訳聖書の「からかっていた」という表現は的を射ていることになります。 イシュマエルのこの行動がサラを怒らせ、ハガルもイシュマエルも追い出してください、ということになったわけですが、これは、弟をからかうなんて子どもとしてよくあることではないか、何もそんなに目くじらを立てなくても、という問題ではありません。 このときイシュマエルは、乳離れして3歳にもなっていたイサクよりも13歳年上なので、すでに16歳になっていました。イサクがいかに幼児といえども、アブラハムとサラとの間に生まれて家督を継ぐ正式な跡取りとなり、神の民を生み出す源となっていたことを知らないはずがないばかりか、そのことの持つ重みを、イシュマエルは充分に理解していてしかるべきでした。 それが、そのようにからかった、あざ笑ったということは、神さまがイサクに与えられた神の民の源としての権威を無視することでした。サラが耐えがたい思いをしたのは、自分が産んだわけではないイシュマエルがイサクを馬鹿にすることに対してともいえますが、サラの怒りがかきたてられたことは、大局的に見れば、主の大きなみわざが行われる契機となったのでした。 こうまで神の権威をないがしろにするイシュマエルは、やはりアブラハムのあとを継いで神の民に数えられるにはふさわしくなかったのでした。イシュマエルはやはり、出ていかなければならなかったのでした。 しかし、アブラハムは悩みました。もとはといえばイシュマエルは、自分のあとつぎにすべくもうけた子どもであり、まだイサクが生まれる前には、自分に与えられた神の民としての祝福を受け継ぐ存在としてずっと育てつづけてもきたわけです。 そもそも、アブラハムとサラが待ちつづけることができて、神の時にしたがってイサクひとりをもうけていればこんなことにならなかったのです。アブラハムは自分のしたこととはいえ、きわめてつらいかたちで刈り取りをすることを迫られていました。 しかし、神さまはそのように苦境に陥ったアブラハムに、助け舟を出してくださいました。どのようにしてでしょうか? みことばを語られることによってです。12節、13節をお読みください。 ここからわかることは、人は神さまの御手に悩みをゆだねるならば、神さまはその悩みから解放してくださる、ということです。苦しんではならない、そう神さまは語ってくださいます。 ここで神さまは、わたしはあなたに約束したとおり、イサクからあなたの跡継ぎとなる民を増え広がらせる、とおっしゃいました。しかし、神さまはイシュマエルを切り捨てられたわけではありません。イシュマエルからも民を増え広がらせることで、神さまはアブラハムに与えてくださった祝福を実現してくださることを約束してくださったのでした。 世に、望まない妊娠、などということばがあります。望まないのに妊娠したからと、中絶を考えたりします。しかし、子どもをみごもらせてくださることは神さまの主権のうちにあると考えるならば、望まないのはあくまで人間の側であり、神さまにとっては「望まない」ということはないはずです。 この、イシュマエルの存在も、イサクが乳離れするほどに育った今となっては、特にサラにとっては「望まない」存在となっていたかもしれません。しかし、「望まない」のは人間の都合であり、神さまはイシュマエルが生まれることを望んでおられたのです。 神さまがみこころのままにみごもらせ、出産させ、育ててくださった以上、「望まない」ということはありえないのです。神さまはイシュマエルをとおしても、民を増え広がらせる祝福を約束してくださいました。 14節をご覧ください。アブラハムは、翌朝早く、ハガルとイシュマエルを家から出しました。決断と行動は早くしなければならなかったのでした。ハガルは正妻ではなく、奴隷の身分です。主人に言われたならばそのとおりに従わなければなりませんでした。 食べ物と水の入った皮袋を持たせたといっても、そこから先のことまでアブラハムは責任を持つことはできません。あとは、ハガルとイシュマエルで何とかするしかありませんでした。しかし、荒野をさまようのもむなしく、ついに水は尽きてしまいました。 イシュマエルももはや、精も根も尽きたのでしょう。イシュマエルを荒野に立つ灌木の下に放り出すと、ハガルはそこから離れました。ハガルは遠くからイシュマエルの姿を見つめていて、声を上げて泣きました。 思えば、ハガルの人生は、奴隷という立場ゆえに、アブラハムの身勝手さに翻弄されてばかりの人生でした。もともとハガルはエジプトの人でしたが、アブラハムがエジプトに落ち延びてサラを自分の妹だなどとファラオに偽り、その際にファラオがアブラハムに贈った奴隷の中にいたのがハガルでした。そして、神さまの約束を待ち切れなかったアブラハムの子どもをみごもる羽目になったのもハガルでした。ハガルはその身重の身で、サラにいじめられて逃亡し、神の声を聞いてアブラハムのもとに戻ったりしました。 ハガルが泣き叫んだのは、そんな翻弄されてばかりのおのが悲しさのゆえでしょう。「笑い」という意味の名前が与えられたイサクのゆえに追放されることになった自分たちは、もはや笑いとは正反対の身に置かれました。なんと皮肉な生き方を強いられたことでしょうか。 しかしハガルは、神さまを恨むべきではなかったのでした。神さまは何をしてくださったのでしょうか。17節です。……神さまはハガルの泣く声を聞いてくださいましたが、それ以上に、イシュマエルの声を聞いてくださったのでした。イシュマエルとは、「神は聞く」という意味です。まさに、イシュマエルの存在が衰え果てようとしていたとき、神さまはイシュマエルの、声にならない声を聞いてくださったのでした。 イシュマエルは、放っておかれてはならなかったのでした。主のみこころは、ハガルがイシュマエルを放っておいて、死ぬに任せることではない、イシュマエルをしっかり抱きしめ、元気づけることだったのです。 そのとき主は、ハガルの目を開いてくださいました。するとそこには、井戸がありました。もうこれでイシュマエルは死ぬことはありません。イシュマエルは元気づきました。 イシュマエルは神に見捨てられた人ではありません。かえって、神さまはイシュマエルとともにいてくださり、荒野にあっても自分で身を立てて成長するすべを身に着けたことをみことばは語っています。のみならず、結婚まで果たしました。ここから神さまは、先祖をアブラハムとする民を生まれさせてくださったわけでした。 以上見てきたところから私たちが学ぶこと、それは、約束の民に属さない者に対する、神さまのかぎりない恵みとあわれみです。 神のみこころを正しく受け取ることをしなかったアブラハムとサラに翻弄されることになったのは、ハガルとイシュマエルの責任ではありません。しかし神さまはそれでも、イサクからご自身の民を増え広がらせるというご自身のみこころを成し遂げるために、ハガルとイシュマエルをアブラハムのもとから去らせました。イシュマエルは約束の子どもではなかったからでした。 そんな神さまは薄情なお方なのでしょうか? 私たちはそう考えてはなりません。このようなイシュマエルの民に象徴される異邦人も、ほんとうの意味でアブラハムの子どもとして回復されるべき時が来ます。それは、神の御子イエスさまを信じる時です。 エペソ人への手紙2章11節から19節をお開きください。特に12節、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人である、異邦人とはそのような存在ですが、それはすでに、イサクとちがって跡取りから除外されたイシュマエルにすでに、このような悲惨な異邦人の現実は実現していました。 しかし、彼らのそのような悲惨な現実も、イエスさまの十字架を信じ受け入れることで、ほんとうの意味でアブラハムの子孫となることにより、祝福へと変えられるのです。 いま、アラブ人の宗教であるイスラム教は、自分たちが先祖イシュマエルをとおして神の祝福を受け継いでいると教えます。しかしこれは、聖書の教えとは相受け入れるものではありません。ほんとうに祝福を受け継ぐのは、イエスさまを信じ受け入れることによってです。 イシュマエルの子孫を祝福するという神さまのみこころは、今や世界の一大勢力となった、われらキリスト教会と同様に一神教であることを主張するイスラム教が勃興したことで実現したわけではありません。イスラム教は、イエスさまのことを預言者と見なそうと、神さま、主としてお従いしているわけではありません。 一部では、私たちの信じるイエスさまの父なる神さまとイスラム教の神であるアッラアが同じ神であるなどと解釈して、キリスト教とイスラム教を一致させる「クリスラム」または「キリラム教」などと呼ばれる神解釈を推進させる運動がありますが、聖書的に考えるならば、これは間違いです。 しかし、そのような非聖書的な運動が推進される一方で、アラブ社会の中には迫害をものともせずにイエスさまを信じる人たちが起こされているのをご存じでしょうか。彼らアラブ社会のクリスチャンたちは、ほんとうの意味で、イシュマエルが引きついだアブラハムの子孫としての祝福を受け取っているのです。 イシュマエルの子孫が祝福されているという、その祝福は彼らによって実現しているのです。迫害を避けて妥協して「キリラム教」などと主張するのと、アラブ社会の中で迫害されようともイエスさまを純粋に信じようとするのと、どちらが聖書的か、すなわち、まことの神さまのみこころにかなっているか、言うまでもないことです。 ひるがえって、私たちのことを考えてみたいと思います。私たちはもしかして、イエスさまを否定し去るような日本の社会に生まれたことで、神さまを恨んだりしてはいないでしょうか? あるいは、キリスト教社会としての長い歴史を持つ欧米をうらやんだりしていないでしょうか? しかし、その必要はないのです。私たち日本人が、世々の聖徒とともに恵みを受け継ぐことはないなどと、だれが決めつけるのでしょうか? 私たちはそのような中でも、キリストの十字架を信じる信仰を与えていただき、すべての時代、すべての世界の兄弟姉妹とともに、神の民にしていただいているのです。 ハガルとイシュマエルをあわれんでくださった恵みの神さまは、約束の民から除外されたまま生きていたと思わされていた悲惨さから救ってくださったように、私たちのことも救ってくださいます。いま私たちの周りには、神さまから見放されたとばかりに悲しみの中にいる方がいらっしゃるかもしれません。 そんな方々に対し、神さまの恵みに目を開かせた御使いの役割を果たすのはだれでしょうか? 私たちではないでしょうか? 私たちも恵みによって救っていただいたように、そのような方々が神さまの恵みに目を開くために私たちのことを用いていただけるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。 そのためにもまず、私たちが、神さまの恵みに目を開いていただきましょう。そうしてこそ私たちは、愛する同胞、家族を主のもとにお連れすることができます。自分のことしか見えなくなり、何も見えなくなっていたハガルが、目の前の井戸に目が開かれ、死にかかっていたわが息子、イシュマエルを生かすことができたようにです。 私たちは異邦人であろうとも、キリストの血によって神の民に加えていただいた。この恵みに日々感謝し、私たちを愛して召してくださった主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。