過越と十字架を巡る人々

聖書箇所 ヨハネの福音書11:53~57/メッセージ題目「過越と十字架を巡る人々」  今週のみことばは、これまで学んできたヨハネの福音書11章の終わりの部分で、とても短い箇所です。しかし神さまは、この短い箇所からも私たちにいろいろなことを教えてくださっています。 イエスさまが、その友ラザロをよみがえらされるにあたって、神の時にしたがって歩まれたことは、すでに学んだとおりです。そして、そのすべての歩みの究極の目的は、父なる神さまのご栄光を顕すことにありました。 ラザロのときだけではありません。イエスさまはすべての歩みにおいて、父なる神さまの時に従って歩まれました。それが、御父とひとつということであり、御父に従順であったということです。  私たちも、御父に従順であることが求められ、また、そのように教会で教えられます。しかし、人のレベルでは、神の時に従って生きるということは、そうと意識をしようとしても簡単なことではありません。私たちはただ、私たちの心の中にお迎えしているイエスさまがつねに神の時に従って歩んでいらっしゃるゆえに、私たちもまた、イエスさまに導かれて神の時に従って歩むことを許されるという。その信仰を持ち、主と主の時に信頼する必要があるわけです。  私にとっても時というものはありました。その最も顕著だったのは、1989年7月26日の深夜です。そのとき私は15歳、高校1年生で、すでにイエスさまを信じてバプテスマも受けていましたが、信仰と実際の生活はまったく別々のものになっていて、それに葛藤を覚えることもありませんでした。  しかしそんな私も、自然気胸という肺の病気でたびたび入院し、いやでも自分の弱さと向き合わなければなりませんでした。その夏も私は病気を発症し、手術を伴う入院生活を余儀なくされていました。ところが、大きな手術になるはずだったのが、病院を変わるとまったく簡単な手術で終わり、あっという間に退院となりました。そればかりか、入院をとおして友達ができたりして、苦しいはずの闘病生活がとても楽しいものとなりました。退院2日前の夜、1989年7月26日、私はなぜこのようなことが自分に起こったのか、病院のベッドでまんじりともせずひとり想い巡らしていました。 そのとき、それは神さまが私のことを特別に選び、愛してくださっていたからだという示しが与えられました。私はすっかりうれしくなり、興奮して眠れなくなり、しかし入院生活は睡眠をとらなければならないわけで、睡眠薬をもらってようやく眠りについたというわけでした。 私はこのことを通して、神さまの近くにいさせていただくように人生が変わりました。この喜びを私は、教会の日曜礼拝の時間に証しという形でお話しさせていただいたものでした。 これが、時というものであると私は体験しました。それまでの不信仰を信仰に変えていただいた「時」でした。その体験から確信を持って言わせていただきますが、人それぞれの時は、主がそのご主権をもって導いていらっしゃいます。要は私たちが、その、神の時にあらがわず、主に従順になることによって、その時その時に従って歩ませていただき、主に用いられることです。 イエスさまのこの、荒野に近いエフライムの町に退かれたことも、イエスさまが神の時に従順であることというポイントから説明できます。カヤパによるイエスさま殺害のプランがユダヤ最高会議にて採択された以上、彼らはすぐにでもイエスさまを逮捕し、死刑に処することを願ったわけです。しかしイエスさまが死なれるということは、神の民を御父の怒りから過ぎ越させる過越の子羊としてほふられる、ということを意味していました。この年の過越が、神の目から見て最後の過越、究極の過越となるためには、イエスさまはすぐ逮捕されて死刑に処されてはならなかったのでした。過越の時が満ちる必要がありました。イエスさまは荒野の町に退かれ、その御父の時を着々と待たれたのでした。 しかし、イエスさまはこの退かれる時間を、おひとりでは過ごされず、弟子たちとともにお過ごしになりました。イエスさまにとって御父と過ごす特別な時間に伴わせていただく特別な存在、それが主の弟子です。私はよくこのメッセージにおいても、それ以外の牧会の現場においても、「弟子訓練」ということを強調させていただいていますが、それは他人を凌駕する何やらすごい人にならせるための訓練だったり、牧師や教会という組織に絶対服従する人を育てるためのプログラムであったりはしません。言うなれば、「どんなときにもイエスさまとともにいる」訓練です。おわかりでしょうか? イエスさまが私たちといつもともにいてくださるということは、見方を変えれば、イエスさまのおられるところにいつも私たちがいさせていただく、ということです。たとえば私たちは、隣人やこの世界を覚えて、とりなしの祈りをすることが主から求められています。これは、いま天の御国において、御父の右の御座にてひたすらとりなしの祈りをささげてくださっている、イエスさまのそのお祈りにともにあずからせていただくということです。 イエスさまとともにささげる祈りである以上、それは主のみこころにかなっているものであるべきで、そうなっているならば、神さまは必ずその祈りを聞いてくださる……その信仰をもって、イエスさまの御名によってとりなして祈るのです。 またイエスさまは、ゲツセマネの園にて血の汗を流して祈られたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちにも、そこにともにいて、目を覚まして祈るようにおっしゃいました。私たちも時に、血の汗を流して祈らなければならないようなときがあることでしょう。それは、イエスさまのゲツセマネの園の祈りに、ともにいさせていただくということであり、そのときもし私たちが、肉体と精神に限界を感じてそれ以上祈れなくなったならば、それはペテロやヤコブやヨハネがそうだったように、心が燃えていても肉体が弱かった、その弱さを主にあって思い知らされ、主の御前で認めることになります。 しかし、それにとどまりません。その弱さをイエスさまの十字架の贖いによって覆っていただく体験をすることであり、それもまた恵みの体験となるのです。いずれにせよ私たちは、ゲツセマネの園で血の汗を流して祈られた、イエスさまの祈りに伴わせていただく恵みをいただくのです。 このように私たちは、イエスさまとともにいるべく召されています。しかし、ともにいるためには、私たちの側からも「歩み寄る」必要があります。そのためにも、みことばと祈りにより、一定の訓練を私たち自身に課す必要があるわけです。 この、11章54節の時間もまた、十字架の受難を前にした、イエスさまにとって大事な時間であり、そこに弟子たちが伴わせていただいたということでした。私たちもまた、聖書をお読みしてイエスさまの歩みにふれるとき、その歩みに伴わせていただく恵みを、そのたびごとに体験します。イエスさまが退かれて十字架に備えられたそのときに、私たちも伴わせていただくのです。 では、その時間は私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか? それは、私たちもまたイエスさまのあとについて十字架を負う者になるために、イエスさまのそばにいて、祈りをもって備えよ、ということです。 私たちはバプテスマを受けてクリスチャンになったら、自動的に主に従順な敬虔の生活を送れるようになるのではありません。主にお従いするように、自分のために祈り、教会の兄弟姉妹のために祈って、私たちの従順の意識が育つようにしていただかなくてはなりません。 はっきり申しまして、十字架を負ってイエスさまのみあとを従う生き方は、はやりの生き方ではありません。人気のある生き方ではありません。しかし私たちは、この生き方が何にも替えることのできない恵みの生き方、喜びの生き方であることを知っています。 ただ、この生き方をする上で、私たちの中には、肉を満足させたい思い、世の友となりたい思いがつねにあり、十字架を背負う生き方、従順の生き方を邪魔するものです。 だから私たち教会は、この生き方をともに最後まですることができるように、励まし合い、祈り合う必要があるのです。それが、イエスさまの苦難の場に伴わせていただいている私たち、主にある兄弟姉妹に求められている姿勢です。見てください。イエスさまが伴われたのは、「ひとりの」弟子ではありません。弟子たちという「共同体」です。私たちもまた、ひとりひとりで信仰生活を送っているのではありません。「ともに」イエスさまのみあとをお従いするのです。 いま、この世はまたもやコロナウイルスの流行を意識しなければならない時勢になり、礼拝に来ることも多数の人前に出ることである以上、感染を念頭に置くと控えざるを得ないという判断が下されるようになりつつあります。それはもちろん、主の宮なるからだを守るという次元から考えるならば、尊重されるべきことではあります。 しかし、同時に忘れてはならないことは、各自の家でインターネットなりCDなりで礼拝をささげることになったとしても、私たちは礼拝の共同体をなすひとりであるということです。私たちは孤独であると考えてはなりません。自分はキリストのからだという共同体を形づくっている一員であるという意識と自覚を、つねに持っていただきたいのです。 また、こうしてともに集っている私たちは、ここに来ることができないでいる兄弟姉妹を覚え、その兄弟姉妹はここにいなくてもともに共同体を形づくっている家族であるということを意識し、とりなして祈っていただきたい、できればメールなり電話なりお手紙なりで励ましていただきたい、ということも思います。この励ましととりなしの祈りのわざは、牧師だけがするのではなく、教会でともに取り組んでいただきたいと願います。 さてそれでは、55節にまいりたいと思います。このときエルサレムには、地方からも多くのユダヤ人が集まっていました。 彼らは過越の祭りに備えて、宗教的に身をきよめる期間をしっかり持とうとしていました。ユダヤ人にとって過越の祭りは、それほど大切なものでした。しかしこの年においては、ユダヤ人たちが過越の祭りにおいて、特別に大きな関心をいだいていたことがありました。56節です。 そうです、イエスさまが来られるかどうかが、彼らにとって大きな関心事でした。イエスさまはユダヤ人の王として待望されていたお方で、この方をエルサレムにお迎えして過越の祭りの時を持ったならば、彼らユダヤ人にとっては忘れがたい祭りになるのはたしかなことでした。 しかし57節をご覧ください。イエスさまを見かけた者は当局に通報せよ、とのお触れが出ています。そのような中にイエスさまはあえて入っていくことはなさいませんでしたが、それでも、イエスさまが祭りに来られることに期待するユダヤ人は一定数いたと見るべきでしょう。実際、エフライムでの生活を切り上げ、時満ちてイエスさまが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたとき、ユダヤ人たちはこぞって、イエスさまのことを熱狂的に迎えました。 もっとも、この56節の表現はイエスさまのことを指して「あの方」とか「来られない」などと、尊敬形の訳し方をしていますが、それはもちろん、この箇所は、ユダヤ人はユダヤ人でも、イエスさまをメシアとして待望していたユダヤ人たちが話した会話という前提で訳されているわけです。別の日本語訳の聖書でも、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳では、特に尊敬形を用いてはいません。つまりユダヤ人といっても、イエスさまのことをメシアとして待望していたとはかぎらない人たちだった可能性もあるわけです。 とするとこのユダヤ人たちは、それこそ、イエスさまを死刑にして葬り去ろうと陰謀を巡らしていたユダヤ人だった可能性もあるわけです。ユダヤ人の王というならば、この過越の祭りに来ないはずはなかろう。そうだとすると、彼らはこの過越の祭りを、彼ら自身の意識しなかった形で、動物の子羊ではない、神の子羊を血祭りにあげる究極の機会として、虎視眈々と狙っていたということになります。なんということでしょう、彼らは究極の子羊をほふるという点で、たしかにユダヤの宗教指導者らしくはありました。いえ、それ以外の何者でもなかったからこそ、彼らはそのような行為に及んだとさえ言えます。 しかしこれは、先週、あの十字架を意味する預言をした大祭司カヤパを例にして申しましたとおり、宗教者として結果的に主のみこころを実践したからといって、その行為がその人を救うわけではありません。私たちも、それがみこころにかなうとばかりに、宗教的行為をすることで満足していても、結果としてみこころを損なうことをしているならば、何の得にもならず、かえってその宗教的行為は呪わしいばかりです。このようにささやき合ってイエスさまを待ち構えて手ぐすねを引き、過越の祭りを血祭りの機会とするような宗教指導者たちなど、まさにその典型です。 私たちもきわめて問われるところです。もし私たちがこの時代のユダヤに生きていたならば、いったいどんな立場の人になったでしょうか。 いちばんなりやすい立場は、イエスさまを迎えようと気分が高揚していた一般のユダヤ人の立場かもしれません。イエスさまが子ろばに乗って入城すると、熱狂的にイエスさまを迎えました。しかし、政治的メシアになってほしいという自分たちなりの願望がなくなるや、宗教指導者たちにあおられるままに、イエスさまを十字架につけろと叫び、そのためには極悪人のバラバを釈放させることもいとわなかった者たちでした。 彼らは一見すると神の民のようでも、神さまではなく世に流されていたために、そういうことになり、結果として神さまのみこころをいたく損なったわけです。この世と調子を合わせることが結果として主を十字架につける罪につながるということを、彼らはよく示しており、これがもっともなりやすいタイプといえるでしょう。もちろん、私たちはこのような、ユダヤの群衆のようであってはなりません。 他のタイプは、ユダヤの宗教指導者たちです。彼らは確信をいだいてイエスさまを十字架につける者たちです。流されて罪を犯すユダヤ人ももちろん問題ですが、彼ら宗教指導者は、イエスさまを十字架につける、つまりあえて神に敵対することを、まるでこの上ない喜び、人類の究極の目標のようにして実践します。もちろん神さまは、彼らのそのどす黒い企てをとおしてさえ、十字架による罪からの贖いという永遠のみこころを成し遂げてくださるお方です。しかし、神に敵対する生き方を悔い改めることもなく、あえてイエスさまを十字架につけるようなことは、なんと恐ろしく、また悲しい生き方でしょうか。 最近私は、妻から教えてもらい、インターネットなどを通じて、現代社会のあちこちをおおっている反キリスト、キリストに敵対する文化の諸様相を見させていただいています。これまで聖書の価値観から悪とされていたものが、現代においてはみな相対化され、受け入れるべきもの、美しいものという扱いを受けるようになっています。しかしそうなると何が起こるのでしょうか。そういうものと相対化された聖書の教え、イエスさまの教えは、やれ偏狭だ、やれ独善的だ、などと攻撃され、まるでいけないことのような扱いを受けるようになっています。 こういう邪悪なムーブメントに乗せられる方も問題ですし、そういうムーブメントを罪深いとわかっていながらもつくり出し、世界をその悪しき文化に染め、人々に聖書もキリストも信じなくさせる勢力は、世界のいたるところに存在しますし、それはこの日本も例外では ありません。 時の宗教指導者たちはイエスさまを十字架につけた張本人であったという点で悪魔の手先でありましたが、こんにちの邪悪な勢力は、自らがはっきりとキリストに敵対し、悪魔を崇拝する者たちであることを表明しつつ活動する分、ある意味で時のユダヤの宗教指導者たちよりひどい存在です。 私たちはけっして、このような闇の勢力の味方になってはいけません。もし私たちの近くにそのような勢力の中にいる者がいたならば、私たちはひたすら、彼らが悪の道から立ち帰るように、主にとりなして祈る必要があります。 しかし、今日の本文を見てみますと、そこにはユダヤの群衆でも宗教指導者でもない存在が見えてきます。そうです、さきほども集中的に学びましたが、イエスさまの弟子たちです。イエスさまの弟子たちは、たしかにイエスさまの十字架を目の前にしては、弱い姿、みっともない姿をさらしてしまいました。しかし少なくとも、彼らはイエスさまを十字架につける勢力についてはいませんし、なによりも、イエスさまを十字架につけたりはしていません。 もちろんその中には、イスカリオテのユダのような物もいました。しかし私たちは少なくとも、イエスさまを主と告白してお従いする姿勢を保ちつづけるならば、ユダのようにイエスさまを十字架につける勢力にあえてなることはありません。私たちはどこまでも、主によって召され、主に遣わされた弟子です。そのアイデンティティを最後まで保つことです。 弟子であるならば、私たちは十字架を経て、まことの悔い改めを経験し、聖霊の力を着せられてこの世に遣わされ、主の栄光を顕す者、主の愛をもってこの世を愛する者として用いていただけます。私たちはあおられるユダヤ人、イエスさまを十字架につけるユダヤ人の姿を見て、自分もそうだなどと考えることはありません。 もちろん私たちは、かつてはイエスさまを十字架につけるほどの罪人でした。それでも、そのような存在だったところから救い出してくださり、ご自身の弟子としてくださった、ご自身の救いの生きた証人としてくださったイエスさまを見つめ、イエスさまを賛美しましょう。主の弟子であることに心から感謝し、この世にて大きく用いられてまいりましょう。

まずは救われよ

聖書朗読 ヨハネの福音書11章45節~53節/メッセージ題目 まずは救われよ  アメリカの黒人霊歌に、「オール・マイ・トライアルズ」(「私の試練」)という歌があります。ハリー・ベラフォンテやピーター・ポール・アンド・マリーのベスト盤にも収録された有名な歌です。その一節に、「もし信仰がお金で買えるものならば、お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬだろう」とあります。貧しい者、持たざる者にされたアメリカの黒人の叫びが聞こえるようで、聞いていて胸が苦しくなる歌詞です。 しかしこの歌詞の意味するところは、それこそむかし高校の国語の古文の授業で習った反語のように、「お金持ちは生きて、貧乏な人は死ぬのだろうか、いやそんなことはない」という意味に取るべきです。そのように聞くと、現世では貧しく、隅に追いやられたような立場に置かされた弱い者が、天の御国では現世とは反対に、すばらしい恵みを得ることになるという、ことばにできない感動を味わうことができます。   イエスさまがこの地上に生きておられたとき、宗教指導者たちは本来、みことばにおいて啓示されたキリストが来られたことに大喜びし、イエスさまにお従いし、イエスさまを礼拝し、イエスさまを伝えるべきでした。ところが彼らはイエスさまを排斥し、迫害し、ついには十字架にまでつけました。一方で、宗教共同体においては絶望的な罪人扱いされていた者たち、羊飼いや取税人や売春婦のような人たちにこそ、救いの道が開かれ、イエスさまを信じる信仰が与えられ、天の御国に入れられるのです。  私たちはもちろん、たとえ持たざるものであってもイエスさまを受け入れる人でありたいものです。しかしひとたびイエスさまを受け入れたからと、あとは安逸に過ごしてもよいものなのでしょうか? イエスさまを受け入れて永遠のいのちが与えられたのをいいことに、まだ救われていない人を見下したり、自分たちさえよければという態度で生きたりしてもいいものでしょうか?  そこで私たちは、イエスさまを排斥した、ときの宗教指導者たちを反面教師として、私たちにとってふさわしい信仰のあり方をともに模索していきたいと思います。では、見てまいりましょう。  イエスさまがラザロをよみがえらせ、ご自身が神の御子キリストであることをいよいよはっきりとユダヤ人たちの前でお示しになったとき、多くのユダヤ人がイエスさまを信じ受け入れました。  だが、あわてたのは宗教指導者たちです。彼らは何を恐れたのでしょうか? 48節をご覧ください。……このままではユダヤが民族を挙げて、イエスさまを信じるようになってしまうことを恐れたのでした。そうなると、ローマ軍がユダヤに攻めてきて、土地も民族もみな取り上げてしまう、ということです。  これはどういうことかと言いますと、この時代にユダヤで待望されていたメシアなる王は、ローマ帝国の支配から脱出させてくれる革命家のような存在でした。民衆はイエスさまに対し、そのようなこの世的な救世主であることを期待していました。そのような革命家がユダヤに起こり、人々を扇動するようになったら、ユダヤにこれまで保障されていたある程度の自治権はひとたまりもなく吹き飛び、彼ら宗教指導者たちは国と民族を治めるどころではなくなります。それだけは困る、というわけです。  もちろん、イエスさまは彼ら宗教指導者たちやユダヤ民族が思っていたような救世主ではありません。それはイエスさまが総督ピラトに、わたしの国はこの世のものではありません、とお答えになり、ご自身がユダヤ民族を扇動する革命家であることを明確に否定されたことからも明らかです。しかしユダヤ人は、われわれにはカエサルの他に王はない、しかしこのイエスは、カエサルに代わる王になろうとした、したがってこの反逆者を十字架刑にしていただきたい、とピラトに迫り、そしてそのとおりになったのでした。  このようなことをわめいたユダヤ人も、つい数日前には、イエスさまを王としてエルサレムに迎えた者たちでした。そんな彼らの考えを変え、ユダヤの王として尊ばれるべき存在をローマの反逆者として十字架につけさせたのは、大祭司カヤパのどす黒いまでの知恵によることでした。  カヤパは何を語ったのでしょうか? 49節、50節です。……かくしてイエスさまは、ユダヤを解放する王から、最悪の反逆者として処刑されるという道へと歩み出されたのでした。  しかし、このカヤパのことばは、単なる陰謀以上の意味がありました。カヤパは、ユダヤという神の民にとって、もっとも宗教的な権威を持つ大祭司でした。その彼の語ったことには、どんな霊的な意味が秘められていたのでしょうか? 51節、52節です。……  あの反キリストの権化のようなカヤパが、これほどまでに本質的に、イエスさまの十字架の持つ意味を言い当てたのです。福音書はその理由を、カヤパがその年の大祭司であったからだと語ります。つまり、カヤパは人間的考えで語ったのではなく、神の霊的権威を託された者として語らせられたのです。  だがこのカヤパの預言は、なんと皮肉だったことでしょう。この預言は十字架という神のご計画を実行する原動力となったのですが、その預言はカヤパのことも、それに扇動された宗教指導者たちのことも救いませんでした。人に与えられた霊的権威は主の民の霊的共同体を保つ上で必要なものだったにせよ、その権威を与えられた者のことは、けっして真似をしてはならなかった、主にある実もないものでした。  イエスさまは、群衆と弟子たちに対するメッセージで、このようなことを語っていらっしゃいます。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」  これは、マタイの福音書23章のみことばの最初の2節と3節の部分ですが、それに続いてイエスさまは、彼ら宗教指導者たちがどれほど、みことばを振りかざしているくせに自分たちはまったくそれを守らないものか、歯に衣着せぬ痛烈なおことばで批判していらっしゃいます。  これは、心して読むべきみことばです。私が礼拝メッセージを語るときに心がけていることは、その語ったことを聴くみなさまが守り行なっていただきたい、その一心で語ることです。そのためにできるだけわかりやすく、また、具体的に生活に適用できるように語ることを心がけます。しかし、それよりもはるかに大事なことは、ほかならぬ私自身がその語るみことばを守り行うことである、ということです。私は偉そうなことを言っているけれども、人さまに真似してもらえるにふさわしく生きているだろうか?  クリスチャンでよく、こんなことを言う人がいます。私は罪人です。どうか私ではなく、イエスさまを見てください。一見するともっともなように見えますが、しかしこれは詭弁というものです。その人がイエスさまに従う生き方をする、すなわち、キリストに似た者として生きることをしないで、どうやって人にイエスさまを伝えることができるでしょうか? 私たちは、信仰によって救われているだけで満足していてはなりません。日々みことばと祈りによって、キリストに似たものへと変えていただく歩みをしていく必要があります。  聖書の中でイエスさまが、あれだけパリサイ人たちを批判していらっしゃるのは、私たち律法主義から解放された者たちがそれを読んで、あーよかった、私たちはあのような者たちとはちがう、などと安心するためでは決してありません。むしろその反対で、人ならばだれもが陥るわな、宗教的になって人を顧みなくなる、愛も行わなくなる、そういう間違った生き方を、イエスさまによって救われて神の民となった私たちもしかねないからです。 まことに、私たちは小さなパリサイ人です。しかしそんなパリサイ人でも、ひたすら信仰によって前進したパウロのように、みこころにかなう愛の人としていただけます。私たちはつねにこの自覚を持ちたいものです。 語ることはみこころにかなっている。実に聖書的だ。だがそれを語る当の本人が、いちばんみこころにかなっていない。そればかりか、主に敵対する者にさえなっている――こういうことは往々にしてあるものです。このカヤパの場合なども、まさしくそのケースでした。イエスさまがすべての神の民のために死なれることを言い当てているのだから、まさしく福音の神髄といえる十字架の預言、これほどまでにみこころを表すことばはないくらいです。 しかしどうでしょうか、このような預言をしたカヤパは、だからといって救われて神の国に入り、永遠のいのちをいただくに値するのでしょうか? 聖書は、カヤパが最終的にイエスさまの十字架を受け入れたかどうかについては沈黙していますが、もしそのまま悔い改めることがなかったならば、カヤパは到底、救われるはずなどなかったわけです。それもそのはずです、イエスさまを葬り去る提言をここまではっきりと語り、宗教指導者をはじめユダヤ全体をイエスさまに敵対させた張本人、キリストの敵が、それでも赦されるということなどあり得るでしょうか? 考えてみるまでもないことです。 このカヤパの姿に、私のような献身者はとても恐ろしいものを感じます。私はこれまで、多くのみことばを語ってまいりました。もしかすると多くの方が、私の語ることばに恵みを覚え、主の働きをするために遣わされ、この世で用いられたかもしれません。しかしそれらのことは、私が天国に行けるかどうかということと何の関係もありません。 これはけっして言い過ぎではありません。マタイの福音書の7章21節から23節をお読みください。……主よ、主よ、と呼びかけさえすればそれでいいわけではない、と、イエスさまがおっしゃった真意がお分かりでしょうか? たんに宗教的に神さまとの関係を持ったつもりになっている人は、普段から「主よ、主よ」と呼びかけてはいます。しかしそれは、しょせん自分の宗教的満足のために、そう呼びかけていることでしかなく、そのことで神さまと交わりを持っているわけではありません。 しかしその姿を見る人は、ああ、この先生はいかにも霊的だ、神さまの近くにいらっしゃる、と尊敬してくれるでしょう。その尊敬を一身に受けたら、その宗教家はいやでもうぬぼれます。うぬぼれるために主の名を利用する、尊敬されて高い地位に就くために主の名を利用する、そのために、主よ、主よと呼びかけることもいとわないのです。 だが、このように呼びかける対象であるお方がさばき主であることを、その人は忘れています。あるいは、意識しもしません。もしかしたら、自分は絶対にさばかれない立場にあると見くびっているかもしれません。そういう者が終わりの日になって、火よりも恐ろしいさばきにあうわけです。みこころにかなう行いをしてこなかったという、その理由ゆえに地獄に落とされるのです。 そのとき、宗教家は弁解します。主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。 しかし、それが仮にも本当のことだとしても、神さまはそれを天国に入れる条件にはしてくださいません。いかにも宗教的な行為をしたことなど、天国に入るにあたっては何の役にも立たないのです。 カヤパならばこう弁解するでしょうか。主よ、主よ、私はあのとき、あなたの名によってイエスさまの死なれることの意味を言い当てました。それはみこころにかなったことではなかったですか。それなのに私はどうして地獄に落ちなければならないのですか。 もちろん、こんな弁解をしたところで、神さまはカヤパのことなど天国に入れてくださるはずもありません。カヤパはキリストに敵対した張本人です。正しい意味の預言を主の権威によってすることと、その預言をした者が救われて天国に行けるかどうかは、まったく関係のないことです。 私たちは、この世でなした業績で天国に入れるかどうかが決まるのではありません。では、何によって決まるのでしょうか?「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」と、イエスさまは語られます。 それは、御子イエスさまを信じることです。具体的には、イエスさまの十字架を信じる信仰によって罪赦され、御父と和解し、神さまの子どもにしていただくということによってです。イエスさまご自身がおっしゃったとおり、イエスさまを通してでなければ、だれひとり父のもとに行くことはありません。だがカヤパや宗教指導者たちのしたことは、自分たちがイエスさまを信じなかったばかりか、もはやその道が永遠に閉ざされよとばかりに、イエスさまをなきものにしようとしたということです。悔い改めないかぎり、赦されるはずもありません。 私なども恐ろしいです。およそ牧師というものは、目に見える神さまのための働きであるだけに、この働きで忙しくしていれば、それで満足してしまう危険性とつねに隣り合わせです。正直に告白しますが、どんなに忙しくしていても、いちばん大事な神さまとの働きがとても希薄になっていた、ということも、一度や二度ではありませんでした。 しかし感謝なことに、ヨハネの黙示録で主がエペソ教会の信徒たちに語られたように、あなたは初めの愛から離れてしまった、だからどこから落ちたのかよく思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい、と、主は私に語りかけてくださり、私のことを悔い改めに導いてくださり、今こうして神さまとみなさまに支えられて、ここに立つことを許されています。 私のすべての行いは、牧会は、説教も週報づくりも信徒のみなさまに連絡をすることも、あるいは家庭を治めることも、言ってみればみな「行い」の範疇に属するものです。しかしそのすべての「行い」は、イエスさまの十字架の愛に応えての愛ゆえに湧き上がるものであってしかるべきです。何よりも大事なのは、イエスさまの十字架という「初めの愛」という出発点であり、そこからすべての働きは始まります。 これは、献身者にかぎりません。私たちもみな、動機が問われます。ローマ人への手紙14章23節に、「信仰から出ていないことは、みな罪です」とあります。私たちは果たして、信仰によってすべてのことをしていますでしょうか? 単なる人間的な宗教的満足でしているだけになってしまう危険と、私たちはいつも隣り合わせです。イエスさまとの交わりなしにこなしてしまう、それでもどうやらそれなりのことができてしまう……これは危険なことです。 それでもひとつ、私たちは覚えておくべきことがあります。このカヤパのような悪人のはかりごとをとおしてでも、神さまはご自身のご計画、イエスさまの十字架による私たちの救いを成し遂げてくださったということです。今後もこの世界には、あらゆる悪を行う勢力が幅を利かせ、私たち主の民をますます苦しめていくことが予想されます。しかし私たちは忘れてはなりません。すべてを相働かせて益としてくださる神さまは、悪人のその悪しきはかりごとを用いてさえも、ご自身のご計画、人の救いと神の国の実現をもたらしてくださいます。 神さまより強い存在はこの世のどこにもありません。私たちは恐れてはなりません。神さまは、私たちの味方です。私たちに敵対するものは何もありません。私たちも主に敵対する行為ができないように、私たちのことを、罪を嫌われる聖霊なる神さまが守ってくださいます。 私たちはまず、主との交わりからすべてを始めることです。主の愛を動機にすべてのことを行うことです。そうすれば私たちは、愛のない律法主義から解放され、主に用いられるのはもちろんのこと、天国に入れていただけるという平安の中でつねに主と交わりながら、喜びと賛美に満ちた歩みをともにしていくことができます。この歩みをともに目指すものとなりますように、祈ってまいりましょう。

祈りは聞かれるから

聖書朗読;ヨハネの福音書11:38~45/メッセージ題目;祈りは聞かれるから  みなさんにお伺いしたいと思います。みなさんにとって、祈りとは何でしょうか?  今も心痛む、忘れられない想い出をお話しします。それは私が大学生のときのことで、ある人から別れ際に、こんなひと言を言われたのでした。「いいか、よく覚えておけ。祈りは、演技だ!」それまで私は彼のことをクリスチャンと思ってつき合い、つい今しがた、別れる前に彼の祝福を祈ったばかりでした。そして返ってきたことばがこれでした。「よく覚えておけ、祈りは、演技だ!」  私も若くて、どう言い返せばよいかわかりませんでしたし、それに彼は、ストレートに福音を受け入れるには、あまりにも傷が深い人でした。そういう状況で聞いたことばであることを割り引いても、そのとき聞いた「祈りは、演技だ!」ということばは、28年経った今も、ときどきに私の心の中で首をもたげてきます。  みなさんならば、大事にしている人から「祈りは、演技だ!」と吐き捨てるように言われたら、どう答えますか。ほんとうに、祈りとは演技にすぎないものなのですか。実を申しますと、私は今に至るまで、彼に対してその答えを言ったことはありません。振り返ってみると、私の人生は祈りが応えられたことの連続でしかなかったのですが、それを言ったところで、もし今もなお彼が考えを変えていなかったとしたら、彼はけっして私に起こされた祈りの応答など認めないでしょう。私がどう祈ろうと、それは演技なのでしょう。  彼がそう思うのは、しかたないのです。第一コリントに書かれているとおり、御霊のことは御霊によってわきまえる、とありますが、最初から御霊のわざなる祈りというものを疑ってかかるならば、祈りというものほどリアルなものはないこと、祈りは実に愛にあふれた神さまとのコミュニケーションであることを、わかるわけがなく、演技と見なす自分を正当化するばかりでしょう。なぜなら、不信仰であることをやめないことにより、御霊の導きが自分に臨むことを拒否しているからです。  でも私たちは、祈りというものを身近にした生活をしていますでしょうか? 早い話が、祈っていますでしょうか? あなたのしていることはしょせん演技です、などと言いがかりをつける人が現れたとしても、少なくとも私たちの心の中は平安でしょうか?  本日のみことばは、その真ん中の部分に、イエスさまが御父にお祈りすることばが出てまいります。まさしく、祈りです。しかしこの祈りは、兄弟ラザロを生き返らせてくださいとイエスさまにすがった、マルタとマリアの声なき声の祈りに応えられての祈りであると言えましょう。 本日の箇所から、私たちにとって祈りとは何か、受け入れていただける祈りとは何か、ということを、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまは憤っておられました。アダムの堕落以来、人を悲しみに陥れる死というものがなお人の世界を支配している現実……イエスさまはこの、死というものへの怒りをいだいておられたのでした。 この怒りはまた、よみがえりであり、いのちであるイエスさまのご存在を見えなくさせてしまうほどの死の持つ力に対する怒りとも言えました。この怒りに私たちは共感できないでしょうか?  あれは私が大学生のときでしたが、芸能界のおしどり夫婦として知られていたあるカップルの、奥様が亡くなったときのことです。奥様はクリスチャンで、教会でご葬儀をした様子までワイドショーで報道されていました。私も知っていた教会だったので、ちょっと驚いたものでした。それはともかく、その教会でインタビューに応じていた旦那さんが、口元に笑みさえ浮かべながら、「妻はいま天国にいますから」と答えていらしたのが、とても印象的だったものでした。 しかし、ワイドショーのコメンテーターは、こんなことを言うのでした。「天国にいますから、なんておっしゃるそのおことばに、とても深い悲しみが感じられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。」私は旦那さんの平安に満ちた表情を見て、すこしも悲しみをこらえた様子が見えなかっただけに、このコメンテーターのコメントは的を外れていると思い、天国の福音をちゃんと伝えようとしないワイドショーのあり方に、怒りを覚えたものでした。しかし世の中とはそういうものです。永遠のいのちなるイエスさまがわからないものだから、天国よりも死のほうをよほど現実的に捉えてやまないのです。 それは、ここにいる人たちも同じでした。いのちなるイエスさまがここにおられるというのに、イエスさまが見えず、ラザロの死という現実の前に打ちのめされて、泣いていました。そして、一度は正しい復活信仰を持ったマルタさえも、揺れ動いてしまいました。   新約聖書のヤコブの手紙を読んでみますと、私たちが祈るとき、少しも疑わずに信じて願いなさい、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようであり、そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりませんと書かれています。この箇所は明らかに、イエスさまの呼ぶ声にこたえると湖の上を歩けた、しかし波を見ると急に怖くなって、そのとたんおぼれかかった、ペテロのことを念頭に置いていると言えるでしょう。   湖の上など渡れるわけがない、これが常識です。しかし、イエスさまのみわざはときに常識を超える、なぜならばイエスさまは全能なる神さまだから……その信仰を働かせるとき、主が私たちのただ中にみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  マルタはついさきほど、イエスさまがラザロを実際によみがえらせてくださると信じ受け入れたばかりでした。しかし墓を前にすると、マルタのその信仰は揺れ動きました。死んで4日経った、そんな人は生きているはずなどないという現実的な考えに圧倒されました。その考えは、イエスさまが全能なる神さまであることを忘れさせてしまうのです。  この病気は治らない、この人間関係はもう修復できない、このあやまちからはもう立ち直れない……常識というものは私たちの実生活を支配しますが、それは何のためでしょうか? そのために私たちが絶望するしかなくなったならば、罪責感たっぷりになって自分を責めるしかなくなったならば、そんな常識など何の役に立つのでしょうか? しかし、こういうときに私たちは、祈ることができるのです。私たちにできないことを、全能なる神さまが必ずしてくださるという信仰を働かせるのです。  私たちはときに、常識という現実の前に圧倒されます。このときのマルタがそうだったようにです。しかし、イエスさまはマルタになんと語りかけられましたか? 40節です。主は、私たちが不信仰だからとおさばきになり、もう知りませんとお見捨てになることはけっしてありません。私たちの信仰が弱いことをご存じの上で、強い信仰へと成長させてくださいます。 要は、私たちがあきらめないことです。マルタは確かに揺れ動いていましたが、それでもイエスさまを呼び寄せるだけの信仰の行動はありました。イエスさまはマルタの信仰を表面的に評価することはなさらず、その奥底の心を汲んでマルタの信仰を一段と成長させてくださったのでした。 私たちも、心で信じたならばそれ相応の行動が伴ってしかるべきでしょう。しかし、信仰というものはいわば「内的衝動」とでも言うべきものであり、ほんとうに信じた人の中には、主のために何かせずにはいられないという衝動が大きくなり、行いという形で実を結ぶものです。 でも、このようなことを申しますと、自分は主のために何もできていない、と、落ち込む方がいらっしゃるかもしれない、と心配にもなります。しかし大丈夫です。問われる思いがあるならば、それは主がそれぞれの殻を破るように信仰を成長させてくださる前段階(ぜんだんかい)にあると考えるべきです。私たちは弱さを弱さとしたままで落ち込んでそれで終わりにするのではなく、弱さを強さに変えてくださる神さまに祈って、変えていただくのです。ここに、私たちは信仰を働かせるのです。 さて、それでは、イエスさまが祈りを聞いてくださるとはどういうことなのかを、41節、42節から考えてみましょう。お読みします。 ここでイエスさまは、御父がイエスさまの願いを聞いてくださったことを感謝しています。これこそが、祈りというものです。おわかりでしょうか? 祈りとは、イエスさまが御父に願うことです。 私たちはお祈りするとき、「イエスさまの御名によって祈ります」と言ってお祈りを締めくくります。これは、単なる決まり事とか、習慣のようなものではありません。お祈りはイエスさまの御名によって祈らなければ、御父に届かないのです。 人間は、神的な存在に対して祈ります。ギリシャ語で人間とは、アンスローポスといいますが、これは「上を見上げるもの」という意味で、人間とはみな宗教的な存在であることが暗示されています。だから人は祈ります。しかし問題は、「イエスさまの御名によって祈っているか」ということです。イエスさまの御名によって祈り、その結果として祈りが父なる神さまに届いているかということです。 もし私たちがイエスさまの御名によって祈るなら、その祈りの内容は、イエスさまが御父に祈る祈りと一致している必要があります。そうするとき、私たちの祈りははじめてかなえられるのです。私たちの肉的な欲望、願望が、いくら祈ってもかなえられないのは、それが、イエスさまが御父に祈るべき祈りの内容ではないからです。 そうだとすると、私たちの祈りは、なんと形式的なものに終わっていたり、自己中心だったりして、イエスさまの祈りに一致していないことが多いことでしょうか! それは単にことばを羅列しているだけで、神さまとのコミュニケーションという意味でのお祈りにはなっていないのです。もちろん、かなえられるはずもありません。 もっとも、みこころにかなうお祈りというものは、かなえられるかどうかで判定されるものではありません。イエスさまご自身がそうでした。ゲツセマネの園で苦悶の中で、この杯をわたしから取り除けてください、と御父に祈られたお祈りは、結果として十字架にかかられたということを見ると、かなえられたわけではありません。 しかし、このお祈りは、十字架という主のみこころが成るうえでどうしても必要なお祈りでした。イエスさまのこのお祈りは、かなえられなかったお祈りだったからといって、ふさわしくないお祈りだったのではありません。 私たちにしてもみこころにかなう祈りであると知ってもそれがかなえられないからと、失望してはなりません。祈りつづけることです。家族の救い、病気のいやし、教会の成熟、人格の成長……みな、みこころにかなっています。一朝一夕にかなえられなくても、祈りつづけることが大事です。 ともかく、祈りというものは、どんな祈りであっても、聖霊なる神さまの導きの中でささげるべきものです。聖霊の導きに敏感になるなら、私たちの祈りはイエスさまの祈りと一致した、的を外さないものへと整えられていきます。祈りが整えられるためには、まず祈ることです。そして祈りのうちに、私たちのすべてを、聖霊さまの導きに明け渡すことです。 御霊に満たされなさい、というみことばがあります。御霊は私たちクリスチャンを、いつでも満たしてきよめようとしてくださっているのです。みこころにかなうものへと整えようとしてくださっているのです。要は、私たちが御霊の導きに明け渡すかどうかです。御霊の導きに明け渡すならば、私たちの祈りは、イエスさまが御父に祈られる祈り、すなわち御父が聞き届けて栄光を顕してくださる祈りへと整えられます。 さきほど、若き日の私に向かって「祈りは演技だ」と言い放った人のことを言いましたが、これはもしかすると、耳に痛いことばとして受け取るべきなのかもしれません。思い返せば、私はなんと、形ばかりの、それこそ演技のような祈りをすることで済ましてきたことかと、悔い改めさせられるものです。そのような通り一遍のことばの羅列で祈ったような気分になっていたとき、聖霊なる神さまはどれほど悲しんでおられたことか、それを思い起こすなら、私はどれほど悔い改めなければならないことかと思います。 私たちの祈りは果たしてどうでしょうか? 私たちの祈るそのお祈りを、イエスさまがまったく同じことばで、父なる神さまに祈っておられる姿が想像できますでしょうか? 恥ずかしくならないでしょうか? はたして、私たちの祈りのことばはふさわしいでしょうか? しかし、イエスさまの御名で祈るにふさわしいお祈り、みこころにかなう祈りなら、イエスさまがそのとおりを御父に祈られ、御父は聞いてくださいます。ラザロをよみがえらせるのがみこころであったように、私たちにみわざを起こされるのがみこころなら、すなわち、そのみわざにより、私たちを通してご自身の栄光を顕してくださるのがみこころなら、必ず私たちの祈りは聞かれます、信じて、祈ってまいりたいものです。 さあ、イエスさまは祈られたあと、何とおっしゃったでしょうか。43節です。……この命令のことばに応えて、ラザロが出てきました。生き返ったのです! 特に44節の表現に注目しましょう。ラザロ、とは書いてありません。死んでいた人、という表現をしています。この表現は、ラザロが特にイエスさまに愛されていたからよみがえるということではなく、死んでいた人はだれもがイエスさまに引き出されるならばよみがえる、ということを暗示しています。イエスさまとはまさしく、死んでいた人をよみがえらせるいのちの主なるお方だということです。 私たちも、罪と罪過の中に死んでいた者でした。しかしあわれみ深いイエスさまは、罪からの報酬である死の中に閉じ込められていた私たち、まさしく、死んだ者が閉じ込められた墓の中にいたような私たちに、「出てきなさい!」と大声で呼びかけられ、死からいのちに移してくださいます。 もう私たちは死んではいません。永遠のいのちに生かしていただいています。しかしこのように贖っていただいた今、かつての自分の姿を考えてみましょう。私たちはどれほど死んでいたことでしょうか? どれほど神さまと断絶して、自分でも何をしているかわからないまま生きていたことでしょうか? しかしイエスさまは、そんな死につながれていた私たちのことを、「出てきなさい!」と、呼び出してくださったのです。 ラザロは最初、布に巻かれたままでした。この時点ではまだ、生き返った死体です。イエスさまはこの布をほどかせました。こうなるとラザロはもう、生き返った死体ではありません。生きているラザロです。 ラザロのその生きる姿は、イエスさまがよみがえりであり、いのちであることを証しする姿そのものとなりました。このラザロを見てユダヤ人たちはイエスさまを信じましたし、のちに生き返ったラザロを一目見たいと、ユダヤ人たちがぞろぞろとやってくることにもなりました。 そうです、罪と死のただ中から「出てきなさい!」と呼び出された者は、いのちに生き生きしてしかるべきです。その姿は、いのちなるイエスさまを証しし、こんな素晴らしい生き方があるだろうか、なんと素晴しいのだろうか、と、人を惹きつけてやまないのです。 こんなふうに生きる祝福が約束されているのならば、私たちは用いていただくべく、祈らずにはいられなくなりませんでしょうか? 主よ、ここに私がおります、用いてください、と祈る祈りは、間違いなく、イエスさまが御父に祈られるにふさわしい祈りです。 私たちは、もはや不信仰ではいられません。形だけの祈りをささげて済ましてはいられません。死んでいた私たちに直接大声で「出てきなさい!」と呼びかけ、永遠のいのちを与えてくださったイエスさまの御声が、今も聞こえますか? もう一度信仰を働かせ、祈りましょう。 私たちが祈るのは、祈りは聞かれるからです。いまともに生きておられる神さまは、私たちを死からいのちに移してくださった贖い主です。このお方に、みこころにかなうお祈りをささげるならば、必ず聞かれます。不信仰を信仰に変えていただき、死からいのちに移していただいた恵みに感謝して、祈りましょう。

よみがえり、いのちなるイエスさま

聖書箇所;ヨハネの福音書11:17~37 メッセージ題目;よみがえり、いのちなるイエスさま  毎週金曜日の英語教室では、現在「自己紹介」というものをしています。マイネームイズだれだれ、ですとか、アイアム・エイト・イヤーズ・オールド、ですとか。自己紹介というものは、多くの場合初対面のときにするものですが、英語教室での自己紹介は初対面にかぎりません。この自己紹介の練習を何度も繰り返すことで、お互いがお互いのことをよく知ることができるようになります。  ヨハネの福音書を読んでみますと、イエスさまはいくつかの箇所で、わたしはなになにです、という自己紹介をなさっています。わたしはよき羊飼いです、とか、わたしは羊の門です、といった自己紹介です。このおことばを聞くと、イエスさまがどのようなお方であるかがあらためてわかります。  今日の箇所では、あの有名なみことば、「わたしはよみがえりです。いのちです」という、イエスさまの自己紹介が出てまいります。このみことばは、愛するラザロの死という悲しいできごとの中で語られたみことばです。  私たちもいろいろな悲しみの中に置かれています。その悲しみから救い出していただくために、いまこそ私たちはイエスさまの慰めのみことばに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?  本日の箇所は先週学びましたみことばの箇所の続きです。先週私たちは、神の時に従って行動されたゆえにマルタとマリアのもとにあえてすぐにはいかなかったイエスさまの行動から学びました。しかし時満ちて、イエスさまはユダヤへと向かわれました。そして本日の箇所、イエスさまがユダヤのベタニアに到着されてからのできごとです。  ベタニアは、エルサレムから距離にして15スタディオンほど離れていたとあります。これは3キロメートルにもならない距離であり、それはこの教会からだと、水戸駅どころか、ケーズデンキの水戸本店にまでも届きません。ほんとうにエルサレムの隣町です。まさに、イエスさまを石打ちにしようとしたユダヤ人たちが待ち構えているような場所です。そこを目がけて、イエスさまは入っていかれました。  ユダヤ人たちに殺される心配はなかったのでしょうか? 大丈夫です。先週も学びましたとおり、それをイエスさまは昼間の十二時間に例えられました。つまずくことのない時間、神さまのための働きが許されている時間ならば、彼ら悪の勢力は手出しができない、というわけです。  イエスさまが到着されたとき、ラザロは墓の中に入れられて4日が経っていました。ユダヤでは、死んで4日も経っているならもはやたましいは肉体を離れている、と信じられていました。絶望しかない状態です。  19節をご覧ください。マルタとマリアは、死んで4日してもなお、深い悲しみの中にいました。彼女たちを慰めるために、大勢のユダヤ人が来ていました。ここで、友達と書かず、「ユダヤ人」と書いてあることにも注目しましょう。まさに、直前の10章において、イエスさまを石打ちにしようとした者たちのことを、ヨハネの福音書は「ユダヤ人」と表現しているのです。ともすればイエスさまに敵対するような人たち、しかし、神の民としてだれよりも神の栄光を見るべき立場にあった人たち……マルタとマリアに付き添っていた人たちは、そういう人たちだったと言えましょう。  20節から、マルタとマリアの姉妹がようやく登場します。イエスさまを迎えに出たマルタ、家にとどまったマリア、この対照的な行動に出た2人を巡っては、かなり対照的な場面が展開します。これは、マルタとマリアの性格のちがいに起因すると言えそうです。  聖書を順番どおり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと読み進めますと、本日の箇所以前にもマルタとマリアの姉妹が登場しています。ルカの福音書に登場しています。その箇所を読んでみますと、マルタとマリアの姉妹の性格のちがい、態度のちがいを知る手掛かりが得られます。ルカの福音書10章の38節から42節をお読みしましょう、新約聖書の136ページです。  わかることは、マルタはイエスさまの愛、といいますかご存在に応えて、何かせずにはいられなかった人ということです。とにかくよく働いています。しかし、ほかの人にとってイエスさまを大事にすることにまで思いが至らず、自分のしていること、奉仕こそがいちばん必要なことと思い込むあまり、不満が積み重なってしまったような弱さを持っていました。それゆえ彼女はイエスさまに叱られています。  マリアはどうでしょうか。とにかくイエスさまの足もとに座って、イエスさまのおっしゃることに耳を傾けました。マリアはまさしく、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きる、というイエスさまの語られたみことばを実践した人でした。その結果、マルタがしているようにイエスさまを奉仕によってもてなすことはしなかったのですが、それをイエスさまはお咎めになることはありませんでした。かえって、マリアは必要なことを選んだのである、と評価していらっしゃいます。  これは、奉仕よりもみことばをお聴きする方が大事である、という意味ではありません。そうだとすると、教会におけるあらゆる奉仕は意味のないものになってしまいます。みことばをお聴きすることはもちろん大事ですが、それは奉仕と優劣をつけるべきことではありません。イエスさまが問題にされたのは、マリアが、主にあって必要なことと判断してイエスさまのもとに座って耳を傾けていることに、マルタがマリアの境界線を越えて介入しようとしたことです。マルタがもし、イエスさまにあって必要なのが奉仕と判断したならば、ただ奉仕に集中しさえすればよかっただけのことです。  この箇所からほかにもわかることは、マルタのことばは記録されているのに、マリアのことばは記録されていない、ということです。これは、マルタが能動的で、マリアが受動的であったことをほのめかしているとも言えます。マルタは能動的だからイエスさまに物申す行動に出て、マリアは受動的だから何も言わなかった、何か言ったとしてもここには記録されなかった、というわけです。  しかし、マルタは能動的な言動をする人だったぶん、その言動に直されるべき部分があるならば、それが明らかにされて、正されやすかった、という特徴も持っています。このたび、イエスさまをお迎えしに出ていったときもそうでした。一方でマリアも、その受動的な性格がよく表れた言動をイエスさまの前に取っています。ただ、その背後で展開する場面は、マルタを巡る場面のほうは静かで、マリアのほうは動的です。まずは、マルタのほうから見ていって、私たちも学んでまいりたいと思います。    21節、マルタがイエスさまを出迎えに行ったとき、何と言っていますでしょうか? まず切り出したのは、あなたはなぜここにいてくださらなかったのか、いてくださらなかったか、ラザロは死んでしまいました、という、恨みにも似たことばです。  恨んでいるから悪いのではありません。私たちも、神さまを恨みたくなることというのはあるものではないでしょうか? 豪雨に見舞われた地域の兄弟姉妹は、天を見上げてなんとおっしゃっているか、考えるだけで心が苦しくなります。いったい、なんとお声がけをしたらよいか、ほんとうにわかりません。 私たちもそれほどではないにせよ、何かあって、神さまを恨みたくなる気持ちになることがあったとしても、不思議はありません。それは不信仰のひとことで片づけるべきではないだろうと思います。ご覧ください。ダビデをはじめとした詩篇の詩人はどれほど、神さまに向かって赤裸々な訴えをしていることでしょうか。私たちも悲しいなら、心にあることを神さまに向かって吐き出す祈りをささげて構わないのです。  ただ、ここでマルタの信仰が取り扱われる糸口となることばを、マルタは語りはじめています。22節です。……マルタは、イエスさまがどのようなお方であるかよくわかっていました。全能なる神さまに求めることは何でもかなえられるお方。この方にすがるならば、今でも願いは聞いていただける。マルタはここで、最後の信仰を働かせようとしたのでした。  私たちもそうです。現実の絶望的な状況にのみ目を留めているならば、そこにはやはり、絶望しかありません。そこで私たちの目を、現実そのものから、現実を越えて司っておられる神さまへと転じるのです。そこから私たちのうちには信仰が育ち、神さまがみわざを起こしてくださる余地が生まれます。  イエスさまはマルタのことばを聞いて、あなたの兄弟はよみがえります、と言ってくださいました。そうです、祈りと願いを聞いてくださったのです。だがマルタは、イエスさまのこのみことばを、半分しか理解していませんでした。マルタは、終わりの日のよみがえりを信じ、そのときにラザロがよみがえることを知っているとは告白しましたが、その告白は充分ではありませんでした。  ここでイエスさまは、きわめて本質的な自己紹介を交え、マルタが、そして私たちが、拠って立つべき信仰の対象としてのご自身のお姿をあらためて示してくださいました。読みましょう、25節と26節です。  ……イエスさまはここで、2つの自己紹介をしていらっしゃいます。第一に「よみがえり」、第二に「いのち」です。  まず、「よみがえり」です。イエスさまは「よみがえり」でいらっしゃるゆえに、イエスさまを「信じる者は死んでも生きるのです」。マルタの告白は、よみがえりを告白していた点では正解でした。しかしイエスさまは何をはっきりされたかというと、ほんとうのよみがえりをもたらすご存在はイエスさまご自身である、ということです。  終わりの日にはみなよみがえります。しかし、天国に行けるのは、罪からの救い主、イエスさまを受け入れた人だけです。人がもし罪があるならば、聖い神さまはどうやって私たち人間のことを受け入れてくださるでしょうか。私たち人間が救われるための道はただひとつ、イエスさまを受け入れることだけです。そうすれば、たとえ死んでもよみがえって永遠のいのちをいただくことができます。まさしく、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」とイエスさまがお語りになったとおりです。  一方で、イエスさまが「いのち」である、ということは、26節でイエスさまご自身が解き明かしてくださっているとおりです。この場合のいのちとは、イエスさまを信じることによって、この世界を生きながらすでに与えていただいている「永遠のいのち」です。「永遠に決して死ぬことがない」というのは、とりあえずは、肉体が死なないという意味ではないことは理解できます。だれでも人は肉体が死にますし、それに例外はないからです。 しかし、イエスさまを信じる人は、霊において生かされて、永遠に生きる存在としていただきます。その永遠のいのち、いのちなるイエスさまとともに生きるいのちは、天国から始まるのではなく、つまり死んだあとから始まるのではなく、この地上にてイエスさまを受け入れた瞬間から始まるのです。私たちはそれゆえに、いま現実に、決して死ぬことがない、永遠のいのちに生かされているのです。 しかしイエスさまは、この2つのことを同時にお示しになるため、ラザロをよみがえらされます。これを目(ま)の当たりにするとき、マルタもマリアも、そしてユダヤ人たちも、ひいては私たちも、イエスさまがよみがえりでありいのちである、したがって、イエスさまを信じる者は死んでも行き、生きていてイエスさまを信じる者は決して死ぬことがないことを受け入れるのです。 ここまでお語りになったイエスさまのみことばを聴いて、マルタはようやく、正しい信仰を持つことができるようになりました。そして、27節、立派な信仰告白をしています。イエスさまは単に友達ではない、全能なる神の御子である、このお方がラザロをよみがえらせてくださる……そう告白したのでした。   私たちはイエスさまに対して何と告白しますでしょうか? イエスさまは世に来られる神の子キリスト、そのように告白できるならば幸いです。私たちは多くの試練を体験します。そのような中で私たちの信仰がきよめられ、イエスさまに対する揺るがない信仰告白へと導かれ、まことのいのち、永遠のいのちを実際に体験しつつ生きるものへと日々変えられますように、主の御名によってお祈りいたします。   それでは次に、マリアのほうにまいりましょう。マリアは、マルタが呼びに来るまで家にとどまっていました。イエスさまを愛していたマリアがすぐにでもイエスさまのもとに駆けつけなかったのはどうしてだろう、そんなことも思います。しかし、マルタが呼びにいったら、マリアはすぐにイエスさまのもとに出ていきました。ユダヤ人たちもマリアにぞろぞろとついていきました。  イエスさまに出会うや、マリアはイエスさまの足もとにひれ伏しました。そして何と言ったでしょうか。32節です。  このことばは、マルタが言ったことばとそっくりそのまま同じです。しかしその後の展開は、大きく異なっています。マリアのことばはそこで終わり、あとは彼女はただ泣くだけです。そして、一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。  イエスさまはこの様子に、霊に憤りを覚え、心を騒がせた、とあります。人を絶望と悲しみに陥れる死の勢力に怒りと悲しみを覚えられたのでした。  主が愛をもって創造された世界は、人間の堕落によって死が入りこみ、人は絶望と悲しみに陥るばかりとなりました。だがそれは、愛なる神さまにとってあまりにもつらいことでした。愛をもって創造された人間が永遠に生きることなく、死ぬ。どんなにおつらいことでしょうか。そしてそれを目にする人間も、その人がどうなったかわからない、それをご覧になる主も、どんなにおつらいことでしょうか。  しかし、イエスさまの霊の憤り、そして涙の意味は、ほかにも考えられはしないでしょうか?  ラザロがもちろん、イエスさまをまことの神さまとして信じていたことは疑いのないところです。それを信じていたならば、マリアにしてもユダヤ人たちにしても、もっと平安でいるべきだったことでしょう。なにしろ行った先は天国です。現実のこの世界よりもよほどすばらしい場所です。喜んだっていいくらいです。しかし、死の悲しみは彼らを圧倒しすぎるほどに圧倒していました。もはやマリアには、イエスさまがよみがえりでありいのちであることがわからなくなっていました。あれだけイエスさまのみことばを聴くことを奉仕することよりも大事にしていたマリアが、そういうこともわからなくなってしまっていたのでした。  イエスさまはこのことを目の当たりにして、涙を流されました。いのちの主なるイエスさまがここにいるのに、悲しみのあまり見えない……人よ、よみがえりであり、いのちであるわたしがここにいるのに、見えないとは! 立ち帰るなら永遠のいのちを与える神、わたしがここにいるというのに、見えないとは! 私たちには、イエスさまの悲しみがわかりますでしょうか?  人が死ぬこと、いのちをなくすことは、たしかに悲しいことです。だからこそ新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が急がれているわけです。何があっても死んではならないからです。しかしそれでも、人は死にます。問題は、いのちを司っていらっしゃるイエスさまがここにいるならば、イエスさまが見えているかどうかです。見えていると思うなら、イエスさまがどのようなお方であるかがわかっているかどうかです。  マリアは純粋な信仰を持った人でしたが、マルタのようにしっかりした信仰告白に至る論理的な主とのコミュニケーションができなかった弱さがありました。それは私たちにも共通した弱さではないでしょうか? 状況ばかりが見えてしまって、いのちの主なるイエスさまの臨在がまったく見えなくなってしまう。しかしそれでも、イエスさまはこの悲しむ私たちとともに涙を流され、同時に、どうかわたしがいのちの主であることを信じてほしい、と、涙を流しておられるのです。  私たちは、よみがえりでありいのちであるイエスさまが見えていますでしょうか? イエスさまに愛されている私たちが、イエスさまのことがわからないために、イエスさまは涙を流してはいらっしゃらないでしょうか?  しばらく、静まって祈るひとときを持ちましょう。イエスさまが見えていないならば、今ここにおられるイエスさまを見ることができるように、心の目を開けていただきましょう。そして、いのちの主なるイエスさまとつながっている喜びをわがものとさせていただきましょう。

それでも「神は愛なり」と言うために

聖書本文;ヨハネの福音書11章1~16節 メッセージ題目;それでも「神は愛なり」と言うために  今日のメッセージに臨む私の心は、とてもつらいものがありました。日本は大雨に見舞われ、多くの方々が亡くなり、家々は破壊され、道路は寸断され、人々は避難所での生活を余儀なくされています。しかも東京にはこれまでにないほどのコロナウイルス感染者が現れ、いよいよ第二波がやってきたのか、と、戦々恐々とさせられています。  このような中にあって、人々はどんな気持ちでしょうか。私たちはそれでも、神は愛なり、と告白することができるでしょうか。いいえ、このときだからこそ、私たちは自分の中の告白をしっかり保つべきだと考えます。  コロナウイスルの流行がたけなわになってきたころ、保守バプテスト同盟で総会議長として奉仕する大友幸証先生が同盟役員会の席でおっしゃっていました。このようなとき人々は、クリスチャンが何を言うかに期待しているのではないだろうか……。ほんとうにそうだと思います。 いったいこのような中で、ほんとうの希望を語ることができる立場にある者が、語らないでどうしようというのかと思います。私たちこそが、愛なる神さまを語り伝えることにより、この世界にまことの慰めを提供することができるはずです。だからこそ私たちは、このようなときだからこそ、私たちのうちにある希望を確かに保つ必要があるはずです。  しかし、現実はとてもきびしいものです。テレビや新聞で連日報道される悲しいニュースを見るたび、私たちはいかにして自分の信仰を働かせるべきか、とても問われていることと思います。その信仰は、それでも神さまは私たちを愛してくださっている、神は愛なり、と、告白するところから始まります。 私たちの信仰は、移ろいやすい感情に根ざしたものであってはなりません。もちろん、悲しみに暮れる人たちに寄り添う務めも私たちにはあるので、感情というものを無視することはふさわしくありませんが、私たちはまず、感情に流される以前に、変わることのない神さまに対する信仰、そしてその信仰を告白するところから、すべてを始めてまいりたいものです。   そこで今日の本文から学びたいと思います。本日の箇所、ヨハネの福音書11章は、先週の箇所の続きです。イエスさまがエルサレムでの迫害をのがれ、ヨルダンの向こう側に行かれ、そこでみことばを語られ、多くの人がまことの信仰に立ち帰った、というのが、先週の箇所の締めくくりでした。  その流れから本日の箇所にまいりますと、イエスさまの一行は、ヨハネがバプテスマを授けていた場所から、ラザロの家まで行くように要請されていたことになります。実はこのどちらの地も、共通点がありました。それはどちらの地の名前も「ベタニア」という名前だった、ということです。 ベタニア、それは、悩みの家、貧しさの家、という意味です。まさにこの地名は、悩みの中で貧しくされた者たち、ヨハネからバプテスマを受けた者たちもそうですし、マリアとマルタとラザロの三きょうだいもそうですが、貧しさの悩みの中で神にすがる信仰が育てられた人たちの信仰を象徴しているようです。 貧しさが貧しさに終わらない秘訣、悩みが悩みに終わらない秘訣、それは、すべての富の源でいらっしゃるイエスさまに立ち帰ることです。その富は金銭的、物質的なものとはかぎりません。しかしイエスさまに出会うならば、この地において神さまを見上げる、主と交わるという、何にも代えがたい富、豊かさを得られるのは確かなことです。 私たちはこのことを、ほんとうの豊かさと認めていますでしょうか? ならば、貧しさを感じられてならないとき、悩みの中に置かれていると思えてならないとき、イエスさまを呼び求めることです。イエスさまはきっと、そんな私たちに出会ってくださいます。 だがときに、イエスさまを呼び求めても、イエスさまが来てくださっていることが感じられなくてならない、そういうことはあるものです。今日の本文のマルタとマリアの姉妹がまさにそうでした。彼女たちは、イエスさまにすぐにでも来てほしいと、イエスさまのもとに使いを送りました。だが、イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか? 4節です。 イエスさまのこのおことばは、何とおっしゃっていることになるのでしょうか? 「ラザロはよくなる! 心配しなくてもいい!」でしょうか? 「わたしが行って、ラザロの病気を治してあげよう!」でしょうか? いいえ、「ラザロは死ぬ!」と、はっきりおっしゃっているのです。 しかし、5節をご覧ください。イエスさまがこの三きょうだいに対し、どのように思っていらっしゃったかが書かれています。そう、愛しておられたのです。この関係をある人は、「イエスさまの友」ということで説明します。 しかしこの友だち関係は、イエスさまの側から友だちにしてくださったというべきでしょう。前にもお話ししましたが、私が大学院の面接試験を受けるときのこと、大学に着いたはいいが、どこに行ったらよいか迷っていたら、私のことを知っていた教授が私を見つけ、総長のお部屋まで連れて行ってくれて、「この友だちの面接をしていただきたいのですが……」と切り出してくださり、事なきを得て面接をしていただき、晴れて合格しました。 あのときの「友だち」ということばに、私は教授のとりなしを見る思いがいたしました。しかしこの「友だち」ということばは、目上の立場におられる教授が言うべきことばであり、間違っても私から、教授を「友だち」と呼ぶべきではありません。 イエスさまにしても、この上ないほど目上の存在といえましょう。しかしこのお方はへりくだって、この庶民の三きょうだいを友としてくださったのでした。彼らを愛しておられたのです。私たちもまた、イエスさまの弟子であるとともに、イエスさまの友としていただいていることをしっかり心に留めてまいりたいものです。 さて、イエスさまがほんとうに彼らを愛していたならば、それなら、すぐ駆けつけてしかるべきだと思うでしょう。だが6節をご覧ください。この使いのことばをお聞きになってもなお、イエスさまはそのおられた場所になお2日とどまられたのでした。 人は、神さまに期待して祈ります。自分の願っていることが願いどおりに叶えられるように、切なる期待を込めて祈ります。しかし、神さまのお答えは、人の願っているとおりではなかったりするものです。 イエスさまがなぜ2日もさらにその地にとどまられたか、その地にはまだまだ語るべき人がいたからだとか、行うべきみわざがあったからだとか、説明はいくらでもつけられるでしょう。しかしこの理由については、聖書は沈黙しています。わかっていることは、イエスさまはこのことをお聞きになってもなお、そこにさらに2日とどまられたという、その事実だけです。 しかし、イエスさまがこのように振る舞われた理由を考えるならば、ひとつだけ確実なことが言えます。それは、イエスさまが「神の時にしたがって」行動された、ということです。 聖書の原語であるギリシャ語では、「時」というものを表すことばは「カイロス」と「クロノス」の2つがあります。早い話が、カイロスが神の時を指すのに対して、クロノスは人の時を指します。私たち人間にとって時間というものは大事です。この時間をしっかり把握するために、人は時計を用い、この時計の動きに合わせてみな行動します。現にこの礼拝も、午前10時30分という時間に始まり、11時30分くらいを終わりにするのも、クロノス、人の時の基準にのっとっているわけです。 しかしカイロスはちがいます。これはときに、人には測れないような形で現れます。マリアとマルタは、一刻も早くイエスさまに駆けつけていただきたかったでしょう。しかしイエスさまが御父から受け取っておられたスケジュールは、人の思いとはちがうものでした。神の時にしたがって行動された結果、2日さらにその地にとどまられたというわけです。 しかしその次の7節をご覧ください。イエスさまは、三きょうだいの家に向かうためにユダヤに行こうと弟子たちにおっしゃいました。神の時が満ちたのです。しかし弟子たちは、恐れました。今度こそイエスさまは石打ちに遭われるのではないだろうか。どうか行かないでいただきたい。 実際、イエスさまが直接ユダヤに行かなくても、ラザロを治す方法などいくらでもあったのではないかと考えられるでしょう。実際、直接患者のところに行かないで、みことばひとつでその病んだ人を癒されたということを、イエスさまが何度もなさったということが、福音書には記録されています。今度もそのようになさったならば、石打ちに遭うかもしれないという危険を避けることはできようというものです。 しかし、イエスさまはここでも、神の時にしたがって歩まれることを宣言なさいました。9節、10節をお読みください。……のちにイエスさまが捕らえられ、裁判へと引いていかれるとき、イエスさまは彼らに向かって「今はあなたがたの時だ、暗やみの時だ」とおっしゃいました。神の子を十字架につけようとするサタンの勢力がいよいよ盛んになるとき、それが暗やみのとき、霊的な夜であり、そうなるまでは、いかに敵対する者たちがイエスさまの周りにうごめいていようとも、手出しなどできないのです。 これこそ「神の時」です。弟子たちはこのときも、「人の時」で物事を推し量ろうとして怖れていましたが、神の時は人の時に優先するので、怖れることはなかったのです。 さて、イエスさまは何をしに行かれるのでしょうか? 眠ったラザロを起こしに行くためだとおっしゃいました。しかし、眠った、ということばを、弟子たちは誤解していました。単なる睡眠だと思ったのです。睡眠ならば、助かるでしょう。このことばの裏には、睡眠ならば助かりましょう、何も出向いていって危険にさらすことはありますまい、という弟子たちの思いが隠れているといえます。 しかし、眠る、ということばは、聖書にもしばしば用例がありますが、死んでたましいはもう地上にない、という意味でもあります。だからこそ14節をご覧ください、イエスさまははっきりと、ラザロは死にました、とおっしゃいました。 さらに15節をご覧ください、イエスさまがその場に居合わせてラザロのことをすぐに病気から立ち直らせることをしなかったのは、あなたがた弟子たちのためによかったのだった、わたしはそれを喜んでいる、とさえおっしゃっています。それは、あなたがたが信じるためである……。 イエスさまの弟子にとっていちばん必要なもの、それは、イエスさまが神の時にしたがってみわざを行われるという信仰です。その信仰があなたがたの間で確かになるために、わたしは死の眠りについたラザロを起こす、すなわちよみがえらせる……これは、十字架について死なれるイエスさまが、墓からよみがえり、いのちの主の栄光を豊かに現されるその前触れであり、とても大事なみわざでした。 弟子たちはのちの日に、復活の主を宣べ伝えるべく派遣されます。そのためには、何を差し置いても、イエスさまのこのみわざを目撃する必要があったのでした。 するとこのことばを聞いたトマスが、何を思ったか、こんなことを口にしました。16節です。……これだけはっきり、今はみわざを行う昼の時であるとイエスさまがおっしゃったというのに、トマスはこれを殉教の時と勘違いしたのです。トマスはなおも、神の時を人の時ととらえることをやめてはいませんでした。 ときに私たちは、主のみことばを聴き、主のみこころが示されてもなお、それを充分に受け取れず、神さまはきっと私が思っているような最悪の状況を用意しておられるにちがいない、ならばいっそ、それを覚悟して臨もう、などと思い込んでしまうことがあるものです。しかしトマスは、ほかの弟子たちとともに何を見たでしょうか? イエスさまの死ではありません。イエスさまの栄光です。実にイエスさまのみわざは、私たちの先入観、思い込みを越えてあまりある形で現されます。私たちはつねに、その主のみわざに余裕をもって期待してまいりたいものです。 ただ、トマスのこのことばはのちの日に、神の時至って実現しました。十二弟子は、脱落したイスカリオテのユダと、ヨハネを除いては、みな殉教の死を遂げました。トマスもその中に含まれていました。主とともに死ぬのはこのときではありませんでしたが、やがて充分に整えられた者となったとき、トマスもまた、主のために死ぬという栄光に浴することができたのでした。これもまた人の時ではない、神の時が成るということです。 そこで私たちもまた、神の時というものを考えてみたいと思います。コロナウイルスの流行はいつ終息するのか、日本列島が大雨の苦しみから解放されるのはいつだろうか、そればかり思うならば、私たちは絶望的な気分にならないでしょうか? このようなとき、私たちはどうすれば、その絶望的な気分から解放されるのでしょうか? 天を見上げることです。イエスさまはいかに歩まれたのでしょうか? 神の栄光が顕されるため、立ち止まるときには立ち止まられ、進むべき時に進まれた、イエスさまの歩みに心を留めてまいりましょう。 神さまが働かれない領域、神さまが目を留めていらっしゃらない領域は、この世界のどこにも存在しません。今この日本にも、神さまは目を留めておられ、最善をなしてくださると信じ、どうかこのときこそ最善をなしてくださいと祈ることです。そして、神の時にゆだねることです。そうすれば私たちは、絶望から救われます。 イエスさまのもとに使いを送ったマルタとマリアの気持ちを考えてみましょう。そばにイエスさまがいらっしゃらなかったことを、どれほど恨めしく思ったことでしょうか。どれほど、イエスさまのみわざを待ち望んだことでしょうか。しかし、イエスさまに与えられた父なる神さまのみこころは、マルタとマリアの思ったとおりではありませんでした。しかしイエスさまがみこころを持って働かれると、そこには最高のみわざが現され、主のご栄光が豊かに現されたのでした。 私たちも今、同じ思いで主を待ち望むべきではないでしょうか? 恨みたくもなるでしょう。泣きたくもなるでしょう。私はこれまで、自分がどんなにひどい目にあっても、神さまを恨むようなことはしないできました。それが信仰者としての在り方だと固く信じてきたからです。しかし今度ばかりは、涙をもって天を見上げる兄弟姉妹の痛みがひしひしと伝わってくるような気がしてならなくなっています。 助けたい。しかし私たちもはやり病に痛んでいる。しかもこのはやり病のせいで、被災地にボランティアにも行けない。かつての大震災は痛みの中で人を束ねることにもつながりました。まさにその痛みの中で、人は「絆」ということばの尊さに気づかされました。 しかし今度はちがいます。コロナウイルスは「絆」そのものを持たせないまま、人をかぎりなく病ませます。大雨に痛む人を行って助けることもできない、こんなことはかつてありませんでした。 こんなとき私たちは、それでもラザロ、マルタ、マリアの三きょうだいを愛された同じ愛をもって、イエスさまが被災地の人たちを愛し、コロナにおびえる私たちを愛してくださっている、それゆえに、神の時をもってみわざを必ずなしてくださることを信じ、その神の時を待ち望む信仰を育てていただくべく、祈ってまいりたいものです。 私たちは、人間のちっぽけな器で神さまを推し量るような愚かなことをしてはなりません。神さまは、イエスさまは、私たちがいま考えているよりも、知っているよりも、はるかに大きなお方であり、はるかに知恵に富むお方でいらっしゃいます。このお方がそのときにしたがってみわざを行われるなら、それこそ「最善」と呼ぶべきことです。 今こそ言いましょう。「神は愛なり」。神さまのみこころは、人の思いをはるかに超えます。

イエスさまを信じるということ

導入讃美「たたえよ栄光の神」「イエスが愛したように」/祈祷/使徒信条/交読 詩篇67篇/主の祈り/讃美 讃美歌532/聖書箇所;ヨハネの福音書10章31節~42節/メッセージ題目;イエスさまを信じるということ  今年のテーマは「信仰によって歩もう」、この標語を掲げて、もう今年も後半に突入しました。なんといっても今年の前半は、3分の2以上もコロナウイルスのことで話題が持ちきりで、メッセージもかなりそのことを意識したものとなりました。  しかし考えてみれば、いえ、考えてみなくても、私たちにとって祈るべきことは、コロナに関することにとどまりません。平安のため、健康のため、安定のため……しかし私たちは、少しも疑わずに、信じて願うようにとみことばで命じられています。その、つねに信じて願う信仰は、その信仰の対象である、イエスさまがどのようなお方であるかをみことばから教えられ、それゆえに私たちはイエスさまとどのような関係に入れられているかを知ることに始まります。  先週、私たちは自分を義とするゆえに祈りが聞き入れられないパリサイ人を反面教師として学びました。今日の箇所も、ユダヤ人とありますが、イエスさまを責め立てるユダヤの宗教指導者の姿が描かれています。  この、イエスさまを迫害する宗教指導者たちとの対話をとおして、イエスさまはご自身がどのようなお方か、明らかにしていらっしゃいます。このイエスさまに対して信仰を働かせるとはどういうことか、学んでまいりましょう。本日も、3つのポイントからお話ししたいと思います。  第一のポイントです。イエスさまは、神のことばであられるゆえに、信じるべきお方です。  今日の箇所は、イエスさまがエルサレム神殿のソロモンの回廊という場所で、ユダヤの宗教指導者たちに取り囲まれて詰問される場面から続いています。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」  しかし、ユダヤ人たちがイエスさまにそう迫ったのはなぜでしょうか? イエスさまがもし、ご自身がキリストであると彼らにおっしゃったならば、彼らは信じるのでしょうか? 自分の罪が救われ、神の子どもとなるために、イエスさまを信じるのでしょうか? とんでもないことです。そうではないことは、あとにつづく会話からもはっきりしています。イエスさまは、すでにご自身がキリストだと話したのに、彼らユダヤ人たちは信じないとおっしゃいました。そうです、すでに語っておられるのです。  それならば、なぜ彼らは受け入れないのでしょうか? これもイエスさまがおっしゃっているとおりです。それは彼らが、イエスさまの羊ではないからだ、ということです。 イエスさまの羊である人は、イエスさまについていく人、イエスさまが永遠のいのちを与えてくださる人、御父がイエスさまに与えてくださっている人だと、イエスさまはおっしゃいました。ということは、このイエスさまを詰問する宗教指導者たちは、そのどれにも当てはまらない者たち、ということになります。  そしてイエスさまは、このはっきりした事実に加え、わたしと父とは一つです、とまでおっしゃいました。ユダヤ人たちはこのおことばを聞いて、イエスさまに対する殺意が燃え上がり、投げつけるために石を取りました。  そのような彼らに対し、イエスさまはおっしゃいます。32節です。……これは、どういうことでしょうか? イエスさまが行われた数々の奇蹟は、みな、父なる神さまとイエスさまが一つであることを示している、それを見て、それでもわたしのことを石打ちにする理由はなかろう、というわけです。このことについてはのちほど詳しく扱いますが、ともかく、イエスさまのみわざを見てきたならば、彼らはいやでも、そこに父なる神さまのご存在とみこころとみわざを認めざるを得ないはずです。それなのに彼らは、イエスさまのことを迫害しているのです。  彼らの言い分を聞いてみましょう。33節です。……イエスさまが行われたわざが「良いわざ」であることは、さしもの彼らも認めざるを得ませんでした。だが、彼らにとっては、イエスさまがいかに良いわざ、愛にあふれた奇蹟を行おうとも、関係ありませんでした。彼らは、イエスさまがご自身のことを、神であると言っていることが冒瀆であると問題にしているのです。  しかし、イエスさまがキリストであるということは、ほかでもなく、イエスさまが人であるのと同時に、神さまであるということを意味します。それを認めることができないとは、やはりイエスさまの羊の群れに属していない者たちということになります。あなたがキリストならばはっきりおっしゃってください、と詰め寄りながら、あなたは自分を神としているのだから冒瀆だ、などとは、彼らが何を考えていたかよくわかります。語るに落ちる、とは、このことです。ここまで傲慢ならば、何をどうしてもキリストを主と告白する、すなわちイエスさまを主と告白することなどできません。  だが、自分のことを神と名乗ることは、イエスさまに関しては、冒瀆に当たりません。そのことをイエスさまは、旧約聖書・詩篇82篇のみことばを引用して証明されます。  まずイエスさまは、このみことばを「律法」と呼んでおられます。つまり、彼ら宗教指導者にとってはいのちのように大切なものです。このみことばが何と語るかを示せば、いかに彼らでも受け入れざるを得ないわけです。  そのみことばは、何と語っているでしょうか。……わたしは言った。「おまえたちは神々だ」。この「わたし」とは神さまです。では「神々」とはだれでしょうか。神さまのみことばを託されながらも、そのとおりに守り行わず、弱い者を切り捨て、悪しき者の味方をする者のことです。 もちろん、この「詩篇」が第一にはイスラエル人、のちのユダヤ人の間で唱和されたことを考えると、この警告を受けた「おまえたち神々」とは、ユダヤ人です。まさに、このようにしてイエスさまを責め立てている者たち、みことばを託されているのに悪を行う宗教指導者たちのことと言えます。  さて、この訳は「神々」となっています。これは、日本のだいたいの聖書は「神々」と訳していますが、新改訳の以前の訳や、文語訳の聖書は、ずばり「神」と訳しています。日本語のイメージでは、「神」と「神々」では全く異なり、「おまえたちは神だ」となったら、どういうことだろうかと思いませんか?  しかし、詩篇の原語であるヘブル語によれば、「神」も「神々」も、どちらも同じ「エローヒーム」であり、「神」とも「神々」とも訳してもいいのです。よく、日本語の「神」は聖書の語る唯一なる創造主とはちがう存在だから「神」と呼ぶべきではなかろう、という議論があり、韓国語には唯一の創造主を表す「ハナニム」ということばが特別にあることをうらやましがるクリスチャンがいますが、考えてみれば私たちは、このお方を「神さま」と呼んだからと、正確な聖書信仰を持っていない、ということにはなりません。詩篇82篇、そしてそれを引用されたイエスさまのおことばを根拠にすると、「神」と「神々」の区別さえ、本来はなかった、あくまで文脈で理解し分けるべきものだということがわかります。しかもイエスさまはそれに加えて「聖書は廃棄されない」とさえおっしゃっています。あなたがたは廃棄されることのない聖書を根拠に生きている、その聖書は何と語っているか、正確に耳を傾けよ、それはユダヤ人にも、私たちにも語られている、主のみこころです。  その聖書は、驚くべきことに、神のことばを託された者たちを父なる神さまが、神々になぞらえていらっしゃると語ります。では、イエスさまはどうでしょうか? イエスさまは神のみことばを託されているどころではありません。このヨハネの福音書が冒頭から語っているとおり、神のみことばそのものです。イエスさまがここで、御父が聖なる者とし、世に遣わされた存在、それがご自身であると語っていらっしゃるとおりです。 したがってイエスさまは、父なる神さまから神と呼ばれるのに、これほどふさわしいお方はいらっしゃらない、ということになります。それを、みことばを託されていようとも、しょせん人間にすぎない者に、あなたは神ではないから神を名乗るなど冒瀆だ、などと言われる筋合いはありません。 私たちはイエスさまをどのようなお方と信じ受け入れていますでしょうか? もし私たちが、イエスさまのことを、肉体をとってこの世界にいらっしゃった神のみことばなるお方であると信じ受け入れているならば、私たちのみことばに向かう姿勢は変わるはずです。この聖書のことばは、イエスさまのご本質と、神のみことばであるという点で同じです。そう考えますと、私たちには恐れが生じないでしょうか? 私たちはその恐れをもってみことばをお読みしていますでしょうか? 日々、みことばをお読みする時間は、イエスさまに出会う時間です。単なるお勤めとか、人生の素養を増し加える時間とはちがいます。みことばをお読みするとき、それが私たちにとってイエスさまに出会い、イエスさまと深く交わる時間となりますように、その時間を毎日大切にする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。  では、第二のポイントにまいります。イエスさまは、神のみわざを行うゆえに、信じるべきお方です。  37節、38節をお読みしましょう。……イエスさまが、ご自身が神の御子であることを証ししたものは、イエスさまが行われた奇蹟、わざでした。マタイの福音書11章5節で、バプテスマのヨハネの弟子たちにイエスさまが語られたとおりのことを、イエスさまはなさっていました。そのわざはすべて、イエスさまがメシアとしてこの地に来られたことを証しするものでした。  これを主のわざとして受け入れ、それゆえにイエスさまを救い主として信じる人は幸いです。その人はイエスさまを信じる信仰によって、永遠のいのちをいただくことができるからです。実に、この奇蹟を受け入れるかどうかは、永遠のいのちをいただけるかどうかの分かれ目となります。  イエスさまは、すばらしいみことばをたくさん語られました。しかしそれは、単なる道徳的な教師のことばではありません。それは、ご自身が神である、父なる神とひとつであると語られるみことばでもありました。人によっては、こんなことはとても聞いていられない、という告白です。実際、イエスさまの十字架刑を決定づけたものは、まさにイエスさまが、大祭司の前でご自身が神の御子キリストであると告白されたことでした。その告白を聞いた大祭司らユダヤの指導者たちは、即座に死刑を言い渡し、そしてその死刑とは十字架だったのでした。ご自身が神であるということゆえにイエスさまは十字架に死なれたわけです。  それがユダヤの社会の不寛容さでした。このような社会において、その宗教的な構造ゆえに苦しまされていた庶民たちを救ったのは、この力あるみことばを証拠づける、数多くの奇蹟でした。この奇蹟は、人々をそれで惹きつけておいて、自分の配下に下った者を意のままに操り、搾取するような、悪魔に魅入られたような者たちのものとは根本的に異なっていました。まさに、この数々のわざは、神の国の到来を告げるに充分なものでした。  イエスさまを信じるということは、イエスさまがこの数々のわざを行われたということを信じる、ということです。時代が下り、あらゆることを科学的に説明しようという風潮になり、科学的に説明できないものは事実ではないと切り捨てる社会において、次第に人々は、イエスさまのみわざは神話にすぎないとばかりに、遠ざけるようになりました。しかしそのような人は、仮にクリスチャンを名乗っているとしたら、イエスさまの何を信じているというのでしょうか。 聖書のあらゆる記述は、科学の発達した現代にさえも説明できないことばかりです。ある人は聖書の記述と科学を調和させようとあらゆる努力をしたり、聖書の奇蹟を科学で説明しようとしたりします。それは科学という観点から見ればとても面白い取り組みには違いないのですが、その作業が、神さまの起こされたわざを奇蹟と受け入れることによって神さまを恐れ、神さまを信じ受け入れることにとって障害となってしまうならば問題です。  10年以上前、埼玉の実家に住んでいたときのことです。ある日私は父と一緒に、NHKの番組を見ていました。それはアメリカの科学番組で、出エジプト前夜に起こった十のわざわいをすべて科学的に説明するという内容でした。ご覧になったという方はいらっしゃいますか? 実によくできた番組でした。その説明はすべて、無理も矛盾もないように思えました。私はテレビを眺めていて、へえ、十の災害をこうまでみんな論理的に説明できてしまうなんて面白い! などと無邪気に感心していましたが、ノンクリスチャンである父が番組を見終わって、ぼそっと言いました。「こうまで説明しちゃ、奇蹟の意味がないよなあ。」  いったい私たちは、科学の力で弁護しなければ聖書が真実である、事実であると受け入れないのでしょうか? こんなことを事実として書いている聖書のことを人に伝えたら、私たちの信仰はどう思われるだろう? そんなことを考えて、福音を人に伝えることをためらってはいないでしょうか? いいえ、神さまが選んだ人ならば、聖書が現代科学の説明に合わないなどとは考えません。私たちがそうしたように、ちゃんとみことばを真理として受け入れます。  要は、及び腰にならないことです。「臆病者は神の国を継げない」という、私たちにとって恐ろしい警告のことばが聖書にありますが、私たち、ああ、自分は臆病だ、神さまはこんな私をとがめられる、とお思いでしょうか? 私たちにとって大事なのは、何よりも、聖書を真理として受け入れる点で臆病にならないことです。この聖書を事実、真実、真理として受け入れることにためらう恐れがあってはなりません。私たちはみことばを受け入れることにおいて、大胆になる必要があります。このみことばの語るとおり、奇蹟は起こった、今もなお主は祈りを聞いてくださり、奇蹟をもって応えてくださるお方である、そう信じて、みわざをもって祈りに応えてくださる主がともにいてくださることを信じつつ、日々の歩みをなしていくことです。  私たちはまだ、聖書に書かれているイエスさまのみわざ、父なる神さまのみわざが、信じきれていない、ということはないでしょうか? 私たちのうちに信仰が増し加わり、どんなわざも信じ受け入れ、そのわざをなしてくださったイエスさまに対する信仰をますます強い者にしていただくように祈りましょう。私たちの不信仰が信仰に変えられる、これは実に素晴らしいみわざです。日々の主とともに歩む歩みの中で、このみわざを味わい、主に感謝する歩みをなす私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。  最後に、第三のポイントです。イエスさまは、預言の成就そのもののゆえに、信じるべきお方です。  40節から42節をお読みしましょう。……ヨハネは、ヘロデの罪を告発したことが原因で逮捕され、ヘロデの妻へロディアによって無残な死を遂げました。このヨハネは、イエスさまの到来を告げる働きをしていましたが、ある人はこのヨハネがメシアではないかと考えていました。  しかし、メシアはイエスさまであって、ヨハネではありません。そもそも、生前のヨハネは、イエスさまを差し置いて自分がメシアとして人々に扱われることなど、考えることさえしませんでした。  イエスさまも、ヨハネの業績がすべて、ご自身の到来をもって成就することを証しされる必要がありました。ヨハネを信じていた人々が、そのまま、イエスさまを信じないままでいるようなことがあってはならないからです。もしそうなったら、彼らはキリストには出会えなかったということになります。そういうわけで、ヨハネのバプテスマしか知らなかった人たちは、イエスさまによってフォローされる必要がありました。イエスさまは彼らに奇蹟を行われ、イエスさまこそメシアであることを示してくださいました。  また、イエスさまがヨハネの後をご自身でフォローされたということは、もうひとつの意味があります。マタイの福音書11章13節で、イエスさまがヨハネについて評価していらっしゃるみことばから、そのヒントを得ることができます。お読みします。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」  つまり、イエスさまご自身は、ヨハネが最終的に示した旧約の預言を、究極的に成就されたお方である、ということです。そのとき信じた人たちは、イエスさまはヨハネが語ったとおりのお方だった、と言っていますが、それはつまり、イエスさまは旧約の預言の成就だった、ということになるわけです。  イエスさまがこのような、みことばの成就、わけても旧約のみことばの成就そのもののお方でいらっしゃるということに私たちが心を留めるなら、私たちの聖書の読み方は豊かにならないでしょうか? 私たちはホテルなどでよく、新約聖書の分冊を見ます。ないよりはある方がいいのでしょうが、新約聖書だけというのは、これは正確には「聖書」とはいいません。英語でもそれは「ニュー・テスタメント」であって、「ザ・バイブル」にはならないわけです。  千代崎秀雄先生という方がおっしゃっていますが、推理小説を解決篇だけ読んでも面白くないでしょう、そこに至るまでの伏線をじっくり読むから、推理小説は面白いのです、旧約聖書もそれと同じで、解決篇に当たるイエスさまの登場までの伏線をじっくり読むということです……。  しかし、多くのクリスチャンにとって、旧約聖書はとっつきにくいことは否めません。難しい、というより、退屈、という印象を受けたりはしないでしょうか? そんな旧約聖書を生き生きとお読みする、ひとつのヒントをご提供します。それは、そこに書かれている記述から、イエスさまを発見することです。これは、イエスさまがどのようなお方であるかを新約聖書から学んでいるほど、発見しやすくなります。そして発見するたび、イエスさまというお方の豊かさに触れることになり、私たちの信仰はいやがうえにも深まります。みなさんも面倒くさがらないで、ぜひ旧約をお読みいただければと願います。イエスさまに秘められた豊かさをどんどん発見し、恵みを大いに体験していただきたいのです。  以上見てきたことから結論を下しますと、イエスさまを信じるということは、旧約そして新約に証しされたイエスさまのご存在、おことば……そしてみわざに至るまで、すべて事実、真実、真理と信じ受け入れることを意味します。イエスさまを信じることと聖書のみことばを受け入れることは、密接な関係があるどころではありません。同じことです。私たちが座右に聖書を置いてみことばとともに歩むとき、イエスさまがつねにともに歩んでくださり、私たちを恵んでくださる祝福をつねに体験する私たちとなりますように、そのために、みことばに絶えず親しむ私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 讃美 聖歌475/献金 讃美歌391/頌栄 讃美歌541/祝福の祈り

だれの祈りが受け入れられるのか

招詞 詩篇134篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇66篇/主の祈り/讃美 讃美歌514/聖書本文;ルカの福音書18章9節~14節/メッセージ題目;だれの祈りが受け入れられるのか  コロナウイルス流行に伴って「私たちはいかに祈るか」ということを、これまでこの日曜礼拝の時間に学んでまいりました。この事態を主が鎮めてくださるように、私たちはどれほど祈らされたことでしょうか。しかし主は、日本にかぎってのことではありますが、ある程度の回復をくださいました。そこで、今日でひとまずこの「祈り」をテーマにした学びを締めくくりたいと思います。  私がはじめてお祈りしたときのことを想い出します。それは日曜学校の中高生科のことで、先生も交えて数人のメンバーでお祈りしました。いきなり私の番が回ってきて、しどろもどろになりながらお祈りしたものでした。しかし、そのグループには歳の近い長老のお嬢さんがいらっしゃり、彼女はすらすらと、きれいなことばづかいさえ用いてお祈りしたものでした。そう、私にとって初めてのお祈りは、ちょっとコンプレックスを覚えるような体験でもありました。  あれから30年以上たち、それなりに私のお祈りのことばは豊かなものになったと思います。しかし考えなければならないことは、神さまはお祈りの表現の豊かさ、きれいさにしたがって、お祈りを聞いてくださるわけではない、ということです。今日お取次ぎするメッセージを備えながら、自分はどうだろうか、自分のお仕えしているこの群れはどうだろうか、と、たえず問われる思いでいっぱいでした。それでは、みことばの解き明かしにまいりたいと思います。  イエスさまは、お祈りということに関して、2種類の人を例に挙げられました。それは、自分は正しい人間だと確信していて、ほかの人々を見下している人たちを戒めるためです。具体的には、当時の宗教界を支配していた人たち、律法学者のパリサイ人たちを念頭に置いてのおことばでした。彼らパリサイ人の宗教的支配により、実に多くの人が不自由を強いられ、悩みと苦しみの中にありました。イエスさまは、そのように抑圧された人々に対し、彼らを解放するみことばを語られた一方で、パリサイ人を戒め、その宗教的な偽善を暴き出されました。  少し考えてみましょう。私たちはパリサイ人でしょうか? そうではない、自分は恵みによって救われた、と思いならば、自らに問うてみる必要があります。自分は神さまの正しさを基準に、人のことをさばいていないだろうか? 自分は神さまに近い分、人は自分よりも劣っているとか、けがれているとか、間違っているなどと思っていないだろうか? もしそうならば、私たちは立派に、鼻持ちならないパリサイ人です。福音書の記者たちがあれだけ、パリサイ人に関する記事に紙面を割いているのももっともなことになります。 心して聖書をお読みする私たちになりたいものです。  宮、これはエルサレム神殿です。エルサレムの中でも高いところにあります。この高きに向かって上っていくとき、神さまに出会うんだという高揚感はいやがうえにも高まろうというものです。みなさんも、服装を整えて車に乗り、はるか茨城町長岡を目指していらっしゃるときにも、同じような思いになられるのではないかと思います。しかし問題は、宮に上ることそのものではなく、その宮においてどんな祈りをささげるかです。  宮に上った2人の人、パリサイ人と取税人……イエスさまはこの2人を、とても対照的な姿で描かれます。まず、パリサイ人の祈りの特徴を、3つのポイントに分けて見てみたいと思います。  第一にパリサイ人は、敬虔ななりをして自分を義としました。  パリサイ人はどこで祈っていますでしょうか? 宮です。まさに、自分のような宗教指導者にとっては本拠地です。  ここで祈るということは、いかにも自分は宗教的にすぐれた人であるとばかりに、人に見せびらかすに充分なことです。イエスさまは、偽善者は人々に見えるように、会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだと喝破していらっしゃいます。そのような者は、すでに自分の受け取るべき報いを受けている、ともおっしゃいました。祈っただけの報いをその後も、いわんや天国においても受け取る余地はない、ということです。  このパリサイ人もまさに、そのような偽善的な態度で、宮にいたわけです。愛するみなさん、私たちの信仰生活を、日々のお勤めにも似た宗教行為ののりでしてしまうならば、それはとても危険なことです。することそのものが目的となり、することによって自分が何やら霊的な人になったように思えたり、霊的な人と思ってもらえたり……イエスさまなら、それは偽善者の態度であるとおっしゃることでしょう。  かく申します私などは、なまじ牧師のような働きをしているゆえに、どれほどそのように宗教的に満足することの誘惑にさらされていることか、どうか理解していただきたいのです。イエスさまは、先生と呼ばれてはいけません、とおっしゃいました。しかし私は今、みなさまに先生と呼んでいただいています。そう呼んでいただけることが主の御目には素晴らしいことである一方で、私は決して慢心してはなるまい、と、心を新たにさせられます。  しかし、あえて申しますが、私たちもみな、多かれ少なかれ、パリサイ人になりえる要素というものを持っているものです。特に、イエスさまの十字架にの恵みにより、信仰によって救われた、その証しをする聖書は誤りなき神のことばである、と信じ告白する私たちのことを、一般には「福音派」と呼びますが、われわれ福音派は一歩間違えると、とても鼻持ちならない集団と化します。自分たちこそ神さまが選んでくださった、自分たちこそ神さまと交わりを持たせていただいている、自分たちこそ聖書もイエスさまもよく知っている、あとは正しくない、足りない……私たちはときに、こんなことを考えたりしていないでしょうか?  そのような私たちであることに気づかされたならば、すぐにでも悔い改める必要があります。そのような者の祈りは、一見するととても立派なことばに飾られています。しかしそこには、神さまとの交わりが成り立つ余地はありません。立派なことばを使ってお祈りすればいいというものではありません。もちろん、お祈りのことばが整えられるのは大事にはちがいありませんが、それ以上に大事なのは、立派な自分ではなく、神さまに焦点を合わせたお祈りをすることです。 私たちの普段ささげているお祈りを点検しましょう。お祈りしているとき、神さまが見えていますか? いえ、神さまだけを見つめていますか? 神さまだけを見つめるならば、宗教的に飾った自分のことなど見えなくなります。  パリサイ人の祈りの、第二の特徴にまいります。パリサイ人は、他者との比較で自分を正しいとしました。  11節を見てみますと、パリサイ人は、4つのことを感謝しています。自分が奪い取る者ではないこと、不正な者ではないこと、姦淫する者ではないこと、そして、その祈りの場にともにいる取税人のようではないことをです。  たしかに、彼の祈ったとおりなのかもしれません。法律的、道徳的規準から言えば、奪い取ったり、不正だったり、姦淫したりはしていないのかもしれません。それに、取税人のように、ユダヤ人から税を取り立ててローマに貢ぎ、必要以上に取り立てたぶんで私腹を肥やすようなことはしていないのかもしれません。  しかし、それを感謝した気分になるということは、神さまに栄光をお帰しする態度ではなく、自分の手柄のように誇るということです。そこには神さまの恵みを認め、感謝する余地はありません。  さらに厳密に言えば、パリサイ人はこのどの比較によっても義と認められることはできません。パリサイ人は窃盗犯や強盗のように人からものを奪うことはしていないかもしれません。しかし彼らは、合法的に庶民を苦しめるように宗教社会をつくり上げ、彼らを搾取してはばかりません。まさにパリサイ人は奪い取る者です。そして、そのようなことをきよい神、公平な神、愛なる神の名において行うのは、これ以上ないほど不正なことです。また、肉欲を行使するか否かという点でも、姦淫の罪は犯していないでしょう。しかし、律法というものは、十(とお)のうちひとつでも破るならば、すべてを破ったと見なされます。姦淫の罪を犯していないことなど、何も誇ることではありません。  さらにこのパリサイ人は、そばでともに神さまに祈っている取税人を、同じ神の民として扱ってはいません。人としてすら扱っていないようでもあります。取税人は確かに取税人という悪い肩書を持っていますが、同じユダヤ人、神の民であることに変わりはありません。そのような彼に対するあわれみの心など欠けらも持ち合わせず、自分さえよければという思いでいっぱいです。兄弟としての意識もなく、さばく思いでいっぱいです。  神さまは、あなたが人と比べて罪深くないから受け入れてくださる、というお方ではありません。神さまの前にはみな罪人です。義人はいません。ひとりもいません。それなのに、人よりも自分のほうが罪深くないとか、すぐれているとか言ってみたところで、何になるのでしょうか。  私たちが神さまを恐れているならば、くれぐれも、人と比較して自分のほうがすぐれているなどと、誇ったりしないことです。そのような態度は、救いようのない罪人だったのが恵みによって救いっていただいた、そのような私たちに、いちばんふさわしくないものです。私たちの祈りを点検しましょう。くれぐれも人と比較しないでいただきたいのです。  パリサイ人の祈りの、第三の特徴を見てみましょう。パリサイ人は、宗教的行為で自分を義としました。  12節を見てみますと、2つの宗教的行為をこなせていることを彼は誇っています。まず彼は、週に2回断食していると言っています。……しかし実際に聖書が呼びかけている断食は、週に2回というものではありません。年に数回の「贖罪日」に断食を要求するのみです。しかし、時代が下り、宗教指導者たちは週に2度の断食をすることが慣わしとなっていました。  みなさん、断食というものをなさったことがおありでしょうか? あれは、とても苦しいものです。特に、食べないと血糖値が下がってふらふらになるような方の場合、生きた心地がしなくなります。しかし断食とは本来、主のみこころをより深く自分のものにさせていただくためにすべきものであって、断食そのものによって、自分が何か偉い人になったかのように錯覚するためのものではありません。  一日、断食をしたとします。しかし、そのことで、自分はすごいことができたなどと自分を誇る態度になったならば、はっきり申します、その断食は大失敗です。パリサイ人は、そのようなひとつも実を結んでいない失敗の宗教的行為を、しかも週に2回、年に換算すると100回以上もしているわけです。これほどむなしいことがあるでしょうか。  そして彼は、全収入の十分の一をささげていることを誇ります。この十分の一というささげものについては、モーセ律法五書のあちこちにその根拠があり、ささげるべきものと教えています。しかし、パリサイ人に関しては、その全収入は本来、ユダヤの宗教社会の中で人々から受け取っているものであり、「労働の対価」というのとは性質が異なります。だからパリサイ人の十分の一は、庶民が労働で得た収益の中から苦労して十分の一をささげることとは、本質的に異なります。パリサイ人にとっては、いわば宗教的生活の一環です。それはパリサイ人という「職業」についているかぎりささげるべきものであって、誇るなど筋違いもいいところです。  断食と十分の一献金は、私が韓国教会と関わるようになって、はじめて身近なものとなり、これを生活化して信仰生活を送っている韓国教会から大いに学ぶべきだと、最初私は思っていました。 しかし自分が韓国教会の中に実際に身を置いてみると、その、断食と十分の一を実践することはどんなに難しいことかと、身をもって思い知りました。しかし人によっては、あまり悩まないでできてしまう人もいるものでした。でもそういう人は、「えらい」のではありません。それだけ、主の恵みを受け取っているにすぎないだけです。  私は、そのような「断食と十分の一」の流れに長年身を置いたので、それが教会形成において重要なことはわかっています。しかしそれだからこそ、私はみなさんに、断食と十分の一を強制するような牧師にはなりたくないと切に願います。これを強制でするならば、万一、一日断食ができた、今月十分の一をささげることができた、と、実践に移した場合、そんな自分のことを誇る余地が出てきてしまうものです。そうではありません、断食にしても十分の一にしても、日々いただく神さまの恵みがあまりにも素晴らしいことを受け取れて、はじめて可能になることです。はっきり申し上げます、もしそのような恵みがどうもわからない、とお思いの方は、断食や十分の一に象徴される教会生活に、そんなに一生懸命にならなくても大丈夫、と思います。もちろん、恵みを体験していただくことがいちばん素晴らしいことなので、私はそのようなみなさまのためにお祈りしますが、くれぐれも、人の目を気にして無理するようなことはなさらないでいただきたいのです。  では、パリサイ人を反面教師としてここまで見てきましたが、それなら取税人のほうはどうなのか、ということも見てみたいと思います。  取税人は、ただ自分が罪人だということを認めて嘆き悲しみ、神さまにあわれみを求めました。  13節をご覧ください。……この「あわれんでください」ということばは、岩波書店発行の福音書の訳では「お慈悲を」となっています。これなら、日本人にもわかりやすいのではないかと思います。とにかく、この取税人は、宮から遠く離れ、それでも宮にできるだけ近づいて、うなだれて胸をたたいて、ひたすらに祈ります。宮の中には彼のような立場の者は受け入れてもらえません。それでも彼は、少しでも主の臨在を求めて近づきます。うなだれるのは、自分の罪深さに恥じて、天におられる神さまに合わせる顔がない、という態度でしょう。そして、罪深い思い、そしてそれを悔いる思いでいっぱいの心をたたくように、胸を打ちたたき、叫びます。「神さま、罪人の私をあわれんでください。」  はっきり自分のことを罪人と認め、告白しています。罪人だから神さまに受け入れていただくなどとんでもない、彼はよくわかっていました。でも、彼は一縷の望みをいだいて、神さまにあわれみを求めました。あわれんでください!  彼の祈りは必至です。まるでこの祈りは、神さまのあわれみで覆っていただかなけば、死んでしまいそう、そう、必死に叫んでいるかのようです。  さあ、どちらの祈りを神さまは聞いてくださり、義と認めてくださったのでしょうか。14節です。 ……さて、この14節の「あのパリサイ人ではなく、この人です」ということばに注目しましょう。これはギリシャ語の原語でも、「パリサイ人」、「この人」と書いてあります。「この人」なのであって、「取税人」ではないのです。  これは、どういうことでしょうか? 神さまが義と認めてくださったならば、神さまはもはやその人を「取税人」に象徴される罪人としては扱わない、ということを暗示しています。神さまに罪赦されて、取税人としての在り方を外していただいた「この人」です。 一方で、「パリサイ人」は、やっぱり「パリサイ人」です。みこころから外れたこと、自分を正しいとする高慢なことを祈るような者は、依然として、人をさばき、人を不自由にする罪を決して悔い改めない「パリサイ人」として、御父もイエスさまも扱われる、ということです。  これが神さまのみこころであることを知った私たちは、ただひたすらに、神さまにあわれみを求める祈りをささげるべきです。しかし、よく考えてみましょう。私たちはなんと、小さな自分を誇る祈りをささげることでしょうか。人と比較して自分を正しくする祈りをささげることでしょうか。そんな私たちは何という罪人でしょうか。  しかし、私たちはそれでも、神さまに祈りを受け入れていただく余地があります。それは、そのような罪人、人をさばき自分を義とする罪人であることを素直に認め、その罪から自由にならないことを嘆き悲しみ、神さまの御前にあわれみを求めるのです。神さまはそんな私たちの祈りを、必ず聞いてくださいます。罪を赦し、義としてくださいます。  へりくだりましょう。神の国は、私たちげへりくだるときに、神さまが私たちに与えてくださるものです。 讃美 聖歌426/献金 讃美歌391/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

エリヤの祈り後篇疲れし者への神の応答

招詞 詩篇133篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇65篇/主の祈り/讃美 讃美歌516/聖書朗読 列王記第一19章1節~18節/メッセージ「エリヤの祈り後篇 疲れし者への神の応答」  この日曜礼拝のメッセージの時間、私たちはこれまで、代々(よよ)の聖徒たちの祈りの模範を、聖書から学んでまいりました。しかし今日は、模範というアプローチとはちがったかたちで「祈り」について見てみたいと思います。  コロナ疲れ……先週水曜日、教会で幾人かの信徒たちで集まったとき、改めて私たちが、「コロナ疲れ」というものにやられていたことを思わされました。私たちはどうでしょうか? 疲れてなんかいない、と思っているような方でも、実は疲れていた、ということはありえると思います。非常事態が長く続き、そこから緊張の糸が解けたときが、いちばん危ないのではないかとも思われます。  疲れから回復する技術を持っている人はすばらしいです。しかし時に私たちは、そのキャパシティを越えて、もうどうにもならなくなるときというものがあるものです。しかしそんなときにも、神さまは私たちを祈りに招いていらっしゃいます。先週に引きつづき、エリヤの祈りから学びましょう。  第一のポイントです。神さまは疲れ切った者をどこまでも慰め、力づけてくださいます。  先週みことばから学びましたとおり、エリヤは素晴らしい業績を上げました。しかしその目的は、エリヤがスーパースターになることではありません。アハブ王をはじめ、神の民イスラエルが、偶像を捨てて、主に立ち帰ることに大きな目的がありました。  しかし、結果はどうなったでしょうか? 主のみわざを見たならば、今後もう偶像を礼拝するのはやめて、まことの神さまにだけ礼拝するようになるべきだったのに、結果はあべこべでした。1節、2節のみことばをご覧ください。  エリヤにとって、あの雨乞合戦は相当な労力を要するものでした。午前中いっぱい、バアルの宗教儀式をじっと見つめることは、いかにその神々が実体のないものだと知っていても、霊的にとても疲れることだったはずです。みなさんも神社仏閣に行くようなとき、どこかしら霊的に疲れを覚えませんか? 仏式や神道式のお葬式に参列するようなときなど、なおさらでしょう。そして、まことの神さまが臨んでくださったときには力を得たとしても、神さまに敵対するバアルやアシェラの預言者850人を聖絶するということは、それが必要なこととはいえ、たいへんな労力を必要とします。しかし、そこまでしたというのに、アハブの王家は悔い改めず、イゼベルは直接対決を避け、自分のいのちにかけて刺客(しかく)を送ることをエリヤに言い送ったのでした。  聖書は、このときエリヤがどんなに絶望したことかもしっかり記録しています。やはりエリヤはスーパースターではなかったのでした。3節と4節です。エリヤは、今ここで殉教するということにより、主なる神さまの確かさを証しするという選択ができなかったのでした。むしろ、自分のいのちを救うために逃げたのでした。  しかしエリヤは、現実を見誤っていました。もしイゼベルがほんとうにエリヤを葬り去るつもりだったら、そのまま刺客を送ってエリヤを暗殺していたはずです。しかしもし、そのようなことをしたらどうなったでしょうか? エリヤは殉教したことになり、主なる神さまの正しさが証しされることになります。イゼベルとしては、何としてもそのようなことは避けなければなりませんでした。イゼベルには悪魔的な知恵があったのでしょう。自分の献身する神々の名にかけてエリヤを脅迫すれば、エリヤは逃げるにちがいないという計算があったはずです。果たしてエリヤは、まんまとイゼベルの術中にはまりました。イゼベルはこうして、エリヤを敗北者に仕立て上げることに成功したのでした。  エリヤは、ひとりでユダの南にある荒野に行きました。日の照りつける荒野では、暑さをしのぐことができるのは、低い灌木であるエニシダの木陰くらいしかありません。エリヤはそこに座り、何をしたか。自分の死を願ったのです。  エリヤの中には何らかのシナリオがあったことでしょう。バアルがさばかれ、神さまが3年6か月ぶりに雨を降らせてくださった。イスラエルはこれを見て、地位の高い者から低い者まで、まことの神さまに立ち帰るにちがいない。しかし現実はそうならなかったばかりか、イゼベルはますます強情になり、バアルの神々の名によってエリヤを葬り去りにかかりました。火をもって応えられ、大雨を降らせてくださった……あれだけのことを神さまはしてくださったというのに、バアルはまだ、まことの神さまに負けてはいなかった。エリヤはこの現実にうちのめされました。それなら、イゼベルの刺客によっていのちを落とすくらいなら、神さまの御手に陥ってこの世を去らせていただきたい……エリヤはそこまで思い詰めてしまったのでした。  エリヤはスーパースターではありませんが、神さまのみこころにかなった人でした。だからこそ神さまは、雨乞合戦においてエリヤの祈りを聞いてくださったのでした。それなら、エリヤのこの死を願う祈りも、みこころにかなった人物だからという理由で、お聞きになるのでしょうか? そうはなさらなかったのでした。  だれであれ、死にたくなることはあるでしょう。しかしわれわれクリスチャンの場合、いのちというものが神さまの御手のうちにあることを知っています。だからなおさら苦しくなるのですが、その苦しさに耐えられなくなると、本気で死にたいと思い、どうかいのちを取ってくださいと祈りたくもなります。しかしそれなら、神さまはその祈りをみこころにかなうものと受け止め、その祈りのとおりにいのちをお取りになるのでしょうか。とんでもないことです。神さまがその祈りにお応えにならないのは、生きるのがみこころということが、大前提だからです。  神さまは追い詰められている私たちの味方です。5節から7節をお読みください。……聖書は私たち人間のことを、どのように表現していますでしょうか? 土の器、とも語っています。聖霊の宮、とも語っています。私たちは有限な存在であり、壊れやすい存在です。だから、どこかで壊れやすい私たち自身を保たせる必要があります。  私たちはしばしば、信仰生活というものを、何やらとても宗教的な修養(しゅよう)のようなものと勘違いしている節はないでしょうか? コロサイ人への手紙2章の末尾を読めばわかりますが、そんな禁欲的な生き方はしょせん肉を満足させているものにすぎないと言い切っています。それでは、好き放題のことをする快楽主義の生き方と、見かけはちがっても同じことをしていることになります。  神さまの恵みにすがる生き方は、禁欲主義でも快楽主義でもありません。あえて言えば「恵み主義」です。私たちの肉的な努力で生きることに限界を覚えるとき、神さまの御手へと主導権を渡すのです。そのとき私たちは、そこからさらに禁欲的になる必要はありません。疲れたら寝てもいいですし、好きなものを食べてもいいですし、罪にならないかぎり、好きな映画のビデオを観たっていいのです。神さまが願っていることは、私たちが元気を出すことです。  神さまはエリヤの疲れ切った肉体に、いちばん必要な物は休息と食べ物だということを教えてくださいました。さあ、起きて食べなさい。旅はまだ遠い。  しかし、この旅は、ひとりで行かなければならない孤独な旅ではありません。神さまが一緒にいてくださるうれしい旅です。つねに慰めと励ましをいただく旅です。この世を生きる人たちは、みな旅人に例えることができるでしょう。私たちクリスチャンは、イエスさまが重荷を負ってくださる旅人です。つねに必要を満たしていただく旅人です。疲れたら後ろめたさを覚えずに休んでいい旅人です。私たちは天国という、はるか遠くの目標に向かって歩むために、今体験している苦しみがすべてだと思ってはなりません。疲れたら疲れている自分を認めて休み、栄養を補給することは、むしろみこころにかなっていると思ってください。それでもいま休めないでいる兄弟姉妹に、憩いのときが与えられるように、私は祈りますし、みなさんも祈っていただきたいのです。  第二のポイントです。神さまは次なる目標を見せてくださり、否定的な現実から自由にしてくださいます。  力を得たエリヤは、四十日四十夜歩き、神の山ホレブにつきました。ここはモーセが神さまに出会った場所でもあります。特別な場所です。  エリヤは御使いの備えた食べ物と飲み物を得たら、それですぐに働きに復帰したわけではありません。エリヤにはまだ、リトリートの時間を必要としていました。神さまとの交わりを持つために、実に40日にもわたってホレブ山に歩いて行ったのでした。  ここでエリヤは、神の御声を聴く体験をします。9節です。……ここで何をしているのか。神さまはもちろん、全知全能なるお方ですから、お尋ねにならなくてもエリヤが何をしているかご存じでした。しかしそれでもあえてお尋ねになったのは、エリヤの現住所をエリヤ自身が神さまの御前で知る必要があったからでした。  あなたは、何をしているのか。私たちが日々、神さまの御前に出る時間は、私たちがいまどこにいて、何をしようとしているのか、神さまの御前で確かめ、明らかにする時間です。しかしここでエリヤは、何と答えていますでしょうか。10節です。……これが、エリヤの訴えたかったことでした。これだけいっしょうけんめい神さまにお仕えしたのに、相変わらず偶像が幅を利かせ、神さまにお仕えする者たちは皆殺しにされている。ただ一人残った私さえも、今や殺されそうになっている。神さま、私が置かれているところは、こんなところなのです! 私はこの場所から、神さまに訴えさせていただきます!  聖書注解書など、この箇所に関するいろいろな解説を読んでみました。多くは、エリヤは間違った自己憐憫に捕らえられていて、自分を見失っている、というものでした。たしかに、そうかもしれません。しかし、そういう状況に陥っていたことは、当のエリヤがいちばんよくわかっていたのではないでしょうか。  岡目八目、ということばがあります。当事者の立場からいったん距離を置いてみると、見えていなかったものが見えてくる、という意味です。しかし私たちは、このエリヤの苦悩を見て、なお傍観者のような態度を取って、だからエリヤは間違っている、などと論評するのは、正しいことでしょうか? エリヤの悩みは、あれだけ神さまとの交わりを持った者にしていだかされた激しいものです。いわんや凡人の私たちは、どれほど悩みに右往左往させられることでしょうか?  しかし神さまは、エリヤのこの赤裸々な祈りに対し、臨在、という形で回答を与えられました。11節、12節をお読みしましょう。  岩を砕く激しい大風、地震、それに続く火……いかにもこれらの現象は、大いなる神さまを象徴しているように思えます。だがそのいずれの中にも、神さまはいらっしゃいませんでした。先週のみことばを思い返しましょう。雨乞合戦。水浸しの祭壇を土もろとも火でなめ尽くすほどのみわざを行われたお方、そして、3年6か月にわたる干ばつをあっという間に大雨で潤されたお方、それが全能なる主であり、イスラエルもアハブ王もこの現象に、神さまを認めました。だがそれでも、イスラエルは根本から変わったわけではありません。神さまの臨在を目に見える現象に求めるならば人は燃え尽きてしまいます。  先週、いのちのことば社の営業の方が、教会にたくさんの本のサンプルを持ってお見えになったとき、私はウィリアム・ウッド先生が書かれた「新使徒運動」に関する本を見つけ、さっそく購入しました。 新使徒運動とは、現代においても聖書に書かれているとおりの使徒が存在すると主張する立場のムーブメントで、現代に立てられた「使徒」は、キリストの何より預言し、命じればどんな悪しきものも治められる、というものです。実際、このコロナウイルスの流行においては、アメリカの各地でコロナウイルスに命じて退散させる大祈祷会が開催されたそうです。だがそれとは逆に、アメリカでは流行の拡大はとどまらず、この立場に立つ牧師さえもコロナウイルスに感染して亡くなったとのことでした。ウッド先生はこのムーブメントを、はっきり危険なものと評価していらっしゃいます。それは、単に命じる祈りをすることにとどまらず、この祈りをすることにより主が必ず聞いてくださる、すなわちどんな悪い自然現象も治めてくださると会衆をあおることにより、結果としてそうならなかったときに会衆がどれほどむなしさに襲われるか、最悪の場合にはイエスさまへの信仰をなくしてしまうか、そう考えると、これはやはり支持すべきムーブメントではないと、私も考えるようになりました。 しるしという「現象」は、神さまのご臨在の本質ではありません。では、神さまはエリヤに、どのようにご自身を現されたのでしょうか? それは、火のあとの、かすかな細い声です。 神さまは大いなるお方ですが、私たちにみこころを啓示されるその御声は、もしかすると聞き逃してしまうそうになるほど細くて小さい御声です。これを聞きとるには、全身を耳にする必要があります。「ヒア」の聞く、と、「リッスン」の聴くは、漢字で書くとちがいます。リッスン、のほうは、十四の耳と心、と書きます。それだけ耳を澄まして、心を注いで「聴く」ことが、御声を聴くうえで必要になります。 エリヤはこのとき、もはや神さまの御前に出る以外にすることはありませんでした。それがリトリートというものです。しかし私たちの場合はどうかといいますと、意識しないと神さまの御前には出られないのではないでしょうか。県境を越えて移動することは解禁になったとはいえ、まだまだどこかに行くのには慎重になりますし、だいいちそんな時間を確保するには余裕がなければなりません。日々のディボーションの時間が、形式的に聖書を読んでお祈りして、それで終わりでは、あまりにももったいないことです。そこで神さまが語っていらっしゃるさやかな御声に耳を傾け、全身を耳にして御声を聴くことです。 でも、間違ってはいけません。神さまは人に意地悪をして、わざと小さな声で語っておられるのではありません。あなたが聴く姿勢ができているなら、わたしはいくらでも語って聞かせよう、さあ、心を整えてわたしのもとに来てごらん……私たちは、このみこころを受け取ることです。 神さまはエリヤに語りかけられます。エリヤよ、ここで何をしているのか。神さまはもう一度同じことをおっしゃいました。それに対してエリヤは、またも同じことを答えました。エリヤの訴えたかったことはこのことでした。もはや進退窮まっていました。 しかし神さまは、この試練に脱出の道を備えてくださいました。15節から17節です。 これは、神さまが歴史の主人であることをお示しになった、ということです。イスラエルに敵対する国の王も、アハブに代わる王朝を立てる王も、エリヤの後継者として霊的権威を行使する者も、みな主がエリヤの霊的権威を持ってお立てになる、ということです。 このように、神さまはなおもエリヤのことを、神の国イスラエルのキャスティング・ボードを握る者として用いようとしていらっしゃる、そのみこころをお示しになりました。エリヤは、死んでいる場合ではなかったのです。まだまだ用いられる必要がありました。 18節にも注目しましょう。……エリヤは、バアルに従わずに神さまに従っているのは、自分ひとりだと思っていました。しかし、そうではなかったのです。この7000人の存在、そしてとりなしの祈りに支えられて、エリヤの存在とその働きがあることを思い起こさせてくださいました。 コロナウイルス流行は、私たちを孤独にしたように感じさせました。しかし、私たちは決して孤独ではありません。みなさんは、この水戸第一聖書バプテスト教会のために、全国の保守バプテストの教会が、そして韓国のカルバリ教会、さらには韓国の日本宣教に特化した宣教団体が祈ってくださっていることをご存じでしょうか? 私たちは孤独ではないのです。 私たちは倒れたままでいることはありません。必ず立ち上がらせていただけます。いま目の前に何も見えないようでも、神さまは私たちに、次に進む道を備えてくださっています。その道を行くことは喜びです。 いま、私たちは否定的な現実しか見えなくなっていないでしょうか? どうか、細いけれどもやさしい、主の御声を聴いていただきたいのです。そこから、主が示してくださる次の目標へと踏み出す力を、受けていただきたいのです。 まだ、そこには踏み出せないでしょうか? それはもしかしたら、働きすぎて疲れているせいかもしれません。主のみもとに休みましょう。でも、休んだままで私たちは終わるのではありません。ここからさらに、私たちは大きく用いられます。神さまを信じて、踏み出すための力をいただいてまいりましょう。 讃美 聖歌409/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷

エリヤの祈り前篇 雨乞合戦

招詞 詩篇131篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇63篇/主の祈り/讃美 讃美歌62/ 聖書朗読 列王記第一18:16~40/メッセージ題目;エリヤの祈り前篇 雨乞合戦 新型コロナウイルス流行という事態の中、日本中、世界中の教会が、すべてを司っておられる神さまに祈ってまいりました。一刻も早くこの流行をとどめてください! 旧約聖書にも、人間の力ではどうにもならない事態に人々が巻き込まれたという記録が、いくつも登場します。本日学びます箇所、エリヤの時代のイスラエルも、実に3年6か月にわたる干ばつに見舞われていました。このときイスラエルはどのような状態にあったのでしょうか? そうです、創造主なる神さまを捨て、偶像の神バアルを国を挙げて礼拝していました。なんといっても、バアル礼拝の背後には、まるでバアルのパトロンのごとく君臨するイゼベル王妃がいました。しかしこのとき、神を捨てたイスラエルには、明らかに懲らしめの御手が、干ばつという形で臨んでいました。イスラエルは、神さまに立ち帰ることが求められていました。 しかし、イスラエルのためにとりなして祈れる人は、もはやエリヤだけになっていました。エリヤが神さまに従う者として、アハブ王からも相当に煙たがられていたことが、17節からも知ることができます。まるで雨が降らないのは、エリヤのせいだとでも言わんばかりの態度です。それはある面ではあたっています。たしかにエリヤは、そのとおりに祈りました。しかしそれは、国を挙げた偶像礼拝をイスラエルが悔い改めないゆえでした。しかし、ここに決着をつけるときが来ました。エリヤは、まことの神さまが雨を求める祈りに応えてくださるのは今だ、とばかりに、雨乞合戦を提案しました。 雨乞合戦――ささげたいけにえに、天からの炎をもって応える神がほんとうの神。その神こそ、この干ばつに覆いつくされたイスラエルに雨をもって応えてくださる神。アハブよ、あなたがそこまでして従っているバアルの神がまことの神ならば、その預言者をことごとく集めたらどうだ。従うべき神がはっきりするではないか。そこでアハブは、バアルの預言者450人と、そのつがいの女神アシェラの預言者400人を、エリヤの提案どおりにカルメル山に集めました。全イスラエルもカルメル山に集まりました。 さて、この雨乞合戦、エリヤにとっての祈りに至るプロセス、エリヤの祈り、その祈りの結果、この3つのポイントから見てみると、エリヤにならう私たちはいかなる理由で祈るのか、よく見えてまいります。この雨乞合戦から、ともに学んでまいりましょう。 第一のポイントです。雨乞合戦は、偶像の神のむなしさを示しました。 エリヤはまず、ここに集まったイスラエルの民に尋ねました。21節です。……イスラエルの民は、なぜ答えることができなかったのでしょうか? それは、エリヤを前にしては、間違っても、バアルがまことの神だとは言えなかったからでした。しかし一方で、創造主なる神さまがまことの神さまだと言い切るには、彼らはあまりにもバアル崇拝に染まっていました。 このようにはっきりした答えを出せない状態は、日本の多くのクリスチャンが置かれた状況に通じるものがあります。人前でクリスチャンであることを言い表すことができない。法事などがあったら右へ倣えで合わせてしまう。私たちは果たして、このどっちつかずのイスラエルの民を見下すことなどできるでしょうか。 偶像というものは目に見える形で鎮座している分、人に強烈な存在感を示します。神の民はかねてより、偶像を礼拝してはならないことを神さまからずっと戒められてきました。それは、偶像というものに惹かれ、いとも簡単にまことの神さまを捨て去ってしまう人間の罪深さを、人が思い知る必要があるからでした。 そのためにもエリヤは、偶像に頼ることがどんなにむなしいかを示しました。エリヤは彼らに、長い時間を与えました。彼らはその長い時間、踊りまわりました。しかしもちろん、何の奇蹟も起こるはずもありません。バアルは単なる人間のイメージであり、存在するはずがないのです。 何をどうしても奇跡が起こらない中、エリヤはバアルの預言者たちにあざけりのことばを投げかけました。27節です。……リビングバイブルというバージョンの聖書では、ここをどう訳しているか。「もっと、もっと大声を出せ。おまえたちの神には聞こえんぞ。だれかと話し中かもしれんからな。トイレに入っているかもしれんし、旅行中かもしれん。それとも、ぐっすり寝こんでいて、起こしてやる必要があるかもしれんな。」トイレとはずいぶんな訳をつけたものだ、と、笑ってしまいますが、ともかく、このようにエリヤが言ったのはなぜだったか。それは、バアルの預言者たちをあおることそのものが目的だったのではありません。イスラエルの民に、偶像の神は存在しない、むなしいことをはっきりわからせるためでした。 私たちは気をつけなければなりません。私たちの生きている世界は、偶像の神でも奇跡を起こせる、と吹聴するような者たちで満ちています。八百万(やおよろず)の神、ということばを侮ってはいけません。それは、どこもかしこも神を名乗る者たちで満ちている、ということを意味します。 私たちは、まずそのような存在から自分自身を守るため、偶像の神がどれほどむなしいかを心から認める必要があります。そのためには、この世にうごめく八百万の神がどのようなものか、いちいち検証するのではありません。そんなことをしていてはきりがありません。私たちのうちに、私たち神の民にとっての変わらない基準である聖書のみことばを保つことから、すべては始まります。歴代誌第一、16章25節と26節をお読みください。……これです、これが私たちの基準なのです。私たちの主は、あらゆる神々と呼ばれるものたちにまさって偉大なるお方、このことを私たちは、いつでも確かな信仰告白として自分のうちに保っておく必要があります。このほかにも聖書には、このエリヤの箇所だけでなく、たとえばギデオンの箇所のように、偶像のむなしさが描写された箇所、また、出エジプトにおける金の子牛やダニエル書の王の像のように、神の民に対しチャレンジを与えるような箇所が登場し、そこから私たちは、この世で神と呼ばれている存在に対しいかに対処するか学ぶのです。繰り返します、この世の神々のことを知ろうとする前に、聖書をしっかり学んでいただきたいのです。 さて、ついにバアルの預言者たちは、刃物や槍でからだを傷つけはじめました。まるでここに備えた牛のいけにえでは足りなくて、自分たちをいけにえにするがごとしです。しかしそんなことをしても、もちろん、バアルへの祈りが何らかの奇跡を呼ぶはずもありませんでした。ここから私たちは、何を教えられますでしょうか? この世の神々に身をささげた者たちは、むなしく傷つくだけである、ということです。私たちの隣人がそのようなむなしさに陥っているならば、そこから早く抜け出せるように、私たちはとりなして祈っていく必要があります。私たちの主は、傷を与えるお方ではありません。あらゆる傷をいやしてくださるお方です。ともかく、偶像のむなしさを私たちはしっかり悟り、私たち自身も、そしてほかの偶像にとらわれている人たちも、その支配から自由になるように、祈ってまいりたいと思います。 第二のポイントです。雨乞合戦は、主への祈りの確かさを示しました。 ついに何も起こらなかったバアルの陣営を尻目に、自分の番が回ってきたエリヤは、何をしたのでしょうか? 20節、まず、壊れていた主の祭壇を築きなおしました。 そうです、それまでイスラエルは、まことの神さまを礼拝することをなおざりにするあまり、祭壇は壊れるに任せていました。壊れたままに放っておかれた祭壇は、今のイスラエルの壊れた霊的状況を象徴しているかのようでした。しかしエリヤは、まずこれを立て直すことから始めました。イスラエルよ、あなたがたがすることは、神さまとの壊れた関係、壊れた礼拝の態度を立て直すことではないか、あなたがたは壊れている、でも今からでもやり直せる、さあ、礼拝に招こう……それが神さまのみこころでした。 祭壇は、十二の石で築きました。十二の石は、イスラエルの十二部族を象徴しています。エリヤは神さまの御前に、一人で英雄のように立ったのではありません。エリヤの祈りにはイスラエル全体もともにあることを神さまの御前で明らかにし、同時にここに集う全イスラエルの前で明らかにしたのでした。まことにこの祈りは、イスラエル全体の祈りでした。イスラエルがまことの神さまへの祈りを回復したことを象徴していました。 さて、エリヤはいけにえをささげる際に、何をしたでしょうか? 33節から35節です。いけにえは水びたし、もはや、普通に火をつけてもぜったいに火などつかない、燃えるなどもってのほかという状態です。さあ、見よ、イスラエルよ、神さまが全能ならば、このいけにえも火で焼き尽くされよう。 そして、ささげものは完成しました。エリヤは祈りました。この祈りのことばを見てみましょう。36節と37節です。……アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。私たちイスラエルの民は、先祖が神さまと直接契約を結んでくださった神の民。あなたさまがイスラエルの神であることを明らかにしてください。私が今日行うこの礼拝が、神さまのみことばに従うことであることを明らかにしてください。祈りに応えてくださることによって、この民があなたさまに立ち帰ったことを自ら知るようにしてください。 そうです、神さまが祈りに応えてくださることは、エリヤがすごいスーパースターとしてイスラエルの民の間で輝くためではありません。すべてはイスラエルの信仰が復興するためです。 神さまはこのお祈りに、お応えになりました。38節です。……天から下った激しい炎は、いけにえも、石の祭壇も薪も、水も、もろともなめつくしました。奇跡を起こされたのは主だったのです。主は全能なるお方だったのです。そして、主はすさまじいまでのその主権を現してくださったのです。 私たちはもちろん、何らかのしるしと不思議がなければ信じないというレベルにとどまるものではありません。しかし、主が全能であることを私たちがほんとうに信じているならば、私たちはその全能の御手にすがり、そのご栄光を民全体に現してくださり、民が主を信じるようにと祈ってしかるべきではないでしょうか? 主は必ず、この祈りに応えてくださいます。 さて、それならばその一方で私たちには考えるべきことがあります。主が全能の御手を下してくださっていることを、私たちはどれほど認め、主の御名をほめたたえていることでしょうか? たとえば今、うちの娘は夜の聖書通読の時間ごとに、コロナウイルスの流行が収まりつつあることを主に感謝しています。私は、夜ごとささげられる祈りを聞いて、娘のこの態度からとても教えられています。コロナウイルス流行の終息には、だれもがほっとしています。しかし私たちは果たして、その背後に全能なる主の癒しのみわざがあることを、どれほど認め、また感謝しているでしょうか? コロナウイルスだけではありません。個人的な病気のいやし、経済的な回復、人間関係の葛藤の解消、これらすべては、人間の力でどうにかなるものではなく、すべて、全能なる神さまのご介在のうちに可能になることです。ならば私たちは、感謝していますでしょうか? しかし、私たちならば、これらのことに主の御手を認め、感謝する余地が残されています。それでは周りを見回してみましょう。いったい、あらゆるできごとの中に全能なる神さまの御手を認め、神さまに立ち帰る人がどれほどいるというのでしょうか? 私たちは自分たちのためだけでなく、周りの人たちのためにも祈る必要があります。主がその方々の前に御業を示されるとき、彼らが主を認め、主に立ち帰るように、祈ってまいりたいものです。 第三のポイントです。雨乞合戦は、主への信仰告白を引き出しました。 祭壇をもろともなめ尽くす火を見たとき、全イスラエルの恐れはどれほどのものだったことでしょうか。39節をご覧ください。 このイスラエルの信仰告白、賛美のことばはどうでしょうか。イスラエルがこぞって、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白したのです。エリヤは、この雨乞合戦に勝ったのです。 雨乞合戦は雨が降ることにその目標があったのではありません。人々から「主こそ神です」という信仰告白を引き出すこと、これが雨乞合戦の究極の目標でありました。エリヤはそのために、いかなる努力も惜しみませんでした。しかしさらに言えば、この信仰告白はエリヤの努力の結果のみによってもたらされたのではありません。やはりなんといっても、主ご自身がイスラエルの民を憐れんでくださったゆえでした。かくしてイスラエルの民はこぞって、主こそ神です、とひれ伏して告白したのでした。 さて、この「主こそ神です」という信仰告白を引き出すという、雨乞合戦におけるこの究極の目標は、私たちの人生においてもやはり、究極の目標となるべきものです。 ちょっと目を閉じて、私たちの周りの人たちの顔を、思いつくかぎり思い起こしてみてください。クリスチャンであるなしにかかわらずです。そんな彼らがこぞって、「主こそ神です」と叫ぶ場面を想像してみてください。胸が熱くなりませんか? はい、目を開いてください。 エリヤの人生は、人々をして「主こそ神です」と言わしめることに、その究極の目標がありました。その生き方は、私たちにとっても同じように目標となるべきものです。マタイの福音書5章16節の、イエスさまのお語りになったみことばをお読みしましょう。……これが私たちの人生の、究極の目標です。 しかし、この生き方をするために、クリスチャンならぬクルシミチャン、ガンバルチャンになる必要はありません。毎日みことばを開き、どうすることが主の栄光を人々の前で輝かせることなのか、みことばに照らして必要な行動を具体的に教えていただくのです。そして、その行動の目標を、ほんの少しでいいですから、それこそ、一日にたった一つでいいですから、聖霊なる神さまの導きと助けの中で実践するのです。頑張ろうとして息切れし、あとはいいや、とならないためにも、毎日少しずつ、こつこつと実践することです。 JTJ神学校の創設者である中野雄一郎先生が普段からおっしゃっていることば、コツ、コツ、勝つ、コツ、いいことばでしょう? コツコツ取り組んで何に勝つのですか? 世と悪魔にです。 エリヤも主のみことばを聴いて行うことにおいて、コツコツ、ということを実践していたことに疑いの余地はありません。その結果神さまは、エリヤを通してご自身とイスラエルの民の勝利をもたらしてくださったのでした。 私たちも同じです。人々が私たちのよい行いを見て、天におられる神さまをほめたたえる生き方をする、そのことによって世と悪魔に打ち勝つものとなるために、日々、みことばと祈りによって御前に進み出ることを願っていらっしゃいます。これまでなかなかできなかったならば、今日から始めましょう。主は喜んで、私たちを受け入れてくださり、用いられるにふさわしく、私たちを整えてくださいます。 最後に、エリヤとはどんな人物だったのかも見てみましょう。ヤコブの手紙5章17節と18節です。神さまは奇跡のようにしてエリヤの祈りを聴いてくださいましたが、聖書の評価によれば、エリヤは「私たちと同じ人間」でした。それなら、エリヤが神さまに従うことができて、私たちがお従いできないということは、決してないはずです。今日の雨乞合戦の学びから、偶像のむなしさ、祈りを聴いてくださる主の素晴らしさ、人を信仰告白に導く私たちの人生の究極の目的を学んだ私たちは、エリヤのように、主の前に立たせていただいている一人の信仰者として、主の御力をいただきながら、この世において用いていただくものとならせていただきたいと、切に祈り求める者となることを願います。 では、お祈りします。 讃美 聖歌604/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝福の祈り「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

「祈りは聞かれる」

招詞 詩篇130篇/祈祷/使徒信条/交読 詩篇62篇/主の祈り/讃美歌66/聖書朗読 マタイ9:18~26/メッセージ;「祈りは聞かれる」    聖書には、数多くの、お祈りが聞かれたことの記録が登場します。本日は、イエスさまがお祈りを聞いてくださったことについての学びです。  イエスさまがこの地上に生きておられたとき、イエスさまが神の御子であると信じることのできた人は幸いでした。律法主義に毒されていたユダヤ人たちは、ことあるごとにイエスさまをなきものにしようとしました。イエスさまが神の子だとわかっていたなら、なきものにするなどという発想そのものが浮かぶわけもなく、ただひたすら礼拝するのみでしょう。しかし神の民であるはずのユダヤ人はイエスさまを迫害し、十字架にまでかけました。  私たちがその時代のユダヤに生きていたならば、どのような態度をイエスさまに対して取ったでしょうか? イエスさまを神の子と信じて、どこまでも従うことができたならば幸いです。そのような人は特別な恵みをいただいた人ということができるでしょう。  特別な恵みは、イエスさまに対し純粋な信仰を持つという形で現れます。ユダヤの宗教共同体に毒されていたならば、イエスさまのことはただの人としか映らず、間違ってもこのお方を創造主の御子と認めることはできなかったでしょう。それほど、神の民であるはずのユダヤの宗教の教えは、イエスさまがどのようなお方であるかを見えなくしていました。  今日の本文には2人の人が登場します。いずれもイエスさまへの信仰を恵みの中で持ち、その結果素晴らしいみわざを体験した人たちでした。彼らはどのような信仰を持ち、どのようなみわざを体験したのでしょうか? ともに見てまいりましょう。  まず、18節からまいります。……やって来たのは会堂管理者でした。折しも、彼の娘が死んでしまいました。ほかの福音書の並行箇所を読んでみますと、彼女は12歳だったということです。わずか12歳、洋々たる前途が、死んでしまったことによっていっさい閉ざされました。どれほど悲しいことでしょうか。そして絶望的なことでしょうか。  しかし、この会堂管理者は、イエスさまというこの方ならばきっと生き返らせてくださる、という信仰をもって、イエスさまの御前に進み出ました。イエスさまが娘に手を置いてくだされば、必ずいやされる。  この会堂管理者は、自分の管理していた会堂にていろいろな集会が催されるのを見てきた人です。もちろん、ユダヤ教の教師による集会も体験している一方で、この町まで巡回してこられたイエスさまの持たれた集会を目撃していました。 この会堂管理者は、長年ユダヤ教の教師たちによる集会を見てきた立場として、イエスさまの集会がどれほど彼らのと異なり、神からの権威に満ちていたかをよく体験していました。もしかしたら、イエスさまがその会堂で何らかの奇蹟を行われたりしたのかもしれません。ともかくこの会堂管理人は、イエスさまのそのお姿を見て、この方なら必ず娘をいやしてくださる、という、確かな信仰を持ったのでした。イエスさまの教えは、口だけの教えではない、権威ある方の教えである、そのことを会堂管理者はわかっていたのでした。  ただ、もしかすると、この会堂管理者という立場ゆえに、それまでイエスさまに対する信仰を公に言い表せなかった可能性もあるかもしれません。普段はユダヤ教の教師を迎え入れている会堂の管理者であるわけで、もしイエスさまが神の御子であると告白したら大変なことになります。しかし、もうなりふり構っていられません。娘は死んでしまったのです。会堂管理者は、イエスさまにすべてを懸けて、御前にひれ伏しました。  19節のみことばです。イエスさまはただちにバプテスマのヨハネの弟子たちとの議論を中断し、会堂管理者の家へと向かっていかれました。そこに、イエスさまの弟子たちもついて行きました。あとで詳しくお話ししますが、イエスさまのみわざはひそかな形で行われたものでした。そこに弟子たちを伴われたということは何を意味するのでしょうか? そう、弟子たちには、神の御子としてのご自身のひそかなみわざをしっかりお示しになった、ということです。その秘められたみわざを目撃する特権にあずかった存在、それがイエスさまの弟子です。  しかし、こんにち私たちは、聖書をお読みするという形で、弟子たちと同じようにイエスさまの秘められたみわざを目撃することができています。その、聖書に書かれたみわざをそのまま信じ受け入れるならば、私たちもまた、イエスさまのみわざを目撃し、イエスさまが神の御子であることを信じ受け入れる弟子であるわけです。だから、この秘められたみわざの記録された聖書に相対するとき、私たちはイエスさまのみそばでみわざを目撃する、イエスさまの弟子となる特権に招かれているということになります。私たちは聖書を読むとき、弟子の態度で、よく目をひらいて、みことばに記されたイエスさまのみわざを見ることが必要です。  ともかく、早く行かなくてはなりません。しかし、ここに、ひとりの女性が登場します。十二年の間わずらっている女性です。「長血」とありますが、これは婦人病です。並行箇所であるマルコの福音書から推察しますと、からだから血が流れだしつづけ、ひどい痛みがつねにともなっていたようです。彼女は治りたくて必死でした。多くの医者を訪ね歩きましたが、彼ら医者たちは彼女から治療費を取るだけ取って、治してなどくれませんでした。彼女は生活のために持ち物をみな売り払い、まったく絶望的な状態にありました。  しかし、彼女の中には治りたいという思いが保たれていました。人生を悲観して自殺しかねないほど追い詰められていた彼女の中にも、治りたい、救われたいという、最後の思いが残されていたのでした。彼女はこのような中で、イエスさまが近くに来られたということを知り、いてもたってもいられなくなりました。しかし、イエスさまの周りにいたのは弟子たちだけではありません。おびただしい群衆があとをついてきていたのでした。彼女は群衆にまぎれました。そして、どうしたでしょうか? 20節、21節です。  この姿は、会堂管理者の姿と対照的です。会堂管理者は社会的に信用される地位にあり、イエスさまに堂々と近づいてイエスさまが神の御子なるお方であることを告白することで、ユダヤ教の宗教指導者を敵に回す危険なリスクを抱えていました。しかし彼は堂々とイエスさまの御前にひれ伏し、イエスさまの御腕にすがったのでした。 対照的にこの女性はどうでしょうか? 当時の宗教社会を支配していたのは、律法、またその解釈でした。漏出を病んでいるならば、その人にさわってはいけないことになっています。なぜならば「けがれる」と見なされるからです。 人は罪人です。他人が自分よりも明確にけがれているように見え、なおかつ律法がそう語っていると解釈するならば、人は他人を自分よりもけがれた存在と見なし、遠ざけます。あたかもその人に触れたならば、強力な伝染病のごとく、自分にもそのけがれが伝染するぞと言わんばかりにです。そんなわけで彼女は堂々とイエスさまのもとに出ていくなどということはできませんでした。群衆に紛れこんでイエスさまの服にさわったら、あとはひそかに去っていこう……ただ、それでも彼女を支えていたものは、イエスさまの服にでもさわれたら治るという信仰でした。社会の最底辺のような地位におかれた彼女がひそかにイエスさまに近づいたのは、社会的地位のある会堂管理者が堂々とイエスさまに近づいたのと実に対照的ですが、どちらにも共通していたのは、「イエスさまならできる」という、純粋な信仰でした。ともかく、この女性はイエスさまの着物のふさにさわりました。するとたちまち、いやされました。 しかし、イエスさまはそこで立ち止まられました。並行箇所の福音書を読んでみますと、だれがさわったのか、と、わざわざ問うておられます。しかし、弟子たちも言うとおり、イエスさまのところには群衆が押すな押すなと押し寄せており、だれがさわったかはわからないものです。しかしイエスさまは、いや、たしかにさわった者がいた、わたしの中から力が出ていったのを感じた、と語られました。それでこれ以上隠れていることができなくなって、この女性が名乗り出たのでした。 そう、イエスさまに触れる人はたくさんいます。しかし、イエスさまに「信仰をもって」触れるか、そうでないかの違いはとても大きいものです。大ぜいの群衆はイエスさまにさわっていました。しかしイエスさまの力は、その人たちに向かっては出ていきませんでした。彼らはたださわっていただけだったからです。しかし、この女性はちがいました。お着物にでもさわれたらきっと治る、その必死の信仰でイエスさまにさわった結果、イエスさまは御力をもって彼女をいやされたのでした。22節をお読みしましょう。……まさにそのように、イエスさまは彼女の信仰に応えてくださったのでした。 それにしても急いでいるときに、イエスさまはなぜわざわざこのようにこの女性のために時間をお取りになったのでしょうか? それはなんといっても、この女性とは格別な個人的コミュニケーションが必要だったからではないでしょうか? イエスさまは、はるか遠いお立場のスーパースターにも等しいお方です。お着物のふさにさわれた、それでよかった、それでも人間というものは満足してしまうものです。しかしイエスさまは、アイドルの握手会や寺社参拝のような、一方的な願望の投影の対象ではありません。信仰をもって近づく人と、ちゃんとコミュニケーションをとってくださるお方です。この女性がそのまま去っていくことをお許しにならず、しっかりした信仰に立たせてくださいました。イエスさまとはそういうお方です。私たちにみわざを体験させてくださるのみならず、その意味を深く悟らせてくださいます。そうしてイエスさまとのより深い関係に入れていただけるのです。 だが、このような中で、人を不信仰に引き戻そうとする力は働くものです。マルコの福音書によれば、イエスさまがこの女性と話している間に、会堂管理者の家から人がやってきて、お嬢さんは亡くなったのだから、これ以上イエスさまをわずらわせるべきではありません、と告げたのでした。とにかく、死んでしまったという厳然たる事実を受け入れさせようとしたのでした。その人は親切心からそのように告げたとも考えられますが、それは逆に考えれば、引導を渡すことばを告げたとも言えます。しかしイエスさまはそのことばをお聞きになっても、「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。引導を渡す人のことばなど、神の御子であるイエスさまには関係ありませんでした。 そしてイエスさまは、もう群衆がついて行くことをお許しになりませんでした。それどころか、十二弟子もより分けられました。特に弟子の中でリーダー的な役割を果たす、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人に絞って連れていかれました。この3人は、変貌山のできごとに同伴させていただくなど、イエスさまにとって奥義に等しい場面に伴われていますが、この会堂管理者の娘の家にも伴われました。 ともかく、女性はいやされて帰り、イエスさまの一行はいよいよ会堂管理者の家に着きました。そこには弔いの笛を吹く者たち、また葬儀に来た者たちが待ち構えていました。彼らは泣き悲しんで大騒ぎしていました。もう彼女を葬ってしまう手はずは整っていました。あとはその父親である会堂管理者が帰ってくれば、彼女を墓に運ぶだけでした。しかし、会堂管理者はイエスさまを連れてきました。 家に到着され、イエスさまは騒ぐ彼らを一喝しました。23節、24節です。……彼らはあざ笑いました。なぜでしょうか? 現実に彼女は死んでいることが、だれの目にも明らかだからです。しかし、イエスさまをお呼びしたのは会堂管理者であることを考えると、この群衆はその管理者の管理する会堂でイエスさまのメッセージを聴いたこともあったでしょう。そしてもしかしたら、先ほども申しましたとおり、イエスさまのみわざも会堂の中で目撃したかもしれません。何よりも、神の御子そのものであるイエスさまを、彼らはその目ではっきりと見ているのです。しかし、彼らは信じませんでした。このお方がいのちの主なるお方であることも、創造主なる神の御子であられるということもです。 その不信仰が、畏れ多くもイエスさまをあざ笑うという行動に出ます。イエスさまの語られるみことばを評価し、判断するのです。これはしょせん被造物である人間に許されていることではありません。だが人間はなんと傲慢なのでしょう。聖書を批評し、天地創造に始まりノアの洪水やバベルの塔、イエスさまのみわざ、果ては十字架や復活に至るまでも神話と片づけ、聖書の記述よりも人間の理性のほうに重きを置きます。窮極の不信仰です。 イエスさまは彼らのことを家の外に出してしまわれました。そして、娘の両親と3人の弟子だけを伴われ、床に横たわっている娘の傍らに立たれました。そして……少女よ、あなたに言う。起きなさい。……このひとことで、娘をよみがえらされました。そうです。イエスさまにあっては、死んだ人というのはいません。すべては眠っているだけの人です。イエスさまにある人を、終わりの日にイエスさまがよみがえらせてくださる……イエスさまは実に、ご自身が復活され、人々を復活させてくださるお方です。 この奥義を、イエスさまはご自身が十字架にかかられ復活される前に、おもだった3人の弟子にお示しになったのでした。この復活の真理は、イエスさまが十字架にかかられ、墓からよみがえられ、それによってイエスさまが神の御子であることが証しされることによって実現する、それがなっていないこの段階では、イエスさまはこのことを人にお話しになることをお許しになりませんでした。 ただ、それでも、死んだはずの娘はぴんぴんして外を出歩くようになるわけで、ほどなくしてうわさは広がるわけです。しかし、いったいどういううわさでしょうか? ものごとを表面的にしか見ない人には、所詮現象しか見えません。それは「群衆」にとどまっている人です。しかし私たちは、みことばをお読みすることで、イエスさまに伴われてこの娘の傍らに立たせていただき、みわざを目撃させていただいた、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと同じ立場にならせていただけるのです。信仰の窮極の形、それは、日々自分の十字架を負ってイエスさまについて行く、イエスさまの弟子になることです。 私たちもこの女性のように、そして会堂管理者のように、絶望的な状態から救っていただいた存在です。イエスさまは私たちに、「生きよ!」と言ってくださいます。私たちにとって真に生きることは、イエスさまにだけ信仰を置き、日々イエスさまの弟子としてお従いすることです。イエスさまの秘められた御業が克明に記録されたこのみことばを、私たちは信じますでしょうか? 私たちもこの女性のような、そして会堂管理者のような信仰をもってイエスさまに近づくとき、イエスさまの弟子に加えられる光栄に預かります。 ひとつだけ、イエスさまがお祈りを聞いてくださるのは、御父のご栄光を顕してくださるゆえです。ときに私たちが祈っても、その祈りが応えられなかったり、あるいは「すぐには」応えられなかったり、ということは、往々にして起こるものです。しかしそれでも、私たちは祈ることをやめてはなりません。私たちは祈るうちに、そして、日々みことばをお読みするうちに、イエスさまはどのようなお祈りに応えようとしていらっしゃるかを知ることができ、お祈りにおいて的を外すことがなくなります。お祈りを聞いていただけるようになるのです。 その信仰を私たちのうちに確かにしていただきたいと願っていますでしょうか? イエスさまは私たちの祈りを聞いてくださるお方です。イエスさまが祈りを聞いてくださることを、私たちは日々、あらゆる局面で体験し、弟子としての歩みを確かな者としていただきたいものです。祈りの生活の中で、日々、そして生涯、イエスさまの弟子としてお従いする恵みが与えられる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。 聖歌516/献金 讃美歌391/感謝の祈り/栄光の讃美 讃美歌541/祝祷